おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR埼京線「板橋」駅~JR武蔵野線「新座」駅。その4。(「川越街道」第1日目。)

2018-12-28 19:20:11 | 川越街道
                              「白子川」を渡り、「白子宿」(和光市内)へ。

1880年代のようす。○が「白子宿」エリア。


2010年代のようす。まだまだ緑が多い。東北側に東武東上線。

白子宿
 川越街道(川越・児玉往還)にあった宿場。現在の埼玉県和光市白子にあたる。
 現在の川越街道旧道と白子川が出会う場所から熊野神社までが中心部と推測される(白子2丁目)。豊富な湧き水を利用した造酒が盛んであった。
 元々白子(シラコ)は「新羅」の転訛で、渡来人らが開いた土地とされ、古代からこの辺り一帯の中心地であったと推測されている。川越街道がこの地に宿場に置いたのも、自然発生的な結果であろう。
 しかし並走するように北側に東武鉄道が開通すると成増駅と和光市駅周辺に賑わいは移り、現在は和光市の町名に残るのみとなっている。当時の面影を残すものは熊野神社や富沢家などを除いてほとんどない。
(この項、「Wikipedia」より)

(13:33)「白子川」。

「くつがなる」の歌詞。 
1お手(てて)つないで 野道を行(ゆ)けば
 みんな可愛(かわ)い 小鳥になつて
 歌をうたへば 靴が鳴る
 晴れたみ空に 靴が鳴る

2花をつんでは お頭(つむ)にさせば
 みんな可愛(かわ)い うさぎになつて
 はねて踊れば 靴が鳴る
 晴れたみ空に 靴が鳴る

この童謡の作詩家・清水かつら氏と「白子宿」の関係は?

郷土の偉人 童謡詩人 「清水 かつら」
<<< 童謡詩人 清水 かつら >>>(1898年~1951年)
 日本を代表する童謡詩人である清水かつら(本名・桂)は、明治31年(1898年)7月1日に東京本所小名木川(現在の東京都江東区深川)で生まれました。
 子どもの頃から文学に深い興味と優れた理解力があり、商業学校を経て、出版社に入社し、雑誌の編集に携わるかたわら詩作に励みました。
 大正12年(1923年)の関東大震災で家屋・家財を失ったかつらは、母の実家のある新倉村(現和光市下新倉)に身を寄せ、その後、白子村(現和光市白子)に移り住むことになりました。
 昭和26年(1951年)7月4日、病気でこの世を去るまで、この地で武蔵野の自然と子どもの純真さを愛して作詩した数々の童謡は、多くの人々に親しまれています。

代表作
叱られて・靴が鳴る・雀の学校・みどりのそよ風 など

(この項、「」HPより)

東武東上線和光市駅南口にある歌碑。 

                              (HPより) 

橋のたもとにある「道路元標」。   

現在の街並み。  

  「白子宿通り」の標識(「中宿」付近)。 

「魚くめ」。

上り坂の右手のおうち。旅籠「川越屋」跡(富澤家)。

「大坂」への上りから宿内を望む。

けっこう急な坂道にさしかかります。

左手には「大坂ふれあいの森」が。

 
湧き水の町「白子宿」
 お江戸日本橋から川越まで、川越街道の宿場として栄えた。江戸時代の紀行文に、「此のしらこ宿の町の左右には清潔の水漲(みなぎ)り流れて潤沢なるは尤(もっと)も浦山(うらやま)し」とあります。石垣湧水道など湧水利用の文化があり、白子は「自然と歴史の交差点」と言われるゆえんです。湧き水と共にのこしていきたい和光の宝です。


陽光と せせらぎの音 森の里 まり子

 武蔵野台地末端から湧き出す水とそれを取り囲む樹林地にはイヌタデ、ムクなどの茂り、カタクリ、イチリンソウ、キツネノカミソリなどの野生植物が咲く、春はウグイスなどの鳴き声が聞かれ、夏になると水辺にはオニヤンマやシオカラトンボが飛び交う光景が愉しめる(昔はホタルもたくさんいた)。とても貴重で豊かな生態系が残された市民緑地です。           

                    振り返る。

(13:46)「笹目通り」を越えて行きます。 
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JR埼京線「板橋」駅~JR武蔵野線「新座」駅。その3。(「川越街道」第1日目。)

2018-12-27 21:46:55 | 川越街道
(11:51)旧街道(北一商店街通り)は「環八通り」の上に出ます。

大山道標」。
下練馬の大山道道標
 旧川越街道とふじ大山道の分岐点に宝暦3年(1753)8月、下練馬村講中によって建てられた道標です。上部の不動明王像は後に制作されたものです。
 江戸時代に盛んであった富士・大山信仰に関する資料として貴重なものです。

東高野山道標
 「左東高野山道」と刻まれた角柱は、高野台3丁目の長命寺への道しるべです。長命寺は紀伊の高野山を模して伽藍を整え、山号を東高野山と称しています。

 この二つの道標は、環状8号線の工事により元の位置から8㍍ほど西側に移動し、現在の場所に設置されたものです。
 移転前は、相模の大山への道しるべとして、また東高野山への道しるべとして江戸方面から来る人々のため、東南東の向きに置かれたいました。現在は見学しやすいように向きを変えています。

 不動明王像の台座には「従是大山道 天下泰平 国土安全」「ふじ山道 田なし三里 府中え五里」と刻まれています。

「環八通り」を越えた右手には脇本陣、さらにその先には本陣跡がありますが、脇本陣の内田家は工事中。


相変わらず商店街が続きます。歳末大売り出しの最中。
                          しきりにアナウンスで景品の種類が「足軽」とか「旗本」とか言っているようですが聞き取れず。

浅間神社には「旧川越街道」の解説板。
旧川越街道
 この道は、戦国時代の太田道灌が川越城と江戸城を築いた頃、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道でした。
 江戸時代には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。日本橋から川越城下まで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藷(いも)の宣伝にも一役かいました。
 下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村ヘ二十六丁、下白子村ヘ一里十丁、道幅五間、南に折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。
 上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています。
 通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継ぎの問屋場などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。
 浅間神社の富士山、大山不動尊の道標、石観音の石造物に昔の街道の面影を偲ぶことができます。


この神社には「富士塚」が残っています。

ここにも解説板。
旧川越街道
 ・・・「栗より(九里四里)うまい十三里」は、川越芋の宣伝文句として有名ですが、江戸・川越間は、九里足す四里の計十三里(約51キロメートル)でした。・・・

北町上宿公園」。
・・・宿場町は上宿・中宿・下宿に分かれ、現在の北町2丁目付近は「上宿」と呼ばれていたことから、現地名の「北町」と合わせこの公園名を「北町上宿公園」としました。
                              

(12:19)「下練馬宿」を出ると、「国道254号線」に合流します。

              

地下鉄「赤塚」駅付近で昼食休憩。駅手前に「庚申塚」。

(13:03)再開。武者姿のモニュメント。 
 「鎌倉古道 至 はやせ 至 かまくら」。 (注:「はやせ」は、荒川の渡し名。対岸の戸田へ渡る。)

(13:16)その先には「小治兵衛窪庚申尊」。
庚申塔
 庚申庚申 (かのえさる)の日に、近隣の人々が集まり豊作や健康を祈る行事を庚申待庚申待という。この供養に立てたのが庚申塔庚申塔である。
 この塔の正面には六手を持った青面金剛青面金剛 が陽刻してある。手に弓矢、宝剣を持ち、頭髪は上指て三猿三猿の上に座っている。座像彫刻は比較的珍しい塔である。右面には武州豊嶋郡狭田領上赤塚村とあり、左面には天明3癸卯(みずのとう)年2月吉日と刻んである。庚申様は道祖神道祖神として交通安全や町内安全の守り神ともなっている。
 このあたりは「小治兵衛久保」という地名で呼ばれていた。また、「橋を作ってくれた盗人小治兵衛」の民話が残っている。この民話と共に古くから残る庚申塔は一度は松月院松月院に永代供養永代供養を依頼した時期もあったが、成増成増南町会周辺の数少ない史跡として、再びこの地に安置し、町民の心の支えとして、末永くお祭りすることにした。

昭和63年1月吉日 成増南町会氷川神社管理運営委員会

 以下は「Google Earthで街並散歩(江戸編)」
ストリートビューと「ウィキペディア(Wikipedia)」で東京(江戸名称)の街並を見てみよう。のHPから引用します。

・・・
 小治兵衛窪の地名の起こりについては、次のような伝説がある。
 昔ここを流れていた百々向(すずむき)川に一本の丸木橋が架けられていた。とてもさびしい場所で、毎晩のように強盗が出没し、通行人から恐れられていた。
 ある朝立派な橋が架け替えられていて、橋のてすりに「たくさんの悪いことをしたので、罪ほろぼしにこの橋を造る。小治兵衛」と書かれた木札が下げられていた。その後は便利になったばかりか強盗も出なくなったというものである。 (「小治兵衛窪庚申尊   成増2-6」より)
・・・
 昔、ここを流れていた百々向川に1本の丸太橋が架けられていましたが、毎晩のように強盗が出没し、1本橋ゆえ逃げ場がないため、村人からはたいそう恐れられていたそうな。ある朝、立派な橋に架け替えられていて、橋の手すりに「たくさんの悪いことをしたので、罪滅ぼしにこの橋を造る。小治兵衛」と書かれた木札が下げられていたそうな・・
 小治兵衛窪付近にはかつて、共同の洗い場があって付近の農家が野菜を洗っていたといいます。(「スリバチブログ – 小治兵衛窪という名の二級スリバチ」より)

「国道254号線(現川越街道)」。

「成増」駅を過ぎ、下り坂になると、旧道は右の道を進みます。 

「新田坂」。

だんだん国道との高低差が出てきます。

旧道は一気に下って行きます。坂の途中に道祖神や地蔵などが集められています。 

(13:29)坂道を振り返る。

 旧道をしばらく進むと、埼玉県和光市に入ります。次の「白子宿」へ向かいます。

道沿いのおうち。       
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JR埼京線「板橋」駅~JR武蔵野線「新座」駅。その2。(「川越街道」第1日目。)

2018-12-26 22:28:19 | 川越街道

「下頭橋」を渡ってすぐ左の道を進むのが、「旧川越街道」。

                              

 「環七」と「国道254号線(現川越街道)」との交差点「板橋中央陸橋」にぶつかり、そのまま進みます。

  
            その手前に、「旧川越街道」という標識あり。                        

(11:17)「本郷まで9㎞」ポスト。

 
しばらく国道を進み、右の道に入ります。↓の道。「下練馬宿」となります。
国道の中央分離帯にある「五本けやき」が見えてきます。

  

改正道路と五本けやき」。
 昭和の初め、東京の郊外に都市化の波が広がっていったが、これにともない、都市計画道路工事も相次いで行われた。
 新川越街道(現・国道254号)も一環として新設された道路の一つで、昭和2年に計画されており、このうち板橋区内の工事は9か所に分けられ、昭和8年から同19年にかけてそれぞれ完成をみている。
 当初、旧川越街道と区別することもあって改正道路と称していた時期があった。
 さて、五本けやきは元板橋村々長・飯島弥十郎家の屋敷林の一部であった。道路用地となったため、切り倒される予定であったが、同家の強い要望もあって工事は木を避け、昭和13年~翌14年にかけ完成した。
 武蔵野の面影を残す五本けやきは、ドライバーの疲れを癒やすオアシス的存在であり、昭和45年には地元有志によって五本けやき保存会も発足し、その保護に努めている。

街道に戻ります。

周囲を高い建物で囲まれた趣のあるおうち。

よく手入れされた大きい庭のおうち。

 ここも、街道沿いに発展した商店街。「下練馬宿」。
「宿場まつり」開催中。

東武練馬駅周辺で11月18日、「下練馬宿(しもねりまじゅく)まつり 将軍綱吉と練馬大根」が開かれる。
 練馬区北町の3商店街(北一商店街振興組合、きたまち商店街振興組合、ニュー北町商店街振興組合)が組織する「下練馬宿活性化委員会」が、区内唯一の宿場町「下練馬宿」があった北町地域の魅力を発信することを目的に開く同イベントは、今回が初開催。
 江戸時代、江戸城から川越城を結ぶ川越街道が通り、江戸から大山・富士山へと続く大山道が分岐する同地域は、宿場町「下練馬宿」として栄え、徳川綱吉が下練馬村の大木金兵衛に練馬大根の培養を命じ、年々献上させていたという言い伝えがある。
 当日は、言い伝えを再現する劇や徳川綱吉、金兵衛などに扮(ふん)した約50人が商店街を練り歩く時代行列を行う。再現劇は、電車の見える公園、浅間神社、北町上宿公園の3会場で行う。当日、和装で来場し、3会場でスタンプを集めた人に先着で練馬大根や肉引換券を進呈する。

(この項、「練馬経済新聞」HPより。既に終わった行事ですが。)

 すぐ右から来る道は中山道の志村坂上からの「大山道」らしい。


「旧中山道」清水坂との分岐点にあった道標を再掲。
    

富士・大山道の道標と庚申塔」。  
 富士・大山道とは、霊山である富士山や神奈川の大山に通じる道です。この場所は中山道から富士・大山道が分岐する場所でした。
 向かって左側の道標(道しるべ)は、寛政4年(1792)に建てられたもので、正面には「是より大山道并(ならびに)ねりま川こへ(川越)みち」と刻まれています。右側の庚申塔は、万延元年(1860)に建てられたもので、左側面に「是ヨリ富士山大山道」とあり、練馬・柳澤(西東京市)・府中への距離が示されています。
 この二基の石造物は、江戸時代の交通や信仰を物語る上で貴重な存在であり、昭和59年度に板橋区の文化財に登録されました。
 平成17年3月    板橋区教育委員会 

この商店街もけっこう賑わっています。

                                 

川越街道 下練馬宿
 中山道の脇街道である川越街道は板橋宿からわかれ、江戸城から川越城を結ぶ道として整備されました。
 ここ北町は、練馬区唯一の宿場町として栄え、商店街が続いています。この辺りは下宿と呼ばれ、鍛冶屋、紺屋(染め物)などがあり、江戸時代鷹狩りの餌となる「けら」を扱う「けらや」もありました。
 板橋区との境には、王子、戸田への道標となる馬頭観音の祠が道路の中央にあります。錫杖八等線の上には「従是大山道」と刻まれた道標があり、富士・大山道が分岐しています。
 富士・大山詣でをする人たちで賑わいを見せていたことがうかがい知る事ができます。
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JR埼京線「板橋」駅~JR武蔵野線「新座」駅。その1。(「川越街道」第1日目。)

2018-12-24 18:49:20 | 川越街道
                                  旧中山道との分岐点「平尾追分」(↓)。

 2日間の「川越街道」歩き。
川越街道
 戦国時代の太田道灌が川越城と江戸城を築いたころ、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道であり、また江戸城には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えた。
 日本橋から川越城下まで栗(九里)より(四里)うまい十三里とうたわれ、「川越いも」の宣伝にも一役かった。
 江戸時代、川越は、江戸の北西を守る要となり、藩主には、老中格の譜代大名が配置された。また、家康以下、三大将軍も、鷹狩りや参詣にこの街道を往来し、松平信綱が川越城主となってからは、さらに整備されるようになった。
 街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の六か宿が設置され、人馬の往来が盛んであったが、各宿場の村にとって、伝馬役の負担も大きかったという。
(「人力・旧街道ウォーキング」www.jinriki.info/kaidolist/kawagoekaiHPより拝借)

1880年代のようす。○が「平尾追分」。

2010年代のようす。頭上は首都高に覆われている。

(10:14)JR埼京線「板橋」駅脇を通る「旧中山道」。

 その先、板橋3丁目交差点が「平尾の追分」で、右手奥の商店街に進むのが「旧中山道・板橋宿」で、左側の「国道17号線」「首都高」の下を行くのが旧川越街道になります。
黄色いビルの脇を通るのが「旧中山道」。3年前に通りました。

左に折れていきます。



                    「板橋四つ又商店街」。

案内板。高速道路下でちょっと気の毒な印象。
 ここは、旧中山道から分岐した旧川越街道と高田道(高田・雑司ヶ谷へ至る道)が交差していたところ。旧川越街道は中山道の迂回路として使われ、大名行列は、この道を通り川越を経て熊谷方面に向かったそうで、当時からこの界隈は賑わっていたようです。

 「山手通り」を越えると、人通りの多い「遊座大山商店街」に。
  「遊座大山」。

(10:37)東武線の踏切を越えます。左手に「大山」駅。

 その先はアーケードが続く「ハッピーロード大山商店街」。年末のせいか、買い物客でごった返しています。こんな元気な商店街を通るのは久々です。
 

 旧中山道では「巣鴨地蔵通り(じじばばの原宿通り)」や「板橋宿」も街道沿いに商店街が発展し、今も賑やかな通りになっているようです。この川越街道もそんな感じ。
けっこうなことです。

 600㍍以上、長く続いたアーケード街を抜けると、「国道254号線」に合流します。右手には大きなおうち。


 この先、ほぼ「国道254号線(現「川越街道」)」をなぞっていきます。最寄りの鉄道としては「東武東上線」となります。

 (10:47)「日大病院入口」交差点の先で、右手の旧道に入ります。この先から「上板橋宿」となります。
 

「下頭(げとう)橋通り 旧川越街道」という標識。

住宅街のゆるやかな坂道を進みます。

右手の神社の境内にある「解説板」。
旧上板橋宿概念図
 川越街道は、江戸時代に川越道中・川越往還とも称し、川越と江戸を結ぶ幹線でした。また、中山道の脇往還としても利用され、信州や越後にも通じていました。この弥生町沿いは、宿(上板橋宿)と呼ばれ、川越口(下頭橋)から上・中・下の3宿に分かれ、文政6年(1823)の「上板橋村地誌改書上帳」には、宿内は「六丁四拾間」(約730m)道幅は「三間」(約5.5m)と記載されています。宿の中程には名主屋敷と称する建物があって、昭和の初め頃まで遺っていたようです。名主の河原与右衛門家は明治期には転居してしまいましたが、明治期に副戸長を務めた榎本家には「上板橋宿副戸長」と刻まれた石碑が現存しています。
 上板橋村は、町場(宿)と村方に分かれ、その村方の範囲には現在の板橋区の南西部地域と練馬区の小竹・江古田も含まれ、その地域からは人馬が提供され旅客や物資の継立てを担っていました。



現在と道筋はほとんど変わりません。



街道筋らしい建物が一軒。

(10:59)「石神井川」に架かる「下頭橋」にさしかかります。

                            「石神井川」。

「下頭橋」手前、「下頭橋六蔵尊」にある解説板。下頭橋
 弥生町を縦断する道が旧川越街道で、大山町境から石神井川迄が上板橋宿跡である。宿端の石神井川に架かる下頭橋は、寛政10年(1798)近隣の村々の協力を得ることで石橋に架け替えられ、それまでひんぱつした水難事故も跡を絶ったという。この境内にある「他力善根供養」の石碑はその時に建てられたもの。
 橋の名の由来については諸説がある。一つ目は、旅僧が地面に突き刺した榎の杖がやがて芽をふいて大木に成長したという逆さ榎がこの地にあったから。二つ目は、川越城主が江戸に出府の際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて出迎えたから。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨をいた受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからというもので、六蔵祠はこの六蔵の道徳を讃えて建てられた。・・・

 
1880年代のようす。中央に「下頭橋」。



2010年代のようす。蛇行していた「石神井川」が直線に。↑が旧道。
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東武伊勢崎線「川俣」駅~東武佐野線「佐野」駅。その4。(「日光千人同心街道」第6日目)

2018-12-20 20:01:35 | 日光千人同心街道
                          (12:37)「田中正造終焉の地」との立て看板。 手前の大きな「庭田家」のやしきが終焉の家。
 なお、この看板は立派な記念碑が出来る前に立っていたもののようです。

正造終焉の家、佐野市指定史跡に             
 正造が息を引き取った佐野市下羽田町の庭田家が、「田中正造終焉の家」として佐野市の指定史跡に決定しました。
 正造が亡くなってちょうど100年となる9月4日付けで指定となりました。
 1913年、8月2日、河川調査から谷中村へ帰る途中、支援者だった庭田清四郎(現当主・庭田隆次さんの曽祖父)宅で病に倒れました。妻カツや木下尚江をはじめ、大勢から献身的な介抱を受けましたが、同年9月4日、同家の8畳間で亡くなりました。
                           
 『田中正造終焉の家』 佐野市下羽田町19-2
   ※ 個人宅のため、見学は要連絡(0283-23-1439)
   お問い合わせ 佐野市生涯学習課 文化財保護係 0283-61-1174
(注:2013年の記事)

田中正造翁終焉の地」碑。
 真の文明ハ(は)山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さゞるべし
 田中正造翁は運動の途中倒れ、1913(大正2)年9月4日栃木県佐野市下羽田(旧足利郡吾妻村)の庭田清四郎家で満71才の生涯を閉じた。翁は、近代日本の公害の原点・足銅山鉱毒事件」で苦しんだ被害民の救済・人権回復に半生を捧げた。
 明治政府は、被害地人民の生命と生活をかえりみず最後は谷中村を廃村にし、残留した被害民の家屋まで強制破壊した。
 翁は「亡国日本」を救う運動の中でつちかった「人権・自治・環境・自然との共生・憲法政治の確立・平和・軍備全廃」思想を百年前に主張している。翁こそ、環境人権破壊に抗する人びとの味方として永遠に記憶に留められる人物である。
 庭田家ではその後、現当主隆次氏まで4代にわたって、田中翁が病臥し死去した部屋をそのまま保存し訪れる人びとに翁の思想と行動を伝え続けている。
 庭田家の近くの雲龍寺(群馬県館林市下早川田)は鉱毒被害民運動の拠点だった。当時の住職黒崎禅翁師も被害民と共に闘い川俣事件で逮捕された。
 雲龍寺には翁の分骨地墓と「救現堂」「足尾鉱毒事件被告之碑」がある。
 庭田邸と雲龍寺には「田中正造翁終焉の地」として、「百年の悔いを子孫に伝うるなかれ」という翁の戒めを私たちに常に発信し続けている歴史的精神的遺産である。

 2017年8月吉日 記念碑建立実行委員会

                     

佐野が生んだ偉人  その行動と思想」HPより
9.谷中村跡 〔所在地図〕
◆足尾鉱毒事件により地図から抹殺された悲劇の村
 明治10年(1877年)以降、足尾銅山から排出された鉱毒のため洪水のたびに、渡良瀬川の流域の村々では、作物が枯れ、豊富な魚介類が死滅するという被害が出ていた。明治33年(1900)に被害民が大規模な抗議行動(第4回東京大挙押出し)を起こした川俣事件、明治33年(1901年)の田中正造の天皇直訴事件等で、社会の耳目を集め国会でも大きな問題になった。
 明治政府は鉱毒事件の解決のため、毒の水をためる調節池(渡良瀬遊水地)の建設を行うことを計画した。その犠牲になったのが谷中村の住民である。谷中村では村ぐるみで「藤岡村との吸収合併」「土地の不当買収」「住民の強制立ち退き」に反対したが、施政権のある当局には勝てず明治39年(1906)、谷中村は藤岡町に合併され法律上、消滅した。結果的に土地は不当に安い値段で当局に買い上げられ、被害民たちは近隣の村々に、遠くは北海道の荒涼地へ移転していった。
 その後も387戸、2,500余人の住民のうち16世帯約100名は、谷中村の遊水池化に反対し買収に応ぜず提内に留まっていた。これに対し、西園寺公望内閣は明治40年に土地収用法の適用認定を公告、谷中村を隣接の藤岡町に吸収合併させて、谷中村を地図上から、更には公の資料から全て抹殺しようと謀り、明治40(1907)年6月29日より7月5日までの7日間にわたって谷中村残留民家16戸の強制破壊を強行した。
 強制破壊後も谷中村残留民は、仮小屋を作り悲惨な生活を強いられながら抵抗を続けたが木下尚江らの勧告もあって大正6年(1917)、強制破壊から10年におよぶ反対運動を断念、全ての戦いが終わり谷中村は名実ともに消滅した。
               


(12:41)道は「県道7号線」を横断し、「才川」に沿って進みます。

                                

 旧道は、しばらく進んで、右に曲がり、直進。そのまま県道と東武線を越えて行きますが、なかなか通りの向こう側に渡れません。しかたなく県道をそのまま歩きます。

(13:07)東武線「田島」駅。旧道は線路の向こう側を行く。

(13:23)「秋山川」のところで旧道と合流。

???土蔵造りの建物をリフォーム。

「天明宿」(佐野)への道。


(13:37)重厚な建物の旧家。

                               

「佐野ラーメン」のお店。かつての建物を生かす。

そんなお店が目に付きます。


(13:44)こちらは「郷土銘菓舗 金福」。

凝った意匠の屋根。

一方ではこんな洒落たおうちも。

 通りの左には田中正造の本葬を行った「惣宗寺(佐野厄除け大師)」がありますが、翁の墓の前には石川啄木の歌碑があるそうです。
 夕川に 葦は枯れたり 血にまとう 民の叫びの など悲しきや

(13:47)「例幣使街道」との合流地点「本町」交差点に着きます。

「例幣使街道」西方を望む。

庵看板(屋根付きの看板)のあるお店を見ながら佐野駅へ。

JR「西八王子」駅から東武線・JR線「佐野」駅まで。今回で完歩。

 「国道16号線」をはじめ、幹線道路が多く、けっこう車の通りが激しい中での歩きでしたが、なかなか変化に富んだ、見所の多い道筋でした。
 特に後半、田中正造にまつわる遺跡にはかなり興味をひかれました。機会があれば、「旧谷中村」を訪れてみたいと思います。

《今年歩いた街道》
①日光御成街道(本郷~幸手)
②青梅街道(新宿三丁目~「奥多摩湖」)
③日光例幣使街道(倉賀野~下今市)
④日光千人同心街道(西八王子~佐野)
⑤川越街道(板橋~川越)
←未掲載
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東武伊勢崎線「川俣」駅~東武佐野線「佐野」駅。その3。(「日光千人同心街道」第6日目)

2018-12-19 20:18:00 | 日光千人同心街道
                             (11:34)街道を先に進むと「佐野口門跡」へ。道路の拡幅工事中。

 まだまだ館林宿にはかつてを偲ぶ建物などがあります。
                 奥にりっぱな門。

 先を急ぎます。交差点の先の三叉路を右に曲がっていきます。そこには道標が二基。右には「右 さの とちぎ道」左には「らいでん道」とあります。
 この「らいでん」は、ここからはほぼ東にあたる、板倉町にある「雷電神社」のことか。
  


1880年代のようす。○が分岐点。



2010年代のようす。現在の分岐点は少し下方に。

まっすぐな道が続きます。

(11:51)東武佐野線の踏切を越えます。

視界が開けてきます。

遊水池。水鳥の姿も。

しばらくすると、「下早川田(しもさがわだ)」の集落へ。この先は「矢場川」と「渡良瀬川」の土手に。

「矢場川」は、「例幣使街道」歩きで太田から八木(福居)への途中で渡り、「渡良瀬川」は同じく天明(佐野)へ向かうときに渡りました。

集落のようす。

                            りっぱなおやしき。

                   

土手から集落を見下ろす。

(12:08)「海まで155㎞」標示。向こうの橋は「渡良瀬大橋」。

土手下には石塔群。

               「渡良瀬大橋」。

                         「渡良瀬川」上流方向。

↓は、「足尾鉱毒事件」で生涯を捧げた田中正造の墓がある雲龍寺。
 このお寺は、館林市に属しています。

(12:24)そこへ寄り道します。 
「足尾鉱毒事件対策事務所」が置かれていた寺でもあります。

   
 ・・・この墓は田中正造の没後20年にあたる昭和8年(1933)に、渡良瀬川沿岸に住む人々の浄財によって建てられました。墓石は高さが約3m「あり、首部の細い特徴のある宝塔です。・・・墓の右手に建つ「救現堂」には正造が祀られています。「教現」は、正造が死の13日前に述べた「現在を救い給え」という祈りの言葉に由来するものです。
 日本の近代史の一編を語るとともに、低湿地帯の郷土史を示す貴重な遺跡です。
鉱毒にいのちのかぎり 田中正造」 

大正二年九月四日 享年七十三才 田中正造翁終焉の地」。

正造の歌「毒流すわるさ止めずバ我やまず渡良瀬利根に地を流すとも」。
 
田中 正造
 天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)。
 日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として有名。衆議院議員選挙に当選6回。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。
 生まれは名主の家ではあったが、田中本人によれば村では中流でそれほど裕福な家ではなかったという。
 父の跡を継いで小中村名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄された。
 明治3年(1870年)、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏となった。翌年、上司の木村新八郎殺害の容疑者として逮捕され、投獄されている。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。
 1874年(明治7年)に釈放されて小中村に戻り、1876年(明治9年)まで隣の石塚村(現・佐野市石塚町)の造り酒屋蛭子屋の番頭を務めた。幕末に大沢カツと結婚している。
 1878年(明治11年)、区会議員として政治活動を再開。栃木新聞(現在の下野新聞)が創刊されると、翌年には同紙編集長になり、紙面上で国会の設立を訴えた。また、嚶鳴社や交詢社に社員として参加している。
 1880年(明治13年)、栃木県議会議員。1882年(明治15年)4月、立憲改進党が結党されると、その年の12月に入党している。県令(現在の知事)だった三島通庸と議会で対立。自由民権運動のなかで、加波山事件に関係したとして1885年(明治18年)逮捕される。1886年(明治19年)4月1日開会の第13回臨時県会で、議長に当選する。
 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選。田中は帝国議会でも当初は立憲改進党に属していた。この年渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。
 1891年(明治24年)、鉱毒の害を視察し、第2回帝国議会で鉱毒問題に関する質問を行った。1896年(明治29年)にも質問を行い、群馬県邑楽郡渡瀬村(現・群馬県館林市)の雲龍寺で演説を行った。
 1897年(明治30年)になると、農民の鉱毒反対運動が激化。東京へ陳情団が押しかけた。当時このような運動には名前がついておらず、農民らは「押出し」と呼んだ。田中は鉱毒について国会質問を行ったほか、東京で演説を行った。農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約、脱硫装置など実際に着工されるが、効果は薄かった。
 1900年(明治33年)2月13日、農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された(川俣事件)。この事件の2日後と4日後、田中は国会で事件に関する質問を行った。これが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説であった。当時の総理大臣・山縣有朋は「質問の意味がわからない」として答弁を拒否した。なお、川俣事件は仙台控訴審での差し戻し審で、起訴状に担当検事の署名がないという理由で1902年(明治35年)に公訴不受理(一審で無罪だった者については控訴棄却)という判決が下り、全員が釈放された。
 1901年(明治34年)10月23日、田中は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は止めず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説をたびたび行った。
 12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行う。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし(田中本人の言及による)、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っている。
 1902年(明治35年)、川俣事件公判の際にあくびをした罪で重禁固40日の判決を受け服役。このとき聖書を読み、影響を受けた。
 1902年(明治35年)、渡良瀬川下流に貯水池をつくる計画が浮上。建設予定地となっていた埼玉県川辺村・利島村の反対運動に参加。計画は白紙になった。
 1903年(明治36年)には栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が浮上。田中は1904年(明治37年)7月から実質的に谷中村に住むようにしている。同年、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事がはじめられた。
 1906年(明治39年)、谷中村議会は藤岡町への合併案を否決するが、栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した」と発表。谷中村は強制廃村となるが、田中はその後も谷中村に住み続けた。1907年(明治40年)、政府は土地収用法の適用を発表。「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけ、多くの村民が村外に出たが、田中は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。結局この土地が正造の終の棲家となる。
 1908年(明治41年)、政府は谷中村全域を河川地域に指定。1911年(明治44年)、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された。
 土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年(大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶まわりに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)。その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。71歳没。
 財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。
 雲龍寺で、9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は数万人ともいわれる。
 田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨された。このため、墓は6箇所にある。
 足尾銅山は1973年(昭和48年)に閉山となり、現在でもその跡を残している。そして田中が明治天皇へ行おうとした直訴状は、2013年(平成25年)に渡良瀬遊水地や田中の出生地である佐野市を訪れた今上天皇へと伝えられることとなった。未遂から実に112年後のことであった。

正造の墓の所在地
佐野町(現・佐野市) 惣宗寺 - 正造の本葬が行われた寺
渡瀬村(現・館林市) 雲龍寺 - 正造の密葬が行われた寺。また、鉱毒対策事務所が置かれていた寺でもある。
旗川村(現・佐野市) 浄蓮寺 - 田中家の菩提寺
藤岡町(現・栃木市) 田中霊祠 - 田中を葬るために谷中村跡につくられた祠。後に藤岡町堤外に移転。
利島村(現・加須市) - 川辺村民と利島村民が協力し、利島小学校敷地内に造営(現・加須市立北川辺西小学校。加須市麦倉所在)。
久野村(現・足利市) 寿徳寺 - 1989年に公表された6番目の分骨地。

(以上、「Wikipedia」参照。)

(12:34)街道に復帰、東武線の脇を進みます。
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東武伊勢崎線「川俣」駅~東武佐野線「佐野」駅。その2。(「日光千人同心街道」第6日目)

2018-12-18 21:08:17 | 日光千人同心街道
                                 (10:35)館林の市街地へ。
この付近に「館林城江戸口門」があったようです。

                         「館林駅入口」交差点。


館林市概要
 館林市は古くから開けていた地域で60基以上の古墳が存在したとされますが、最大とされる山王山古墳や富士塚古墳などは全長50m前後の為、巨大な豪族とまではいかない勢力が分布していたと思われます。
 鎌倉時代になると幕府の御家人である佐貫氏が館林市周辺を支配しますが、時代が下るにつれて一族の舞木氏が台頭し、下克上の世になると舞木氏の被官赤井氏が取って代わります。赤井氏は館林城を居城とし、小田原北条氏と組みし勢力を広めていた為、関東管領を譲渡された上杉謙信(春日山城の城主、越後守護職)と上野国諸侯と対立し、永禄5年(1562)には上杉勢の侵攻により館林城は落城し、赤井氏は武蔵忍城(埼玉県行田市)に落ち延びていきました。
 謙信が死去すると小田原北条氏が支配し、天正18年(1590)の小田原の役で没落すると徳川家支配になり館林には重臣である榊原康政が10万石で入封し館林藩を立藩します。
 以後も東国の抑えの城として幕府から重要視され徳川綱吉を筆頭に松平氏、太田氏、井上氏、秋元氏など親藩や有力譜代大名が藩主を歴任し明治維新を迎えます。

ちょっと周囲を散策。
(1)館林駅(2)竜の井(3)毛塚記念館(4)大道寺(5)旧町屋地区の住宅(6)青梅天満宮(7)外池商店(8)旧二業見番組合事務所
(9)青龍の井戸(10)鷹匠町長屋門(11)鷹匠町武家屋敷武鷹館(12)土橋門(13)第二資料館(14)旧秋元別邸

 実際に歩いたのは(7)から(11)までですが。

青龍の井戸」。

                      
青龍神社概要
 この井戸は、江戸時代に福寿院(現在は廃寺)の境内にあり、伝説によると、延宝年間(1673~1681年)に突然清水が湧き上がり、中から女官姿の「青龍権現」が姿をあらわしたことから「青龍の井戸」と呼ばれるようになったといわれています。
 当時は徳川綱吉が館林の城主となった頃で、城下は、御三家の一つである水戸家に並ぶほどのこれまでに例を見ない隆盛をほこっていたことから、ますます良い兆しであるとして、人々の大変な噂となりました。
 この話を聞いた綱吉の生母「桂昌院」は井戸のかたわらに「青龍権現社」を再建したといわれ、綱吉も5代将軍となると10石をの来印地を寄進したと伝えられており、神社の入口には、現在でも「葵の御紋」が見られます。
 又、この井戸と善導寺(現在は移転)境内の「竜の井」と「城沼」とが一つにつながっていたという伝説もあり、こうしたことから、7月10日の縁日荷は、延命長寿の霊験があるこの井戸の水を参拝者に与える習わしがありました。
 平成10年に、井戸の調査がおこなわれましたが、井戸の深さは7㍍程、井戸の断面は、深さ約3㍍のところで大きく膨らみ、集水のための工夫が施されていることがわかりました。 現在でも、冷たくてきれいな水がこんこんと湧き出しています。
 
旧二業見番組合事務所」。
昭和前/1938
木造2階建、瓦葺、建築面積195㎡ 1棟
群馬県館林市本町二丁目1704
登録年月日:20160225
登録有形文化財(建造物)

 料亭と芸妓置屋の二業の旧組合事務所。木造二階建で通りに西面する。一階は事務室と座敷、二階は舞台を持つ畳敷の大広間をおく。通りに面する西面は入母屋造屋根の妻と唐破風造の玄関を見せ、二階には左右対称の切妻屋根を並べるなど、和風意匠で華やかに飾る。
この建物は昭和13年(1938)に芸妓屋業と料亭業の二業を取り仕切る事務所として建てられたもので、木造2階建、入母屋、桟瓦葺、妻入、外壁は1階が下見板張、2階が真壁造、白漆喰仕上げ、延床面積約390㎡。正面は左右対称で両側を前に出させる事で切妻屋根が重なるようにし、2階には手摺を廻し楼閣風の意匠にしています。
 玄関は大きな唐破風屋根を設えて建物を強く印象付けると同時に利用するお客様にとって非日常空間を演出する効果があったように思われます。その他にも花を模った止め瓦や照明、土間のタイル、折り上げ天井、懸魚などなど細やかな意匠や工夫が随所に施されてます。
 2階には芸妓さんの練習舞台があり3方の壁には松や竹が描かれ当時の華やかな空間が残されています。
 旧二業見番組合事務所は所謂、料亭建築で、外観や内部の細かな意匠に至るまで通常の町屋建築や農家建築、武家屋敷には無いある種の艶っぽさが感じられます。

「料理屋」・「芸者置屋」・「待合」の3種の営業を「三業」、前2者のみを「二業」という。

注:待合と料亭(料理屋)の大きな違いは、前者では料理を直接提供しない(板場がない)ことである。料理は仕出し屋などから取り寄せる。待合は席料を取るほか、取り寄せた料理に手数料を乗せ、これらが主な収入になる。また、待合では(料理屋と異なり)客の宿泊用に寝具を備えた部屋があり、ここで芸妓や私娼と一夜を過ごす客も多かった(東京などでは、娼妓は遊郭以外で営業できないため、待合へ呼ばれることはない)。なお、芸妓と客の同宿はほとんど黙認状態であったが、売春が公認されていたわけではない。
 その他、門口に盛り塩、帳場に縁起棚、あるまじき所に酒樽、眉毛のあとの青いかみさんが待合の特徴と言われた。
 同じ待合という名を冠していても、政治家も出入りするような格式の高い店もあれば、小待合、安待合と呼ばれ、連れ込み宿同様に使われる店もあり、内実は相当な違いがあった点に注意すべきである。格式ある待合・料亭は「一見さんお断り」が当然であった。永井荷風は「おかめ笹」の中で芸者と気軽に遊ばせる白山などの小待合の様子を描写している。有名な阿部定事件の舞台は、尾久(荒川区)の待合である。
 第二次世界大戦後、待合は「料亭」と名を変えた(このため、かつての料亭は「割烹」と称することが多くなった)。料亭と名前は変わっても、相変わらず政治家の会合や企業の接待などに使われていたが、次第にバー、クラブ、ゴルフなどと接待の場も多様化し、芸妓が減少するのと並行して、廃業する店が多くなった。
(この項、「Wikipedia」参照)  

 「肴町」。

突き当たりには「外池商店」。
外池商店(館林市)概要:
 外池商店は江戸時代中期に近江国(現在の滋賀県)から当地に移住して創業、「和泉屋」の屋号で醤油や味噌などの醸造業を営んでいました。現在の店舗は昭和4年(1929)に建築されたもので、木造2階建て切妻、瓦葺、平入り、桁行4間、1階正面は下屋が張り出し、2階は格子戸となっています。表門から敷地内に入る事が出来、背後にある土蔵は創建当時に建てられ建物で近年改修して"百々歳蔵"として多目的利用されています。

「まちなか散策」絵図。

右に折れ、左に曲がると「長屋門」。


鷹匠町長屋門
 旧野辺町(三野谷)の豪農「松沢家」が利用していた長屋門を利用して、武家屋敷長屋門として、平成21年に新築したもの。長屋門は武家の屋敷門の一つで、長屋の間に門があることから長屋門といわれており、門の両側の部屋は使用人の部屋や物置として使われていました。

続いて「武家屋敷武鷹館」へ。
 「鷹匠町」。



                          庭側から外を。



                         
旧館林藩士住宅
 この建物は、旧館林城の侍町の一つである「外伴木」(現在の尾曳町)に現存した館林藩の中級武士の住宅で、秋元藩時代には、藩士「伊王野惣七郎」の居宅として、廃藩後は、旧藩士の「山田家」の住宅として今日まで受け継がれてきました。
部屋を横一列に配置する武家住宅特有の間取りが特徴で、長年住宅として使われてきたことで、間取りなどに変化はありましたが、調査により、建築当初は間口約8間半、奥行はお勝手を入れて4間半、建坪は28坪(92.56㎡)であることがわかりました。棟札が発見できなかったため、建築年は明確にできませんが、柱間の長さや間取り、柱配りなどから、江戸時代後期に造られたものと考えられています。
群馬県内においても、現存する数少ない武家住宅の一つで、江戸時代の建築様式や武士のくらしを伝える歴史的価値の高い建造物として、平成11年に館林市指定重要文化財に指定され、平成12~13年にこの場所に移築復元しました。
長屋門
 「長屋門」は、近世の武家屋敷の表門の形式の一つで、物置や使用人などの住居も兼ねていました。
この長屋門は、木造瓦葺き平屋建て、屋根構造は和小屋組で、中央部に門扉、両袖に部屋が配置されています。建築年代は棟札がなく明確にはできませんが、大正期の建築と考えられています。
旧城下に江戸時代の長屋門が現存しないこともあり、江戸時代の武家屋敷街の格式や雰囲気を伝える貴重な建造物と考えられます。また、附属する住宅は、昭和29年に増築されたものですが、従来の日本建築の工法を伝えています。「旧館林藩士住宅」の移築に合わせ、管理や活用のための設備として、外観を活かして整備しました。

外観のようす。

「館林の街並みと建造物」ポスター。

通りの向かい側には「田中正造資料館」。

                   

大手町にある「正田邸」。
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東武伊勢崎線「川俣」駅~東武佐野線「佐野」駅。その1。(「日光千人同心街道」第6日目)

2018-12-17 21:20:27 | 日光千人同心街道
                       
 「日光千人同心街道」歩きも最終回。正味5日半。
 健脚なら3日半くらいで、歩き通せる行程。

 街道の名称もずばり「日光街道」から「日光脇街道」。今や「日光脇往還」となって、「八王子千人同心街道」という名称はあまりみかけなくなった街道。
 もともと「千人同心街道」、「日光火之番街道」、「八王子千人同心街道」、「日光脇街道」、「日光脇往還」、「日光裏街道」などとあったようですが。
 JR中央線「西八王子」駅からはたしかに遠ざかりました。東京→埼玉→群馬と歩いてきて、最終地は栃木と歩いてきたわけです。旧国名では武蔵→上野→下野。

(9:22)前回の地点から再開。

(9:28)しばらく進むと、左手、一本松の根元に「富士山供養」塔。
 
 この供養塔は、富士参拝に向かう老人がこの地で力尽き、田の水面に映る富士を見て息絶えたのを、村人が弔ったものと伝えられているようです。

 そういえば、吹上駅からの歩きで、国道17号線バイパス「前谷歩道橋」下で振り返ると、屋根の向こうに真っ白な富士山が意外に大きく見えました。 昔は、この辺りからでもおそらく見えたにちがいありません。今は高いところからでしか見えないでしょうが。
  
のどかな道を進みます。

                      落ち葉が敷き詰められた路地。

集落を抜けると周囲はすっかり冬模様の田畑。

「矢島」交差点で「国道122号線」に合流します。
        
        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。旧道は田んぼの中を進み、旧青柳橋方向へ。   

        
                            ○が旧青柳橋付近。対岸に旧道の一部。

街道沿いのお店。「上州まごころうどん 雷電の里」。

(9:41)「矢田川」に架かる「青柳橋」を渡ります。下流に旧青柳橋がありました。


               「館林市」入り。

その付近まで行ってみようとしましたが、軽トラと農作業中の声。

旧道らしき道を歩いて国道に復帰します。

館林市の大きな観光案内板。

幹線道路らしくダンプや貨物がひっきりなしに轟音を上げて通りすぎます。


1880年代のようす。すでに現在の道路と重なる。


2010年代のようす。区画整理した田畑が広がっている。


(10:00)しばらく進むと、「茂林寺入口」交差点。
                     
                     「歩道橋」から街道を見下ろす。

「茂林寺」といえば、「分福茶釜」。

分福茶釜
 日本中で語り継がれている昔話のひとつ。文福茶釜とも表記する。
 そのルーツは群馬県館林市の茂林寺に伝わる伝説で、茂林寺には現在も狸が化けたとされる茶釜が伝わっている。

あらすじ
 古道具集めが一番の趣味である和尚さんが茶釜を買って寺に持ち帰る。茶釜を見ると汚れていたので弟子の小僧さんに茶釜を磨くよう命じるが、洗っている途中に茶釜が痛がったので、和尚さんに報告する。和尚さんは茶釜を水で満たし火に懸けたところ、何事もなかったので「雑念があるからだ」と小僧さんを叱る。しかししばらくすると茶釜が熱さに耐え切れず動き出したので気味が悪くなった和尚さんはたまたま近くを通りかかった貧しい古道具屋に茶釜を売ることにする。
 古道具屋はその夜奮発して鯛を買うが、食べようとしたところ鯛がなくなっていた。途方にくれる古道具屋だったが、茶釜を背負ったタヌキが「魚を食べたのは自分です」と白状する。茶釜は仲間との化け比べで元に戻れなくなったタヌキが化けたものだった。
 同情した古道具屋はタヌキが元に戻れるまでの間家に泊めることにする。タヌキはお礼に、綱渡りをする茶釜で見世物小屋を開くことを提案する。この考えは成功して古道具屋は豊かになり、タヌキも寂しい思いをしなくて済むようになったという恩返しの話である。

 見世物小屋が繁盛した後の結末が二つに分かれる

① 古道具屋がタヌキを元の姿に戻す方法を模索するが、タヌキは化けたままで居続けた疲れから病にかかり、古道具屋の看病も虚しく元に戻れないまま死んでしまう。悲しんだ古道具屋は茶釜を引き取った寺で和尚さんに全てを話してタヌキを供養してもらい、茶釜は寺の宝として安置される。

② タヌキはかつて和尚さんに食べ物を恵んでもらった恩があり、古道具屋が再び寺を訪れた際にその事を思い出した和尚さんと再会を喜んで寺で暮らすことになる。茶釜は毎日お供え物をもらい家宝になる。

月岡芳年画『新形三十六怪撰』より「茂林寺の文福茶釜」。タヌキが僧に化けたという説に基いて描かれたもの。

(以上、「Wikipedia」参照)

ぶんぶく茶釜
放送回:0004-A 放送日:1975年01月28日(昭和50年01月28日)
あらすじ
 和尚さんが古い茶釜を買ってきて、お湯を沸かそうと火にかけたところ、茶釜が「熱い!」と悲鳴をあげた。気味悪がった和尚さんは、古道具屋にただで譲った。
 古道具屋は家に持って帰って、その茶釜がタヌキが化けたものだと知る。タヌキはその姿のまま元に戻れなくなってしまったというので、古道具屋はタヌキの言われたままに見せ物小屋を作ってやり、分福茶釜と銘打って見せ物をしてたくさんのお金を稼いだ。
 やがてタヌキは病気を患い、茶釜の姿のまま死んでしまった。古道具屋は茶釜をお寺に運んで供養してもらった。その茶釜は茂林寺に今も伝えられているという。
(稿: 蔵人 本掲載日2012-8-14 14:35 )

(この項、「」HPより)

行かない代わりにパチリ。

(10:06)「諏訪町」交差点(Y字路)を右に曲がります。


 この先、かつては1㎞以上、杉並木が続いていましたが、道路拡幅工事等ですっかりなくなっています。

りっぱなお屋敷。

 いよいよ「館林」の中心部に入っていきます。
 
「新宿2丁目」交差点。

東武伊勢崎線の踏切を渡ります。しばらく待って振り返ると、電車が通過中。

(10:30)「舗装道路完成記念」碑等。この付近まで杉並木だったか?

来た道を振り返る。「新宿1丁目」付近。
 注:「新宿」の読みは「しんじゅく」。
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JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その6。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-14 19:33:52 | 日光千人同心街道
                               「川俣宿」。
        
        
        
1880年代のようす。直線に延びるのが「川俣宿」。    2010年代のようす。当時のままの街道。

かつての賑わいをよそに。

(13:57)土手のすぐ下、左側に「旧本陣塩谷家」。

土手で車が通行止めのため、車が少なく静かで落ち着いた街並み。
小公園には、
 
富士見の渡しと日光脇往還
 川俣集落は、旧日光脇往還(現在の旧122号線)を挟んで、両側に家並みが密集して形成されているが、これは江戸時代に宿場であった名残である。江戸時代には、利根川沿いに渡船場も船着場も存在し、日光脇往還の重要な宿駅としてのみならず、利根川の渡津、水運の河岸としても栄えた。
 日光脇往還は、往古より奥州への行路として利用されていたが、日光廟の建立に伴い江戸~日光の参詣道としても利用され「日光脇往還」と呼称されるようになった。」この道路は、江戸日本橋~鴻巣迄は中山道と重なり、鴻巣より行田(忍)―新郷―川俣―館林の4宿を経由し佐野(天明)に至り、佐野~日光迄は例幣使道と重複する。このためこの4宿を含む鴻巣~佐野間を「日光脇往還」と称する場合もある。・・・・
 川俣宿は、古文書によれば、寛永20年(1643)頃には宿駅として成立していたものと推定される。また元禄元年(1688)には助郷村として12ヶ村が指定され、大名の通行時等の場合、この村々が応援の人馬を負担したことが知られている。
 川俣渡船場は、元和2年(1616)に、関東16渡津の一つに挙げられ、渡船者の厳重な取り締まりが行われるなど、江戸防衛のための拠点とされていた。また渡船場から富士が美しく見え、庶民からは「富士見の渡し」と称されていた。
 川俣河岸は、江戸初期より廻米(年貢米)や材木の津出し(船による江戸への)積み出しの拠点として機能し、弘化3年(1846)においては、館林領48ヶ村の内27ヶ村の年貢を扱っていたと記録されている。
 以上のように江戸時代に繁栄を極めた川俣宿は、明治40年(1907)の鉄道の開通により、その役割を、現在に到った。
           明和町川俣宿保存研究会
現在の街並み。


その向かいに大きく立派な「川俣事件記念碑」。

                     
碑 文
 川俣事件は足尾鉱毒問題の中で最も大きな事件である
 明治の中頃 渡良瀬川の上流足尾銅山から流出する鉱毒によって中下流域は農作物や魚類に甚大な被害を受けた 生活を脅かされた農民たちは 銅山の鉱業停止や補償を求めて再度にわたり大挙上京請願(押出し)を決行したがその成果は少なかった
 1898(明治31)年9月大暴風雨による洪水は銅山の沈澱池が決壊し渡良瀬川流域の田畑は深刻な被害をうけた 耐えかねた被害民は足尾銅山の鉱業停止を求めて第三回東京押出しっを決行した
 その数一万余人 薄着姿の老人も見られたという
 時の栃木県選出代議士田中正造は この報に接し 急ぎ上京途中の一行に会い 多くの犠牲者を出さないために総代を残して帰村するよう説得した その演説は 被害民を動かし 警備の憲兵・警察官にも深い感銘を与えたという
 この後田中正造は足尾銅山鉱毒問題解決に献身し 議会に於いても 再三再四政府を追及したが 政府の答弁は終始曖昧に終わった
 1900(明治33)年2月13日足尾銅山の鉱業に関わる諸問題を解決するために 被害民たちは決死の覚悟で第4回目の東京押出しを決行した
 前夜から邑楽郡渡瀬村(現館林市)の雲龍寺に集結した2500余名の被害民は翌朝9時頃大挙上京請願のために同寺を出発 途中警察官と小競り合いを演じながら正午頃佐貫村大佐貫(現明和町)に到着 ここで馬舟各一隻を積んだ2台の大八車を先頭に利根川に向かったが その手間同村川俣地区内の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで待ち受けた300余名の警官隊に阻まれ 多くの犠牲者を出して四散した これが川俣事件である 
 この事態を重くみた佐貫村の塩谷村長をはじめ郡・村会議員区長らの有志は 村医を呼び負傷者に応急手当を施し 炊き出しを行いにぎり飯を差し入れるなど被害民の救恤につとめた この手厚い扱いに被害民関係者は深く感銘し これを後世に伝えている
 この後 政府の措置に失望した田中正造は 衆議院議員を辞職し天皇に鉱毒問題を直訴 以後谷中村遊水池化反対闘争へと戦いを続ける 
 この地で川俣事件が発生してから100年が経過し いま足尾鉱毒事件は公害の原点として新たな脚光を浴び 環境問題にも強く訴え続けている
 この史実を風化させないために ここに川俣事件発生100年にあたり 記念碑を建立し 後世に伝えるものである。

「上宿橋」際に立つ記念碑。 

宿内を振り返る。

 川俣宿を出てからは、二手に分かれる「国道122号線」の間、斜めに進んでいきますが、全面工事中のため迂回、途中から旧道に戻ります。


(14:24)今回はここまで。

右折して、(14:32)東武伊勢崎線「川俣」駅。
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JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その5。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-13 20:54:30 | 日光千人同心街道
                             「須永家本陣」の「椎の木」。

かつての建物はありませんが、門があって解説板も立っています。

                          

椎の木。根元が太く、樹齢400年とか。
上新郷のシイノキ
 前の道は日光へ参詣するための街道であり、日光脇街道と呼ばれています。また、日光山の火防の任にあたった八王子千人同心が通行した道でもあるため、八王子千人同心道とも呼ばれています。
 当地は新郷宿であり、継ぎ立ては館林から行田へ向かう時のみの片宿場でした。これは脇街道にみられたものです。
 当家は忍藩主の命により本陣を務めていました。このシイノキは推定で400年の樹齢を持ち、高さおおよそ18㍍、幹回りは7.15㍍です。

文化財に関する解説板。
①徳川斉昭の和歌
 市指定文化財「富士山の図」をみて詠んだ和歌です。徳川斉昭(寛政12年-万延元年)は水戸藩の第9代当主で藤田東湖らを登用して藩政改革を行い、将軍は賞讃しましたが、幕府からは急激な改革をきらわれ、謹慎を命ぜられました。その後、情勢の変化により幕政に参与しましたが、将軍のあとつぎの問題で実子の慶喜(のちに15代将軍となる)を推し、井伊直弼らと対立し、安政の大獄で処罰されました。尊皇攘夷派を主導し、桜田門外の変の原因をつくるなど、歴史に大きな足跡を残した人物です。

②佐藤延昌の箱書
 徳川家康の忌日に日光東照宮で行われる4月大祭に、2代将軍秀忠から12代将軍家慶までみずからが計19回も日光に社参しました。最後は天保14年(1843)のもので、総勢14万人にも及びました。このとき、徳川御三家も日光脇街道を通行し日光に参詣しました。徳川斉昭の一行はこの本陣に往きは4月11日に立ち寄り、そこで上記の和歌を詠みました。本陣は、その和歌を入れる箱を作り、4月22日の帰路で再び休憩した際に、従者の佐藤延昌にその由来を書かせたものです。
 
③黒沢翁満の書
 黒沢翁満(寛政7年-安政6年)は、伊勢桑名に生まれ、桑名藩士に仕え、文政6年(1823)の藩主松平忠尭の領地替えに従い、忍藩に移りました。晩年は大坂留守居役となり、同地で没しました。賀茂真淵や本居宣長の学風を学び、国学を研究し様々の書物を著しました。この書は、徳川斉昭の和歌をみて、そのすばらしさに感激して記したものです。

④富士山の図
 地袋に描かれたふすま絵です。詞書きに天保十四年四月八日とあることから、徳川斉昭の寄宿の直前に描かれたもので、これを見た斉昭の心を動かし、和歌を詠ませました。縦20㌢、横40㌢の大きさです。描いたのは晴真です。

 時系列的には④→①→②→③ となります。
この解説文には和歌などの内容が記されていません。そこで、「クニの部屋 -北武蔵の風土記-郷土作家の歴史ハックツ部屋」HPから引用します。

徳川斉昭の和歌 ―川沿いの郷土史(6)―2006年04月13日 | 利根川・荒川の部屋

 天保14年(1843)4月10日、徳川斉昭は日光社参のため江戸の「礫川の邸」を出立。桶川の宿に泊まったあと、新郷宿の本陣に到着したのは正午だった。
 斉昭一行は本陣で休憩を取る。そのとき斉昭の目に映ったのは、地袋に描かれた「富士山の図」だった。
 天保14年4月8日に「晴真」という者が描いた絵で、斉昭らが休憩に立ち寄るのを見越して筆を執ったのかもしれない。
 斉昭自身、そう感じたらしく、「我ための設にや有むと思ひ」和歌を詠んだという。

 利根川の水は鏡か真なる
 思ひするかの不二のうつし絵

 徳川斉昭は力強い字で記し、本陣を出立した。無事に日光社参を済ませた斉昭ら一行は、帰路に再び上新郷の本陣に立ち寄る。
 すると、本陣の主が徳川斉昭の和歌を収める箱を用意していた。その箱に記す書を求められたので、斉昭の家臣“佐藤延昌”(さとうのぶまさ)が筆を執り、和歌を詠んだ経緯を書き記した。
 これが「佐藤延昌の箱書」である。
 のちの時代、忍藩の国学者だった“黒沢翁満”(くろさわおきなまろ)は、本陣が所蔵する徳川斉昭の和歌に感激する。
このような田舎の家に斉昭の和歌という宝があり、「ふたつなき家のたからとあふけこの山より高き君の恵を」と、翁満自身が和歌を書き記すのだった。
  
その先で「県道59号線」と交差。
                   交差点右に見えるのは「愛宕神社」で、「愛宕塚古墳」でもあります。

こぶりだが、よく整った「勘兵衛松並木」。

(13:25)並木の中には昭和3年建立の「勘兵衛松碑」と解説板。

 


 徳川三代将軍家光公日光御社参ノ道路タルヲ以テ風致ヲ添ユルタメ時ノ忍城主ニ於テ勘兵衛ナル者ニ命ジテ植樹セシモノトノ伝説ニ其キ大正十五年二月十三日本県史蹟名勝天然記念物調査会ニ於テ審査ノ結果天然記念物ト認定セラル
 明治維新当時ニハ百本以上の樹数アリシモ年々風雪に害セラレ枯損ノタメ遂ニ現在三十八本トナリシヲ時恰モ今上天皇御即位ノ大禮ヲ挙行ノ秋ニ際シ稚松五十本ヲ補植シ以テ奉祝記念トス

 昭和三年十一月  北埼玉郡新郷村長渡辺喜代三郎

注:江戸時代から残る松は、現在、1本のみだそうです。

足下には松が描かれたタイル。

「並木橋」。
 
                   

左手が開けてきます。赤城山(赤)と日光・男体山(黒)が遠くに。

街道は利根川の土手に突き当たります。

(13:40)江戸時代は渡し舟でしたが、今は「昭和橋」で対岸へ。

ここには「川俣関所(新郷川俣関所)」が設けられました。

「昭和橋」の橋のたもとに建てられているのは「史蹟 川俣関所址」碑と解説板。




 定
一、此関所を通る輩
  番所の前にて笠
  頭巾をぬぐべき事
一、乗物にて通る面々は
  乗物の戸をひらくべし
  但、女乗物は番の輩
  指図にて女に見せ
  可通之事
一、公家・門跡衆・諸大名
  参向の節は 前かどより
  其沙汰可有之間不及 
  改之 自然不審の儀
  あらば可為各別事

  右 可相守此旨者也
  仍執達如件
 貞享三年四月
    奉行 

                           
旧跡 川俣関所跡
 川俣関所は慶長年間(1596~1615)に設けられ、明治2年(1869)に廃止されるまでの役260年間続いた。
 この関所は江戸城警備のため設けられ、一般に「出女に入鉄砲」といわれるが、江戸に人質になっている諸大名の夫人の脱出を防ぎ、また江戸の安全をはかるため鉄砲の入るのを厳しく取り締まった。日の出に開門、日の入りに閉門し、夜中は一般人の通行を禁じた。
 関所は利根川沿岸に設けられたものであるが、河川改修のためその路は川底になってしまった。
 関所路は、はじめ史跡として県の指定を受けその後昭和32年の改修工事により現在の地に碑が移転され、昭和36年9月1日旧跡と指定変更された

                               注:関所(跡)は昭和32年の河川改修の際に川底になってしまいました。

対岸を望む。

上流方向を望む。

下流方向を望む。↓は筑波山。



1880年代のようす。かなりの大河のようです。渡し船もなかなか大変だった? 対岸が「川俣宿」。関所の標示はない。

注:この地図では、右岸側にも「本川俣」という地名があります。「川俣」村は、「利根川」東遷によって分断されてしまったのでしょうか? 



2010年代のようす。今も昔も渡河の大変さには変わりなさそうです。

「利根川」。

                      

(13:48)男体山が遠くに(↓)。
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昔ながらの、昔なじみのラーメン屋さん。そして「INDEN-YA」。

2018-12-11 23:08:37 | じじばばがゆく
 こんばんは。
 お久しぶりです。お元気でしたか。
 久々に錦糸町からバスに乗ってそこで降りたんで、寄ってみようと思って。
 
 急に寒くなりましたね。真冬並みですよね。上がったり、急下降したり、身体がついていけません。

 「ビール、それからワンタン麺」。

 最近はさ、豚骨系というの、そういうのばかりで。
 メニューなんかもやたらこてこてしすぎて。

 このあいだからワンタン麺食べたいな、と思っていたんで。

 何々家系とかいうの。この前、入った店なんか、若い子達が調理から何からやっていて。
 けっこうだんどりが悪くて、待たせられた。
 ま、マニュアル通りに作ればいいんで、ど素人の女の子でも出来るんだろうけど。

 もう、どこもかしこもチェーン店ばかりで、それも豚骨系。やけに流行りすぎてる、って感じだよね。

 ほら、前にはよくあった札幌味噌ラーメン系のお店も見かけなくなったし。
「どさんこ」とかいう名前の店はまだあるのかしらね。 

 もう何年になります? 40年以上ですか。娘さんがもう、40歳。小さい頃、このへんちょろちょろしてましたよね。
 生まれる前からやっていたんですか。

 あそこのうなぎ屋さんくらいですかね、この通りで長続きしているお店は。
 うなぎも高くなっちゃってなかなか食べる機会がないですが。

 おいくつ? 72歳、ということは戌年。お互いに年を取ったものですね。
 そう、中学はそこです。

 実は、錦糸町で飲み会があってその帰りってわけですよ。
 ダメですね、飲むとラーメンが食べたくなって。この年になるとよくないでしょうが。

 このところ、どういうわけかむしょうにワンタン麺が食べたくて。
 さっきのような店では無理ですものね。
 こういう昔ながらのワンタン麺とか湯麺とかドライカレーなんかがいいですよ。

 1年ぶりくらいですかね。
 後継ぎはなくて、このままお仕舞いって。何だか寂しいですね。
 うちの近所でも若い方が親父のあと継いでやってましたが、おそば屋さんもラーメン屋さんも、立て続けにしめちゃいましたよ。

 こういうお店はダメなんですかね。チェーン店と違って。
 だから、出前を頼めるようなお店がなくてね。

 この年になると、あの方の連れ合いが亡くなったそうよとか、毎日、医者通いしてるとか、再検査待ちとか、自分もハシハシしないとか。
 そんな話ばかりですよね。
 それでも、孫の話だとまだまだ盛り上がりますがね。やたら愚痴ぽくなってくる人もいるのは、やだけど。

 卒業してもう半世紀以上経つんですがね。昔の恋の話なんか思い出しますよね。
 お互いにもっと若かったらとか、もう少し元気な頃にとか、って。
 ま、その先はあるはずもなく、それで話はお仕舞いですが。

 やっぱりおいしいや、このワンタン麺は。安くてうまい!

 公園の向こうです。歩いて帰ります。また寄りますよ。では。  

 えっ、この財布ですか。誕生日祝いに貰いまして、「印傳(伝)」。
 本店は甲府駅の近くにあるんですがね。
 鹿のなめし革でつくっているんですよ。

 「印伝」って印度伝来を略したものらしいですね。
 400年以上の伝統工芸品ですね。鹿の革に漆加工して模様をつけたものです。

 これじゃ、小銭ばかりでジャラジャラっていうわけにはいきませんな。
           
                でも、今日は小銭で払います。

 今日は楽しい一日でした。ま、いつもいつも自分勝手すぎるわよ、と叱られてばかりいるんですが。
 
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JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その4。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-10 22:18:17 | 日光千人同心街道
                               「横田酒造」。

先ほどとは違って車もほとんど来ない、静かな旧道を進みます。
 

突き当たりを左に折れる、その手前にあるのが「横田酒造」。
 横田酒造は、文化2年(1805年)創業。江戸に下った近江商人・横田庄右衛門が良い水を求めてこの地に造り酒屋を開いたのがはじまりです。『日本橋』の酒銘は、横田庄右衛門が若き頃、お江戸『日本橋」の酒問屋で修行し、独立する際、「初心忘れるべからず」との思いを込めて、自らの修行の地を酒銘にしたことに由来します。現代では地名を商標登録することは大変困難なことであることから、極めて貴重な商標といえます。また『浮城』は、地元行田の忍(おし)城が石田三成軍の水攻めでも落ちず、この城は水に浮くのかと恐れられたという故事から名づけられました。
酒造りは、原料の吟味にはじまります。まず酒米は、日本一といわれる兵庫の山田錦および長野の美山錦等を、玄米のまま取り寄せます。仕込み水は、秩父源流の荒川水系の伏流水が湧く自家井戸から採取します。水質は弱軟水。醗酵がゆるやかで、まろやかな酒に仕上がります。
(「」HPより)

 そういえば、道を間違えて戻る途中の小さな橋の名が「日本橋」。こんな場所に、と思ったのですが。
来た道を振り返る。

右から来る「県道7号線」に合流します。



(11:27)すぐに左に秩父鉄道「東行田駅」。

                        

踏切の先にある「長久寺」「久伊豆神社」を過ぎ、しばらくは「県道7号線」を進みます。

 「国道125号線(行田バイパス)」を通過します。(11:40)その手前に「歌劇」という名の喫茶店。特徴ある建物に、珍しいネーミング。


「小見真観寺古墳」 

 (11:50)その先に「虚空蔵山古墳」。そこに少し旧道があります。
 

その少し先にあった「やぶ」蕎麦屋さんで昼食休憩。
(12:24)再開し、「武蔵水路」を通過。
                          
武蔵水路について
 昭和30年代、首都圏では経済成長に伴う人口の増加や生活の多様化により水道用水の需要の増加が著しくなりました。それに加え、昭和30年代後半から渇水が続き、東京オリンピック直前には深刻な水不足となり、真夏の首都は、「東京砂漠」と言われるほどの厳しい状態となりました。
 そこで、既存の農業用水の安定化を軸に立案された利根導水路計画の一環として武蔵水路が計画され、都市用水及び浄化用水として利根川の水を首都圏に運ぶものとしました。
 地元の方々のご理解とご協力により水路は短期間で完成し、清澄な利根川の水を休みなく送り続けています。
 なお、平成27年度までには通水能力の回復や水路全体の耐震化を行い、リニューアルした施設へと生まれ変わりました。
武蔵水路の役割
武蔵水路は、利根川と荒川を結ぶ延長14.5kmの水路で3つの役割を担っています。
①都市用水の導水 
利根大堰で取水した東京都と埼玉県の都市用水を荒川へ導水しています。(導水した水は、下流の秋ヶ瀬取水堰などで取水され、東京都の朝霞浄水場や埼玉県の大久保浄水場などへ送られています。)
②浄化用水の導水 
荒川水系の水質改善のため、浄化用水を導水しています。浄化用水は、秋ヶ瀬取水堰から新河岸川へ朝霞水路を通じて流れこみ、下流の隅田川の浄化も行なっています。
③周辺地域の内水排除 
周辺地区の河川の洪水や市街地からの出水を取りこみ、荒川に排水する事により浸水被害を軽減します。  


(以上、「利根導水総合事業所」HPより)

 交差する「見沼代用水」など他の水路とはサイフォンの原理などで交差しています。 
けっこうな水量です。

上流方向を望む。

次の「新郷宿」に向けて「県道7号線」を進みます。

広々として一面、田畑に。

                            

「荒木」交差点を道なりに右に。

振り返ると、遠く上州の山々が。

↓は浅間山? 右が榛名山?


(12:50)「羽生市」の標識の手前に旧道。右手に入ります。

                             

(13:08)T字路を左折する手前に「南陽醸造」。銘酒「花陽浴(はなあび)」。
                           
                       

◆花陽浴(はなあび)とは?
太陽の陽ざしをたくさん浴びて大輪の花を咲かそう!
飲む人も造る人も、みんなの花が咲きますように!

南陽醸造株式会社
〒348-0041 埼玉県羽生市大字上新郷5951 
(平日9時~17時)

自宅兼店舗につき営業時間外のお電話はお控え下さい。
裏口からの侵入は寿命が縮まりますのでご遠慮下さい。

敷地内では少年野球「新郷マリナーズ」所属の元気な孫3人が放課後、練習をしております。
彼らの豪速球と豪快なスイングには十分ご注意下さい。
※団員募集中
(酒蔵のおかみマチコより)
(「」HPより)

埼玉の地酒~花陽浴 <はなあび>
■ 花陽浴 南陽醸造(株) 埼玉県羽生市上新郷5951 TEL:048-561-0178
 創業は明治3年(1870年)南陽醸造(株)蔵元の初代、須永亀吉は現在の羽生市下新郷の出身で、茨城県古河市で酒造りの修行を積んだ後、清き水湧くこの地に開蔵しました。
 銘柄「南陽」の由来は、中国魏の時代、文帝(曹操の息子曹丕)の命により寿命をもたらす霊泉探しに南陽県(現・河南省南陽県)鹿県山奥に分け入った勅使一行が700年も時を遡る穆王に召し使われたという不思議な童児と遭遇し、霊験あらたかな妙文を使った昔話がもとになっています。また、南陽市は諸葛亮孔明が隠棲し晴耕雨読の日々を過ごしていた故地として有名です。
 仕込水は、埼玉伏流水(荒川水系と利根川水系)の井戸水を使用。軟水のため、酒質はやわらかく、口当りの良いまろやかな酒ができます。酒米は、主に美山錦、八反錦を使用。炭素ろ過することなく、大変手間のかかる瓶燗急冷を行っております。
                           
(この項、「」HPより)

 あちこちの街道歩きをしていると、こうした地酒をつくっているところ、それも隠れた銘酒が多いですね。

この先で「新郷宿」に入ります。

新郷宿
 館林宿から忍宿へ向かうときだけの片継ぎという変則的な宿場。江戸時代後半頃から木綿と藍の生産が盛んになり、4と9のつく日に行われる市では青縞木綿の取引で大変賑わったといいます。

(13:14)「宿中」バス停。

前方に大きなシイの木が。
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JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その3。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-07 21:00:43 | 日光千人同心街道

                        「足袋蔵」。
                     奥にも連なっています。




(10:34)交差点の角には「旧忍貯金銀行」。
 市中心部に位置する鉄筋コンクリート造2階建ての本格的銀行建築です。忍貯金銀行の店舗として昭和9年(1934)に竣工しましたが、戦時中に行田足袋元売販売株式会社が建物を買収しました。戦後足袋会館(足袋組合の会館)となり、昭和44年(1969)から武蔵野銀行行田支店となっています。県内でも数少ない戦前の銀行建築であり、足袋産業とも深く関わる行田を代表する近代化遺産です。

高札場跡」碑。

 この付近には「旧 牧野本店店舗」や「足袋博物館」がありますが、省略。

交差点を右折して街道を進みます。

 随所に城下町らしく工夫された解説板やブロンズ像が信号機器などを隠すように設置されています。
 


忍城新城下町「浮き城のまち・行田」
 忍城御三階櫓の復元を機に、行田の市街地では城下町の香りのするまちづくりが進められてきました。
 浮き城の径、街路灯、御影石の歩道、あきんど館の建設、電線地中化、モニュメントの設置と新城下町の風情が現れました。
 忍城の城下町として栄えたこの通りは、16世紀にはもう市が立ち、にぎわいを見せていました。徳川家康をはじめとする多くの大名、文人、商人がここを行き交っていたのです。
 どうぞ皆様も楽しみながらこの街をそぞろ歩いてください。

「埼玉県信用金庫」付近が「忍宿本陣跡」。

その先に「旧山田清兵衛商店」。

                       
 十万石の本店として知られるこの黒漆喰塗りの重厚な店蔵は、元は呉服商山田清兵衛商店の店舗として明治16年(1883)に棟上げされたものです。行田では珍しい江戸様式の店蔵で、昭和27年(1952)に青柳合資会社の足袋蔵となり、昭和44年(1969)から十万石の店舗となりました。昭和53年(1978)に改修が行われ、外壁にナマコ壁が設けられています。行田を代表する店舗と言えます。       

落ち着いた街並み。景観がよく保たれています。

        
国宝金錯銘鉄剣と古代蓮のロマン
 関東最大の古墳群「さきたま風土記の丘」は日本最大の円墳である丸墓山古墳をはじめ9基が現存しています。
 特に稲荷山古墳から出土した国宝金錯銘鉄剣(古墳群内の県立さきたま資料館に展示)は、金で115文字が刻まれ、神秘的な輝きを放っています。

 2千年の時を経て自然発芽、開花した古代蓮(行田蓮)。「古代蓮の里」では7月から8月には濃いピンク色をした大きな花が古代のロマンを感じさせてくれます。


知将石田三成の水攻めにも屈せぬ 天下の浮き城
 天正18年(1590)、石田三成は軍勢2万3千を率い忍城を取り囲んだ。丸墓山の陣を張り、水攻めが良策であるとして、1週間で28キロもの水攻めの堤を完成させ、利根川・荒川から水をひいた。
 しかしながら、水攻めを行ってもなかなか落城せず、三成は、水の中に浮き上がって見える城を見て、「忍城は浮き城か」となげく。
 現在でも「石田堤」として一部が残っている。

           
 (10:47)宿場のはずれ付近にある「大長寺」の門前には芭蕉の句碑。
 
大長寺の芭蕉句碑
 この句碑は、元は桜町の小沼の池付近にあったもので「忍名所図会(おしめいしょずえ)」にも記述が見られます。区画整理の際に、ここに移されたと伝えられています。
 碑表には「古池や蛙飛こむ水の音 芭蕉翁」と句が刻まれ、碑裏には「多少庵秋瓜謹書」とあります。・・・
(「」HPより)
 なお、行田市内には芭蕉句碑が7つあるそうです。

 「日光千人同心街道」は「大長寺」の手前を左に入って行きますが、「大長寺」からそのまま「国道125号線」を進んでしまい、おかしいなと気がついて戻ります。
 約20分のロスタイム。



100㍍ほど先、右手に「行田馬車鉄道発着所跡」碑。

(11:13)その先のT字路を右に曲がると、「忍城長野口御門跡」碑。
 長野口は忍城の城下町行田の東北隅に位置し、長野口御門が設けられて、忍城の北東の守りの拠点になっていました。・・・
 その当時、長野口がある下町は愛宕神社の門前町として市が立ち、忍城開城後には遠く京都の宮津からも商人が訪れていました。忍川には船着場が設けられ、城下町行田の玄関口として人の行き来が盛んであったようです。
 江戸時代の享保13年(1728)に見沼用水が開削されるとやがて船運が盛んになり、長野口は船着場として繁栄していきます。そして幕末には、長野口には番所や高札場が設けられるほどの賑わいをみせるようになりました。
 しかしながら明治維新後に長野口御門は取り壊され、船運も鉄道の発達とともに衰退して、かつての賑わいは失われてしまいました。

                   
 
「忍川」河畔に「船着き場跡」碑。

ここで、小休止。

カラフルな秩父鉄道の電車が左手に。



1880年代のようす。街道の他は主要道なし。宿場の東北に枡形や船着き場が見える。


2010年代のようす。市街地開発が進んだが、旧道の道筋は残っている。中央に見えるのが秩父鉄道「行田市」駅。

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JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その2。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-06 18:56:49 | 日光千人同心街道
                             「行田史跡・観光案内図」。
                                



1880年代のようす。お城やお濠がそのまま残っています。右端の道が街道。



2010年代のようす。まったくの様変わり。再建されたお城と下方の池だけが残るのみ。(「水城(すいじょう)公園」として整備されたのは1964年。

 かつての忍城の周辺の外堀跡を整備した公園である。忍城が取り壊されたあと、外堀は忍沼と呼ばれていたが、北部から次第に埋め立てられ、行田市役所や市立体育館が建設された。そして現在、水面が残る南端部が1964年(昭和39年)4月、埼玉県内最初の都市計画公園である水城公園として開園した。広さは約10.3haである。
 水城公園の前身となる公園として成田公園(のち忍公園)が城跡周辺に所在していたが、これは明治政府が1873年(明治6年)に近代化路線の一環として、太政官公布で公園制度を発足させ整備したもので、さいたま市浦和区の調公園(当時は浦和公園偕楽園)に次いで埼玉県内で2番目の公園として、1875年(明治8年)に開園したものであった。当初の計画では陸上競技場や体育館などを園内に併設する予定であった。
 公園南側には忍・行田公民館と図書館があった。図書館は移転し跡地が駐車場となり、2017年に公民館もやや北側に新築移転し、2018年に南側駐車場の拡張工事が行われている。
 また、水城公園の広場には桜が200本植えられており、桜の名所にもなっている。外堀跡の水面にはホテイアオイの群落がある。
2018年には、旧忍町信用組合店舗だった洋館(市の文化財)が園内に移築された。
(以上「Wikipedia」参照)
   
     (写真は、「」HPより)

通りの左手にある「水城公園」にちょっと立ち寄ります。

(10:07)釣りを楽しむ人びと。

北西に大きく広がる公園のようです。

観光案内図。 

2年前に移築された「旧忍町信用組合店舗」。
 旧忍町信用組合店舗は、現在の埼玉県信用金庫(本部・熊谷市)の前身である忍町信用組合が1922(大正11)年、同市行田に開設した木造二階建てのコロニアル様式の洋館です。現在は、カフェとして営業中。

先を急ぐためにここまで。

 街道をしばらく行くと、左手にある木造2階建ての建物。昭和初期に荒井八郎商店の「足袋原料倉庫」として使用していたもので、現在は陶芸工房として利用されています。
 

(10:16)その先に「和牛懐石・彩々亭」。
「解説板」。
旧荒井八郎商店事務所兼住宅・大広間棟・洋館
 この3棟の建物は、いずれも「穂国足袋」などの商標で知られた荒井八郎商店の創業者荒井八郎氏が建設したもので、現在は和牛懐石「彩々亭」の店舗となっています。東手前の事務所兼住宅が昭和元年、中央の大広間棟が昭和7年、西奥の洋館が昭和10年に建設されたと伝えられています。
 荒井八郎氏は行田足袋被服工業組合理事長や全日本足袋工業組合連合会理事など足袋業界の要職を歴任するとともに、戦後参議院議員に当選するなど政治家としても活躍しました。・・・


かつて「足袋御殿」と呼ばれたお屋敷
 昭和の始め、足袋の産地として栄えていた行田。中でも荒井八郎氏は、一代で財を築き上げた足袋屋の名士で、彼が贅を尽くして建てた邸宅が「足袋御殿」と呼ばれました。これを料亭として復元させたのが彩々亭です。
 館内は趣のある廊下、アンティークなランプシェード、風変わりな襖や障子など随所に大正ロマンの雰囲気が漂う和洋折衷造り。
 また各室窓から覗く、かつて昭和天皇がご覧になられた庭園は、富士山の溶岩でつくられたという築山があり、その上からは滝が流れています。
 窓から眺めるだけでなく、よろしければこの緑あふれる庭園を散策してみてはいかがでしょうか。
・・・
(「」HPより)

                        


その先の交差点を左に曲がると、宿場の中心街に。左の路地に入ります。
 ここは「忍城佐間口」があった場所です。
 
 天正18年(1590)に石田三成らの軍勢が忍城を攻めた際、忍城主成田氏長の家臣正木丹波守利秀が「佐間口」の守りを固め、死闘を繰り広げたと伝えられます。
 この天神社付近がその「佐間口」にあたり、定かではありませんが、正木丹波守の屋敷がこの付近にあったという説もあります。
・・・

街道に合流すると左右に足袋蔵、見世蔵があります。

「足袋蔵」。 
 「ほうらい足袋」、「栄冠足袋」の商標で知られた奥貫忠吉商店が大正5年(1916)に棟上した二階建てと三階建ての足袋蔵です。敷地内には昭和5年(1930)棟上の住宅、明治43年(1910)棟上の足袋蔵(土蔵)等も残されています。現在住宅がカフェに、足袋蔵がギャラリー、パン屋、事務所に各々再活用されています。ギャラリーでは不定期ながら展覧会等が開催され、貴重なアート発信の場となっています。

 「大澤蔵」。
 行田で唯一の鉄筋コンクリート組煉瓦造2階建ての足袋蔵で、「花型足袋」の商標で知られる大澤商店が大正15年(1926)に竣工させたものです。間口4間半、奥行2間半の行田では珍しい袖蔵形式の蔵で、南隣には昭和3年(1928)竣工の木造二階建ての住宅が、後ろには明治時代末期建設の足袋蔵が続いています。いずれも当時の足袋商店の栄華を伝える貴重な近代化遺産です。 
                      


ここで、「行田と足袋」のお話

足袋蔵のまち行田
 利根川、荒川の二大河川に挟まれ肥沃(ひよく)な大地を有する行田。
綿や藍が栽培され藍染の綿布製造が始まり、これを原料に足袋づくりが始まりました。
 伝承によると、享保年間(1716年から1735年)に 忍藩主が藩士の婦女子に足袋づくりを奨励したといわれています。
 明治になりミシンが使われるようになると、足袋の生産量は増大。
 忍商業銀行や行田電燈株式会社が設立され、資金と電力供給が安定し、ミシンの電動化が進みました。
 以後、名実ともに行田の足袋は日本一に。
 靴下が普及した今でも足袋の生産は続けられ、新製品を国内外へ発信。「足袋と言えば行田」と親しまれています。
 (HPより)

足袋とは
 足袋のはじまりについては、いろいろな説があります。
 奈良時代の貴族は、布でできた指のまたわれのない「しとうず」というものを沓の下にはきました。これがのちに指のまたわれができて、足袋になったという説。
 また、革の「しとうず」をはいていた武士が、指のまたをわり、これが足袋になったという説等、さまざまな説があります。
 むかしの足袋は、足を袋状につつんで、くるぶしのところをひもで結ぶ紐足袋でした。材料は革でつくられていましたが、江戸時代、明暦の大火(1657)のあと、革の値段が高騰すると、廉価な木綿がつかわれるようになり、木綿足袋にかわりました。
 またコハゼは江戸の後半にはありましたが、明治になってからコハゼがけの足袋が主流になったといわれています。
 また「たび」という名前については諸説があり、足袋の形が鼻に似ているので「多鼻」から、という説や、旅に使うので「旅靴」がタビになったとい う説、昔の足袋底が1枚革の単皮だった為、「タンビ」が「タビ」に変わったという説などがあります。


(この項、「行田市郷土博物館」HPより)

注:「こはぜ」
 真鍮 (しんちゅう) ・角・象牙などでつくった爪形 (つめがた) の留め具。書物の帙 (ちつ)や足袋・脚絆などの合わせ目をとめるもの。(「広辞苑」)

HPより)

「足袋蔵のまち行田」。まだまだ見所満載の行田です。

TBSのドラマ「陸王」のロケ地にもなっているようです。
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JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その1。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-05 20:55:44 | 日光千人同心街道
                                 「佐賀橋」。
 11月23日(祝)。快晴。あと2回で完結するつもりの「日光千人同心街道」。
 このところ、軟弱路線でゆとりある行程。今回は忍宿(行田)の街並みを通ります。時間的には今回もさほど掛からずに。

(9:04)前回の終了地点。左に曲がると、旧中山道に合流します。 

                            

西に進む「旧中山道」とほんのわずか重複します。

「吹上本町」交差点の手前を左に折れるのが「千人同心街道」。

「吹上本町」で左折する旧中山道(正面の道)。南東を望む。「中山道」という標識あり。

「日光千人同心街道」。 

「佐賀橋」の下を流れるのは「元荒川」。かつての荒川本流。桜並木。

 (9:14)上流にある「新佐賀橋」は土木学会推奨の土木遺産。


               


土木遺産 新佐賀橋
竣  工 昭和8年(1933)
構造形式 鉄筋コンクリートアーチ橋
認定理由 元荒川では珍しいアーチ型の橋で、開腹式アーチ構造が美しく、親柱や高欄に花びら風の装飾が施されている また、川とのふれあいの場として、ランドマークになっていることが評価された
エピソード かつて行田市にあった陸軍演習場の視察に訪れる皇族が橋を渡るため、豪華な外観に仕上げられたと伝えられている 
  住宅地を抜け、「国道17号線(現「中山道」)」を横断、「県道66号線」に合流します。
        

周囲が開けて田んぼが広がります。高架線は「上越新幹線」。 

           新幹線が通過中。

 (9:28)ほどなく変わった名前の橋、「がんがら大橋」。前身は「雁柄橋」と呼ばれた石橋だった、とか。
 

下に流れる用水は「がんがら落とし」という農業排水路。
  
 「がんがら大橋」の親柱は変わった形をしていて、左岸側には蓮の花、右岸側にはコスモスの花が描かれています。それぞれが行田市と吹上町のシンボルとなっています(「古代蓮の里」=行田市、「荒川コスモス街道」=吹上町)
 歩道上には、かつてこの路線(行田と結んでいた)を運行していた「忍馬車鉄道(のち「行田馬車鉄道」)」の様子を描いたプレートがはめ込まれています。


行田馬車鉄道

吹上村にて(大正初期)
 行田馬車鉄道(ぎょうだばしゃてつどう)は、かつて埼玉県北足立郡吹上村(現在の鴻巣市)の国鉄高崎線吹上駅前から、現在の行田市中心部までを結んでいた馬車鉄道線である。
 1901年(明治34年)6月に日本鉄道吹上停車場から行田を経て長野村に至る馬車鉄道が開業した。創業時は忍馬車鉄道。発起人は忍町(行田市)の橋本甚五郎ら15名で北埼玉郡忍町行田(行田市)の青縞卸商や足袋製造業者が中心となって設立した。
 1905年(明治38年)5月、忍馬車鉄道の経営陣は新たに行田馬車鉄道を設立し前会社の事業を引き継いで経営したが、1922年(大正11年)に北武鉄道(後の秩父鉄道秩父本線)の開通によって会社に大きな影響を受けた。
 1922年(大正11年)12月には行田 - 鴻巣間に乗合自動車の営業を開始し、1923年(大正12年)馬車鉄道を廃止して乗合自動車専業となり社名を行田自動車と改めた。 (以上、「Wikipedia」参照) 

        
        
        
        
1880年代のようす。馬車鉄道ができる前。         2010年代のようす。上方では旧道は失われている。道の付け替えがあったか。

東に向かいます。直線道路が続きます。馬車鉄道が走っていた道?
 

 「国道17号線(熊谷バイパス)・前谷」交差点歩道橋からの眺め。


                      
                         「歩道橋」下で振り返ると、屋根の向こうに真っ白な富士山が意外に大きく(↓)。

街道際に大きな「常夜燈」。

 (9:59)「忍宿(行田)」の街中に入って行きます。明治中期以降、江戸当時の旧道も失われているようです。
        
        
1880年代のようす。○が右折点。              2010年代のようす。

    
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