おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「日光道中」をゆく。総集編。第1日目。(京成「千住大橋」駅から東武「新田」駅まで。)

2016-07-30 20:33:23 | 日光道中
 5月3日。晴れ。第1日目。
    
 (8:00)「千住市場問屋街(やっちゃ場)」。「旧日光道中」標識と通りのようす。朝早いせいか、静かな町並み。

 「墨堤通り」(旧「掃部堤」跡)を渡ると、この付近が「千住掃部(かもん)宿」。左手に小公園があり、りっぱな解説板。
千住掃部宿
 千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永2年(1625)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。現在の千住1丁目から5丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、4キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。
 掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。
 名前の由来は慶長3年(1598)村を拓き、元和2年(1616)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなみます。
 掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり、繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳諧文化、江戸絵画、漢学、医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和6年(1931)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。
 昭和20年4月13日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。
                         平成27年3月  千住仲町まちづくり協議会・うるおいのあるまちづくり部会

「旧日光街道」(この道路愛称名は公募によって選ばれました・足立区)。看板は「かもん宿診療所」。

 なお、この「旧日光街道」は、いったん荒川によって遮られますが、その先もほぼ直線で、延々と足立区と草加市の境まで続きます。道中歩きには大助かりです。
 ここで「千住宿」の紹介(以下、「Wikipedia」参照)
千住宿
 日光街道(日光道中)および奥州街道(奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町。千住宿は、武蔵国足立郡・豊島郡の荒川(現隅田川)曲流部に設置された宿場町。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
 水戸街道はここから分岐していた。荒川・綾瀬川が付近で交差しており運輸・交通の便に有効な場所であったことから、千住大橋沿いには橋戸河岸が置かれ、 千住河原町に設置されていた千住青物市場(やっちゃ場)は御用市場となった。 千住は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。
 千住宿は岡場所としても発展した。また、千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、小塚原刑場が置かれている。
 当時の千住宿は、現在の足立区千住一~五丁目、千住仲町、千住橋戸町、そして荒川区南千住町名に相当する。
 文禄3年(1594年)荒川(現隅田川)に千住大橋が架けられると、この地域は急速に発展した。
 『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられていた。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった。その他、
掃部宿には「一里塚」、「高札場」、千住一丁目に「問屋場 貫目改所」が設置された。

 千住宿の賑わいは、『新編武蔵風土記稿』によると「駅の広さ東西14.5町、南北35町ありて、宿並間数1,256間、その左右に旅亭商家軒をならべて、旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり」とある。江戸市街の喉もとで奥州街道、水戸街道の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わったという。 幕末期には家は2,400軒近く、人口も約1万人に達する江戸四宿最大の宿場町になった。 文政4年(1821年)の調べによると,江戸参勤の大名は,日光街道4、奥州街道37,水戸街道23,計64の大名が千住の宿を往来している。
 江戸時代、千住宿に岡場所があった。岡場所は、唯一の幕府公認の遊郭である吉原に対して、それ以外の非公認の遊郭の総称である。江戸市中に私娼を置くことは御法度であったが、実際には千住宿・品川宿・板橋宿・内藤新宿といった江戸四宿には、準公認の飯盛女(飯売女・飯売)が置かれていた。
 明治時代になると、岡場所は遊郭となった。1883年(明治16年)の千住宿の売娼妓数374、買客数43,000、1888年(明治21年)にはそれぞれ466、65,000との記録がある。いずれも四宿においては内藤新宿、板橋宿を上回っていた。
 慶安4年(1651年)千住宿小塚原町(現荒川区南千住)には、「小塚原刑場」が位置づけら、小塚原の仕置場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が行われ、合計で20万人以上の罪人がここで刑を執行されたという。

    
葛飾北斎『冨嶽三十六景 武州千住』              『冨嶽三十六景 隅田川関屋の里 』

 「千住宿」は松尾芭蕉の『奥の細道』を抜きにしては語れません。
『奥の細道』
・・・弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士の嶺かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。
千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。

  行(ゆ)く春や 鳥啼(なき)魚(うお)の 目は泪(なみだ)

これを矢立の初めとして、行く道なを進まず。
人々は途中に立ちならびて、後ろかげの見ゆるまではと見送るなるべし。

 さて、もう少し北に向かうと、賑やかな商店街になります。その手前、広い通りをはさんで「高札場跡」「一里塚跡」(日本橋から2里目)、さらに「問屋場跡」「貫目改所跡」碑がそれぞれあります。

「高札場」跡。「一里塚」跡。

「千住宿問屋場・貫目改所」。
 
 北千住駅前の通りを横切り、繁華街に入っていきます。左手に「千住宿本陣跡」碑。
    
                                        その付近の街並み。

    
                           横山家住宅
 宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋問屋を営んでいた。
 現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われている。間口が9間、奥行きが15間あり、大きくどっしりとした桟瓦葺きの2階建である。
 広い土間、商家の書院造りと言われる帳場2階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。

今も続く「千住絵馬屋」吉田家。

千住名物「かどやの槍かけだんご」

  「東へ 水戸佐倉街道」との分岐標。

 旧日光街道は「荒川放水路(現・荒川)」開削によって分断されましたが、江戸時代はここから北西方向に進み、「川田橋」のところで今度はほぼ北へ進む道となります。
                  

荒川土手近くに設置されていた道標。「北 下妻道。北西 日光道中。」

荒川に架かる「千住新橋」を渡ります。現・日光街道「9㎞」ポスト。

 橋を渡り終えてから、左に進みます。土手上でも首都高下の道でも可。「川田橋」交差点、「善立寺」のところを右に進みます。
               

「旧日光街道」。ここからは北に向かいます。

 しばらく進むと、左手に小さな石不動尊の祠と「子育八彦尊道  是より二丁行く」という道標。


 「エルソフィア前」という交差点を通過すると、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の梅島駅に。
ここから直線道路で「淵江小学校」の先まで約3㎞続く。
「環七」を横切る島根交差点の先には「将軍家御成橋 御成道松並木」跡碑。

一直線に伸びる「旧日光街道」。

(9:29)左手奥に「島根鷲神社」。

 (9:58)「足立清掃工場」の大きな煙突が左手に見え始めると、バス停に「大曲」とあります。その名の通り、いったん旧道は右に大きく曲がって行きます。
    

 わずかで先ほどの道と合流し、「国道4号線(日光街道)」のバイパス下をくぐると「毛長川」を水神橋で渡り、いよいよ東京都足立区から埼玉県草加市へと入ります。
    

(10:24)草加市入り。

 東武スカイツリーラインの谷塚駅前には「富士浅間神社」。しばらく進むと「吉町5丁目」交差点の右角に、「火あぶり地蔵尊」。
                 

(11:15)しばらく進むと、Y字路になります。左の狭い、草加駅方向への道が旧日光街道。
「今様草加宿」の大きな標識が目印。

「草加市役所」前から来た道を振り返って望む。

小さな祠と案内板。「おくのほそ道の風景地 ↑草加松原」。

宿内のようす。

              駅前通り手前の右手・草むらの中に日光街道・葛西道と刻まれた道しるべの石塔。
                        

 しばらく進んだ右手には国の登録有形文化財の「藤城家住宅店舗・内蔵・外蔵」があります。
 藤城家住宅は五街道の一つである日光街道の宿場・旧草加宿のほぼ中央に位置しています。
 街道に面して建つ「店舗」は2階建てで、1階の内部は張り出した庇部分を巧みに取り込み、土間と畳敷きの帳場を設け、その先から上がる2階は、畳敷きの座敷となっています。開口部は1階がガラス格子、2階は障子と縦格子で装飾され、風格のある昭和初期の商家造りとなっています。
 その後方には、母屋に組み込まれた重厚な土蔵造りの「内蔵」と明治初期の建造と伝える「外蔵」が並び、奥行きの深い、草加宿の典型的な町屋景観をよく残しています。
 このように、江戸時代以来の宿場の面影を今に伝える藤城家の各建造物は、歴史的にも景観的にも大変貴重なものであり、「国土の歴史的景観に寄与するもの」として国の有形文化財(建造物)として登録されました。

                                                平成26年3月 草加市教育委員会

    

 (以下「Wikipedia」参照)
草加宿
 日光街道および奥州街道の2番目の宿駅(宿場町)で、武蔵国足立郡にあった。現在の埼玉県草加市中心部に相当する。 宿場の位置は、現在の草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から神明一丁目の草加六丁目橋付近までの一帯。
 慶長元年(1596年)、徳川氏は“陸奥の駅路”奥州街道を定め、慶長7年(1602年)、伝馬人足の設置および継立を義務づけた宿駅制度を設けた。奥州街道・日光街道の千住から越ヶ谷間は、この一帯の街道筋は沼地が多かったため、これを迂回し花俣(現在の東京都足立区花畑)から八条(八潮市)に出て古利根川と元荒川の自然堤防に沿って越ケ谷に至る経路を取っていた。
 慶長11年(1606年)になって、大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この新道の工事の完成に当時の将軍徳川秀忠は喜び、「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」と下知した。これを「草加」という地名の由来とする言い伝えがある。
 草加宿の開宿当時、戸数は84戸、長さ685間、伝馬人足25人、駅馬25頭であり、旅籠屋も5軒から6軒、店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が各1軒ずつ軒を並べたもので、あとは農家であったが徐々に人口が増え、元禄期には戸数120軒になった。 正徳3年(1713年)には、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられ、五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心として繁栄するようになった。
 天保14年(1843年)によると、南北12町(約1.3km)の規模となり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒(大2、中30、小35)、人口3,619人であった。これは、同じ日光道中の宿場のうち、城下町に併設されていた宇都宮宿と古河宿を除けば、千住宿、越ヶ谷宿、幸手宿に次ぐ規模であった。

※草加せんべい
 元々この一帯では稲作が盛んに行われており、農家では蒸した米をつぶし丸めて干したものに塩をまぶして焼き、間食として食べていた。江戸期に入り、この地に宿場が開かれ発展していくと、この塩味の煎餅が旅人向けの商品として売り出され、各地に広まることとなる。その後、利根川流域(千葉県野田市など)で生産された醤油で味をつけるようになり、現在の草加煎餅の原型となったといわれている。
 現在、草加市内にはせんべいの製造所や販売所が60軒以上に及び、現在も草加の代名詞となっている。製造工程は機械化されつつあるが、昔ながらの天日干しや手焼きで製造する所も少なからず存在する。

※草加宿と芭蕉
深川を出た芭蕉は千住宿まで舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めます。「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり」 こうして芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみながら2里8丁(8.8km)を歩き、日光街道第2の宿駅だった草加にたどり着きました。
 芭蕉が訪れたころの草加宿は、戸数120軒ほどの小規模な宿場町でした。開宿当時の草加宿は、戸数84戸、旅籠屋(旅館)が5~6軒、他の店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋(銭湯)、髪結床(床屋)、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、あとはすべて農家だったそうです。芭蕉が訪れた頃は、草加宿が賑わい始める前だったのですね。きっと、のどかな風景が広がっていた事でしょう。

 「草加宿」の本陣は、宝暦年間までは「大川本陣」、その後、明治になるまでは「清水本陣」ということで二つの本陣跡碑が向かい合って建っています。

    
 大川本陣(~宝暦年間)            清水本陣(宝暦年間~明治初期)

 この本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩の伊達綱村、盛岡藩の南部利視、米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。

注:「宝暦年間」=1751年~1764年。

 この一画は、「おせん茶屋」。
 街角修景事業として神明1丁目の児童公園を改修した小公園。昭和62年3月に完成。旧日光街道に面し、かつての宿場の雰囲気をただよわせる。名前は草加せんべいの伝記上の創始者「おせんさん」にちなむ。

     

「草加せんべい」は円形の醤油味の堅焼きで、「草加せんべいの醤油のかおり」はかおり風景100選(環境省)に選ばれています。
「元祖源兵衛せんべい」。

 この界隈には他にもたくさんお煎餅屋さんが店を連ねています。

    
                        久野家(大津屋)住宅[店舗部分]
 草加宿では街道がほぼ直線状に設けられたが、北の端では曲輪のように大きくカーブする。久野家はその曲がり角に位置している。記録によれば開宿以来四回程の大火や震災に見舞われ、そのたびに蘇ってきた。家伝によればこの家は安政2年(1855)の江戸大地震に耐えたという。幸いにも明治3年(1870)の大火も免れた。以来この場所で宿場の変遷を見続けてきた。

 曲輪の出口に、「神明宮」。その鳥居礎石に几号と解説碑があります。
    
 「不」の記号は明治9(1876)年、内務省地理寮がイギリスの測量技師の指導のもと、同年8月から一年間かけて東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。
 記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、この水準点の標高は、4.5171メートルでした。
 その後、明治17年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます。

 (12:40)「曲輪」を過ぎると、再び「旧国道4号線(「日光道中」)」に合流して一路、蒲生に向かいます。ここからが「綾瀬川」沿いに、景勝地・「草加松原」の遊歩道が続きます。その向かい側に小公園。そこには「奥の細道」で芭蕉のお供をした「曽良」の像があります。
                       
松尾芭蕉翁像と河合曾良像
 河合曾良像とこの先の札場河岸公園内の松尾芭蕉翁像とは100㍍程離れ、建立された年も異なりますが、二つの像は対をなす作品です。これらの像は、元禄2年弥生27日(1689年5月16日)、草加に奥の細道への歩みを印した俳人・松尾芭蕉と門人・河合曾良の旅姿を表現しています。両像とも草加出身の彫刻家・麦倉忠彦氏の作品です。芭蕉翁像は、1989年に奥の細道旅立ち300年を記念して市民団体「芭蕉像をつくる会」が建立しました。一方、曾良像は、2008年に草加市制50周年を記念して市民団体「河合曾良像をつくる会」が建立しました。いずれも市民からの浄財を募って建設資金としています。芭蕉翁像は友人や門弟たちの残る江戸への名残を惜しむかのように見返りの姿をし、曾良像は先を行く芭蕉を案じて、何かを呼びかけているようです。曾良像の建立を報じる広報そうかには「20年前に芭蕉翁像は制作されており、ようやく2体がめぐり会いました」と記され、制作者や市民の息の長い活動と情熱を讃えています。

 左に折れて橋を渡ると、右手が「綾瀬川」沿いに「札場河岸公園」。ここはよく整備された公園で、「望楼」「芭蕉像」などや休憩施設、さらに甚左衛門堰などがあります。休憩するにはもってこいの場所です。

        
       望楼
 望楼とは、遠くを見渡すための櫓のことをいいます。常に見張りを置いてまちなかの火事発生の発見に努めるための施設でした。 
 この望楼は、石垣の上に埼玉県産のスギ、ヒノキを使った木造の五角形の建築物で、高さは11.1mあり、内部は螺旋階段になっています。午前9時から午後5時までの間は、自由に内部に入ることができ、草加市を一望することができます。

芭蕉像は先ほどの曽良像と相対するかのように江戸方向を向いています。

        
             国指定名勝「おくのほそ道の風景地草加松原」
 この国指定名勝は、松尾芭蕉が弟子・河合曾良と「おくのほそ道」の旅で記した一群の名所、由緒、来歴の地からなる一体の風致景観であり、この「草加松原」も後世の人々の風景官に影響を与えているものとして、「殺生石」「黒塚の岩屋」「大垣船町川湊」等と合わせて指定されました。
 「草加松原」は、634本の松が植えられた綾瀬川沿いに延びる全町1.5㎞の石畳の遊歩道として整備されており、江戸時代の舟運の荷の上げ下げ場として復元された札場河岸公園や対岸に整備された広さ約4.1㏊の綾瀬川左岸広場と一体となって、市民の憩いの場やレクリエーションの場としても親しまれています。

「句碑」。「巡礼や草加あたりを帰る雁 (高浜)虚子」。

「綾瀬川」。

 かつては綾瀬川とその脇にあった用水との間を歩いていたようです。用水路は現在は「旧国道4号線」の拡幅で暗渠。 
 汚染度が全国で1、2位を争うほどだった(特に都内に入ってからは)「綾瀬川」もここはきれいな流れになり、時折、大きな魚が飛び跳ねる姿も見られます。

 ここから1㎞以上にわたって松並木の道になります。ジョギング、散歩、犬を連れて、・・・さまざまな人々が行き交う。思い思い、のんびりと歩いています。途中に句碑や石碑が設置されています。
          
        「矢立橋」。太鼓橋になっています。芭蕉の「奥の細道」にあやかって名付けられた橋。

橋名
 「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり 松尾芭蕉 奥の細道」
 お隣には「奥の細道国際シンポジウム ドナルド・キーン記念植樹」。

    
 百代橋から南を望む。                         北を望む。

    
                           松尾芭蕉文学碑。

 ことし、元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへ共、耳にふれていまだ目に見ぬさかひ、若し生(き)て帰らばと、定めなき頼(み)の末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着(き)にけり。痩骨の肩にかかれる物先(づ)くるしむ。
 只身すがらにと出(で)立(ち)侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ ゆかた 雨具 墨 筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打(ち)捨てがたくて、路次の煩(ひ)となれるこそわりなけれ。
 西村本「おくのほそ道」より

「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり 秋桜子」

まもなく松並木も終わりを告げます。振り返って望む。

(13:28)「外環」陸橋をくぐると、絵タイル。

草加と「おくのほそ道」
 俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、元禄2年3月27日、江戸深川を出立し、「その日やうやう(ようよう)早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と記しています。
 この絵タイルは、その「おくのほそ道」の旅を想像して描いたものです。
 平成8年3月吉日

    

 もう少し「綾瀬川」沿いに歩き、西に折れて東武線「新田」駅に向かいました。
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読書「宰相A」(田中慎弥)新潮社(2015・2・25刊)

2016-07-29 21:55:37 | 読書無限

 「我が国とアメリカによる戦争は世界各地で順調に展開されています。いつも申し上げる通り、戦争こそ平和の何よりの基盤であります。戦争という口から平和という歌が流れるのです。戦争の器でこそ中身の平和が映えるのです。・・・健全な国家には健全な戦争が必要であり、戦争が健全に行われてこそ平和も健全に保たれるのです……」(P91)

 田中慎弥さんの小説には今まで接したことがありません。芥川賞を授賞した小説は読みましたが、特別な感想は・・・。
 この前、出かけた図書館でたまたま手にしたこの長編「宰相A」。題名に惹かれたわけです。読む進めると、実に痛快で意味深げな内容。結論から言うと、この「宰相A」の「A]とは今をときめく「アベ」を暗示しているのに違いありません。それとアドルフ・ヒトラーのAをも。
 「安保法案」を数の力で押し切り、「基地NO !」との沖縄の声も聞こうともせず、アメリカにこびを売り続け、それでいて現憲法はアメリカ占領軍の押しつけだと声高に憲法改定をしゃにむに進めようとするアベ・・・。
 
 Tというイニシャル(氏名を告げても「T」としか把握されない)「私」が、小説執筆に行き詰まって母の墓参りのことを小説に書こうと思い立ち、郷里の駅に降り立つと、そこは英語を話す、アングロサクソン系の人種が支配する「日本国」だった。
 第二次世界大戦後、アメリカは日本人から統治権を取り上げ、この国を支配するようになっていた。それまでの日本人は、「旧日本人」と呼ばれ、「居住区」に押し込められている。ただし、首相だけはAと呼ばれる異様に下腹部の膨れた「旧日本人」。
 引用した冒頭の部分はこの宰相「A」が英語での演説で(まったく言語不明瞭)、日本語に翻訳された文章がテロップで流されていく場面。
 居住区に押し込められた旧日本人から「私」は伝説的な反逆者の「J」の生まれ変わりとされる。「内通者」の旧日本人女性と「私」とがセックスすることに。そのため、拘束された二人は拷問を受ける。その結果、記憶喪失になった「私」は、現在の「日本国」の御用作家の道を選ぶ。

 それほど練度が高いものとは思えないが、最近読んだ中では実に小気味よい小説と言ってしまえば、身もふたもないが、ここで描かれた世界が昨今の日本に重ね合わせられるところに、たんなるカリカチュアではすまされない先見性がありそうだ。

 田中さんは昨今の政治情勢、言論・文化情勢にかなりご立腹と危機感を持っているようすだ。

 それにしても、都知事選の候補者追い落とし記事。週刊誌がこれでもかこれでもかと選挙期間中に載せ、先を競うように某筋に好まれるように記事を仕組む。ジャーナリストを逆手に取った手法。女性票の行方を特定候補に誘導するために。いやはや・・・。
 この小説に通じるものはあるや否や。

 
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東武日光駅。八王子同心。神橋。与謝蕪村句碑。・・・(「日光道中」をゆく。その51。)

2016-07-28 21:09:04 | 日光道中

 その先には「東武日光駅」。華やかな駅前通りになり、外国人など大勢の人々の姿が。
ゴールに向かって緩やかな上り道。右手奥が「東武日光駅」。

 ここから神橋までは1,500㍍ほど。そぞろ歩きする外国人の姿が目立つ中、いよいよラストスパート。けっこう疲れがきていますが。と、携帯に電話が。

 お客さんが来るのだが、いつ頃帰ってくるのか? と。
 そういえばそんなことを聞いていたなあ、今、日光駅前。遅くまではいられないのか、じゃあ、急いで帰るから。

 さて、気を取り直して「神橋」に向かいます。

 東照宮に向かう広い参道の両側にはお店がずらり。公共施設も街道筋らしい趣の建物に。

 ここは日光道中21番目で、道中最後の宿場でもあります。

 鉢石宿
 もともと鉢石村という村落があったが、元和3年(1617年)に徳川家康を日光山に祀り日光参詣が盛んとなると日光東照宮の門前町として大いに栄えた。現在のJR日光駅の辺りに鉢石宿の木戸があった。当時、入江本陣は御幸町、高野本陣は中鉢石町にあり、参詣者は本陣に投宿して東照宮を参詣した。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、鉢石宿の本陣は2軒設けられ、旅籠が19軒、宿内の家数は223軒、人口は985人であった。

「祭(いのり)のまち 日光東町」

(14:48)「日光消防署」。

大横町の歴史
・・・火の番屋敷がこの大横町に移された事から火の番横町とも呼ばれるようになりました。・・・その火の番を命じられたのが、「八王子同心」と呼ばれた人々で八王子から日光に交替制で勤め、その為約200年もの間火災から社寺を守る大きな功績を残しています。・・・

 ここに記されている「八王子(千人)同心」の補足説明。

 千人同心に命じられた重要な役目が、慶安5年(1652)から勤めた日光火の番でした。日光は、東照大権現として家康がまつられた東照宮があり、幕府の精神的なよりどころでした。千人同心は、その東照宮の防火と警備にあたり、境内や町内を見回り、いざ出火となれば消火活動にあたったのです。
 八王子から日光までは、当初は江戸に出て千住から向かうルートを通っていましたが、多くは八王子から拝島方面へ向かい、松山(埼玉県東松山市)・佐野(栃木県佐野市)を経るルートを利用しました。三泊四日の旅程でした。当初は千人頭2名と100名の同心が担当し、50日期間で交代する体制でした。その後何度か変更され、最終的には寛政3年(1791)に千人頭1名と同心50名で半年交代で務める体制になりました。
 この役目は江戸時代を通じて勤められ、慶応4年(1868)に千人同心が解体するまで続きました。この年、既に幕府は瓦解し、新政府軍と旧幕府勢との間で戦いが始まっていました。やがて新政府軍は日光にもやって来ました。この時、日光火の番を勤めていた千人頭が、石坂弥次右衛門義礼(いしざかやじえもんよしかた)でした。義礼は、刀を交えることなく新政府軍に明け渡し、東照宮を戦火から救いました(その後、義礼は八王子に戻りますが、責任を追及する声もあり、帰郷した夜に切腹してしまいます)。こうした関わりから、昭和49年(1974)に八王子市と日光市は姉妹都市となりました。
 命を賭して東照宮を守った石坂弥次右衛門義礼の墓は、菩提寺の興岳寺(八王子市千人町)にありますが、墓前の香台は日光市から贈られたものです。

(以上HPより)

(14:58)「日光市日光庁舎」。お城のような雰囲気。

 古いおうちと商店と。
    

「鉢石横町」。
 この辺りに「鉢石」という町名の基になった「鉢石」が保存されているはずですが、見逃しました。

    
 「金谷ホテル」下にある物産店。国の有形登録文化財に指定されています。

「日光のおいしい水 磐裂霊水」。
1200余年前日光開山の祖勝遍上人がこの地に涌き水を発見し、以来修験者が神仏に供えた霊水と伝えられる。この水は男体山系の涌き水で、日本でも最もおいしい水として定評がある。

      
          板垣退助銅像
 板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家です。
 明治初期に自由民権運動を展開し、自由党を結成。土佐(高知)出身。
 明治元年(1868)戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大島圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われます。
 その遺徳を讃え昭和4年に建設されたが、最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和42年に再建。 


      
                             (15:06)神橋。

「華厳の滝」から流れ落ちてきた「大谷川」。

            与謝蕪村句碑

             二荒や 紅葉の中の 朱の橋 (ふたあらや もみじのなかの あけのはし)

 ここまで。急いで路線バスに乗って、東武日光駅まで戻ります。
 駅に着くと、15:30発浅草行きの特急「きりふり274号」の発車寸前。駅員にせかされるままに飛び乗って、何とか間に合いました。

 最後は中途半端だが、ま、いいか。これで「日光道中」約140㎞の旅、終了!

 だんだんと日差しが強くなる日々の下、果てしなく延びる直線の国道歩きにはいささか参りました。が、宇都宮宿を過ぎてからの杉並木街道には圧倒されました。宇都宮までは標高もほとんどなく、平らな道筋。その点では歩きやすさが一番でした。
 すべて日帰り。それもおおかた午後3時前には終了(午前中で終わりの日もあった! )、というペース。結局、9日間にわたる旅でした。

 いよいよ次回は「中山道」を再開。軽井沢から、と思っています。が、はたしていつになるやら・・・。
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常夜燈。並木太郎。JR日光駅。・・・(「日光道中」をゆく。その50。)

2016-07-27 21:04:23 | 日光道中
 ちょっとした家並みと石畳、そして舗装道路と交互に。
     

(13:35)木立の中にうち捨てられた廃屋と車。

      
                                「日光杉並木街道の物語(野口地区)」。

 ・・・この杉を植栽した松平正綱は17歳で徳川家康に仕え、後に幕府の経理を預かる勘定奉行になり、家康没後は、度々日光を訪れ、将軍の社参や祭典、または東照宮の警護や修理にも活躍し寛永2年(1625)多年の幕府に対する功労が認められ、2万2千石の大名に任ぜられました。
 徳川家康を崇敬した松平正綱が日光東照宮の参道である街道に杉を植えたのは、東照宮をはじめとする聖地日光への道の景観を整えるとともに、雨風や日照等の自然環境から旅人を保護するために行ったものと言われております。・・・

 集落を抜けると、国道に合流します。ここからはしばらく車の行き来の激しい車道脇の側溝の上を進みます。
      振り返って望む。

左側にはJR日光線の線路。

 その先の左手には「常夜燈」や「弘法の霊水(表示)」がありますが、道路を渡るのは危険なので、遠目に望むだけ。
        

 (13:51)杉並木の中で一番大きな杉の木「並木太郎」。
 並木の中で一番大きな杉であり、周囲5.35㍍樹高58㍍・・・その姿の美しく端正なことより並木太郎と呼ぶにふさわしい名木である。

    

(14:05)左手はJR線のガード。

その上の方には「日光道(高速)」。

 (14:12)しばらく行くと、「明治天皇七里小御休所」跡。
     

    
 その先、しばらく進み、「宝殿」交差点で右奥の道を進みます。

 (14:28)左手に広くて静かな旧道・杉並木があります。久々の土の道。
    

 (14:31)その道もすぐ終わり、JR線のガードのところで国道に合流、ガードをくぐってから右手の小道を進むと、杉並木の旧道。
    

路傍には石碑が並んでいます。  
                                                     振り返って望む。

 「国道119号線」に合流すると、いよいよ最後の「日光杉並木街道」。
    
                                「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」  
               
 (14:37)右手奥の方に「JR日光駅」。古風で趣のある駅舎。東武日光駅に比べると閑散としていますが・・・。
    

 東北本線などを建設した私鉄であった日本鉄道が、その支線の終着駅として1890年(明治23年)8月1日に開設した。当時から日光東照宮や中禅寺湖など景観の美しい日光は日本有数の観光地で、皇族や外国人観光客なども多く訪れる駅であった。
 1906年(明治39年)11月1日に日本鉄道が国有化されて国有鉄道の駅となり、1909年(明治42年)10月12日に線路名称が制定されて日光駅の所属する路線は日光線と名付けられた。初代の駅は質素な平屋建てだったが、1912年(大正元年)8月25日に、現在の2代目駅舎が落成した。ネオ・ルネサンス様式のハーフティンバー様式木造洋風建築2階建てで、鉄道院技手の明石虎雄が設計した。
1929年(昭和4年)には東武鉄道が東武日光駅まで開通して国鉄と東武の競争が始まった。1959年(昭和34年)9月22日には日光線の電化が完成し、デラックスな157系を使用した準急「日光」の運転を開始して東武鉄道に対抗したが、運賃・所要時間ともに東武鉄道の方が勝り、1982年(昭和57年)に上野から直通する列車が全廃となり、当駅に速達列車の発着は無くなった。
2006年(平成18年)からJR東日本は東武鉄道と直通しての特急列車の日光乗り入れを再開し、以後は東武日光駅にJRからの直通特急列車も発着している状況にある。シーズン時に運転されるJR線首都圏各方面からの臨時特急列車も現在は全て栗橋駅から東武日光線に乗り入れた上で東武日光駅発着となっており、当駅に発着する定期列車は宇都宮駅との間を走る短距離普通列車のみであるが、秋などの修学旅行シーズンに運転される東京都・神奈川県・埼玉県などからの修学旅行列車は当駅に発着しており、現在当駅に発着する数少ない中距離運用列車となっている。
                                                                                                   (以上、「Wikipedia」参照)
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「紙屋町さくらホテル」井上ひさし。(じじばばがゆく。観劇編。)

2016-07-25 22:11:01 | じじばばがゆく
楽しいときほど、
その楽しさを無理やり奪われた人たちのことを条件反射みたいに
ふっと思う人間に僕はなりたいし、
そういうのが普通にできるようになったら
絶対に間違わない世の中ができると思う。 ――――― 井上ひさし


昭和20年師走。東京・巣鴨プリズンに「自分はA級戦犯だ」と拘留を求める初老の男がいた。
長谷川清。元台湾総督にして海軍大将、天皇の密使という経歴を持つ男。
応対したのは針生武夫。元陸軍中佐にして、堪能な英語力と戦前の経歴を買われて今やGHQで働いている男。長谷川の願いを退け、追い返そうとする。
二人は7ヶ月前、終戦直前の広島でともに過ごした特別な三日間を思い返すのだった。
その年の5月の広島。
紙屋町さくらホテルでは明後日に迫った特別公演のため、移動演劇隊「さくら隊」の二人の俳優、「新劇の団十郎」こと丸山定夫と宝塚少女歌劇団出身のスター園井恵子が、にわか仕立ての隊員を相手に必死の特訓の真っ最中。
この時代、演劇...とくに「新劇」は表現の自由を決定的に奪われていた。慰問のための集団「移動演劇隊」が国策として組織され、これが丸山らにとって芝居をする唯一の道だった。
「さくら隊」では、アメリカ生まれの日系二世で敵性外国人として監視を受けるホテルの女主人・淳子と、その従妹で共同経営者の正子が一員になったばかり。そこに宿泊客の言語学者・大島、淳子を監視する特高刑事の戸倉、劇団員に応募してきた玲子も加わっている。さらには富山の薬売りに扮して宿を訪れた天皇の密使・長谷川と、そのあとを追うように現れた林と名乗る傷痍軍人(実は針生)も、丸山らにあれこれと理由をつけられ、一緒に芝居をすることになる。
台本は『無法松の一生』。
それぞれの思惑が交錯する中、寄せ集め一座の稽古は抱腹絶倒の笑いを巻き起こしながら進んでゆく――。
                                          
                                         (「こまつ座」公式HPより)

 演劇? ふ~ん、あなたには「お芝居」っていう言い方の方がいいのか。
 何? 井上ひさしのお芝居? 今まで観たことがないけど。

 だいたい演劇、失礼、お芝居自体、ほら、去年の12月に歌舞伎を見に行ったのだって、久々だったし。
 チケット取ってくれるの? 新宿のサザンシアターでやるのか、ま、家から近いしね。
 では、いいわよ。夕方までなら何とか時間が取れるから。ただし、夕方までよ。

 どうも。少しやつれたように見えない? もう、忙しくて、忙しくて。そうでもないって、アリガト。
 今日だって何とか出てきた。約束しちゃったしね。孫が熱出したらしくて、自宅待機なのよ、本当は。 
 新宿駅もずいぶん変わったわね。大きなバスターミナルが出来たんで、私でも迷ったわよ。

 アリガト。ここは初めて入ったわ。
 けっこうお客さんが一杯ね。昼間だから私たちみたいな年齢層かなあ。
 座席が窮屈なのが気になるけど。へえ、「紀伊國屋ホール」の方に比べればましなんだ。
 1時に開演して3時間以上かかるんでしょ、あなた、睡眠学習しないでよ、いびきなんか許されないからね。

 最近は、笑っても悲しくても涙が出てきちゃうのよね。年なのかしらね、なんてたって今月の末には古稀だから。
 ま、お祝いはいらないわよ、もう物にはちっともこだわっていないし、・・・。
 さあ、始まるわよ。

 久々の芝居見物。それも井上ひさし。来月は日比谷の「シアタークリエ」で「頭痛肩こり樋口一葉」をやるらしいんで、ホントはそっちが面白くていいんだが、前にも一度観たし、この芝居はまだ観たことがないので、これにした。
 広島に落とされた原爆によって亡くなった移動演劇「桜隊」の丸山定夫、園井恵子のお話。他の登場人物も立場は違っていても、それぞれが個としての生命を輝かせている。が、中でも「長谷川」という存在が一番気になる人物だった。「頭痛肩こり・・・」の花蛍もそうだが、井上さんらしいひねりが存分に感じられた。

 「築地小劇場」発足当時の演技、スタニ何とかいう(もう忘れた)システムだったか、演技指導法など指導の初期のようす、宝塚の演技を茶化しつつも愛惜がこもる。
 小山内薫とか山本、滝澤、東山、と新劇関係者(俳優)の名がどんどん出てきて懐かしいし、楽しい。俳優による「対話」によって劇を進めていく、という当時では斬新な演出法が、まさに「新劇」らしさ。この戯曲もそれによって進んで行く。
 そして、言語学者の、否定語にはN音が用いられる、という説。Nを出すために人は口の中と外を一瞬断ち切ってしまう、自分の内側と外とのつながりを絶つことで否定と拒否を表す、・・・それにかかわっての特攻として死んだ教え子の最後の手帖に書かれた両親への痛切な思いとか、エピソードがふんだんに盛り込まれている。

 このお芝居、「父と暮らせば」と並ぶ「広島」編。

 昭和20年5月17日。それから3か月足らず後の8月6日。原爆投下。それによって瞬時に生を(未来を)奪われた新劇人・丸山定夫をはじめとした無名の多くの人びと。その後の長崎、そして「国体護持」のためのみに戦争終結を遅らせた戦争指導者への怒り、悔恨の長谷川・・・。
 舞台は、何とか公演を終えた、17日夜の激しい雷鳴に続く、とてつもない衝撃音(これはもちろん原爆投下を暗示したものだが)の中で終わると、舞台は、薄明に包まれる。

エピローグ1 昭和20年12月、巣鴨拘置所。針生と長谷川との対話。

・・・

長谷川 私は名代ですよ。
針 生  ……名代?

 どこからか、風に流されでもしたように、千切れ千切れに、『すみれの花咲く頃』のヴァース(序奏)が聞こえて来、奥の闇の中に、紙屋町さくらホテルの全景がにじむように浮き上がり、舞台前面に近づいてくる。

長谷川 わたしは、……わたし自身も含めた、戦争の指導者たちの決断力のなさによって生を断ち切られたひとたちの、名代に選ばれたような気がします。このごろは余計、そう思えてしかたがない。……(右手の指を、親指から一本一本、左手で包み込むように握っていきながら)これは丸山定夫さん、園井恵子さん、戸倉刑事、大島輝彦先生、神宮淳子さん、(左手の親指に移る)熊田正子さん、浦沢玲子さん……そして、この体全体が、指導者たちの決断力のなさによって生を絶たれたすべての日本人……。そんな気がしてしかたがない。

    ・・・ 

 長谷川は広島から去り、見送る人たちは、そのまま、広島で8月6日を迎える。

 幽冥の世界。死者たちの歌声と笑顔が最後を飾る。

 印象の深い芝居。新国立劇場のこけら落としの作品と聞いて、今のアベ政権の下ではこうした井上作品は採用されなかったのではないか、と思ったりして、・・・。そう思うと、台詞の1つ1つに今の状況を鋭く突く井上さんの先見の明、先進性を強く感じた。

 わたしたちの今度の仕事が、国民をパトロンとするこの国初めての新劇常設劇場の階上にふさわしいものかどうか、それはパトロンの皆様がお決めになることですが、とにかくわたしたちの仕事が、この劇場の未来を邪魔することのないようにと、今はただそのことだけを祈っております。―『紙屋町さくらホテル』プログラム原稿より―(『初日への手紙Ⅱ』井上ひさし P196)

 よかったわ。笑いあり、涙ありですばらしかった! 感動したわ。誘ってくれてアリガト。3時間、少しも飽きさせないですもの。

 ♪ すみれの花咲く頃 はじめて君を知りぬ 君を想い日ごと夜ごと 悩みしあの日の頃・・・、か。

 園井恵子さんも、やっぱり宝塚を忘れられないのよね。

 さてこれからどうする?
 でも、なんて今日は涼しいのかしらね。暦の上では「大暑」なのにね。
 大阪は暑いんだそうよ、東京だけみたいね、こんなお天気なのわ。
 
 ちょっとお茶していきましょう、時間もないしね。
 今度逢うときはゆっくりとね、いつかわからないけれど。
 暑い夏をお達者でお過ごしになられるのをお祈りしますわ。ではまた。アリガト。 
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朝鮮通信使今市客館跡。瀬川一里塚。報徳庵。・・・(「日光道中」をゆく。その49。)

2016-07-23 21:28:14 | 日光道中

(12:55)公園の中に「朝鮮通信使今市客館跡」があります。


    

朝鮮通信使今市客館跡  
 江戸時代に徳川幕府の要請により、朝鮮国王が、信(よしみ)を通わす善隣友好の朝鮮通信使を12回派遣しました。その内、日光には初期の頃に三度訪れております。第一回目は東照宮が現在の社殿に造り替えられた寛永13年(1636)、第二回目は・同20年(1643)、第三回目は明暦元年(1655)
 通信使は、東照宮・大猷院でに国王からの進物を贈り、公式行事を行いました。
 この三回とも将軍社参並の扱いをうけ、盛大な行列立てとして日光に参詣しており、幕府は通信使のためだけに、此の所に一万金両を掛け、豪華な客館を新築しもてなしました。

 ・・・

 この碑は、江戸幕府に最初の朝鮮通信使が来日して400年になるのを記念し、歴史的経緯を永く後世に伝え日韓両国民の更なる相互理解と友情を深めるため、2007年(平成19年)に杉並木公園内の朝鮮通信使今市客館跡に建てられたものです。 碑文の左には同じ内容がハングルで刻まれています。
                             

その隣には二重連の水車。

道の脇には勢いよく流れ落ちる水流。

 杉木立の中を上っていきます。
    

この付近に日本橋から34番目で、日光街道最後の一里塚が残っているはずですが、見落としました。

    
 (13:09)しばらく進んだ右手奥には茅葺き屋根の建物と手打ち蕎麦「報徳庵」、ここも藁葺き屋根のおうち。落ち着いたお店で、車で次々とお客さんが見えています。ここで食事にすればよかった!
                        

 その駐車場にあった案内図。
    

報徳庵を過ぎると杉並木が途切れ、おうちが数軒並ぶ石畳道になります。

 再び杉並木に入ります。

           巨大な切り株。七本杉伐痕。
                              7本の杉の根幹が一株となった珍しい大木でしたが、すべて倒木や枯死し、伐り倒されました。

杉並木道沿いの苔むした小さな流れ。

日光彫の工房。   

 ちょっとした家並みを過ぎると、杉並木。
      

                           

(13:23)戊辰戦争の時の砲弾跡のある杉の木。

この木、それとも右側の杉? 弾痕跡も?

               砲弾打込杉

 附近は明治戊辰の役に官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際、前哨戦を行った所である。この杉の幹の凹んでいるところは砲弾が当たって破裂したあとである。
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追分地蔵尊。例幣使街道。今市宿。「いまいちの水」。杉並木公園。・・・(「日光道中」をゆく。その48。)

2016-07-22 18:55:29 | 日光道中

今市の町へ入ります。杉並木を振り返って望む。 

今市宿
 日光街道の20番目の宿場。現在の栃木県日光市今市。
 もと今村と呼ばれていたが宿駅となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿となったと云われている。この宿は一街道の単なる一地方宿ではなく、日光街道のほか、壬生道、会津西街道、日光北街道などが集まる交通の要衝に立地する宿駅であった。
 日光例幣使街道と日光街道の追分には地蔵堂がある。ここに安置されているのは像高2メートルの石造地蔵菩薩坐像である。もと空海(弘法大師)が大谷川含満ヶ淵の岸辺に建てた石仏と云われ、大水で流されて今市の河原に埋もれていたのをここに堂を建て安置したものと云われている。徳川吉宗が日光参詣した折、この地蔵が白幕で覆われているのを見て、後は白幕で覆わないよう命じ、この地蔵堂の後ろで朝鮮人参を育てさせたという。正確な造像時期は不明だが、室町時代頃の作と推定されている。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、今市宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が21軒あり、宿内の家数は236軒、人口は1,122人であった。

 (12:23)「国道119号線」と「国道212号線」(例幣使街道)との合流地点(追分)にあるのが「追分不動尊」。
        

今市追分不動尊
 ・・・つぎのような「伝説」が人びとに知られるようになりました。
―むかし大谷川の川原で石切職人が仕事をしていると、ふとふれた石の肌から血が流れ出した。不思議に思って何度かたたいてみると、どんどん紅の血潮がほとばしるので、驚いた石切職人は人々をよんで懸命に掘り出してみた。それは座像の地蔵尊であった。評判は近郷までひろがった。
一先ず地蔵尊を小倉町の追分に安置したが、野天にさらしておくのは恐れ多いという話になって如来寺に運ぶこととなった。思い石像なので、各戸から一人ずつ人を出して仕事に当たったが、非常な重さで、門前の桜の木の下まで移すのに2日(一説には8日)もかかった。
 町の人たちの参詣は昼も夜も絶えなかったが、そのうち妙な噂が立った。夜遅く地蔵尊の前を通るとすすり泣きの声がきこえる。また、真夜中になると町の中に火柱が立つ。昨夜は小倉町にその前の夜は春日町に、また如来寺に。確かにそれを見た者が大勢あった。
 さあ町中が騒々しくなり、地蔵尊の怪として参詣するどころか近づくものさえなくなった。町の長老たちは協議した結果、「あの地蔵尊はにっこう憾満ヶ淵の親地蔵様が大水で流されて来たのだ。それで日光が恋しくてきっといろいろの不思議を起こすに違いない。元のように、小倉町の日光が見える所に安置したらよかろう」ということに決定し、さっそく地蔵尊は小倉町の追分に移されることになった。―
 このような「伝説」が、昭和時代の初頭から幾度も出版された『下野伝説集』に取り上げられて紹介され、今市を代表する伝説として有名になってゆきました。そして、伝説の地となった追分地蔵堂にはますます訪れる人も増えてゆきました。
 時移り、平成時代となった今日も、毎月の地蔵尊の縁日の日には変わることなく人びとが集い、地蔵菩薩のお経と御真言を唱え誓願をする、民間信仰の場として親しまれています。・・・
                                                日光市

例幣使街道。

 元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されましたが、その後、正保3年(1646)から、毎年、京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされました。
 例幣使は京都から中山道を下り、倉賀野宿(現高崎市)からは太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て、日光に至りました。その道筋が「例幣使街道」と呼ばれました。日光付近では杉並木が続きます。

 この解説板のあるところが小広場になっていたので、そのベンチに座って昼の休憩。そして、再開です。

(12:40)

右手には「ニコニコ本陣」。「道の駅」風。

手前には「造り酒屋」。    

 今市の町の中には伏流水をくみ上げた自然水の水飲み場が設置されています。「いまいちの水」。つい「いまいち」なのかと思ってしまいますが、飲んでみると、おいしい!
    

 日光名物・特産の「たまり漬」等のお店。
    

「二宮尊徳終焉の地 今市宿」碑。

二宮 尊徳
 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。
 また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓むが、有職読みで「そんとく」と訓まれることが多い。
 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。
 安政3年(1856年)下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所にて没した。

「明治天皇御小休・・」碑。

古いおうち。家の前には梟? の像が二体。

 (12:53)しばらく行くと、左手にある「瀧尾神社」のところから右に杉並木が始まります。公園となっています。杉並木も「特別保護地域」。
    

                

杉並木街道と参詣(瀬川地区)
 案内板が位置する今市市(現日光市)瀬川地区は、日光街道の今市宿(第1番目宿の千住から数えて20番目)と鉢石宿(現在の日光市で日光街道の最後の宿)の間にあり、江戸(現在の東京都。起点は日本橋)からの距離は約34里(約136㎞)です。
 日光街道というと江戸時代は五街道(東海道・中山道・日光街道・甲州街道・奥州街道)の1つとして、人や物や情報が行き交う重要な交通路でありました。
 日光東照宮への参詣のために、公家・大名・文人や数多くの庶民がこの並木を行き交い、徳川将軍家みずから日光東照宮に参詣することを日光社参といわれ、その多くは東照宮例大祭(4月17日)に参拝したそうで、このときもこの並木の中を通行しました。
 最後の日光社参となった天保14年(1843年)に第12代将軍家慶社参の時には、時の老中水野忠邦が幕府の権威回復のために実施したといわれ、この時の供奉した人数は約14万人およぶ大行列であり、この事業のために幕府が要した費用は莫大なもので、人馬調達や助郷役が命じられた村々は関東一円におよんだといわれる。
 右の図は江戸中期の日光街道の様子であり、杉並木とともに人や馬や家が描かれております。
 このような往時の街道風景を偲びまた徳川家康公の御遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し、いそぐべからず」の言葉をかみしめながら、杉並木道を歩いてみて下さい。

 平成5年3月       栃木県
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言ったもん、書いたもん勝ち。それにしても・・・。

2016-07-21 21:33:10 | 平和
【東京都知事選】鳥越俊太郎氏に「淫行」疑惑報道 報道陣の問いかけには答えず

 予想されたとおり、選挙中の鳥越氏への攻撃はすさまじい。週刊文春、新潮ともに大見出しで掲載記事。中身はどうでもいい、中吊り広告ででかく宣伝すればOKなのだろう。何しろ美濃部さん以来の「革新」都知事は絶対に認めない! まして反原発を声高に語る人物は許さない! アベたちも裏では小池でしかたがないと思っているフシも。
 そんな空気を受けてか、増田氏への批判記事も目立つ。2億円豪邸、赤字県政、裏切り者、・・・。
 どうも週刊誌では、「小池」待望論が目立つ論調。自公の議員には二叉をかけている議員も多いらしい(カゲで)。自民党幹事長が大けがをしたのを奇貨としてもいるような・・・。
 都議会議員は自分の選挙を考えて小池さんへの批判もトーンダウン。
 「報道陣の問いかけに答え」なかったのは事実なのだろうが、この見出しでは? こうしてマスコミ一丸となっての都知事選。都民はどう判断するのだろうか。すでに小池圧勝の話も出ている。
 女性候補と都議会攻撃への小気味よさでますます小池、有利。さらに「後出しじゃんけん有利」には今回はしないぞ、との固い決意を込めてのマスコミの一大キャンペーンが功を奏しそうだ。
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水無。杉並木オーナー。さくらすぎ。七本桜一里塚。・・・(「日光道中」をゆく。その47。)

2016-07-20 21:08:38 | 日光道中
 歩いていた地元の方とすれ違います。
 「車も来なくてちょうどいい散歩道です。夏でも涼しいし、往復するとちょうどいい運動なんですよ、ただ、杉の枯れ葉が散乱しているので、清掃した方がいいんですが・・・。」

 (10:49)しばらく進むと、杉並木も終わり、「水無」という集落に向かいます。ここにも「車両通行止」の標識。
                          

出口付近に祠と何体かの石仏。

      再び車道沿いに歩きます。

りっぱなおうち。

またすぐ杉並木になります。車道を避けて右手の方に。

(10:57)水田が広がります。

 ところが、あぜ道みたいなこの道は草がいっぱい、すっかり水分を含んでいて足下はグチャグチャになってしまいます。やっとのことで、車道に戻ります。
    
                                                   杉木立。

 (11:14)「甚五郎せんべい」の手前で、再び国道と分かれて右の並木道へ入ります。
    

振り返って望む。カーブで見通しが悪い上に、車のスピードも速く冷や冷やもの。

 この杉並木には日光杉並木オーナーが記されたプレートがくくりつけられています。企業名や個人の名前も。
    

杉並木オーナー制度とは?
 並木杉の樹勢回復のための保護事業を行っていくためには、多額の費用が必要です。
 そこで栃木県では、平成8年秋から多くの方々と力を合わせて杉並木を守る「日光杉並木オーナー制度」をスタートさせました。
 杉並木保護に賛同された皆様に並木杉1本につき1千万円でオーナーになっていただき、その代金を栃木県が日光杉並木街道保護基金で運用し、 その運用益で杉並木の樹勢回復事業を実施するという制度です。
 オーナー杉については、日光杉並木保護財団と東照宮が、日常の管理をいたします。
 並木杉は文化財であるため、枯れた場合などを除き杉の伐採はできませんが、解約したい場合は栃木県がいつでも同額で買い戻しいたします。
 また、オーナー制度とは別に、日光杉並木街道保護基金に対する寄附金も受け付けています。

HPより)

(11:24)ここにも「接合井」があります。

 まもなく、車も来ない静かな杉並木道(「特別保護地域」)も終わり、「下森友交差点」に向かいます。
    

沿道のお店。 

「森友交差点」から一方通行になっている杉並木に入ります。

屋根に特徴のあるおうち。こういうつくりの建物が目立ちます。

進む方向からの一方通行なので、一安心。  

車もほとんど来ないようです。

 (11:50)途中、左手にあるのが「さくらすぎ」。杉の幹の途中から桜の木が生えてきてかなり太い幹になっています。
    

右手のすっかり雑木林が切り払われ、何か建物でも建つ? 

 (11:55)しばらく行くと、右手に「七本桜一里塚」があります。日本橋から33里目。ちょっと上がったところに根元が腐って大きな空洞できた杉があります。大人が4人位入れるところから「並木ホテル」と呼ばれています。
    

       

 遠景。

 (12:01)その先の信号は「七本桜交差点」。左の通りが「国道119号線」。
    
                  そのまま一方通行路を進みます。日光・今市方面から来る車も増えてきます。

少し進んで、東武日光線のガードをくぐります。

 (12:16)「小倉歩道橋」を渡ると、まもなく杉並木から今市の町に入ります。
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日光杉並木。大沢宿。車両通行止。水無一里塚。・・・(「日光道中」をゆく。その46。)

2016-07-19 22:49:49 | 日光道中

 ここで、日光杉並木について。

 日光街道、日光例幣使街道、会津西街道のうち、旧日光神領内にあたる大沢 - 日光間16.52キロメートル、小倉 - 今市間13.17キロメートル、大桑 - 今市間5.72キロメートルの3区間の両側にスギが植栽された並木道の総称である。総延長は35.41キロメートルに及び、世界最長の並木道としてギネスブックに登録されている。
 徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた松平正綱が、主君家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に約20年の歳月をかけてスギを植樹し、東照宮に寄進したことに始まり、江戸時代には幕府の日光奉行の元で手厚く保護された。明治以降は幾度も伐採の危機に瀕するものの、官民双方の有識者の努力によって大規模な伐採は避けられてきた。中でも、地元出身の林学者で「杉並木博士」と呼ばれた鈴木丙馬は、杉並木の研究と保護に生涯を捧げ、保護運動の中心となって活躍した。
 周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、寄進碑や一里塚も現存するなど、江戸時代の街道の景観をよく伝えており、歴史的にも植物学的にも特に重要とされ、日光杉並木街道 附 並木寄進碑(にっこうすぎなみきかいどう つけたり なみききしんひ)として、全国で唯一特別史跡および特別天然記念物の二重指定を受けている。また、日光杉並木街道は、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された日本の道100選のひとつとして選定を受けている。
 現在も生活道路として利用されているが、街道を通る自動車の排気ガスや沿線の開発による根の切断などによって樹勢の衰えが進行し、毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消している[7]。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていない。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ、早急な対策が必要とされている。

歴史
 1617年(元和3年)に徳川家康の霊廟として日光東照宮が創建されると、将軍家や諸大名が日光参詣が実施されるようになり、江戸から日光への道路が急速に開けるようになり、江戸から宇都宮へ続く奥州街道も日光街道へと呼び改められるようになった。 日光杉並木は、松平正綱が1625年(寛永2年)から20年以上の歳月をかけて杉の苗木を植樹したもので、言い伝えでは、日光東照宮の造営に際し、正綱が杉の苗木を寄進すると申し出たところ、諸大名からは「東照宮に対して何とケチなことよ」と非難を受けたが、正綱は「末をご覧あれよ」と返したという。植えられてすでに390年以上が経過するが、現在は高さ30 - 40mほどに成長し、日光東照宮へ向かう道は厳かな景観を作っている。近年では、風雨や自動車排気ガス等による倒木や枯損を抑止するため、バイパス建設や杉並木オーナー制度を導入して樹木保護のための基金を設立して、保護対策活動に乗り出している。1999年(平成11年)12月には二荒山神社、日光東照宮などとともに世界遺産の登録を受けた。

                                                                (以上、「Wikipedia」参照)

 ここの杉並木は、まだその序の口。しばらくすると、前方が明るくなってきます。「大沢宿」に入ります。
                        

(10:15)    
                                            振り返って望む。  
「国道119号線」に合流。「大沢」交差点

その付近から振り返る。

大沢宿
 日光街道の19番目の宿場。現在の栃木県日光市大沢。
 もともと大沢村と呼ばれていたが元和3年(1617年)に徳川家康の日光鎮座に伴って宿駅となり大沢宿となった。
 元和年間には大沢御殿(おおさわごてん)が建造され徳川将軍家の日光参詣に際し宿泊所として使用された。その後一旦処分され再造営されたが、それもまた享保年間までに処分された。
 享保13年以降、将軍社参時等の休息所には沿道にあった竜造寺(りゅうぞうじ)が用いられた。なお竜造寺はその後明治元年に近隣別所に移転している。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、大沢宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が41軒あり、宿内の家数は43軒、人口は278人であった。

 現在、その痕跡は見当たらないようです。本陣跡なども? 
    

                     

(10:25)「大沢小学校入口」から再び杉並木が始まります。

杉並木保護のため、車道は右に迂回しています。

ここから「普通地域」から「保護地域」に入ります。
                                市街地は「普通地域」となっているようです。
                

                   
             (10:32)車両の排ガスや振動から日光杉並木を守るため 車両通行止

歩行者天国。  

右側を並行して走る車道。

「接合井」。
 「接合井」は、今市浄水場で浄水した水を、距離約26キロ、標高差240㍍ある戸祭配水場まで送る際、送水管にかかる水圧を高めるために建設された施設。
 今市浄水場と戸祭配水場間の日光街道沿いに、標高が約30㍍下がるごとに設けられ、全部で6箇所設けられました。

    
     この道も「国道119号線」。ただし、落ち葉が散乱し、濡れた道なので足下には注意!

 (10:43)しばらく進むと、「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道の一里塚(水無一里塚)」。左右に残されています。
        
 日本橋から32里目。通常、塚の上には榎などが植えられますが、ここでは杉が植えられています。

    
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関東バス「海老王子」下車。日光市。並木寄進碑。・・・(「日光道中」をゆく。その45。)

2016-07-18 22:13:19 | 日光道中
 しばらく雨天が続いた関東地方、その晴れ間を狙って出かけました。

①京成・千住大橋~東武・新田
②東武・新田~東武・春日部
③東武・春日部~東武・幸手
④東武・幸手~JR・古河
⑤JR・古河~JR・小金井
⑥JR・小金井~JR・雀宮
⑦JR・雀宮~JR・宇都宮~関東バス・弁天橋
⑧関東バス・弁天橋~関東バス・海老王子

 と京成線、東武線、JR宇都宮線、関東バスと交通機関を利用して、在来線、日帰りの旅。
 9日目の今回が最終回になるかどうか。

 7月16日(土)。
 宇都宮駅発のバスに乗って前回の最終地点「海老王子」バス停まで。乗った時は1人。結局、途中で数人しか乗客がいなくて、貸切状態。乗降客もいなくて、停留所をどんどん飛ばしてバスは進みます。
 運賃は思ったよりも高い! 十円単位の細かい値段表示で、釣り銭が出ないため、両替し、そこから小銭を出して入れる、間違って多く入れても「戻って来ませんよ」の一言でおしまい。見ていると乗客はパスカードのようなものを用意して乗り降りしています。なるほど。
 前回、失敗したので(多く入れすぎて)、今回、乗る前に小銭を用意し、小銭入れはパンパン。何とかクリア! こちらがバス停で降りると、もう乗客は一人もいなさそう?

 降り立ったのが9:10過ぎ。さっそく並木道を歩き始めます。雨上がりのせいか道はぬかって、蒸し暑い。が、日差しもなく今回こそ一気にゴールしようということで。
 しばらく進むと、周囲は果樹園があるらしく、リンゴや栗の看板・広告が目に付きます。

     
        リンゴ狩り。                               栗。

             
             側道を歩いて行きます。桜並木から杉並木へ。

(9:27)「松本」バス停を過ぎた左手に「うらない仏」。
 石仏の台座に3個の丸石があり、願をかけた後、そのうちの1個を持ち上げ、軽ければ願いが叶うと言われているそうです。

 右手には「リンゴ畑」。まだ青々とした実がなっています。
    

(9:38)しばらく進むと、宇都宮市から日光市へ。
                             この付近では杉の中にモミジなどが混じっていて、秋には紅葉が楽しめそうです。

路傍にはうち捨てられたような石碑。

左手には広大な農地が広がります。

    
                               ニッコウキスゲ?

所々沿道に家が並び、開けています。

「日本ロマンチック街道」。

 長野県上田市から栃木県日光市までの全長約320kmを通過する広域観光ルートからなる街道。この名称はドイツのロマンティック街道に由来するそうです。



HPより)

(9:48)田んぼが広がります。

振り返って望む。「宇都宮まで19㎞」。

    
   「杉並木街道」。                              「杉並木の店」。

 杉並木が現れたので、左手に移動、雑木林の脇を進みます。しっとりとした雰囲気。
        

 「国道119号線」と分かれて右の杉並木の道に入ります。


 車はほぼ左の国道の方を行くので、こちらは車に出会うことも少なく(2台だけがやって来ました)、緑の森の中を進むことに。
        

 (10:05)旧道に入ると、「並木寄進碑」があります。
      
 右にある石碑。左の石柱には「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」とあります。

並木寄進碑 今市市《合併→「日光市」》山口
 松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑である。 
 並木の起点となる神橋および街道の切れる今市市山口(日光街道)、同小倉(例幣使街道)、同大桑(会津西街道)の4ヶ所に建っている。
 この碑は日光神領の境界に建てられているので境石と呼ばれている。

本格的な杉並木。

 ここまでは車道(「国道」沿い)にあったため、杉並木を歩いて見上げることは出来ませんでしたが、ここからいよいよ間近に。
     
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何が、誰が、天皇の気持ちを忖度しているのか?

2016-07-14 20:34:37 | 世間世界
陛下の退位意向、公表を検討=お気持ち、数年前から―宮内庁長官、改めて否定

すっぱ抜かれてアタフタしているふりなのか、あえて、すっぱ抜かれた(実は裏では流して)格好を取りながら、世間の反応を試しているのか? 
 わざとらしく宮内庁(長官)もアベも菅もとぼけたフリをしているだけだろうと思う。以下は「毎日新聞」の記事。

<生前退位意向>5月から検討加速 宮内庁幹部ら5人
 明治時代以降初となる天皇の「生前退位」に関し、天皇陛下のご意向を受け、宮内庁の一部の幹部が水面下で検討を進めていたことが分かった。今年5月半ばから会合を重ねて検討が本格化。首相官邸にも連絡してすり合わせてきた。こうした動きは内々に進められてきたが、天皇制に関する転換点であることを踏まえ、今後、公表のタイミングを計り、広く国民の理解を図る考えだ。
 宮内庁関係者によると、検討を進めていたのは、風岡典之長官ら「オモテ」と呼ばれる同庁の官庁機構トップ2人と、「オク」と呼ばれ、陛下の私的活動も支える侍従職のトップ2人。皇室制度に詳しいOB1人が加わり、皇室制度の重要事項について検討。「4+1」会合とも呼ばれている。
 陛下は7年前から、皇太子さま、秋篠宮さまと3人でお会いする機会を月1回程度設けてきた。この中で、今後の皇室に関する話題も出ることがあったという。
 「4+1」会合はそれを受けて開かれることもあり、5月半ばから、早朝に会合を行うなど活動が加速。生前退位に伴う手続きの検討とみられ、午前8時過ぎに同庁長官室に集まることもあった。頻繁に会合を重ね、皇室典範の改正や新法、元号の問題、退位後の呼称なども検討。結果を首相官邸の杉田和博官房副長官とすり合わせ、方向性が定まったことについては両陛下に河相周夫侍従長らが報告してきた。
 最近では、両陛下が静養のため神奈川県の葉山御用邸に出発した今月11日の前日にも報告しており、風岡長官は参院選の最中にも官邸に足を運んでいた。【大久保和夫、高島博之】

「時事通信」の記事が本音ではないか?

ご意向公表後に本格検討=政府、世論動向見極め―生前退位
 政府は、天皇陛下による生前退位のご意向について、宮内庁から公表されれば、皇室典範改正や新法制定などを含め、対応策の検討を本格化させる方針だ。ただ、生前退位の制度化には政府内で慎重意見もあるため、世論の動向を注意深く見極めて対処する。
 政府関係者によると、政府は既に水面下の検討に着手。宮内庁は参院選後の今年9月ごろを軸に、陛下のご意向を公表する方向で調整を進めていたという。ただ、報道が先行したことで、公表時期は流動的になっている。
 公表後は、政治問題化することを避け、静かな環境で議論を進めるため、有識者会議を設置する案が有力だ。皇室典範改正をめぐってはこれまでも、小泉内閣で女性・女系天皇の是非を議論した際に、有識者会議を設置している。
 憲法は、天皇について「国政に関する権能を有しない」と定めており、陛下が政治的な発言をされることはできない。健康問題に関する事柄にもかかわらず、宮内庁が現段階で公式に陛下のご意向を認めないのは、皇室典範に退位に関する規定がなく、法改正を伴いかねないためだ。
 一方、政府側には「天皇の政治利用」と批判を浴びるリスクが伴う。1973年には、当時の増原恵吉防衛庁長官が内奏後の記者会見で、昭和天皇の発言を紹介した上で「勇気づけられた」と述べた結果、辞任を余儀なくされた。このため政府は、宮内庁の公表を待って検討に着手する体裁を取るとみられる。

 さてどうなる? 天皇の固い決意を感じるのだが。現今の、平和をめぐる問題、憲法問題、と改憲に前のめりなアベ政権にとっては悩ましい問題であるに違いない。
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ブーメランにならないか

2016-07-13 23:28:42 | 世間世界
南シナ海問題判決、ベトナムも「歓迎」

 「岩」に強大な人工島を建設して「領土」とするなど中国のやり口は度が過ぎている。2000年以上の領有権があるというのもかなり無理がある。そういう意味では今回の判決は妥当。でも、かえって不服・不満を爆発させ、中国(台湾も含め)の挑発行為が激化するという懸念が、現実的なものに。
 日本でも小笠原諸島にある「沖ノ鳥島」という「岩礁」。日本の領土として確保するために人工的な工作物を設置して水面下にならぬよう必死の対策を練っている。しかし、もし中国が反撃に出て、あれはただの岩だ、日本の領有権は及ばない、という訴えを起こしたらどうなるか?
 「窮鼠猫をかむ」という言葉もある。中国は鼠以上に巨大な存在。「それ、みたか、判決に従え! 」と声高に叫ぶ、その先が・・・。
 フィリピンを対中国紛争当事者にしての、アメリカの対中包囲網作戦。国際的な評価を得て成功したようにみえるが、その矛先が今度は日本に向かないとも限らない。「竹島」や「尖閣列島」の領有権とは異なっていることに目を向けた方がいいのでは。
 あまりはしゃぎすぎると、「大国」アメリカとは違ってちょっと危うい感じがする、というのが素人の思い。

 フィリピンによる中国に対する提訴は、南シナ海の領有権をめぐる争いで、初めて法的に異議を申し立てた事例だ。中国は「茶番」として、聴聞会への参加を拒否してきた。法律専門家やアジア政策の専門家は、もし中国が反発的な態度を取り続け、裁定を無視するなら、国際法を侵害するリスクを冒すことになると指摘する。
 国際法の専門家は、裁定が中国の主張に法の一撃を食らわせたと述べ、米国、中国、東南アジアは危険な岐路に立っていると指摘する。「これはフィリピンにとって戦術的勝利であり、国際法にとっては戦略的敗北だ」と、米国の元外交官チャス・フリーマン氏は語る。同氏は1972年当時、ニクソン米大統領の歴史的な訪中時に通訳を務めた。
 「今回の裁定は、問題が武力行使によってしか解決できない状況に陥らせた。進行中の外交的プロセスはなく、今となっては法的プロセスもなくなってしまった」と同氏は言う。
 また、上海交通大学の国際法教授であるジュリア・コイファン・シュエ氏は、主権と安全保障に対する中国の過敏な反応を考えると、「中国が自国の主張を強固なものにしようと、新たに何らかの行動を取っても驚きではない」と話す。
 ISEASユソフ・イシャク研究所のイアン・ストーリー氏も、「南シナ海の管轄権を主張する中国にとって、今回の判断は法律的に大打撃で、中国は今後、間違いなく激しい怒りを表明してくるだろう」と語り、「南シナ海で一段と積極的な行動をとる可能性もある」と警戒を示した。(以上、「朝日新聞」より抜粋)

 中国の怒りが、今後、どこに向けられてくるか。南シナ海のみで済むのか。安閑とはしていられないようだ。
 もちろん、今、中国が紛争当事者として日本と「沖ノ鳥島」の領有権争いをしているわけではないのだが・・・。

  
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戦いすんで日が暮れて。肩すかし路線の今後、夜明けには何が待つか。

2016-07-11 21:26:05 | 平和
参院選特番、池上彰テレ東が3連覇!視聴率民放トップ11・6%

 憲法改「正」推進政党が3分の2議席以上を獲得して、参院選もオシマイ。今度は国民の目先を都知事選に向けるために、マスコミは騒ぐことに。
 アベの徹底した改憲策動をいっさい語らず路線が功を奏したか。公明も憲法論議をひたすら回避。してやったりとほくそ笑む顔がうかがえるよう。
 岡田さんの苦虫をかみつぶしたような表情が印象的。
 池上さん、確かに健闘していた。突っ込みの鋭さはさすが。しかし、そこでオシマイなのは、いつも手法。創価学会本部まで行っての取材。池田さんは元気ですか? 元気です、各地に激励に行っています、ハイそうですか。山口さん、池田さんと会ったことがありますか? ありません、そうですか、・・・25年以上も前に「日蓮正宗 創価学会」と「日蓮正宗」と袂を分かった学会をそう言っていたのは皮肉? 誤解?
 どの番組もイベント化して選挙報道をするのが世人に受けを狙ってことか、それとも目くらまし手法なのか・・・。
 アベの好む手法をあえて先取りするTV番組づくり。この落とし前をどう付けるでしょうか。
 ところで、どの局も小泉ジュニアを密着取材し、どこも応援演説中に18~19歳の未成年を選挙カーの壇上に登らせるというパフォーマンスを扱っていた、という。視聴率がとれるということだけで、一斉に右ならえ。小泉も人寄せ自民党パンダを自覚し、かなり調子にのっていた。女性ファンの熱狂したようすを見ると、恐ろしい感じさえも。争点隠しがここでも充分発揮されていた。
 憲法論議が白熱し、アベの悲願である「非常事態条項」を加え、「憲法9条」に手を付ける・・・、そして、賛否の国民投票になったときに、こんな風な報道がますます激しくなるのではないだろうか? 池上さんのような方は、結局、干されてしまうのではないか、とも。
 沖縄で、福島で、鹿児島知事選でアベ一派にささやかながら重い一撃を加えたのは幸いでした。鹿児島ではさっそく菅や通産官僚が川内原発を停止させまいと躍起になっているらしい。また、沖縄でも強行突破? 

  
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石那田一里塚。「海老王子」。・・・(「日光道中」をゆく。その44。)

2016-07-08 22:44:53 | 日光道中
 日陰もない通りをひたすら歩きます。車は通りますが、人影はありません。しばらく静かな街並み。

「越中屋」の屋号があるおうち。

いつしか「上徳次郎宿」を抜け、今市へ向かいます。振り返って望む。

                              「一里塚」バス停。

 (11:00)その先、「船生街道入口」交差点の右手(北側)に「石那田(六本木)一里塚」があります。江戸・日本橋から30里目。
             
                                      解説板が立ててありますが、かすれていて判読不能。

道路のこちら側(南側)には「十九夜塔(道祖神)」。

さらに「日光街道桜並木」碑。

 (11:13)しばらく進むと、右へ分かれる道の角に「二宮尊徳先生遺跡石那田堰」という標柱があります。


石那田堰(二宮堰)
 二宮尊徳が手がけた用水事業の一つで、尊徳のもとに吉良八郎が工事監督にあたり、嘉永5年(1852) 9月徳次郎六郷用水(石那田堰)が完成しました。さらに南方の宝木地区まで水を引くため、安政2年(1855)徳次郎用水の取水口より開削工事に着手しました。
 しかし、翌3年(1856)尊徳の死などにより工事の中断もありましたが、安政6年(1859) 6月吉良八郎の監督のもとに宝木用水が完成しました。この宝木用水の取水堰を「二宮堰」と呼んでいます。
 かっては、宝木用水の出発点として重要な役割をはたしていましたが、今でも、水の勢いを弱める工夫が施された田川からの水の取り入り口や、木材を利用した水門、玉石積みの護岸などの一部が残っており、当時の設計技術の優秀さを伝えています。
 現在は、田川の河川改修工事によって役目は終わりましたが、尊徳の偉業を後世に引き継ぐため、二宮堰部分の復元を行い、周辺一帯を整備し貴重な文化遺産に触れることのできる親水公園になっています。
 蛇足ですが、この宝木用水は宇都宮市街地の西寄りを流れる新川の名で親しまれています。

(以上、「」HPより)

前に見た「接合井」施設。再建されたもののようです。

(11:20)開けたところに出てきます。「榊里」。

工事中の橋を渡ります。下を流れているのが「田川」。

橋を渡って左手にあるのが、「石那田八坂神社」。

その前にはりっぱなお屋敷。かつての「茶屋」? 

 再び並木道になりました。少しずつ上って行きます。しかし、けっこう炎天下。ちょっと一休み。下の車道にバス停「海老王子」。休みがてら時刻表を見たらまもなくバスが来る時間。あまりの暑さと腹も減って、喉も渇き、帰ってからは飲み会があるし、・・・。それを言い訳にして、ここでギブアップ。時に11時45分。
 バスの中の涼しいこと、涼しいこと。杉並木を横目で眺めながら、そのまま中抜きで東武「下今市」駅まで来てしまいます。
         
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