おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書24「東京懐かし散歩」(赤岩州五)交通新聞社

2009-08-31 19:53:05 | つぶやき
 引き続き、これもレトロでマニアックな本。昭和・大正・明治の地図で行く、とある。筆者が実際に地図を片手に歩いた、レポート集。
 取り上げたところは、原宿・表参道、荻窪、府中、池袋、上野・浅草、深川、日本橋、湯島、両国・・・。
 廃墟・痕跡・廃線マニアには、これも、たまらない一品(いっぴん)。今の街の姿からは想像も出来ない古き時代のようす。昔の地形図を探っているうちに、むしろ新しい発見が出て来るようです。
 例えば、池袋。JR山手線の東側には、根津山という丘があった!運河や川が埋め立てられなくなっても、区界は昔の水路に沿って出来ている!等々。
 「ひとにそれぞれの人生があるように、町にもそれぞれの生い立ちがある。今歩いているこの場所は、どんな過去を持っているのか、新旧の地図を見比べながらセンサク好きなおじさんが、東京のあちこちを歩いてみた」と。
 この心意気と行動力に、ホント、心から敬服します。まさに「散歩の達人」です。私も、本ばかり読んでないで、老人力でもって、実際に歩いてみようと思いました。「書を捨てて町に出よう」(寺山修司)ではなくて、「地図を片手に町に出よう」と・・・。
 『選挙ネタ』その一
 衆院選も、予想通り民主党の大勝利。報道番組も、「出口」調査によって開票前にも「当確」(TBSのように間違ってしまい、候補者・視聴者を惑わす場合もあったが)。
 期日前投票でも徹底した出口調査を行って、本番の結果も予測し、それを情勢調査に反映して、新聞や雑誌での発表。このやり方にどこのマスコミもヤッキになっているようす。これっていいのかな?
 少し事前の予想よりも自民党が頑張ったのかな。聞かれたことがない有権者の一声でした。
 『選挙ネタ』その二
 報道では、小選挙区の当落情報が中心。大物議員の落選(今回は、自民党・公明党)のたびに、インタビュー。当選者の笑顔、・・・。
 ところが、深夜を過ぎて報道番組も終わった頃に、比例区での復活当選。そのころは、インタビューもなし。結局、落選した大物も当選。この復活制度って何かおかしくないか。
 国会の中では、「小選挙区当選組」と「比例区復活組」さらに、比例区単独当選者」。比例区に重複立候補出来る制度はない方が。その点、「敵」ながら公明党は立派でした。討ち死にやむなし。ただ、小選挙区は自民党、比例区は公明党(その反対もあり)というのも、全くおかしな感じ。当選目当ての党利党略!
 比例区の政党名投票が、一番、国民の政党支持意識を反映しているような。前回の「郵政選挙」だって、比例区に関しては、国会全体の議席数よりももっと接近していて、その議席配分なら、あれほどの自公横暴政治運営はできなかったはず。
 自公の自業自得と言ってしまえば、おしまいだが、この小選挙区の劇的な揺り戻し傾向。恐い恐い!二大政党制を目ざし、選挙のたびに劇的に変化することは望ましいことなのか。もともと似たような主義主張の政党間での政権交代を想定している制度のような気が。
 イギリスでも、労働党と保守党とのの政権交代劇では、今や国民のニーズに応えられず、「自由党」という第三党が次第に地力をつけつつあるという。
 日本のような政治風土では、どうも二大政党制はなじまないような気がして。中選挙区制度がいいとも思わないが、○か×でなくて、△もあって、調整弁となるような政党が当選出来るような制度の方がいいような・・・。
 『選挙ネタ』その三
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読書23「東京発祥の地めぐり」(発祥の地探訪会)東京地図出版

2009-08-30 19:12:42 | つぶやき
・銀座で昭和初期から営業している老舗「チョウシ屋」の、元祖ポテトコロッケのジャガイモと挽肉の割合は?
・大正6年に日本で初めて駅伝競走が行われたが、そのゴール地点は上野の不忍池。ではスタート地点は?
・台東区の浅草に明治22年に完成した、高さ約66㍍「凌雲閣」に設置されたものは、エレベーター、エスカレーターのどっち?
・明治9年、東京本所柳原の地(現在の都立両国高校)に「新燧社」という会社が設立されたが、この会社は何を生産していた会社?
・大正9年、日本初のプロ野球の球団は何という名前の球団?
・日本で最初のビアホールを銀座に開店させたビールメーカーは?
 等々、グルメでは、江戸発祥のにぎり寿司、親子丼、とんかつ・・・。スポーツでは、野球、ドッジボール、ボウリング・・・。生活環境では、集合住宅、モノレール、エスカレーター・・・。
 産業界から学問の世界まで、東京の地から生まれた様々を紹介する。歴史といわれと現在をマップ付きで懇切丁寧に解説していく。
 副題に「東京マニアックガイド」とあるように、たしかに「面白い」!雑学好きにはたまらない一品!でした。巻末に、検定問題があるのもご愛敬です。「発祥の地探訪会」という、たまらなくうさんくさいネーミングが、私の中ではとても受けました。
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読書22「南京事件」(秦郁彦)中公新書

2009-08-29 21:56:31 | つぶやき
 先日、以下のようなニュースがありました。

 ソンミ村虐殺、元中尉「41年後の謝罪」
 ベトナム戦争中の1968年、米兵が南ベトナム(当時)の一般住民500人以上を殺害した「ソンミ村事件」で、ただ一人有罪となった米陸軍元中尉のウィリアム・カリー氏(66)が仮釈放後初めて、ジョージア州コロンバスの小集会で当時を語り、「41年後の謝罪」をした。
 カリー氏は19日、友人の招きに応じ、約50人が参加した奉仕活動団体の昼食会に出席。冒頭、「良心の呵責(かしゃく)を感じない日は一日もなかった。殺されたベトナム人とその家族、巻き込まれた米国人とその家族に対し、良心の呵責を感じている。申し訳ない」と述べた。
 米メディアが事件を暴露した後の70年、カリー氏ら14人が訴追された。同氏は軍事裁判で「上官の命令に従っただけ」と主張したが終身刑となり、上官は無罪だった。ニクソン大統領が減刑し、3年半で仮釈放されて以来、カリー氏はマスコミの取材に応じていなかった。なぜ41年後の今、重い口を開いたのかは不明だ。
(2009年8月22日21時52分 読売新聞)

 「ソンミ事件」とは、1968年3月16日、ベトナム戦争当時、南ベトナムに展開していたするアメリカ陸軍・第20歩兵連隊第1大隊C中隊の、ウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンミ村ミライ集落(省都クアンガイの北東13km 人口507)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子ども173人)を機関銃の無差別乱射で虐殺した事件です。集落は壊滅状態となった(3人が奇跡的に難を逃れ、2008年現在も生存している。最高齢者は事件当時43歳)。
 当初は村民に対する虐殺ではなく「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」という虚偽の報告がなされたが、翌年12月にシーモア・ハーシュが『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じ、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。この大虐殺事件は、現場に居合わせた複数のアメリカ軍兵士から軍上層部に報告されていたものの、軍上層部は、世論を反戦の方向へ導く可能性が高いことなどから事件を隠蔽し続けた。
 なお、1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に下った判決ではカリーに終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー自身もその後10年の懲役刑に減刑された上、3年後の1974年3月には仮釈放される。陸軍のこの不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。
 虐殺計画は掃討作戦決行の前夜に決定された既定事項で、C中隊指揮官のアーネスト・メディナ大尉が主張したものであるという。(以上、wikipediaによる)

 新聞記事は、その当事者がソンミ事件について謝罪したというものでした。
 ここでの問題点は、①事件の事実が軍の上層部によって隠蔽されたということ。②虐殺に関わったとされる者が証拠不十分で無罪、指揮官のみ(実際にはもっと上層部の関与が疑われるにもかかわらず)刑に服したこと。等があげられます。
 そもそも「事件」という言い方自体が「犯罪」「不法性」を示す表現で、また、「不法」にも殺された者の人数の多寡によって、「虐殺」か否かが問われるわけではありません。
 
 1937(昭和12)年12月13日、日本軍による南京陥落直後に始まった、「大規模な略奪、婦女暴行、一般市民の虐殺、捕虜の集団処刑、成年男子の強制連行が南京を恐怖の町と化してしまった」事件(12月17日付、ニューヨークタイムス・ダーディン記者のレポート)。これが、いわゆる「南京事件」が最初に報道されたときの内容です。
 しかし、このことは、当時の日本国民には知らされるはずもなく、国内では、「南京陥落」の祝勝ムード一色になっていました。
 この「事件」が「南京(虐殺)事件」として明らかになったのは、戦後、東京裁判と南京法廷においてでした。
 その後、1970年代に入って、この「事件」を巡っての論争が激しくなります。「大虐殺」(30万とも)が行われたという主張とそれに反対する「まぼろし」派、中間派など、当時の教科書検定ともからんで、マスコミを巻き込んで取り上げられるようになっていきました。これには、中国の対日姿勢、日本の対中政策とも密接に、国際問題・政治問題化されていくのです。
 筆者は、そうした論争を検証しながら、当時の日本軍の戦闘詳報、陣中日誌、参戦指揮官・兵士たちの日記などの多くの資料を駆使して、事件の実態、すなわち虐殺の構造、どうしてこのような「事件」(虐殺)が起こったのかという根本に迫っています。被害者数について、筆者は、中間派の立場から、様々な資料をもとに4万人ととらえています。
 さらに、「南京『大』虐殺はなかった」と言い張る人々、中国政府が堅持する「30万人」や「40万人」という象徴的な数字にこだわる人々への批判をしつつも、「数字の幅に諸論があるとはいえ、南京での日本軍による大量の『虐殺』と各種の非行事件が起きたのは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい。そして、この認識なしに、今後の日中友好はありえないと、確信する」と述べています。(ここまでは、1986年の初版版)
 それから20年後、虐殺の有無や被害者数など国内外で続いた論争史を「増補版」というかたちで刊行しました。
 日本軍による重慶爆撃、アメリカ軍による広島、長崎の原爆投下、東京大空襲・・・。第二次世界大戦による、市民被害者数は、いまだに実態が明らかにされません。また、その責任もあやふやです。当事者の国々の研究者、市民レベルでの検証が求められているような気がします。
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133 京成電車・白髭線の跡を歩く 

2009-08-28 23:35:40 | 鉄道遺跡
 さっそく歩いてみました、白髭線の跡をたどって(「鉄道廃線跡を歩くⅨ」P89~92)。
 現在の京成押上線の八広寄りの踏切(前に掲載した場所)からスタートして、曳舟川通りを渡り、「長浦駅」跡付近。そこから、ごみごみした住宅街の中、行ったり来たりしながら路地裏を歩いて、水戸街道に出ました。
 そこから、道路の向かい側の駐車場に。正面の民家から少し南側に曲線を描いて住宅が並んでいます。たしかに線路跡地という土地の形状に合わせて並んでいるようです。
 この辺りから、東武線を跨ぐためにちょっと用地が広くなって勾配になって(土手状)玉の井駅となりますが、場所は、特定できませんでした。
 東武線・東向島駅(旧玉の井駅)の北西の高架線脇の路地に、橋台の基礎部分の鉄筋が残っている、とありましたが、残念ながら確認できず。
 ここから一直線に線路は続いていたようです。大正通り(商店街)の道の少し南側の路地を進むと、「長寿庭園」。狭い道路と住宅が線路の幅のまま西に向かって行きます。このあたりは、確認できます。
 大正通りの南側に沿って建てられている「白髭橋病院」。その南側に沿って細長い敷地があり、そこに(南側の明治通りのすぐ北側)終点の白髭駅があった、という。たしかに工場・住宅が直線に並んで建てられているのがわかります。
 また、旧白髭駅のすぐ西側を通る墨堤通りからの駅への入り口の路地と、駅に隣接されていた公設市場(現在は、個人商店が建ち並ぶ一画、線路があった当時からの八百屋さんも健在)も確認できました。
 写真は、終点・白髭駅手前の線路跡。左側のガチャポンの工場と細い通路が線路跡。
 改めて昭和22年の航空写真(goo)を見ると、一面、焼け野原の中に線路跡が点々と浮かび上がっていることに気づきました。
 解説書を頼りの歩いての探索でしたが、気になっていたことが晴れたような、何となくすっきりした気分になりました。
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読書21「鉄道廃線跡を歩くⅨ」(宮脇俊三編著)JTBキャンブックス

2009-08-27 21:41:50 | つぶやき
 とっくの昔に廃線となった、京成電気軌道白髭線。その痕跡を探して、始発駅の向島駅から終点の白髭駅まで、自転車や徒歩で二、三回行ってみました。
 けれども、その痕跡は全くなく、せいぜい京成押上線の曳舟・八広間の線路際に残されているくらい(それも何となく想像できるという程度で、今やそれも高架線工事のために跡形もなくなっています)。それ以外は、全く分からないと思っていました。
 昭和22年の航空写真(goo)では、まだ線路の敷地と思われる場所が散見できます。点々とぼんやりと輪郭がうかがわれだけですが、それでも、たどっていくと、始発駅から終点まで何とかつかめるのが、航空写真のおかげ。
 それからすでに60年以上が経過し、今や全く面影がない、ということをこのブログで書いたことがあります。
 このシリーズには、載せられてあるだろうとは思っていましたが、意地でも調べないようにしていました。でも、かなり気になっていたことも事実。
 そこで、今回、この本を入手して確認しました。当時の地図や5万分の一の地図を紹介して、さらに現在の(といっても、2002年発行当時)現地写真まで掲載されています。私が歩いて見過ごしたところも、写真付きできちんと実地検分したようすが説明されてありました。(この項は、岡田克孝さんの署名入りですが。)改めて、私の不明を恥じました。
 ただ、廃線に関して、もう一つ取り上げている城東電気軌道の跡の記事は、その廃線になった跡が何カ所も断続的に緑道公園になっているせいもあって、私もほぼ同じ道筋をたどって記事にすることができています。
 「鉄道廃線跡を歩く」シリーズは、国内の廃線を現地調査したもので、写真や記事を見るだけで、私の中では、もぜひ行ってみたいと思うような高揚感がもたらされます(かなりマニアックですが・・・。)ⅠからⅩまでで10冊が発行済み。 
 この他にも、未成線、保存鉄道さらに海外の保存鉄道等々、多彩な内容を持ったシリーズとなっています。
 廃線跡の旅は、実に奥深いものがあります。著者は、鉄道に関して、その道の権威中の権威。その多年の成果の跡を追わせていただけるだけでも、とても満ち足りた気分になりました。
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読書20「本格ミステリ09」(本格ミステリ作家クラブ編)講談社ノベルス

2009-08-26 19:15:40 | つぶやき
 今度は、ちょっと趣をかえて。クーラーのよくきいた、夏の午後、自分の部屋の畳の上で、ごろりと横になりながら読んだ本。途中気がついたらぽろりと手から離れて、いつしか午睡になってしまいましたが。実は、けっこう「ミステリ」好きでして、かといって濃い内容のものは苦手でして。
 以前は、よく松本清張は、ずいぶんと読みました。今でも家のどこかに段ボールにしまわれて全集であるはずですが。
「ミステリ」といういい方にはどうも?推理小説といういい方とか、社会派といういい方とかそういほうがなじみが深かったものです。
 このアンソロジーは、昨年に発表された本格的なミステリ作品をセレクトして編集されたものです。「本格ミステリ作家クラブ」が選んでいますので、ある種のオーソリティがあるようです。今年で9回目とのこと。たしかに短編ながら読み応えのある作品が目立ちます。
 法月綸太郎、小林泰三、有栖川有栖、柄刀一など常連?に混じって三津田新三、沢村浩輔なども取り上げられている。私自身も初めて読んだ。
 中でも、私的には、千野帽子の「評論」がとても面白かった。ポーの「モルグ街の殺人」(1841年)がミステリの歴史では元祖と称せられる作品。しかし先行する作品として、バルザックの「コルネリウス卿」(1831年)、メリメの「イールのヴィーナス」(1837年)を作品を紹介しながら、小説という大きな枠組みにあきたらず、ジャンルという型にこだわること(特に読者や評論家が)によって、かえって小説のおもしろさ、可能性というものを狭めているのではないか、と問題提起している。
 この筆者のことは、初めて知ったが、実にあらゆるジャンル(こういういい方こそ、固定観念にとらわれていて、筆者の嫌うところだが)の本に接して精通していることに驚いた。この評論シリーズは、いずれまとまって単行本化されるようなので期待したい。
 
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読書19「江戸演劇史上下」(渡辺保)講談社

2009-08-25 20:07:32 | つぶやき
 上下2巻の大部の論文。筆者は、ベテランの演劇評論家。歌舞伎を中心に、中世や近世の演劇を俯瞰している論文が多い。
 この大著は、筆者の半生をかけた評論活動の集大成ともいうべきもの。上巻は、戦国時代後半から江戸初期の芸能事情を皮切りに、1700年代後半までを扱う。
 さまざまな芸能の中から、お国の「歌舞伎舞」の官能的な踊りから始まった、遊女歌舞伎が全盛を迎えるも、寛永6(1629)年になっての女歌舞伎の禁止。
 そこに、筆者は、人々の新しい時代への予感と不安を背景にした芸能の登場をみる。また、「禁止」が表すように、江戸時代の到来を新しい管理社会の出現としてとらえる。
 この視点から、人形浄瑠璃に代わって、上から庶民までが受け入れた、歌舞伎の興隆と発展、事件や弾圧などを織り交ぜながら、実証的に話を進めていく。
 「中村座」や「森田座」などの栄枯盛衰、団十郎、続く富三郎、菊之丞などの役者たち。作品としては、「国性爺合戦」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」また「仮名手本忠臣蔵」(いずれも今も上演されている大当たりした名作)などを素材にして、歌舞伎の受容(上からも庶民からも)と反発(上からの)などの推移を明らかにしている。
 今も連綿と続く、歌舞伎役者の系譜、作品の継承など興味深い内容。それが、すべて許容されてきたわけではなく、弾圧?規制とのせめぎ合いの中で、作り上げてきた歌舞伎の歴史が詳しく述べられている。
 なおカバーの錦絵は、二代目団十郎(当時海老蔵)の助六。ほとんど一度は観たことのある作品や今も残る名跡が登場して、大変面白かった。下巻も引き続いて読みたいと思う。
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読書18「文学2009」(日本文芸家協会編)講談社

2009-08-24 23:50:13 | つぶやき
 先だって、「芥川賞」「直木賞」が発表され、文藝春秋には芥川賞の作品が全文掲載されていました。商業出版的には、どれほどの売り上げがあるのか、定かではありませんが、話題性など、マスコミが発表の時に取り上げるくらいで、巷の話題にはならないような気がします。
 文学の衰退、特に純文学・小説の衰退、読者離れが言われてもうどれくらい経つでしょうか。純文学と大衆文学との境目論争などが文壇を賑わしてからも・・・。
 庄野頼子さんが「純文学論争」を仕掛けていた頃は、今思うとまだまだ牧歌的で懐かしい感じがします。(庄野さんのこだわりはすごい?ものがありますが)
 さて、「文学○○年」は、主として純文学と称される短編小説のアンソロジーです。毎年、その年の前年の注目を引く作品を集めています。毎年のように読んでいると、登場する作家には、あまり読んだことのない人もいますが、ベテランの作家達も目立ちます。
 ここ何年かのテーマというか、内容は「老いと死」。こうした内容が、若い人などの読者層離れを招いているのかもしれません。
 ここでも、作家自身の年齢も、1922年生まれの瀬戸内寂聴さんから1983年生まれの青山七恵さんまで幅広い年齢の作家が収録されています。けれども、大きく括って言えば、やはり同じようなテーマ(作家としての問題意識)と言えるでしょう。
 中沢けいさんが解説でも述べているように、「死は身の内から滲み出してくるというときの身という言葉は、ただの肉体や身体のことを言っているものではなく、遠回しに自分と世界との関係を物語ろうとしているように、言葉でしか表現できないものがそこにある」と思います。
 言葉から紡ぎ出される文学の世界(あまりにも軽率でいいかげんな言葉遣いが受けている世の中にあって)の「復権」を求めていく(求められている)ことの大事さを改めて感じました。
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読書17「水道が語る古代ローマ繁栄史」(中川良隆)鹿島出版会

2009-08-23 20:06:40 | つぶやき
 水(川)に関連する、日本での最古の石造りの建築物で現存するものは、堀などの城壁を除けば、長崎の眼鏡橋だという。長崎市の中島川に架かる石造二連アーチ橋で、1634(寛永11)年に完成。1982(昭和57)年の長崎大水害で半壊し、修復されている。
 この本で話題される上下水道に関して。江戸の市民への上水施設・本格的な上水道、神田上水、玉川上水、あるいは亀有上水などの整備がなされたのは、1620年代以降であった。
 しかし、古代ローマでは、紀元前3世紀のアッピア水道の完成以降、10以上に及ぶ幹線水路を造りあげた。それも、江戸のように開削水路ではなく、トンネルや蓋付きの水道橋が主体であった。それも、こうした技術は、ローマの属州となった国々にも波及し、今でも、フランスのボン・デュ・ガール・三層の石造アーチ橋(ニーム水道)が世界遺産に指定されるなど、ヨーロッパ各地に保存されている。
 当時のローマはすでに人口は百万人だったという。その密集した地域に住む人々の上下水道の完備は、工学的技術はもちろんのこと、その発想、インフラの整備、管理維持など現代の我々にも多くの示唆を与えている。
 日本は、弥生式文化の時代から、卑弥呼などが登場する古代の頃。すでに、古代ローマでは、11本の幹線水路が完成している。その総延長は、504㌔(ほぼ東京・大阪間に匹敵)、そのうち、トンネルが431㌔、橋梁が59㌔であった。そこには、サイホンの原理に基づく工学・土木技術などが駆使された。また、市内には、誘水路、鉛管や陶管などを使っての各家(建物)への供給(鉛に関しては、鉛害が引き起こされるが)、使用規定、料金など細かく管理運営されていた。下水道も整備されていたという。(江戸でも、上下水道の整備は進んではいたが)
 また、今でも各所に現存する噴水、公共浴場に対する水の利用。それが、日本との文化比較論にもつながる。ちなみに、日本の最古の泉(噴水)は、金沢の兼六園にあるそうだが、ローマの噴水の豪華さ、荘大さなどに比べると、実にささやかなものであることが知れる。
 筆者は、大成建設で瀬戸大橋や明石海峡大橋の建設に携わった土木技術者、現在、東洋大学工学部環境建設学科教授をされている。  
 そうした長年培った現場感覚、実証主義的観点から、古代ローマの水道について述べた書であり、(江戸上水との比較も興味深い)写真・資料も多く、目で見るだけでも面白い。
 また、安全な飲料水の供給、下水道の整備など、これまでの土木工学的な成果をアフリカなどの良質の水に恵まれない地域への技術提供の重要さも指摘する、筆者の姿勢に共感を覚えた。
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読書16「テロとユートピア」(長山靖生)新潮選書

2009-08-22 20:29:05 | つぶやき
 昭和11(1936)年の2・26事件は、陸軍の皇道派青年将校が引き起こしたクーデター。それに先だつ5・15事件は、海軍の青年将校と陸軍士官候補生が中心となって引き起こされた。
 昭和7(1932)年5月15日夕刻、首相官邸で家族と食事をしていた犬養毅首相が襲われ暗殺された。この事件によって、日本の軍国化に拍車がかかった、とされる。
 「話せばわかる」のデモクラシー(議会制)は終わりを告げ、「問答無用」のファシズムに大きく日本が旋回したとも言われている。
 この事件の黒幕とされたのが、本書の主人公である「橘孝三郎」。2・26事件が北一輝の影響を受けたクーデターだった、とされるなかで、それと対応するかたちで、この橘孝三郎を5・15事件の首謀者とする言説が一般化されていく。
 筆者は、この言説がどのようにして一般化することになったのか、橘孝三郎の生涯、思想的立場を解明して、そうした「言説」のまやかしを批判する。
 水戸市郊外において、彼の考え方に共感する人々と共同生活をしながら、農業実践に取り組む「農本主義者」としての面目を探りながら、そうした「理想主義」者が、井上日召(一人一殺を掲げるテロ集団・血盟団盟主)等の国家主義者などに接近していくことになった経過を実証的に明らかにしていく。それが、「テロとユートピア」すなわち、ユートピアがテロに絡め取られていく過程を描いている。
 さらに、5・15事件を生んだ状況が、現代のバブル崩壊から、新国家主義による社会的格差・ひずみ、農村の疲弊・崩壊という現代の状況と変わらないことに警鐘を鳴らし、その中で、農本主義者・橘孝三郎の持つ思想に対して、現代史的な位置づけを行っている。
 そこでは、今の農業政策が農民の思いとはかけ離れていることを指摘しつつ、農業振興策が政治という大きな流れの中で、翻弄されている現状を厳しく批判している。よかれと思う、市井の人間の思想・行動が、戦前のファシズムに呑み込まれてしまったように、現在の政治の危うさを指摘している点が興味深かった。
 橘孝三郎は、戦後も水戸郊外で一農民として暮らし、「愛郷塾」を続けながら、昭和49年に81歳の生涯を終えた、という。
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読書15「連続講義 暴力とジェンダー」(林 博史・中村桃子・細谷実編著)白澤社

2009-08-21 20:18:22 | つぶやき
 この本は、関東学院大学生涯学習センターの公開講座「平和について語る4女と男の平和学ー男女共生社会をめざして」(2008年11月~12月)でおこなった5回の連続講義を基にして編纂されたもの。
 講義1は、「アキハバラ事件と男の暴力」。講義2は、「視覚メディアと性暴力的表現」。講義3は、「戦争と『女ことば』」。講義4は、「人身取引される女性たち」。講義5は、「日本軍『慰安婦』制度と米軍の性暴力」。
 「ジェンダー」という言葉は、社会的、文化的に作り出された性差、性役割、男はこうある(べき)もの、女はこうある(べき)ものといった規定・規範等を指す言葉。そのことと平和・戦争との絡み合いを中心にして講義が進められている。講師は専門が哲学、社会学、政治学や言語学であったり、あるいは弁護士など、様々な角度からの講義集。
 それぞれ興味深く、深刻に考えなければならない課題を含む内容だったが、特に関心を持ったのは、講義1と講義3についてである。
 たしかに凶悪な無差別大量殺人は、日本でも、欧米でも、男性によって引き起こされている。そうした暴力行為に突き進む男の暴力性を軍隊組織(戦闘集団)とからませながら、歴史的視点から分析した内容で、たいへん面白かった。
 また、講義3は、国民共通の国語というものの成立が、近代国家(国民国家)の成立・統合、発展には欠かせないものであったことにふれながら、一方で「女らしい」言葉遣いの奨励・しつけが、日本の東南アジアへの侵略戦争とからんで、高貴ある、伝統的「皇室」言葉につながる言葉だという上に立って、強制されてきたことが明かされていく。
 他の講義もなかなか現代的な問題点を鋭くついて興味深かった。それぞれの講義のあとには、より詳しく問題点に迫っていくための参考文献も載せられていて、読者に大変親切なものとなっている。 
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読書14「記憶の中の幸田一族(青木玉対談集)」講談社文庫

2009-08-20 20:58:07 | つぶやき
 楽屋話というか、内輪話というのは、興味を持っている人には最高に面白い。まして、少しでも内情を知っていて、さらにもっと、という場合には・・・。
 しかし、それを第三者に聞かせたり、読んで貰うとなると、話すのはちょっと引けるのが、一般世間の人ではないか。
 有名人ともなると、TVや雑誌などで、故人にまつわる「思い出話」を語る、連れ合いや子供、孫、個人的なつながりのあった関係者も多い。中には、まだ生きている当の本人を目の前にして、暴露的に私生活を話すという露悪的な趣味の番組もあるが。
 本人や家族、あるいは事件、事故に全く無関係な人には、それが何なの? という感じもしないでもないが、実際に見たり聞いたり読んだりしているうちに引き込まれてしまうのも、事実。これが不思議な心の変化。
 ついつい「へえ、そういうことだったのか。そんな人物だったのか。さぞかし大変だったろうな、周りの人間は・・・」などと思いつつ、我が身や周りの人物に当てはめてみたりして、より親近感を持ったりする。
 そんな一つが、この本。あの文豪にしてこの子あり、この孫あり、という感じで。
また対談相手も、文豪に関わっているそうそうたるメンバー。これで、話がはずまないわけがない、読者に興味を持たせないわけがない。
 明治の「文豪」幸田露伴とその娘「文」そしてその孫の「玉」。孫の青木玉さんが祖父や母、祖父の連れ合い(二人の祖母)、曾祖父(母)また大叔父や大叔母など、一族の人物像を通して、文豪を取り巻く人間模様を語っている。
 特にいかに「女は剛(強)かった」かが、興味深く語られる。文豪も形無しの世界。まして、実の孫ともなると、長い時代を経て、客観的に語ることも出来るのだろう。
 これが、赤の他人によって、露伴の私生活や性情を根掘り葉掘り描いたら、それこそ、身内眷属から顰蹙を買ってしまうだろう。
 ということで、露伴の小説などを少しかじり、幸田文の文章に少しばかり接し、孫の文章にも接したことのある人にとっては、再確認できる内容。
 初めての人には、こんな家族があったのか、というような驚き・・・。そういう多面的に楽しめる本であった。読みながらくすくす笑みがこぼれるような対談のすばらしさ(妙)も。
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読書13「文学という毒」(青山学院大学文学部日本文学科編)笠間書院

2009-08-19 22:06:32 | つぶやき
 青学の文学部日本文学科の企画による、国際シンポジウムの記録。さすが青学だけのことはあって、日本の近世(時代区分では江戸時代)文学、イギリス文学、中国文学など、それぞれを比較・検討しながら、同時代的に俯瞰しようという試み。
 その話題の中心・視点を「諷刺・パラドックス・反権力」に置いている。
 素材としては「ガリバー旅行記」、秋成の読み本、西鶴などの浮世草子、そして中国の古典(これは時代区分的には古代)を取り上げて、文学そのものの毒(これは同時代的にとどまらず、後々までも共感・共鳴を通して、したたかに人口に膾炙されつつ普遍化?していく、という要素を持つ、とのこと)が多彩に語られ、討議されていく。
 そのリアルな臨場感が伝わってくる感じ。パラドックス、アイロニーを主とする、レトリックの表現(上)の技巧のおもしろさ(言語表現に隠された真意?)をいかにつかみとらせるか、とるかが、作者と読者のせめぎ合いだ、というような、論者たちに共通としてある、確乎とした発言の重さを改めて感じた。
 「文学の毒」を語る、このシンポジウムをある意味で特徴付けた事柄・事件?が掲載されている。
 パネラーの一人・高山宏氏(私にとって興味深い評論家・学者の一人)の、古今東西にわたるうんちくのある発言に、会場から匿名で「高山はパーである」という質問状?が出された。
 これに対する反論が高山氏から語られる。「一番腹が立った」。匿名性と「パーということの理由がない」ことの二点。それを持ち前の諧謔性を元に、自己分析した「ふり」をしつつ「匿名に隠れるこういう卑しい人間はこういう所に来るな」と。
 話はこれにとどまらず、他のパネラーも終わりの方で補足する。
(長島)「私も高山さんへの非難中傷についてあれが毒だと思っているなら、今日の議論はさっぱりわかっていないということだ。要するに、いやしい中傷と毒とは全く別物です。」
 さらに(富山)「学生たちがブログで使う言葉には、もうレトリックなんていうものはほとんどない。直接的に相手を非難する。それで自分の名前を隠している。この文章(「(高山は)パーである」)を見て瞬間的に感じたのは、ブログの文体です。声を荒げたくなる・・・。」
 最後に(篠原)「同感です。熱くなってきました(笑)・・・」
 還暦を迎える(迎えた)論者が丁々発止とやりあう面白い話題でした。その場にいた、若き30代のイギリスの学者はこのとき、どのような感想を持ったのでしょうか?
 
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132 見上げるほど高くなったスカイツリー

2009-08-18 19:32:54 | つぶやき
 しばらくぶりに撮ったスカイツリー。もう、ちょっとそばの横町の、路地からもその姿が望めます。辺りを圧倒するくらいの高さになっています。土台の建物から本体のツリー部分にさしかかりつつあるのでしょうか。
 いよいよ今日から総選挙。長い助走を経て、やっと本番。一斉に候補者が走り出しました。「スカイツリー」は日一日と高く高く伸びていきます。果たして30日にはどれくらいの高さになっているやら。
 「政権交代」。長年の自公政権の、やりたい放題の政治の尻ぬぐいをしなければならない民主党もとても気の毒ですが、「政権交代選挙」という現実の姿が、気がついたらこのように未来を見据えて、多くの国民の注目を浴びるようになっていって欲しいと・・・。
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読書12「三国志談義」(安野光雅・半藤一利)平凡社

2009-08-17 19:36:06 | つぶやき
 吉川英治の小説「三国志」。高校のころ読んだことがあったが、長じてから、ずっと後に書かれた横山光輝の漫画「三国志」。。長編の漫画で、何十巻あったかしら、次々と買い込んでは私のようないい大人も読んでいた。それからゲームの「三国志」(私はやらなかったが、ちょっとした大人も夢中になっていたそうだ)。こうみると、世代を超えて人気のある物語が、「三国志」のよう。
 本場の中国でも京劇でさかんに演じられる。かつて日本に来た京劇で関羽にまつわるものを観たことが。あの独特の、キーの高い発声と賑やかな音楽と派手な立ち居振る舞いに圧倒されたことをふと想い出した。
 この本は、画家の安野さんが「繪本三国志」の出版記念に企画された、作家の半藤さんとの対談集。 談論風発。お二人の自在な対談が楽しめる。
 現地に取材して中国の悠久の大地に根ざし、栄枯盛衰の時代に目を向けた対話の妙から始まり、歴史観、人物観など時に日本の戦国時代の武将像や明治以降の軍部のあり方など、時空を越えた対談が興味を大いに誘った。
 3世紀に書かれた古い歴史書の「三国志」(正史)そのものよりも、14世紀に書かれた小説の「三国志演義」のほうが一般的にはなじみが深かったらしい。何しろ、蜀の興隆と滅亡の歴史が中心。劉備玄徳や諸葛亮孔明など多彩な登場人物が織りなす、感動のドラマ仕立てだから。三国のうち、魏や呉は旗色が悪かった。お二人は、それをふまえた上で、教養豊かな三国志論を語り合っている。それでいて、コンパクトに仕上がっている。安野さんの絵も、小さいながらいくつも紹介されている。味わい深い絵の数々。・・・
 こうした物語に登場する、中国の人間と大地の間をじっくり旅したいと思いつつも、果たせない今日この頃である。
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