ひたすら「日光御成道」=「県道65号線」を進みます。幸手方面に通じる、主要道として整備されています。
果樹園や畑地が広がっています。特に史跡もなく幸手の追分(「日光道中」との合流地点)に向かいます。
ガードレールに何かの絵柄が。?
カバが描かれているようです。
「備前堀川」。
(12:49)「東武伊勢崎線」の踏切を越えます。
旧和戸村に入り、「備前前堀川」、続いて「大落古利根川」を越します。
1880年代のようす。 現在のようす。
(12:57)渡った左手に大きな「古利根川治水」碑」があります。
大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)
埼玉県を流れる一級河川。利根川水系中川の支流で、流路延長は26.7キロメートル。江戸時代以前は利根川本流がこの河道を流れ東京湾へ注いでいた。
現在の起点は久喜市と杉戸町の境界にある葛西橋である。杉戸町・宮代町・春日部市・越谷市・松伏町の境界付近を流れ、中川に合流する。おおむね北葛飾郡市と南埼玉郡市の境界に沿っている。当川の起点には上流から葛西用水路が流れ込んでいる。当川の「大落」とは農業排水を落とす幹線排水路の意味である。大河の頃の名残で流域には発達した河畔砂丘や自然堤防が見られる。
当川(および上流の葛西用水路の一部)は江戸時代以前の利根川本流であり、利根川の主要分流である会の川と浅間川とが合流した地点(加須市川口)から南流し東京湾へ注いだ。当川の古い流路(最下流については隅田川)は、武蔵国と下総国(葛飾郡)の当初の境界だった。
最下流は葛飾区亀有付近で二つに分流し、江戸川区西葛西付近を河口に持つ東の河道は中川、葛飾区小菅・墨田区向島付近を通り現在の横十間川付近の河口へ向かう西の河道は隅田川と呼ばれた。両者の河口に挟まれて亀戸島があった。東京湾へ注ぐ分流量の比は近世にかけて後者から前者の河道へ移った。
文禄3年(1594年)に会の川の流頭が締め切られ、元和7年(1621年)に浅間川が久喜市佐間で南への流れが締め切られたため、当川の河道は利根川から切り離され古利根川と呼ばれるようになった。
1918年(大正7年)の開削工事で庄内古川下流が松伏町下赤岩(越谷市との境)付近で古利根川へ接続された。庄内古川および合流点から河口に至る旧古利根川河道は全て中川とされた。
(以上「Wikipedia」参照)
注:利根川が現在のように関宿から取手・佐原を流れて銚子沖の太平洋に流れたのは、承応3年(1654年)。今から360年ほど前のことで、それ以前は、会の川と大落古利根川が利根川の本流でした。
しかし、徳川家康の関東入府とともに、利根川をはじめとする河川の瀬替えや分離、統合等の事業が行われ、江戸へ通じる舟運路の整備や新田開発が積極的に進められました。利根川の流路の付け替え(利根川東遷事業)は文禄年間に始まったとされ、八甫(現鷲宮町)から南流していた利根川の本流は東へと流路を変えていきました。
約1000年前の利根川は、東京湾に流れこんでいた。
東遷が完成したときの利根川。
(この項、HPより)
通りの向かい側には「日光御成道」の大きな案内看板がありますが、ほとんど剥落しています。
この先は、「杉戸宿」の一角になります。
(13:06)しばらく進むと、右手に「下高野一里塚」が東塚のみ残っています。江戸日本橋から12里目(本郷追分から11里目)で、「日光御成道」最後の一里塚です。
解説板。
・・・この一里塚は下野田の一里塚より北東1里の地点に位置している。ここは古利根川の自然堤防となっており、その上に塚を設けたものである。もとは街道の両側に5間(9メートル)四方の大きさの塚があったが、大正時代初期、道路拡幅により西塚が消滅し、現在残っているのは東塚だけである。これらの塚上には松が植えられていた。・・・
この付近の今昔。
(13:22)しばらく進んだ道の左に二本だけ見事な松が残っています。
御成街道の松並木
・・・当時、この街道の両脇には、松をはじめ、杉、榎などが数多く植えられてあった。昭和30年頃は、まだ松並木として残っていたが、交通の発達や道路の拡幅に伴い、徐々に減りつづけ、今ではわずかに残る松が往時の面影を偲ばせる唯一のものになってしまった。
振り返って望む。
幸手市に入ります。
(13:35)「圏央道」の橋脚。
いよいよ「幸手追分」に近づきます。その手前には「道標」と「日光御成道と琵琶溜井」解説板。
琵琶溜井(びわためい)
埼玉県久喜市栗原4丁目・幸手市大字上高野、南2丁目の境界に所在する水利施設である。
1660年(万治3年)に伊奈忠克によって葛西用水路が整備されるとともに設けられたという溜井で、中郷用水路および南側用水路を分水している。琵琶溜井の水利施設は1962年(昭和37年)・2002年(平成14年)にそれぞれ改修工事が行われている。また琵琶溜井の水利施設内に葛西宮(久喜市栗原側)が祭られており、公園のように整備された空間(幸手市上高野側)も所在しているが、一般の人は通常この敷地の中に自由に立ち入ることはできない。
北方はかつて葛西用水路が二条の水路に分かれており、中央部に弁天島と称する島が存在していた。この弁天島の北半分は現在の久喜市青毛字本郷、南側は久喜市栗原字川原である。現在はこの葛西用水路の二条の水路のうち、東側の水路が埋め立てられ、埋め立てられた余剰地は主に畑などに利用されている。
すぐ東側を日光御成道(埼玉県道65号さいたま幸手線)が通過しており、街道の道標や青面金剛などが設置されている。
(以上「Wikipedia」参照)
・・・ダムのような施設で、その形が楽器の琵琶に似ていたことからその名が付けられました。溜めた水は、圦樋(いりひ)という水門から葛西用水、中郷用水、南側用水として分水され、その機能は今も変わりません。土地の人がここを「樋の上(ひのうえ)」と呼ぶのもそうした歴史にちなんでいます。(「解説板」より)
(13:42)その先が「幸手追分」。「ベルク」のところで日光道中と合流します。ここが「日光御成道」の終点。
右手から来る道が「日光道中」。
「日光御成道」を振り返る。
解説板。「日光道中・日光御成道合流点」。
以上で三日間の旅は終了。「日光道中」の時に立ち寄れなかった「石井酒造」に入ってしばらく試飲して、お酒を購入。
「冬単衣」。酸っぱ味が新鮮。
(13:52)東武線「幸手駅」に向かいました。一里塚や道標などがしっかりと残されているなど意外と往時を偲べる道でした。
○が「幸手追分」。左の道が「日光御成道」。中央の道が「日光道中」。
1880年代のようす。 現在のようす。ただし、「圏央道」開通以前。
「中山道」はこの時期、雪のため無理なので、春先までは「青梅街道」でも歩きますか!
果樹園や畑地が広がっています。特に史跡もなく幸手の追分(「日光道中」との合流地点)に向かいます。
ガードレールに何かの絵柄が。?
カバが描かれているようです。
「備前堀川」。
(12:49)「東武伊勢崎線」の踏切を越えます。
旧和戸村に入り、「備前前堀川」、続いて「大落古利根川」を越します。
1880年代のようす。 現在のようす。
(12:57)渡った左手に大きな「古利根川治水」碑」があります。
大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)
埼玉県を流れる一級河川。利根川水系中川の支流で、流路延長は26.7キロメートル。江戸時代以前は利根川本流がこの河道を流れ東京湾へ注いでいた。
現在の起点は久喜市と杉戸町の境界にある葛西橋である。杉戸町・宮代町・春日部市・越谷市・松伏町の境界付近を流れ、中川に合流する。おおむね北葛飾郡市と南埼玉郡市の境界に沿っている。当川の起点には上流から葛西用水路が流れ込んでいる。当川の「大落」とは農業排水を落とす幹線排水路の意味である。大河の頃の名残で流域には発達した河畔砂丘や自然堤防が見られる。
当川(および上流の葛西用水路の一部)は江戸時代以前の利根川本流であり、利根川の主要分流である会の川と浅間川とが合流した地点(加須市川口)から南流し東京湾へ注いだ。当川の古い流路(最下流については隅田川)は、武蔵国と下総国(葛飾郡)の当初の境界だった。
最下流は葛飾区亀有付近で二つに分流し、江戸川区西葛西付近を河口に持つ東の河道は中川、葛飾区小菅・墨田区向島付近を通り現在の横十間川付近の河口へ向かう西の河道は隅田川と呼ばれた。両者の河口に挟まれて亀戸島があった。東京湾へ注ぐ分流量の比は近世にかけて後者から前者の河道へ移った。
文禄3年(1594年)に会の川の流頭が締め切られ、元和7年(1621年)に浅間川が久喜市佐間で南への流れが締め切られたため、当川の河道は利根川から切り離され古利根川と呼ばれるようになった。
1918年(大正7年)の開削工事で庄内古川下流が松伏町下赤岩(越谷市との境)付近で古利根川へ接続された。庄内古川および合流点から河口に至る旧古利根川河道は全て中川とされた。
(以上「Wikipedia」参照)
注:利根川が現在のように関宿から取手・佐原を流れて銚子沖の太平洋に流れたのは、承応3年(1654年)。今から360年ほど前のことで、それ以前は、会の川と大落古利根川が利根川の本流でした。
しかし、徳川家康の関東入府とともに、利根川をはじめとする河川の瀬替えや分離、統合等の事業が行われ、江戸へ通じる舟運路の整備や新田開発が積極的に進められました。利根川の流路の付け替え(利根川東遷事業)は文禄年間に始まったとされ、八甫(現鷲宮町)から南流していた利根川の本流は東へと流路を変えていきました。
約1000年前の利根川は、東京湾に流れこんでいた。
東遷が完成したときの利根川。
(この項、HPより)
通りの向かい側には「日光御成道」の大きな案内看板がありますが、ほとんど剥落しています。
この先は、「杉戸宿」の一角になります。
(13:06)しばらく進むと、右手に「下高野一里塚」が東塚のみ残っています。江戸日本橋から12里目(本郷追分から11里目)で、「日光御成道」最後の一里塚です。
解説板。
・・・この一里塚は下野田の一里塚より北東1里の地点に位置している。ここは古利根川の自然堤防となっており、その上に塚を設けたものである。もとは街道の両側に5間(9メートル)四方の大きさの塚があったが、大正時代初期、道路拡幅により西塚が消滅し、現在残っているのは東塚だけである。これらの塚上には松が植えられていた。・・・
この付近の今昔。
(13:22)しばらく進んだ道の左に二本だけ見事な松が残っています。
御成街道の松並木
・・・当時、この街道の両脇には、松をはじめ、杉、榎などが数多く植えられてあった。昭和30年頃は、まだ松並木として残っていたが、交通の発達や道路の拡幅に伴い、徐々に減りつづけ、今ではわずかに残る松が往時の面影を偲ばせる唯一のものになってしまった。
振り返って望む。
幸手市に入ります。
(13:35)「圏央道」の橋脚。
いよいよ「幸手追分」に近づきます。その手前には「道標」と「日光御成道と琵琶溜井」解説板。
琵琶溜井(びわためい)
埼玉県久喜市栗原4丁目・幸手市大字上高野、南2丁目の境界に所在する水利施設である。
1660年(万治3年)に伊奈忠克によって葛西用水路が整備されるとともに設けられたという溜井で、中郷用水路および南側用水路を分水している。琵琶溜井の水利施設は1962年(昭和37年)・2002年(平成14年)にそれぞれ改修工事が行われている。また琵琶溜井の水利施設内に葛西宮(久喜市栗原側)が祭られており、公園のように整備された空間(幸手市上高野側)も所在しているが、一般の人は通常この敷地の中に自由に立ち入ることはできない。
北方はかつて葛西用水路が二条の水路に分かれており、中央部に弁天島と称する島が存在していた。この弁天島の北半分は現在の久喜市青毛字本郷、南側は久喜市栗原字川原である。現在はこの葛西用水路の二条の水路のうち、東側の水路が埋め立てられ、埋め立てられた余剰地は主に畑などに利用されている。
すぐ東側を日光御成道(埼玉県道65号さいたま幸手線)が通過しており、街道の道標や青面金剛などが設置されている。
(以上「Wikipedia」参照)
・・・ダムのような施設で、その形が楽器の琵琶に似ていたことからその名が付けられました。溜めた水は、圦樋(いりひ)という水門から葛西用水、中郷用水、南側用水として分水され、その機能は今も変わりません。土地の人がここを「樋の上(ひのうえ)」と呼ぶのもそうした歴史にちなんでいます。(「解説板」より)
(13:42)その先が「幸手追分」。「ベルク」のところで日光道中と合流します。ここが「日光御成道」の終点。
右手から来る道が「日光道中」。
「日光御成道」を振り返る。
解説板。「日光道中・日光御成道合流点」。
以上で三日間の旅は終了。「日光道中」の時に立ち寄れなかった「石井酒造」に入ってしばらく試飲して、お酒を購入。
「冬単衣」。酸っぱ味が新鮮。
(13:52)東武線「幸手駅」に向かいました。一里塚や道標などがしっかりと残されているなど意外と往時を偲べる道でした。
○が「幸手追分」。左の道が「日光御成道」。中央の道が「日光道中」。
1880年代のようす。 現在のようす。ただし、「圏央道」開通以前。
「中山道」はこの時期、雪のため無理なので、春先までは「青梅街道」でも歩きますか!