(11:34)街道を先に進むと「佐野口門跡」へ。道路の拡幅工事中。
まだまだ館林宿にはかつてを偲ぶ建物などがあります。
奥にりっぱな門。
先を急ぎます。交差点の先の三叉路を右に曲がっていきます。そこには道標が二基。右には「右 さの とちぎ道」左には「らいでん道」とあります。
この「らいでん」は、ここからはほぼ東にあたる、板倉町にある「雷電神社」のことか。
1880年代のようす。○が分岐点。
2010年代のようす。現在の分岐点は少し下方に。
まっすぐな道が続きます。
(11:51)東武佐野線の踏切を越えます。
視界が開けてきます。
遊水池。水鳥の姿も。
しばらくすると、「下早川田(しもさがわだ)」の集落へ。この先は「矢場川」と「渡良瀬川」の土手に。
「矢場川」は、「例幣使街道」歩きで太田から八木(福居)への途中で渡り、「渡良瀬川」は同じく天明(佐野)へ向かうときに渡りました。
集落のようす。
りっぱなおやしき。
土手から集落を見下ろす。
(12:08)「海まで155㎞」標示。
向こうの橋は「渡良瀬大橋」。
土手下には石塔群。
「渡良瀬大橋」。
「渡良瀬川」上流方向。
↓は、「足尾鉱毒事件」で生涯を捧げた田中正造の墓がある雲龍寺。
このお寺は、館林市に属しています。
(12:24)そこへ寄り道します。
「足尾鉱毒事件対策事務所」が置かれていた寺でもあります。
・・・この墓は田中正造の没後20年にあたる昭和8年(1933)に、渡良瀬川沿岸に住む人々の浄財によって建てられました。墓石は高さが約3m「あり、首部の細い特徴のある宝塔です。・・・墓の右手に建つ「救現堂」には正造が祀られています。「教現」は、正造が死の13日前に述べた「現在を救い給え」という祈りの言葉に由来するものです。
日本の近代史の一編を語るとともに、低湿地帯の郷土史を示す貴重な遺跡です。
「
鉱毒にいのちのかぎり 田中正造」
「
大正二年九月四日 享年七十三才 田中正造翁終焉の地」。
正造の歌「
毒流すわるさ止めずバ我やまず渡良瀬利根に地を流すとも」。
田中 正造
天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)。
日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として有名。衆議院議員選挙に当選6回。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。
生まれは名主の家ではあったが、田中本人によれば村では中流でそれほど裕福な家ではなかったという。
父の跡を継いで小中村名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄された。
明治3年(1870年)、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏となった。翌年、上司の木村新八郎殺害の容疑者として逮捕され、投獄されている。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。
1874年(明治7年)に釈放されて小中村に戻り、1876年(明治9年)まで隣の石塚村(現・佐野市石塚町)の造り酒屋蛭子屋の番頭を務めた。幕末に大沢カツと結婚している。
1878年(明治11年)、区会議員として政治活動を再開。栃木新聞(現在の下野新聞)が創刊されると、翌年には同紙編集長になり、紙面上で国会の設立を訴えた。また、嚶鳴社や交詢社に社員として参加している。
1880年(明治13年)、栃木県議会議員。1882年(明治15年)4月、立憲改進党が結党されると、その年の12月に入党している。県令(現在の知事)だった三島通庸と議会で対立。自由民権運動のなかで、加波山事件に関係したとして1885年(明治18年)逮捕される。1886年(明治19年)4月1日開会の第13回臨時県会で、議長に当選する。
1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選。田中は帝国議会でも当初は立憲改進党に属していた。この年渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。
1891年(明治24年)、鉱毒の害を視察し、第2回帝国議会で鉱毒問題に関する質問を行った。1896年(明治29年)にも質問を行い、群馬県邑楽郡渡瀬村(現・群馬県館林市)の雲龍寺で演説を行った。
1897年(明治30年)になると、農民の鉱毒反対運動が激化。東京へ陳情団が押しかけた。当時このような運動には名前がついておらず、農民らは「押出し」と呼んだ。田中は鉱毒について国会質問を行ったほか、東京で演説を行った。農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約、脱硫装置など実際に着工されるが、効果は薄かった。
1900年(明治33年)2月13日、農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された(川俣事件)。この事件の2日後と4日後、田中は国会で事件に関する質問を行った。これが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説であった。当時の総理大臣・山縣有朋は「質問の意味がわからない」として答弁を拒否した。なお、川俣事件は仙台控訴審での差し戻し審で、起訴状に担当検事の署名がないという理由で1902年(明治35年)に公訴不受理(一審で無罪だった者については控訴棄却)という判決が下り、全員が釈放された。
1901年(明治34年)10月23日、田中は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は止めず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説をたびたび行った。
12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行う。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし(田中本人の言及による)、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っている。
1902年(明治35年)、川俣事件公判の際にあくびをした罪で重禁固40日の判決を受け服役。このとき聖書を読み、影響を受けた。
1902年(明治35年)、渡良瀬川下流に貯水池をつくる計画が浮上。建設予定地となっていた埼玉県川辺村・利島村の反対運動に参加。計画は白紙になった。
1903年(明治36年)には栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が浮上。田中は1904年(明治37年)7月から実質的に谷中村に住むようにしている。同年、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事がはじめられた。
1906年(明治39年)、谷中村議会は藤岡町への合併案を否決するが、栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した」と発表。谷中村は強制廃村となるが、田中はその後も谷中村に住み続けた。1907年(明治40年)、政府は土地収用法の適用を発表。「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけ、多くの村民が村外に出たが、田中は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。結局この土地が正造の終の棲家となる。
1908年(明治41年)、政府は谷中村全域を河川地域に指定。1911年(明治44年)、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された。
土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年(大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶まわりに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)。その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。71歳没。
財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。
雲龍寺で、9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は数万人ともいわれる。
田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨された。このため、墓は6箇所にある。
足尾銅山は1973年(昭和48年)に閉山となり、現在でもその跡を残している。そして田中が明治天皇へ行おうとした直訴状は、2013年(平成25年)に渡良瀬遊水地や田中の出生地である佐野市を訪れた今上天皇へと伝えられることとなった。未遂から実に112年後のことであった。
正造の墓の所在地
佐野町(現・佐野市) 惣宗寺 - 正造の本葬が行われた寺
渡瀬村(現・館林市) 雲龍寺 - 正造の密葬が行われた寺。また、鉱毒対策事務所が置かれていた寺でもある。
旗川村(現・佐野市) 浄蓮寺 - 田中家の菩提寺
藤岡町(現・栃木市) 田中霊祠 - 田中を葬るために谷中村跡につくられた祠。後に藤岡町堤外に移転。
利島村(現・加須市) - 川辺村民と利島村民が協力し、利島小学校敷地内に造営(現・加須市立北川辺西小学校。加須市麦倉所在)。
久野村(現・足利市) 寿徳寺 - 1989年に公表された6番目の分骨地。
(以上、「Wikipedia」参照。)
(12:34)街道に復帰、東武線の脇を進みます。