おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

岩槻宿~幸手追分。その3。(日光御成道。第3日目)

2018-02-07 20:05:28 | 日光御成街道
 ひたすら「日光御成道」=「県道65号線」を進みます。幸手方面に通じる、主要道として整備されています。

果樹園や畑地が広がっています。特に史跡もなく幸手の追分(「日光道中」との合流地点)に向かいます。


                 

ガードレールに何かの絵柄が。

カバが描かれているようです。

「備前堀川」。 

(12:49)「東武伊勢崎線」の踏切を越えます。

旧和戸村に入り、「備前前堀川」、続いて「大落古利根川」を越します。


                   

  
  
1880年代のようす。                 現在のようす。

(12:57)渡った左手に大きな「古利根川治水」碑」があります。


大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)
 埼玉県を流れる一級河川。利根川水系中川の支流で、流路延長は26.7キロメートル。江戸時代以前は利根川本流がこの河道を流れ東京湾へ注いでいた。
 現在の起点は久喜市と杉戸町の境界にある葛西橋である。杉戸町・宮代町・春日部市・越谷市・松伏町の境界付近を流れ、中川に合流する。おおむね北葛飾郡市と南埼玉郡市の境界に沿っている。当川の起点には上流から葛西用水路が流れ込んでいる。当川の「大落」とは農業排水を落とす幹線排水路の意味である。大河の頃の名残で流域には発達した河畔砂丘や自然堤防が見られる。
 当川(および上流の葛西用水路の一部)は江戸時代以前の利根川本流であり、利根川の主要分流である会の川と浅間川とが合流した地点(加須市川口)から南流し東京湾へ注いだ。当川の古い流路(最下流については隅田川)は、武蔵国と下総国(葛飾郡)の当初の境界だった。
 最下流は葛飾区亀有付近で二つに分流し、江戸川区西葛西付近を河口に持つ東の河道は中川、葛飾区小菅・墨田区向島付近を通り現在の横十間川付近の河口へ向かう西の河道は隅田川と呼ばれた。両者の河口に挟まれて亀戸島があった。東京湾へ注ぐ分流量の比は近世にかけて後者から前者の河道へ移った。
 文禄3年(1594年)に会の川の流頭が締め切られ、元和7年(1621年)に浅間川が久喜市佐間で南への流れが締め切られたため、当川の河道は利根川から切り離され古利根川と呼ばれるようになった。
 1918年(大正7年)の開削工事で庄内古川下流が松伏町下赤岩(越谷市との境)付近で古利根川へ接続された。庄内古川および合流点から河口に至る旧古利根川河道は全て中川とされた。

(以上「Wikipedia」参照)

注:利根川が現在のように関宿から取手・佐原を流れて銚子沖の太平洋に流れたのは、承応3年(1654年)。今から360年ほど前のことで、それ以前は、会の川と大落古利根川が利根川の本流でした。
 しかし、徳川家康の関東入府とともに、利根川をはじめとする河川の瀬替えや分離、統合等の事業が行われ、江戸へ通じる舟運路の整備や新田開発が積極的に進められました。利根川の流路の付け替え(利根川東遷事業)は文禄年間に始まったとされ、八甫(現鷲宮町)から南流していた利根川の本流は東へと流路を変えていきました。



約1000年前の利根川は、東京湾に流れこんでいた。

東遷が完成したときの利根川。

(この項、HPより)

 通りの向かい側には「日光御成道」の大きな案内看板がありますが、ほとんど剥落しています。


この先は、「杉戸宿」の一角になります。

 (13:06)しばらく進むと、右手に「下高野一里塚」が東塚のみ残っています。江戸日本橋から12里目(本郷追分から11里目)で、「日光御成道」最後の一里塚です。
 

解説板。
・・・この一里塚は下野田の一里塚より北東1里の地点に位置している。ここは古利根川の自然堤防となっており、その上に塚を設けたものである。もとは街道の両側に5間(9メートル)四方の大きさの塚があったが、大正時代初期、道路拡幅により西塚が消滅し、現在残っているのは東塚だけである。これらの塚上には松が植えられていた。・・・

                 



この付近の今昔。
  
  

 (13:22)しばらく進んだ道の左に二本だけ見事な松が残っています。
  

 
御成街道の松並木
 ・・・当時、この街道の両脇には、松をはじめ、杉、榎などが数多く植えられてあった。昭和30年頃は、まだ松並木として残っていたが、交通の発達や道路の拡幅に伴い、徐々に減りつづけ、今ではわずかに残る松が往時の面影を偲ばせる唯一のものになってしまった。


振り返って望む。

幸手市に入ります。

(13:35)「圏央道」の橋脚。

いよいよ「幸手追分」に近づきます。その手前には「道標」と「日光御成道と琵琶溜井」解説板。

琵琶溜井(びわためい)
 埼玉県久喜市栗原4丁目・幸手市大字上高野、南2丁目の境界に所在する水利施設である。
 1660年(万治3年)に伊奈忠克によって葛西用水路が整備されるとともに設けられたという溜井で、中郷用水路および南側用水路を分水している。琵琶溜井の水利施設は1962年(昭和37年)・2002年(平成14年)にそれぞれ改修工事が行われている。また琵琶溜井の水利施設内に葛西宮(久喜市栗原側)が祭られており、公園のように整備された空間(幸手市上高野側)も所在しているが、一般の人は通常この敷地の中に自由に立ち入ることはできない。
 北方はかつて葛西用水路が二条の水路に分かれており、中央部に弁天島と称する島が存在していた。この弁天島の北半分は現在の久喜市青毛字本郷、南側は久喜市栗原字川原である。現在はこの葛西用水路の二条の水路のうち、東側の水路が埋め立てられ、埋め立てられた余剰地は主に畑などに利用されている。
 すぐ東側を日光御成道(埼玉県道65号さいたま幸手線)が通過しており、街道の道標や青面金剛などが設置されている。

(以上「Wikipedia」参照)

 ・・・ダムのような施設で、その形が楽器の琵琶に似ていたことからその名が付けられました。溜めた水は、圦樋(いりひ)という水門から葛西用水、中郷用水、南側用水として分水され、その機能は今も変わりません。土地の人がここを「樋の上(ひのうえ)」と呼ぶのもそうした歴史にちなんでいます。(「解説板」より)

 (13:42)その先が「幸手追分」。「ベルク」のところで日光道中と合流します。ここが「日光御成道」の終点。
 
       右手から来る道が「日光道中」。

「日光御成道」を振り返る。

解説板。日光道中・日光御成道合流点」。

                

 以上で三日間の旅は終了。「日光道中」の時に立ち寄れなかった「石井酒造」に入ってしばらく試飲して、お酒を購入。


              「冬単衣」。酸っぱ味が新鮮。

(13:52)東武線「幸手駅」に向かいました。一里塚や道標などがしっかりと残されているなど意外と往時を偲べる道でした。
○が「幸手追分」。左の道が「日光御成道」。中央の道が「日光道中」。
  
  
1880年代のようす。                現在のようす。ただし、「圏央道」開通以前。

 「中山道」はこの時期、雪のため無理なので、春先までは「青梅街道」でも歩きますか!
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岩槻宿~幸手追分。その2。(日光御成道。第3日目)

2018-02-06 22:57:55 | 日光御成街道

 かつて、旧道沿いには松か杉の並木が続いていたようですが、現在は?
  
  
  
1880年代のようす。                   現在のようす。




 「岩槻工業団地入口」交差点の右の角には、
(10:15)石橋供養塔。

ありました! 松の木が。一本だけすくっと立っています。
 

 (10:42) その先には、日光御成道で唯一残された「杉並木」があります。
 

 その手前に「一里塚」跡があるとのことで戻ってみましたが、見当たらず。ただ、塀の一角に石が積みされたところがあります。これでしょうか?
 
 特に解説板などなし。ここだとすれば、江戸日本橋から10里目(本郷追分から9里目)となります。
杉並木を振り返る。

しばらく進むと、「宝国寺」。ここからの富士の眺望はすばらしかった、とのこと。駐車場の中を進んで林間から、西を望む。


     晴れていれば眺望は、良。

ここにもポツンと。

その先には、見事なケヤキ。
 
(11:21)「白岡市」に入ります。

かつての堀河が遊歩道に。

「ひこべえの森」?

ひこべえの森
この森は彦兵衛下小笠原遺跡の一部に位置し、同遺跡の西縁が上小笠原遺跡と接しており、二遺跡に囲まれた樹齢100年のけやき等のある樹林です。
(「白岡市観光協会」HPより)

「隼人堀川」に架かる「往還橋」。

「県道65号線」をひたすら進みます。
 



                        

 (12:02)「姫宮落川」を越えると、その先に「下野田の一里塚」が見えてきます。東西両塚が残っています。


 

                   解説板。
埼玉県指定史跡。
江戸日本橋から11里目(本郷追分から10里目)となります。

「日光御成道」を望む。

                       

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岩槻宿~幸手追分。その1。(日光御成道。第3日目)

2018-02-05 19:46:57 | 日光御成街道
                                     (9:30)岩槻宿。

 久々の「日光御成道」。いよいよ最終日。2月3日(土)。薄曇り。

「東玉大正館 (旧中井銀行岩槻支店)」。
 「中井銀行岩槻支店」として大正時代後期に建築された、煉瓦造2階建ての洋館建築です。建物正面を3分割し、上部を半円アーチ型で飾る入口を中心に、左右に窓を対象に配置する大正時代の中小規模銀行の典型的な事例です。壁面は腰壁を石貼りとし、その上を煉瓦タイルとモルタルで仕上げ、1階の背面には、金庫室が張り出しています。また、屋根は寄棟の瓦葺で、内部は三角形の骨組を基本とするトラスの小屋組みとなっています。

HPより)
 なお、この建物付近に旧本陣があったようです。
 
 先日の雪がまだまだ残っている街を進みます。要所要所に宿場時代の旧町名が記されています。
 「久保宿」。

足下には岩槻宿にちなんだタイル絵。「綾瀬川思い出かたるしじみ取り」。

商家。

(9:37)「日光御成道一里塚跡」碑。
 ・・・日光御成道が通っていた岩槻でも、桜久保、岩槻城下久保宿町、相野原(現存、県指定史跡)の三ヶ所に一里塚が設けられていました。その内の岩槻城下久保宿町の一里塚は、現在の岩槻市役所前のあたりに設けられていました。

 江戸日本橋より9里目、本郷追分から8里目。

旧岩槻市役所庁舎は解体され、工事中。

旧家。所々にかつての古い建物が残っています。

      
 その先、「日光御成道」は、渋江交差点を左折して、県道65号さいたま幸手線にはいります。○が渋江交差点。
  
  
1880年代のようす。                 現在のようす。

 

「田中町」。

 東武野田線を越し、次第に北へと向かいます。
(9:55)「出口町」。岩槻宿の北口で、番所と門があったようです。

         

(10:05)「人間総合科学大学」を過ぎ、「元荒川」を「慈恩寺橋」で越えます。「慈恩寺」自体は、まだまだ先。


 明治中期まで「元荒川」の流路は大きく南方へ蛇行していたようで、この大学の先で川を渡っていました。現在の緑地がかつての流路跡。
  
  
  
  
1880年代のようす。                 現在のようす。

 

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鳩ヶ谷宿~大門宿~岩槻宿。その6。(「日光御成道」第2日目)

2018-01-20 21:26:01 | 日光御成街道
                             「市宿通り 昔の町屋」。
 

「市宿通り観光案内図」。

こんなモニュメントも。

ところどころにこんな建物も。

自販機も何だか「高札場」風のつくり。

(15:12)「日光御成道岩槻藩高札場」。

高札場と市宿通り」。
 江戸時代に幕府や岩槻藩が定めた犯罪手配・火災防止等を木札に書き高く掲げ庶民に知らせるために人の集まる道辻・船乗り場・宿場に設けられた広報板です。
 田追えば生類憐み令・渡来銭通用禁止令・享保の改革の贅沢禁止令・キリシタン禁止令がありました。
 市宿通りの新町横町辻にも高札場がありました。現在、日本橋品川河岸・木曾街道馬籠宿・妻籠宿・倉賀野・甲州街道府中などにあります。
 市場通りは、徳川将軍が日光東照宮を社参した日光御成道で、六斎市(一と六の日)の発祥地として市が開かれ、当時は大変賑わいました。近くには八雲神社(市神様)が鎮座されています。
 問屋場とは
 旅人の荷物を次の宿場まで運ぶ場所で、通信業務(伝馬制)があるため馬役人を揃えた場所です。経費は、門口より地元で費用負担し不足の時は、補うための助郷制がありました。

 市宿通り道路整備協議会 平成25年吉日

街並みも宿場・街道を意識した建物が目立ちます。

           



裏手には土蔵造りの建物も。

人形のまちいわつき」。
岩槻市の由来
 岩槻市は埼玉県東部のほぼ中央に位置しており、元荒川と綾瀬川にはさまれた岩槻台地を中心に発展した街です。
 当地には室町時代の終わり頃に扇谷上杉家の命に従い太田道灌等によって岩槻城が築かれてからは、その城下町として発展し、江戸時代には日光御成道のとしても栄え、武蔵国東部地域の経済の中心となりました。・・・
 城下町のたたずまいを残す自然豊かな都市として発展しております。
 当市の地場産業である岩槻人形は、江戸時代頃から起こり、現在その生産量は日本有数の位置を占め、「人形のまち いわつき」として全国にその名を知られています 

注:岩槻市は、2005年(平成17年)4月1日にさいたま市に編入。現在は、全域、「さいたま市岩槻区」

人形の町 岩槻
 ・・・もともとこの付近は、上質の桐の生産地として有名。それに加えて胡粉の溶解と発色に適した水が豊富にあったことなどから江戸期以来、人形作りが盛んに行われてきました。
 現在、岩槻には東玉を筆頭に500軒余の人形工房があり、名実ともに日本一の人形の町となっています。

 次回に「岩槻宿」を見て回ることにして、東武線「岩槻駅」に向かいました。
(15:20)

   
   
現在のようす。左上が東武野田線・岩槻駅。      1880年代のようす。街道は斜めに進む道。
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鳩ヶ谷宿~大門宿~岩槻宿。その5。(「日光御成道」第2日目)

2018-01-18 20:38:33 | 日光御成街道

春の訪れを期待するような桃の花?

岩槻宿への道のり。



右の道を進みます。

(14:38)その手前の草むらに道標。 
 摩滅していて判読不能。先達の記録によると、「従是南 江戸道・川口善光寺道、従是北 岩槻道・慈恩寺道、従是西 原市道」等と刻まれているそうです。 

「深作川」。この先で「綾瀬川」に合流する川。

(14:45)「国道16号線」を「新簀子橋」信号のところで横断し、その先で「綾瀬川」に架かる「大橋」を渡ります。


       「綾瀬川」。岩槻と江戸を結ぶ船運がありました。


1880年代のようす。かなり蛇行している綾瀬川。


現在のようす。河川改修によって大変化しています。中央、南北の道が「日光御成道」。

(14:48)「セブンイレブン」の先を左折して旧道へ。

 
(14:51)東武野田線の踏切を渡ります。その手前の自治町会集会所には「加倉坂下」とあります。

カーブの頂点付近。

                  

 その先、橋脚などの道路工事中のため、そのまま野田線の踏切を渡り返します。本来の旧道には行けませんでした。


                    「岩槻駅」方向。 

この道が旧道。 

(15:00)「人形のまち いわつき わらべ人形像」。




1880年代のようす。逆U字の道になっています。「新河岸」という地名に注目。「綾瀬川」の対岸の土手(自然堤防)伝い?



 現在のようす。道筋の東部分が「東武野田線」、「東北自動車道」によって寸断されています。
 逆U字型だった旧道は明治中期以降、現在のように上図の「金比羅坂」付近を直線で進むようになりました。
 なお、「わらべ人形像」は、旧道と新道との合流点、◎のところにあります。

 「人形の町」。
           ひな人形がたくさん展示されています。

 
                          「東久 人形歴史館」。
埼玉県の人形の歴史」。
 岩槻の人形の歴史は、寛永13年、伏見の人形師が日光から江戸に向かう途中、岩槻にとどまったのを始まりとする説、また 元禄年間に京の仏師が病から岩槻に定住し、人形の頭を作ったのが始まりとも伝えられています。
 いずれにしても、古くは江戸時代より、江戸に通ずる街道を往来する旅人に親しまれ、幕末の人形作りの名人によって、岩槻人形の名は全国に知られるようになりました。
 以来、埼玉県は全国でも有数な人形の産地としてさまざまな人形が作られています。土呂で作られた土雛や室町雛を改良した裃雛、やまと人形、木目込み人形など、高度な技術を する作品も数多く見られます。
 岩槻を中心に熊谷、越谷、鴻巣等、埼玉県で製造される日本人形の種類の豊富さは、他の産地では見られないことです。

 この先の通りが旧宿場の中心街になります。
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鳩ヶ谷宿~大門宿~岩槻宿。その4。(「日光御成道」第2日目)

2018-01-17 18:56:24 | 日光御成街道
                        (12:40)「東北自動車道」を越え、「鶴巻陸橋(西)」交差点を越していきます。


台地の上を進みます。

 

 お腹も空いてきたので、ラーメン屋さん「一代元」で、昼食。(13:26)再開。

緩やかな「天久保坂」。

(13:31)その先、左手には「さぎ山記念公園」。ちょっと立ち寄ります。奥には「見沼自然公園」が隣接されています。


              

「さぎ山記念公園」付近の今昔
   
   
1880年代のようす。            現在のようす。上方、大きく左に曲がる道が「日光御成道」。



                     
さぎ山記念公園
 埼玉県さいたま市緑区にある公園・緑地である。見沼代用水東縁を挟んで見沼自然公園と隣接する。
 周辺にはかつて特別天然記念物指定されていた野田のさぎ山があった。
 江戸時代以降、野田の見沼周辺の斜面の森林にサギが棲みつくようになり、野田のサギ山として知られていた。そしてサギの生息地が1938年(昭和13年)に天然記念物に指定され、1952年(昭和27年)に「野田のサギおよびその繁殖地」として特別天然記念物に指定されていた。しかし、その後サギが営巣しなくなったことから1984年(昭和59年)に指定解除された。
 このサギ山を記念し、名前が永久に残るように当時の浦和市が公園として整備することに決定し、1986年(昭和61年)5月に開園した。 公園面積は4.5ヘクタールあり、キャンプ場も整備されている。さぎ山記念館には展示室などがある。
                                        (以上、「Wikipedia」参照)
「見沼自然公園」については参照。


利根川東遷によって、水資源を失った地域にあった「ため池」(「見沼」など)の代わりに利根川から取水して農業用水とするため施工されました。

地域としては

この「見沼代用水」建設に当たっては、土木上、大変興味深い仕組みが施されていました。
伏越(ふせこし)=川底より下に木造の水路を作り、水をくぐらせて流した。

掛渡井=( かけとい )水路の上に橋を架け渡し、水を通した。

 先に進みます。
沿道にある見事な竹林。

先ほどと違って、歩道もあって心配なく歩けます。

広々とした景観。

道の奥には立派な門構えのおうち。

「光徳寺」の竹林。

(14:05)その先に「膝子一里塚」東塚が残されています。

 
・・・江戸から8里、岩槻へ1里の日光御成道上にあります(本郷追分より7里目)。当時は、道路の両側に塚を築き、塚上に榎が植えられていました。現在は、明治初年に西側が散り払われたため、東側の塚のみ残ります。この塚も道路改修などで築造当時よりも小さくなり、榎も2代目が植えられています。・・・

左手に「見沼代用水」が近づいてきます。

                  

「用水」沿いにある「筆塚」。              

    
1880年代のようす。               現在のようす。中央上方、右手の橋付近に「筆塚」。

「七里中学校」のところで県道は左に大きく曲がっていきますが、旧道はそのまま直進します。


注:「七里」の名はさっきの本郷追分から7里目の「一里塚」に由来するのかと思ったら、そうではなくて、膝子・東宮下・猿ケ谷戸・風渡・野・新堤・東門前の7ヵ村が合併してできたことを表して「七里村」と命名されたことによるようです。読み方も「ななさと」。
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鳩ヶ谷宿~大門宿~岩槻宿。その3。(「日光御成道」第2日目)

2018-01-16 21:43:00 | 日光御成街道
                      (12:16)「大門小学校」入口交差点で国道463号線に合流し、左折します。

来た道(右手)を振り返って望む。

その交差点の案内表示がユニーク。
                            R7 800m、R6 900m。その上に「月 384400㎞」とあります。

 この通り沿いが「大門宿」。宿場町らしい街並み。


                      

大門宿(だいもんじゅく)
 日光御成道の宿場町。現在の埼玉県さいたま市緑区大門に位置する。
 大門宿は、当初、鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)に沿ってできた集落で、中世には市が開かれた。中世の幹線で奥州街道(おうしゅうかいどう)、奥大道(おくだいどう)などとも呼ばれていた。戦国時代の末には人馬の継立など、宿場として機能していったという。
 正式に日光御成道の宿場町となった時期ははっきりしていない。寛文6年(1666年)には隣接する鳩ヶ谷宿・岩槻宿までの公定運賃の記録が残されているという。また、天和2年(1682年)、御成道の宿場に組入れられ、駄賃高札が交付された。
 大門宿は元禄13年(1700年)、岩槻藩領から幕府領に編成替えとなった際宿場に認定され、会田平左衛門が本陣・問屋を任ぜられた。
 日光御成街道の起点の本郷追分から岩淵宿、川口宿(岩淵宿・川口宿は合宿として一つに数える)、鳩ヶ谷宿と北上して3番目、江戸から6里19町(約26㎞)の宿場町である。
 『日光御成道宿村大概帳』によると、大門宿は天保14年(1843年に、1137石高、街並7町23間、本陣1軒・脇本陣1軒、旅籠6軒、問屋場1ヶ所、戸数180軒、人口896人であったという。
 大門宿本陣は江戸時代1694年に建造され、母屋は昭和35年に消失しているが、表門は埼玉県指定史跡となった。また1775年に建造された脇本陣表門が、浦和市より市指定有形文化財に指定された。
 大門宿のエリアは、平成の大合併を経てさいたま市緑区に属するようになった。さいたま市の副都心として浦和美園地区の区画整理や拠点整備が進み、町の中心は大門エリアから徐々に浦和美園駅周辺に移りつつある。
 日光社参を再現した「日光御成街道 美園 大門宿まつり」が開催されている。

                                  (以上、「Wikipedia」参照。)

(12;25)
               元禄7年(1694年)創建の本陣表門(茅葺き長屋門)。

 
大門宿本陣表門
 ・・・大門宿の本陣がこの場所にあった。大門宿の中央、街道の北側にあたる。現在、正面の入口の表門が保存されている。
 この表門は、門扉の両側に部屋が付属する長屋門形式である。寄棟造り、茅葺きで間口16.31m、奥行き4.58mである。元禄7年(1694)に建立され、文政7年(1824)に修理された。
 将軍家の日光社参は19回行われた。将軍家が岩槻城(岩槻区)に宿泊する際、大門宿には供奉する幕臣が分宿した。第10代将軍徳川家治の安永5年(1776)の日光社参では、本陣に伊予松山(愛媛県松山市)城主松平定静が、脇本陣には播磨姫路(兵庫県姫路市)城主の酒井忠以が宿泊した記録がある。
 なお、大門宿の本陣は会田家が勤めていた。会田家は、本陣の他に宿の問屋や大門町の名主、紀伊徳川家鷹場の鳥見役なども勤めていた。

堂々とした茅葺きの屋根。

日光街道案内図。

裏手に回ると広大な敷地が残されています。

路地を挟んだおうちには太い竹筒で作った長い垣根。

こちらのおうちは長屋門の現代風仕立て。

その先、左手には安永5年(1776年)創建とされる脇本陣表門が建造された当時のまま現存しています。


                        
大門宿脇本陣表門
 ・・・この表門は、寄棟造り、茅葺きで「立隠れ」(門構えが半間引っ込む)、くぐり戸のある長屋門です。間口16.00メートル、奥行き4.60メートルと、ほぼ本陣表門と同規模ですが、本陣の壁が大壁で縦格子付きの番所があるのに対し、ここは真壁で番所がなく、窓は横に菱子が走るなど、本陣に比べるとやや簡略化されています。
 この表門の建立年代は明らかになっていませんが、安永5年(1776)の徳川家治(10代将軍)の日光社参に合わせて建てられたものと考えられています。この時に、しんがりを勤めた姫路城主酒井忠以が往路ここに宿泊をし、帰路には磐城平城主安藤信成がここで休止をしました。
 なお、当時の記録には、「西御本陣」「西本陣」などと記されています。
 この門は、本陣表門とともに、大門宿の往時の姿を伝える遺構として、大変貴重なものです。

 こちらも茅葺きの寄せ棟造り。


                        

 (12:35)宿の外れに「大興寺」があり、その先で旧道は「東北自動車道」で分断されています。


「東北自動車道」(東京方向を望む)。

「浦和料金所」方向。



1880年代のようす。宿の外れにある「大興寺」は現在もそのままの位置にあります。


現在のようす。大門宿は「東北自動車道」建設から免れたようです。北西へ向かう斜めの道が現在の大門宿通り。
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鳩ヶ谷宿~大門宿~岩槻宿。その2。(「日光御成道」第2日目)

2018-01-15 23:18:07 | 日光御成街道
                                  坂上から振り返って宿内を望む。


                          旧家。

「市場杭跡」。

 写真、図解入りの解説板が各所にあり、楽しませてくれます。地元の「鳩ヶ谷宿」への愛着、保存精神に感動!
「高札場跡」。

三八市の市場杭跡」。
 江戸時代中頃から、鳩ヶ谷宿では毎月3と8がつく日の月に6回の市が立ちました。
 市の日には、近在から雑穀・土物・青物・飼葉・茶・藁灰などの出店が並び大変賑わう有名な市で、明治時代以降も出店が550軒以上も並ぶ盛況を極め、宿内に4本あった市場杭は、市の開催日毎に出店できる範囲を示していました。
 昭和20年代から流通事情の変化から、徐々に姿を消しましたが、往時を偲ぶように、今も右前方に三八市の神を祀る市神社(いちがみしゃ)が鎮座しています。

「鳩ヶ谷宿」の街並み。

「←鳩ヶ谷宿 浦寺村→」境界線。

街道沿いに残る商家。

(10:39)道標。「右 古しがや道」。

「日光御成道・鳩ヶ谷宿」。

                「越谷」への道。

  
1880年代のようす。                現在のようす。

街道は、関東ローム層(赤土)による台地上を進みます。

(10:49)「新井宿(西)」交差点。

この付近には園芸農家がたくさん。

  

(11:06)「東京外環自動車道」を歩道橋で越えます。

この付近の今昔。
  
  
1880年代のようす。              現在のようす。東京外環自動車道。

 この先、道幅が狭く、商店や民家、さらに民家の垣根が道路にぴったり植えられています。そのためか、歩道はまったくありません。その道を幹線道路の抜け道になっているのでしょうか、たくさんの車(大型ダンプ含む)が歩行者・自転車すれすれに(それもかなりのスピードで)通り過ぎます。けっこう恐い歩きに。皆さんもお気をつけて。


 沿道にはこういう雑木林なども残されています。
 

(11:36)車に神経を使って進むと、「一里塚ポケットパーク」が交差点右手の角に。ホッとします。


 
・・・この場所は「戸塚の一里塚」と呼ばれ、日本橋から6ヶ所目にあたり、道の東側に松、西側に榎が塚の上に植えられていました。また、この道は徳川将軍家が日光社参の際に利用したため、日光御成道と称されております。日光社参の行程は江戸城大手門から岩槻、古河、宇都宮を経て日光までの行程36里3町2間(約147.㎞)を片道3泊4日で、往復8泊9日をかけて実施されました。

来た道を振り返って望む。

(11:59)その先でJR武蔵野線を越えます。右手に「東川口駅」。

 この付近からは、台地の縁を進んでいきます。右手が大きく開けてきます。今は、住宅などが建ち並び、景観は少し狭まりますが、かつては見晴らしのよい道筋だったと思われます。
「東川口駅」方向。



                     

   
   
   
1880年代のようす。街道の東側は田畑が続く。     現在のようす。住宅地となっています。斜めの線が武蔵野線。

      
   
 西側は台地上になっていて、現在も樹木栽培などの畑が多くあります。

 街道は、次の「大門宿」に向かいます。

注:「日光御成道」記事中の、今昔のようす比較のための地図・写真は、
歴史的農業閲覧システム」HP http://habs.dc.affrc.go.jp/
を引用させていただいています。
 このHPは、明治初期から中期にかけて関東地方を対象に作成された「迅速測図」と、現在の道路、河川、土地利用図とを比較することにより、農村を取り巻く環境の歴史的な変化が閲覧できます。大変参考になります。
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鳩ヶ谷宿~大門宿~岩槻宿。その1。(「日光御成道」第2日目)

2018-01-13 20:26:40 | 日光御成街道
                                  「鳩ヶ谷三ツ和歩道橋」からの右手・「日光御成道」

 「日光御成道」歩きも第2日目。1月6日(土)。快晴。
 前回の終了地点まで「赤羽駅」から路線バスでやってきました。「鳩ヶ谷変電所前」交差点から「岩槻街道(国道122号線)」と分かれ、右に入っていきます。

(10:14)大きな「ここから北 日光御成道・鳩ヶ谷宿」碑。

「辻村と鳩ヶ谷宿」の境界標。

さっそく、りっぱな旧宅。


                      

 「蕨道 中山道・蕨宿へ向かう道」。
 

「鳩ヶ谷宿」に入ると、解説版が適所に設置されています。 

宿内のようす。

 (10:21)「見沼代用水」に架かる「吹上橋」を渡ると、宿場の中心街に。
  

日光御成道と鳩ヶ谷宿
 現在地は、鳩ヶ谷宿の下宿で、左の吹上橋を渡って坂を上ると宿の中心・中宿です。
 日光御成道の前身は、鎌倉時代の鳩ヶ谷を通り奥州へ向かう幹線道路の鎌倉中道です。慶長5年(1600)に、徳川家康は会津の上杉景勝を攻めようとこの中道を北上して鳩ヶ谷に泊まり、小山(おやま)に至った時、石田三成の挙兵を知りました。すぐさま引き返して関ヶ原の戦いで勝利し、江戸幕府を開きました。家康は遺言により日光東照宮に祀られましたが、間もなく、将軍家は、この道を縁起のよい道として整備し鳩ヶ谷宿もできました。以来、将軍が日光社参に利用したので、その名があります。・・・
 その宿場町・鳩ヶ谷宿は、江戸から4里30町(約19㎞)にあり、北から上・中・下の宿に分かれた家並みは4枚20間(470m)、天明6年(1786)の記録では、家198軒・人口821人でした。
 鳩ヶ谷宿は、周辺の商業や文化の中心地として栄え、特に江戸時代の中頃に始まった三八市は、出店が並びたいそう賑わい、市の神を祀る市神社は、今も、当時の面影を伝えています。また、旅人のための榎を植えた一里塚が、吹上橋の北袂の両側にありました。
 この前方の坂を上がった宿の中心地・中宿にあたる本町商店街は、江戸時代の町割りをほぼ残しています。

昔の「見沼代用水」の写真。

見沼代用水(みぬまだいようすい)
 江戸時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために、武蔵国に普請した灌漑農業用水。灌漑用溜池であった見沼溜井の代替用水路であった。流路は、現在の埼玉県行田市付近の利根川より取水され、東縁代用水路は東京都足立区、西縁代用水路は埼玉県さいたま市南区に至る。
埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称されている。

 ・・・
 徳川吉宗が8代将軍として紀州藩から江戸に入ると享保の改革が始まった。幕府の財政建て直しのための増収策として、1722年(享保7年)に新田開発奨励策が示され、新田開発が本格化した。幕府のお膝元であった武蔵国でも新田の開発が活発化した。武蔵国の東部、現在のさいたま市東部辺りにあった見沼溜井を始め、多くの灌漑用の溜井が存在したが、ここを新田として開拓することが決められた。また代用水の代わりとなる農業用水を利根川から供給することになった。吉宗に従い紀州藩士から幕臣になり、勘定吟味役格の職が与えられた井沢弥惣兵衛為永に対して、1725年(享保10年)に見沼溜井の干拓と代用水建設が命じられた。
 代用水の建設は、文字通り見沼溜井の代替となる水路の建設であったが、同時に見沼以外の用水路流域周辺の沼地を干拓する壮大な計画であった。井沢弥惣兵衛は周囲を調査し、利根川や荒川の治水も考慮して埼玉郡(さきたまぐん)から足立郡を抜ける約80km(20里)の幹水路に加え、高沼用水路などの分流路も多数開削することで、流域周囲の沼地を干拓した後の水源とすることを計画し、測量後、1727年(享保12年)9月から水路の開削が始まった。
 東縁代用水路は、見沼のあった東側の台地(岩槻台地)を沿うように東側へ進み、八丁堤まで達した。ここから、旧来の見沼溜井に接続されていた谷古田、舎人などへの農業水路に接続された。
西縁代用水路は、東縁同様に見沼のあった西側の台地(大宮台地)を沿うように南下し、八丁堤まで達した。ここから旧来の見沼溜井に接続されていた浦和、戸田、笹目などの領地を灌漑する水路へ付け替えられた。
 ・・・これだけの大規模工事にもかかわらず、用水路の完成は着工から約5ヶ月後の1728年2月で、3月には利根川より水を流し込み用水路の利用が始まっている。建設に関わった作業者は延べ90万人といわれ、幕府の支出した工事費用は賃金が約1万5000両、工作物が5000両で総額約2万両に達した。しかし、見沼溜井跡地に新田として1175町歩(約1160ha)が打ち出され、毎年5000石弱の年貢米が幕府の蔵に納められるようになった。
 見沼用水路は、水田等の灌漑目的であったが、年貢米などを江戸に運ぶ水路としても有用であった。1730年に、新田の打ち出しに貢献があった鈴木家および高田家の願い出により、水運利用が許可された(参考、見沼通船)。しかし、用水路は江戸まで直接つながっていない為、代用水と芝川を結ぶ運河である見沼通船堀が、1731年にやはり井沢弥惣兵衛の手によって作られている。代用水と芝川との高度差は3mもあるため、パナマ運河と同じ閘門式運河で作られた。見沼通船堀は同方式で日本最古のものといわれている。
 ・・・太平洋戦争後、用水路の近代化が進んだ。まず用水の取り込み口には、1963年(昭和38年)に利根大堰が作られ、取水流量が正確に管理できるようになった。代用水路も、1979年(昭和54年)から、護岸と路底のコンクリート化などが進められている。

【歴史】
1629年 見沼溜井が造成される。
1725年 幕府より井沢弥惣兵衛為永に対して、見沼溜井干拓の検討が命じられる。
1726年 測量が始まる。
1727年9月 工事開始。
1728年2月 完成。3月より水利が始まる。
1731年 見沼通船堀が作られる。また芝川吐口逆水樋門が設置。
1760年 柴山の元荒川交差部分の懸渡井が水害で大破。伏越に改められる。
1887年 柴山の懸渡井が木造から煉瓦造りに改められる。
1895年 砂の伏越(芝川と見沼代用水西縁との交差)が木造から煉瓦造りに改められる。
1906年 見沼代用水の元圦が木造から煉瓦造に改められる。
1908年 瓦葺の懸渡井が木造から煉瓦造りに改められる。
1961年 瓦葺の懸渡井が伏越に改められる。
1968年 利根大堰が完成する。

現在のようす。

「鳩ヶ谷宿案内板」。

                       

(10:23)「一里塚跡」標識。

「吹上橋」の左手に建っています。江戸・日本橋から5里目、本郷追分から4里目。

「宮道」。

 その先、左手に「御成坂公園」があり、「日光御成道・鳩ヶ谷宿」に関する解説などがあります。
「日光御成道のみちすじ」。

                 

「からくり時計」もあります。


  
  
  
1880年代のようす。               現在のようす。
 上方に「見沼代用水」。現在の「岩槻街道(国道122号線)」は直進して北上(中央の道)。旧道は右の道。
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本郷追分~岩淵宿~川口宿~鳩ヶ谷宿。その6。(「日光御成道」第1日目)

2018-01-11 22:05:57 | 日光御成街道
                              (13:03)「鎌倉橋」の碑。この碑の手前を右折し、「川口宿」に入ります。
「鎌倉橋」の解説板。
 日光御成道は中世の鎌倉街道中道をもとにして整備されました。鎌倉街道中道が通っていた頃より、この地は奥州への要所でした。『義経記』には、源義経が鎌倉に向かう際に小川口(現在の川口市)で兵をあらためたと記されています。
 御成道が将軍社参にふさわしい道として整備されたのは寛永年間(1624~44)といわれています。
 荒川北側の小川に架かっていた土橋は鎌倉橋と呼ばれ、江戸時代においても重要な橋の一つで、たびたび修築を加えられ昭和初期まで残されていました。しかし、荒川の河川改修などにより消滅し、現在はこの緑地内にかつての橋の存在を記念して、石碑が建てられています。

川口宿
 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒であった。また、川口宿は岩淵宿と合宿で、月の内1日~15日の問屋業務は川口宿が勤めた。
江戸時代初期から鍋釜類の鋳物業が栄え、宿の裏街を形成していた。

「日光御成道」。

 荒川の開削・護岸工事でこのあたりは大きく変貌しています。日光御成道(旧道)は、河川敷に。


1880年代のようす。中央下が渡し場。荒川の自然堤防が上方に。桑畑北側の小川に架かる橋が「鎌倉橋」?



現在のようす。中央の橋が「新荒川大橋」。川幅が広がり、河川敷が整備されています。

街道沿いの商家などがいくつか残っています。


    

                        





 (13:13)広い通りに出ると、緑地があります。「川口宿絵図」。
 

解説版。
 川口は浦和水脈という地下水脈の豊富に集中する地域でそのためにこのような「吹き井戸」があった。大正12年、ユニオンビールが川口に進出したのも、この水に拠ったものと考えられようが、この会社の進出がやがて次第にこの吹き井戸の水勢を弱めていったのは皮肉である。写真は江戸名所図絵に描かれた「鍋屋の井」である。


 複雑になったロータリーを回り込むように進み、「岩槻街道」に合流します。
 

(13:21)「芝川」に架かる「上の橋」。

「倉田回漕店」(↓)。
                    物流業者さんのようですが、ネーミングには歴史的な背景があるようです。
 もともと「回漕店」は、船問屋か廻船問屋・廻漕問屋とも呼ばれ、江戸時代から明治時代にかけて、河岸や港において廻船などの商船を対象として様々な業務を行った問屋のことでした。
 この付近は、「芝川」沿いにあった「倉田河岸」といわれ、水運を生かし、川口名産の鋳物の運送等に当たっていたと思われます。

「川口元郷」。

 旧元郷村には「一里塚」がありました。江戸日本橋より4里目、本郷追分より3里目。跡碑があるようですが、確認できず。

この先、直線道路が続きます。



1880年代のようす。→が「上の橋」。○が「錫杖寺」。「芝川」の幅広い自然堤防が見られます。



現在のようす。

(13:33)右手に豪壮な建物。

                       
旧田中家住宅
 旧田中家住宅は大正時代に建設された県下有数の本格的洋風住宅です。大正10年(1921)に上棟し大正12年(1923)に竣工した木造煉瓦造三階建の洋館(1)と、昭和9年(1934)に増築された和館(2)の他、文庫蔵(3)、茶室(4)、池泉回遊式庭園(5)、煉瓦塀(6)により構成されています。
洋館
 壁に化粧用煉瓦を貼り、デザイン性に優れた外観を呈する本格的洋風住宅です。迎賓のための建物として建設されました。
 正面玄関には帳場と神棚を設け、商家としてのスタイルを残し、二階には洋間の書斎と座敷を設け、洋風を基調としながらも、一部に和風を取り入れたつくりとなっています。
 三階は南側に大広間を設けています。応接間は一階に配置するのが通常ですが、田中家では眺望を重視して三階に配置したものと思われます。

和館
 煉瓦は長方体をしており、積み方にはいくつかの様式があり、それぞれの積み方が発達した国の名をとってイギリス積み、フランス積み、アメリカ積みなどがあります。
 日本では幕末から明治初年に欧米からこれらの様式が伝わり、建築技術ではイギリス積みが、土木技術ではフランス積みが主に用いられました。
 旧田中家住宅に用いられたイギリス積みは、長手ばかりの段と小口だけの段を交互に重ねます。堅実で合理的な積み方です。

庭園
 昭和48年(1973)の改修工事で、味噌醸造蔵の跡地に造営された本格的な池泉回遊式日本庭園です。和館や茶室から眺められるよう配慮されており、池、枯山水、洲浜、灯篭、手水鉢などを配し、建物の重厚さをさらに際立たせています。

                           (以上、「旧田中家住宅」HPより)



直線道路がまだまだ続きます。

    
    
1880年代のようす。縄手道。             現在のようす。当時と同じ、直線道路です。

川口市内のマンホール。
 鋳物工業で知られ、映画「キューポラのある街」の舞台にもなった街。 デザインのモチーフは市の花「鉄砲ユリ」と「竹ざる」。 鉄砲ユリはラッパ型の花に特徴があります。竹ざるは明治初期に盛んに作られた特産品です。

 「日光御成道」は次第に「川口宿」から離れて「鳩ヶ谷宿」へ向かいます。かつて「川口」といえば「キューポラのある街」でしたが、沿道にはそうしたキューポラのある鋳物工場は目につきません。高層マンションが立ち並ぶ街並みに大変貌しています。

キューポラのある街 1962年(昭和37年 )公開。
原作:早船ちよ
脚色:今村昌平 浦山桐郎
音楽:黛敏郎
監督:浦山桐郎

出演:東野英治郎
   吉永小百合
   菅井きん
   浜田光夫
   北林谷栄
   殿山泰司 ・・・
あらすじ:
 中学3年の石黒ジュン(吉永小百合)は、鋳物工場の直立炉(キューポラ)が立ち並ぶ埼玉県川口市の鋳物職人の長女である。何事にも前向きで、高校進学を目指すジュンだが、父・辰五郎(東野英治郎)が工場を解雇されたため、家計は火の車で、修学旅行に行くことも諦めていた。
 自力で高校の入学費用を貯めようと、パチンコ屋でアルバイトを始めるジュン。担任教師の助力で修学旅行にも行けることになった。しかし、ようやく再就職した父親は、待遇が不満で仕事をやめてしまった。絶望したジュンは女友達と遊び歩き、危うく不良少年たちに乱暴されかけた。
 全日制の高校進学を取りやめて、就職を決断するジュン。北朝鮮への帰還問題で苦悩する朝鮮人の一家や、貧しくとも力強く生きる人々との交流を通じて、ジュンは、自立して働きながら定時制で学び続けることに意義を見出したのだった。(「Wikipedia」より)

      (Amazonより)

 懐かしい映画の一つです。

キューポラのある街。(「東京新聞」より)

 (13:53)「鳩ヶ谷宿」までけっこう距離があります。「たてば」。この施設の名のようにこの付近には「立場」があったのでしょうか?


 このかん、「十二月田=しわすだ」とか「樋の爪=ひのつめ」とかの変わった地名が続きます。
 注:「しわすだ」=12月晦日(しわすみそか)に由来。「ひのつめ」=晦日の前日の29日(ひのつめ)に由来しているようです。

 まだまだ直線道路。埼玉高速鉄道「南鳩ヶ谷駅」を過ぎ、新芝川に架かる「鳩ヶ谷大橋」を越えてしばらく進むと、旧道は右に分かれていきます。
 
 今回はここまで。「赤羽駅」行きのバスに乗って戻りました。
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本郷追分~岩淵宿~川口宿~鳩ヶ谷宿。その5。(「日光御成道」第1日目)

2018-01-10 19:39:56 | 日光御成街道
                               (11:27)「十条富士塚」。富士山を模した塚。

 都内にはいくつかあります。ここの他には、品川富士(品川神社境内)、千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)、下谷坂本富士(小野照崎神社境内)、江古田富士(茅原浅間神社境内)、高松富士(富士浅間神社境内)などが有名。かつて江東区にある富士塚を探訪したことがあります。
富士山信仰
 それぞれの地域ごとに「富士講」をつくり、先達に引き連れられ、実際に富士山登山をすることもあります。また、地域の神社の一角に、富士山を模して築山したものに登って、富士山信仰のよすがにします。出来る限り富士山にある溶岩や岩・石などを敷き詰めたり、置いたりします。
 また、砂走りや大沢崩れなどを模し、お中道巡り、1合目から頂上までを順路のようにつくります。それぞれの講ごとに「碑」を建てたりします。
 不思議と猿の親子の石像があるのも特徴です。富士山と猿との関係はどういうことなのでしょうか。現在の富士山には、野生の猿は生息していないはずですが。「庚申」信仰と関係があるのかもしれません。
 小さな山を築いてそれらを置くのですから、実に込み入っています。それはそれでおもしろく、風情があります。
 写真は、亀戸駅から東南、「浅間神社」のもの。

けっこう車の行き来が激しい。

 (11:39)「環七」を越してしばらく進むと、JRの高架線が右手に近づき、左手には「八幡山児童公園」。ゆるやかな下り坂・「清水坂」です。


                      
清水坂(しみずざか)
 十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(旧日光御成道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられて、その跡に児童公園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。

※ここまでの坂道案内資料は、「」HPを参照しました。

振り返って望む。

 旧稲付村に入ります。村の中央には「一里塚」があった、とのこと。拡幅工事中で明るく開けた道になります。


 しばらく進むと、赤羽駅西口に到着。東口に抜けたところで、昼食休憩。高架に沿って進み、宝幢院(ほうどういん)のところを右折します。


(12:25)門前の道標。 
 元文5年(1740)建立。道標には、「東 川口善光寺道 日光岩付道」「西 西国冨士道 板橋道」「南 江戸道」と刻まれています。
「宝幢院前の道標」
・・・板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でした。・・・日光・岩槻道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場を経て幸手宿で日光街道と合流する道筋です。・・・板橋道は、西国へと向かう中山道や八王子から富士山北麓の登山口に向かう富士道へ通じていました。

 この地が交通の要であったことがわかります。

右折した先が「岩淵宿」。「仙臺橋」親柱。

 「岩淵宿」は荒川(入間川)の渡しを控えて賑わった宿場。川口宿と合宿で、月の内16日~晦日まで問屋業務を勤めました。現在はその遺構は特にないようです。
「赤羽岩淵駅」バス停。

(12:35)問屋場跡(といやばあと)」碑(↓)。

 小山酒造の先に、「岩槻街道岩淵宿問屋場跡之碑」と刻まれた石碑がマンションの植え込みの中にあります。ここを過ぎると、新河岸川と荒川に架かる新荒川大橋があり、東京都から埼玉県・川口へと移ります。
「小山酒造」の看板。

 世界有数の大都市東京。その23区で唯一100年以上清酒を製造し続ける酒蔵が私たち小山酒造株式会社です。
その歴史は、初代 小山新七が酒造に適した湧水を発見して以来(明治11年創業)、百余年になります。
代表銘柄「丸眞正宗」(マルシンマサムネ)の由来は、先代が「商いは正直こそが基本である」と“まるまる本物”の意味を込め、そして“名刀正宗”になぞらえ、キレの良い後味という意味を込めました。 小山酒造の企業理念と酒質の特徴を表す銘柄名となっております。

HPより)

新荒川大橋。

「新河岸川」と「荒川」との堤。桜の季節は最高。

  
 
1880年代のようす。                  現在のようす。
                    
                   下の○が追分。上の○が渡し場付近。

橋の途中で振り返ると、「富士山」が(↓)。

上流にはJR線の鉄橋。

(12:49)川口側の土手に腰を下ろし、しばし休憩。 
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本郷追分~岩淵宿~川口宿~鳩ヶ谷宿。その4。(「日光御成道」第1日目)

2018-01-09 22:38:14 | 日光御成街道
        右手の高台・飛鳥山公園にこんな立派な建物があったとは知りませんでした。



                          

旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)
 飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。
 渋沢栄一は明治34年から昭和6年に亡くなるまでの30年余りをこの自邸で過ごしました。邸内には和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれらの建物は昭和20年の空襲で焼失してしまい、大正6年竣工の「晩香廬」と大正14年竣工の「青淵文庫」、この二棟の建物のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。・・・



「飛鳥山公園」。

通りの向こうに銭湯。まだまだ頑張っています。

(10:48)「飛鳥山3つの博物館」。

  の3つです。

都内唯一の路面電車「荒川線」。

      
飛鳥大坂(あすかおおさか)
 いまはきわめてゆるやかな勾配だが、「東京府村誌」には「飛鳥山坂、木村(滝野川村)にあり、飛鳥橋の方に下る。長さ一町十二間三尺、広さ三間、坂勢急なり」と記されているように都内でも有数な難所であり、荷車の後押しで手間賃をかせぐ人もいた。昔は将軍家の、日光御社参の行列もここを通った。
  飛鳥山花見てかえるをとめらが
    道のみ坂をゆきなづみたり
                 太田水穂

 王子駅東口に向かってから急カーブで下る坂道で、都電荒川線が中央を走っています。

JR側から坂を望む。右下が「飛鳥山公園」。

                              

 王子の坂「明治通り」を下り、JR線をいったん越えてから戻り気味に「明治通り」の反対側に出ます。さらに、線路沿いに進み、江戸時代の旧道に復帰します。この付近の「石神井川」の治水事業の関係で流路変更があり、わかりにくくなっています。


1880年代のようす。←が「日光御成道(岩槻街道)」。蛇行する川は「石神井川」。



現在のようす。左下が「飛鳥山公園」。その上が「王子神社」。

 「石神井川」は金沢橋付近(埼京線の上流約200m)から音無橋にかけて音無渓谷と呼ばれる深い谷となっていました。現在、渓谷部分はほとんどがコンクリートの垂直護岸となっていて、屈曲部の直線化や飛鳥山隧道建設などの改修によって流路も大きく変わっています。

現在の「石神井川」。

               

(11:05)「三本杉橋」親柱。

この付近の坂が「権現坂(ごんげんざか)」。
 飛鳥大坂を下った交差点から王子神社の鳥居付近まで登っていく坂道。権現という坂の名称は、王子権現社の権現から採った名前ですが、これは、神仏分離以前の王子神社が王子権現と呼ばれていた点に由来しています。坂の下の交差点付近は江戸幕府の将軍が日光東照宮に参拝するための日光御成道の路上にあたり、ここは、三本杉橋という橋も架かっていました。三本杉橋は橋の袂に三本の杉があったのでつけられた名称といわれています。

 旧「三本杉橋」を右折すると、けっこうな坂道に。
王子大坂(おうじおおさか)
 飛鳥山に沿って東におりた岩槻街道は、石神井川を渡って左に曲がり、現在の森下通りを抜け、三本杉橋の石の親柱のところから北西に台地を登る。この坂が王子大坂である。登り口に子育地蔵があったので地蔵坂とも呼ばれ、昔は縁日でにぎわった。
坂の途中から振り返る。

坂上から王子駅方向を望む。

(11:12)飛鳥山付近で離れた「本郷通り」と再び合流します。

 しばらく進むと、かつて歩いたことがある交差点(「区立十条台小学校前」)にさしかかりました。
 「JR・東十条駅~王子駅周辺の鉄道遺跡+今も残るかつての軍事施設(建物)巡り」で通ったところです。
東側を望む。JR線方向。

西側を望む。自衛隊施設方向。

以下、そのときの記事を一部再録します。

 明治時代から昭和にかけて、北区とその周辺には、陸軍の関連施設が数多く点在していました。その当時、これらの施設は、物資や人間を運搬するための軍用鉄道と呼ばれる専用軌道で結ばれていました。この辺りでは、板橋、十条の火薬製造工場と王子の火薬製造工場を結ぶ軍用電車が、チンチンと鐘の音を鳴らしながら、盛土の上を走っていたそうです。そのため、付近の住民は、この盛土を俗に「ちんちん山」という愛称で呼んでいました。かつて、この場所には、ちんちん山の下をくぐる石積みのトンネルがありました。このトンネルの上部には、3個のだんごを三角形の形に並べ、その上に、もう1つだんごを乗せたような珍しいマーク(当時の東京砲兵工廠のマーク)が刻まれていました。現在、このマークを含め、トンネルの石積みの一部が園内でモニュメントとして使われています。

トンネルの石積みのモニュメント。
上部に「東京砲兵工廠」のマーク。

 現在も、当時も、本郷台地上の軍施設と石神井川と隅田川との合流付近の軍施設とは相当の高低差がある。「銃砲製造所・現自衛隊施設」等の標高は、約20㍍、B地点(火薬製造所・現民間倉庫)の標高は約2㍍。この高低差を通していたのだから盛り土も高さがあったものとも思われる。地図上でもかなり長い盛り土の上を通っていたことが分かる。

(「今昔マップ」より)
20㍍→12㍍の高低差(台地直下との差)→5㍍→2㍍。○の三角点には、27.5㍍との表示(現・十条台小学校の南)。鉄道はその北側を進んでいった。

現在、十条駅前からの道路(南に進むと「本郷通り」となる)からJR線を越えて「北本通り」に通じる道路は高架橋になっている(軍用鉄道は、もともとはこの高架道路の下にあり、トンネルと盛り土で結んでいた)。東に向かって急な下り坂になっている。

鉄道が通っていた道路から西を望む。けっこう深いトンネルになっている。上部は、見上げるような高さ。「南大橋」と二重構造になっている「南橋トンネル」。

(11:18)旧道はこの先で「本郷通り」から分かれて直進します。
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本郷追分~岩淵宿~川口宿~鳩ヶ谷宿。その3。(「日光御成道」第1日目)

2018-01-05 20:21:28 | 日光御成街道
                           旧古河庭園沿いの石垣。

(10:16)「大炊介坂(おおいのすけざか)」。
 坂の名は、この辺りに住んでいた中世の武将保坂大炊介にちなんで大炊介坂と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで宮坂とも、樹木に覆われていたので暗闇坂とも呼ばれていた。この道は岩槻街道で、江戸時代には将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため日光御成道と呼ばれたが、現在は本郷通りと呼ばれている。この辺りに江戸時代には牡丹園が設けられたこともあった。

左手にあるのが「旧古河(ふるかわ)庭園」。

                      

旧古河庭園
 1919年(大正8年)に古河虎之助男爵の邸宅として現在の形(洋館、西洋庭園、日本庭園)に整えられた。現在は国有財産であり、東京都が借り受けて一般公開している。国の名勝に指定されている。東京のバラの名所として親しまれている。
設計:ジョサイア・コンドル
日本庭園:小川治兵衛
 明治20年代、政治家・陸奥宗光が当地を購入し別宅とする。明治38年、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子(2代当主)となったため、古河家に所有が移った。当時の建物は現存しない。
 1914年(大正3年)、古河財閥3代目当主の古河虎之助(市兵衛の実子)が周囲の土地を購入し、9,470坪を古河家の本宅用として、整備を開始した。
 1917年(大正6年)5月、西洋館と洋風庭園が竣工。洋館と洋式庭園は、イギリス出身の建築家、ジョサイア・コンドル(他に旧岩崎邸洋館、鹿鳴館、ニコライ堂など)により設計監理された。
 さらに虎之助により、大正8年(1919年)、日本庭園も竣工し、現在の形となった。日本庭園は近代日本庭園の先駆者・京都の庭匠「植治」こと七代目小川治兵衛(他に京都無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園など)により作庭された。
 ・・・東京大空襲による被害は建物、庭園ともに免れた。終戦後、1947年、西ヶ原邸は財産税等の物納で国有財産となる。一方、地元東京都や北区からは旧古河家の庭園を公園化してほしいという強い要望が出された。こうした要望に応えて1955年(昭和30年)4月、大蔵省は、東京都に貸し付けることを決定した。こうして、約一年の整備を経て、1956年(昭和31年)4月30日、「旧古河庭園」として都市公園として開園した。
 ・・・洋館等の建物は、その後約30年間放置された状態で「お化け屋敷」と言われるほど荒廃が進んだ。1981年刊行の北村信正「旧古河庭園」には洋館は「きづたに覆われている」とあり、蔦に覆われた洋館の写真も掲載されている。1982年(昭和57年)に東京都名勝の指定を受けると、それから1989年(平成元年)まで7年をかけた修復工事が行われ、現在の状態まで復元された。
 2006年(平成18年)には、大正時代初期の形式をよく留める庭園が評価され、国の名勝に指定された。
 武蔵野台地の斜面を巧みに利用した造りとなっており、台地上に洋館を、斜面に洋風庭園、斜面下の低地部に日本庭園が配置されている。

洋館(大谷美術館) 
 1917年(大正6年)5月竣工。延べ414坪。地上2階・地下1階。外観はスコティッシュ・バロニアル様式を目指したとされる。古河虎之助がコンドルに設計を依頼した時期や経緯は明らかではないが、大正3年頃、洋館の設計がなされている。 屋根はスレート葺き。煉瓦造の躯体を、黒々とした真鶴産の本小松石(安山岩)の野面積みで覆っているのが特徴的である。
 南側の庭園から見た外観は、左右対称に近く、両脇に切妻屋根を据え、その間の部分は1階に3連アーチ、2階には高欄をめぐらしたベランダが設けられて、屋根にはドーマー窓を乗せている。全体的に野趣と重厚さにあふれ、スコットランドの山荘の風情である。 内部に入ると、玄関扉にはステンドグラスが設けられ、古河家の家紋、鬼蔦のデザインが見られる。

洋風庭園(バラ園)

 日本庭園は洋館、洋式庭園の完成に続いて、大正8年(1919年)に完成。京都の造園家・七代目小川治兵衛の作。斜面の一番底部に位置する池泉回遊式庭園である。シイ、モチノキ、ムクノキ、カエデなどの鬱蒼と茂った樹林のなか、「心」の字を崩した形の心字池を中心に、急勾配を利用した大滝、枯山水を取り入れた枯滝、大きな雪見灯籠などが配されている。
 心字池と大滝の間には入母屋造り の茶室が設けられ、茶の湯が開かれた。

                           (以上、写真を含め、「Wikipedia」より。)

 かつて、バラが最盛期の頃に訪れたことがあります。すてきな雰囲気でした。

   
「清澄庭園」でも見かけたように、庭園と通り(本郷通り)の狭い空間に建物が建っています。

 「造幣局(国立印刷局東京工場)」の前を通ります。

 (10:36)その先、通りの右側と真ん中に見えてくるのが「西ヶ原の一里塚」。
江戸日本橋から2里目、本郷追分から1里目にあたります。

 
 一里塚は、慶長9(1604)年に江戸幕府が全国の主要街道に、一里(およそ3.9キロメートル)ごとに道の両側に塚を築かせ、その上に、主に榎(エノキ)の木を植えさせました。街道を旅する旅人にとって一里塚は、旅の長い道のりの目安となり、駕籠賃の目安にもなりました。木の木陰は、旅する人々の憩いの場所にもなったことでしょう。
 西ヶ原一里塚の上にも榎の木が植えられていますが、江戸時代のものは残念ながら枯れてしまい、新たな榎の木が植えられて現在に至っています。
 ところで、日光御成道の一里目の一里塚は、中山道との分岐点である「本郷追分」で現在の東京都文京区に、三里目の「稲付一里塚」は東京都北区赤羽西2丁目にありました。「稲付一里塚」は明治中頃まではその跡があり、村の掲示場として官有地だったようですが、明治21年に隣地の所有者に払下げられ現在は残っていません。


 一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ケ原の一里塚と榎が東京市電の軌道敷設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は。歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された榎は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。

二本榎保存之碑
公爵徳川家達題
府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり
之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく乞梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず今存するもの甚少し二本榎は実に其存するものゝ一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし幕府治平を講ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん
大正五年六月 文学博士 三上参次撰
阪 正臣書
廣群鶴刻
(裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり
(一部原文を現代かな漢字に直しています)

  (この項、HPより)

 
左に上記の碑が見えます。

 この先、右側一帯の高台が「飛鳥山公園」となります。「飛鳥山公園」の横を上る坂が「六石(ろっこく)坂」
 東京府村誌に「長さ二十四間広さ三間元と坂上に租六石を納る水田あり故に云ふ」とある。江戸切絵図には「六コク坂」と記されている。
 この道は岩槻街道(旧日光御成道)で、飛鳥山の前へと続いているため花見時などには賑わいをみせた。付近にはこの辺りに鷹狩などに来た将軍の休み場としての御立場もあった。

 「造幣局」付近のようす(今昔)。本郷通り(日光御成道)。「一里塚」を挟んだ道が旧道。
 
 
1880年代。                 現在。
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本郷追分~岩淵宿~川口宿~鳩ヶ谷宿。その2。(「日光御成道」第1日目)

2018-01-04 21:10:19 | 日光御成街道
                                「岩槻街道」という標識。

案内図の左から右に進んで行きます。

福田繁雄「夢エンピツ」。
 講談社フェーマススクールズ(KFS)は、1967年に講談社創業60周年記念事業の一環として発足した、美術の総合通信教育スクール。ビジュアルで示すテキスト、DVDビデオ添削指導などの世界でも他に類をみない通信教育システムで広く知られていましたが、2014年10月より、新規受講生の募集を行っておりません。

ひっそりとしたたたずまいを残す地域。

(9:54)左手には、「六義園」。

 六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。
 「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写して、庭園を造ろうと思い立った。その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。
 1702年(元禄15年)に庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成りが頻繁に行われるようになる。その回数は記録されているものだけでも実に58回もあり、吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていたことが窺える。
 甲斐国・甲府藩主であった柳沢家は、吉保子息の吉里期の享保9年(1724年)に大和郡山に転封となるが、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで使用された。時代が下るにつれ徐々に荒れはしたものの、江戸を襲った度々の火災で類焼することもなく明治を迎えた。
 明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園に整備が施され、このとき周囲が今日見る赤煉瓦の塀で囲まれた。その後は関東大震災による被害もほとんど受けず、1938年(昭和13年)には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった(有料)。東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日に生き延びた六義園は、1953年(昭和28年)に特別名勝に指定されている。

                                  (以上「Wikipedia」による。)


「六義園案内板」。

 上記にある赤煉瓦の塀。
 
レンガを使用した外周塀
 江戸時代中期に作庭された文化財庭園に、幕末以降にもたらされた技術を用いたレンガが使われている理由には、この文化財庭園の歴史的な変遷が大きく関わっています。
 江戸時代当時の柳沢家の屋敷範囲と、明治年間以降の岩崎家の敷地とは、文化財庭園として指定された現在の六義園の範囲よりも東西南北にそれぞれ広がっていました。指定文化財範囲から外れた、これらの土地では、日露戦争の祝勝会が開催され、第二次大戦当時には児童向けの科学館なども置かれていました。従って、改修前のレンガ塀は、第二次大戦後に、国指定の文化財として整備される前後の時期に、管理用に構築されたものであり、岩崎家所有当時の外周塀ではありません。しかしながら、柳沢家から岩崎家、そして東京市(府)から東京都へと、所有者や管理者が移り変わってゆく中で、岩崎家が所有していた湯島や本所などの屋敷でも採り入れられた、洋風の意匠であるレンガ塀も、歴史的な変遷を物語る貴重な文化財といえます。

 なお、文京区の公式HPでは、『詩経』の六義(りくぎ)から園名が名付けられている、とされています。『詩経』大序にみえる中国古代詩の6分類「風」「賦」「比」「興」「雅」「頌」をさし、紀貫之が『古今集』真名序に、これを引用して「和歌に六義あり」としているわけです。
 上記「Wikipedia」よりも文京区HPの方がより正確な解説だと思いますが。歌枕云々も?

 (10:02)JR駒込駅を過ぎると、すぐ右手に「染井吉野桜公園」があります。
染井吉野櫻發祥之里 駒込」。
 駒込の一部は江戸時代染井と呼ばれ、巣鴨とともに花卉・植木の一大生産地であった。
 この地で江戸時代以後数多くの優れた園芸品種が誕生したが、なかでもソメイヨシノは、当地の地名から名付けられ、世界を代表する桜の品種となった。
 左の絵は、植木屋の第一人者、染井の伊藤伊兵衛の庭で花を愛でている様子である。

      今はすっかり冬模様。

「駒込橋」の旧親柱。

 「妙義坂」を上っていきます。
(10:07)立派な銭湯の伽藍「亀の湯」。

「霜降橋」交差点にある「しもふり橋商店街」。

かつてこの付近を探索したことがあります。そのときの記事。

江戸時代の西ヶ原のようす。(「霜降銀座栄会」HPより)
 a地点が西北の石神井川からの流れ(途中で消えている)。bが「谷田川」。c地点が水源の一つ。右下(東南)がのちの染井霊園。もう少し西南・巣鴨方向から流れてきた川が存在している。d地点が現「霜降橋」交差点。駒込からの「妙義坂」下。中央の道は「本郷通り(日光御成街道・岩槻街道)」。
 e地点に「植木屋多し」とある。ソメイヨシノ発祥の地か? 
 染井霊園北(また、巣鴨付近)から流れ出た「谷田川」と石神井川から切り離された川とは、直接、合流せず、水田地帯を細々と流れて、谷田川に注いでいたのかもしれない。現在、その痕跡は全く分からなくなっている。
 こうして、何となくかつての「谷田川」のようすと現状が垣間見ることができました。「谷田川」(その後の暗渠となったとそこで営まれたその地域の人々の「面影」を彷彿とさせます。こうして現代を歩きながら往時を偲ぶのも、また一興。
「霜降銀座栄会」。この商店街がかつての「谷田川」。

かつての長屋風の商屋。

「ことぶき地蔵堂跡」解説板。平成27年(2015)に解体された、とか。

 この先、「旧古河庭園」の石垣に沿う坂「大炊介坂」にさしかかります。 
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本郷追分~岩淵宿~川口宿~鳩ヶ谷宿。その1。(「日光御成道」第1日目)

2018-01-03 19:12:41 | 日光御成街道
 「新シリーズ」と言っても、3日で歩く予定(速く歩く方なら2日間で完歩できる道筋)の、 
日光御成道(にっこうおなりみち)
 江戸時代に五街道と同様整備された脇往還の一つ。中山道の本郷追分を起点として岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前の日光街道に合流する脇街道。将軍が日光社参の際に使用された街道であり、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)とも呼ばれている。

 日光御成道には、こんなエピソードが残っている。
第10代将軍・家治(いえはる)の日光社参の際、行列の先頭がすでに日光へ到着しているとき、最後尾はまだ江戸を発っていなかったという。日光社参は、徳川家の一大行事であり、徳川家の権威を広く知らしめる意味もあった。

 寛永13年(1636年)の日光東照宮造営の竣工とともに、日光社参が制度化され、三代目将軍徳川家光のときに、将軍一行が通る特別な道路として整備され、将軍御成りの道ということで「日光御成道」と称され、道中奉行の支配下になり、五街道同様の管理を受けるようになった。
 日光御成道は日本橋から中山道(現・国道17号)を進み、日本橋から一里目の本郷追分(現在の東大農学部正門前の交差点で、「駒込追分」とも呼ばれる)を起点に(中山道が左折、日光御成道が直進)、岩淵宿、川口宿(岩淵宿と川口宿は合宿)、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を過ぎて、幸手宿手前で日光街道(日光道中)に合流する。将軍の一行は日光御成道では唯一、岩槻宿にのみ宿泊したので岩槻街道(いわつきかいどう)とも呼んでいた。およそ12里30丁(約50 km)の道のり。
                       
(以上、「Wikipedia」等、参照。)

 今回歩くのは、本郷追分から鳩ヶ谷宿の手前、南鳩ヶ谷まで。
       
 
 年の瀬の30日(土)。快晴。

 本郷追分は、「中山道」と「日光御成道」との分岐点(追分)です。正面のお店が1751年(宝暦元年)創業の老舗「高崎屋」さん。
この追分には江戸・日本橋より一里目の「一里塚」がありました。(9:18)
追分一里塚
 一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4㎞)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
 ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
 ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね、「現金安売り」で繁昌した。

  
1880年代のようす。              現在のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 さて、出発(9:19)。「本郷通り」を進みます。

「本郷台地」という丘陵地帯を行きます。けっこう起伏があります。

この付近は、「向丘追分町会」。

 沿道には、神社仏閣が並んでいます。「天栄寺」の門前に「駒込土物店跡」碑があります(9:35)。
 
駒込土物店(こまごめつちものだな)跡
 神田および千住とともに、江戸三大市場の一つであり、幕府の御用市場であった。
 起源は、元和年間(1615~24)といわれている。初めは近郊の農民が、野菜をかついで江戸に出る途中、天栄寺境内の「さいかちの木」の下で毎朝休むことを例とした。すると、付近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが起こりといわれている。土地の人々は、「駒込辻のやっちゃ場」と呼んで親しんだ。また、富士神社一帯は駒込なすの生産地として有名であり、なす以外に、大根、人参、ごぼうなど、土のついたままの野菜である「土物」が取引されたので土物店(つちものだな)ともいわれた。正式名は、「駒込青物市場」で、昭和4年(1929)からは、「駒込青果市場」と改称した。
 街道筋に点在していた問屋は、明治34年(1901)に高林寺境内(現駒本小学校の敷地の一部)に集結したが、道路の拡幅などで、昭和12年(1937)豊島区へ移転して、巣鴨の青果市場となって現在に至っている。

  
「さいかちの辻」碑。                        サイカチの木。

 「駒込片町」に入ると、養昌寺には樋口一葉が師事した半井桃水(なからいとうすい)のお墓があります。

半井桃水の墓
 万延元年~昭和元年(1860~1926)。対馬に生まれ、名は冽(れつ)。桃水は号。別号は菊阿弥。
 共立学舎に学び、明治21年東京朝日新聞社に入社して、新聞小説作家として活躍した。・・・
 桃水は、樋口一葉の師として、また一葉の思慕の人としても知られている。・・・

その向かいにあるのが、「吉祥寺」。

 長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。
 天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し、大寺院となった。僧侶の養成機関として栴檀林(駒沢大学の前身)をもち、1千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称せられた。

 吉祥寺
 明暦の大火によって、江戸本郷元町(現:文京区本郷一丁目、水道橋駅付近)に存在した諏訪山吉祥寺の門前町が焼失した際、幕府は都市計画に基づき同地を大名屋敷として再建することにした。そのため、吉祥寺門前の住人を始めとする居住地・農地を大幅に失った者達に対し、「札野」「牟礼野」と呼ばれた幕府御用の萱場を代地とし、5年期限で扶持米を与え家屋の建築費用も貸与するという条件で希望者を募った。吉祥寺の浪士の佐藤定右衛門と宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎左衛門と協力してこれに応じ、現在の武蔵野市東部を開墾して住人達を移住させた。
 折しも玉川上水の開通に伴い、かつては水利が悪く無人だった武蔵野台地が新田開発によって広大な農地へと変わっていく過程で、五日市街道(現在の東京都道7号杉並あきる野線)沿いに整然と区画された短冊状の土地が形成され、移住者によっては五日市街道から玉川上水の分水である千川上水に至るまでの区画、600間余(1,000m以上)にも及ぶ長大な土地を与えられたものもいた。しかし土壌はさほど良いものではなく、農地はすべて畑地であり水田はなかった。吉祥寺に愛着を持っていた住人たちにより、新田は吉祥寺村と名付けられた。
 1923年(大正12年)の関東大震災を契機に被災した市街地から多くの人たちがまたもや吉祥寺に移り住むことになり、人口が急増。美しいケヤキ並木でも知られる成蹊学園が池袋から移転したこともあって、農村から住宅街、そして多くの商店や学生で賑わう街へと変貌を遂げることになった。
 地名の由来は、吉祥寺門前の住人が五日市街道沿いを開発・移住したことにより、当地に吉祥寺という名の寺院が所在したことはない。
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