おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

玉藻池。玉川上水。・・・(渋谷川を遡る。その6。)

2015-11-06 20:39:24 | 河川痕跡
 さて、新宿御苑内の「玉藻池」。
 この池は、もともと「玉川上水」からの引き水によってつくられているようです。「玉藻池」からの流れはすぐ暗渠になってしまいます。おそらく御苑を南に下り、「下の池」で合流すると思われます。

 「玉藻池」からの流れ。
      
 池の東南のところ。落ち口になる。                            ここからは暗渠。

玉藻池

 玉藻池は苑内でも特に古く、江戸時代の内藤家下屋敷の庭園に由来します。
休憩所から見下ろすと、ゆるく短い斜面を描いて池に達します。池はあまり大きくありませんが、奥が深く、周囲は厚い森に包まれ、冬には水鳥たちの憩いの場となります。当時の継承の面影はありませんが、池の形と中島の位置がその跡をとどめています。

  

池の北の部分。「玉川上水」からの流入口?付近。

「休憩所付近からの「玉藻池」。

 「渋谷川」源流探索で二度、「新宿御苑」に来ました。考えてみたら、今までそれほど来たことがありません。新宿の繁華街からわずかのところ。200円の入園料でじっくり都心のオアシスを堪能できるのは、たいへんすばらしいことです。

 「新宿御苑」大木戸門口から出ると西へかつての「玉川上水」が続きます。



「玉川上水の生い立ちと新宿」。

玉川上水の歴史

 玉川上水は、江戸の飲料水を確保するために、玉川兄弟の手により承応3(1654)年に開設されました。取水口である羽村堰(羽村市)から四谷大木戸(現在の四谷4丁目交差点付近)までの約43㎞の区間は、土を掘り抜いただけの開渠で造られていました。
 四谷大木戸から市中へは、石や木で造られた水道管を通じて水を供給し、淀橋浄水場の完成成した明治31(1898)年頃まで、江戸・東京の人々にとって貴重な水資源でした。
 新宿区には、四谷大木戸に水番屋があり上水の管理を行っていました。また、四谷見附付近は、江戸城本丸、吹上御殿、市中の武家や町人の屋敷へ供給する分水の分岐点となっていました。これらの地域は上水管理の上で、大変重要な役割を持っていたことがわかります。 

新宿のおける玉川上水

 新宿区内での上水の利用は、四谷などごく一部でした。四谷は下町と違い、水に恵まれた地域であったことから、掘り抜きの井戸を多く使っていたためと思われます。水の確保のためにつくられた上水ですが、内藤新宿界隈では、桜並木が続く江戸の名所を生みだし、多くの行楽客でにぎわいました。
 明治になると、通船が行き交っていた時期もありました。

 以前、「羽村堰」(「多摩川」からの「玉川上水」への取水口)へ行ったことがあります。

多摩川からの取水口。

 「渋谷川」には「明治神宮」内の湧き水も流入しています。また、西の方からも多くの支流が流れ込んできます。
「宇田川」「河骨川」・・・。機会をつくって、今度は、その付近を探索してみようと思います。
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旧玉川上水余水吐。水番所跡。水道碑記。四谷大木戸跡。・・・(渋谷川を遡る。その5。)

2015-11-05 22:29:57 | 河川痕跡
 「渋谷川」の水源とみられる一つが「新宿御苑」内の「上の池」(その北西にあった「天龍寺」境内の湧水、という説が強い)。
 他にも「新宿御苑」付近では二つあります。

① 「玉川上水」からの余水。上の案内図で行くと、A←B←C「玉川上水」。
② 「新宿御苑」内の「玉藻池」(「玉川上水」からの引き水)。上の図で行くと。E←D←C。

 そこで、この二つの流路の痕跡を確認に。10月20日(火)午後。JR「千駄ヶ谷」駅下車。

①の流路跡。

 「千駄ヶ谷」駅改札口を出て左に曲がり、ガードをくぐってから右に進むと、「外苑西通り」。その向かい側。マンションと住宅地の間を抜けた突き当たりの公園を右に。

線路沿いに残る煉瓦壁。

 前回、新宿御苑内の「下の池」に通じる暗渠(渋谷川)と「玉川上水」の余水から流れとが合流して一本になるあたりになるか? 小公園になっているが、川底という雰囲気のくぼ地になっている。
 地図上では、渋谷区と新宿区の区界になっているようで、この付近、渋谷川が区界になっていることを考えると、「渋谷川」とみることが出来そう。


        (「今昔マップ」より)1896年~1909年のようす。
 
○が上の部分。→が「玉川上水(余水)」、←が「渋谷川」。この地図から「渋谷川」の流れは玉川上水の余水からの方が多かった、という印象。

北東方向を望む。
                        さびれた公園には、ブランコと動物のモニュメントがいくつか。

階段を上がってJR線路方向を望む。
                      
「信濃町」駅方向から「大京町」交差点へ通じる道路。「新宿区立四谷第6小」が道沿いの右にある。

    

 この先上流がどのように「新宿御苑」・「玉川上水」方向に向かっていくのか定かではない。


                1927年~1939年のようす(「同」より)。
  その後、地図上では戦後しばらくまで「旧玉川上水」という表示が残っていた。


                現在のようす(「同」より)。
  「新宿御苑」の東側に沿って崖状の表示。これに沿って現在も「旧玉川上水」の流れが残っているはず。

「外苑西通り」沿いに残る水路跡。

向こう側は「新宿御苑」。

そこにあった「伝 沖田総司逝去の地」

 この場所には、高遠藩主内藤家屋敷(現新宿御苑)に沿って流れる旧玉川上水の余水吐(よすいばき・渋谷川と呼ばれる)に池尻橋がかかっていました。
 多くの歴史小説や映画などで、新撰組隊士沖田総司(1844~1866)が晩年に療養し、亡くなったとされる植木屋平五郎(柴田平五郎)の屋敷はこのあたりにありました。

 平成26年3月  新宿区

しっかりと流路が残されている。

    
                                  左手が「新宿御苑」。
 「新宿御苑」内から「旧玉川上水」を望む。

    

                   
                       この先、左に折れたところで、さっきの水路跡につながる。

 新宿御苑の「大木戸門」方向へ移動。その手前にある「四谷区民ホール」のところに大きな石碑「水道碑記」

    

 「区民ホール」付近が「旧玉川上水」からの分岐点(余水吐)の所だったようです。石碑の隣に解説板がある。

史跡 玉川上水水番所跡

 玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。
 水番所には、水番人が1名置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。水番所内には次のような高札が立っていた。
            記
1、此(の)上水道において魚を取(り)水をあび
  ちり芥捨(つ)べからず 何にても物あらひ申間敷(もうしまじく)
  並(びに)両側三間通(り)に在来候並(びに)木下草
  其(の)外草刈(り)取申間敷候事(とりもうすまじきこと)
 右之通相背輩あらば可為曲事者也(曲事者となすべきなり)
  元文四巳未年十二月   奉行

東京都指定有形文化財(古文書) 水道碑(いしぶみの)記 指定年月日 昭和5年12月  

 玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ460㌢、幅230㌢。上部の篆字は徳川家達、撰文は肝付兼武、書は金井之恭、題字は井亀泉によるもので、表面に780字、裏面に130字が陰刻されている。
 碑の表面には明治十八年の年紀が刻まれているが、建立計画中に発起人の西座真治が死亡したため、一時中断し、真治の妻の努力により、明治28年(1895)に完成したものである(裏面銘文)。

四谷大木戸跡碑

 四谷大木戸碑(この説明板の裏側にある)は、昭和34年11月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。
 実際の大木戸の位置はここより約80㍍東の四谷4丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。

 平成24年6月 新宿区教育委員会 

        「四谷大木戸記念碑」。

四谷4丁目交差点にある石塔「大木戸」。

新宿御苑北側にある解説板。

玉川上水の水番屋 玉川上水を管理する水番屋

 江戸の貴重な水資源を守るため、玉川上水は、厳重に管理されていました。上水で魚を獲ることや水浴びをすること、洗いものをすることを禁じていました。このため、流域の村々の利用は厳しく制限され、羽村、代田村(現杉並区)、四谷大木戸には、水番屋が設置され、水質、水量や異物の監視を行っていました。
 四谷大木戸の水番屋は、構内の総坪数が630坪(約2082平方メートル)余りあり、流れてきたごみを止める「芥留」、満水時に渋谷川へ水を排出する「吐水門」、暗渠へ入る「水門」がありました。「水門」では、水量を測定する「歩板」が設けられ、この板から水面までの感覚から市雨量の増減を調べました。

水道碑記

 四谷大木戸の水番屋は、現在の四谷地域センター内にあり、これを記念して、明治28(1895)年に石碑が建てられました。
 石碑は、高さ4.6㍍におよび、篆額は徳川家達が書き、書は金井之恭が書いています。碑文には、寛文で玉川上水建設の理由や、工事を請け負った玉川兄弟の功績をたたえた内容が書かれています。

  新宿区
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新宿御苑。下の池。上の池。・・・(「渋谷川」を遡る。その4。)

2015-10-12 13:32:59 | 河川痕跡
 この辺り、「新宿御苑」から「渋谷川」が暗渠になって流れ出るところ。園内からの写真。足元はふかふかの落ち葉に敷き詰められています。

    
        木々に覆われて、細い流れがある。

下の池からの落ち口。

 ここから上流に向かって「中の池」、「上の池」と遡っていきます。下の池と流れに架かっている橋が、

    

日本初の擬木の橋
 この橋は、日本で最初の擬木の橋と言われています。擬木とは、木の幹に似せてコンクリートや石でつくったもののことです。明治38年にフランスから買ったもので、3人のフランス人がついてきて現場で組み立てました。何度か修理されましたが、当時の姿のまま残され今日に至っています。

そこからの「下の池」。

 考えてみたら、「新宿御苑」に来たのはいつだったか、思い出せないほど。こういう機会でもなければ、と。散策している人もけっこう多い。特に外国人の姿が目立ちます。それにしても豊かな自然です。

                      

中の池。

    

「上の池」手前にあるのが「旧御涼亭」。

    

新宿御苑旧御涼亭
 この建物は皇太子(後の昭和天皇)御成婚記念として台湾在住邦人の有志から贈られたものである。旧御休息所の平面形状に卍形のモチーフが見られるなど、清朝中期以降の台湾で用いられた建築様式(中国南方のピン南建築様式)の特徴が現れている。
 わが国では、大倉集古館(1927年築、東京都港区虎ノ門)と並ぶ本格的中国風建築物である。
 平成の保存改修工事では、屋根まわりの形状を創建時の姿に復元するとともに、耐震補強を行い、あわせて、破損・腐朽部の修繕を実施した。

HPより)

    

上の池。
    
                           満々と水をたたえる。

この池が園内では「渋谷川」の最上流。

裏手(西側)に回ったところ。

    
 この付近にも小さいながらも池があるようです。

 水源は定かではないが、かつてはもう少し西にある「天龍寺」内のところから湧き水が流れ出していたとか。

 「渋谷川」の水源としてもう一ヵ所、園内にある「玉川上水」を引き入れた「玉藻池」があるようです。そこからの下水(したみず)が「天龍寺」からの流れと「御苑」の東南付近で合わさって、南に流れていった、と。

 次の機会には「玉藻池」までの探索ということになります。さらに、「明治神宮」からの支流など、「宇田川(初台川)」や「河骨川」(童謡「春の小川」)なども探索の対象になりそうです。
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観音橋。都営霞ヶ丘アパート。・・・(「渋谷川」を遡る。その3。)

2015-10-11 20:36:48 | 河川痕跡
 「外苑西通り」。
 渋谷川の水源にあたる「新宿御苑」内の「上の池」に向かって行くなら「上り」になるはずですが、この道路はいくぶん下り坂になっています。
 「渋谷川」はこの道路より少し東側を流れていたのではないかと思われます。「龍厳禅寺」の崖沿いに北上していた。さらに、現「都営霞ヶ丘アパート(団地)」の中を抜け、明治公園の西側をかすめ、そのまま新宿御苑方向に向かっていったのではないか、と。
 この付近では新宿区と渋谷区の区界が「渋谷川」になっています。ただ、「都営霞ヶ丘アパート」はすべて新宿区に属していますが。

→が区界。右が新宿区、左が渋谷区。区界がかつての渋谷川の流れに沿って微妙に蛇行しています。

「観音橋」交差点。かつての渋谷川に架かっていた橋。 

いったん戻って「霞ヶ丘アパート」団地内に行くと、微妙に屈折した路地があります。昭和20年台の航空写真を見ると、何となく水路のようなものが写っています。これがその跡であるかどうかは分かりませんが、明治公園内に入っていた水路とはつながりそうです。

    

 なお、20年の「東京オリンピック開催」に伴っての、巨大で法外な「新国立競技場」建設に関連し、ここ「都営霞ヶ丘アパート」が取り壊しされることになりました。
 その後、建設計画が白紙になっため、取り壊し計画は宙に浮くかと思いましたが、どうも先行きが危うくなっているようです。

 ロンドン五輪メインスタジアムの約3倍、旧国立競技場の5.6倍もある超巨大な新国立競技場。
 建設計画がゼロベースで見直されるのに伴い、すでに決定していた都営アパートの取り壊しが宙に浮くことになった。
 民主党が新国立競技場問題できょう、文科省、内閣府、JSC(日本スポーツ振興センター)からヒアリングした。
 都営霞ヶ丘アパートの取り壊しについて文科省の白間竜一郎スポーツ・青少年総括官は「(ゼロベース見直しにより)前提が変わっているので確認する」と答えた。取り壊しの見直しに含みを残した格好だ。
 しかし文科省スポーツ青少年局は『田中龍作ジャーナル』の電話取材に「(都営アパートの取り壊しは)東京都の都市計画に基づくもの」と答えた。
 文科省は良く言えば東京都に下駄を預けた。ありのままに言えば東京都に責任をなすりつけた。
 東京都住宅整備課に聞くと「都市計画決定が変更になっていないので(住民に)移転をお願いしている」と答えた。取り壊しの方針に変わりはないということだ。
 明治公園をはさんで旧国立競技場敷地の南隣に位置する都営霞ヶ丘アパートは、ザハ・ハディド氏デザインの超巨大施設が建設されるため、取り壊され住民は強制退去させられることになっている。
 明治公園が新国立競技場の敷地に入るため、都営霞ヶ丘アパートのある場所にスライドしてくるからだ。(名称まで明治公園というのかは、未定)
 しかし超巨大施設の建設計画は白紙撤回された。初期のデザインにあったカブトガニの尻尾はすでにない。明治公園を塞ぐ必要はなくなったのだ。都営霞ヶ丘アパートは理論上、残って当然になってきた。
 アパートの住民は都から来年1月までに退去するよう言われている。400世帯のうちすでに260世帯が他の都営住宅などに引っ越した。現在、140世帯が残っている。

(以上、「」HPより)


いよいよ水源の「新宿御苑」が地図上に出てきました。

明治公園も国立競技場も大規模な取り壊し工事が進行中。暗渠化された「渋谷川」がどうなっているのかは知るよしもありません。

    

足元には小さな石碑。「明治公園」と。

国立競技場、北のはずれのところに残された「石塔」。

JRのガードをくぐると「渋谷川」(暗渠)は、「創価国際友好会館」の敷地の中に入って行きます。

    

 裏手に回ると、「新宿御苑」の鉄柵が。「下の池」から「渋谷川」として流れていくことになります。

    

 「新宿御苑」千駄ヶ谷口から入園(入園料200円)して、流れのようすを観察することに。
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蛇行する坂道。「原宿橋」。・・・(「渋谷川」を遡る。その2。)

2015-10-09 23:03:03 | 河川痕跡
 「歩道橋」で「表参道」を越えると、蛇行した道路がかつての「渋谷川」の流路そのまま。人通りは少なくなりますが、まだまだおしゃれなお店が続きます。

    
 こちら側にも「参道橋」の親柱。

 しばらく行くと、道が盛り上がったところに出会います。おそらくはかつての橋がかかっていた跡ではないか、と。

    
                                    振り返って望む。




 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」)より。現在の地図と重ね合わせると、←の橋か?

「渋谷保育園」付近。

一本、路地を入ると、

カーブしながら緩やかに上っていく。

 この付近の標高は20メートルほど。川の北西、北東の標高はそれぞれ30メートルほどなので、北からほぼ南に向かい、谷筋・狭間を流れていることが分かります。渋谷駅付近で13~14メートル。(数値は、「今昔マップ」より)
 渋谷川の周囲は、茶畑や畑になっています。もう少し下流の「穏田村」(現在の渋谷駅北東・「キャットストリート」)付近には、少し水田が広がっています。

   
       
1880年代のようす。              2010年代のようす。蛇行する「渋谷川」が道筋に残る。

 広い通りと交差するところには「原宿橋」親柱が。

通りを渡ったところから振り返って望む。

    
                  木々の生い茂ったおうちがある住宅地を進む。

緩やかな上り坂。

上り詰めると「外苑西通り」へ。

通りの向かいには「龍厳禅寺」。

 この先は流路がはっきりと残っていません。
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渋谷駅東口。宮下公園。キャットストリート。・・・(「渋谷川」を遡る。その1。)

2015-10-08 21:36:47 | 河川痕跡
 渋谷に出かけたついでに、ちょっと気になっていた「渋谷川」。新宿御苑の池を水源として東京湾に注ぐ流れ。ちょっと歩いてみようかな、ということで。ここから上流は暗渠になっています。まだまだ大工事中の渋谷駅、そして、原宿、そしてまた大工事中の明治公園、国立競技場・・・、今の状況もついでに。

 河川探索として「渋谷川」は、入門編だとか言われていますが。

「稲荷橋」。

歩道橋を渡って渋谷駅方向へ。「渋谷川」。

今「東口」付近は「東急百貨店東横店東館」解体工事を含め大規模な工事中。暗渠になっている「渋谷川」の流路を大改造して地下街の整備なども行う予定だとか。

正面が「渋谷川」の流路に当たっているはず。

この地下付近? 

振り返って望む。

道路の向こうの路地は「渋谷のんべい横丁」。

 JRの高架線と「渋谷川」暗渠上にある公共のバイク置き場との間にあって、お店がずらりと並んでいます。

「渋谷川」暗渠から見たお店の裏手。

「宮下公園」の脇に沿って流れていました。

      

「明治通り」を越えた向こう側に遡っていきます。 

広い道になります。中央に緑道風の公園。ここが流路?  

この付近が「キャットストリート」。右が「渋谷川」。左手に昔ながらの路地。奥には木造の民家が並んでいます。 

    
                                       「キャットストリート(「渋谷川」)から左手奥を望む。

護岸跡の段差。

 川沿いの道と護岸がそのまま残っています。渋谷川の上を輪大勢の若者、日本人、外国人が歩いています。車は地元の方のみ、と。道の両側に連なるしゃれたお店には人だかりが。その中を老人がうろうろ、きょろきょろ!

        

 しばらく進むと、表参道に。そこには、「参道橋」の親柱が。

    
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龍閑児童公園。千代田区と中央区との区界。・・・(「龍閑川」跡をたどる。その4。)

2014-02-05 22:29:52 | 河川痕跡

古い家屋。屋上のコンクリート製の手すり。
奥の突き当たりが「龍閑児童公園」。この辺は、問屋街。
西側を振り返る。左が中央区、右が千代田区。
日本家屋風のトイレ。ここには、「千代田区」と表示が。
石橋のモニュメント付近が西からの流れが直角に南に折れるところ。このあたりは、「中央区」の立て看板。


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。この時期には、上流部分は堀割になっていない。また、「龍閑川」もなくなっている。1883(明治16)年、再掘削の直前の地図だろう。赤丸が合流点。

堀割跡の道路(都有地)から北を望む。中央線が両区の区界になっている(左が中央区、右が千代田区)。この辺で、区界は広い道路を北東に向かう。
左が千代田区(北側)、右が中央区(南側)。
ビル街。
古びた街並み。「エトワール海渡」関連のビルが区界を越えてあちこちに。
古い趣の店構え。

「靖国通り」に出て、JR浅草橋駅西口へ。

神田川に架かる左右衛門橋。ここが台東区と千代田区の区界。左が千代田区、右が台東区。
神田川。左衛門橋から東を望む。右岸が中央区、左岸が台東区。
橋のたもとにある「旧町名由来案内」。「浅草上右衛門町」と「浅草左衞門町」。左衛門町は、明治25年成立。
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地蔵橋。十思公園。・・・(「龍閑川」跡をたどる。その3。)

2014-02-04 22:09:59 | 河川痕跡
 昭和通りを渡ると、興味深い記念碑がありました。
「神田八丁堀跡」碑。

 明暦3年(1657)本所の振袖火事の大火ののちまず防火のために8丁(約870㍍)にわたる土手が築かれました。
 天和3年(1683)頃になると、土手のそばに広道(明地)ができました。
 その後、元禄4年(1691)頃になると、町人達が自ら費用を負担して明地に堀割を開削しました。これが神田八丁堀です。神田と日本橋の境となっていました。
 白銀町(しろがねちょう)堀とも呼ばれ、のち竜閑川と名づけられ千代田区と中央区の区界になっています。
 堀割は東京都千代田区合同庁舎(千代田区内神田2-1)の南側あたりの外堀(現在の日本橋川)から分かれて東北東に続いていました。
 東神田1丁目の所から南南東に向きをかえ、新堀(のちの浜町川)となって日本橋浜町で大川(隅田川)に注いでいました。
 のちには東神田1丁目の所から北北西に流れる水路も開かれて神田川ともつながっていました。

 この堀には西から竜閑橋、白旗橋、西仲之橋、今川橋、東仲之橋、地蔵橋、火除橋、九道橋、甚平衛橋、小出橋が架かっていましたが、終戦後に堀が埋め立てられた時に廃橋となりました。この標識が建っている辺りにはかつて地蔵橋が架かっていました。
 平成14年3月建替 千代田区教育委員会

 おそらくこの内容が史実に即したもののように思われます。

 年表風にまとめると(ここまでの沿道のいくつかの記念碑に記されている内容を加味して)、

・明暦3年(1657)明暦の大火(振袖火事)後、防火のためにこの地域のほぼ東西方向に8丁の土手が築かれる。(「火除橋」がその事情を示している)

・天和3年(1683)土手のそば(北側)に明地ができる。

・元禄4年(1691)明地を町人の費用負担で堀割を開削し、東北東に進み、東神田1丁目付近から南南東に向きを変え、隅田川につないだ。(その時尽力した人の名が、「今川」「甚兵衛」「小出」などの橋名になった)

・安政4年(1857)土手を崩して水路を埋め立てる。

・明治16年(1883)再び開削され防火用・雨水用とした。
 その際、東神田1丁目付近から北北西に水路を開き、神田川と結んだ。(「歴史的農業環境閲覧システム」1880年頃の地図を参照)

・その後、しだいに下水が流れ込み、ゴミ捨て場と化し、悪臭漂う不衛生な川になった。

・昭和20年(1945)?第二次大戦終了直後下水管を埋設して川を埋め立て、宅地化する事業が始まる。

・昭和25年(1950)埋め立て工事が完成する。(区界として旧堀割の一部を「竜閑新道」として整備する。)

 したがって、「浜町川」は「龍(竜)閑川」の一部ととらえる方が正しいと思われます。
 その後、東神田1丁目付近から南の水路は「中央区」に属し、地域に因んで「浜町川」と呼ばれるようになった、と。
 また、神田川から隅田川までの水路全体を「浜町川」とするのは正しくないようだ。東神田1丁目から神田川までは、「新堀」というべきか。

東に向かって進みます。
ビルとビルの間に、細い道が続く。
西を望む。左が中央区、右が千代田区。
所々に古いモルタルつくりの民家が残っている。


小伝馬町付近。正面の細道が「龍閑川」跡(「龍閑新道」)。左奥に「伝馬町牢屋敷」が広がっていた。


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 左中央の大きな空間を中心として広がる一帯が、「伝馬町牢屋敷」の跡地。空白になっているのは、なかなか跡地の土地利用が決まらなかったためのようだ。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、旧十思小学校、十思公園一帯にあたる。上方と右の明地は、当時、埋め立てられている「龍閑川」(「浜町川」)。
 「伝馬町牢屋敷」の周囲は堀で囲まれていたとのことで、「龍閑川」の水が利用されていた可能性もある。
「十思公園」(「震災復興52小公園」の一つ)。
「十思スクエア」(旧「十思小学校」当時の震災復興校舎を生かす)。

振り返って望む。

 まもなく「龍閑児童公園」へ。
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今川橋。今川焼き。地蔵橋児童遊園。・・・(「龍閑川」跡をたどる。その2。)

2014-02-03 22:39:30 | 河川痕跡

 ガードをくぐると、両側をビルに囲まれた道になります。

ビジネスホテルなどのある路地。かつての川筋が正面入口になっている建物もあるし、ビルの裏手になっていて、隠れ喫煙所になっているような所も。
再び飲み屋街に。

「今川橋跡」碑。

 元禄4年(1691)この地、東西に掘割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。始めは神田堀、銀堀(しろがねぼり)、八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上龍閑が平川と掘割の接点に住んでいたので竜閑川とよばれるようになった。
 この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きく神田の職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。この掘割は、神田と日本橋の境界として11の橋梁がありこの地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり、「今川橋」と名づけられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち初めて渡るのが今川橋であった。
 昭和25年竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され、360年の歴史を閉じた。
 平成元年一月吉日 鍛冶町一丁目町会

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。○が「今川橋」。

2010年代のようす。
 南北の広い通りは「日本橋通り」。右は「昭和通り(その上が「首都高上野線」)」。

「今川橋由来碑」。
 
 今川橋が神田堀(別名神田八丁堀、龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~83)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架設されたのでその名が残りました。この橋は、日本橋から中山道に通じる重要な橋でもありました。
 神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。
 昭和25年(1950)龍閑川は埋め立てられ、300年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。
 左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。

中央通りを渡ったところにある記念碑。「今川橋のあとどころ」

 おなじみの「今川焼」は、今川橋付近の店で売り出されたことによる命名、らしい。

 「今川焼き」

 小麦粉、玉子、砂糖を水で溶いた生地を鉄や銅製の円形に窪んだ焼き型へ流し込み、餡を包埋して、高さの低い円筒形ないしは分厚い円盤状に焼成したものである。全国各地で同様な食品が様々に呼称され、固定や常設の店舗だけではなく神事や仏事に限らずいわゆる祭りの露天屋台で販売される場合も多く、日本人になじみ深い菓子である。
 「今川焼き」の名称の由来に確たる史料はないが、今日主流とされる説に以下が挙げられる。
 江戸時代中期の安永年間、江戸市内にかつて存在した竜閑川に当地の名主今川善右衛門が架橋した「今川橋」近隣の神田側に実在した神田西今川町や神田東今川町の店が、これらの焼き菓子を発売して高い評判を呼び、後に「今川焼き」が一般名詞化して広がったとされている。(以上「Wikipedia」参照)

 ここが発祥の地であったとは知りませんでした。ただし、我が家の近所のお店は、「大判焼き」とか名付けています。各地でいろいろな呼び名があるようです。

そこから西方向を望む。正面の細い道がたどってきた道。左が中央区、右が千代田区。
しばらく路地裏のような道を進む。
小さな祠付近から西を望む。
行く手には、首都高の橋脚。右が中央区、左が千代田区。
竜閑川埋立記念碑(千代田区神田・中央区日本橋)
裏面。そこには、龍閑川の歴史と埋立の経緯が記されている。

・明治16年に再び掘って防火用雨水用としたこと。
・戦前から下水より汚水が流れ込み悪臭を発散しゴミを捨てるため蚊やハエ等がわき衛生上宜しくなく川は無用のものとなったこと
・東京都は第二次世界大戦直後川底に下水管を埋設して戦災焼残土を以て埋め立て宅地をつくり復興を促進したこと
・昭和25年埋め立て工事が竣工し大事業(600間、幅7間、約4,800坪の埋め立て工事)が完成したこと。
・今回、地蔵橋際児童遊園の東北際に記念碑を建立したこと
・この埋立は実に千代田、中央両区の握手であって、昔は川今は竜閑新道を中心に土地の発展に尽くすこと

緑(千代田区)と白色(中央区)で両区が区分けされている。「現在地」が記念碑のある地蔵橋児童遊園。
児童遊園(「昭和通り」際)。
中央の道が「龍閑川」跡。向こう側が中央区、手前側が千代田区。 

 ただ、どうも記念碑ごとに記されている内容に微妙な違いがありそう。はたして史実はどうか?
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「龍閑橋」。「機銃掃射の跡(鎌倉橋)」。「今川横丁」。・・・(「龍閑川」跡をたどる。その1。)

2014-02-02 23:01:25 | 河川痕跡
 今回は、堀割・「龍閑川」跡をたどることに。JR「神田駅」南口からJR「浅草橋駅」まで。二駅間ですからそれほどの距離はありません。約2㎞、歩いても25分程度の道のり。
 この川は千代田区と中央区の区界(かつての「神田区」と「日本橋区」)にもなっています。
 「龍閑川」「浜町川」の合流点「龍閑児童公園」付近からは川の流れからは関係なく、ジグザグしながら区界は浅草橋方向に進み、神田川に架かる「左右衛門橋」まで、「千代田区」と「中央区」との区界が続きます。浅草橋駅西口付近になると、「千代田区」と「台東区」との区界となります。

「竜閑橋」という名称の交差点(「外堀通り」)。
中央奥、「日本橋川」が少しカーブする辺り、赤丸のところがかつての堀割・「龍閑川」の取水口と思われる。「鎌倉橋」から望む。

 ところで、この「鎌倉橋」。
 日本橋川に架かり、大手町一・二丁目から内神田一・二丁目に通じる橋で、外堀通りにあります。関東大震災の復興橋の一つで、昭和4年(1929)4月25日の架橋で、長さ30.1m、幅22.0mのコンクリ-ト橋です。名前の由来は、江戸城を築くときに鎌倉から石材をここの河岸(内神田寄り)に陸揚げしたので、この河岸を鎌倉河岸と呼んだことによります。
「鎌倉河岸ビル」。
 また、この鎌倉橋には、日本本土土市街地への空襲が始まった痕跡が残っています。欄干には、昭和19年(1944)年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えています。
橋のたもとにある「説明板」。

(以上より。注:写真は小生の撮ったもの。)

銃弾の跡(赤丸)。
目に付くところにある(赤丸)。
 
 この橋も老朽化していて、新しく建てかえられる可能性もある。そのときに、こうした痕跡は、きちんと継承していって欲しい、と。

さて、ようやく「竜閑橋」遺構に戻ります。
説明板。

 もともと、神田の掘に架けられていた龍閑橋は、堀を埋め立てることで必要なくなりました。 同じころ、この付近に開かれた新しい川に、いらなくなった橋をそのまま架けたのが、現在の龍閑橋の地名の由来となっています。まだ無名だったその新川は、橋の名前にちなんで 「龍閑川」 と名付けられました。
今は無き龍閑川は、その昔、神田と日本橋の両区を分割するものでした。
 また、「龍閑」という名については、龍閑川の西端にあった町に、旧幕府坊主の「井上龍閑」と言う人の家があったことに由来します。

鉄筋コンクリート製のトラス橋が遺構として残されている。


1926年(大正15)年につくられた、日本最初の鉄筋コンクリート橋。
明治時代の龍閑橋(「説明板」に掲示されてあったもので、木橋。右の堀が「日本橋川」)。
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

2010年代のようす。(「同上」より)

こじんまりとした公園に余生を送っている。
そこから日本橋川方向を望む。正面奥が取水口と思われる。

この道(「龍閑川」跡)が一直線に東に向かう。右が中央区、左が千代田区。
 

路地(区界の道)から西(日本橋川)を望む。
ビルとビルとの間に残る木造家屋。
JR線のガード。「白旗橋」とある。ガード下にあるお店は、ずばり「があどした」。
両側に小さなお店が並ぶガード下。「龍閑川」跡はこの路地を東に向かう。
振り返って望む。
「今川小路」と。立ち退きなどで昔の面影(「ガード下飲み屋小路」)はなくなりつつあるようだ。
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大和橋。神田川取水口。(「浜町川」跡をたどる。その3。)

2014-02-01 21:54:06 | 河川痕跡
 しばらく北上すると、神田川との合流地点になる。

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。幅広い直線部分が、「浜町川」掘削地。

ビルの間を抜けていく。東神田1丁目付近。
正面のビルの建っているところがかつての流路。
道の真ん中にポール。都有地となっている。
「靖国通り」との三叉路。「大和橋」ガレージ。地下駐車場。
振り返って南側を望む。ひょろっとしたビルが流路跡に建っているビル。堀割の流れに沿い、微妙な曲線を描いてビルが並んで建っている。航空写真なら、整然と堀割「浜町川」上に建っていることがわかるはず。(「goo」昭和38年航空写真では、この辺り、建物が、貨物列車の一列につながっているように写っている。)
三角形の緑地が目印。
奥の路地が流路跡。
駐車場の正面奥が神田川との合流点。鉄柵が設けてある。
そこから来た道を振り返る。正面の細い道。この辺りに「柳原橋」があった。
神田川の反対岸から合流地点を望む。取水口のような趣。ここだけ緑の草が長く下がっているのが目に付く。

 それほど長い距離ではなかったが、けっこう変化に富んだ道筋。ここから西に向かってJR秋葉原駅に出ました。

 「龍閑川」(堀割)の日本橋川取水口付近の標高は約4㍍。「浜町川」との合流付近は約3㍍。「神田川」は約4㍍。南に流れて「有馬小」付近では約1㍍という標高差でした(「今昔マップ」参照)。
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ビルとビルの間。路地裏の細道。龍閑児童公園。(「浜町川」跡をたどる。その2。)

2014-01-31 22:15:39 | 河川痕跡
 久松小脇の公園を過ぎると、かつての堀割に民家が建ち並びます。
ここ辺りから細長く縦に二列で並んでいる風景に。町の境は、家と家。
来た道を振り返る。道の中央にくぼみに沿って地下に下水溝が通っているようす。旧河川を埋めた跡がこのようになっているのに出くわす。
右側の家屋がかつての堀割跡に建っている、と思われる(「浜町川」の東側半分)。
「問屋橋交番」(旧「堀割」の東沿い)。
交番脇の路地。(旧「堀割」上)。
交番を過ぎたあたり。細い路地の両側にパン屋、寿司屋など商店や小さな町工場などが並んでいる。昔のままのごみごみした雰囲気が残っている一角。
途中からは、ビルに変わる。
ビルとビルとの間の路地。ここもかつての堀割で、地下には下水管がつながっていて、東京都下水道局管轄の都有地となっている。

所々にこうした掲示板がある。
ほぼ直線で北に向かう。
車は通らない、自転車も通れそうもない細道。
「鞍掛橋」交差点(「江戸通り」国道6号線)。右手が浅草橋方向。
江戸通りを渡って南を望む。ビルとビルの間が来た道。
龍閑児童公園。この公園が「中央区立」と「千代田区立」という同名の公園という不思議な趣。ここが、区界ということになるため。
左から龍閑川が合流する。龍閑川は、現在、千代田区と中央区の区界の一部になっている。龍閑川跡の探訪もしてみよう!

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。この時期には、上流部分は堀割になっていない。また、「龍閑川」もなくなっている。再掘削の直前の地図かもしれない。赤丸が合流点。

 龍(竜)閑川は、東京都中央区および千代田区にかつて存在した河川である。日本橋川より千代田区と中央区の区界に沿って北東に向かい、東神田付近から直角に折れ、浜町川を経て箱崎川、隅田川へと抜ける人工の堀であった。明治の掘割の際に神田川への流路も掘割されている。
 龍閑川が最初に掘割されたのは江戸時代の1658年である。その後一度堀は埋立てられ、1883年(明治16年)に再び掘割された。しかし戦後の残土処理のため1948年(昭和23年)から再び埋立が始まり、1950年(昭和25年)には埋立が完了し、水路としての龍閑川は完全に消滅した。

(以上、「Wikipedia」参照)

(注:「goo」昭和22年の航空写真では水路が写っている)。

 上の記事によれば、「浜町川」と「龍閑川」との関係は、「龍閑川」が「日本橋川」から北西に流れ、小伝馬町の先、現在の「龍閑児童公園」付近で直角に折れて、南下し(そこからは「浜町川」と称した。龍閑児童公園から北の部分は後に掘削され神田川と結んだ、というふうにも読み取れる。なぜ埋め立てられ、のちに再び掘削されたのか。江戸から明治、昭和前期にかけての水運との関連は興味深い。
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有馬小。首都高浜町出口。弁慶像。久松小。(「浜町川」跡をたどる。その1。)

2014-01-30 21:32:00 | 河川痕跡
 先日、「震災復興52小公園」めぐりで、「蛎殻町公園」・「有馬小」に行った際、有馬小の東、首都高下の路がかつての堀割「浜町川」であることを知り、今回、その跡を訪ねてみました。「半蔵門線・水天宮前」駅から「JR・秋葉原」駅まで。帰宅してネットを調べると、すでに何人もの方が探訪していて、写真も豊富。でも、めげずに報告。

2000年代のようす(「今昔マップ」より)。赤線が「浜町川」跡。最上部の川が「神田川」(赤丸)。神田川から分流した堀割と日本橋川から分流した堀割「龍閑川」を途中で合わせて、南下して箱崎川(運河)を経て隅田川に注いでいた川が「浜町川」。

有馬小。ここからスタート。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。矢印が「有馬小」。

緑道になっていて、頭上は首都高・浜町出口への道路。けっこう灌木など緑が多い印象。


舟を模した石組み。夏場などは水が流れているようす。


新大橋通りから南を望む。中央が首都高・浜町出口。
渡ると、モニュメントをくぐる。「久松警察署」まで本格的な緑道公園となる。
振り返ると、高層ビルが。
武蔵坊弁慶(歌舞伎十八番「勧進帳」)。冠木(かぶき)門が公園の出入口に。
説明板があり、「人形町」のいわれなどが記されている。
今の時期、水は流れていないが、夏場は涼しそう。
「漢方醫学復興之地」碑。
遊歩道としてゆっくり堪能できる路。

消防署出張所に突き当たって緑道は終わりになる。


通りを過ぎると、旧堀割は、久松小と道を隔てた公園に。
右が小学校側。
西側。歩行者専用道路をはさんで、こちらにも「久松児童公園」が広がる。堀割を埋め立てて作られているので、広く細長い。
併設の「久松幼稚園」側から南を望む。児童の帰りを待つ親子連れで公園は賑やか。
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おかず横丁。三味線堀。佐竹商店街。鳥越川跡をたどる。その2。

2013-11-07 20:34:32 | 河川痕跡


※ ○が「三味線堀」のあったところ。そこから斜め左上赤い線の通りが「佐竹商店街」。右の青い線が「鳥越川」跡。

「蔵前橋通り」から一本南の道。問屋や商店が多いが、車も人の通りも少なく、静かなたたずまい。
道路沿いには古い町家が並ぶ。切り妻作りの屋根。
人が通れそうもない家と家との狭く長い路地。そこにネコが。
道が突き当たってマンションに。本来の流路はここで右(北)に折れたのか。「清洲橋通り」から東を望む。正面の奥が突き当たりのマンション。
1880年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)地図上で直角に曲がる辺り。上方が、「三味線堀」。川の左が現在の「清洲橋通り」と思われる。

 このあたりから道筋が不明に。迷い込んだのが「おかず横丁」。


(「おかず横丁」公式HPより。)

 『おかず横丁』は延長230メートル、そのほとんどが日用食料品を取り扱う最寄品店の連なりからなる商店街です。明治末期から大正年間にかけては転々と散在していた店舗が、震災後の市区改正を機に大きく発展してきました。
 そんな横丁は戦後まで東西に分かれ、名もそれぞれ「鳥盛会」「商正会」と言いましたが、経済が安定した昭和24年11月10日、東西を一本化して現在の商盛会となりました。商店数六十余軒あり、昼夜を問わず人を集め賑わう商店街の誕生です。

 時間が中途半端だったせいか人通りも少なかったが、お総菜屋さんを中心にアットホームなお店が並んで、古色蒼然とした銅板葺きの民家や色を塗った看板建築もあり、「昔懐かし」商店街、といった雰囲気。


「三味線堀跡」案内板。「清洲橋通り」を少し北に向かったところ。

「三味線堀跡」 台東区小島1-5。
 現在の清洲橋通りに面して、小島1丁目の西端に南北に広がっていた。寛永7年(1630)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀とよばれた。一説に、浅草猿屋町(現在の浅草橋3丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。
 不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。
 なお天明3年(1783)には堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に3階建ての高殿が建設された。大田南畝(おおたなんぼ)が、これにちなんだ狂歌をのこしている。
 三階に 三味線堀を 三下り 二上り見れど あきたらぬ景
 江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していた。しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上交通の発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである。
 平成15年(2003)3月  台東区教育委員会

1880年代のようす。(「同」より)三味線のかたちをしているような・・・。


1880年代のようす。                       

                      2010年代のようす。アーケードが「佐竹商店街」                     


現在は、高層の集合住宅が建っています。一階の商店などは閉まっていました。

「佐竹商店街」南口。「清洲橋通り」側。長い、長いアーケードが特徴。
「佐竹家上屋敷、佐竹っ原跡」案内板。

 江戸時代、この付近一帯は出羽国久保田(秋田藩)の上屋敷があった地である。藩主は佐竹氏で、20万石余を領有した東北地方屈指の外様大名であった。佐竹家上屋敷の当地開設は『武鑑』からみて、元禄2年(1689)もしくは翌3年と考えられる。屋敷地は広大で、現在の台東3、4丁目東半分にわたっていた。
 佐竹家8代藩主佐竹義敦(号曙山)は、日本初の本格的な西洋医学書の翻訳書『解体新書』(安永3年[1774]刊)付図を描いた藩士小田野直武らとともに洋風画の一派「秋田蘭画」の基礎を築いた。また天明年間(1781―89)の狂歌師手柄岡持も藩士であり、当時の文化人がここを中心に活躍していたことがうかがわれる。
 明治になって佐竹家上屋敷や近隣の武家屋敷が撤去され、当地は野原となり、俗に佐竹っ原と呼ばれた。ここは見世物小屋が集中して賑わったが、明治時代半ばから民家が建ち並び、商店街として発展した。現在、「佐竹」の名は、「佐竹商店街」として「継承されている。
 平成8年3月  台東区教育委員会

かなり続くアーケード。賑やかな人通り。


 「佐竹商店街」は、一度訪問しましたが、そのときの記事を再掲。(長いですが)

 秋田佐竹藩城主、佐竹右京太夫 藤堂和泉守の江戸屋敷には、上屋敷中屋敷・下屋敷のほか、お囲地などがありました。このうち、上屋敷は当初内神田佐竹殿前(現千代田区神田)にあったそうで、そこには鎌倉の佐竹屋敷から移築された金彫絢爛たる「日暮らしの門」があったといいます。しかし天和二年(1682年)十二月二十八日の八百屋お七の放火による江戸の大火で焼失してしまいました。こんなこともあってか、翌天和三年(1683年)には現在の台東区の地に移転したのであります。
 移転後の屋敷内には「日知館」という江戸藩校も設けられており、山本北山、大窪詩仏など、有名な師を招いて子弟の教育にあたらせたといいます。幕末期の安政二年(1855年)には、ここに居住する人員百三十六名に及んだと記録されております。
 各藩にとってその江戸屋敷は重要な政治的、文化的拠点であり、自国の一部がそこに存在していたのも同然。佐竹藩も、広大な敷地に、当時としてはまったく希有な三階建ての豪壮華麗な建物を設け、他に誇ったのでありましょう。
屋敷の西側には大番与力同心の組屋敷があり、そこにあった総門を竹門と呼んでいたそうで、ここから「竹町」の名前が生まれたといわれております。
明治41年頃の三味線堀  ※左手が佐竹商店街
 明治維新の後、廃藩置県が実施され佐竹藩そのものが消失します。当然その上屋敷も任務を失いました。明治二年(1869年)には、火災により建物はすべて焼失してしまい、屋敷内は荒れるにまかされ、草ぼうぼうと生い茂り佐竹っ原といわれるに至ります。明治五年(1872年)には国に上納されて大蔵省の所管となり、一時は陸軍省用地として使用されていたこともあるようです。そのころは戸数六十八戸、住民数は二百六十八名。周辺に比べ最も閑静な場所でありました。
 しかしながら明治十七年(1884年)頃から民間に貸し下げられ、次々と民家が建ち並び、店舗が軒を連ねるようになり、竹町の街、佐竹の商店街の萌芽が形成されたのです。年を経るごとに盛り場・娯楽街として充実発展してゆきます。かっぽれ、吹き矢、デロレンなど、葦簀張りの小屋掛けが出来、借り馬・打球場・大弓などの大道商売も始まり、それにつれて飲食店、粟餅の曲搗き、しるこ屋、煮込み・おでん、大福餅売りなどが縁日の露店のような形で店を出し、寄席・見せ物小屋が並ぶようになります。さらに祭文定席、玉ころがし、射的、大弓場などもでき、義太夫、講談、落語、祭文かたりが聞け、ゆで小豆を売る店などが並びます。
 そして日暮れ時ともなれば、浅草向柳原に住む露店商などが街路にところ狭しと出店を張り、また一歩路地にはいれば紅灯の下で客引く声も艶かしく、亀屋・竹内などの料亭を始め、第二富士館という活動写真館もできて一段と賑やかさを増し、一大歓楽境となってゆきました。近郷近在は無論のこと、遠方からも人々が集まり、夜の更けるのも忘れてしまうほど殷賑を極めました。
 大正初期には戸数三千八百十三個、人口一万二千三十四名にまで膨張、下町佐竹の名は東京中に響きわたり、明治から大正時代にかけての黄金時代を築き上げていったのです。
 大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災は、佐竹全域ことごとく灰燼に帰し、一面の焼け野が原と化してしまいました。しかし罹災直後から全店主が一丸となって復興にあたり、街を取り巻いていた堀(藩邸時代の名残り)も埋め立てられ、区画整理・道路拡張なども進み、以前にも増して近代的な商店街として再生し、芝日陰町、京橋八丁堀と共に下町三大商店街の一つに数えられるほどの賑わいを取り戻すことができました。
 現在、町内に鎮座まします秋葉神社は、火伏せの神・火貝土之尊をご祭神といたしますが、もと秋葉ヶ原(現JR秋葉原駅付近)にあったものを明治二十二年(1889年)下谷佐竹屋敷跡地に移した説と、明治十九年(1886年)6月の朝野新聞に佐竹ヶ原の秋葉教会所の縁日が賑わったとの記載があり、詳細は不明でした。
 ※平成25年2月研究者の方よりの情報により 明治18年1月20日の読売新聞に次の記事があり「秋葉の遷座 今日ハ深川御船蔵前町の秋葉中央寺に安置の秋葉神社を今度下谷竹町の佐竹の原へ遷座し安置式を執行する其道筋ハ御船蔵前より万年橋を渡り河岸通り永代橋を渡り小網町通り堀留大門通り大丸にて小休み夫よら弁慶橋通り柳原へ出て右へ美倉橋を渡り三味線堀より竹町の教会所へ着の手筈なりといふ」この記事から佐竹秋葉神社の創建が解りました。
 昭和五年(1930年)、現在地に社殿を造営したもので、毎年十一月十五日に大祭を、また毎月二十四日をご縁日として戦前までは参道に露店がぎっしりと並び参詣の人々は引きも切らず、誠に賑やかなものでありました。商店街も二十四日を特売日としてサービスをしており、戦後も四の日特売は昭和四十年代まで続きました。
 昭和十一年(1936年)東京市の調査では店舗は全部で百十六店でした。(約半数の六十三店が衣料関係品店、食料品店十四店、その他の店三十九店)。
 昭和十六年(1941年)太平洋戦争の開戦と共に世の中は軍事一色に塗りつぶされ、「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などの標語のもと消費生活は徐々に狭められ、物資は軍事優先に使われて行き、主な生活必需品は配給制度となり、企業整備の名のもとに、小売業は不要とされ閉店を促し、事業主・従業員は軍需工場に徴用され、慣れぬ工場労働にかり出されました。当然商店街は火の消えたようなありさまで、まさに暗黒の時代に突入していったのです。
 昭和十九年(1944年)十二月三十一日の夜と、翌二十年(1945年)二月二十五日の雪の降る昼下がりの二度にわたって空襲を受け、商店街の半分近くが焼失してしまいました。売るに物なく、買うに人なきありさまでしたが、終戦となるや直ちに復興に着手し、翌昭和二十一年(1946年)には早くも佐竹商店街組合を結成し、個々の店の努力と協同の力で不死鳥のごとく瞬く間に往事の賑やかさを取り戻しました。
 昭和二十八年(1953年)に竹町公園で行われた商店街主催の盆踊り大会は盛大に行われ、特設舞台での演芸には初代の林家三平師匠も出演しました。その頃、商店街には店員さんも多く、商店街内で野球チームが3,4組出来ていました。昭和三十五年(1960年)には協同組合を結成、さらに三十八年(1963年)には振興組合に改組しました。
 昭和三十九年(1964年)新住居表示採用にともない、町名としての「竹町」は消え、台東と変わりましたが、佐竹の名は町会名及び商店街として絶える事なく後世に伝えられてゆく事と信じます。また、昭和四十四年(1969年)には商店街全店が悲願とした全蓋アーケードがついに完成、同五十二年(1977年)にはカラー舗装を施工し、ここに名実共に都内屈指の商店街として完成したのです。
 また、当時の特売セール(ゲバゲバモーレツセール)の夜七時から行われたタイムサービスは買い物客であふれ、近所のお風呂屋さんの女湯が空になったと言われました。
 昭和五十一年(1976年)夏に「秋田まつり」のタイトルで夏祭りを実施し企画部員が竿灯を製作して、竿灯の演技も披露しました。数年後の「秋田まつり」では、秋田市のご協力で本場の実物の竿灯を寄贈いただき、秋田市の職員による竿灯演技も行われました。
 昭和五十二年(1977年)五月にテレビ朝日の人気番組「電線音頭」の録画撮りが行われ、雨天の中、商店街は収録風景を見ようとする子供達であふれ、多くの人波の為、お店によってはシャッターを閉める程でありました。出演者は竹町生まれの伊東四朗さん他でした。
 平成十一年(1999年)三月二十八日、午後七時より日本テレビの「商店街ドミノ倒し」全国生中継がおこなわれアーケード内、百五十メートルを平成小PTA、ボーイスカウトなどの協力を受け、ドミノ(VTRテープ)をならべ、テレビ局でも生放送でやったことがない一大イベントの生中継を成功させる事が出来ました。最近では商店街が映画(デスノート、クロサギ、二十世紀少年)、テレビドラマ(税務調査官・窓際太郎の事件簿、時効警察、婚カツ!、コールセンターの恋人、産婦人科ギネ)、CM(チオビタドリンク、オロナミンC、風邪薬カコナール、NEWクレラップ)等の撮影に数多く利用されています。
 昭和五十七年(1982年)九月二十七日、旧佐竹藩主の後裔佐竹義栄氏を始め、秋田姓氏家系研究会(会長杉沢文治氏)会員の諸氏が佐竹氏江戸邸史跡等探訪のため当地を訪問されました。これが機縁となって親善交流を深め、秋田市長の来街、相互訪問等を重ねております。平成二年秋には親善交流十周年を記念事業を実施し、佐竹商店街のお客様に秋田を訪問していただく企画も催しました。
 佐竹のみならず、昨今商店街をめぐる商業環境は予断を許さぬものがあります。しかし先人多くが幾度とない危機を乗り越え、発展を続けた努力を見習い、お客様に愛され、お役に立てる街としてさらに精進を重ねてゆきたいと思っております。
どうぞご叱声を心からお願い申し上げます。(長い引用でしたが「佐竹商店街」HPより)
 実に歴史ある商店街だったのですね。

 佐竹家秘伝の薬がこれ。
「龍角散」。知らなかった!
なるほど!

 機会があれば、「忍川」と「新堀川」跡をたどってみましょう。


 

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須賀橋。甚内橋。瘧。鳥越川跡をたどる。その1。

2013-11-06 23:33:04 | 河川痕跡

 「忍川」は不忍池東南部で池から流出する水を集め、上野広小路を横切って、上野三橋町と広小路の間の横町、御徒町から「昭和通り」を横切って東に流れていきました。
1880年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
 その先で、二つに分かれ、一つは東に向かい、浅草七軒町付近で南折して(「新堀川」)、「鳥越川」と合流し、もう一つは現「春日通り」沿いに東流、竹町付近で南に折れて、「三味線堀」に流れ込みます。
 「鳥越川」は、「三味線堀」の水が流れ出る地点からはじまり、「清洲橋通り」の東側を南流して、「蔵前橋通り」と交差する辺りで東に折れ、鳥越一丁目、向柳原二丁目、浅草橋三丁目の間を流れ、蔵前一丁目辺りで南下してきた「新堀川」を合わせ、「江戸通り」を横切って、隅田川に流れ込んでいました。

 「鳥越川」は、流域にある「鳥越神社」に由来しています。その名の起こりは、奥州の安部貞任らの反乱(前九年の役)鎮圧のためこの地を通った源頼義,義家父子は名も知らぬ鳥が超えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名付け、このあたりを鳥越の里と呼ぶようになった、ということです。

 台東区の震災復興小学校、公園を散策中、行く先々でその存在が気になり、今回出かけてみました。

 「江戸通り」に架かっていた橋が、「須賀橋」。
1880年代のようす。(「同」)

「鳥越川」と「隅田川」との合流点。遠くにスカイツリー。朱塗りの欄干の橋が目立ちます。
水門。この辺り西側一帯が「蔵前」。

 蔵前という地名はこの地に江戸幕府の御米蔵(浅草御蔵)があったことに由来する。この蔵は幕府が天領他から集めた米を収蔵するためのもので、元和6年(1620年)に鳥越神社にあった丘を切り崩し、隅田川を埋め立てなどして造られた。その総敷地面積は36646坪(ただし『御府内備考』は27900坪とする)、東を隅田川、他の南北西の三方を堀で囲み、67棟の蔵があった。この蔵の米が旗本・御家人たちにとっての扶持米すなわち今でいう給料となり、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が敷地内や近隣に役宅を与えられ住んでいた。
 御米蔵の西側にある町は江戸時代中期以降蔵前と呼ばれるようになり、多くの米問屋や札差が店を並べ、札差は武士に代わって御米蔵から米の受け取りや運搬・売却を代行した。札差がこの地域に住むようになったのは寛文の頃にさかのぼるという。札差は預かった米から手数料を引いて米と現金を武士に渡し、現物で手元に残った分の米は小売の米屋たちに手数料を付けて売るほかに、大名や旗本・御家人に金も貸し付けて莫大な利益を得、吉原遊郭や江戸三座を借り切りにするなどして豪遊した。・・・(以上「Wikipedia」より)


 明治以降も隅田川の水運を大いに活用した物流の本拠地でしたが、関東大震災で焼失。以後は堀も埋め立てられ、倉庫が建ち並ぶようになった。その頃までは、鳥越川を通じて三味線堀と行き来も盛んだったようです。
 テラスには、なまこ壁が長く続いて当時の雰囲気を伝えるモニュメントになっています。
下流は、JR総武線の鉄橋。
なかなか見事な景観です。
対岸は、両国。同愛記念病院、旧安田庭園、・・・。
西側の道路側からの水門。
「蔵前1丁目1番」。ここから西(上流)に向かってたどります。
須賀橋への道。
道の北側(右手)榊神社境内にある「蔵前工業学園の蹟」碑。現「東京工業大学」の前身。関東大震災で焼失した後、現在の目黒区・大岡山へキャンパスを移転しました。
台東区教育委員会の説明板。
碑文(碑の裏面)。

「須賀橋」交差点。
正面が、「須賀橋交番」。中央奥が隅田川方向。
「江戸通り」の西側。まっすぐな道路(鳥越川跡)が続きます。
「加賀美久米森神社」脇の古碑。
道路が細くなり、少しカーブしています。水路跡の雰囲気。
先の交差点が、「甚内橋」。
「甚内橋遺跡」碑。
 「昭和55年3月 台東区教育委員会再建」とある。
碑文。

 甚内橋はこの四ツ角にあった橋。東へ流れる鳥越川の架橋だった。名称は橋畔に向坂(幸坂)甚内を祭る神社があったのにちなむ。(現在の神社は、少し西に行ったところにある。)

 高坂 甚内(こうさか じんない) ? - 慶長18年(1613年)8月12日)
 戦国時代から江戸時代初期にかけての忍者。苗字は向坂、勾坂(読みは同じ)、向崎(こうざき、こうさき)とも。
 武田氏に仕えた甲州流透破の頭領。武田家臣の高坂氏(香坂氏)の出で、一説には高坂昌信の子とも孫とも言われる。江戸の吉原を仕切った庄司甚内(甚右衛門)、古着市を仕切った鳶沢甚内と共に三甚内と呼ばれた。
 徳川氏は関ヶ原の戦いに勝利し、関東一円の支配に乗り出した。関東には後北条氏の残党がまだ残存勢力として残っており、治安を安定させるところまでは手が回らなかった。そのため関東の闇社会に詳しい甚内からの申し出を受け、関東の治安回復の責任者に任命した。甚内は、北条氏の滅亡後は盗賊に身を落して江戸の町を荒らし回った風魔小太郎とは対立関係にあったため、風魔一党の隠れ家を密告し、慶長8年(1603年)に風魔小太郎は捕縛処刑された。
 しかしその甚内も関東一円に散らばる盗賊を糾合し、治安を脅かしかねない巨大な存在に成長したため、ここに来て幕府は甚内と縁を切り、追討の手を向けた。その後は逃亡を続けたが、10年後の慶長18年(1613年)に捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされた。なお、瘧(マラリア)を煩っていたといわれ、死に際に「瘧さえなければ捕まることはなかったのに。瘧に苦しむ者は我に念ぜば癒してやろう」ということを言い残したという。そのため、浅草にある甚内神社では瘧に利益のある神として祀っている。
 高坂甚内の生涯については数多くの俗説がある。剣豪宮本武蔵の弟子であったが破門されたともされるが、前述の高坂昌信の子や孫という出自も含めて信憑性は薄い。また、怪談『番町皿屋敷』ではお菊の父親という設定になっている。
(以上、「Wikipedia」より)

 なお、「www.rekishijin.jp/ninjya-blog/第七回 向坂甚内・鳶沢甚内・庄司甚内/」に詳しく掲載されています。
‎ また、にも洒脱な文章で載っています。

 ついでに「瘧(おこり)」

「世界大百科事典 第2版」の解説。

おこり【瘧】
 1日とか2日おきというように周期的に悪寒戦慄と発熱を繰り返すという特徴のある病状によって紀元前から中国で知られていた病気である。夏の風邪や山間の悪気などの外邪によって起こされるとされ,湿瘧(しつぎやく)とか痎瘧(がいぎやく),瘴瘧(しようぎやく)など多くの病名が記載されている。他の病気も含まれていたであろうが,主体はマラリアと考えられる。〈おこり〉はこの病気の日本名で,江戸時代まではよく発生した記録がある。

 マラリアは、熱帯に生息するハマダラカが媒介する病。とすると、江戸時代は今よりも暑かった! しかし、今年のような暑さが続けば、ハマダラカが大量発生して、再び大流行するかもしれない。

 マラリアの媒介者であるハマダラカの多く発生する水田地帯の環境変化、稲作法の変化などによる発生数の減少や、日本の住宅構造や行動様式の変化により、夜間に活動するハマダラカの吸血頻度が低下したことなどがあげられる。しかし、これらの状況が温暖化や自然災害などにより変化した場合は再び流行を起こす可能性もある。

 と、「Wikipedia」でも警告しています。

1880年代のようす。(「同」より)甚内橋の上方に「鳥越神社」。

現在の西側のようす。

このあたりには、古い趣のある建物が目立ちます(現役なのがすばらしい)。
窓(?)のデザインが面白い。

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