おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「マルメロ草紙」(橋本治・絵:岡田嘉夫)発行:ホーム社 発売:集英社

2024-09-29 11:13:50 | 読書無限

橋本 治(はしもと おさむ)

1948年昭和23年〉3月25日 - 2019年平成31年〉1月29日)。

イラストで注目され、『桃尻娘』(1977年)で作家としてデビューすると博学や独特の文体を駆使し、古典の現代語訳、評論・戯曲など多才ぶりを発揮する。作品に『桃尻語訳 枕草子』(1987 - 1988年)、『蝶のゆくえ』(2004年)、『初夏の色』(2013年)などがある。

(「Wikipedia」より)

東大紛争のさなか「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打った東京大学駒場祭のポスターで注目されました。

※同世代の大学生だった小生。「大学紛争」のさなか、このポスターには驚きました。

東大闘争の無期限ストの中で、学部側との交渉も決裂し、学部側には公認されないまま「自主管理」による駒場祭が開かれた。多くは東大闘争をテーマに扱っていた。橋本治氏作の、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」の有名なポスターはこの年のもの。企画準備は混乱の中で進まず、サークル企画はほとんどなかった。

(この項「」HPより)

このブログでも、橋本治の小説、評論をいくつかとりあげたこともあります。

久々に図書館に出かけ、手に取った小説を紹介します。

二十世紀初頭の巴里を豪華絢爛に蘇らせた傑作耽美小説!

橋本治(文)岡田嘉夫(絵)コンビが2006年から2013年まで試行錯誤を繰り広げた豪華本(定価3万5千円、発行部数150部)として刊行された『マルメロ草紙』をテキストの読みやすさを重視した新たな装いで刊行されたもの。

2021年11月第1刷発行。

時は二十世紀初頭の巴里。ブーローニュの森近くの瀟洒な屋敷で暮らす、大実業家エミール・ボナストリューとその慎ましやかな夫人シャルロット。貞淑な姉シャルロットとは対照的な生き方を求め、華やかなパリで女優を目指す妹のナディーヌ。
その館に陽に灼けた美しいショーマレー中尉が招かれて、エミールとナディーヌ、そしてシャルロットの心に波風が立ち始める。やがて、パリ社交界の中心に座す、エナメルで固めたような美貌で名高いヴェルチュルーズ侯爵夫人から仮装舞踏会の招待状が届く。館の大広間で繰り広げられる仮装舞踏会。扇情的な異国の音楽が奏でられ、エミールとナディーヌに、そしてシャルロットと侯爵夫人、ショーマレー中尉にも官能の波が押し寄せる。

ロダン、ジャン・コクトー、ニジンスキー、モディリアーニなども登場する中、煌めきに満ちた女性たちの甘酸っぱく、香気に満ちた物語。(「amazon.co.j

さて、

年老いた大樹にも、緑の若芽は息づきましょう。まだ年若い小枝の先にも、艶なる黄金の彩りは宿りましょう。それはいずれの世紀にも起こりましたこと。この世紀の初めにそれが起こりましても、なんの不思議もないことでございます。」(p9)

「ベル・エポック(よき時代)」。1890年頃の19世紀末から1914年の第一次世界大戦開幕までの時代のことを指す。

フランス第三共和政の時代

19世紀中頃のナポレオン3世皇帝時代から発展した産業革命によって、経済が隆盛し、上下水道の整備による公衆衛生の改善、交通網の発達や電話の実用化など、生活インフラが大幅に向上、さらにエッフェル塔の完成やパリ万国博覧会の開催など、パリへは世界中から富豪が集まった。その注文に答えるように芸術家、建築家、宝飾家、作家、研究者などが各分野で活躍の場を与えられ、都市文化が栄えるようになった。

                        【絵】岡田嘉夫

20世紀初頭、パリ社交界の数奇で耽美的な恋愛譚。美文調の文体から醸し出す、艶めかしさ。橋本治らしい物語。

※本文中に一カ所「1910年5月の末日(みそか)」という具体的な日にちが記されている。(p104)

マルメロ

マルメロという名はポルトガル語の「Marmelo」から来ているとのこと。

マルメロの花言葉は、「幸福」「魅惑」。「愛の糧」にも例えられる。

古代ローマ人は寝室の芳香剤としてマルメロの実を置き、ルネッサンス美術では情熱・忠誠・豊穣の象徴になった

※「かりん」とは別種のようだ。

「ふくよかに匂い立つマルメロのお酒を口に含んだショーマレー中尉は、再び口を開きます。

『察するところ、マドモアゼル・ナデイーヌは、結婚がお嫌い―ということですか? 一生をリキュールの瓶の中で暮らすのはおいやだ、と』

ショーマレー中尉を見て、そしてそのまま視線を姉のシャロットにひたと向けて、ナデイーヌは申しました。「ウイ!」

シャルロットにはその「ウイ」が「ノン」と聞こえました。」(p62)

こうして、姉妹の恋愛・葛藤・遍歴が語られます。その語り手は、ガラス工房の主宰者、アンヌ・ボナストリュー。聞き手は、離婚し、心を病んだ娘と暮らす日本女性。

「パリに来たナデイーヌの手を引いた人は、社交界にふさわしい大富豪でございました。ひそやかな恋もまございました。でも無粋なことに、その人は姉の夫。心のままに生きようとしてナデイーヌは、夢のタピスリ(掛け布)を引き破るばかりでした。」(p200)

シャルロットとエミールとの間に生まれたボナストリュー家の一人娘、アンヌ・ボナストリュー。八十歳になる彼女の口から母と叔母とにまつわる話を聞いたのは、一九八九年のこと。場所はヴエネッツイア、大運河に臨む彼女のメゾン(住居)の一室だった。」(p202)

※アンヌはナデイーヌを母親と思っていた。

「・・・人の世を逐われた女にとって、愛する人と共に世をさすらうことは、決してつらくはございません。・・・革命のロシアに潜入いたしました二人は、スパイの容疑で捕らえられ、シベリアへ送られました。別れ別れになって、その後は知れません。おそらく二人は、お互いを求めながら、飢えと寒さに死にましたのでしょう。その先は、ナデイーヌも知りませんでした。」(p214)

獄中で組み合わせて造った粗末なガラスの飾り物を手にしたアンヌ。

「それは粗末な色ガラスでございました。それを手にして、光にかざして、私はその刹那、母を思い出しました。母としてシャルロットが私の胸に訪れましたのは、その時が初めてでございました。人は心を見ます。見るべきものの向こうにございますものは、人の心でございましょう。私は、その哀れな飾り物に『母』を直感いたしました。そこにあるものは『恋しい』と思う心の色でございました。」(p215)

「心を鎖すものは、人の思惑。心を鎖す檻となるのは、官能の肉。その肉に通う血の色が赤くなれば、人の世に不幸はないはず。でも、人の血は赤く、人は不幸に泣く。泣かなくともよいのよ。ご覧(ろう)じませ、人の世はさまざま―。

そうして老婦人は立ち上がると、大運河を望む部屋の窓を開けた。人の世の騒音がそこに渦巻いて、『なるほど、不幸というものは美しいものなのかもしれない』と、私は人の世の平穏に対して、ひそかに思った。」(p217)

鬼才・橋本治の小説を久々に読みました。感動!

特別展「帰って来た橋本治」展

【会期】2024年3月30日(土)~6月2日(日)
 休館日:月曜日(4月29日、5月6日は開館)
【開館時間】午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
【会場】神奈川近代文学館第2・3展示室

※この「特別展」は、別の機会に紹介したことがあります。

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「ヒトラーへのメディア取材記録―インタビュー1923ー1940」(エリカ・ブランカ/松永りえ訳)原書房

2024-08-06 18:29:23 | 読書無限

「彼は透きとおるような青い瞳をしていた。山々の頂に映えるようなうっすらと青い、いたいけない子どもたちしか持ちえないような無垢な青い瞳をしていた」これは1938年12月10日付けの週刊誌『イリュストラシオン』、ロベールシュヴイエ記者が書いた一節だ。これほどまでに記者の心を癒やす幼子の眼差しの持ち主が、恐れを知らない征服者であると同時に情け容赦ない独裁者として君臨してから、かれこれ6年が経とうとしていた。(p004)

 

ヒトラーへのフランス人記者によるインタビュー。ヒトラーに面会できる人々は、ナチス側のいいなりだった「仏独委員会」を通して厳選された親独派フランス人となった。(以下、「訳者あとがき」より引用)

・・・ヒトラーに面会できる人々は「厳選される」のだから、選ばれたほうは悪い気がするどころか、優越感すら感じたのではないだろうか? 招かれる先はヒトラーの優雅な別荘のあるベルヒテスガーテンかベルリンの首相府。インタビューからは、いかに「厳選された」記者たちが舞い上がっていたのかが実によく伝わってくる。なかなか会えない総統に招待されるという特別扱いを受けてしまえば、いざ取材するときに、気まずくなるような質問をしつこく投げかけることなどできなくても当然だと、自己を正当化してしまうのだろう。

私が本書を初めて読んだときに頭に浮かんだのがほかでもない「忖度」という言葉だった。ジャーナリストにとって、時の権力者が自分を「厳選し」、「例外的に」自分のために時間を割いてくれるという前提ならば、それだけでじゅうぶんに「特別扱い」されていることになる。だとしたら、自分の書く記事はいわばその待遇への恩返しとして、権力者の意向を反映して手心を加えてしまうのは大いにありえることだ。本来記者がもつべき批判精神の入る余地がなくなってしまう。私自身、首相が大手メディア各社の記者を集めて会食し、記者側もスクープを得るためならそれに応じるのが当然だと自己正当化するような国に暮らしているからこそ、本書で著者が示唆したことが他人事に思えなかった。

実際、ヒトラーに「特別扱い」されたフランス人記者たちは、冷静に国際情勢を分析すればゆゆしき事態になっていたことは明らかなのに、自分の信じたいことを、すなわち「ヒトラーは国内においても国外においても対立を好まず、平和主義者である」と信じようとした。ナチスドイツの異常性の兆候、たとえば、「水晶の夜」のようなユダヤ人に対する暴動や迫害は見て見ぬふりをした。ヒトラーは平和主義者であると信じたいがために、彼(ら)の意向に斟酌した質問しかできず、自国民に懸念を抱かせるような情報は提供しなかった結果、気がついたら国の北半分はナチスドイツに占領され、南半分は親独派フランス人がつくった形だけの独立政府の管轄下というありさまになった。

ただでさえ人間は、自分の都合のいいことしか信じようとしない。メディアが時の権力者に懐柔されて、都合の悪い情報をシャットダウンしてしまったら、身の回りで何か異常なことが起きていたとしても、国民の側からすれば気のせいだと正常性バイアスがかかっても当然だろう。本書で著者が採り上げたヒトラーへのインタビューは、日本に限らず現代社会に通じる普遍的な問題提起をしている。なにせここでのヒトラーの発言は、論理的に雑な部分があったとしても、ほとんどがもっともらしいことだからだ。それでもぎりぎりのところで危機感を抱き、警鐘を鳴らせるかどうか、それこそが今の私たちにも問われている。(P356)

著者は、ヒトラーに「特別扱い」されたフランス人記者たちの終戦後の一人一人の生きざまを厳しい目で記している。そこに、著者のスタンスの一端がうかがわれる。

訳者のあとがきにもあるように、今の日本のマスコミのありへの厳しい警鐘をどう我々が受け止めるか。安倍内閣がいかに脅しを含め、執拗にマスコミ関係者を懐柔していったか。今も、田崎史郎をはじめ、マスコミ界で大手をふるい、先を争って「どっこしょ」しているコメンテーターたち。さらに、SNSあるいはX(旧ツイッター)を駆使し、国民から見離されつつある自公政権を何とか守ろうとしている。

今日は、広島に原爆が落とされて79年目。広島では慰霊の行事が行われている。核なき世界を望む声、行動を具体的に大きくしていきたい。

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「ジャック・デロシュの日記―隠されたホロコースト」ジャン・モラ作(岩崎書店)。「ショアーの歴史―ユダヤ民族排斥の計画と実行」ジョルジュ・ベンスサン(白水社)

2024-08-04 16:36:47 | 読書無限

           

 「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」

摂食障害になったエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカの死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知る。

その日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。フランス人でありながら、ドイツナチズムに共鳴、志願兵としてドイツに赴く。ドイツ人としての偽名を用い、ナチSSの幹部候補生として、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、そして絶滅収容所に関わっていく・・・。

※「ソビブル」

実在した絶滅収容所。1942年5月に稼働し、25万人ちかいユダヤ人、数が不詳のソ連軍捕虜が殺された。43年10月、施設で働かされていたユダヤ人300名が反乱を起こし、200名ちかくが殺され、30名が生きのびる。43年11月以降に解体され、痕跡を消すための植林によって松林となった。

日記には、ジャックの恋人として、祖母アンナの名前が登場する。

嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろになりながら、エマはジャック・デロシュの日記を読み続けた。

現在と過去(日記)を織り交ぜて話は進んでいきます。ミステリアスな話の進め方は、最後まで飽きさせない。

「サスペンス仕立てで巧みに構成」された物語。

ホロコーストを若い世代に伝える秀逸の新作物語として、お勧めする。

そして、もう一冊。「ショアの歴史―ユダヤ民族排斥の計画と実行」。

ショアーとは、災厄、破壊、悲嘆を意味するユダヤ教の祭儀用語である。ゲットーという呼び名は、1516年のイタリアはヴェネチアが最初である。第一次世界大戦が終わったとき、ヨーロッパには900万人から1000万人のユダヤ人が暮らしていた。その中にはポーランドの300万人、ルーマニアの100万人がいた。ソ連にも300万人がいた。

1920年代から30年代にかけて、ヨーロッパ全域で、ユダヤ人排斥の勢いが高まっていた。ドイツにおける反ユダヤ教主義の伝統は古く、厳しいものがあった。1933年、ドイツの国会議事堂の火災を口実としてドイツ共産党は禁止となり、4000人の幹部が逮捕され、ダッハウの強制収容所に入れられた。ドイツのユダヤ系公務員が解雇されるのは1933年4月から。ユダヤ人弁護士は所属する弁護士会から除名された。1934年末、弁護士の7割、公職人の6割が職務遂行不能に陥った。1939年にはユダヤ人の運転免許証が取りあげられた。1933年に50万人いたユダヤ系ドイツ人のうち、15万人が1938年までにドイツを出た。1939年9月、ナチス・ドイツはポーランドを占領した。数ヶ月のあいだは、ユダヤ系住民はまだ一過性の嵐にすぎないと考えていた。ワルシャワのゲットーには、1941年に47万人のユダヤ人が住んでいた。学校などの教育組織があり、舞台劇が演じられ、地下新聞が47紙も発行された。ユダヤ人評議会は罠にはまった。自分たちの殺戮までも引き受けることになった。そして、評議会制度は、利権と腐敗の温床ともなった。

「T4作戦」は、1939年1月に占領下のポーランドで始まった。ポーランドでも、ドイツ本国でも、精神病患者が大量に殺害された。ヒトラーは、反対勢力の結集を危険とみて、処分目標を達していたこともあり、1941年8月、「T4作戦」の続行を断念した。アメリカのユダヤ人指導者には、ユダヤ人殺戮の情報は伝えられていた。1942年に犠牲者は100万人だとされていたとき、実際には300万人が殺されていた。アメリカ政府は、1944年春にはアウシュヴィッツの詳細な航空写真をもっていたのに、収容所への空爆を拒んだ。同じく、イギリスのほうも空爆することはなかった。それぞれ、国内に反ユダヤ主義があったことと、何十万人という難民が入国するのを危惧したことによる。

ドイツの銀行はユダヤ系市民の口座を閉め、一般市民はユダヤ人の商店や会社、アパート、家財を買いたたいた。ドイツのデグザ社は、被害者から奪った、死体の歯から搾取した金冠を溶かして純金のインゴットをつくり、ナチスはそれを国家資産とした。ナチスの犯罪は、ごく少数の酷薄な変質者によるものではない。「勤め人の犯罪」、つまり普通の人間、民間あるいは軍人、ナチス党員などによる犯罪である。

元ナチの大多数は、身元を隠そうともしなかった。戦後のドイツやオーストリアにおいて、隠健な勤め人や企業主として豊かな暮らしを取り戻していた。法律家で元ナチスの高級官僚であるハンスは、戦後は、アーヘン市財政部長、1953年にはアデナウアー首相の官僚長となった。

どうしてこの悲惨な出来事を止められなかったのか?

彼らは家畜のように死んでいく、まるで肉体も魂もないように、死が刻印を押せたかもしれない表情さえない。そんな友愛も思いやりもないおぞましい平等のなか―猫や犬なら分かちあえたにちがいない平等―それはあたかも地獄の情景を映しているかのように見える。 「医学と人道に対する罪」(ハンナ・アーレント)

「今の時代の政的な存在とは、破壊し尽くされた文明の記憶を新たにする作業を経ることである。集団殺戮について、そして大衆社会、つまりわたしたちの社会がもはや「人間であること」の資格さえ脅かされるようになった各個人をそのまっただ 中に置き去りにしたあの荒廃、それについて熟慮することなのだ。」(p154)

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『ヒトラーと暮らした少年』(ジョン・ボイン 原田勝=訳)あすなろ書房

2024-07-13 21:29:22 | 読書無限

                

「少年ピエロは、叔母と共にヒトラーの別荘で暮らすことに。憧れのヒトラーに認めてもらうために一生懸命になるあまり、大切なものを見失っていく。」

パリに住んでいた少年ピエロは、とても心優しい少年で体が小さいことでいじめられることが多かった。唯一の友達はアパートの下階に住んでいる生まれつき耳の聞こえないアンシェル。いつも手話で話をしていた。アンシェルは物語を作るのが好きで、ピエロはいつもアンシェルが書いた物語を読んで楽しんでいた。

しかし、主人公のピエロはドイツ人の父とフランス人の母が亡くなり、孤児院に行くことに。その後、叔母と共にヒトラーの別荘で暮らすことになる。「ピエロ」は、ドイツ語風に「ペーター」と名乗らせられる。

チビで弱くいじめられっ子、しかし優しい心を持った少年だったが、憧れの偉大なる指導者から贈られた制服に袖を通した時から変わっていく。自分には力があると思い、人を見下し、命令しかしなくなる。ヒトラーに直接声をかけられ、側近のように振る舞い、筋金入りのナチスになりきった少年。そして、ヒトラー暗殺計画を企てていたおばや運転手を実行寸前で密告してしまう。

いくつもの挿話が記されていますが、気を寄せていたカタリーナにむりやり迫っていくピエロに対し、厳しく止めに入ったエマ。・・・

 エマは一瞬、表情をゆるめ、じっとペーターの顔を見おろした。「どうしっちゃたんだい、ピエロ? ここへ来た時は、あんなにやさしい子だったじゃないか。無垢な魂は、こんなにもたやすく汚れてしまうものなのかい? 」(P255)

やがてドイツは降伏し、ヒトラーは自殺、ベルクホーフの使用人達はペーターを残し、皆去っていく。今や主なき山荘で逮捕され、捕虜収容所に送り込まれたピエロは、釈放後、長年の放浪の末、パリに戻ってくる。そこで、アンシェルと再会する。・・・

 山荘のメイドのヘルタの別れ際の言葉。「ここで何が起きていたか知らないふりなんて、絶対するんじゃないよ。あんたには目もあるし耳もある。・・・全部聞いたんだよ。全部見たんだ。全部知ってたんだ。しかも、自分のしでかしたこともちゃんとわかってる。でもあんたは若い。まだ十六なんだから。関わった罪と折りあいをつけていく時間は、この先たっぷりある。でも、自分にむかって、ぼくは知らなかった、とは絶対に言っちゃいけない。それ以上に重い罪はないんだから」(P261)

以下は、再会したときの二人の会話(手話)※文中の「わたし」はアンシェルを指す。

〈ピエロ〉と、手話で犬を表す指の動きをしてみせる。わたしは少年のころ、彼のことを、やさしくて人を裏切らない「犬」の印で表していた。〈アンシェル〉と、彼は指を動かし、「キツネ」の印で応じた。・・・

〈ぼくらはまた、子どものころにもどれるかな?〉

わたしは首を横にふり、笑みを浮かべた。〈それには、あまりに多くのことがありすぎた。でも、もちろん、パリを出たあと、きみの身になにがあったのか、教えてくれないか。〉

〈この物語を語るには、かなり時間がかかるだろう〉ピエロは手話を続けた。・・・(P281)

この物語。まったくのフィクションです。しかし、ドイツ・ナチスの時代、ヒトラーに諸手を挙げて熱狂し、忠誠を誓い、行動したのは、大人も子どもも同様でした。むしろ、青少年の心を弄ぶように仕組んだのは、ナチスの巧妙な手段でした。当時の日本でも、「軍国少年」を純粋培養しました。

今、対中、対ロ、対北朝鮮ときな臭い状況の下、自衛隊の充足率がかなり低迷している中、青少年への勧誘が強化されそうな状況になっていくのではないでしょうか。

同じ作者の作品『縞模様のパジャマを着た少年』は、映画紹介で載せました。

ジョン・ボインの同名小説が原作で、ホロコーストに関わるドラマ。子供を主人公として描いた作品。

 第二次大戦下のドイツ。快活で冒険好きな8歳のブルーノ(エイサ・バターフィールド)は、ナチス将校である父の転勤に伴いベルリンを遠く離れ、厳重な警戒下にある大きな屋敷へ引っ越してきた。ブルーノは、寝室の窓から遠くに見える「農場」で働く人々が昼間でも縞模様のパジャマを着ていることを不思議に思う。

 学校に行かせてもらえず、遊び相手もなくて退屈しきっていたある日、屋敷の裏庭を抜け出し林を駆け抜けていくと、有刺鉄線を張り巡らした「農場」にたどり着く。フェンスの向こうにはパジャマ姿の同い年の少年シュムエル(ジャック・スキャンロン)が一人ぼっちで座っていた。
 シュムエルはユダヤ人、ナチスによってその「強制収容所」に送り込まれていた。シュムエルの存在は家族には秘密だったが、有刺鉄線越しに、シュムエルとチェスをしたり、ボール投げをしたりするうちに、子ども同士の友情が芽生えてくる。

 ブルーノの母親は、夫の職務に違和感を感じ始める。息子のブルーノも、収容所の焼却場から立ち上る異臭について、たびたび両親に聞く。ついに、母親と二人の子供達は、別の所へ引っ越すことに。しかし、ブルーノはシュムエルのことが気にかかっていた。
 ブルーノは引越しの当日、収容所内で行方が分からなくなったシュムエルの父を一緒に探す為、強制収容所の有刺鉄線の下をかいくぐり、シュムエルと同じ縞模様のパジャマを着て紛れ込む。しかし間もなく、豪雨の降り注ぐ中、他のユダヤ人収容者とともに追い立てられるようにして、二人は「シャワー室」に入っていく。
 ブルーノの母親は、息子がいないことに気付き、収容所挙げての捜索が始る。真っ暗なシャワー室の中で不安におののく大勢のユダヤ人、ブルーノとシュムエルは手をしっかり握り合う。
 父親も半狂乱で、収容所内を調べまわる。豪雨の中、母親は、鉄条網の外で、息子が脱ぎ捨てた衣類を抱きしめながら号泣する。
 ラストシーンは、閉じられたシャワー室の扉。カメラの引きとともに、脱ぎ捨てられたたくさんの縞模様のパジャマ(囚人服)が映る。次第に灯りが消えていく。・・・

 この物語の原作はジョン・ボインというアイルランドの若い作家(DVD特別編では、解説に登場)が2006年に出版し、世界的ベストセラーになった。それをイギリスとアメリカの合作で映画化。
 ラストシーン。ブルーノが両親にとってかけがえのない子供だったように、シュムエルもその他のたくさんのユダヤ人もそれぞれの誰かにとってかけがえのない人だった。一方では、存在そのものが忌まわしいものとして生命を奪われる(奪う)。
 これまでもかけがえのない多くの人間の生命が、戦争や政策、体制の名の下で「人種」「民族」「反・・」という括りで一緒くたにされて、意図的に抹殺されていく(していく)。それは今もなお世界の隅々で起こっていることではないか。それをどうすればいいのか、空しさも残る現実。
 
 ユダヤ人たちが明るく楽しむ収容所内での生活ぶりを映した映画(もちろん、ナチスのプロパガンダだった、と今は言えるが、当時は・・)によって、疑っていた父親に対して信頼を取り戻すブルーノ。
 家庭教師によって次第に「ナチズム」に染まっていく姉。
 精神的に追い詰められていく母親。・・・
 シュムエルが屋敷に食器洗いでやってきたときのエピソード。
 ブルーノは「こんな子は知らない」と言い放ち、その後、懲罰を受けて傷だらけのシュムエルとフェンス越しに再会するシーン。
 
 それぞれが、身につまされるシーンの積み重ね。

 もちろん、強制(最終、絶滅)収容所は、アウシュビッツを含め、二重の高電圧の流れる鉄条網で囲まれ、銃を肩に掛けた監視兵が常に見張っている。映画のような出来事はぜったいにありえない。あり得ない物語をなぜ創作したのか?
ここに、映画が現在の私たちへの問題提起(ホロコーストを共有できるのか? どういうかたちで共有し継承していくのか? 主人公が少年達であることも含めて、鋭い問いかけのような気がします。

・・・

この小説にも多くの問いかけがあるように思いました。

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読書「イン・レイト・スタイル(In Late Style) 晩年様式集」(大江健三郎)講談社。2013年10月24日第1刷発行。

2023-03-13 20:55:57 | 読書無限

大江健三郎さんが亡くなりました。

いろいろな作品(様々なジャンルの)を読みましたが、8年前に発刊された「イン・レイト・スタイル 晩年様式集」の読書感想を掲載しました。再掲し、哀悼の意を。

 4年前の3月11日。「東日本大震災」。

 このあいだ岩手に行きましたが、復興の話は随所に出てきても(悩みや不安や期待や・・・)、原発の話はなし。
 こちらも、復興への励ましはあっても、福島原発の、今も悲惨で、しかし忘れ去れてしまいそうな(ここでも「復興」という大義名分によって)現状について、言い出し得ませんでした。

 そして、確実に原発の再起動は迫ってきています。またしても、災禍を乗り越えて、日本の「輝かしい」再建が「着実な」歩みとなっていく、と多くの国民を信じさせながら。

 多くの被害者や科学者や政治家や哲学者や文学者が、そして市井の人々が語ってきた「福島原発事故」。さまざまな立場での発言。それらが(賛否いずれもが)、アベ自公政権の強引な再稼働方針とその実施に対する強固な姿勢(4年前の出来事をすっかり忘れさった)に、すっかり(遅れた)過去の言説にでもなってしまったかのような、今の日本の、暗澹たる文化状況、言論状況。
 
・・・

 気がついてみると、
 私はまさに老年の窮境にあり、
 気難しく孤立している。
 否定の感情こそが親しい。
 自分の世紀が積みあげた、
 世界破壊の装置についてなら、
 否定して不思議はないが、
 その解体への 大方の試みにも、
 疑いを抱いている。
 自分の想像力の仕事など、なにほどだったか、と
 グラグラする地面にうずくまっている。

 しめくくりに記された「詩のごときもの」の冒頭の一節。

 福島原発事故のカタストロフィーに追い詰められる思いで書き続ける主人公・長江。

 大江さんの分身ともいえる長江古義人が主人公のシリーズ。

 「晩年の様式を生きるなかで」書き表す文章となるので、“In Late Style”それもゆっくり方針を立てではないから、幾つもスタイルの間を動いてのものになるだろう。そこで、「晩年様式集」として、ルビをふることにした。

 私=長江は、執筆途中だった長篇小説に「3・11後」興味を失い、揺れに崩壊した書庫を整頓しながら、以前購入した「丸善のダックノート」に、思い立つことを書き始める。
 一方、四国の森の中に住んできた老年の妹が、自分と2人(妻・千樫と娘・真木)、そして何よりも息子・アカリが、長江(大江)に一面的な書き方で小説に描かれてきたことに不満を抱いている。こうして、3人の女は、あなたの小説への反論を書いたので、読んでもらいたいという。それらを合わせることで私家版の雑誌「晩年様式集+α」をつくるという設定で、話が進んでいく。
 妹、妻、娘という3人の厳しい批判が、そして、アカリのつぶやく言葉が、長江に突きつけられる。「家庭を基盤にして、個人的なことから社会的な事まで小説にしてきた。・・・モデルにされた家族からいえば、兄の小説はウソだらけだ」・・・。
 さらに、ギー兄さんの子供、ギー・ジュニアや塙吾良(義兄の伊丹十三)の愛人であったシマ浦なども登場し、かつて「小説(フィクション)」のモデルとして扱われた当事者達によって、「事実」が明かされる手法をとっている。

 「イン・レイト・スタイル 晩年様式集」は、大江の今までの作品の一つ一つを「解題」しているようなものにも感じられる。「懐かしい年への手紙」、「空の怪物アグイー」、「個人的な体験」、「万延元年のフットボール」、「人生の親戚」、「新しい人よ眼ざめよ」、「『雨の木』を聴く女たち」、「M/Tと森のフシギの物語」、等々。特に、息子の「アカリ」との関わりでしばしば登場する「アグイー」の存在。
 また、伊丹十三の自死にまつわる『取り替え子(チェンジリング)』、父の死にまつわる『水死』など、当事者からの異議申し立てを含みながら、謎解きをしていく。特にアカリとの関わり。

 そうした展開の中で、その根底にあるのは、3・11後の出来事。

 福島原発から拡がった放射性物質による汚染の現状を追う、テレビ特集を深夜まで見終わった後、2階へ上がっていく途中の踊り場で、長江は子供の時分に魯迅の短編の翻訳で覚えた「ウーウー声をあげて泣く」ことになる。

 ・・・この放射性物質に汚染された地面を人はもとに戻すことができない。(中略)それをわれわれの同時代の人間はやってしまった。われわれの生きている間に恢復させることはできない・・・この思いに圧倒されて、私は、衰えた泣き声をあげていたのだ。

(息子のアカリは父に向かって)

 モノマネの語り口はとめないままで。
――大丈夫ですよ、大丈夫ですよ! 夢だから、夢を見ているんですから! なんにも、ぜんぜん、恐くありません! 夢ですから! 

 「反原発」運動に積極的に関わりながらの執筆(3人+αとのやりとり)は、長江をとりまく大勢の生きる者、死んだ者達。そして、真木や千樫とりわけアカリとの関係の再構成を目論むやりとりでもあった。

 《「すべての国民は、個人として尊重される」という第13条に、自分の生き方を教えられた気持でした。あれから66年、それを原理として生きてきた、と思います。もう残された日々は短いのですが、次の世代が生き延びうる世界を残す、そのことを倫理的根拠としてやっていくつもりです。それを自覚し直すために、「原発ゼロ」へのデモに加わります。しっかり歩きましょう! 》

 誰かれから、『形見の歌』からの詩が「3・11後」の詩ではないことを知って驚く、といわれるのを聞いた。私自身、詩の中の私の70年という言葉通り70歳の自分から80歳の定点に向かう私への〈端的に、さらに苛酷となる「3・11後」に生き残っている自分への、ということだ〉手紙だったのかもしれない、。と感じる。しかしそれとしての言葉の勢いに、千樫はともかく希望が感じられるといったのだ。
 書き写して、終刊号の付録とする。

・・・

 否定性の確立とは、
 なまなかの希望に対してはもとより、
 いかなる絶望にも
 同調せぬことだ・・・
 ここにいる一歳の 無垢なるものは、
 すべてにおいて 新しく、
 盛んに
 手探りしている。

 私のなかで、
 母親の言葉が、
 はじめて 謎でなくなる。
 小さなものらに、老人は答えたい、
 私は生き直すことができない。しかし
 私らは生き直すことができる。

 この小説の執筆時点(現在)は、福島原発事故直後からの約2年間。大震災、大事故からすでに今年で4年が経過した。この作品が世に出てからも1年半が経とうとしている。
 大江さんがこの小説の中で、憂いたこと、嘆いたこと、確信したこと、期待したこと、・・・それらは、その後の4年間、いな2年間経ち、今、どうなっているだろうか? 

・・・

 「私」から「私ら」へ。

 少なくともまだ大江さんよりも若い「私ら」(といっても、途方もなく長く残された年月ではないが)は、「生き直すことができる」だろうか? 自問自答しつつも、生きながらえなければならない。

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『民主主義全史』(ジョン・キーン 岩本正明訳)ダイヤモンド社

2022-10-07 20:12:04 | 読書無限

安倍元首相の「国葬儀」。法的根拠もないまま、閣議決定もないまま、国会への事前手続き(説明・同意)もないまま、すべて「ないままに」、岸田首相の独断というべきかたちで決定され、多額の税金を支出し、さらに自衛隊を前面に出して、挙行されました。

葬儀前もその後も、国民の意思(反対多数)は一顧だにされず、無視されています。

しかし、一方でこうした自公政権を支持する議員・支援者だけではなく、快哉と叫ぶ識者と称する評論家、文化人がマスコミにしばしば登場している現状。

「旧統一教会」、また「統一教会」と自民党との癒着問題は大した問題ではない、他にたくさん課題が山積している、それを論議すべきだ、と、野党たたきとマスコミへの圧力・・・。

安倍国葬でも、若い世代が多く献花に参列した。反対意見は、大陸からのものだ(そう投稿した議員は、撤回したようだが、その発言主は・・・)とか、・・・。

それでもまだ日本は、ましなのではないか。まだ議論ができるから、と高をくくってはいないでしょうか。

この書の副題として「独裁vs民主主義 これからの世界はどうなる? 」とあります。

民主主義をめぐる景色は一変している

30年ほど前まで、民主主義の前途は明るく見えた。人民の力は重要だった。恣意的な支配に対する市民の抵抗が世界を変えた。いま、民主主義者たちが不安定な時代を生きているという感覚にさいなまされながら、劣勢な立場置かれているのはなぜなのか。(表紙見開き)

「人民」による支持を得られた秩序と強力な政府こそが、まさに新たな専制主義国家としての、自信に溢れた支配者達が提供しているものであることは、間違いない。

彼らは、時代遅れの独裁国家や君主国家、軍事独裁国家とは違う。20世紀のファシズムや全体主義とも混同してはならない。新しいタイプの強権国家であり、支配者達は国民の生活を操作し、支持を集め、従属させる術に長けている。

富やお金、法律、選挙に加え、「国内の不満分子」や「海外の敵」から「人民」と「国家」を守るというメディアによる情報操作によって、徹底した依存関係を構築する。・・・彼らが抑圧や暴力によって支配していると考えるのは間違っている。彼らは巧妙な統治を心がけている。・・・彼らは詐欺と誘惑においては完璧主義者だ。「まやかしの民主主義」の支配者だ。(P247)

この書では、中国、トルコ、ロシア、インド、イラン、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、またトランプ政権などを例に挙げて指摘します。

筆者の目から日本の政治状況は、民主主義史のなかで、どのようにとらえられているのでしょうか?

「集会民主主義の時代」(メソポタミア~ギリシャ)→「選挙民主主義の誕生」(欧州~大西洋へ)→「牽制民主主義の未来」(挑戦を受ける多様な民主主義)

という章立てで、「民主主義全史」を手短にとらえ直します。

牽制民主主義」というとらえ方が、言い得て妙な表現です。「選挙民主主義」ではとらえきれない民主主義のこれからのあり方を示唆する表現です。

かといって、選挙を軽んじてはなりません。選挙も「牽制」の大きな手段です。

以下は、「ダイヤモンド社」による、この書の解説紹介文です。

「民主主義」がこれほど注目される時代になったのは、私たちが不安定な時代を生きているという感覚にさいなまれながら、民主主義が劣勢な立場に置かれていると感じているためではないでしょうか。

【政治的に経済的に】中国のような専制、独裁国家のほうが、決められない民主主義国家よりも有利なのではないか?

【広がる格差】格差を生む資本主義と民主主義は、究極的には相性が悪いのではないか?

 たとえば、民主主義を支持する私たちも、このような疑問で揺らいでいます。それでもなぜ、民主主義を擁護すべきなのでしょうか? ジョン・キーン教授は、このような疑問に明快に応えてくれます。

 私たちは、民主主義国家である日本に育ちながら、民主主義のことをあまりに知りません。日本人を含む民主主義国の国民は、中国やロシア、そしてかつての民主主義国に誕生した「まやかしの民主主義国家」を率いる専制主義者からかつてなくプレッシャーを受けています。民主主義の歴史を知る意味はまさにここにあります。

 議論、意思決定、代表、選挙、議会、権力、平等、多様性……民主主義の本質に迫る、さまざまなジャンルの読者の関心に応えられる、新しい時代の教養書として読める一冊です。

※参考図書として

「史的システムとしての資本主義」ウォ-ラーステイン 川北稔訳(岩波文庫)

 

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「戦争と罪責」(野田正彰)岩波現代文庫

2022-09-17 21:35:29 | 読書無限

本書は、1998年8月、岩波書店より刊行され、2022年8月、「岩波現代文庫」として発刊されたものです。

戦場で残虐行為を行った兵士たちの心情を精神病理学者が丹念に聞き取る。なぜそのような行為を行ったのか、その時に何を感じたのか、その後、自らの行為とどのように向き合ってきたのか...。集団に順応することを求められる社会において、抑圧された「個」の感情を私たちはいかにして回復するのだろうか。

・・・「焦燥の時代」があった。近代化を急ぎ、富国強兵に向かって攻撃性を最大限に活用しようとした社会は、基本的に不機嫌であった。人々の気分は変調しやすく、権威的で、攻撃する対象を求めて常に易刺激的であった。地位、役割、身分、性などに応じて優越感と劣等感を併せ持ち、誰に対してへりくだり、誰に対して威圧的になるか、誰に対して寛大になるか、身構えていた。優越感と劣等感、卑下と威嚇の混合は、家族、友人、近隣の関係から始まって、アジアの人々との関係まで及んだ。他者と対等の関係を持ち得ない人は、たえまのない精神的緊張を美徳と誤解していた。いかに激しい焦燥にかられて行動化するか、それが戦前の社会の主調気分だった。焦燥の時代から多幸の時代へ、なぜ時代の気分は転換したのか。日本の社会は、この転換しか選ぶ余地がなかったのか。(P3)

 筆者の野田さんは、精神病理学者として、銀座通りを「日の丸」の旗と提灯を持ち、「戦争もあった、敗戦後の混乱と貧困もあった。それでもなべて昭和の御代は良かった」とざわめきながら行進する、人々のうねり波の中に投げ出された、「昭和60年」慶祝の大パレードから話を進めます。

「何故ここまで感情は平板化し、愉快であることに強迫的になってしまったのか。・・・楽しい感情が湧いてくる前に、身体で笑う所作を覚えた人々の感情は豊かにならない。」(同上)

日中戦争中、残虐行為を行った兵士達の心情を精神病理学者が丹念に聞き取ることで、罪責の自覚をさぐる。

この書を批判する人は、「中国で洗脳された日本人将兵の聞き取りにすぎない。今さら中国での戦争中の加害を明らかにしてどうする、また、実際、そういう残虐行為はほとんどなかった。・・・」と。

しかし、精神病理学者として、「・・・会話内容の矛盾は書き留めていくが、最も重要なのは、語る人の感情の流れを聴き取ることである。その体験をどのように感じたのか、『感情論理』を聴いていくのである。それによって感情の流れが淀み、空虚になっていると私も相手も気付く。」(P398)・・・、精神医学的面接に徹している。批判する人々と筆者の姿勢の違いに気付かされる。

※「罪責」=「犯罪を犯した責任」

※「罪責感」= 自分に罪過があると考え、自分を責めたくなる気持ち。

戦争を起こしたこと,そのものの責任は国家にあり、一下級兵士個人に戦争責任を問うことはできない。しかし、無辜な中国人たちへの残虐・殺戮行為等がなぜ行われたのか。

多くの兵士達は、上官からの命令は絶対であった、任務遂行上しかたなく、あるいは自ら進んで、出世のために、同僚からの視線、等を言い訳に、中国さらには東南アジア諸国民への加害者意識を捨て去り、戦後を生き抜いてきた。

当時の軍隊では逆らえば軍法会議によって処刑される、という状況下にあって何ができるのか? という言い逃れ。挿話の中で、ある仏教徒の兵士が信仰を理由に、射殺を拒んだ例をあげているが。

今問われるのは、殺した人への無感情と自分の家族や依拠する集団への感情はどのような関係にあったのか、なのではないか。「させられた戦争」から「した戦争」へ、「させられる人間」から「する人間」へ、判断し行為の責任を引き受ける人間へ・・・。

戦争を反省し、行った主体を取り戻そうとすることによって、ここから永い感情創造への年月が始まる。受けた教育、天皇制イデオロギー、軍国主義、権威主義をひとつひとつ分析し、剥ぎ取り、他者との交流を通じて感情を育てていく時間が始まる。私の会ってきた日本軍人達は、その過程にあって命尽きている。彼らが戦後世代に、さらに若い世代に伝え残していったことは、緊張と弛緩の貧しい精神を生きるのではなく、豊かな感情を育てていって欲しいという遺言であろう。(P394)

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『どうにもとまらない歌謡曲―70年代のジェンダー―』(舌津―ぜっつ―智之)ちくま文庫

2022-09-13 21:36:48 | 読書無限

この書。今から20年前、2002年に晶文社から刊行され、今回、加筆訂正されて「ちくま文庫」から発刊されたものです。

「歌は世につれ、世は歌につれ」。

70年代に歌われた歌謡曲の歌詞、歌声、歌い方、振り付けなどを細かく、ジェンダーの視点から分析評価した内容。

 20年前にはジェンダーなどという言葉はなかったような。あったとしてもごく一部のことでした。男女の生物として性別、というとらえ方が大半で、それも男優位の考え方。

性的な区分けでなく、社会的にとらえる「男女観」「男女の役割」という「ジェンダー」の視点でこの書をとらえると、野心的で先駆的書であることを感じます。

※1970年は田中美津らによる「ウーマンリブ」が立ち上がった「第二波フェミニズム元年」だった。(斎藤美奈子さんの解説P306)

本題に入る前に、いくつか。

1975年は、多くの統計的数字におけるターニングポイントの年であること・・・この年の終戦記念日の時点で、敗戦前に生まれた日本人の割合は50.6%、敗戦後に生まれが49.4%と、戦争体験をめぐってもちょうど世代の入れかわる過渡期が訪れていたのである。(P96)

1970年代は、69年に社会人となった小生にとっても、仕事、結婚、家庭・・・、人生の大きな転換期でもありました。それを重ねて読むと、まさに同時代史的な内容。

1970年
・日本万国博覧会(大阪万博)開催。・よど号ハイジャック事件・三島由紀夫自死(三島事件)。

1971年
・ドルショック・ボウリングブーム・成田空港予定地の代執行・札幌オリンピック開幕・ あさま山荘事件。
1972年
・日中共同声明・ウォーターゲート事件・  沖縄返還。
1973年
・オイルショック・巨人がV9を達成
1975年
・ベトナム戦争の終結。
1976年
・ロッキード事件が発覚し、田中角栄前首相逮捕
1977年
・ダッカ日航機ハイジャック事件・TV完全カラー放送化
1978年
・日中平和友好条約調印。・新東京国際空港(現成田国際空港)開港。
1979年
・第二次オイルショック・スリーマイル島原子力発電所事故。・旧ソ連がアフガニスタンに侵攻。・国内の炭鉱閉山・

等の出来事があった時代。

音楽シーンでは、

前半(1970年から1973年)

郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎が「新御三家」。南沙織・天地真理・小柳ルミ子の「新三人娘」。
フォークソングが登場し、男性歌手では吉田拓郎・ガロ・チューリップ・かぐや姫、女性歌手では荒井(松任谷)由実・・・。
トワ・エ・モワ、チェリッシュ、ビリーバンバン、フィンガー5・・・。

中期(1974年から1976年)

森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花の中三トリオ」。
キャンディーズ、さだまさし・中島みゆき・・・。

後半(1977年から1979年)

ピンク・レディー。矢沢永吉・アリス・松山千春・ツイスト・サザンオールスターズ・・・。
榊原郁恵・大場久美子・石野真子・・・。

というような具合。

以下は、ちくま文庫の惹句。

「激動の1970年代、男らしさ・女らしさの在り方は大きく変わり始めていた。阿久悠、山本リンダ、ピンク・レディー、西城秀樹、松本隆、太田裕美、桑田佳祐…メディアの発信力が加速度的に巨大化するなか、老若男女が自然と口ずさむことのできた歌謡曲の数々。その時代の「思想」というべき楽曲たちが日本社会に映したものとは? 衝撃の音楽&ジェンダー論。」

そして、この本の構成は、

Ⅰ 愛しさのしくみ

1愛があるから大丈夫なの?―結婚という強迫

2あなたの虚実、忘れはしない―母性愛という神話

戦争を知らない男たち―愛国のメモリー

Ⅱ 越境する性

4うぶな聴き手がいけないの―撹乱する「キャンプ」

やさしさが怖かった頃―年齢とジェンダー

6ウラ=ウラよ!―異性愛の彼岸

Ⅲ 欲望の時空

7黒いインクがきれいな歌―文字と郵便 

いいえ、欲しいの!ダイヤも―女性と都市

9季節に褪せない心があれば、歌ってどんなに不幸かしら―抒情と時間

どの章を取り上げても興味深い話題ばかり。筆者の分析、評価の緻密さに引き込まれてしまいます。

性差をめぐる方法論を念頭に、かつて聴いた流行歌を改めて思い出してみると、リアルタイムでは意識しなかったいろいろな問題の断面が見えてくるのでした。とりわけ、それまではあくまで天才的なコピーライターだと思っていた阿久悠という作詞家は、極めて雄弁なジェンダーの思想家であると思うようになりました。・・・なぜ、我々は歌謡曲の時代を生きながら、その強力なジェンダーの磁場をずっと見過ごしてきたのでしょう。本書の視点が新たな問題提起になれば、と思う次第です。

・・・言葉が光る角度のようなものを考えさせてくれた、けれども「昭和の詩歌」というような文学全集には残らないであろう、大衆詩人としての作詞家たちにささやかな感謝を捧げたい、ということです。(P298)

我々世代が、この書で紹介された歌謡曲をカラオケ(今はコロナ禍でカラオケに行くのもはばかられますが)で歌うとき、懐メロとしてだけでなく、少し、その同時代的(あるいは現代にも通じる先駆的なものとして)な意義を思うことも大事ではないか、と。

以下、「昭和ポップスの世界」より阿久悠の作品群。

森山加代子

  • 白い蝶のサンバ

北原ミレイ

  • ざんげの値打ちもない

尾崎紀世彦

  • また逢う日まで 

和田アキ子

  • 笑って許して
  • 天使になれない
  • あの鐘を鳴らすのはあなた

ペドロ&カプリシャス

  • ジョニィへの伝言
  • 五番街のマリーへ

山本リンダ

  • どうにもとまらない
  • 狙いうち

堺正章

  • 街の灯り

森昌子

  • せんせい
  • 同級生
  • 中学3年生

桜田淳子

  • 天使も夢みる
  • 天使の初恋
  • わたしの青い鳥
  • 花物語
  • はじめての出来事
  • 十七の夏
  • 天使のくちびる
  • ゆれてる私
  • 夏にご用心
  • ねえ!気がついてよ
  • 気まぐれヴィーナス
  • サンタモニカの風

あべ静江

  • コーヒーショップで
  • みずいろの手紙

フィンガー5

  • 個人授業
  • 恋のダイヤル6700
  • 学園天国

伊藤咲子

  • ひまわり娘
  • 木枯しの二人

石川さゆり

  • 津軽海峡・冬景色
  • 能登半島

森田公一とトップギャラ

  • 青春時代

都はるみ

  • 北の宿から

岩崎宏美

  • ロマンス
  • センチメンタル
  • 未来
  • 熱帯魚
  • 思秋期
  • シンデレラ・ハネムーン

沢田研二

  • 時の過ぎゆくままに
  • 立ちどまるなふりむくな
  • さよならをいう気もない
  • 勝手にしやがれ
  • 憎みきれないろくでなし
  • サムライ/あなたに今夜はワインをふりかけ
  • ダーリング
  • ヤマトより愛をこめて
  • LOVE (抱きしめたい)
  • カサブランカ・ダンディ
  • OH! ギャル
  • 酒場でDABADA

西城秀樹

  • 君よ抱かれて熱くなれ
  • ジャガー
  • 若き獅子たち
  • ラストシーン
  • ブーメランストリート
  • セクシーロックンローラー
  • ボタンを外せ
  • ブーツをぬいで朝食を
  • ブルースカイブルー

フォーリーブス

  • 踊り子

新沼謙治

  • 嫁に来ないか
  • ヘッドライト

ピンク・レディー

  • ペッパー警部
  • S・O・S
  • カルメン’77
  • 渚のシンドバッド
  • ウォンテッド (指名手配)
  • UFO
  • サウスポー
  • モンスター
  • 透明人間
  • カメレオン・アーミー

郷ひろみ

  • 林檎殺人事件
  • 素敵にシンデレラ・コンプレックス

石野真子

  • 狼なんか怖くない(作曲は吉田拓郎)

Char

  • 気絶するほど悩ましい

大橋純子

  • たそがれマイ・ラブ

八代亜紀

  • 舟唄
  • 雨の慕情

野口五郎

  • 真夏の夜の夢

杉田かおる

  • 鳥の詩

西田敏行

  • もしもピアノが弾けたなら

ザ・タイガース

  • 色つきの女でいてくれよ

小出広美

  • タブー

岡本舞子

  • ファンレター

森進一

  • 北の螢

五木ひろし

  • 契り
  • 追憶

五木ひろし&木の実ナナ

  • 居酒屋

小林旭

  • 熱き心に

河島英五

  • 時代おくれ

今でもほとんどカラオケで歌える曲ばかり。我ながら驚き!

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読書「線量計と奥の細道」ドリアン助川(集英社文庫)

2021-09-22 21:08:32 | 読書無限

2011年3月11日。東日本大震災。あれからすでに10年半が経過しました。大津波によって多くの人命が奪われ、土地を失い、原発事故によって住み慣れた土地を去らざるをえなくなり、いまだに戻れない多くの人々。自殺など関連死も多く、・・・。

震災の2年後、東北の知人を訪ね、案内して貰いながら仙台から気仙沼を巡り、さらに、それから3年後、機会があって、福島原発事故によって壊滅的になった飯舘などを訪問したことがあります。震災当時のままに放置された家々、すっかり解体され、整地された土地、・・・

その後はいったいどうなっているのか? 地元の方々は? 再訪問する機会に恵まれないのがとても残念です。

「復興オリンピック」という名目もすっかり捨て去られ、コロナ禍でのパラリンピックの開催。その後のコロナ感染症の拡大、医療崩壊。・・・

最近は、新規感染者数も激減し、今月末には緊急事態宣言が解除される、という観測も。はたしてそんな具合にうまくことは進むのか?

そういう思いの中、手に取った本がこれでした。

「忘却と記憶。その分岐点はどこにあるのだろう。」(p7)とまえがきに記した筆者。

「震災の翌年、二〇一一年八月から十一月にかけ、私は放射線量計を携え、松尾芭蕉の『奥の細道』の全行程約二千キロを旅した。折り畳み自転車で行けるところまで行き、あとは列車を利用したり、車やトラックにも同乗させてもらった。」(p10)

「測った線量値を露骨に発表することは、その地で商売をしたり、懸命に生きようとしている人にとってプラスにはならない。しかし、逆の考え方もある。汚染の被害を訴えることができず、半ば泣き寝入り状態になってしまった人々がいる。その声を拾い上げて書くことは、再び原大国に戻ろうとしている今、意味も意義もある行為ではないだろうか。・・・

いずれにしろ、私は自転車行による震災翌年の新しい奥の細道を、ここに公開することにした。忘却があってはならない。特に権力による恣意的な忘却に巻き込まれてはならないと覚悟を決めたからだ。」(P17)

こうして筆者は、8月14日から11月13日まで、東京から行ったり戻ったりしながらの、「折り畳み自転車」の旅を敢行します(「敢行」という言葉がふさわしいようなきがします)。

その記録が時を経て広く公開されました。もともとの本書は2018年7月、書き下ろし単行本として幻戯書房より刊行されました。

それが今回、文庫本として発刊されたわけです。

現在、筆者が測った、当時(震災翌年)のときの放射線量計の値とは、その後の除染作業等で減少しているかもしれません。

しかし、5年前の福島の地で、当方が測った線量計の数値は驚くべき数値でした。除染作業はうわべだけで、まだまだ人々が安心して暮らせるにはほど遠いものがありました。それから5年後、帰還の声は高くなっていますが、はたして現状は?

前半、筆者の自転車行は、白河の関まではほぼ同じ道をたどったことで懐かしく思い出し、また、仙台・気仙沼など地を訪れたことを思い出し(その時案内してくれた方は、震災後の厳しい生活の中で亡くなってしまいました)、一気に読んでしまいました。

その後の『奥の細道』行も、共に旅する気持ちでした。筆者が旅先で出会う多くの方とも親近感を覚えました。不思議な読書経験です。共に笑い、語り、泣き、厳しい現実から逃げずに未来を見つめ、・・・

「放射線量を測って進む旅。被爆に怯えと逡巡や葛藤を抱きながら『生きる』を考えた魂の記録」(裏表紙)というほど肩を張ったものではなく、行く先々の出会い(地元の方々、地元の風物・・・)を通して感じたこと、考えたことを詩人(歌人・うたびと)らしく率直な文体で綴ってあります。

そんな筆者の筆づかいについつい巻き込まれてしまいます。筆者が撮った写真も、筆者の深い思いの程を伝えてくれます。

文庫判あとがきではコロナ禍のさなか、世界中の人々が置かれた厳しい現実を直視し、未来をなんとか見つめていく、そのためには、という問いかけが真に迫ります。

大学の教員になった筆者。

「考えてみれば、小さな折り畳み自転車にまたがって旅をし、日記をつけ始めたのも自分なりの表現であり、自分自身であったのであろう。それがこうして読者に届くことは、希望の具体的な姿だといえる。対立を越えて、多くの人に読んでもらえたらどんなに良いだろうと思う。あの夏の日、懸命にペダルを漕ぎだしたところから始まったつたない筆記を、学生たちも読んでくれるだろうか。いつどんな時代がやってきても、『ここから始めるしかないのだ』ということを理解してくれるだろうか。」(p389)

小さな(安い)折り畳み自転車を愛用する小生。自転車を折り畳み、電車に乗り、車に積み、自転車の旅をしたくなりました。日本海側を歩くのも一興です。

でも、上り坂・下り坂の大変さ、曲がりくねった道路、自動車とすれ違う恐怖・・・。やっぱり、近所を走ることで精一杯ですね。

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読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その4。

2021-08-26 20:03:58 | 読書無限

明けて昭和16年(1941年)。筆者の半藤さんが小学校4年生になったとたん、小学校が「国民学校」と改称されます。

前年に「日独伊三国同盟」を結んだ日本は、いよいよ英米を敵に回すことに。そして、運命の12月8日を迎えます。

前年11月にレコードになった海軍軍歌「月月火水木金金」が年明けと共に巷で歌われ始めます。

♪朝だ夜明けだ潮の息吹き うんと吸い込むあかがね色の 胸に若さの漲る誇り 海の男の艦隊勤務 月月火水木金金

「ドリフ大爆笑」(フジテレビ)のOPテーマは開始した1977年に、この曲の替え歌を使用していました。ザ・ドリフターズはけっこう軍歌(替え歌を含め)を歌っていました。

「国民学校」の音楽の授業も「ドレミファソラシド」を「ハニホヘトイロハ」に。

そして12月8日。真珠湾奇襲の勝利、マレー半島上陸作戦の成功の第1報で、日本中が気持ちをスカッとさせました。

その4日前、ドイツ軍は、ソ連軍の猛反撃と-50℃という極寒のために後退せざるをえなくなっていました。そうしたドイツ軍敗退の報を知らさせていない国民の大半は、日本軍の初戦の電撃的大勝利にすっかり意気軒昂になってしまいました。

昭和17年(1942年)。

開戦より3ヶ月で、マニラ占領、シンガポール占領、ラングーン(現ヤンゴン)占領、ジャワの蘭印軍降伏と連戦連勝。ところが、6月のミッドウェイ海戦の敗北、8月、熾烈を極めたガダルカナル島攻防戦・・・次第に戦局は厳しくなっていきます。わずか半年で日本の戦いは悪化。そうした状況は、国民に明らかにされるはずもありません。

「本土初空襲」が4月18日。

そして、「加藤隼戦闘隊」隊長加藤建夫陸軍中佐(戦死後、陸軍少将)の戦死。

5月22日、第64戦隊の駐屯するアキャブ飛行場にブレニム1機(第60飛行隊ハガード准尉機)が来襲し爆撃。一式戦5機が迎撃に出撃するも、後上方銃座(射手マクラッキー軍曹)の巧みな射撃により2機が被弾し途中帰還、さらに1機が最初の近接降下攻撃からの引起し時に機体腹部(燃料タンク部)に集中射を浴び発火。この機体こそが戦隊長加藤建夫中佐機であり、帰還不可能と察した加藤機は左に反転しベンガル湾の海面に突入し自爆した。戦死した加藤中佐は「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」と評される南方軍総司令官寺内寿一元帥大将名の個人感状を拝受、さらに帝国陸軍初となる二階級特進し陸軍少将、また功二級金鵄勲章を受勲し「軍神」となった。(「wikipedia」より)

加藤隼戦闘隊

♪エンジンの音 轟々と 隼は征く空の果て 翼に輝く日の丸と 胸に描けし赤鷲の 印はわれらが戦闘機

昭和18年(1943年)

4月、山本五十六長官の戦死。5月、アッツ島守備隊の玉砕。9月、イタリア軍が米英連合軍に無条件降伏。12月、学徒動員。

内務省情報局は、米英そのほか敵性国家に関係ある楽曲一千曲を選び、演奏、紹介、レコード販売を禁止します。「私の青空(マイ・ブルー・ヘブン)」「コロラドの月」「上海リル」・・・。

「燦めく星座」にまでクレームがついてしまいます。「星は帝国陸軍の象徴である。その星を軽々しく歌うことはまかりならん」と。

燦めく星座」(昭和16年3月)灰田勝彦の甘い歌声が一世を風靡した。

♪男純情の愛の星の色 冴えて夜空にただ一つあふれる思い 春を呼んでは夢見てはうれしく輝くよ 思い込んだら命がけ男の心 燃える希望だ憧れだ 燦めく金の星

井上ひさしきらめく星座ー昭和オデオン堂物語

当時、灰田の甘く軽やかな歌声への人気が衰えず、当局はそうした傾向に対して軽佻浮薄だと断じ、さらに「星」が陸軍の象徴だということで、当局に睨まれたことの周辺を描いた戯曲。

さらに米英語の雑誌名が禁止、改名せよ、と。「サンデー毎日」が「週間毎日」、「キング」が「富士」、「オール讀物」が「文藝讀物」・・・。喫茶店などの店名も。「ロスアンゼルス」が「南太平洋」、「ヤンキー」が「南風」と。

野球でも「ストライク」=「よし」、「三振」=「それまで」、「アウト」=「ひけ」、「ファウル」=「だめ」。

陸軍報道部によって決定された「決戦標語」が撃ちてし止まむ」。

若鷲の歌(予科練の歌)昭和18年9月)

♪若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲が湧く

12月、文部省が学童疎開促進を発表。弟妹は疎開しますが、筆者は、当時、中学生だったので、東京に残り、昭和20年3月10日未明の「東京大空襲」で九死に一生を得ることになります。

昭和19年(1944年)

太平洋諸島での玉砕につぐ玉砕、インパール作戦での敗走、米大機動部隊によるマリアナ諸島への猛撃、これによって、米軍に制海空権を奪われます。そして、特別攻撃隊が正式の作戦となります。

中学生の筆者も、学徒動員で軍需工場に通うようになります。

学徒勤労動員の歌「あゝ紅の血は燃ゆる」(昭和19年9月)

♪花も蕾の若桜 五尺の生命ひっさげて 国の大事に殉ずるは 我等学徒の面目ぞ あゝ紅の血は燃ゆる あゝ紅の血は燃ゆる

そして、昭和20年(1945年)

本土の盾にされ、軍の盾にされた「沖縄戦」も軍・民、約20万人もの死者・行方不明者を出す悲惨な戦闘の結果、6月には壊滅。8月、広島・長崎に原爆投下、ここでも20万人以上の犠牲者。満州居留民・開拓民達の必死の逃亡。そして、8月15日、玉音放送。

同期の桜

♪貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭で咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため

原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年(1938年)1月号の「少女倶楽部に発表された西條の歌詞が元になっている。

時局に合った悲壮な曲と歌詞とで、陸海軍を問わず、特に末期の特攻隊員に大いに流行した。日本軍を代表する軍歌ともいえ、戦争映画等ではよく歌われる。また、この歌詞にも、当時の軍歌ではよく現れた「靖国神社で再会する」という意の歌詞が入っている。

その一方で、戦争映画でみられる兵士が静かに歌うシーンは実際にはなかったという説もある兵学校71期生の卒業間際に、指導教官が「死に物狂いで戦っている部隊で歌われている歌」として紹介して以来、教官の間で広まっていき、大戦末期に海軍兵学校から海軍潜水学校で一気に広まったとされており、兵学校に在学していても、戦後まで全く知らなかった人物も多い1945年(昭和20年)6月29日と同年8月4日のラジオ番組で、内田栄一によって歌われているのが、この曲に関する最も古い記録といえる。

(この項、「Wikipedia」参照)

こうして、半藤さんの労作の中から当時歌われた歌を取り上げてみました。

けっこう知っている(歌える)歌が多いのにも我ながら驚きました。リバイバルソングとして歌われているからなのでしょうか? 

替え歌を含め、戦争当時の国民の実相を映し出す鏡でもあった数々の歌。

しかし、たんなる郷愁、懐かしむことで終わらせることなく、再び悲惨な戦争が起こらないよう、心して現在の政治などを監視していくことが大事だと思いました。

それがまた、亡き半藤さんが我々に伝えたい、強く固い思いではなかったでしょうか。

東京大空襲(3月10日)。

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読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その3。そして、李香蘭

2021-08-25 18:42:53 | 読書無限

              「寫眞週報 昭和14年9/6号」表紙。

昭和14年(1939年)。この年の8月、ヨーロッパではドイツがポーランドに電撃作戦を開始。英仏がただちにドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が勃発しました。

何日君再来(ホーリー ジュン ザイライ作詞 黄 嘉謨 / 作曲 劉 雪庵

 もともと中国の歌でしたが、1939年、渡辺はま子が「いつの日君来るや」、そして1940年、李香蘭(山口淑子)が「いつの日君また帰る 」のタイトルで歌って、日本で大ヒットしました。

好花不常開 好景不常在 愁堆解笑眉 涙洒相思帯

今宵離別後  何日君再来 喝完了這杯 請進点小菜

人生難得幾回酔 不歓更何待 「来来来、喝完了這杯再説」

今宵離別後 何日君再来

 

一杯のコーヒーから(作詞は作詞は藤浦洸で、作曲は服部良一。歌は霧島昇ミス・コロムビア

ちなみに、この当時のコーヒー一杯の価格は15銭であった、とか。

♪(女)一杯のコーヒーから 夢の花咲くこともある 街のテラスの夕暮れに 

    二人の胸の灯が ちらりほらりとつきました

 (男)一杯のコーヒーから モカの姫君ジャバ娘 歌は南のセレナーデ 

    あなたと二人朗らかに 肩を並べて歌いましょ 

明けて昭和15年神武天皇が即位して、皇紀2600年の年。

小生が通った小学校。階段の踊り場の鏡に「皇紀二千六百年記念」の文字が刻まれていたのを鮮明に覚えています。

この時の奉祝國民歌「紀元二千六百年」
内閣奉祝會撰定/紀元二千六百年奉祝會・日本放送協會制定
 増田好生 作詞/森義八郎 作曲

 金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて
 いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年
 あゝ 一億の胸はなる
 歡喜あふるるこの土を しつかと我等ふみしめて
 はるかに仰ぐ大御言(おほみこと) 紀元は二千六百年・・・

出だしの部分は、今でも歌えますね。

3月には、芸名のなかで、ふまじめ、不敬、外国人と間違えやすいものの改名を指示してきました。

・リーガル千太・万吉→柳家千太・万吉、 ディック・ミネ→三根耕一、 藤原釜足→藤原鷄太、 中村メイ→中村メイコ

隣組(昭和15年6月)作詞:岡本一平、作曲:飯田信夫

♪とんとんとんからりんと隣組 格子を開ければ顔なじみ 回して頂戴回覧板 知らせられたり知らせたり 

 とんとんとんからりんと隣組 地震や雷火事泥棒 互いに役立つ用心棒 助けられたり助けたり

隣組制度(「回覧板」)は相変わらず健在のようで、今でも回覧板や年末の募金など回ってきます。

当時は、「隣組」を「国民の道徳的錬成と精神的団結を図る基礎組織」と位置づけていました。そうならないように。

半藤さんたち悪ガキに、近所の在郷軍人のおっさんが教えた「兵営ラッパ」を紹介。これは知っています。

〈起床ラッパ〉 起きろよ、起きろ、みな起きろ、起きないと 隊長さんに叱られる

〈消灯ラッパ〉 新兵さんは、可哀想だね、また寝て泣くのかよ

〈突撃ラッパ〉 進めや進め、みな進め、進めや進め、みな進め

ここで、「何日君再来」の歌を歌った「李香蘭(山口淑子)さん」の紹介を。

1920年(大正9年)2月12日に、中華民国奉天省(現:中華人民共和国遼寧省)の炭坑の町、奉天北煙台で生まれた。南満州鉄道(満鉄)で中国語を教えていた佐賀県出身の父・山口文雄福岡県出身の母・アイ(旧姓石橋)の間に生まれ「淑子」と名付けられる。本籍は佐賀県杵島郡北方町(現:武雄市)。親中国的であった父親の方針で、幼い頃から中国語に親しんだ。小学生の頃に家族で奉天へ移住し、その頃に父親の友人であり家族ぐるみで交流のあった瀋陽銀行の頭取・李際春中国語版将軍(後に漢奸罪で処刑される)の、義理の娘分(乾女児)となり、「李香蘭(リー・シャンラン)」という中国名を得た。・・・

「中国人スター・李香蘭」として

1940年(昭和16年)、歌舞伎座にて

日本語も中国語も堪能であり、またその絶世の美貌と澄み渡るような歌声から、奉天放送局の新満洲歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年昭和13年)には満州国の国策映画会社・満洲映画協会(満映)から中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューした。映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、日本や満洲国で大人気となった。そして、流暢な北京語とエキゾチックな容貌から、日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられていた。・・・

1939年の兵庫県西宮市でのコンサート
 
1940年、日満合作映画「支那の夜」に主演
 
資生堂石鹸のポスター(1941年)

日中戦争中には満映の専属女優として日本映画に多く出演し、人気を得た。人気俳優の長谷川一夫とも『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』で共演した。1941年(昭和16年)2月11日紀元節には、日本劇場(日劇)での「歌ふ李香蘭」に出演し、大盛況となった。大勢のファンが大挙して押し寄せ、日劇の周囲を7周り半もの観客が取り巻いたため、消防車が出動・散水し、群衆を移動させるほどの騒動であったと伝えられている(日劇七周り半事件)

日劇七周り半事件の様子

1943年(昭和18年)6月には、阿片戦争で活躍した中国の英雄・林則徐の活躍を描いた長編時代劇映画『萬世流芳英語版』(151分)に、林則徐の弟子・潘達年の恋人(後に妻)役で主演した。中国全土で映画が封切られるや、劇中、彼女が歌った主題歌「賣糖歌」と挿入歌「戒煙歌」は大ヒットした上、映画『萬世流芳』自体も、中国映画史上初の大ヒットとなったのである。また内容は、阿片戦争の相手国であったイギリスを当時の日本に見立てて、中国民衆の抗日意識を鼓舞するものだった。

『萬世流芳』の大ヒットにより中国民衆から人気を得た李香蘭は、上海から北京の両親のもとへ帰郷し、北京飯店で記者会見を開いた。 当初、この記者会見で彼女は自分が日本人であることを告白しようとしていたが、父の知人であった李記者招待会長に相談したところ、「今この苦しい時に、あなたが日本人であることを告白したら、一般民衆が落胆してしまう。それだけはやめてくれ」と諭され、告白を取りやめた。・・・

それまで、李香蘭は満州国と日本のスターだったが、映画『萬世流芳』とその主題歌「賣糖歌」、挿入歌「戒煙歌」そして「夜來香」「海燕」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」「第二夢」などのヒット曲により、中華民国でも人気スターとなった。歌においては、1945年(昭和20年)にカップリングで吹き込み発売された「第二夢」と「忘憂草」とが、中国での最後の収録曲となった。なお「第二夢」は2012年、中国で蒼井そらによりリヴァイヴァルされ、現代の中国人にも創唱者は李香蘭であるということが知れわたった。その「第二夢」は、台湾のトップ・シンガー費玉清が、「夜來香」「何日君再來」「只有你」等と共に、台湾は元より東南アジアや中国大陸各都市でのコンサートでも歌い継いでいる。
 
帰国

李香蘭は中国人と思われていたため、日本の敗戦後、中華民国政府から漢奸(売国奴・祖国反逆者)の廉で軍事裁判にかけられた。そして、李香蘭は来週上海競馬場で銃殺刑に処せられるだろう、などという予測記事が新聞に書かれ、あわや死刑かとも思われた。しかし奉天時代の親友リューバの働きにより、北京の両親の元から日本の戸籍謄本が届けられ、日本国籍であるということが証明された。結果、漢奸罪は適用されず、国外追放となった。無罪の判決を下す際、裁判官は「この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸を裁くことにあるのだから、日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。それは、中国人の名前で 『支那の夜』 など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」と付言を加え、李香蘭は「若かったとはいえ、考えが愚かだったことを認めます」と頭を下げて謝罪した。

李香蘭は船が港を離れてからデッキで遠ざかる上海の摩天楼を眺めていると、船内のラジオから聞こえてきたのは、奇しくも自分の歌う「夜来香」だった。・・・

帰国後は、山口淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をした。・・・また、1974年(昭和49年)から1992年(平成4年)までの18年間、参議院議員を3期務めた2014年9月7日心不全のため、東京都千代田区一番町の自宅で死去した。94歳だった。

(この項、「wikipedia」参照。写真も。)

戦乱期の日中を巡る数奇な人生を歩んだ方でした。

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読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その2。

2021-08-23 18:45:52 | 読書無限

                  昭和12年(1937年)正月の浅草風景。

筆者の半藤さんは、この年の4月、小学校1年生に。

当時の同級生の家の職業が列記されています。豆腐屋、イカケ屋、下駄屋、自転車屋、大工、酒屋、ミルクホール、左官屋、米屋、魚屋・・・。下町の土地柄を表しています。ちなみに母親は、お産婆さんだった、とのこと。

その街中に聞こえてくる物売りの声も列挙。

・なッとなッとなッとうゥ、なッとうに味噌豆エ

・あさりイ―、しじみイ―

・はさみ包丁ッ、かみそり磨ぎイ―ッ

・竹や―さお竹ッ

・朝顔の苗ェ、夕顔の苗ェ―

・玄米パーンの、ホヤホヤ―ア

他にも物干し売り、カチャカチャと独特の箪笥の鐶を鳴らしてくる定斎屋などが紹介されています。

注:定斎屋(じょうさいや)

夏に江戸の街を売り歩く薬の行商人是斎屋(ぜさいや)ともいい、江戸では「じょさいや」という。この薬を飲むと夏負けをしないという。たんすの引き出し箱に入った薬を天秤棒(てんびんぼう)で担ぎ、天秤棒が揺れるたびにたんすの(かん)が揺れて音を発するので定斎屋がきたことがわかる。売り子たちは猛暑でも笠(かさ)も手拭(てぬぐい)もかぶらない。この薬は、堺(さかい)の薬問屋村田定斎が、明(みん)の薬法から考案した煎(せん)じ薬で、江戸では夏の風物詩であった。

[遠藤 武](「ニッポニカ」より)

筆者の挙げた物売りの声、「定斎屋」以外は、聞いたことがあります。

つい最近までは、焼き芋屋さん、物干し売り屋さんが来ていましたが、最近はまったく声を聞きません。近所に来るのは、廃品回収の小型トラックくらいか。

この頃には「日中戦争(支那事変)」が本格化。知人や隣近所の若者達に赤紙つまり召集令状がきて、次々と戦場へ出征していく「戦時下」になっていった。

露営の歌(昭和12年9月)

♪勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷(くに)を出たからは 手柄を立てずに死なれよか 進軍ラッパ聞く度に 瞼に浮かぶ旗の波

・愛国行進曲(昭和12年12月)

♪見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌と 希望は躍る大八洲 おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ 金甌無欠揺るぎなき 我が日本の誇りなれ

作曲は「♪守るも攻めるもくろがねの」でおなじみの「軍艦行進曲(マーチ)」の作曲者。

海行かば(昭和12年10月)

♪海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ

『万葉集』にある大伴家持の長歌の一節。信時潔作曲。後に、この歌は、対英米戦争中に「玉砕」という悲惨な報と共にラジオで必ず流された。

昭和13年(1938年)になると、中国大陸での戦火はますます激しくなります。

麦と兵隊(昭和13年12月)

♪徐州徐州と人馬は進む 徐州よいか住みよいか 洒落た文句に振り返りゃ お国なまりのおけさ節 髭が微笑む麦畠

注:藤田まさとは当初『麦と兵隊』中の孫圩(そんかん)での中国軍の強襲後の火野の述懐を元に「ああ生きていた 生きていた 生きていましたお母さん・・・」という歌い出しの文句を書いた。ところが、軍当局から「軍人精神は生きることが目的ではない。天皇陛下のために死ぬことが目的だ」と大目玉を食らい、そこで、「徐州 徐州と人馬は進む・・・」という現行の歌詞に書き直した。(この項、「Wikipedia」より)

旅の夜風(昭和13年9月)

♪花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる道 泣いてくれるな ほろほろ鳥よ 月の比叡を独り行く

川口松太郎『愛染かつら』の主題歌。映画にもなって大ヒットした。

人生劇場(昭和13年4月)

♪やると思えばどこまでやるさ それが男の魂じゃないか 義理がすたればこの世は闇だ なまじとめるな夜の雨

佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲の歌謡曲「人生劇場」が楠木繁夫の歌として発表され、広く知られている。特に早稲田大学出身者や学生に愛唱され、「第二の早稲田大学校歌」とも云われている。後年には中島孝村田英雄によっても歌われた。特に村田版は名唱として知られ、1965年版テレビドラマ(製作 フジテレビ日本電波映画、監修 渡辺邦男)の主題歌にも使われ、今では村田英雄が本楽曲のオリジナル歌手だと認識されることも多い。(この項、「Wikipedia」より)

尾崎士郎『人生劇場』。

尾崎士郎の自伝的大河小説愛知県吉良町(現・西尾市)から上京し、早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその後を描いた長編シリーズ。

1933年(昭和8年)に都新聞に「青春篇」が連載され1959年(昭和34年)までに「愛慾篇」「残侠篇」「風雲篇」「離愁篇」「夢幻篇」「望郷篇」「蕩子篇」が発表された。作品は自伝要素を混じえ創作されたが、「残侠篇」は完全な創作である。この作品を手本としたものに、同じ早稲田大学の後輩である五木寛之の自伝的な大河小説『青春の門がある。

 (「同」より)

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読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その1。

2021-08-22 20:52:45 | 読書無限

相変わらずの読書三昧、と言いたいところですが。ついつい緊急事態宣言下でも出かけてしまい、・・・。少し自重して。

さて、今年1月亡くなられた半藤一利さん。ブログでも何度か紹介していますが、下町・大畑(現在の八広)生まれということで、けっこう親近感を持っています。生家は、通称「こんにゃく稲荷」・三輪里稲荷神社の前だったとか。

この本が世に出たのは、2016年2月。それから3年後。平凡社ライブラリー版として発刊されました。

『昭和史1926―1945』がA面としたら、この書は、戦前の市井の生活を描いたもの。

半藤さん自身は、1930年(昭和5年)生まれですから、生まれる前から昭和が始まっています。小学校(国民学校)から府立7中(現隅田川高校)に進学、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で九死に一生を得て、茨城・下妻、さらに父の生地である長岡へ、というまさに時代に翻弄されつつ、少年・青年期を送って来た方。

「60年近く一歩一歩、考えを進めながら、調べてきたことを基礎として書いた本書の主題は、戦場だけでなく日本本土における戦争の事実をもごまかすことなしにはっきりと認めることでありました。民草の心の変化を丹念に追うということです。昔の思い出話でなく、現在の問題そのものを書いている、いや、未来に重要なことを示唆する事実を書いていると、うぬぼれでなくそう思って全力を傾けました。」

「・・・レコードには主となるA面と裏側に従となるB面とがありました。それにならえば、昭和史も政治・経済・軍事・外交といった表舞台をA面、そしてそのうしろの民草の生きる慎ましやかな日々のことをB面と呼んでも、それほどおかしくないと勝手に考えました。」

「誰の名言であるか忘れましたが、『戦争はうその体系である』というのがあります。その名言にそっていえば、わたくしは物心ついてから15歳まで、その『うその体系』のなかで生きてきました。その後の70余年の平和は、そのことをじっくり考えさせてくれました。」

文庫本でも650Pになりますが、じっくり読んでほしいと思います。

巻末に載せられた、同年生まれの澤地久枝さんとの対談もすばらしい内容です。

今回読み進めていくうちに、意外なことに気づきました。戦後生まれ、半藤さんよりも15年以上、年が離れている小生。

当時、大いにはやった流行歌、また軍歌などが載せられていますが、けっこう知っている(歌える)ものが多いことに。

そのいくつかを。

・昭和4年(1929年)『東京行進曲』♪昔恋しい銀座の柳 仇な年増を・・・

「その第4連の出だしは♪シネマ見ましょか お茶のみましょか いっそ小田急で逃げましょか・・・と実はもともとの歌詞は♪長い髪してマルクス・ボーイ 今日も抱える『赤い恋』・・・であった。」

・昭和5年(1930年)

浅草のエノケンの舞台ではやったのは『洒落男』♪俺は村中で一番 モボだと云われた男 己惚れのぼせて得意顔 東京は銀座へと来た

注:「モボ」(「モガ」という語もあります)「モダンボーイ」に「モダンガール」のこと。

・同じく『デカンショ節』♪俺らが怠けりゃ 世界は闇よ ヨイヨイ 闇に葬れ資本主義 ヨーイヨーイデッカンショ

昭和6年(1931年)

・『酒は涙か溜息か』♪酒は涙か溜息 こころのうさの捨てどころ とおいえにしのかの人に 夜毎の夢の切なさよ

・『侍ニッポン』♪人を斬るのが侍ならば 恋の未練がなぜ斬れぬ

昭和7年(1932年)

・『天国に結ぶ恋』♪ふたりの恋は清かった 神様だけがご存じよ 死んで楽しい天国で あなたの妻になりますわ

注:この歌は知りませんでした。「坂田山心中」事件にからむ歌。

昭和8年(1933年)

・『島の娘』小唄勝太郎の名調子で♪ハアー島で育てば 娘16恋心 人目忍んで 主と一夜の仇なさけ

注:この年、大島三原山が投身自殺の名所になった。

・『東京音頭』♪ハア踊りおどるならチョイト東京音頭ヨイヨイ 花の都花の都の真ん中で  サテヤートナソレヨイヨイヨイ

注:日比谷公園では、1週間ぶっ通しで踊り、日本中の神社や境内、公園、空き地で人波が大きな輪をいくつもいくつもつくって踊り狂った、という。

今は、「ヤクルトスワローズ」の応援歌? となっています。

昭和9年(1934年)

・『さくら音頭』♪ハアー咲いた咲いたよ 弥生の空に ヤットサノサ

注:前年の「東京音頭」につづく「音頭」。お分かりのように、出だしが「ハアー」となっていて、「島の娘」で大受けして、「歌い出し」としてはやった。

昭和10年(1935年)

二人は若い』♪あなたと呼べばあなたと答える 山のこだまのうれしさよ 「あなた」「なんだい」 空は青空 二人は若い

昭和11年(1936年)

・『うちの女房にゃ髭がある』♪何か言おうと思っても 女房にゃ何だか言えませぬ

・『あゝそれなのに』♪空にゃ今日もアドバルーン さぞかし会社で今頃は

・『花嫁行進曲』♪髪は文金高島田・・・みなさんのぞいちゃいやだわよ

・『花言葉の唄』♪可愛い蕾よきれいな夢よ 乙女ごころによく似た花よ

こうして挙げていくと、まったく戦後生まれの小生ですが、TVなどの「懐メロ特集」かなんかで耳に残っているのかも知れません。知らない歌もありますが。

しかし、A面では昭和11年(1936年)2・26事件を契機に一段と軍部支配が強固になり、次第に戦争体制の気配が色濃く、思想統制・弾圧も激しくなり、市井の生活にも次第に窮屈になってきます。

2・26事件。

 

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半藤一利さんを偲ぶ。

2021-01-14 19:35:06 | 読書無限

半藤一利さんが亡くなりました。

つい最近も読んだばかりでした(保阪正康さんとの対談)『そして、メディアは日本を戦争に導いた』。

今、読んでいる丸谷才一さんの『月とメロン』にも登場します。

むろん、『決定版 日本のいちばん長い日』、『日露戦争史』など大部のものから軽い(といっては失礼ですが)ものなどけっこう濫読気味に。

何を隠そう、墨田区にある「曳舟図書館」(「京成曳舟」駅至近)には、墨田区ゆかりの作家として、半藤一利さんの作品がずらりと並んでいます。それを借りて読んだ、ということですが。

このブログでも何冊か取り上げました。追悼の意味で再掲。

 

自称(他称もありか。自他共に認める)歴史「探偵」・半藤一利さんの書。永井荷風の日記「断腸亭日乗」を題材に、荷風の同時代的昭和史を、ちょっと遅れてやってきた筆者が後追いしながら、昭和30年代までの自己史をも語るという趣。
 後書きで、ご本人は「荷風さんの昭和」という題名が気に入っているようですが、読後感としては、初出の時のように「荷風さんと『昭和』を歩く」という方が適切な感じがします。
 戦争へ、破滅へと進んでいった「乱世」の日本、昭和3(1928)年~昭和20(1945)年。その時代を荷風の日記を基としながらそこから派生した話題を披露していく(歴史の裏側・真実を探偵していく)、という変幻自在な文章タッチ。恐れ多くも天下の文人・荷風さんを旅先案内人(杖代わり)にしてとは、大胆不敵です。
 P278の「付記」
 『日乗』原本の扉の表記が昭和16年8月以降から「昭和」が追放され、西暦で統一されているという。荷風の魂はもはや日本から離れ、西欧とくにフランスこそが自分の精神の故郷と、この扉の表記で示したのであろうか。ふたたび「昭和」が原本の扉に記されるのは昭和21年、日本占領がはじまってからである。おおかたの日本人が日本の過去をぶざまにののしりだしたとき、荷風の心はかえって日本へ向いたというのであろう。この壮大なへそ曲がりを見よ、である。

 このあたりが、半藤さんの「荷風」像の基と言えそうです。そして、ご自身のスタンスでもあるか。向島に生まれ、隅田川の産湯につかったご自身の、失われた(つつある)地域社会への熱い思いを語っていきます。
 俗世間にあって、その世界から超越しつつ、遠く、広く世界を歴史(未来)を見透かしていた荷風。その荷風の孤独な晩年の言動を尊敬の眼差しで(それでいて記者としての目はぬかりない)見つめる半藤さんの血気盛んな、若き頃。その頃から、こうして自らも半生を振り返る時期が迫ったときに、改めて荷風の偉大さに気づかされる、そんな思いが伝わってきます。
 読者の一人としては、隅田川、浅草、向島・・・、長年なじんできた土地でもあるので、よりおもしろさが増してきました。

半藤一利。東京下町生まれ。東京大空襲の体験も。「文藝春秋」に所属していたこともあり、一頃は保守派の論客でしたが(今も?)、太平洋戦争当時の日本軍部(特に日本陸軍)及び靖国神社におけるA級戦犯の合祀には極めて批判的で、昭和天皇の戦争責任についても否定していません。また近年は護憲派としての活動を積極的に行っています。
 そのため、保守派のドン(?)西尾幹二などから手厳しく批判されています。
 対する保阪正康。第二次世界大戦当時の軍部については極めて批判的であり、「大東亜戦争は自衛の戦争」と主張する靖国神社にも否定的。そのため総理大臣の靖国神社参拝にも極めて批判的で、一般人の靖国神社参拝についても「個人の自由」としながらも、「靖国神社に参拝することは靖国神社の主張を受け入れるということだ」と批判的です。
 これもまた、保守派論壇からは批判も多く、小林よしのりからは、当時の国際関係を無視しての、当事者の聞き書きスタイルの歴史観は、「蛸壺史観」とやはり手厳しい(どっちがそうなのか、と思いますが)。
 この二人。反対の立場から言わせれば、「俗人」(世俗)受けする歴史観の持ち主? 
 いずれにせよ、保守派からは目の敵に近い存在。戦争の犠牲となった自国の民衆、朝鮮半島をはじめ、他国の人々の目線から歴史を読み解くなどというのは、正統派歴史学者から言わせれば邪道なのかもしれません。
 かといって、西尾や小林の依拠する(きちんと学んだのだか、考えもせずに受け入れただけなのか、わかりませんが)、説く歴史観も、またきわめて偏っているとしか思えません。
 そこでこの書。とことん彼らが忌み嫌う、俗物受けするタイトル(小見出しで)で対談しようという、ある意味、痛快な小気味よい対談集になっています。その志たるやよし!
 だから、昭和を点検すると題していても、その内容は昭和20年8月15日敗戦に至るまでの「戦前昭和」を点検する、という内容になっていて、ま、反対派の「こいつら、また何を勝手なことを、俗受けする言葉で言い出すか」という手ぐすね引いて待っている連中をちょっと手玉にかけている、といった風情です。これが、お見事です。
 さて、対談の内容は、日本が負けることは明らかだったのに、どうして昭和20(1945)年8月15日まで続いたのか、とりわけ「ポツダム宣言」受諾まで20日間。この間に広島・長崎の原爆をはじめ、どれほど多くの犠牲が出たか・・・。そこにまで次第に話を狭めていくかたちになっています。
 では、何が「失敗の本質」であったのか。「どうせ」「いっそ」「せめて」。このありふれた言葉をもとに、半藤さんが他の書で昭和前史を読み解いていったわけですが(むしろ日本人の心性が、この三語によって括られる、とのことで)、その続編という趣です。まさに対談のなかでのベーシックなキーワードとなっています。
 この対談では、この三つの言葉の他に、「世界の大勢」「この際だから」「ウチはウチ」「それはおまえの仕事だろう」「しかたなかった」の五つ。
 証拠隠滅とか公文書の破棄とかで、資料も実は乏しい昭和戦争史。それは今でもなお闇の中のものも多いのです。そうした中での、ある意味、歴史を「探偵する」、そういうおもしろさがあります。その手法の中で、続々と登場する人物の発言、人となり、責任感、責任回避、黙殺、・・・、生身の人間像が浮かび上がっていきます。
 そうして読み進むうちに、実はこの対談は、けっしてかつての敗戦という結果に至った、戦ばなしではないことに気づかされます。
 今の官僚機構。役所や組織の体質、政治家の処世・・・。特に五つのキーワードがずばり大きく言えば、今の日本の政治状況、国際関係などの混乱につながっている体質。勤め先の上司の姿勢、無責任体制、成果主義、結果オーライ・・・、などまったく60年以上も少しも変わっていないことに気づきます。
 特に身近な官僚組織。個人的な思惑だけで、組織を勝手に動かし、計算尽くの人間関係がかえって無責任体制を生み、誇大報告(失敗を隠蔽し)で上司をだまし、縦割り組織の中で見て見ぬふりをする、他の部署の過ちを冷笑する、「ホウ・レン・ソウ」が根回しにすり替わり、そして、上も、中間も、ぜったいに責任を取らない、部下にその損失・失敗を押しつける・・・、そんな組織が今もはびこっている。ここに目を向けなければならないなのに、誰も気づいていて言わない! そこに歴史の悲劇があり、教訓があるはずなのですが。

 「昭和史の語り部」半藤さんのあちこちで発表された文章をまとめたもの。発表時期は1973年から2007年まで。表題のような括りで、ひとまとめにしてある。
 そこに見えるのは、一貫性ということである。歴史観というか、歴史の見方が一貫していることに驚嘆さえ感じる。ここに、筆者の面目躍如たる所以がある。
 
 歴史における「真」と「実」の問題。事実としての「実」はちょっと資料を探れば手に当たる。しかし「真」は、多くを読み、調べたところで簡単に手に入るものではない。常に歴史に親しみ、追体験し、想像力をふくらませ、よく考えながら育成していく「歴史を見る眼」の問題。自分の見方をもつことなくしては、歴史を楽しみ、そこから意義や教訓を多く引きだすことができない。
 
 このように喝破する筆者。長年の編集者としての眼が養った、確信から生み出されたものである。
 では、何が「失敗の本質」であったのか。「どうせ」「いっそ」「せめて」。
 すでに昭和20年に入って日本が負けることは明らかだったのに8月15日まで続いたのか、とりわけ「ポツダム宣言」受諾まで20日間。この間に広島・長崎の原爆をはじめどれほど多くの犠牲が出たか・・・。
 このあたりの実証的な分析が見事だった。学者でもなく、評論家でもなく、たんなる一市民の目でなく、複眼的な評論姿勢がすばらしい。

 吉川英治の小説「三国志」。高校のころ読んだことがあったが、長じてから、ずっと後に書かれた横山光輝の漫画「三国志」。。長編の漫画で、何十巻あったかしら、次々と買い込んでは私のようないい大人も読んでいた。それからゲームの「三国志」(私はやらなかったが、ちょっとした大人も夢中になっていたそうだ)。こうみると、世代を超えて人気のある物語が、「三国志」のよう。
 本場の中国でも京劇でさかんに演じられる。かつて日本に来た京劇で関羽にまつわるものを観たことが。あの独特の、キーの高い発声と賑やかな音楽と派手な立ち居振る舞いに圧倒されたことをふと想い出した。
 この本は、画家の安野さんが「繪本三国志」の出版記念に企画された、作家の半藤さんとの対談集。 談論風発。お二人の自在な対談が楽しめる。
 現地に取材して中国の悠久の大地に根ざし、栄枯盛衰の時代に目を向けた対話の妙から始まり、歴史観、人物観など時に日本の戦国時代の武将像や明治以降の軍部のあり方など、時空を越えた対談が興味を大いに誘った。
 3世紀に書かれた古い歴史書の「三国志」(正史)そのものよりも、14世紀に書かれた小説の「三国志演義」のほうが一般的にはなじみが深かったらしい。何しろ、蜀の興隆と滅亡の歴史が中心。劉備玄徳や諸葛亮孔明など多彩な登場人物が織りなす、感動のドラマ仕立てだから。三国のうち、魏や呉は旗色が悪かった。お二人は、それをふまえた上で、教養豊かな三国志論を語り合っている。それでいて、コンパクトに仕上がっている。安野さんの絵も、小さいながらいくつも紹介されている。味わい深い絵の数々。・・・

(本の写真は、すべてAmazonより)

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追悼。古井由吉。

2020-03-12 20:22:43 | 読書無限
 古井由吉さんが亡くなりました。この方の作品はけっこう読みましたが、このブログでは二冊取り上げました。その二つを再掲。


《読書 2014・5・30掲載》
 時・空を、あるいは人称を越えた語り口。これが、この方の小説作法なのだろう。夢うつつ、その端境に聞こえる声、声、声・・・。鳥の、赤子の、老人の、両親の、兄弟の、・・・。そして、晩鐘の。否、外界の音だけではない、自らの内から聞こえてくる音。これらの深みに対しては、彩りをなす花々は、どれもこれも「淡い」イメージ、もっといえば、セピア色、さらにいえば、無色透明さえも感じ取らせる。
 死者は、息を引き取る際、五感のうちの聴覚が最後まで残っていると聞いたことがある。生者と死者との交流は声をもって終わりとなすか。そして、さまざまな、肉親を含めて人間を看取る主人公。いつか自分も。
 老いてますます研ぎ澄まされる聴覚、そして視覚、嗅覚、・・・五感。身体へ心へ染み渡り、醸し出される、不思議(思議せず)な「小説」世界。登場人物たちは、自在に己の世界を紡いでいく、その語り部としての作者に徹底する姿勢は、読者をうならせる魅力にあふれている。
 「窓の内」から始まる八つの連作。騒然と、何かにせかされるように生きる(しかない)現代人に静寂をかぎ取る感性というものの豊かさを気づかせる見事な語り口でした。
 「鐘の渡り」。3年ばかり暮らした女をついふた月ほど前に亡くした友人に誘われて晩秋の山にでかける男。自身は春には女と暮らすことになるだろうと思っている。
 「―鐘の音に目を覚まして、ひさしぶりにぐっすり眠った気がした。思うことも尽きたように鳴り止んだ。明日からは物も考えなくなるだろう。」
 山から帰った晩、女の部屋を訪ね、目の前の女にのめりこんでいく男。山で聞いた鐘の音は二人の幻聴だったのか、とも。 
 「朝倉のつぶやきが隣でまどろむ自分の内に鐘の音を想わせ、余韻の影を追いきれなくなり目をさました自分の声が朝倉の内に、幻聴ながらおそらくくっきりとした、鐘の音を響かせた。これはつかのまながら交換になりはしないか。暮らした女を亡くした男と、これから女と暮らす心づもりの男との間の。」

 こうして、幽冥の世界が描き出される。過ぎ去った者の生の声、声、声。連作を通して通奏低音のごとくに響いてくる。


《つぶやき 2005・2・14 掲載》
最近読んだ本でおもしろいのないかって
いろいろ適当に読んでるからね
小説から歴史物まで
もっぱら図書館が多いね
あまり買わないね、立ち読みはするけど

そう、新刊本もけっこうすぐに書棚に並んでるし
どういう基準なのかわからないこともね
マニアックな本なんかが紹介されているし
職員が選んでるのかな
リクエストもあるのか
オンラインっていうの
なければ他の図書館から取り寄せてくれるしね

ホントあまり買わなくなった
一度読めばもう一回読もうってこともないしね
もっぱら近所の図書館だな

でもほとんど小説みたいなものが多い
いわゆる読まれているやつ、予約が一杯だものね
流行を追っているって思うけど
もっと骨身に染みるような硬派の本もあって欲しいよね

そうそう、最近読んだ小説か
古井由吉さんの「仮往生伝試文」っていうのがおもしろかった、これは
「仮」があってさらに「試文」っていうんだから
随分持って回ったような題名だけど
いずれにせよ「往生」することがテーマさ
古井さんが「昔」書いたものの新装版

でもなかなか読み応えのあった内容でしたよ
久々に硬派の小説を読んだってところですか

エッセーともつかず小説ともつかず
人の死に様に関わる(生き様でもあると)
それをさまざまな人間模様として描いたんだな
作者が50歳頃にね
それが15年後にまた出版されたってこと
 「老いるということは、しだいに狂うことではないか。おもむろにやすらかに狂っていくのが
 本来、めでたい年の取り方ではないのか。」
なんてすごみがあるけど、滑稽な感じの表現があって
実におもしろかったよ

ところで「昔」っていつのころをさしているのかな
何だかつい1、2年前くらいのことまで
昔はさあなんて言っている人多くないか、最近

昔はそれこそ10年一昔って言ってたよね
だんだん昔の期間が短くなっているような気がしてさ
何だかみんなそうしてすべてを昔の事にして
死に急いでいる、っていうか生き急いでいるような気がしてならないんだけど

昔はむかしはって何だかもうじき往生する人のような口振りで
こうだった、ああだったって若い人までも言っている

ふとこの小説を読んでいてさ
僕等にとってはさ、今も昔もこれからも次第に混沌とした意識の中に
取り込まれていくような
そういうところにしかたなく身を置きつつ生きている・・・
何かさびしい思いになったね

でも死の現実は逃れられないんだから
せいぜい生きた証としての人生を全うしたいよね
それにしてもさ
作者が50歳のころに
こうしたさまざまな晩年を描いていたとはね
一度読んでみてよ、若い人にぜひ勧めるね
厚くて重い本だけど、その分、読み応えがあると思うから

注:本の写真は、二冊とも「アマゾン」からお借りしました。
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