おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「ヴィオレット-ある作家の肖像-」(岩波ホール)

2016-01-30 22:13:52 | 素晴らしき映画

 今年初めての、というか久々の映画鑑賞でした。誘われて「岩波ホール」へ。ほとんどが中年以上の女性達。中には男性の姿もちらほら。老夫婦の方々も。平日の午前11時なのに、けっこうな人出。

 2時間20分ほどの上映時間でしたが、時間が経つのも忘れて映画にひたる、なんて、本当に久々の体験。



 パンフレットでは、

 1907年、ヴィオレットは私生児として生まれた。母親からの愛情に飢え続けた彼女は、やがて小説を書き始める。ボーヴォワールに才能を認められ、彼女の助けを得ながら、戦後間もない1946年に女性として初めて自らの体験や性を赤裸々に記した処女作『窒息』を刊行。しかしカミュやサルトル、ジャン・ジュネといった大物作家の支持を得たが、社会からは受容されなかった。傷つき果てたもののボーヴォワールの支えによって再びペンを取った彼女は、パリからプロヴァンスに向かい、新作『私生児』を書き始める。母との関係、愛の渇望、ボーヴォワールとの関係、……ヴィオレットは人生のすべてを注ぎ込むようにペンを走らせていく。

とありましたが、どういう内容の小説を書いたのか題名も含め、まったく知りませんでした。私が知らないだけでなく、多くの人から、ましてや日本ではほとんど知られていない、ある意味、すっかり忘れ去られた作家だったのでしょう。
 この映画に登場するカミュやサルトル、ジュネ、そして最大の理解者、ボーヴォワールはその作品にも少しはふれたことがありますが。

 ストーリーはなかなか巧みにつくられていて、主人公の葛藤、屈折、憤怒、甘え、挫折、成長をスリリングに描いています。

 私生児として生まれ、子ども時代から母親の愛情に飢え、それでいて母親との縁を断ち切ることができない。かつては裕福な家庭に育った人間が闇商売をしながら、ゲイの男友達との愛憎半ばする生活。その中で、自らの生きた(生きている)証しとして記録することを勧められ、ペンを執る。ここから彼女の世界が広がっていきます。

    

 自らを語る中で、自らの心の奥底が開けていく。しかし、それは簡単な道筋ではありません。ボーヴォワールと巡り会い、励まされながらも、華やかで美しいボーヴォワールに対するコンプレックス・・・。悶々とする日々が続く。
 ヴィオレットの自伝的小説が出版されますが、赤裸々な性や感情を語る内容の本は売れない。それでも、書き続けます。精神的にもろく、容貌も美しくはない(そんな劣等感を持つ)中年女性作家。その彼女の才能を認め、金銭的に援助してくれる人間の存在・・・。
 戦争中でありながら、同棲中の男がドイツで殺された、という挿話以外は、まったく第二次大戦・対独戦、ヨーロッパ戦線という苛酷な様相はどこにも登場しない。唯一、闇商売で生活をする、ということくらいか。
 そういう意味では、時代状況に翻弄されながらも徹底して確固とした「自分」を確立しようと悪戦苦闘する他の登場人物も同じです。

 彼女に関わる人や土地の名が章立てになって進行します。使われている音楽は、室内楽。心地よく響く弦楽器・・・、バックミュージックに引き込まれます。ラストの方でかなり通俗的な曲が流れてきたのには、がっかり。でも、そろそろ終幕になるかな、と安心感を与えてくれましたが。

 フランスの豊かな自然、様々な表情を見せるフランスの都会の街角、戦前、戦後と人事は移ろいを見せても、一貫した美しさ、伝統を秘めた世界。フランス語の美しい調べも含め、久々にフランス映画の神髄を味わった感じです。



 真実ほど誠実なものごとはない、かな。

 映画の後は、少し歩いて「水道橋」駅近くの「庭のホテル東京」で食事。落ち着いた雰囲気のホテル。知りませんでした。中庭の小さな池に小鳥が。・・・

 今年もいったいどういう出逢いがあるでしょうか? 人生、つくろわず、おもねらず、あるがままに生きること。もちろん難しいけど。では、また。
 
 注:写真は、「予告編」(YouTube)より
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熊谷宿から本庄宿まで。その1。(旧中山道をゆく。第5日目。)

2016-01-29 20:06:07 | 旧中山道

 中山道の旅も5日目(+半日)。

 1月15日(金)。快晴。JR高崎線・熊谷駅に午前9時30分に到着。

 「八木橋百貨店」の中を通っている中山道。せっかくだからその道を通ってみることにしましたが、デパートの開店は午前10時なので、それに合わせて少し遅めに到着することに。
 それでもまだ時間があるようなので、前回のところから「星渓園」に回って見ることに。庭の方から入園しました。


熊谷市指定文化財 名勝 星渓園
 ここは、竹井澹如(たんじょ)翁のもと別荘で回遊式日本庭園です。池は「玉の池」と呼ばれ、星川の源流となっています。

 もう少し補足します。

 竹井澹如は、天保10年(1839)群馬県甘楽郡南牧村羽沢の豪族市川家に生まれ、幼名を萬平と言い幽谷と号しました。明治12年(1879)初代の県議会議長となり、政府の要職をすすめられたが、始終一貫、熊谷地方のために貢献しました。
 熊谷県庁の誘致・旧熊谷堤の修築と桜の植樹・養蚕業の振興・私立中学校(セキテイ学社)の創設などの偉業を残し、大正元年(1912)8月74歳で永眠されました。
 元和9年(1623)、荒川の洪水により当園の西方にあった土手(北条堤)が切れて池が生じ、その池は清らかな水が湧き出るので「玉の池」と呼ばれ、この湧き水が、星川の源となりました。澹如翁が、ここに別邸を設け、「玉の池」を中心に竹木を植え、名石を集めて庭園としました。
 昭和初期、この地を訪れた前大徳牧宗禅師が、「星溪園」と命名しました。昭和25年に熊谷市が譲り受け、昭和29年に市の名勝として指定されました。
 平成2年から4年にかけて園内の整備が行われた際には、老朽化の見られた建物は数奇屋感覚が取り入れた上で復元されました。園内には、星溪寮、松風庵、積翠閣の3つの建物があり、お茶会などの日本的文化教養の場として、利用できます。

HPより)

「玉の池」。

    
                                        落ち着いた雰囲気の建物。

 「八木橋百貨店」の右奥(北東側)にあるのが、熊谷次郎直実ゆかりの「熊谷寺(ゆうこくじ)」。このお寺の見学は事前予約制のようです。

     

 当地は平安時代末から鎌倉時代初期の武士熊谷直実の出身地であり、出家後の直実が蓮生法師として往生した場所と伝えられている。直実は建久4年(1193年)頃出家して法力房蓮生と称した。その後、関東に帰った時、熊谷館の一郭に庵を結んで僧俗に開放して教えを説いたと言う。なお、『新編武蔵風土記稿』によれば文禄4年(1595年)に中山道を付け替えた際に熊谷寺の裏手(北側)にあった街道を現在の形にした(南側)に移したとする記述があり、この時に熊谷寺はかつての館の堀ノ内から切り離されたと言う。
 熊谷寺は、その庵の跡に智誉幡随意白道上人が、天正19年(1591年)に建立したものと言われている。

 熊谷次郎直実は源氏方の勇猛果敢な武士の一人。『平家物語』《一の谷の合戦・敦盛最期》の段が知られています。

 いくさやぶれにければ、熊谷次郎直実、「平家の君達たすけ船にのらんと、汀の方へぞおち給らん。あはれ、よからう大將軍にくまばや」とて、磯の方へあゆまするところに、ねりぬきに鶴ぬうたる直垂に、萌黄の匂の鎧きて、くはがたう(ツ)たる甲の緒(を)しめ、こがねづくりの太刀をはき、きりうの矢おひ、しげ藤の弓も(ツ)て、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍をいての(ツ)たる武者一騎、沖なる舟にめをかけて、海へざ(ツ)とうちいれ、五六段ばかりおよがせたるを、熊谷「あれは大將軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも敵(かたき)にうしろをみせさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と扇をあげてまねきければ、招かれてと(ツ)てかへす。
 汀にうちあがらむとするところに、おしならべてむずとくんでどうどおち、と(ツ)ておさへて頸をかゝんと甲をおしあふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、うすげしやうしてかねぐろ也。我子の小次郎がよはひ程にて容顔まことに美麗也ければ、いづくに刀を立(たつ)べしともおぼえず。「抑いかなる人にてましまし候ぞ。なのらせ給へ、たすけまいらせん」と申せば、「汝はたそ」ととひ給ふ。
 「物そのもので候はね共、武蔵国住人、熊谷次郎直実と名のり申。「さては、なんぢにあふてはなのるまじゐぞ、なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をと(ツ)て人にとへ。みしらふずるぞ」とぞの給ひける。熊谷「あ(ツ)ぱれ大將軍や、此人一人うちたてまたり共、まくべきいくさに勝つべき様もなし。又うちたてまつらず共、勝つべきいくさにまくることよもあらじ。小次郎がうす手負たるをだに、直実は心ぐるしうこそおもふに、此殿の父、うたれぬときいて、いかばかりかなげき給はんずらん、あはれ、たすけたてまつらばや」と思ひて、うしろをき(ツ)とみければ、土肥・梶原五十騎ばかりでつゞいたり。熊谷涙をおさへて申けるは、「たすけまいらせんとは存候へ共、御方の軍兵、雲霞の如く候。よものがれさせ給はじ。人手にかけまいらせんより、同じくは直実が手にかけまいらせて、後の御孝養をこそ仕候はめ」と申ければ、「たゞとくとく頸をとれ」とぞの給ひける。熊谷あまりにいとおしくて、いづくに刀をたつべしともおぼえず、めもくれ心もきえはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣々頸をぞかいて(ン)げる。
 「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何)とてかゝるうき目をばみるべき。なさけなうもうちたてまつる物かな」とかきくどき、袖をかほにおしあててさめざめとぞ泣きゐたる。良(やゝ)久うあ(ツ)て、さてもあるべきならねば、よろい直垂をと(ツ)て、頸をつゝまんとしけるに、錦の袋にいれたる笛をぞ腰にさゝれたる。「あないとおし、この暁城のうちにて管絃し給ひつるは、この人々にておはしけり。当時みかたに東国の勢なん万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛もつ人はよもあらじ。上は猶もやさしかりけり」とて、九郎御曹司の見参に入れたりければ、是をみる人涙をながさずといふ事なし。後にきけば、修理大夫経盛の子息に大夫敦盛とて、生年十七にぞなられける。それよりしてこそ熊谷涙が発心のおもひはすゝみけれ。
 件(くだん)の笛はおほぢ忠盛笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。経盛相伝せられたりしを、敦盛器量たるによ(ツ)て、もたれたりけるとかや。名をばさ枝とぞ申ける。狂言綺語のことはりといひながら、遂に讚仏乗の因となるこそ哀れなれ。

    
 平敦盛。                    熊谷直実

 このいくさが機縁となって仏門に入った、と伝えられます。

 そろそろ10時になります。
デパートの入口のところにある「旧中山道跡」碑。

 そのそばに宮澤賢治の歌碑があります。
      
            「熊谷の 蓮生坊がたてし碑の 旅はるばると 泪あふれぬ」
    
            「武蔵の国 熊谷宿に蠍座の 淡々ひかりぬ 九月の二日」

 碑の解説によれば、大正5年(1916)9月2日、宮沢賢治が盛岡高等農林2年の時、秩父地方の土性地質調査の途中、熊谷に宿泊して詠んだ歌、とあります。 

(10:05)開店したばかりの店内に。

旧中山道。店内。

反対側の出口。      

 デパートを抜けて、「一番街商店街」の道を進みます。
                         

旧街道筋らしいお店も。 
(10:15)商店街を抜けて「国道17号線」に合流します。 

 「石原1丁目歩道橋」を渡り、「日産サティオ」裏手の公園に向かいます。
(10:22)「かめの道」。

 1983(昭和58)に廃止された「東武鉄道熊谷線」の敷地跡に作られた公園。廃止前の列車が愛称「カメ号」と呼ばれ、親しまれていたことから、公園にこの名前がついたようです。

その一画に道標が3つ並んでいます。

    
                    埼玉県指定史跡 秩父道志るべ
 室町時代に始まった秩父札所の観音信仰は、江戸時代に入ると盛んになり、最盛期には秩父盆地を訪れる巡礼の数は数万人に達した。江戸からの順路の一つとしてこの地、石原村で中山道から分かれて、寄居、金伏峠、三次を経由する秩父道があった。これはその分岐点を示す道しるべである。創建当時は東へ約50㍍のところにあったが、平成16年9月に現在地に移設された。

 右から 

「寶登山道 是ヨリ八里十五丁」

「秩父観音順礼道 一ばん四万部寺へ たいらみち十一里」

「ちゝぶ道 志まぶへ十一り 石原村」

と刻まれています。 

 ちなみに「東武鉄道熊谷線」は熊谷駅と妻沼駅とを結ぶ約10㎞の鉄道でした。その跡地は、遊歩道や道路となっているようです。所々に痕跡は残っているのでしょうか?
「国道17号線」を越えて続く「かめの道」。
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熊谷宿から本庄宿まで。その2。(旧中山道をゆく。第5日目。)

2016-01-28 22:52:04 | 旧中山道

 しばらく「国道17号線」を進みます。次に目指すは、「新島一里塚」。

(10:43)国道から左に分かれて進みます(正面左の道)。

左に入る手前にあるお店。「元治元年創業 梅林堂」。

(10:46)右手に大きなケヤキの古木。「新島一里塚」。真ん中ほどから上がありません。樹齢300年以上らしい。しかし、2010(平成22)年9月の雷雨により折れてしまったようです。何だか痛々しい感じですが、上部には若い枝があります。

          

熊谷市指定文化財史跡 一里塚
 この一里塚は、旧中山道の東側に築かれたもので、今でも高さ12㍍、樹齢300年以上のけやきの大木が残っています。
 慶長9年(1604)、江戸幕府は江戸日本橋を起点に、東海道・中山道など主要な街道沿いに旅の道のりの目印とするため、一里(約4キロメートル)ごとに一里塚を設けました。
 当時は、中山道の両側に五間四方の塚を築き、榎などが植えられたといわれますが、西側の石原分の塚は現在残っていません。
 宝暦6年(1756)の「道中絵図」には、熊谷地区では、久下新田・柳原(現在は曙町)・新島に一里塚が描かれ、「榎二本づつきづく」とあるが、現存する新島の大木は不思議なことにけやきです。

 平成12年9月  熊谷市教育委員会

 日本橋から17里目。

その付近から中山道を望む。

すぐ左手に「従是南忍領」碑。

埼玉県指定文化財旧跡 忍領石標
 「従是南忍領」と彫られたこの石標は、忍藩が他藩との境界を明らかにするため16箇所に建てたものの一つです。初めは木材を用いていましたが、安永9年(1780)に石碑として建て直されました。その後、明治維新で撤去されることとなりましたが、昭和14年(1939)に再発見され、保存の道が講じられ、元の位置に再建され現在に至っています。
 また大字石原字上植木には、「従是東南忍領」と彫られた石標がもう一基ありましたが、そちらは現存していません。

 平成13年11月 熊谷市教育委員会

 なお、上には「・・・そちらは現存していません」とありますが、「熊谷市文化センター3階・歴史展示コーナー」に上半分を崩した石標が実在している、そうです。

        
 忍領石標
 安永9年(1780年)忍領主が領分の境界を示すために建てたもので、原位置に近く建っているものはここだけです。

先に進みます。

左手が開けて、田畑が広がります。遠くに新幹線、在来線。

(11:05)しばらく進むと「国道17号線」に合流。

「東京から70㎞」ポスト。

歩道橋を渡って反対側に。来た道を振り返って望む。

「中山道」は正面右に進みます。

大きな看板が目印。そこを右に。

(11:14)バス停「筋交(すじかい)橋」。

 変則的な道筋で前後左右から車が行き違うところ。その名の如く、ひっきりなしに車が互いに通り抜けていき、恐いくらい。

 両側に大きくて古いおうちと用水路が続く道です。
    

「玉井南」交差点を渡ると、大きく視界が開けてきます。

(11:34)高圧線の下に「熊谷市玉井団地」の碑。奥には球形のモニュメント。

住宅地の一角に「庚申塔」、その奥に観音堂。

そこから振り返って望む。

「奈良堰用水」を過ぎた、左側に「明治天皇御小休所跡」碑。

 「志がらき茶屋本陣」跡。茶屋本陣とは、中山道を行き来する大名や幕府公用者に食事や茶などを提供する休憩所。

 街道筋らしい建物が所々に。


 この先、「鬼林稲荷神社」手前に「東方一里塚」(日本橋から18里目)があったということですが、よく分からないまま通り過ぎてしまいした。   

(12:12)「南下郷集会所」。街道筋を意識したつくり。

商家。

この地域は、用水路が張り巡らされたところです。

街道沿いにはかつての火の見櫓が目に付きます。

(12:36)その先には、「グル米ハウス」。
                             「JAふかや」が経営するスパーマーケット、らしい。

この辺りから並木道。東海道に比べたら、・・・。

街道沿いのおうちには立派な木々。 

一方で住宅地の間に共同墓地。

「愛宕神社」。

 しだいに松などを植えた並木が目立つように。東海道と比較しては気の毒ですが、何とも痛々しい印象。
    

   
 深谷市中山道ふるさとの並木道
 ・・・
 この並木道は中山道が国道17号と交差する地点の東西に延び、江戸末期の安政年間には、松、杉、合わせて400本ほどあったといわれていますが、今では「見返りの松」に昔日の面影が偲ばれるにすぎません。現在の並木は中山道の拡幅整備に伴い、イチョウ、クロマツ、ケヤキを復元したもので、総延長は約1kmです。

 平成3年 埼玉県

    


 その「見返りの松」も2006(平成18)年に枯れてしまいました。

(13:00)    

 永く市民にあいされてきたみかえりの松は、平成18年2月、枯死により伐採のやむなきに至った。
 往時を偲び、ここに2代目のみかえりの松を植える。

  国土交通省 大宮国道事務所

      

 そこから望む。中山道は右手前から左奥へ国道17号線を斜めに交差して進みます。「高崎まで31㎞、本庄まで12㎞」。



ちょうど午後1時。右手にある讃岐うどんのお店に入って昼食。
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熊谷宿から本庄宿まで。その3。(旧中山道をゆく。第5日目。)

2016-01-27 22:49:29 | 旧中山道
 さて、後半です。

 「国道17号線・原郷」の交差点を渡って「中山道」に入ると、すぐ右手にあるのが「常夜燈」。ここからが「深谷宿」となります。東海道では宿場入口や街道筋には道しるべも兼ねて、「常夜燈」が多くありました。中山道ではその役割を「庚申塔」がしていました。ここに来て、宿の東と西の出入口に「常夜燈」があることに(「深谷宿」は東西に連なる宿場町)。

(13:40)東の「常夜燈」。明治初期に建てられたもの。

深谷宿 
 江戸から数えて9番目の宿場。中山道で最大規模の宿場で、商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあり、江戸を出立して2晩目の宿を求める人で大いに栄えた(一つ前の熊谷宿は飯盛女を置かなかった)。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、深谷宿の宿内家数は525 軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠80軒で宿内人口は1,928人。

                      

すぐ先の右手に「庚申塔」がありました。

「亀井篭店」。懐かしい篭製品が並んでいます。
  
宿内を望む。落ち着いた街並みが続く。


「大谷家住宅」。洋館と手前の和式の中門。

 主屋、洋館、本蔵、松庭湯、祠、中門及び塀、裏門及び塀、欅空庵、米蔵の9件。昭和初期のお助け普請として多くの地元の職人によって建てられた。設計は、魚住儀一による。
 主屋は、質の高い数寄屋風建物で、高度で精緻な技量が発揮されている。洋館は、主屋南面に接続するユーゲント・シュティルのスタイルでまとめられている。
HPより)

 昭和6年、町長であった大谷氏が地域の人達に仕事を与えるために建てた家のようです(「お助け普請」)。

 「深谷宿」は見所の多い建物が目立ちます。「東京駅」を模した深谷駅舎もその一つですが、立ち寄りませんでした。

「深谷駅」北口(「Wikipedia」より)。

古い歴史をうまく生かした建物。

「石川屋」さん。隣の土蔵も健在。

途中の「唐沢川」にはカモメが数羽。


 「深谷」は偉大な実業家「渋沢栄一」の生地、そして渋沢栄一が立ち上げた日本で最初の煉瓦製造工場があった地でもあります。その煉瓦が使われた建物が街道沿いにもいくつかありますが、特に「煉瓦うだつの商家」が目を引きます。

「塚本商店」。1階から2階までの立派なうだつ。

※「うだつ」が上がらない、という言い回しがあります。

【意味】うだつが上がらないとは、いつまで経っても出世しない、生活が向上しないことのたとえ。また、身分がぱっとしない、幸せになれないことのたとえ。
【注釈】 うだつが上がらないの語源は諸説あり、一つ目は、梁の上に立てて棟木を支える短い柱を「うだつ」といい、このうだつが棟木におさえられているように見えることから、頭が上がらない(出世できない)という説。
二つ目は、商家などで隣りの家との境に設ける防火壁のことを「うだつ」といい、そのうだつを高く上げることを繁栄のしるしとしたことからとする説。
HPより)

 「深谷宿」の「うだつ」は、第二の説の「防火壁」を指しているようです。 

「藤橋藤三郎商店」。造り酒屋さん。「東白菊」とあります。

 その先、右手「飯島印刷所」にあるのが本陣跡。
    

本陣
 本陣は、脇本陣並びに旅籠とは違い、一般人は利用できず、即ち公儀の厳重な制約を受け続けました。 
 中山道筋の貴人の通行例としては年間、泊まり10件、休憩40件程で誠に少なく、為に本陣職の大半は、他に主たる職業を持っていました。飯島家は宝暦2年(1752)より明治3年(1870)迄、足かけ六代に亘って、やむなく本陣職を続けざるを得ませんでした。
 上段の間(晩翠堂)、次の間、入側がこの奥に現存しております。

 平成8年5月 深谷上杉顕彰会

注:「深谷上杉顕彰会」は、室町・戦国の二百数十年間、九代に渡り深谷を治めた深谷上杉氏の歴史、業績、時代などを中心に 郷土史を編纂している団体のようです。

この建物にも「うだつ」が。

煉瓦造りの煙突。造り酒屋さん。

 廃業した現在は、街道沿いのお店はお豆腐屋さん「深谷とうふ工房」、奥は「深谷シネマ」などさまざまなお店やイベントホールがあるようです。

    

HPより)

「七ツ梅」という古めかしい看板は健在。

「糸屋製菓店」。
              明治41年創業の老舗・和菓子屋。看板商品は「翁羊羹」「翁最中」「五家寶」。

造り酒屋(三軒目)。「菊泉」の「滝澤酒造」。

    
      お店には「杉玉」が。

 宿の西の出入口に建つ「常夜燈」。

    
                    旧深谷宿常夜燈(田所町)

 江戸時代中山道深谷宿の東と西の入口に常夜燈が建てられ、旅人の便がはかられた。
 天保11年(1840)4月建立。高さ約4メートルで、中山道筋最大級の常夜燈である。深谷宿の発展を祈願して、天下泰平・国土安民・五穀成就という銘文が刻まれている。これを建てたのは、江戸時代の中頃から盛んになった富士講の人たちで、塔身に透し彫りになっている「○の中に三」の文字はこの講の印である。毎夜点燈される常夜燈の燈明料として、永代燈明田三反が講の所有となっていた。
 天保14年には、深谷宿は約1.7キロの間に80軒もの旅籠があり、近くに中瀬河岸場をひかえ中山道きっての賑やかさであった。東の常夜燈は稲荷町にある。

 平成6年4月 深谷上杉顕彰会

緩やかなカーブを描く「曲尺手」になっています。
                                            宿内を振り返って望む。
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熊谷宿から本庄宿まで。その4。(旧中山道をゆく。第5日目。)

2016-01-26 21:25:38 | 旧中山道

 「深谷宿」を出て、次の「本庄宿」へ向かいます。「深谷」には渋沢栄一さんに因んだ名所コースがあるようですが、街道筋にはなさそうなのでスルーします。

古い教場のような建物。左手奥にはJR線。

 しばらく道なりに進むと、「国道17号線」と交差します(「宿根」交差点)。その先には「龍宮神社」。
(14:28)

 中山道はすぐG・Sのところで「国道17号線」に合流し、そのまま国道沿いに進みます。
来た道を振り返って望む。

「国道17号線」東京方向を望む。
                                  この道が17号線? ちょっとに心配なる程の変哲のない道路。

沿道には漬け物屋さんがちらほら。

大きな屋敷も。

            (14:45)「東京まで80㎞」ポスト。

 (14:52)「普済寺」入口。石碑群。
    

右手が大きく開けてきます。住宅の向こうは田園地帯。

左手には「火の見櫓」。町内放送用の拡声器が。

東海道でも見かけた石積みの倉庫。

右手には「水越医院」の昔の建物。

右手の奥には赤城をはじめ上州の山々が見えるように。

 目線を少し北にずらすと、白銀に輝く山々が見えます。近くで人参の収穫にいそしむ農家の人に聞くと「谷川の方ではないか」と。西日を浴びて光る山並み。ちょっと感動!

肉眼でははっきり見えますが写真だと・・・。

(15:06)しばらく進み、国道から離れて右に。大きな木が目印。

分岐点には赤塗りの「バス・ラーメン」屋さん。営業中?

(15:12)その先の右手に大きな「耕地整理紀念碑」。

そしてまたしても「火の見櫓」。

    
 「伊萬里」という珈琲とスパゲッティのお店。しゃれた造りです。

(15:26)そのまま進むと、道が二手に分かれますが、道しるべに従って、正面の道を進みます。
    
                           解説碑と馬頭観音。

中山道古道について
 現在岡上地内を通る旧中山道は、田嶋一朗氏東のなだらかな切り通しをくだり、17号バイパスを横断、瀧岡橋へと至る。
 江戸時代の中山道にこの切り通しはなく、丸矢商店の前を直進し田島和弘氏東で右折、八坂神社・百庚申脇の急峻な坂をくだる道筋がとられた。 
 切り通しの開鑿は明治期になってからであり、今のように拡幅されたのは、瀧岡橋の竣工がなった昭和3年のことであるという。
 江戸期の中山道は、この坂道をくだると、幾度か右折左折を繰りかえし、現在の瀧岡橋より200メートル程上流で、小山川を渡河した模様である。
 近年の歴史探索ブームの中、大勢の来訪者を迎えるにあたり、岡部郷土文化会では、大名行列が行き交い、皇女和宮の降嫁行列も通過した往時の中山道の正確な道筋をここに識し、ご案内の一助といたします。

 平成23年11月吉日 岡部郷土文化会 

「丸矢商店」先から振り返って望む。

 

 1880年代のようす。○が「百庚申」のある「豊見坂」。「小山川」の流れ(河床)はかなり変遷しているようで、そのため道も複雑になっていたようです。 

案内板に従って右に折れます。

(15:30)急な坂道「豊見坂」を下ると、左手にたくさんの石塔。「百庚申」。
    

     解説板。

百庚申
 百庚申は、岡の坂下への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。
 百庚申が建立されたのは、幕末、万延元年の庚申の年(1860)で、岡の有志13人によって計画され、翌年の万延2年にかけて完成を見た。
 このことは、庚申塔群の中に大型の板石に庚申と記した庚申塔があり、その裏面に刻まれている文字によりうかがいしることができる。これによれば、百庚申造立の中心人物は「田島新新兵衛、田島喜蔵、田島直右衛門、田島武左衛門、田島利三郎、木暮弥一右衛門、木暮半次郎、小林常七、小林□兵衛、柳田熊次郎、山口竹次郎、発起人中野屋宗助。」という人々であったことがわかる。
 もともと、この場所には、享保元(1716)年に造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も立っていた。
 万延元年は、徳川幕府の大老井伊直弼が江戸城の桜田門外において水戸浪士達により、暗殺されるという大きな事件があったり、黒船来航により永い鎖国の夢が破られた日本の国情は騒然としたもので、民衆の生活も不安なものであった。このような状況にあって神仏に頼ろうという心理と万延元年(庚申の年)が重なり百庚申が造立されたといえよう。

 平成3年3月  埼玉県 岡部町

注:「二十二夜塔」=「月待塔」の一つ。
 月待塔(つきまちとう)は、日本の民間信仰。特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として造立した塔である。月待信仰塔ともいう。
 月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事。
 文献史料からは室町時代から確認され、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した。板碑としては埼玉県富士見市の嘉吉3年(1441年)のものを初見とする。
 特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられる。十五夜塔も多い。群馬・栃木には「三日月さま」の塔も分布しており、集まる月齢に関しては地域的な片寄りもみられる。
(以上「Wikipedia」参照)

坂上を振り返って望む。
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熊谷宿から本庄宿まで。その5。(旧中山道をゆく。第5日目。)

2016-01-25 18:56:02 | 旧中山道
 旧中山道は「17号線・深谷バイパス」でとぎれるので、「岡(西)」交差点から「滝岡橋」に向かいます。

案内板があります。振り返る。

 しばらく進むと、(15:38)「滝岡橋」。

 改修工事中のため工事用のシート・足場が設置され、全容を見ることができなかったので。

                       滝岡橋
昭和3年(1928)に旧中山道に架橋されました。鋼桁橋で、橋台は表面が赤レンガのイギリス積仕上げ、親柱や欄干は花崗岩が用いられています。親柱の上部にはかつて電灯が設置されていました。
                           (HPより)

はるか遠くに上越国境の山々(↓)。右は赤城山。

けっこう長い橋。
                                  車がほとんど通らないので、安心して渡れました。

「小山川」上流(西側)を望む。

ふる里の橋 顕彰碑
 この滝岡橋は小山川を渡る旧中山道に設けられた石橋で、長さ147m、幅員7mの鋼製八連橋で、昭和3年に竣工、花崗岩を用いた親柱には、かつて灯りがともり、人々を夕涼みに誘い生活の潤いとなっていた。 平成19年に地区の公民館に自治会や老人会関係者が集まりこの橋を文化財として登録することを決議し地元選出県議を始め、市観光協会長の協力を得て平成20年3月国土の史的景観に寄与しているものとして国登録有形文化財の指定を受けた。
 ここに藤田地区のシンボルとして記念碑を建立し、永く後世に伝えるものである。 

注:本庄市のHPを含め、この碑文でも「旧中山道」に架設された、とありますが、対岸の深谷市岡地区の解説文とは異なっているようです。この川一帯がたびたび氾濫して流路が定まらなかったようで、1880年(明治13年)の地図でも、この地域では幾筋も川が流れ、「中山道」には短い橋が二箇所架かっています。

シートの合間から煉瓦積みの部分が見えます。

渡り終えたところから、南西を望む。

振り返って望む。右の道が旧中山道の一部?

(15:52)次第に冬の日も暮れかかってきます。

 しばらく進むと、ガードレールの脇に↑で歩道とあり、「この先通り抜けできません」との看板。→で「本庄」とありますので、そのまま道なりに右に曲がって行きそうですが、実はガードレールの切れ間から「歩道」に進むのが正解。
 東海道でもありました。車の通行に合わせて進むと、もともとの旧道を進まない。そんなところがありました。それを思い出し、歩道を進みました。



(15:57)日差しも弱くなってきていささか不安ですが。
                                            矢印に従って、左の道へ。
ますますこれでいいのかな、状態。

県道をくぐるとすぐ右の階段を上ります。
                                         本来の旧道は直進していた?

階段を上がると、住宅地裏の草ぼうぼうの細道? 
                                階段も含め、この付近では旧道は喪失しているようです。

 いったん通りに出ると、案内表示があり、今来た道が「旧道」と分かります。
    
                                     来た道を振り返って望む。 

 先ほどの車道と合流。ここにもさっきと同じ「この先通り抜けできません」の案内板。
振り返って望む。

 「旧道」の出入口の案内表示は見事に対応していて、東京から京都へ向かう現代の旅人にも、反対に京都から歩いてきた人々にも親切をはかっているようです。もちろん地元の便利のためでしょうが。

(16:05)再び広い通りに復活。「旧中山道」の表示。 

行く先にまたも「火の見櫓」。何だか安心します。

左手に古い長屋門があります。
                                    「小川家長屋門」。白壁がはがれているのが残念。

(16:17)右手の路傍に「賽神の石碑」、「子育地蔵尊」、「庚申塔」などが並んでいます。


注:塞(さい)神(賽の神)
 集落や家に疫病神などが入らないように祈る神で、集落の入口、辻(十字路や三叉路)に建てたようです。地域によっては「道祖神」と同じように建てられているケースも。

 道なりに進むと、正面右手の広場の奥に「傍示堂」。

 傍示とは、傍(ふだ)を立てて、ここが国境(くにざかい)であることを示したことからつけられた名称。この辺りが武蔵国と上野国との境界だったようです。この辺りに一里塚(日本橋から21里目)もあったそうですが確認できず(「中山道」は「東海道」に比べて「一里塚」の現状の定かでないものが多いようです)。

 この辺りでの現在の埼玉県(武蔵国)と群馬県(上野国)との県境は、もう少し北の利根川付近になっています。

 この先で道は左に曲がり、「元小山川」に架かる「新泉橋」を渡ります。

「傍示堂」付近から来た道を振り返って望む。

(16:28)「新泉橋」。「元小山川」
    

街中に入り、「日の出4丁目歩道橋」から西を望む。

(16:36)北西に向かう「国道17号線」。
                                           だいぶ暮れかかってきました。
緩やかな「御堂坂」を上ります。

(16:57)「中山道」交差点。

 その先の「本庄駅入口」交差点まで進んで、今回は終了。駅に着く頃にはすっかり日も落ちました。
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馬室原一里塚から熊谷宿まで。その1。(旧中山道をゆく。第4日目。)

2016-01-18 21:39:57 | 旧中山道
 年が明け、さっそく「中山道」の旅を再開。
 1月5日(火)。穏やかな日差し。歩いていると汗ばむような陽気でした。今回は、北本駅で下車して、江戸から数えて7番目の宿場「鴻巣宿」を経て、荒川土手をたどりながら、熊谷宿まで。いよいよ都会の喧噪から離れての旅に期待して、・・・。

 「馬室原一里塚」が築かれた頃の「(江戸初期の)中山道」はすでに消滅し、「中山道」はJR高崎線の東側に移っています。「北本」駅を下車して少し東に進み、「(現在残されている)中山道」に復帰です。「浅間神社」を過ぎると、「鴻巣宿」もまもなく。両側に人形店が並ぶ街並みに入っていきます。

「広田屋」さん。ちょっと店内へ。

    

 お店の方に許可をもらって、写真を。ゆったりとしたスペースの店内には、ひな人形がズラリ。15万、20万円(それ以上の)というひな人形に「売約済み」の印がいくつも。

 「鴻巣」は江戸時代から受け継がれているひな人形のふるさと。関東三大ひな市(鴻巣、岩槻、江戸日本橋十軒店)の一つに数えられ、特に着物に着付けでは関東一と評判だった、とか。江戸から明治の「鴻巣雛」には鳳凰の刺繍が施され、女雛の手を出さないものが多いようです。着物の生地は京都西陣から買い付けいていました。
 明治になると「県内では越谷6軒、大沢3軒、岩槻3軒、に比べて、鴻巣の人形業者31軒、職人300人」という記録があるほどの活況ぶりでした。

 お店の脇に「長壽橋」という朱塗りの太鼓橋。渡ると寿命が延びるとか。写真と反対側から上らないと御利益がないとの注意書きが。こけたらみっともないので遠慮しました。
                    

向かい側にも老舗の「雛屋」さん。

「人形町」

 江戸時代は上谷新田村と呼ばれた鴻巣宿の加宿で、旗本「藤堂家」の知行地でした。村民の多くは、農閑期に雛人形「鴻巣雛」を製作して、各地に売ることを生業とし、その後、幟・兜・菖蒲刀・破魔弓・羽子板・盆華などの製造も盛んに行われるようになり、伝統ある地場産業である「雛人形の町」として「人形町」と名付けられました。 鴻巣市観光協会

鴻巣市産業観光館「ひなの里」。

    
               1898(明治31)年建築の蔵。かつて人形店の蔵でした。

資料館には雛人形とその歴史。

「鴻巣の古今雛」。西陣の生地による鳳凰の刺繍。

 初期の頃の「鴻巣雛」。    
            江戸時代につくられましたが、明治以降にはつくられなくなり、現存数が少なく貴重なもの。足が付いた台と人形の前に置かれた厚紙の前立が特徴。

    
               かつての街並みや古い写真なども掲示されています。

トイレの表示もお内裏様とおひな様。

 さすが「ひなの里」。じっくり見学してきました。
 「物産展」のコーナーもあって、そこに「川幅うどん」という乾麺がありました。何でも、このあたりの荒川の川幅が日本一の川幅だそうで(約2.530㍍)、それにあやかってのうどん、のようです。
 そういえば、道筋のうどん屋にも「川幅うどん」の表示が。さっそく買ってきました。後日、我が家で食しました。何しろ10㌢以上の幅があります。ご当地B級グルメといっては失礼ですが、独特の食感を楽しめました。

そこで、鴻巣市ならではのイベントを紹介。

  (HPより)

先に進むと、「鴻巣宿入口」。  江戸より7番目の宿場。

 「鴻巣宿」は、慶長7年(1602)6月に本宿(現北本市)から移動して成立しました。天保14年には人口2274人、戸数566軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠58軒でした。
 「鴻巣宿」は、中山道の他にも、松山(現・東松山市)に至る吉見道、箕田追分を経て忍藩の居城・忍城(在・行田市)に至る忍道、さらに私市(現・加須市)に向かう道との間で宿継ぎが行われ、中山道の宿場町の中では比較的大きなものだったようです。

その先、左手奥には「勝願寺」。
                 鷹狩りの際に「勝願寺」を訪れた徳川家康によって、三ツ葉葵紋の使用を許可された。

 戦国期から江戸初期にかけてのお墓があります。

 なかでも、関東郡代伊奈氏は、利根川東遷(当時、栗橋付近から江戸湾に流れていた利根川の流れを東に移し、台地を切り通し、多くの湖沼を結びつけて銚子に流す河川改修事業)の功績を挙げた一族。
 天正18年(1590)に江戸に入った徳川家康は、関東郡代に伊奈備前守忠次を任命、利根川東遷事業を行わせました。事業は文禄3年(1594)から60年の歳月をかけて、忠次から忠政、忠治と受け継がれ、承応3年(1654)に完了。これによって、わが国最大の流域面積を誇る河川が誕生し、現在のように千葉県銚子市で太平洋に注ぐようになりました。

 注:江戸湾(東京湾)に注いでいた「利根川」は、これ以降、「古利根川」となり、下流では「中川」という名称になりました。

石橋町

 本宿(幕府直轄領で中心市街地)の中山道両側には水路が掘られ、それは宿内数か所で連結され、橋が架けられていました。橋は元禄16(1703)年に木橋から石橋に架け替えられました。騎西道が分岐する丁字路に面した横田家前の石橋は「三九郎前石橋」と呼ばれ、この付近一帯を「石橋」と呼んでいたことが町名の由来です。

この路地の奥に鷹狩り用の別荘「鴻巣御殿」がありました。

    
                          鴻巣御殿跡
 鴻巣御殿は文禄2(1593)年、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられ、その敷地は1町4反歩(約1.4ヘクタール)に及んだ。その後、秀忠、家光の三代にわたって将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されたが、寛永7(1630)年頃を最後として、以後使用されなくなった。
 明暦3(1657)年の江戸大火後は、その一部を解体して江戸城に運ばれ、天和2(1691)頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、元禄4(1691)年には御殿地に東照宮を祀り除地とした。その東照宮も明治30年代に鴻神社に合祀され、旧御殿地はその後民有地となった。
 最近まで鴻巣御殿の比定地も明らかでなかったが、平成6年の試掘調査によってその一部が確認された。鴻巣御殿は『江戸図屏風』(国立民俗博物館蔵)に描かれ、その様子をすることができる。

 平成7年8月  鴻巣市教育委員会

 民家脇の路地の奥のところに小さな社があります。

御成町
 
 本宿の仲市場の高札場辺りから馬室村へ向かう脇道があり、明治時代にその両側に家並みが形成され、「馬室横町」と呼ばれていました。後に徳川三代(家康・秀忠・家光)の宿泊所である鴻巣御殿が、江戸時代初期に当地に存在し、将軍がお成りになったという故事に基づいて「御成町」と名付けられました。

「三木屋」付近に「高札場」がありました。

本町

 本宿のうち、古くは「仲市場」と呼ばれていた地域で、「仲街」とも表記されました。鴻巣市の行政の中心地であり、本陣・脇本陣・問屋場・番屋・高札場が置かれました。また、下市場とともに商業が盛んな所で、ことに3月の雛市は関東三大雛市(鴻巣・越谷・江戸尾張町)の一つと称せられました。

「鴻巣本陣跡」碑。

その向かい側にあるおうち。

 鴻巣駅に向かう角にある絵入りの解説板。詳しく解説があります。それにしても終着の京まではまだまだはるか彼方。
    
「鴻巣御殿」俯瞰図。

                         
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馬室原一里塚から熊谷宿まで。その2。(旧中山道をゆく。第4日目。)

2016-01-17 23:02:03 | 旧中山道
      足元には「コウノトリ」。
 ただし、「コウノトリ」という漢字は「鸛」。「鴻」は、訓読みですと、「ひしくい」「おおとり」。この漢字は「大きい鳥」「大きい」を意味し、鳥では「オオハクチョウ」、あるいは「ヒシクイ(ガンの一種)」を指すようです。ということで、漢字からすると、「コウノトリ」を指してはいないようです。

鴻巣(こうのす)の地名の由来
 「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に武蔵の国の統治を行う機関(国府)があったのではないかと推測されることから、「国府の洲(中心) こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。
 国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。
 このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないでしょうか。
※笠原直使主(かさはらのあたいおみ)
 6世紀に活躍した豪族で行田市の埼玉古墳群の中の稲荷山古墳にまつられています。そこから出土した大和朝廷から拝領したとされる金象眼銘の鉄剣は国宝に指定されています。
 (以上、「鴻神社」HPより)

 「Wikipedia」によると、その他、

 高台の砂地を「コウ(高)のス(洲)」と言い換えて、その言葉が由来となったと言う説があり、これは大宮台地上に位置する古来からの鴻巣郷(現在の鴻巣市南部から桶川市北東部にかけての地域)および他地域の同一地名の地域の地形的特徴と合致する。

 という説があげられています。

右手に「鴻神社」。

 中山道の左手には土蔵造りの建物が数軒あります。この辺りに「問屋場」があったらしい。

「田沼家の蔵」(明治初期の建造)。

神社脇の解説板。「鴻巣宿」も見所満載です。

古い家屋も残っています。

加美町

 江戸時代末期、土手外(宿場の上方入口に設けた木戸・土手の外側地域の通称、宿場の拡大に伴い木戸と土手は取り払われました。)に本宿(中心市街地)から家並みが伸びて形成された町です。本宿の上方よりも更に京都よりのため「大上町」と呼ばれましたが、近代になり上町→嘉美町→加美町と表記が変更されました。

(11:45)「加美」の三叉路を左に進みます。

       「中山道」の道しるべ。次は「熊谷宿」。

振り返って望む。

(11:55)「中山道」は、JR線を越えて進みます。

    

「箕田氷川八幡神社」にある絵入り解説板。

ルーツに迫る 箕田(みだ)に残る歴史と昔話
 嵯峨天皇の流れを汲む源仕(みなもとのつこう)は、足立郡箕田郷に土着して箕田源氏の祖となりました。
 仕の子の源宛(みなもとのあたる)は『今昔物語集』に平良文との合戦の説話が残されてます。
 仕の孫であり宛の子である渡辺綱(わたなべのつな)はこの地で生まれ、摂津の国渡辺(大阪市渡辺)で養育されたことから、渡辺姓を名乗りました。
 渡辺綱は武勇に優れ、源頼光に仕える四天王の筆頭と呼ばれ、鬼や妖怪退治にまつわる様々な説話が伝えられています。(注1)
 渡辺綱が祖父と父を弔って建立したと伝えられる宝持寺には、全国から渡辺姓の皆さんが訪れています。(注2)
 また、氷川八幡神社境内には宝暦9年(1759年)に建立された「箕田碑」があり、箕田源氏の伝承や渡辺綱の辞世などのほか、この地が武蔵武士発祥の地であることが記されています。

注1:渡辺綱が登場するものとしては丹後国(京都府)大江山に住む悪鬼「酒呑童子」を退治した話や京都堀川にかかる以上戻り橋で貴女の腕を切り落とした話などが知られています。
注2:「宝持寺」は「渡辺姓発祥の地」といわれ、境内には全国渡辺会が建立した顕彰碑があります。

「氷川八幡社と箕田源氏」。詳細な解説文。

 そろそろ昼時。ですが、食べ物屋さんは見当たりません。コンビニで買っておいたおにぎりを食べながら休憩。東海道の時もそうでしたが、食事のタイミングがなかなか合いません。駅を降りたときに買っておいたおにぎりが昼飯になること、しばしば。


箕田碑」。  

 箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地を開発経営した。
 源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(軒史跡)。源仕(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。
 箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり、指月の撰文、?碩の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778)に刻まれた和文章体の碑文である。
 初めに渡辺綱の辞世

 世を経ても わけこし草のゆかりあらば あとをたづねよ むさしののはら

を掲げ、次に芭蕉・馬酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱らの文武の誉れをしのんでしる。
 馬酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を尋ねて滞在した折に刻んだものと思われる。

 昭和62年3月 鴻巣市教育委員会

    

    
                  「武蔵用水」に架けられた「中宿橋」を渡ります。

(12:50)バス停「追分」。この先が「箕田追分」になります。

中山道と忍・館林道との分岐点。右手に「中山道」碑と解説板。

絵図「江戸時代の箕田追分周辺」。

 ・・・
 朝、江戸を出発した旅人は、その日の夕方には鴻巣宿に着き、旅籠屋に宿を取って、翌朝、再び中山道を西に向かって旅立ちます。鴻巣宿からほぼ1里(約4キロメートル)ほど行くと、箕田村の追分あたりに着き、ひと休みすることもあります。追分からは、北に向かって三ツ木・川面を経て忍(行田市)や館林(群馬県)城下へ向かう道が分かれるので、ここを箕田村字追分というようになりました。
 鴻巣宿から熊谷宿までは4里6丁40間(約16キロメートル)の長い距離があり、途中の箕田・吹上・久下村の三ヶ所には立場と称せられる休憩所がありました。立場は立場茶屋ともいい宿場と宿場との間にあって、そこで旅人がワラジを買い替えたり、お茶を飲みダンゴを食べるなど、休息するところです。箕田の追分には立場があったので、旅人休息はもちろん、近村から寺社参詣などで旅立つ者を見送る人々も、ここでしばしの別れを惜しんだのです。
 ・・・ 
忍(行田)、館林への道。

振り返って望む。

    
   「追分地蔵堂」。                          「庚申塔」。
全景。


「追分」付近の1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
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馬室原一里塚から熊谷宿まで。その3。(旧中山道をゆく。第4日目。)

2016-01-16 21:40:05 | 旧中山道
                  しばらく新興住宅地。所々に稲刈りを終えた田圃が続きます。
「一里塚」のような雰囲気。丘の上に祠があります。

道筋に所々、貼ってある「中山道」という表示が案内してくれます。

        
  ここは中山道前砂村。英泉の「鴻巣・吹上富士」はこのあたりで描かれた。 

 
  『岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉

人家が途絶えた寂しい道は鴻巣宿近辺ではなく、さらに先、間の宿がある吹上辺りの風景である。旅路の目印となる榎が疎らに植えられた昿原(こうげん)の縄手を旅の商人や虚無僧が往き交い、背景では雪を頂く富士の山が雄大な姿を現している。 

今は「老人ホーム」が視界を遮っています。
                                   この建物からは富士山が遠望できるのでしょうか。

右手の田圃の向こうに高崎線の電車が。 

(13:15)しばらく進んだ左手には「前砂一里塚」。

     
     解説板も跡碑もほとんど判読不可能な状態です。日本橋から14里目。

 右手のお宅の中に解説板があります。ちょっと入らせてもらいました。

鴻巣市指定文化財

高札(12枚)
 文化年間(1810年頃)幕府によって作成された「中山道分間延絵図」によれば、前砂村の高札場は村の中程、旧中山道の北側にあったことが分かる。
 高札は幕府のお触れを庶民に知らせる重要な手段の一つであるが、江原家(旧名主)に保管されている12枚は切支丹札、人売買札、浪人札等当時の動きを知る上で貴重な資料といえる。

忍領界石標
 天正18年(1590)徳川家康が江戸に入ってその領地となった関東は、幕府直轄地や旗本領社寺地など入りくんで諸所境界争いが絶えなかった。そのため各領主は、自分の領域を示す杭を建てた。御分木ともいったが忍藩では安永9年(1780)6月領主阿部正敏の時、「従脊西忍藩」の石標を旧中山道で隣接する中井村との境南側に建てた。
 本石標は高さ2メートル、幅30センチメートル、厚み21センチメートルの堂々たるものである。

解説板の裏手にある「領界石標」。東海道ではよく見かけたましたが。

分岐点にもお手製の案内表示。 

案内碑通りに右斜め道を進みます。

かつては浮世絵のごとく見わたす限り広大な関東平野。

「東海道」で三重から京都にかけて見かけた「飛び出し」坊やとは違いますが。

住宅街を進み、「高崎線の」踏切を越えると、「吹上」。踏切の手前に道しるべ。
          

中山道間の宿吹上
 ・熊谷宿へ2里6町(約8.6粁)・京三条大橋へ120里10町(472.7粁) 
 ・鴻巣宿へ2里3町(8.2粁) ・江戸日本橋へ15里32町(62.4粁)

 鴻巣宿は池川宿から1里30町に対して、熊谷宿へは4里6町余と長く、荒川堤防上の「久下の長土手」の手前、「吹上」が「間の宿」として茶屋や休憩所が出来ました。吹上には茶屋本陣、宿屋、料理茶屋などがあったそうです。また、「八王子千人同心街道」が通っていました。

注:「八王子千人同心街道(せんにんどうしんかいどう)」
  江戸時代に八王子千人同心が日光勤番のために整備した八王子から日光へ至る、40里(約160km)の脇往還に属する街道である。沿道 では日光道などと呼ばれていたが、日光街道と区別するために千人同心街道、日光火の番街道、八王子街道、館林道、日光脇街道など とも呼ばれた。現在でも、埼玉県日高市から鶴ヶ島市にかけての国道407号は「日光街道杉並木」という名称で杉並木が残っている。

線路脇を斜めに進み、広い道に合流します。 

街道筋らしいおうちもチラホラ。

「吹上本町」の交差点を左折します。
 今でこそ駅前からの道は広く、北に通じていますが、かつてはここで荒川土手に向かって左折する道しかありませんでした。

 鴻巣宿から熊谷宿までは4里6町余(約16粁)と特に長かったため、立場(茶屋や休憩所・宿屋)ができ、「間の宿(あいのしゅく)」として賑わいました。八王子千人同心街道とも交わる街道の名所です。

 
1880年代のようす。←が「八王子千人同心街道。この道はわずかに「中山道」を通り、北側に抜けていきました。

 左に折れてすぐにある「東曜寺」付近が間の宿「吹上」の中心部。門前は中山道と八王子同心街道とが重複していたこともあって、立場・料理茶屋などが軒を連ねていました。

(14:10)しばらく進むと高崎線と交差する所に出ます。そこに解説板と「中山道」碑があります。
    
吹上「間の宿」
 中山道の街道筋にあたる吹上は、鴻巣と熊谷の「あいの宿」として発展した町ですが、江戸期、幕府公認の宿場ではありませんでした。
 しかし、それにもかゝわらず重要視されたのは、日光東照宮を警護する武士たちの「日光火の番道」と、中山道が町の中央部で交差すること。また鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間に休憩する場所として「お休み本陣」や、馬次ぎの「立場」を設置する必要があったからです。
 年に30家もの大名が江戸や国許へと行列を飾り、多くの文人や墨客たちも足をとどめた「吹上宿」。中でも信濃の俳人小林一茶や加舎白雄、狂歌師で戯作者でもあった太田南畝、浮世絵師の池田英泉などはそれぞれ得意な作品を残しています。そして江戸以来、吹上の名物は「忍のさし足袋」と荒川の「うなぎ」、「榎戸の目薬」も街道の名品に数えられていました。
 この場所は、かつての中山道が鉄道の開通によって分断された地点にあたっています。

       
  「渡線橋」から高崎線を見下ろす。あいにく列車は撮れなかった。中山道は左奥に進みます。

振り返って望む。

しばらく道なりに進むと「中山道 榎戸村」の石碑。   
 ここは榎戸村の上方。村は中山道に面して東西5丁、南北6丁の小村だが、江戸以来、吹上、大芦村から糠田村に至る八ヶ村への田用水を供給する元荒川の「榎戸堰」があり、風光明媚な所として知られた。

(14:25)右に行くと「榎戸堰公園」。トイレもあり、小休止。
    
                             「元荒川」の流れ。   
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馬室原一里塚から熊谷宿まで。その4。(旧中山道をゆく。第4日目。)

2016-01-15 22:43:08 | 旧中山道
 久下(くげ)の荒川土手下に「権八地蔵」があります。
鴻巣市指定民俗資料 権八地蔵とその物語

 権八は、姓を平井といい鳥取藩士であったが、同僚を殺害したため脱藩し江戸に逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し、大金を奪い取った。あたりを見廻すと地蔵様を祀った祠があった。
 良心が咎め己の罪の深さに、いくばくかの賽銭をあげて「今、私が冒した悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵が「吾は言わぬが汝言うな。」と口をきいたと伝えられている。
 この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。権八はそのご捕らえられ、延宝8年(1680)に鈴ヶ森の刑場(東京都品川区南大井)で磔の刑に処せられた。

 平成24年2月  鴻巣市教育委員会

 「Wikipedia」によって、少し補足します。

 権八は新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となりますが、やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ってしまいます。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあった普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れますが、すでに父母が死去していたことから、自首。1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死しました。享年25。
 小紫は権八の刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害。同寺に「(権八と小紫との)比翼塚」がつくられましたが、同寺が廃寺となったため移転し、目黒不動瀧泉寺に現存しています。

 歌舞伎の世界では、「白井権八」として登場。幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)とのエピソードが多く語られますが、実在の長兵衛は1657年に殺害されており、時代にずれがあるようです。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会い(御存じ鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名です。長兵衛との説話では、権八はこの後、長兵衛の食客となったとされ、「権八」といえば「居候」を意味するほどに普及したエピソード。
 「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲、同年)等があります。
 吹上宿には、権八の辻斬りに由来した「荊原権八延命地蔵」があります。(注:この地蔵が久下の「物言い地蔵」のこと)

                           (「Wikipedia」より)

(14:35)中山道はこの地蔵堂の先で荒川土手にさしかかり、「久下の長土手」を経て、熊谷宿に至ります。その間は景色の良さと共に追い剥ぎの名所だったとも伝えられます。上の解説板にあるような、平井権八の強盗殺人事件もこの土手で起きた、ということです。

    
                                     振り返って望む。「元荒川」の流れ。

 荒川堤防には、人と自転車のみ通行できる土手上の、サイクリングロード・遊歩道と、土手の中腹を進む、車も通れる道路とがあります。旧中山道はそちらの車道のようです。
 その道は車の行き来がけっこうあり、前を見たり、後ろを振り返り、振り返り歩くことになるので、景色もよく、安心して歩ける土手上の歩道を歩きました。

 ところが、そのまま進み、「久下橋」を横切り、その先まで土手上を行ってしまうと、旧道沿いの集落を通らずに「熊谷駅」方向に行くことになってしまうので、要注意! 

 「ライオンズマンション行田壱番館」手前からは、一本下の道(車道)を行くことになります。

    
       土手下のおうち。                          荒川河川敷。

「荒川左岸70.8k」。河口(海)までの距離です。
 以前、自転車で荒川(放水路)の土手の道を下り、河口まで行ったことがありました(約10キロ)。
「荒川」河口。「0km」の表示。

 ここは、そこから70㎞上流ということになります。

右手奥が二棟並ぶ「ライオンズマンション行田」。

 本来の「旧中山道」はその手前で、堤防上の道から離れて、右へ下り、中腹の道を進みます(車道)。

 ところが、注意も払わず、車止めが設置された「歩行者専用道路」の方へ進んでしまいました。こうなると、旧中山道とは離れていくばかり(短い区間、重複するところもありますが)。

 土手の上の、車が通らない「快適」な道。自転車で快走する若者、ジョギングを楽しむ人、犬を連れての散歩、ご夫婦でお散歩、と行き交う人々。時折、互いに声を交わしながら進み、「久下橋」の上を横断し、長い桜並木を進んで行きます。
 ここまで来ると、もう「中山道」とは関係のない1時間以上の散策。桜並木の途中で土手を下り、広い道に出てしばらく歩き、右折すると、「熊谷駅」南口のロータリーに突き当たりました。・・・

 

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 「久下の長土手」にあたる区間。土手下の流れは「元荒川」。中山道はもっと「元荒川」沿いのようです。ただし、「元荒川」も「荒川」堤防大改修に伴い、流路変更された可能性、大。

(14:50)その手前の堤防上に、「決潰の跡」碑。

 洪水の恐ろしさを物語る碑。1958(昭和33)年に建立。
 1947(昭和22)年9月のカスリーン台風による洪水のため、この地点で堤防が決壊しました。石碑の碑文には2箇所が決壊し、延長は約100mに及んだとあります。決壊による濁流はすぐ東側を流れる元荒川(荒川の旧流路)に沿って流れ、大きな被害を出しました。この時の洪水では下流の田間宮村(現.鴻巣市大間)でも、大間堤(荒川の左岸堤防)が決壊。利根川の右岸堤防も大利根町(新川堤)で決壊した(現在、跡地はカスリーン公園)。さらにもっと下流地域の中川(古利根川)などでも決壊し、「荒川」以東の下町地域も床上浸水などの大きな被害が出ました。

堤防下。向こうには「元荒川」。

(15:20)そのまま進むと「久下橋」下流を望む。

「荒川」の流れそのものは、はるか遠くに。


(15:30)「久下の渡し・冠水橋跡」碑。
                              ここは、「旧中山道」と重なるところか?

対岸を望む。

集落の中を通る道が「中山道」だった! 

 しかし、そのまま堤防上を進んでいくと、上空からエンジン音が響いてきます。見上げると「モーターパラグライダー」でしょうか、悠然と舞っています。



(15:40)さすがにここまで歩いてくると、たどっている道のおかしさに気づきます。手にした「案内図」では左手に見えるはずの「東竹院」の杜が土手の右下前方に。あれ!



 「道を間違えたようだ。」と。が、ここでも土手下に下るのを躊躇して、そのまま進みます。そのうち、桜並木が続くようになります。さぞかし春には華やかな・・・。 

(15:50)「海まで75㎞ 水源まで94㎞」。

はるか西には山々の姿がうっすらと。時刻は、そろそろ午後4時。

(16:15)結局、その先を下って「万平公園」脇を通り、「熊谷駅南口」まで向かいました。

熊谷駅南口にある解説板。
                     ○のところで土手を下り、駅方向に行くのが「旧中山道」(→)。

「久下橋」からの富士山。
                               せめてこれくらいは見たいものでしたが。

 ということで、結局、後半の約1時間は「中山道」歩きではないまま、終了。これではどうしようもないので、しかたなく後日行くハメに。今度は下調べも十分にしてから、ということで。次回は迷うことなく歩きます。
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馬室原一里塚から熊谷宿まで。その5。(旧中山道をゆく。第4日目。補足編)

2016-01-14 20:56:31 | 旧中山道
 というわけで、またまたやって来ました、荒川土手に。今回は高崎線「行田」駅で下車。西口をまっすぐ進むと、先日も目にした「ライオンズマンション行田壱号館」の脇で、荒川の土手にぶつかります。そこから再開、ということに。

 1月8日(金)快晴。

 行田駅には昼少し前に到着。腹ごしらえをして、と思いましたが、西口には、お店は一軒もなし。エッ! 自販機でお茶を購入して、ま、天気もいいし、小一時間で「熊谷駅」に着くだろうから、その途中でもいいか、とこれまた安易な気分で出発。実は、「熊谷駅」付近まで食べ物屋さんらしきものは一軒もありませんでした。・・・

 土手下には、「一里塚」跡があります。その手前の草むらには、ぽつんと「馬頭観音」。たしかに旧街道筋だという実感が。



(12:15)そのまま草地を下って行くと、小さな祠が「一里塚」跡。日本橋から15里目のもの。

    

一里塚跡(久下新田)
 江戸の日本橋を起点とする中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)幕府は、大久保長安らに命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方4間(9米四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり、憩いの場所にもなった。
 柳樽には
 くたびれた奴が見つける一里塚
という句もある。

 昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会 

 たしかにそんな気分に。
 そういえば、この句、東海道歩きでも見たことがありました。忘れもしない、去年8月。
 「石薬師の一里塚」の解説文中に、

 《くたびれた やつが見つける 一里塚(江戸時代の川柳)》 と。
 
 炎天下、照り返しの強い舗装道路、人っ子一人通らない道をひたすら歩いて来て、いささか草臥れてしまった時に出会いました。

この一里塚は日本橋から102里目でした。

 今回は、別の意味で一安心。さて、「中山道」を続けます。
振り返って望む。

ここは左の道を進みます。

 住宅と大きく広がる田畑。冬とは思えない、何やら春めいた陽気。
    

道は次第に土手を下って行きます。振り返って望む。

分かれ道のところにある「久下堤の碑」。
 明治45年(1912)に建立。この付近の堤防は、もともと旧荒川(元荒川)を締め切る堤防として築かれたもの。江戸時代初頭から存在する堤防です(近年になって大改修されてはいますが)。碑文には約4Kmにわたり、久下堤を修復したと記されています。
 「後の世までも 修堤記録 輪型の碑」。

土手下から上流方向を見上げる。

 久下地区の集落に入って行きます。左手の熊谷市役所久下出張所にある絵入り解説板。荒川の河川敷にあり、荒川の近代改修によって分断され、その後廃村になった旧・新川村(しんかわむら)の当時のようすが記されています。

 新川村は人口は約550人、家数94戸、舟の数49艘(明治20年)でした。「新川」とは江戸時代初頭におこなわれた荒川の瀬替え(流路を西へ変更)によって、新たに開削された荒川を指しています。
 当時の村では、男は養蚕、農業のあいまに舟や筏に乗って新川と江戸(東京)を往復。女は蚕仕事がない時は、糸を紡ぎ機を織った。村内には鵜づかい漁ををする者もいました。
 「新川」河岸は荒川の河岸場としては最上流に位置していますが、明治時代の初期でも、かなりの規模があったようです。
 江戸時代には新川河岸は、忍藩の御用河岸として、年貢米の積み出しも行われていました。また、新川河岸には、筏に組まれて荒川を下って来た木材を、一時的に保管する係留場もあり、筏の組み替え作業なども行なわれたうた、といいます。絵図を見ると、賑わいを見せていたことがわかります。




 荒川の右岸、左岸の河川敷には、旧・新川村(しんかわ)の墓地が残ていて、今もご先祖の供養に訪れる人が多いという。また、河川敷には墓地以外にも、新川村上分(かみぶん)の屋敷森と土砂に半分埋まった三島神社の鳥居が無言で残っているそうです。

 現在、地元では「幻の村」として散策コースが整備され、失われたかつての暮らしの痕跡が垣間見られるようです。

    
        左手に広がる河川敷あたりか? 畑は耕され、遠くには屋敷林なども。



 1880年代の「新川村」のようす。河岸には集落や船着場もあります。右上をかすめているのが、「中山道」(久下の長土手)。荒川に沿ってもう少し東北方向に家並みが広がっていました。現在残っている「三島神社」そのはずれにあたります。



2010年代のようす。すっかり河川敷内に。屋敷林など集落があった当時の面影も残されているようです。

 「久下出張所」前の通り。大きな屋敷が並びます。
    

「源助大根」が道端に。

振り返って家並みを望む。

「久下橋」に通じる橋脚をくぐります。

屋号の入った蔵。

 しばらく進むと車道から離れ、旧中山道は荒川土手に向かいます。その右手先には、「権八地蔵」、「道標」などがあります。
分岐点から振り返る。

        
            (12:40)「権八地蔵」。
 元禄11年(1698)に造立された地蔵。江戸時代に平井権八が罪を犯し、お地蔵様に向かって「誰にも言うな」と明かしたところ、「我は言わぬが、汝こそ言うな。」と答えたという逸話で知られています。

 その前の久下権八公園には、「熊谷堤碑」。篆額は伊藤博文、とのことです。
(元は明治12年建立)

「中山道」の道標。    「右 熊谷道 左 松山道」。

この付近、わずかですが、旧道は失われているようです。 



 1880年代のようす。船着場があります。現在の久下橋よりも上流の地点。「旧久下橋」が出来る前の対岸への渡し場だったのでしょうか。左上に「東竹院」の名が見えます。
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馬室原一里塚から熊谷宿まで。その6。(旧中山道をゆく。第4日目。補足編。)

2016-01-13 22:14:06 | 旧中山道
(12:55)荒川の堤防に上がると、すぐ右手に「久下の渡し 久下冠水橋跡」碑があります。

    
 ここに「思いやり橋」と呼ばれた久下冠水橋がありました。
 春は菜の花、秋にはススキを見ながら、人も自転車も車ものどかに渡りました。
  車一台やっと通れる橋、車は対岸を確かめ、あうんの呼吸で渡りました

 幅2.7㍍長さ282.4㍍3㌧。中央部99.4㍍の区間は幅4.5㍍の待避所あり。4種類不揃いな44本の橋脚。ムカデに似た貴重な冠水橋でした。
 昭和30年県道・冑山熊谷線として大里と久下を結んで架設され、48年間、地元の志画かつ道路として利用されました。平成15年6月の新久下橋完成とともにその役目を終えました。
《周辺の歴史》
 この地は鎌倉時代には熊谷直実の叔父の久下氏の良一で、やや下流には館もあったおいわれる。
 江戸の頃、幕府の施策でこの一帯は荒川の付け替え大工事が行われ現在の荒川になった。
 以後、明治の鉄道開設まで江戸との舟運の起点、久下新川河岸として「栄え、帆を張った草船や中山道の旅人で賑わった。
 舟運が廃れたあと、渡しが対岸との交通手段となっていたが、昭和30年頃県道の一部として久下冠水橋が架けられた。
 
 もう少し詳しく「Wikipedia」を参照して。
 
 開通は1955年(昭和30年)7月19日。開通当時は市町村道の橋梁だったが、地元住民の埼玉県への陳情により1966年(昭和41年)4月に県道(埼玉県道257号冑山熊谷線)に昇格されている。
 橋脚が鋼製(一部コンクリート製)、橋桁が木製の冠水橋であった。欄干は初めは付けられていなかったが住民の要望に応じ、1968年(昭和43年)6月頃に鉄パイプを立ててワイヤーを張った簡素な欄干が設置された。この欄干は洪水の際に着脱が可能なものである。元々は中洲を挟み熊谷側と大里側にそれぞれ橋が架けられていたが、洪水などで中洲が消失した他、橋の破損の補修を繰り返しているうちに1本の橋に繋がったものである。橋の中央部の幅員がやや広くなっているのはその名残である。
 1970年代から永久橋に架け替える計画が存在しており、1977年(昭和52年)10月11日に久下・佐谷田地区内関係者を対象に地元公民館で説明会が行われたが、生活に密着した身近な橋であったことや騒音問題を危惧したことなどから、地元住民によって「久下橋かけかえ反対期成同盟会」が結成され、住民と行政にて長期に亘る協議・交渉が行われた。
 珍しい構造の橋であることから文化的意味合いもあって、地元では撤去を惜しむ声が強く「久下橋を残す会」が結成され署名運動が行われ約四千名の署名が集まったことで保存も検討されたが、老朽化が著しく、河川の管理上や財政上の問題もあり、各種方面との協議の結果、最終的に撤去する結論に至った。
 埼玉県道最後の冠水橋であった旧橋は、現行橋の開通に伴い、2003年(平成15年)6月15日午後5時をもって通行止となり50年近い歴史に幕を閉じ、同年度中に撤去された。
 2004年(平成16年)9月4日に左岸側の旧橋跡付近に記念碑・説明板と旧橋主桁部の廃材で作製されたベンチが有志による募金にて設置された。

    
                                    冠水時のようす。
                        (HPより)

    
 来た道を振り返って望む。                        対岸を望む。

 その先を下って行きます。正面のおうちのところに解説板が立っています。
みかりや跡

 中山道を往来する旅人相手の茶店で「しがらきごぼうに久下ゆべし」のことばがある通り、「柚餅子」が名物だったのだろう。また、忍藩の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので、「御狩屋」と呼ばれたという。

 昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会 戸森昭三(みかりや)

 忍藩主が狩りの時に休んだのが、店名の由来。明治・大正期は、カイコの幼虫の蚕種製造をしていました。御狩屋の店主の戸森家には、茶店の名物だった柚餅子(ゆべし)の作り方が伝っているそうです。
(この項 HPより)

 また、「英泉の描いた八丁堤の景」という解説板。


右に見えるのは、権八地蔵と道標?

立派な門構えと広い敷地のおうち。

土手方向を望む。

先ほどの車道に合流し、進みます。

(13:05)左手に「東竹院」。
    

荒川寄りには養魚場・釣り堀(埼玉中央漁協)。
                                鱒の養魚場で、釣りも出来る、らしい。
 しばらくそのまま進みます。「元荒川通り」とぶつかる手前に、世界で熊谷市のみに生息する「ムサシトミヨ」が棲む川に出会います。

    

    
 ここは、世界で熊谷市のみに生息するムサシトミヨがすんでいる川です。
 許可を得ないで、動物・植物を採捕することは禁じられています。 
 川の汚れを少なくし、豊かな緑と清流を守るため皆さんのご協力をお願いします。

 平成8年3月 熊谷市・熊谷市教育委員会 環境庁 埼玉中央漁業協同組合 熊谷市ムサシトヨミを守る会・・

 流れを見ていると、食卓に上る食材が。

    

元荒川の水草 オランダガラシ(クレソン)
 生食野菜として明治初期に輸入。クレソンの名で食用に栽培されていたものが野生化した帰化植物。
 全国の河川や湧水のある水路に群生する。通常水面上に繁茂するが、湧水中では沈水状態でも生育する。
 茎が太く流れに安定で、特にヒゲ根はムサシトミヨの巣の素材として好まれる。
 ヨーロッパ原産。

 ムサシトミヨ保全推進協議会


 ムサシトミヨはトゲウオ目トゲウオ科トミヨ属に属する体長3cm~5cm位の淡水にすむ1年魚です。オスが水草などで球形の巣を作り、子育てをする珍しい魚です。
 湧き水が出ていた昭和30年代頃までは、東京と埼玉の限られた湧水に生息していました。埼玉県内では、熊谷市のほかに上里町・本庄市・川越市などでも見られました。
 しかし、開発による川の汚染や湧き水の枯渇などにより、現在では熊谷市の元荒川上流域が世界で唯一の生息地となってしまいました。この周辺は豊かな地下水を利用した養鱒場があり、汲みあげられた地下水が放流されてきたため生き残ったのです。
 2011年2月調査の推計生息数は22,655尾。ムサシトミヨは、環境省や埼玉県のレッドリストで「絶滅危惧IA類」※に分類され、絶滅の危機に瀕する希少な魚です。

※ごく近い初来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの
                           (HPより) 

 旧中山道はその先で右に折れ、「元荒川通り」を突っ切って進み、その先を左に折れ、先ほどの道に合流します。


 「熊谷」と「久下」の境だった「熊久橋」跡。
                              「過ぎし世の熊久橋(ゆうきゅうばし)や左富士」

 この「左富士」というのは「東海道」には二ヶ所ありましたが、「中山道」で? 
 この表現は、京から江戸に向かう旅人の視線なのでしょう。京から来るとき、はるか右手遠くに見える富士山が、道を曲がったここからは一瞬、左手に見えるということに。


1880年代のようす。→が「熊久橋」付近。直角に曲がっていることがわかる。「元荒川」の流れも確認できる。

「元荒川」。

 先ほどの通りに合流し、少し「元荒川通り」方向に進んだところには「元荒川起点の碑」。
        

元荒川の源流付近(南側)。

北側。
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馬室原一里塚から熊谷宿まで。その7。(旧中山道をゆく。第4日目。補足編。)

2016-01-12 18:44:01 | 旧中山道
                    旧中山道は街中をそのまま北西に向かい、熊谷駅方向に進みます。

 しばらく行くと、右手「曙・万平自治会館」の脇に祠があり、そこが「一里塚跡」。日本橋から16里目。
    
                      八丁の一里塚跡
 久下新田の一里塚から、ここまで1里ある。いま英泉描くところの「八丁堤の景」という浮世絵があって、当時の風景や風俗を偲ぶことができる。

 昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会

(13:40)熊谷駅が見えてきたら、右折して踏切を渡ります。最初に「秩父鉄道」線、次にJR線と二つの踏切を通過します。

「秩父鉄道」。左奥が熊谷駅。

しばらく待って、電車の通り過ぎるところを。

 「秩父鉄道」といえば、小学校の頃、長瀞に遠足で行った時に乗ったことがあります。その時は東京から直通で終点まで行ったのかもしれません。熊谷で秩父鉄道に入った、という印象。
 それ以来、長瀞に出かけた記憶はありません。秩父鉄道には西武線から乗ったことがありますが。雲取山に登るために「三峰口」まで(いや、「西武」ではなくて「東武」だったかも)。あと何回かは乗ったことがありあmす。
 長瀞では、河川敷の大きな石畳は印象的でした。化石が出てくるとか、そんな話を聞いた記憶も・・・。
 そんなわけで、熊谷から秩父に向かう路線があることは知っていましたが、東に向かう路線があったとは! 「行田」を通って「羽生」まで行っているのですね。

秩父鉄道 


 埼玉県北部を東西に横断する秩父本線(秩父線)と、貨物線である三ヶ尻線の2路線を保有・運営している。長瀞渓谷や宝登山を中心とする長瀞の観光開発を行ってきた会社でもあり、直営の「長瀞ライン下り」は大正時代からの歴史を有する。
 過去には、乗合バス、貸切バス事業、索道事業(三峰ロープウェイ)も行っていた。バス部門は秩父鉄道観光バスに分社している。三峰ロープウェイは廃止になっているが、子会社の宝登興業では現在も索道事業(宝登山ロープウェイ)を行っている。
 太平洋セメントが筆頭株主であり、同社の前身である秩父セメント時代から行っている武甲山から産出される石灰石を運ぶ貨物輸送が盛んである。

(以上「Wikipedia」参照)

こちらはJR高崎線。

(13:50)そのまま道なりに進むと、国道17号線にぶつかります。「銀座一丁目」交差点。
ここから「17号線」に沿って左に進む。

 「筑波」交差点まで来ましたが、さすがにかなりお腹が空いてきました。駅前に向かうことに。

    
                               「星川」。

(14:08)しかし、食べ物屋さんはあまりなさそう。と、「焼鳥 日高」。そこで肉もネギも満載のお蕎麦を食べました。けっこうボリュームもあり、美味しい。
 ふと、お店にあるお酒の一升瓶を見ると、「文楽」の名が。お店の人に「上尾の文楽ですか」と尋ねると「そうです」とのこと。冷やで飲んでみました。空きっ腹にはほどよい酔い心地。その勢いで、せめて熊谷宿本陣跡まで行ってみることに。

(14:40)再び「国道17号線」(中山道)に復帰して、西に向かいます。所々に古い家屋が残っています。
    

(14:48)しばらく進むと、植え込みに「札の辻」跡。
    

札の辻跡(熊谷市指定文化財史跡)
 札の辻は、高札の設置場所で、高札場とも言われた。高札は、掟・条目・禁令などを板に書いた掲示板で、一般大衆に法令を徹底させるため、市場・街道など人目を引く所に掲示された。
 熊谷宿の高札場は、宝永年間に記された「見世割図面写」により、場所・大きさなどが推定できる。
 場所については、「町往還中程に建置申候」と記され、木柵で囲まれた屋根のある高札場が描かれている。この説明から、高札場は現在の大露路通りと中山道の交差する道の中央辺りにあったことが推察できる。高札は、高さが一1丈4寸(2.3㍍)、横幅が6尺4寸(約2㍍の大きさであった。高札14枚は市指定文化財として保管され、中山道の歴史を知る資料となっている。札の辻は、中山道の記憶を今に伝える史跡として貴重な文化財である。

 平成27年3月 熊谷市教育委員会

お店の入口にも「札の辻」の石柱。

(14:52)通りの向こう側のバス停が古くて立派な屋根の形をしています。
そろそろ本陣跡に。

    

本陣跡(熊谷市指定文化財史跡)
 本陣は、江戸時代初期の寛永12年(1635年)、諸大名に対する参勤交代制度が確立されてから各街道の宿場町に置かれた休泊所である。諸大名や幕府役人、公家貴族などのための特別な旅館でもあり、門・玄関・上段の間を設置することができ、旅籠屋などの一般の旅館とは区別されていた。
 また、本陣を担った経営者も土地の豪家で名字帯刀を許されることが多かった。
 熊谷宿の本陣のうち、街道の南側、本町1丁目の西端に位置していたのが「竹井本陣」であった。敷地1600坪、建坪700坪、47部屋を有する、国内屈指の規模を誇る本陣だった。しかし、明治の火災と、終戦前夜の空襲で失われ、現在では本陣跡が残されるのみとなった。本陣の西には、竹井本陣別邸だった市指定名勝「星渓園」があり、その当時の面影を今に伝えている。

 平成27年3月 熊谷市教育委員会

 今回はここまでにして、「星渓園」の「玉ノ池」の伏流水によって出来た「星川」沿いの遊歩道を歩いて、熊谷駅まで戻ってきました。

(15:12)熊谷駅前。「熊谷次郎直実」の雄姿。

北口階段アート「小さな王子さま」。

ついでに南口階段アート。「虹色の未来」。

熊谷宿日本橋から8番目の宿。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、家数は1,715軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒で宿内人口は3,263人。

 なお、熊谷市は1945(昭和20)年8月15日8月15日0時23分から1時39分にかけて米軍の空襲を受けました。これは、太平洋戦争最後の空襲かつ埼玉県内における最大規模の空襲でした。そのため、熊谷市は県内では唯一の戦災都市に指定されました。

 8月13日、アメリカ軍第20航空軍司令部は、群馬県伊勢崎市と埼玉県熊谷市の2都市に、動員可能な最大限の航空兵力による攻撃命令を下した。本作戦と並行して連合国と日本との間で終戦交渉が進められていたが、第20航空軍司令官は「交渉は日本側によって遅延させられている」と見做し、期限間近に迫るまでに最大限の航空兵力を発進させる準備を進め、諸作戦を8月14日から8月15日にかけて実施するように命じた。
 このうち、熊谷市は中島飛行機の部品製造の重要拠点の一つ、または同社製品の重要な分配基地の一つとして見做されていた。
 工場爆撃を目的とする場合は高高度からの精密爆撃が行われるのが常で、その際にはM64 500ポンド爆弾などが使用されたが、熊谷市に対する攻撃に際してはM47、M69焼夷弾が主に用いられるなど、あらかじめ住宅地域を対象とした作戦となった。
 その一方で、8月14日頃には日本がポツダム宣言を受託するとの噂や昭和天皇により重大放送が行われるとの情報が熊谷市民の間に流布しており、軍関係者の親類から直接「翌15日に天皇陛下により重大な玉音放送がある」との情報を得て「今夜の空襲はない」と安堵感をもって迎えていた者もいた。
 8月14日16時52分、第314航空団の先導隊1番機がマリアナ諸島のテニアン島の基地より離陸を開始し、17時15分に第313航空団がグアム島の基地より離陸を開始した。
 この時点でアメリカ側は、日本の国策通信社である同盟通信の報道により同国のポツダム宣言受託が間近に迫っていることを把握しており、21時に開かれた太平洋戦略航空軍司令官で陸軍大将のカール・スパーツとワシントンD.C.の陸軍高官との遠隔会議において作戦中止が検討されたが、期限を22時までとするスパーツの主張を陸軍高官も支持し、期限までに日本側の正式通告がない場合は予定通り作戦を実行するように応じた。


  空襲後の市街地。この写真は市内西部の石原地区を写したもので、右上から左下を通る道路は中山道である。

 この爆撃による火災は5時頃までに鎮火したが、市街地の74%に相当する35万8000坪、全戸数の40%に相当する3630戸が焼失。全人口の28%に相当する1万5390人が被災し266人が死亡、約3000人が負傷した。市街地の中心部を東西に流れる星川周辺では、人家が密集していたこともあり100人近い死者を出し、空襲後は死傷者であふれかえったという。
 8月15日2時頃には児玉郡本庄町と同旭村でも空襲があり、本庄町では富士瓦斯紡績本庄工場、本庄国民学校、高層気象台本庄出張所が被害を受け1人が死亡、旭村では4戸が焼失した。本庄地域は熊谷と共に攻撃目標とされ29人が死亡した群馬県伊勢崎市(伊勢崎空襲)と距離的に近いが、『本庄市史』は両者の投弾点の規則性の違いから、熊谷での空襲を終えたB-29が基地への帰還の際に投下したものと推測している。
 また、熊谷と伊勢崎に対する攻撃部隊は作戦終了後、帰投路付近の東京都西多摩郡古里村では民家が焼失するなど22人が被災、神奈川県小田原市では402戸が焼失し12人が死亡するなどの被害を受けた。前者は伊勢崎と下田とを結ぶ直線上、後者は熊谷と下田とを結ぶ直線上に近いが米軍側の報告書に記録はなく[97]、日本側では余剰爆弾の投棄と見做されている。
(以上、「Wikipedia」参照)

 「東海道」歩きの時も沼津、浜松など空襲で大きな被害を受けた都市を見てきましたが、埼玉県内でもこうした大きな空襲があったことを知りました(群馬県内の被害は知っていましたが)。
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さいたま副都心駅から馬室原(まむろはら)一里塚まで。その1。(旧中山道をゆく。第3日目)

2016-01-09 18:42:37 | 旧中山道
 2015年の暮れも押し詰まったさなか、家人は家の大掃除で忙しそう。担当の年賀状書きも終わり、さっと、旧中山道へ。第3日目。

 12月26日(土)。快晴。午前9時20分から午後3時30分まで。

 (09:20)「さいたま副都心駅」を出発。目標は、高崎線「北本」駅の先にある「馬室原一里塚」まで。

広い道路の頭上には「旧中山道」という立派な表示。

 すぐに「大宮氷川神社」の「一の鳥居」とケヤキ並木の参道が右手に。古中山道はそこを通っていたが、その後、北側に進む現在の中山道になりました。



 「大宮宿」は、江戸・日本橋から4番目の宿場。土曜日のせいか、車は多いが、人通りは少なめ。右手の街道沿いに「塩地蔵」の碑。

この碑の前の小道を入る。

 その昔、父と二人の娘が旅をしていたのですが、あるとき旅の途中で父親が病気になったそうです。すると、お地蔵様から塩断ちをするようにとお告げがありました。 娘たちが塩断ちをして、お地蔵様に祈ったところ、父親の病気が全快したため、お礼に塩をたくさん奉納したということです。今でも山盛りの塩が奉納されているそうです。

そこから来た道を振り返る。

 ところどころに取り残されたような古い家屋。
    

 さらに進んでいくと、「第四銀行大宮支店」の店舗が目に付きました。その名称にパチリ。


「第四銀行」
 新潟県におけるリーディングバンクとして、県内に強固な経営基盤を有し、県及び新潟市の指定金融機関とされている。新潟市中央区の本店のほか、地域拠点として長岡市に長岡営業部、上越市に高田営業部を設けている。
 1872年(明治5年)に制定された国立銀行条例に基づいて設立された金融機関のうち、俗に言う「ナンバー銀行」の商号のまま現存する法人としては最古の銀行である。2013年(平成25年)に「創業140周年」を迎えた。
 同時期に設立された第一、第二、第五の各銀行は「第一銀行」が「みずほ銀行」、「第二銀行」が「横浜銀行」、第五銀行が「三井住友銀行」となって現在に至っている。第三は開業中止のため当時欠番だった。

 ところで、その建物の南側には「涙橋」の碑があるようですが、見逃しました。
 江戸時代に、刑場に護送される罪人を、その橋まで見送ることができたということです。 涙・・・涙のお別れだったようです。
涙橋は、鴻沼へ流れる水路に架けられた「中之橋」が正式名だそうです。(この項、「さいたま市立図書館」HP参照。)

「涙橋」との出会いは、これで4回目。「日光街道」の千住(小塚原)、「東海道」の品川(鈴ヶ森)、磐田(遠州鈴ヶ森)と、ここ。
 刑場は、「高台橋」の脇にあった「下原刑場(しもはら けいじょう)」。「下原」は一帯が原っぱであったことにちなむものです。この刑場は、現在の「さいたま新都心」駅の東側一帯にあたります。

高島屋を過ぎた辺り。繁華街。

 なお、現「高島屋」の場所には、紀州鷹場本陣(北澤本陣)が場所にあり、それに因んだ社が屋上にあるそうです。

 ところで、《大宮宿》

 人口:1508人(男679人 女829人)家数319軒
 本陣:1 脇本陣:9 旅籠:25 日本橋から約7里16町(29.2km)
 吉敷町から土手町まで9町30間の町並み。
 
 (9:45)「中央通り」が本陣や脇本陣、旅籠が軒を連ねていた宿場の中心街でした。 左側すずらん通り角の「キムラヤ」が当初の「本陣」を勤めたといわれる「臼倉本陣」跡です。



 店の裏手には消えかけて判読不能の解説板と、当時からの井戸水であるつくばいがあります。


 この他、脇本陣、問屋場、高札場など、江戸時代の史跡の案内表示がないため、場所を確認することはできません。
 その先しばらく進むと「大宮宿」も終わり、東北本線と東武野田線のガードをくぐります。


「官幣大社」の石柱付近から「大宮宿」を望む。

ガードには「中仙道」の表示が。

ガードを越えたところから。

この付近の地名は「土手町」。浮世絵に描かれたような風情はありません。かつては富士山が望めたのでしょうか

          
          『木曾街道 大宮宿 冨士遠景』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉

 水ぬるみ、田畑は地色を覗かせ、桜が花をつける早春の郷(さと)。左手には、青面金剛像の彫られた庚申塔と近在の農民の暮らしが描かれる。木鍬(き-ぐわ)を携えて道を行く年老いた農夫と、大きな竹籠を背に付き従って歩く孫であろう幼子である。右手には大宮宿を後にしてなだらかに続く土手を上方(京)へと向かう旅人の様子が描かれている。商いの旅などであれば頓着の無いことが多いようではあるが、土手の上にまで幾人も見られる旅人の往く手には丹沢山地と富士の眺望がひらけている。この風景は、現在、針ヶ谷の大橋陸橋交差点の小堂に納められている庚申塔(東大成の庚申塔)あたりの、かつての様子である。もっとも、土手と田畑の高低差は実際これほどではなく、誇張して描かれている。

    
 「武州川越くらづくり本舗」。               「スイートポテト べにあかくん」。



 実は、中山道。「県道164号線」と重なって進むようですが、道路の拡幅工事が進められ、道路は広くなり、沿道周辺は近郊都市としての機能が進んでいます。
 まだ所々、拡幅工事が進まず、狭い場所も残っていますが、多くは道幅も広くなり、沿道には新しい家屋や大型総合ショッピングセンターや大きな飲食チェーン店(それぞれ大きな駐車場)、さらに住宅地が広がっています。沿道にあったと思われる樹木などの緑も少なくなり、また史跡、建物など街道筋を偲ばせるものはほとんど見当たりません。そこは「旧東海道」歩きとは大違いです。
 そのため、写真もほとんど撮らないまま、車の激しく行き交う舗装道路・歩道を次の宿場に向かうことになります。「鴻巣」辺りまではこんな感じ? わざわざ歩かず、車で通過したいような心持ちになってきます。


       (10:40)「新幹線」と「国道17号線」の下をくぐります。右手奥に埼玉新都市交通伊奈線「加茂宮」駅。

つい、こんな看板を撮ってしまう。「カウンター婆ア 女猫」。

 (11:05)JR線高崎線「宮原」駅を過ぎ、しばらく進むと、右手に「加茂神社」。



 栄泉の描く「木曾街道69次」の「上尾宿」の画は「加茂神社」付近。「加茂神社」は上尾宿よりも3㎞ほど手前の「宮原」にあります。

            
         『木曾街道 上尾宿 加茂之社』天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉

 描かれたのは、実りの季節を迎えた神域と農民の働きぶり、そして旅路である。上尾宿と江戸方に一つ手前の宿場である大宮宿との間に位置する加茂神社と加茂宮村が舞台に選ばれた。秋祭りが近いであろう社には何本もの加茂大明神の奉納幟がはためいている。その中の一部に絵の版元「いせり(伊勢利)の宣伝が見えるのは、絵師一流の洒落っ気である。社の前では男2人女2人の農民が唐箕を使って籾(もみ)の精選に励んでいる。その奥には立場茶屋(天神橋の立場)があり、今しがた茶屋を発った侍と供の2人連れ、一服しようと立ち寄る商人1人が見える。もっとも、実際の立場は、近くはあっても神社と隣接していたわけではなかった。また、街道筋の境内前に出張って唐箕を使うなど、ずいぶんおかしな光景には違いない。つまり、絵師は3つの画題を一画面に詰め込んだのであり、絵画的工夫の結果としてこの図がある。
 
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さいたま副都心駅から馬室原一里塚まで。その2。(旧中山道をゆく。第3日目。)

2016-01-08 22:04:51 | 旧中山道
 「16号線」を越えた右手の「宮原小学校」に樹齢100年以上という「センダン(栴檀)」の大木がありました。「センダンは双葉より芳し」といいますが、「双葉より芳し」いのはこの木ではなくて、インド原産のビャクダン(白檀)のようです。そうであっても、小学校のところにあるので、やはり「双葉より芳し」といういわれにあやかりたい気がします。

 

冠木門があるしゃれたお店。

「南方神社」を過ぎて、そろそろ小休止を、と。(11:20)ちょうど右手に「さいたま市宮原コミュニティーセンター」があったので、トイレ休憩を兼ねて。

(11:40)その先、左手に。「河村屋」。

 江戸文化文政期に地酒「養老の瀧」の取り扱いを行い、その酒粕を利用して粕漬を創り出しましたのが「創作漬物 河村屋」の始まりです。
 八代目恒八郎から代々伝わる商いの基として「時代の移り変わる中で、常に『変えるべ きもの』と『変えてはいけないもの』があることを見極め、「お客様の役に立つ漬物」を世に出すと言う、信念を持ち、その時代の流れに即した対応を取ることが肝要である。」 と教えられ、河村屋九代目として、これを社の基本理念とし、今も守り続けております。
・・・
私たちは、お客様と商品に常に真摯に向き合います。
当社の精神を最大限表現する場として、直営店を営業させて頂いております。お近くにお寄りの際には、どうぞお店に足を延ばしていただき、お客様の目と舌で当社の漬物を味わい、評価してください。それは、当社にとって何よりの喜びであり、より美味しく品質の高い商品を創る源となります。

(以上、「」HPより)

    
                            「ギャラリーかわむら」
「ギャラリーかわむら」は、大宮本店の向かい側にあります旧本店を地域の皆様にご利用いただきたいと思い、ギャラリースペースとして貸し出しを始めました。展示会や発表会などにご利用いただけます。
 平成5年に埼玉県景観賞を受賞した数奇屋造りの純和風建物で、屋内は静かで落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
・・・
(「同」HPより)

すぐ先で「さいたま市(大宮)」から「上尾市」に。 

    

 バス停のすぐ脇にある「庚申塔」。川越への分岐点にもなっていて、正面には青面金剛が彫られ横に「是より秋葉へ十二町 ひご方へ壱里八町 川越へ三里」と刻まれています。

歩道には「中山道」の表示。道沿いに表示されています。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
                          ←が「庚申塔」付近。



都市計画が進行中の沿道。

 上尾の中心街に入っていきますが、街道筋らしい古いおうちも残されています。
 


 「上尾」駅前に向かいます。この付近に「一里塚」があったようですが、その痕跡はまったくありません。

 「藤村病院」の道路を挟んだ向かい側に「氷川鍬神社」。上尾宿の鎮守で、地元では「お鍬さま」と呼ばれています。
 伝説によれば、寛永8年(1631年)桶川宿方より来た童子が引いていた櫃が上尾宿本陣前で動かなくなり、童子はいずこかへ消え失せた。 翌正月に櫃を開けてみると、鍬2本と稲穂があり、鍬2本を神体として本陣前に社を建立して祀ったのが創建の経緯と伝えられます。長く、御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)と呼ばれてきました。

その門前に「上尾宿」の解説板。

中山道上尾宿と本陣

 上尾市の市街の中心は、中山道にそった上尾宿をその源にしていますが、この揚げを宿はすでに後北条時代に宿駅として成立したようです。宿駅として整備されたのは、慶長8年(1603)の伝馬制施行以降のことです。幕府は中山道各宿駅に、50人50匹の人馬を用意させ、主要幹線路としての役割をはたさせました。
 また、各宿に本陣・脇本陣を置いて大名などの宿泊所としました。中山道を通行した大名は加賀藩の前田家をはじめ、34家ほどでした上尾宿は、中山道の中では比較的小さな宿場でした。江戸時代末の家数は、182軒、人口は793人、旅籠屋は、41軒でした。
 図は文化3年(1806)完成の「中山道分間延絵図」に描かれた中山道上尾宿の中心部です。中央の太い道筋が中山道で、画面右が大宮方面、左が桶川方面になります。画面下側中央の鳥居が鍬大神宮(今の氷川鍬神社)、鍬大神宮の正面に本陣があり、その両側に脇本陣が二軒あります。その右近くには問屋場、さらに右に行くと道をはさんで両側に一里塚があります。鍬大神宮のすぐ右側にもう一軒の脇本陣が描かれています。上尾宿には本陣が一軒(林八郎右右衛門)、脇本陣が三軒(本陣右が白石長左エ門、左が井上五郎右右衛門、向かいが細井弥一郎)ありました。これらは主として参勤交代の大名たちの宿で、本陣のことは「大名宿」とも呼ばれました。脇本陣は副本陣のような性格をもち、本陣の代理もしました。

 平成11年3月    上尾市教育委員会 埼玉県北本県土整備事務所

 「Wikipedia」で補足します。
 
 「上尾」は幕府直轄領(通称:天領)。町並みは10町10間(約1.1km)。
 現在の仲町付近が上尾宿の中心で、本陣・脇本陣・問屋場・高札場などはここに集中していた。 比較的小さな宿場であったが、本陣の規模は信濃国・塩尻宿のものに次ぐ大きさを誇った。
 上尾宿は江戸を出立してからおよそ10里の地点にあり、日本橋を七つ立ちしていれば、上尾宿で最初の宿を探すことになる。そのため、周辺の宿場より旅籠が多く、天保の頃で41軒と賑わっていた。 また、飯盛旅籠(めしもり-はたご)も多い。『中山道宿村大概帳』には飯盛女の数49人とあり、これを目当てに川越や岩槻あたりからやってくる遊び客も少なくなかったという。茶屋も数軒あり。
 地名は戦国時代からある郷村名で、高台の田(上田)端の意であろうとされる。
 当地は、鎌倉時代には源頼朝配下の武将・足立遠元、戦国時代には後北条氏配下の岩槻城主・太田氏の支配下にあった。 後北条時代、既に宿駅として成立していたが、近世・江戸時代以降の宿場は慶長8年(1603年)に指定されたものである。 荒川の舟運が開かれ、江戸と結ぶ流通の要衝となった。複数の脇往還が交差する地点で、米の積み出しの拠点でもあった。
安政6年(万延元年、西暦1860年)には大火に見舞われ、このとき、多くの歴史的建造物を焼失している。
・・・

そこから北(上尾駅前)方向を望む。

(12:15)駅前に到着。ベンチで昼食休憩。

「中山道 上尾宿」の表示。

「上町の庚申塔」先から来た道を振り返って望む。

 その先右手に「文楽東蔵(ぶんらくあずまぐら)」。ずいぶんとおしゃれなお店です。2008(平成20)年、軽井沢にある「川上庵」の支店が、「東蔵」の名前でオープンしたようです。Jazzが流れる中、おいしい蕎麦とおいしいお酒を楽しめるお店、らしいです。



株式会社 文楽
 創業110余年の歴史を有する“酒蔵・文楽”
 創業者である北西亀吉は、荒川水系の伏流水が豊富に湧き出るこの埼玉の地で、明治27年に日本酒の醸造をはじめました。
 日本の伝統芸能である“文楽”の名前を持つこの酒蔵には、義太夫・三味線・人形遣いの三位一体の精神を、米・水・麹で造りだす日本酒に生かしたいとの思いが込められております。
 そして平成19年 秋、“酒蔵・文楽”は新しい蔵を建設。創業以来守り抜いた伝統の技と、近代的な設備の調和の中で、「伝統と先進」の体制が整い、新たな“酒蔵・文楽”がスタートいたしました。
 社屋の1Fには蕎麦レストラン、「東蔵」を併設。美味しいお料理と蔵出しの日本酒を贅沢な空間でお楽しみいただけます。
 皆様のお越しをお待ちしております。

(「」HPより)

 こういうお店があることが分かっていたら、ここでランチをすればよかった!

と、そうこうしているうちに、「上尾宿」の北のはずれに。「彩の国 平成の道標」。

    
                                       瓦屋根の上には、「鍾馗様」が。

上尾宿の歴史 
 上尾宿は、日本橋から9里16町のところにあり、中山道の5番目の宿場であります。宿場として発達したのは、江戸時代初期の伝馬制施行以降であり、江戸後期になると紅花の産地として有名になりました。上尾という地名については歴史的な根拠を持つものはありませんが、鴨川と芝川の間の小高い地形からつけられたといわれています。

①「木曽街道上尾宿加茂之宮」渓齋英泉作
 鉄鋼脚絆にわらじがけで、道中笠をかぶった武士、文箱のようなものをかついだ飛脚、こもを背負った六部などの旅姿が描かれています。この作品は、大宮宿と上尾宿の中間にある加茂神社を描いたものです。

②鶴亀の松
 鎌倉街道と中山道が交差するあたりに、土手松の呼び名で知られた2本の老松がありました。一方を鶴松、他方を亀松と称し、街道筋でかなり目立った存在でした。

③「五海道中細見記」の上尾宿付近
 上尾と書かれた下部には、鍬大明神(現在の氷川鍬神社)が、その左には高札場の印と細井、井上の両脇本陣の名が記されています。また、上尾宿と大宮宿の間には英泉の「木曽街道」にも描かれている加茂社もみられます。

④鍾馗様(しょうきさま)
 鬼屋根瓦の家に対して鍾馗様を以て対峙する意味で置いていたものです。これは中山道の他の宿場町では見ることができない上尾特有のものでした。鍾馗様は疫病神を追い払う神といわれています。
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