おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「水の都市 江戸・東京」(陣内秀信+法政大学陣内研究室編)講談社

2013-11-30 16:29:27 | 読書無限
 このあいだ、お葬式のために大阪へ。新幹線で「新大阪」まで。そこから乗り換えて、天王寺。その車窓。いくつもの川・運河を越えていきました。さすが「水の都」大阪、という印象。
 川の名は確かではありませんが、「淀川」、「安治川」「尻無川」(道頓堀川の下流?)「木津川」・・・。天王寺そのずっと南は、大阪湾。大阪は、入り江の街だ、と安直に言ってはいけませんが、そんなイメージ。

 片や、東京。大きな川は荒川、隅田川、多摩川(この川にはあまり縁はありませんが)。他にも運河や河川はありますが、電車に乗っていても、あまり気にとめたこともなかった。考えてみれば、東京都心の鉄道網は地下に張り巡らされていて、日の目をみない電車での行き来。(東京湾最奥部となる江東区埋め立て地地域では、少しようすは違いますが。)
 さらに、これほど川を渡る、越すなどが気にならないのは、かつての運河・中小河川が埋め立てられてしまった、ということにも大きな原因があるのではないでしょうか?
 その中でも、隅田川は、近代的な景観をつくって、(かつての汚辱にまみれ、住民からまさに鼻つまみ者扱いされた川が)都市街造りとの調和を図っているようすが見られます。(まだまだ人と川とを完全と隔てる「カミソリ堤防」は残っている箇所もありますが)。
 また、東部下町地域の小名木川、北十間川などの水辺づくり。目黒区、大田区などの運河の再生、など地域住民を含め、行政の多彩な取り組み。多摩地域での野川などの「はけ」湧き水の保存、里山の保存、・・・玉川上水の再生など、工場排水や生活排水の規制、下水道施設の完備によってよみがえりつつあります。
 一方で、埋め立てや高速道路の橋脚などで失われた河川のその後のようす。かつての流路からよみがえる「水の都市」としての江戸の町並み、そして現在。・・・
 こちらの関心は、もっぱらその「失われた河川」の現在と昔。

 今回も、またこの書の内容を後追いしながら探索のたびに出かけようかと・・・。
 なお、表紙の絵の左は、安藤広重「大はしあたけの夕立」(「新大橋」)。
  
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読書「戦後責任論」(高橋哲哉)講談社学術文庫

2013-11-29 20:58:14 | 読書無限
 ますますアベ路線の危険性が鮮明になりつつある今日。その本質は、憲法改「正」による戦前と見まごうような国家主義的な国づくり。その第一弾が「特定秘密保護法」の衆院通過。秘密事項を特定するのも、60年後に公開するのも、取材を正当と見なすかどうかも、国会議員の言動にも、国民がつぶやく内容が特定の秘密に属することかどうかも、何もかもすべて、政府・官僚の手に委ねられてしまった。
 次は、領土問題に対する中国、韓国の強硬な態度を奇貨として、一部の国民に巣くう反中・反韓(反北朝鮮)感情を煽り利用しての、自衛隊と米軍との一体化実現への法的整備とその具体化。そのための様々な施策が提案、実行が強行されようとしている。・・・
 大企業の莫大な利益を、国民には還元することなく、景気回復は株高・円安幻想へと目くらまし。消費増税も当初の目的税的要素をかなぐり捨て、社会福祉などへ毛頭回すつもりもなく、国土強靱化、鉄とコンクリートへつぎ込む算段。
 それでも、国民は、これこそ決められる政治、と後押しする気配。その中で、年金生活の高齢者などの社会的弱者はますます痛めつけられ、いのちと暮らしを支えられなくなる・・・。
 そうしたアベ政権にすり寄る「みんな」「維新」。与党単独採決ではなくなり、批判もされない、その役割を見事に果たしている。そのうち、公明党をも切って捨てるのではないか(とはいっても、こうして脅かされるたびに、公明・学会は文句は言ってもけっして自民党から離れられないはずと自民から見くびられている始末!)。

 従軍慰安婦問題。靖国問題。・・・ますます強まるナショナリズム。冷戦構造が崩壊した後のアメリカの世界戦略に積極的に荷担し、その尖兵として大国「日本」を位置づけ、誇示しようとするアベ政権にいよいよ危機感を覚える、今日この頃。
 
 この書は、1999年に発刊されたものの、文庫本化。すでに15年過ぎた論述ではあるが、けっしてその問題提起には古さはなく、むしろ、現在の情勢を予感したかのように新鮮さを感じる。
 戦争責任をあいまいにし、さらには戦後の日本が戦争で大きな被害を与えた東南アジアの民衆との信頼関係の再構築ににこそ、「戦後」の日本の責任がある。このことをすっかり忘れ去って、もやは「戦後」(敗戦処理は)終わったと、反中国包囲網づくりのために、東南アジアを歴訪し経済支援を土産に、「アジアの盟主」としての「日本」を売り込むアベ。
 高橋さんの歯切れのよい論述を読めば読むほど、アベが、維新の橋下が従軍慰安婦で持論を展開することに、一歩引いて対応する姿勢は、まやかしの態度だと思う。
 一事が万事、その政治姿勢の本質を見抜くことが、今、国民一人ひとりに求められているのではか。そのうち、こういう批判的な態度、言動をなす者が「非国民」として扱われる時代がじわじわとやってきているような気配だ。おそらくその前には、在日韓国朝鮮人、あるいは中国人への不当な圧迫が加わってきそうな感すらするが。
 
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読書「ヒトラーとは何者だったのか?」(阿部良男)学研M文庫

2013-11-28 23:18:39 | 読書無限
安倍帝国ついに完成 秘密“隠蔽”法案強行でもの言えぬ国に(dot.) - goo ニュース

 ドイツ国民を巧みに扇動し、権力を掌握したヒトラー。「第三帝国」ナチズムの成立から最期まで。筆者が3000冊にも及ぶヒトラー関連書からセレクトした220冊の著書の紹介と要約からヒトラーとその時代を明らかにしていこうとしたもの。
ヒトラーは、どのようにして権力を掌握したか?
ヒトラーは、どのような世界観をもっていたか?
ヒトラーは、ユダヤ人の絶滅を当初から意図していたか?
ヒトラーの、最期はどのようであったか?
ヒトラーは、戦後、どのように裁かれたか?

 筆者は、「ヒトラー関連文献」の刊行数は驚くべき多さ(世界では12万点に及ぶ)であり、中には、一般に流布している認識とは異なる多くの論考が存在している、と。

 この書での、筆者の立場は、
 「ヒトラーの『ファシズム』は、独自の政治理念を有してドイツ国民に熱く支持された強力な政治体制であり、・・・暴力機構を保有していた政治体制とはいえ、単に恐怖と圧政だけで国民を支配したのでなかった。当時の多くのドイツ国民にとって決して否定的な政治体制ではなかったことを認識しなければ、正しい理解を得られない」と。 

 同時代的な論述(市民の日記なども含む)を多く取り上げ、実態を解明していきます。その上で、ホロコーストやファシズムの犯罪性を追究する書物にもふれ、一方で、熱狂的に受け入れ、今もなお郷愁すら覚えるというドイツ国民の戦争責任へのあり方、そして、ヒトラー・ナチズムを受け入れていったドイツ国民の国民性などにも迫っています。

 特に、ドイツ国民に対してドイツ民族の優位性をことさらあげつらい、経済発展を基にした雇用改善(失業率0)、福祉政策など巧妙に仕組まれた政治体制の中で、ユダヤ人絶滅(計画)にまで手を貸すようになっていく一般国民の政治姿勢、生活意識、戦争観など注目すべき書物が紹介されます。

 今、議席の80%以上を自公さらにみんな、維新で占める国会。次々とアベ国家戦略が実を結び、多くの国民が熱狂的とは言わないが、支持している日本。行く末を占うのに、一石を投じる書だと思います。
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略礼服、お疲れ様。眼も白黒。

2013-11-27 23:24:54 | つぶやき
 今月の14日~26日。祝い事あり、お葬式ありで。ネクタイも白黒。町田、静岡、大阪、・・・と西に東に断続的に出かけました。略礼服もヨレヨレ。
 24日は東名高速、実に7時間以上の運転。断続的な渋滞。足柄のお風呂も満員。適当に休もうと思っても、帰巣本能がまさり、ついつい運転。大阪も新幹線での往復。けっこう混んでいました。
 悲喜こもごもの13日間。移動・祝・休・祝・移動・祝・法事・法事・葬式・移動・祝・休・葬式。というような日程でした。充実といえば充実した日々ではありました。
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「Fermo Posta」(Tint Brass)(古きよき映画シリーズ。その48。)

2013-11-12 20:44:28 | Tinto Brass
 邦題「(ティントブラスの)郵便屋」。英題「P.O. Box Tinto Brass(私書箱ティントブラス)」。 1995年度作品。
 
 もうとっくに還暦を過ぎたスケベじいさん・ブラス監督なのだが、どういうわけか日本ではこの人の作品は、人気(私だけ?)。

 今回の映画の主人公(狂言回し)はティント・ブラス監督ご自身。
うしろには作品のビデオがずらりと。

 ポルノの巨匠・ブラス「大」監督のもとには、毎日、女性たちから大量のファン・レターが送られてくる。その内容には、彼女たちの赤裸々なセックス体験記が盛りだくさん。


 この映画はそんな女性たちの体験手記を、ブラス監督が映像化する、という設定のオムニバス形式。中には、ビデオを送りつける者もいれば、ひもみたいな男に連れられ、映画出演を売り込みに来るさえない女も登場する。・・・

 で、その合間にブラス監督と彼の秘書とのやりとりがおもしろい。若い秘書・ルチアのお尻や胸をブラス監督がさっと触ったり、裸を妄想したり、

 反対に、秘書が自分の股間をわざと見せびらかしたり、と・・・。
 この女優、めがねがよく似合う。


 H体験をオムニバス形式で映像化しているので、若い娘から年増までタイプも経験もさまざま。次々とそれぞれの願望や冒険やファンタジー、かなり怪しいムードのHシーン・・・。
 が、もうすでに20年も前のストーリー。今はもっとはるかに超えちゃったセックス環境。今思えばたわいないお話と言ってしまえば身も蓋もない。でも、先見の明があった、とここでは持ち上げておこう。

 明るい地中海でのできごと。軽快なバックミュージックが心地よい、そんな「第一話」から。


 こうしてPCでこっそり(?)観ているのはいいが、当時、劇場の暗がりで固唾を飲んで観ている観客を想像すると、また面白い、と言っては失礼か。
 もちろん皆が期待するのは、あの「シーン」。それを先刻ご承知の我が(今やこういう表現がふさわしい)ブラス監督。次々とはぐらかしていく。
 どのエピソードも明るい。しめったところはない。監督自身が楽しんでいるという趣向。


1.ミレーナ
2.エレナ
3.エリザベッタ
4.レナータ
5.ロッセラ
6.フランチェスカ
7.ヘバーナ
8.ルチア

 日本人の観光客も登場。円形劇場の廃墟で挑発する女性。

 サングラス越しにそれを垣間見、おもむろに肩にかけたカメラで撮影する若者。

 そこに男が登場して慌てる様。日本人をここまでカリカチュアされるとうーん! でも我が身を当てはめるやっぱりうーん!
夫が妻のバッグからこれを見つけて、妻の秘密が・・・。
 監督の、こんな趣味も。
わき毛フェチ。わざわざ黒マジックで強調。
テレホンセックス中に夫が戻ってきて・・・。
夫のギャンブルの賭けにされて出かける妻。
 女優たち。どこまでも明るく、楽しく登場する。そして、最後は、ブラス監督の象の鼻のように長くうねるあそこを大写しして、おしまい!
 当たり前ですが、本物じゃないです。笑ってしまうほどの大きさ。それが美人秘書ルチアの夢・願望の中に登場し、にょきにょきと動いて、あそこに風を送り、まさぐる。
まさに「鼻息」荒く・・・。
そして、バックに流れるのは、モーツアルトのオペラの二重奏。
 このあたりが、ただの無修正版・AVとは違う点。実は、期待するような本番のセックスシーンは添え物にすぎない。だから、この映画のジャンルは、「コメディー」。

こうして煙に巻く。
 「最高の」H体験告白シリーズ。

 最近の日本の週刊誌(文春に現代だが)。毎号のようにセックス記事。誰が読むのか、スケベ心を刺激するようなハウツーものなど、じいさんばあさんへのHばなし。女性のあそこがどうのこうのと、お盛んなようす。
 週刊誌などはもう数十年読んだことも開いたこともない。いったい今の世相はどうなっているの?

 ティント・ブラス監督。そうした日本にぴったりなのでしょうね。復古的な人気度、私の世界では、って勝手に思っているだけですが。これで、もう14作目。あと2、3本観てみよう。

※画像はすべて「XVIDEO。COM」より。
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読書「きれいごと」(大道珠貴)文藝春秋

2013-11-10 20:40:31 | 読書無限
 夏中、手に入れた築60数年の古民家の壁塗りに没頭。珪藻土を平たい板に載せ、鏝と刷毛で塗る。その作業にいそしみながら、来し方行く末を慨嘆する。結婚、というより妊娠願望で見る、今更ながらの夢と現実。40半ばの女性。
 何しろ珪藻土というのは、灰白色のどろりとした美肌クリームのごとき土。古き地肌をそれできれいに上塗りしてみようというのだから、いやでも、上塗りの下の下地が否応なしに見えてくる。拒絶も含めて、自らの生き様(まさに「イキ」ざま)を振り返るしかない。あの分野での「イッ」たことがないこともついつい愚痴になり、居直りになり、はたまたなにクソ! とうそぶいてみる。
 親戚だかなんだかのもうろくじいさんとの奇妙な、互いに干渉しない、といっても「子づくり」実行計画を目論んでいる「おばさん」・主人公との間で、はたしてどう展開していくか? 
 読者の関心をよそに、自らの世界に没入していく、まさに女性「自身」の生き方。小気味いいのか、やけなのか・・・、読者も自分(作者)をも迷夢に巻き込みながらのおもしろさ。これこそが、大道さんの真骨頂ですね。
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「Paprika」(Tinto Brass)(古きよき映画シリーズ。その47。)

2013-11-09 20:13:45 | Tinto Brass
 パプリカ(ハンガリー語:Paprika、学名:Capsicum annuum 'grossum')はナス科の多年草であるトウガラシ属トウガラシの一栽培品種。またその果実および果実から作られる香辛料のこと。肉厚で辛みが無く甘い品種。日本で流通する果実の多くは赤色や黄色、橙色であるが、紫色、茶色などの品種もある。また着色料(パプリカ色素)としても使われる。(「Wikipedia」より)

1991年製作。
 原作はかの有名な、ジョン・クリーランドの古典的官能小説「ファニー・ヒル」。
(「Amazon.co.jp」より)

売春禁止法が施行される前の、1950年代のイタリアが舞台。

A young country girl comes to town and works in a brothel in order to help her fiance get the money to start his own business. "Paprika" is the name given to her by the madam.

 まだあどけなさを残す少女ミンマ(デボラ・カプリオリオ)は、恋人ニーノのために生活資金を稼ぐ目的で、マダム・コレットが経営する売春宿・娼館の扉を叩く。

 「パプリカ」という名をつけられるミンマは、その豊満な肉体で、たちまちナンバー・ワンの売れっ子となる。楽天的で明るい性格の彼女は周囲から愛され、マダム・コレットや人情味のある娼婦たちからプロとしての心得や生き方を教わっていく。

 最初の客であるフランコの優しさに惹かれはじめたパプリカ。

だが、やはりニーノと結婚したい。そのニーノには他に女がいた。傷ついた彼女を慰めるフランコ。
 その晩、彼の自宅へと招かれたパプリカは、セックスの最中に“結婚しよう”と呟く彼の言葉を聞いて、私に会いたければ、店に来なさい、と言い放つ。

 売春婦を辞めて新たな職に就こうと、パプリカはローマへと向かう。その汽車の中で、彼女は同僚の娼婦のひもだったロッコと再会。レイプ同然で犯されるが、その男らしさに負けてしまう。

 彼女を再び売春婦にしようと目論むロッコから、パプリカはマダム・オリンピア(ルチア―ナ・チレネイ)の高級娼館を紹介される。
 マダム・オリンピアは大柄の女性で、働きやすい場所だった。そんなある日、彼女の伯父が客としてやってくる。口止め料としてたびたび小遣いをせびるようになる伯父。

 ある日、大貴族ブランドン王子からご指名がかかり、同僚ベバと一緒にお城へと向かったパプリカ。

彼らのゆがんだ実像を目の当たりにした2人。
 ところが、ベバが急死してしまう。

 パプリカは、このまま娼婦を続けていいものか迷う。さらに、妊娠してしまい、中絶までも。そんな折、船乗りとしているフランコから絵葉書が届いた。パプリカは娼婦から足を洗うことを決める。
 仕事を辞めてフランスのマルセイユで休暇を楽しんでいたパプリカは、フランコと再会する。愛を交わす2人。

 パプリカはフランコのために船を買ってあげて、結局、一文無しになってしまう。
 パプリカはイタリアへ戻り、場末の売春宿で働くことになる。周りには、夢も希望も失った中年の娼婦ばかり。

 彼女はミラノへと向かい、マダム・アンジェリーナの経営する高級娼館スペッキへ。そこで彼女は初老のバスチアーノ伯爵と出会う。
 女として、人間として辛酸をなめたパプリカ。再びマダム・コレットの店の娼婦達の中で、吹っ切れたように笑顔を振りまく。

船員フランコの乗る船に笑顔で手を振るパプリカ。・・・


 バックが、ブラスバンドの音色。また、しばしば用いられる曲(「ciribiribin」など耳にしたことのある楽曲)が軽いタッチで流れる。

 吹っ切れたパプリカを支えるような軽やかな旋律。いつものように、大小の鏡や幾何学模様などセンスのうかがわれる装置はなかなか。
 吉原などの花魁物、あるいは戦後の赤線地帯の娼婦達の姿を描いた日本映画。どちらも、淀んだ空気の中で、それをかえって糧としてたくましく生きる娼婦達の姿、それにかかわる、一癖も二癖もあるいろんな男達のようす、・・・。
 悲しみ、苦しみ、楽しみ、喜び、裏切り、闘い、葛藤、・・・時に、世に翻弄されつつ、生きていく女性像の描き方にはさほど変わりはない。
 一方で、ティントブラスの作品には、じめじめしたところがなく、おおらかな明るさが漂っている(もちろん、娼婦達の厳しい現実の姿から目を背けているわけではないが)。

 主役の新人女優デボラ・カプリオリオの演技力(田舎娘から曲折を経てマダム的存在になっていく成長ぶり)が抜きんでている作品。

 ティントブラスの多くの作品の中でも、ストーリーもすっきりとしてわかりやすく(小説「ファニー・ヒル」をほぼなぞらえている)、めりはりのある文芸作品となっている。さすが、ティントブラス監督であった。
 その監督は、中絶のときの風采の上がらない医師として登場。


注:画像は、「XVIDEO.com」より。
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虚偽、虚飾、偽装、粉飾、疑惑、不当、手抜き、そうして「表示」に踊らされる消費者。

2013-11-08 00:14:44 | 世間世界
楽天セール、割引の不当表示1千点 関与の店舗一時閉鎖(朝日新聞) - goo ニュース

 セールでは当たり前、つきものの不当表示。元値を高く付け替えて、安く見せるのは、スーパーなどでは当然(だと思う)。消費者はそれを承知の上で、「記号」の世界に遊ぶ。・・・

 「朝日」の最近のキャンペーン。デパート、ホテル、レストランからクール宅急便、そして優勝セールまで。虚偽・不当は絶対に許さぬ、ということに関してはまさに独走態勢。

 高い、安い、高級、良品、安全、・・・、こうした言葉(の世界)に乗って、騒ぎ、うかれ、はしゃぎ、その実、だまされ、・・・反対に、ぺろりと舌を出している世間の風潮を鋭く追究は、なかなかのものです。
 今どきの世間と同じく、むしろそれ以上に欺瞞と二枚舌に明け暮れる政治の世界。この勢いで糾弾、究明を!
 
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おかず横丁。三味線堀。佐竹商店街。鳥越川跡をたどる。その2。

2013-11-07 20:34:32 | 河川痕跡


※ ○が「三味線堀」のあったところ。そこから斜め左上赤い線の通りが「佐竹商店街」。右の青い線が「鳥越川」跡。

「蔵前橋通り」から一本南の道。問屋や商店が多いが、車も人の通りも少なく、静かなたたずまい。
道路沿いには古い町家が並ぶ。切り妻作りの屋根。
人が通れそうもない家と家との狭く長い路地。そこにネコが。
道が突き当たってマンションに。本来の流路はここで右(北)に折れたのか。「清洲橋通り」から東を望む。正面の奥が突き当たりのマンション。
1880年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)地図上で直角に曲がる辺り。上方が、「三味線堀」。川の左が現在の「清洲橋通り」と思われる。

 このあたりから道筋が不明に。迷い込んだのが「おかず横丁」。


(「おかず横丁」公式HPより。)

 『おかず横丁』は延長230メートル、そのほとんどが日用食料品を取り扱う最寄品店の連なりからなる商店街です。明治末期から大正年間にかけては転々と散在していた店舗が、震災後の市区改正を機に大きく発展してきました。
 そんな横丁は戦後まで東西に分かれ、名もそれぞれ「鳥盛会」「商正会」と言いましたが、経済が安定した昭和24年11月10日、東西を一本化して現在の商盛会となりました。商店数六十余軒あり、昼夜を問わず人を集め賑わう商店街の誕生です。

 時間が中途半端だったせいか人通りも少なかったが、お総菜屋さんを中心にアットホームなお店が並んで、古色蒼然とした銅板葺きの民家や色を塗った看板建築もあり、「昔懐かし」商店街、といった雰囲気。


「三味線堀跡」案内板。「清洲橋通り」を少し北に向かったところ。

「三味線堀跡」 台東区小島1-5。
 現在の清洲橋通りに面して、小島1丁目の西端に南北に広がっていた。寛永7年(1630)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀とよばれた。一説に、浅草猿屋町(現在の浅草橋3丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。
 不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。
 なお天明3年(1783)には堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に3階建ての高殿が建設された。大田南畝(おおたなんぼ)が、これにちなんだ狂歌をのこしている。
 三階に 三味線堀を 三下り 二上り見れど あきたらぬ景
 江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していた。しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上交通の発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである。
 平成15年(2003)3月  台東区教育委員会

1880年代のようす。(「同」より)三味線のかたちをしているような・・・。


1880年代のようす。                       

                      2010年代のようす。アーケードが「佐竹商店街」                     


現在は、高層の集合住宅が建っています。一階の商店などは閉まっていました。

「佐竹商店街」南口。「清洲橋通り」側。長い、長いアーケードが特徴。
「佐竹家上屋敷、佐竹っ原跡」案内板。

 江戸時代、この付近一帯は出羽国久保田(秋田藩)の上屋敷があった地である。藩主は佐竹氏で、20万石余を領有した東北地方屈指の外様大名であった。佐竹家上屋敷の当地開設は『武鑑』からみて、元禄2年(1689)もしくは翌3年と考えられる。屋敷地は広大で、現在の台東3、4丁目東半分にわたっていた。
 佐竹家8代藩主佐竹義敦(号曙山)は、日本初の本格的な西洋医学書の翻訳書『解体新書』(安永3年[1774]刊)付図を描いた藩士小田野直武らとともに洋風画の一派「秋田蘭画」の基礎を築いた。また天明年間(1781―89)の狂歌師手柄岡持も藩士であり、当時の文化人がここを中心に活躍していたことがうかがわれる。
 明治になって佐竹家上屋敷や近隣の武家屋敷が撤去され、当地は野原となり、俗に佐竹っ原と呼ばれた。ここは見世物小屋が集中して賑わったが、明治時代半ばから民家が建ち並び、商店街として発展した。現在、「佐竹」の名は、「佐竹商店街」として「継承されている。
 平成8年3月  台東区教育委員会

かなり続くアーケード。賑やかな人通り。


 「佐竹商店街」は、一度訪問しましたが、そのときの記事を再掲。(長いですが)

 秋田佐竹藩城主、佐竹右京太夫 藤堂和泉守の江戸屋敷には、上屋敷中屋敷・下屋敷のほか、お囲地などがありました。このうち、上屋敷は当初内神田佐竹殿前(現千代田区神田)にあったそうで、そこには鎌倉の佐竹屋敷から移築された金彫絢爛たる「日暮らしの門」があったといいます。しかし天和二年(1682年)十二月二十八日の八百屋お七の放火による江戸の大火で焼失してしまいました。こんなこともあってか、翌天和三年(1683年)には現在の台東区の地に移転したのであります。
 移転後の屋敷内には「日知館」という江戸藩校も設けられており、山本北山、大窪詩仏など、有名な師を招いて子弟の教育にあたらせたといいます。幕末期の安政二年(1855年)には、ここに居住する人員百三十六名に及んだと記録されております。
 各藩にとってその江戸屋敷は重要な政治的、文化的拠点であり、自国の一部がそこに存在していたのも同然。佐竹藩も、広大な敷地に、当時としてはまったく希有な三階建ての豪壮華麗な建物を設け、他に誇ったのでありましょう。
屋敷の西側には大番与力同心の組屋敷があり、そこにあった総門を竹門と呼んでいたそうで、ここから「竹町」の名前が生まれたといわれております。
明治41年頃の三味線堀  ※左手が佐竹商店街
 明治維新の後、廃藩置県が実施され佐竹藩そのものが消失します。当然その上屋敷も任務を失いました。明治二年(1869年)には、火災により建物はすべて焼失してしまい、屋敷内は荒れるにまかされ、草ぼうぼうと生い茂り佐竹っ原といわれるに至ります。明治五年(1872年)には国に上納されて大蔵省の所管となり、一時は陸軍省用地として使用されていたこともあるようです。そのころは戸数六十八戸、住民数は二百六十八名。周辺に比べ最も閑静な場所でありました。
 しかしながら明治十七年(1884年)頃から民間に貸し下げられ、次々と民家が建ち並び、店舗が軒を連ねるようになり、竹町の街、佐竹の商店街の萌芽が形成されたのです。年を経るごとに盛り場・娯楽街として充実発展してゆきます。かっぽれ、吹き矢、デロレンなど、葦簀張りの小屋掛けが出来、借り馬・打球場・大弓などの大道商売も始まり、それにつれて飲食店、粟餅の曲搗き、しるこ屋、煮込み・おでん、大福餅売りなどが縁日の露店のような形で店を出し、寄席・見せ物小屋が並ぶようになります。さらに祭文定席、玉ころがし、射的、大弓場などもでき、義太夫、講談、落語、祭文かたりが聞け、ゆで小豆を売る店などが並びます。
 そして日暮れ時ともなれば、浅草向柳原に住む露店商などが街路にところ狭しと出店を張り、また一歩路地にはいれば紅灯の下で客引く声も艶かしく、亀屋・竹内などの料亭を始め、第二富士館という活動写真館もできて一段と賑やかさを増し、一大歓楽境となってゆきました。近郷近在は無論のこと、遠方からも人々が集まり、夜の更けるのも忘れてしまうほど殷賑を極めました。
 大正初期には戸数三千八百十三個、人口一万二千三十四名にまで膨張、下町佐竹の名は東京中に響きわたり、明治から大正時代にかけての黄金時代を築き上げていったのです。
 大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災は、佐竹全域ことごとく灰燼に帰し、一面の焼け野が原と化してしまいました。しかし罹災直後から全店主が一丸となって復興にあたり、街を取り巻いていた堀(藩邸時代の名残り)も埋め立てられ、区画整理・道路拡張なども進み、以前にも増して近代的な商店街として再生し、芝日陰町、京橋八丁堀と共に下町三大商店街の一つに数えられるほどの賑わいを取り戻すことができました。
 現在、町内に鎮座まします秋葉神社は、火伏せの神・火貝土之尊をご祭神といたしますが、もと秋葉ヶ原(現JR秋葉原駅付近)にあったものを明治二十二年(1889年)下谷佐竹屋敷跡地に移した説と、明治十九年(1886年)6月の朝野新聞に佐竹ヶ原の秋葉教会所の縁日が賑わったとの記載があり、詳細は不明でした。
 ※平成25年2月研究者の方よりの情報により 明治18年1月20日の読売新聞に次の記事があり「秋葉の遷座 今日ハ深川御船蔵前町の秋葉中央寺に安置の秋葉神社を今度下谷竹町の佐竹の原へ遷座し安置式を執行する其道筋ハ御船蔵前より万年橋を渡り河岸通り永代橋を渡り小網町通り堀留大門通り大丸にて小休み夫よら弁慶橋通り柳原へ出て右へ美倉橋を渡り三味線堀より竹町の教会所へ着の手筈なりといふ」この記事から佐竹秋葉神社の創建が解りました。
 昭和五年(1930年)、現在地に社殿を造営したもので、毎年十一月十五日に大祭を、また毎月二十四日をご縁日として戦前までは参道に露店がぎっしりと並び参詣の人々は引きも切らず、誠に賑やかなものでありました。商店街も二十四日を特売日としてサービスをしており、戦後も四の日特売は昭和四十年代まで続きました。
 昭和十一年(1936年)東京市の調査では店舗は全部で百十六店でした。(約半数の六十三店が衣料関係品店、食料品店十四店、その他の店三十九店)。
 昭和十六年(1941年)太平洋戦争の開戦と共に世の中は軍事一色に塗りつぶされ、「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などの標語のもと消費生活は徐々に狭められ、物資は軍事優先に使われて行き、主な生活必需品は配給制度となり、企業整備の名のもとに、小売業は不要とされ閉店を促し、事業主・従業員は軍需工場に徴用され、慣れぬ工場労働にかり出されました。当然商店街は火の消えたようなありさまで、まさに暗黒の時代に突入していったのです。
 昭和十九年(1944年)十二月三十一日の夜と、翌二十年(1945年)二月二十五日の雪の降る昼下がりの二度にわたって空襲を受け、商店街の半分近くが焼失してしまいました。売るに物なく、買うに人なきありさまでしたが、終戦となるや直ちに復興に着手し、翌昭和二十一年(1946年)には早くも佐竹商店街組合を結成し、個々の店の努力と協同の力で不死鳥のごとく瞬く間に往事の賑やかさを取り戻しました。
 昭和二十八年(1953年)に竹町公園で行われた商店街主催の盆踊り大会は盛大に行われ、特設舞台での演芸には初代の林家三平師匠も出演しました。その頃、商店街には店員さんも多く、商店街内で野球チームが3,4組出来ていました。昭和三十五年(1960年)には協同組合を結成、さらに三十八年(1963年)には振興組合に改組しました。
 昭和三十九年(1964年)新住居表示採用にともない、町名としての「竹町」は消え、台東と変わりましたが、佐竹の名は町会名及び商店街として絶える事なく後世に伝えられてゆく事と信じます。また、昭和四十四年(1969年)には商店街全店が悲願とした全蓋アーケードがついに完成、同五十二年(1977年)にはカラー舗装を施工し、ここに名実共に都内屈指の商店街として完成したのです。
 また、当時の特売セール(ゲバゲバモーレツセール)の夜七時から行われたタイムサービスは買い物客であふれ、近所のお風呂屋さんの女湯が空になったと言われました。
 昭和五十一年(1976年)夏に「秋田まつり」のタイトルで夏祭りを実施し企画部員が竿灯を製作して、竿灯の演技も披露しました。数年後の「秋田まつり」では、秋田市のご協力で本場の実物の竿灯を寄贈いただき、秋田市の職員による竿灯演技も行われました。
 昭和五十二年(1977年)五月にテレビ朝日の人気番組「電線音頭」の録画撮りが行われ、雨天の中、商店街は収録風景を見ようとする子供達であふれ、多くの人波の為、お店によってはシャッターを閉める程でありました。出演者は竹町生まれの伊東四朗さん他でした。
 平成十一年(1999年)三月二十八日、午後七時より日本テレビの「商店街ドミノ倒し」全国生中継がおこなわれアーケード内、百五十メートルを平成小PTA、ボーイスカウトなどの協力を受け、ドミノ(VTRテープ)をならべ、テレビ局でも生放送でやったことがない一大イベントの生中継を成功させる事が出来ました。最近では商店街が映画(デスノート、クロサギ、二十世紀少年)、テレビドラマ(税務調査官・窓際太郎の事件簿、時効警察、婚カツ!、コールセンターの恋人、産婦人科ギネ)、CM(チオビタドリンク、オロナミンC、風邪薬カコナール、NEWクレラップ)等の撮影に数多く利用されています。
 昭和五十七年(1982年)九月二十七日、旧佐竹藩主の後裔佐竹義栄氏を始め、秋田姓氏家系研究会(会長杉沢文治氏)会員の諸氏が佐竹氏江戸邸史跡等探訪のため当地を訪問されました。これが機縁となって親善交流を深め、秋田市長の来街、相互訪問等を重ねております。平成二年秋には親善交流十周年を記念事業を実施し、佐竹商店街のお客様に秋田を訪問していただく企画も催しました。
 佐竹のみならず、昨今商店街をめぐる商業環境は予断を許さぬものがあります。しかし先人多くが幾度とない危機を乗り越え、発展を続けた努力を見習い、お客様に愛され、お役に立てる街としてさらに精進を重ねてゆきたいと思っております。
どうぞご叱声を心からお願い申し上げます。(長い引用でしたが「佐竹商店街」HPより)
 実に歴史ある商店街だったのですね。

 佐竹家秘伝の薬がこれ。
「龍角散」。知らなかった!
なるほど!

 機会があれば、「忍川」と「新堀川」跡をたどってみましょう。


 

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須賀橋。甚内橋。瘧。鳥越川跡をたどる。その1。

2013-11-06 23:33:04 | 河川痕跡

 「忍川」は不忍池東南部で池から流出する水を集め、上野広小路を横切って、上野三橋町と広小路の間の横町、御徒町から「昭和通り」を横切って東に流れていきました。
1880年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
 その先で、二つに分かれ、一つは東に向かい、浅草七軒町付近で南折して(「新堀川」)、「鳥越川」と合流し、もう一つは現「春日通り」沿いに東流、竹町付近で南に折れて、「三味線堀」に流れ込みます。
 「鳥越川」は、「三味線堀」の水が流れ出る地点からはじまり、「清洲橋通り」の東側を南流して、「蔵前橋通り」と交差する辺りで東に折れ、鳥越一丁目、向柳原二丁目、浅草橋三丁目の間を流れ、蔵前一丁目辺りで南下してきた「新堀川」を合わせ、「江戸通り」を横切って、隅田川に流れ込んでいました。

 「鳥越川」は、流域にある「鳥越神社」に由来しています。その名の起こりは、奥州の安部貞任らの反乱(前九年の役)鎮圧のためこの地を通った源頼義,義家父子は名も知らぬ鳥が超えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名付け、このあたりを鳥越の里と呼ぶようになった、ということです。

 台東区の震災復興小学校、公園を散策中、行く先々でその存在が気になり、今回出かけてみました。

 「江戸通り」に架かっていた橋が、「須賀橋」。
1880年代のようす。(「同」)

「鳥越川」と「隅田川」との合流点。遠くにスカイツリー。朱塗りの欄干の橋が目立ちます。
水門。この辺り西側一帯が「蔵前」。

 蔵前という地名はこの地に江戸幕府の御米蔵(浅草御蔵)があったことに由来する。この蔵は幕府が天領他から集めた米を収蔵するためのもので、元和6年(1620年)に鳥越神社にあった丘を切り崩し、隅田川を埋め立てなどして造られた。その総敷地面積は36646坪(ただし『御府内備考』は27900坪とする)、東を隅田川、他の南北西の三方を堀で囲み、67棟の蔵があった。この蔵の米が旗本・御家人たちにとっての扶持米すなわち今でいう給料となり、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が敷地内や近隣に役宅を与えられ住んでいた。
 御米蔵の西側にある町は江戸時代中期以降蔵前と呼ばれるようになり、多くの米問屋や札差が店を並べ、札差は武士に代わって御米蔵から米の受け取りや運搬・売却を代行した。札差がこの地域に住むようになったのは寛文の頃にさかのぼるという。札差は預かった米から手数料を引いて米と現金を武士に渡し、現物で手元に残った分の米は小売の米屋たちに手数料を付けて売るほかに、大名や旗本・御家人に金も貸し付けて莫大な利益を得、吉原遊郭や江戸三座を借り切りにするなどして豪遊した。・・・(以上「Wikipedia」より)


 明治以降も隅田川の水運を大いに活用した物流の本拠地でしたが、関東大震災で焼失。以後は堀も埋め立てられ、倉庫が建ち並ぶようになった。その頃までは、鳥越川を通じて三味線堀と行き来も盛んだったようです。
 テラスには、なまこ壁が長く続いて当時の雰囲気を伝えるモニュメントになっています。
下流は、JR総武線の鉄橋。
なかなか見事な景観です。
対岸は、両国。同愛記念病院、旧安田庭園、・・・。
西側の道路側からの水門。
「蔵前1丁目1番」。ここから西(上流)に向かってたどります。
須賀橋への道。
道の北側(右手)榊神社境内にある「蔵前工業学園の蹟」碑。現「東京工業大学」の前身。関東大震災で焼失した後、現在の目黒区・大岡山へキャンパスを移転しました。
台東区教育委員会の説明板。
碑文(碑の裏面)。

「須賀橋」交差点。
正面が、「須賀橋交番」。中央奥が隅田川方向。
「江戸通り」の西側。まっすぐな道路(鳥越川跡)が続きます。
「加賀美久米森神社」脇の古碑。
道路が細くなり、少しカーブしています。水路跡の雰囲気。
先の交差点が、「甚内橋」。
「甚内橋遺跡」碑。
 「昭和55年3月 台東区教育委員会再建」とある。
碑文。

 甚内橋はこの四ツ角にあった橋。東へ流れる鳥越川の架橋だった。名称は橋畔に向坂(幸坂)甚内を祭る神社があったのにちなむ。(現在の神社は、少し西に行ったところにある。)

 高坂 甚内(こうさか じんない) ? - 慶長18年(1613年)8月12日)
 戦国時代から江戸時代初期にかけての忍者。苗字は向坂、勾坂(読みは同じ)、向崎(こうざき、こうさき)とも。
 武田氏に仕えた甲州流透破の頭領。武田家臣の高坂氏(香坂氏)の出で、一説には高坂昌信の子とも孫とも言われる。江戸の吉原を仕切った庄司甚内(甚右衛門)、古着市を仕切った鳶沢甚内と共に三甚内と呼ばれた。
 徳川氏は関ヶ原の戦いに勝利し、関東一円の支配に乗り出した。関東には後北条氏の残党がまだ残存勢力として残っており、治安を安定させるところまでは手が回らなかった。そのため関東の闇社会に詳しい甚内からの申し出を受け、関東の治安回復の責任者に任命した。甚内は、北条氏の滅亡後は盗賊に身を落して江戸の町を荒らし回った風魔小太郎とは対立関係にあったため、風魔一党の隠れ家を密告し、慶長8年(1603年)に風魔小太郎は捕縛処刑された。
 しかしその甚内も関東一円に散らばる盗賊を糾合し、治安を脅かしかねない巨大な存在に成長したため、ここに来て幕府は甚内と縁を切り、追討の手を向けた。その後は逃亡を続けたが、10年後の慶長18年(1613年)に捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされた。なお、瘧(マラリア)を煩っていたといわれ、死に際に「瘧さえなければ捕まることはなかったのに。瘧に苦しむ者は我に念ぜば癒してやろう」ということを言い残したという。そのため、浅草にある甚内神社では瘧に利益のある神として祀っている。
 高坂甚内の生涯については数多くの俗説がある。剣豪宮本武蔵の弟子であったが破門されたともされるが、前述の高坂昌信の子や孫という出自も含めて信憑性は薄い。また、怪談『番町皿屋敷』ではお菊の父親という設定になっている。
(以上、「Wikipedia」より)

 なお、「www.rekishijin.jp/ninjya-blog/第七回 向坂甚内・鳶沢甚内・庄司甚内/」に詳しく掲載されています。
‎ また、にも洒脱な文章で載っています。

 ついでに「瘧(おこり)」

「世界大百科事典 第2版」の解説。

おこり【瘧】
 1日とか2日おきというように周期的に悪寒戦慄と発熱を繰り返すという特徴のある病状によって紀元前から中国で知られていた病気である。夏の風邪や山間の悪気などの外邪によって起こされるとされ,湿瘧(しつぎやく)とか痎瘧(がいぎやく),瘴瘧(しようぎやく)など多くの病名が記載されている。他の病気も含まれていたであろうが,主体はマラリアと考えられる。〈おこり〉はこの病気の日本名で,江戸時代まではよく発生した記録がある。

 マラリアは、熱帯に生息するハマダラカが媒介する病。とすると、江戸時代は今よりも暑かった! しかし、今年のような暑さが続けば、ハマダラカが大量発生して、再び大流行するかもしれない。

 マラリアの媒介者であるハマダラカの多く発生する水田地帯の環境変化、稲作法の変化などによる発生数の減少や、日本の住宅構造や行動様式の変化により、夜間に活動するハマダラカの吸血頻度が低下したことなどがあげられる。しかし、これらの状況が温暖化や自然災害などにより変化した場合は再び流行を起こす可能性もある。

 と、「Wikipedia」でも警告しています。

1880年代のようす。(「同」より)甚内橋の上方に「鳥越神社」。

現在の西側のようす。

このあたりには、古い趣のある建物が目立ちます(現役なのがすばらしい)。
窓(?)のデザインが面白い。

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「Trasgredire」(Tinto Brass)(古きよき映画シリーズ。その46。)

2013-11-04 17:42:25 | Tinto Brass


原題「Trasgredire」(イタリア語)
意味
1〈制限・範囲を〉超える,逸脱する。
2〈法律・規則などを〉破る,犯す,違反する,そむく。(道徳的に)罪を犯す。
(「en.wikipedia.org/wiki/Trasgredire」より)

英題「Cheeky」
意味
〈人・言動が〉生意気な,ずうずうしい。

邦題「背徳令嬢」
 ちなみに邦題「背徳令嬢Ⅱ」は、原題「MONELLA」。冒頭の自転車のシーンが抜群。


(「YouTube」より)
 こちらの方がまさにあっけらかんとした明るさ。二作とも「令嬢」という括りはおもしろいが。

Directed by Tinto Brass
Produced by Massimo Ferrero
Written by Tinto Brass,Carla Cipriani,Nicolaj Pennestri,Silvia Rossi,Massimiliano Zanin
Starring
Yuliya Mayarchuk(ユリヤ・マヤーチェク)
Jarno Berardi(ジャルノ・ベラルディ)
Francesca Nunzi(フランチェスカ・ヌンツィ)
Max Parodi
Mauro Lorenz
Music by Pino Donaggio
Cinematography Massimo Di Venanzo
Distributed by Cult Epics
Release date(s) Italy January 28, 2000
Running time 89 mn
Language Italian

Trasgredire (Transgressing or Cheeky) is a 2000 sex comedy directed by Tinto Brass, with Yuliya Mayarchuk in the lead role. Certain parallelisms are drawn between Nerosubianco (1969), another Tinto Brass film set in London.

《Plot》

In London, the beautiful Venetian Carla Burin (Yuliya Mayarchuk) is an intern at the front desk of an hotel. She is looking for an apartment to allow her boyfriend Matteo (Jarno Berardi) to join her there. The real estate agent, Moira (Francesca Nunzi), a lesbian, rents her a loft with a view of the Thames, with "intimate conditions."

When the hot-tempered, jealous Matteo finds a nude picture of Carla and letters from her former French lover Bernard (Mauro Lorenz), Carla and Matteo have a row on the telephone.

Angry at Mateo, Carla sleeps with Moira. Matteo, desperate, comes to London, where he finds Moira naked in Carla's apartment. He confronts Carla about all her past infidelities and refuses her invitation to perform fellatio on him before leaving.

After a walk in the park, where he sees lots of sexual activity, he changes his mind. Carla shows up with a written account of her infidelities, but Matteo declares he no longer needs to know.

(from「en.wikipedia.org/wiki/Trasgredire」)‎

注:画像は、「X-VIDEOS.com」より。

 ここまでくると、ポルノそのもの。
 何しろ、かの有名なロンドンの王立公園ハイド・パーク (Hyde Park)がどこもかしこもエロティックな公園だったとは!
ハイド・パーク全景(「Wikipedia」より)
(ま、何十年も前の「日比谷公園」や「皇居前広場」もそうだったが。)

 ノーパン、ノーブラ(トップレス)で闊歩する女性達。うさんくさい紳士淑女の皆さん、・・・。
 不動産屋の女性にいきなり胸を触られ、そのまま、・・・。
 社交場も何が何だかわけがわかない乱交パーティ。お釜は掘られるは、泣いてしまうは・・・。
 恋人の男も怒ってやってくるが、口のうまい女性にころりと降参、・・・。
 で、めでたしめでたし!

 何のためにロンドンくんだりまでやってきたのか?
 かの英国で、皆、早口のイタリア語で騒ぎまくる挙げ句の果ては・・・。
 Tinto Brassさん、ここまで徹底した「お尻フェチ」だと言うことなし。


 かつて、日本のエリート公務員が「ノーパンしゃぶしゃぶ」で騒ぎ回ったという出来事がありましたが、この映画、10年以上前の作品、どうやら時代が重なっていないか?

注:「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」
 ノーパンしゃぶしゃぶは、ノーパンの女性店員が接客するしゃぶしゃぶ料理店。実体はエンターテインメント・レストラン、もしくは風俗店である。
 東京・新宿のノーパンしゃぶしゃぶ店が大蔵省接待汚職事件で大蔵官僚(当時)接待の舞台のひとつとなっていたことが報じられたことから1998年(平成10年)頃に話題となった。
 多くの店では床を鏡張りにして、覗きやすいようにしていたともいい、高いところにアルコール類を置くことで、女性店員がそれらを取ろうとして立ち上がることで、覗きやすくしていたともいう。また女性店員の上半身もスケスケの衣装やトップレスにしているケースが多いという。起源はノーパン喫茶にあると見られ、他にもノーパン焼肉などがある。
 1998年(平成10年)に発覚した大蔵省接待汚職事件では銀行のMOF担とよばれる行員が旧大蔵官僚の接待に東京・歌舞伎町のノーパンしゃぶしゃぶ店「ローラン(楼蘭)」を使っていたことがマスメディアに暴露され、話題となった(事件発覚後、その官僚の一人が不可解な自殺)。なぜ通常の風俗店でなく、こういう店を利用したかは、飲食費として領収書が落とせるというのが理由としてあげられる。
 現国会議員の岸本周平は、初当選前の2008年に、公務員時代に自費ならまだしも、接待で複数回利用して、大問題となり、後にブログで反省していると述べている。(以上、「Wikipedia」より)

 
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昔からのお店が次々と廃業。

2013-11-03 00:18:46 | 世間世界
豆腐店、続々廃業「365日働いても利益ない」(読売新聞) - goo ニュース
 昨日の朝方出かけたとき、近所の豆腐屋さん、といっても今年に入って、廃業したお店の前で、おばさんとばったり出会って、挨拶を。

 老夫婦で朝早くから豆腐づくりに精を出していた。近所のスーパーで売っているのよりも高かったが、実においしい豆腐。買い物がてら世間話にも花が咲いた。二人とも腰が曲がって歩くのもよたよたしながら、それでも頑張っていたが、ご主人の病気と自分の体調でついに廃業。店先で会うこともなくなった。
 久々に出会って、びっくり。腰つきがしゃんとし、少しスリムにはなったが、元気なようす。ご主人の体調もよくなったとか。寒さに凍える真冬も、蒸し蒸しするくそ暑い夏も、かがみ込んでの豆腐造り。さぞかし大変だったろう。別の仕事についた息子や嫁に後は任せて、やっと悠々自適? それにしても・・・。
 斜め向かいの八百屋さんも廃業してお店を改造。

 駅前近くの本屋さん。ここも老夫婦で、病院や美容院、役所・・・それぞれ注文された本を神田に仕入れに行き、それを今度、夫婦で手分けして、車や自転車で配達する、そんなお店がついに廃業。これで、近所の本屋さんの廃業が3軒目。ついに我が町には、駅ビルに入っている大手のチェーン店のお店しかなくなった。隣の駅の周囲にも1軒もなくなった、という。配達してくれるお店がなくなって困っている人もいるらしい。ここの夫婦、土地・建物を売って、引っ越していった。

 そういえば、その隣のお茶屋さんが廃業してもう10年以上、シャッターがしまったまま。一軒おいた隣のおでん種をいろいろ作って売っていたお店もとうの昔に廃業。閉まったまま。おもちゃ屋さんもなくなって、空き地になったまま。
 斜め向かいの大きな酒屋さんも早々と「コンビニ」に模様替え。

 駅の向こうの、これまで半世紀にわたって通っていた床屋さんも年を取り、体調を崩して、ついに廃業。すっかり取り払って何もない室内になっていた。・・・

 こうして、家から駅に行くまでの商店(街)・町並みもずいぶんと昔と違ってきた。かつての小売店が、飲み屋とラーメン屋と薬局(どういうわけか)に、次々とお店を構えるご時世になった。

 都内のにぎやかな私鉄駅周辺でもこんなようす。今度は、駅から少し行ったところの大きな空き地にイトーヨーカ堂が大型店舗をつくる計画だとか・・・。時代の進む中で、こうして忘れ去られていく商店・業種。いつしか痕跡すらなくなっていくのだろう。 
 
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精華公園。田原公園。(震災復興52小公園。その13。)

2013-11-02 17:39:34 | 震災復興小公園
※「精華公園内ビオトーブ」に設置された、ペットボトルを再生利用してつくられたベンチ。 

 復興小学校に併設されていた「復興公園」の現状をもう少し。

《精華公園》
 

道路をはさんだ北側に「蔵前小学校」校舎。

 平成15年4月、精華小学校、小島小学校、済美小学校の統合により、「精華小学校」の跡地に「台東区立蔵前小学校」として開校。「蔵前小」のHPには、統合、発足後の歴史のみが載せられています。
 
「精華小」。その前身「戸田小学校」時代には、少年時代の夏目漱石が、わずかの期間ですが、養父塩原昌之助宅から通った小学校でもあったとのこと。
 「戸田小学校」。精華小学校の前身で、当時寿町にあり、明治7年創立の第八番小学校。その後明治21年に北富坂町に移転。翌22年精華小学校と改称。

 1874(明治7)年創立の学校ですから、そのまま存続していれば、創立140周年にもなろうかという、台東区内でもかなり古い小学校ということになります。三校の統合により、まるっきり別の学校、地名のままの「蔵前小学校」となりました。ちょっぴり残念な気がします。「精華小」卒業生は忸怩たる思いがあるのでは。もちろん、小島小、済美小にとっても同じことですが。
 「小島小校舎」は、いまでも現役の建物として再活用されています。「済美小」は、「台東区認定こども園・ことぶきこども園」として利用されています。


(「ことぶきこども園」HPより。)

「蔵前小学校」。新築の校舎。

その南側にある「精華公園」。校名の「精華」はなくなりましたが、この公園の名として残っています。
公園中央広場。広いスペースの公園。
藤棚。
公衆トイレ。屋根に注目!
大きな砂場。今まで見た中で、一番大きい。中には、木製の工作物。
遊具。
 この公園の特徴は、ビオトーブ。このビオトーブは公園に隣接する環境ふれあい館「ひまわり」が運営しています。ビオトープとは「野生の生き物が生息する環境」のこと。小さな水辺の周りを植物がかこっている。「小さな自然」観察園、という趣。
入口の案内板。
ささやかな空間。植物も20種以上、水辺の生き物もいくつか、無農薬の田んぼづくり、などエコの取り組みも含めて多彩な取り組みがされているようです。

《田原公園》

地下鉄「田原町」駅の近く。浅草の繁華街からそう離れていないところにある「田原小学校」の南側。
なかなか見栄えのいい、しゃれた校舎。
ところが、大半を校庭にとられて、実に小さな公園となっていました(戦前からこんじまりとした公園になってはいましたが)。校庭との大きい出入口があります。
コンクリー製の大きな柱が何本か立っている?
校庭の中には、「藤棚」。建設当時のコンセプトは残っていました。
狭い公園。遊具も、ささやか。足下は、一面、砂場。これはアイデアもの。

1970年代のようす。(「同」より)コの字型の校舎が大きく変わりました。
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黒門小。防空壕。奉安殿。・・・(震災復興52小公園。番外編。その3。)

2013-11-01 23:06:50 | 震災復興小公園
※「www.maroon.dti..jp/ne~satton/kyouiku/matutiyamael.html」より。但し、「黒門小」HPによると、校歌の制定は、昭和5年となっている。


1880年代のようす。赤丸に「黒門町」とある。右上が「広小路」。(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)

②黒門小学校
 明治43年5月7日創立。江戸時代から日本を代表する繁華街である上野をそっくり学区域に持つ小学校で、校舎は、今は都内でも少なくなった、いわゆる震災復興校舎(昭和5年竣工)を、大きく手を加えることなく現在も使用している。建築当初からある地下の防空壕と二宮金次郎像もそのまま残っている[1]。
 現校舎建築当初から平成元年まで使っていた旧体育館には、戦前に御真影を安置していた奉安殿が残っていたが[2]、体育館の改築とともに消滅した。
 ・・・卒業生のほぼ8割から9割が私立・国立の有名中学に進学しており、公立小学校の名門として都内や近県からの区域外就学児童が在校している。
 上野にある小学校として、上野公園内にある文化施設との連携・協力も密にしており、地の利を生かした教育活動を実践している。同窓会も活発で、黒門小学校育ての会(PTA組織)や地域との連携しながら黒門小学校の教育活動や児童の為に活動している。

《脚注》
1. 防空壕は、入口が特殊な場所にあって施錠されており、普段はまったく人の出入りがないこともあり、中は昔の雰囲気がよく残っている。建設当時のものと思しき、壁を碍子一つで伝う裸電線に電灯、昭和30年代の生徒の手によると思しき落書きなどが残る。学校の正面玄関を入って左右に行くと、同じ1階であるにもかかわらず、廊下を進むのに不自然にも若干の階段を登らなければいけないのは、上げ底となった部分の下に防空壕があるからである。

2. 舞台の奥に大理石で囲まれ、複雑なレリーフが施された大きな木の引き戸があり、扉を開けた奥行き僅かなスペースが奉安殿として使われていた。戦後は、学校教育から国体思想が排除されたことに伴って奉安殿として使うことを止め、全面を緞帳で覆って存在を隠し、運動会の入退場門を収納するなどの大物用倉庫としてひっそりと使っていた。
 (以上、「Wikipedia」より)この、2つとも興味深い記事です。

正面玄関。
玄関部分の装飾は、この時代らしいアールデコ調のデザイン。
校舎西側。こちらが当時のモダンスタイルの窓。丸窓が連続して設けられている。
北西の角。大きな曲線を描く。階段室。
校舎東側。大きくごつそうな窓。空調などの配管が目に付くが。

図書室。(どちらも「黒門小」HPより)。内部は撮れないので、お借りしました。
 壁の丸くなったレイアウトなどが、学んだ高校の古い校舎(1960年代)の構造とよく似ているので、懐かしくなりました。おそらく天井も、今の小学校の校舎よりも高いと思われます。
南側から。校庭。コの字型の校舎配置。

 上野広小路の繁華街西側のすぐ裏手。路地を入ると、周囲のモダンな建物と比べ、かなり古く重々しい印象の建物があるとは! そして、現在も現役で活躍している校舎があるのは、すばらしいことです。周囲をぐるっと回って、喧噪の街中に・・・。

付1 「防空壕」(ぼうくうごう)とは、敵方の航空機の攻撃(空爆、機銃掃射)及びミサイル攻撃から避難するために地下に造られた施設。日本では第二次世界大戦中に、アメリカ軍をはじめとする連合国軍機による銃後への大規模空襲が現実のものとなり、空襲の危険から逃れるため、1944年頃から学校の校庭、強制疎開跡の空き地、個人宅内などに大量に作られるようになる。空襲警報が鳴ると、身近なところに造られた防空壕に身を隠した。(「Wikipedia」より)

付2 「奉安殿」(ほうあんでん)とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物。御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と推測される(小学校の奉安殿建築は1935年頃に活発化)。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もある。
 四大節祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉る事と教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。
 当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていた。しかしこの奉安所の場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、また実際に関東大震災や空襲、校舎火災の際に御真影を守ろうとして殉職した校長の話がいくつか美談として伝えられている。このため、さらに万全を期して校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、また独立した「奉安殿」の建築が進められた。前者の校舎一体型は旧制中学などに多く、後者の独立建築型は小学校に多く見られた。(「Wikipedia」より)

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