旧中山道は街中をそのまま北西に向かい、熊谷駅方向に進みます。
しばらく行くと、右手「曙・万平自治会館」の脇に祠があり、そこが「一里塚跡」。日本橋から16里目。
八丁の一里塚跡
久下新田の一里塚から、ここまで1里ある。いま英泉描くところの「八丁堤の景」という浮世絵があって、当時の風景や風俗を偲ぶことができる。
昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会
(13:40)熊谷駅が見えてきたら、右折して踏切を渡ります。最初に「秩父鉄道」線、次にJR線と二つの踏切を通過します。
「秩父鉄道」。左奥が熊谷駅。
しばらく待って、電車の通り過ぎるところを。
「秩父鉄道」といえば、小学校の頃、長瀞に遠足で行った時に乗ったことがあります。その時は東京から直通で終点まで行ったのかもしれません。熊谷で秩父鉄道に入った、という印象。
それ以来、長瀞に出かけた記憶はありません。秩父鉄道には西武線から乗ったことがありますが。雲取山に登るために「三峰口」まで(いや、「西武」ではなくて「東武」だったかも)。あと何回かは乗ったことがありあmす。
長瀞では、河川敷の大きな石畳は印象的でした。化石が出てくるとか、そんな話を聞いた記憶も・・・。
そんなわけで、熊谷から秩父に向かう路線があることは知っていましたが、東に向かう路線があったとは! 「行田」を通って「羽生」まで行っているのですね。
秩父鉄道
埼玉県北部を東西に横断する秩父本線(秩父線)と、貨物線である三ヶ尻線の2路線を保有・運営している。長瀞渓谷や宝登山を中心とする長瀞の観光開発を行ってきた会社でもあり、直営の「長瀞ライン下り」は大正時代からの歴史を有する。
過去には、乗合バス、貸切バス事業、索道事業(三峰ロープウェイ)も行っていた。バス部門は秩父鉄道観光バスに分社している。三峰ロープウェイは廃止になっているが、子会社の宝登興業では現在も索道事業(宝登山ロープウェイ)を行っている。
太平洋セメントが筆頭株主であり、同社の前身である秩父セメント時代から行っている武甲山から産出される石灰石を運ぶ貨物輸送が盛んである。
(以上「Wikipedia」参照)
こちらはJR高崎線。
(13:50)そのまま道なりに進むと、国道17号線にぶつかります。「銀座一丁目」交差点。
ここから「17号線」に沿って左に進む。
「筑波」交差点まで来ましたが、さすがにかなりお腹が空いてきました。駅前に向かうことに。
「星川」。
(14:08)しかし、食べ物屋さんはあまりなさそう。と、「
焼鳥 日高」。そこで肉もネギも満載のお蕎麦を食べました。けっこうボリュームもあり、美味しい。
ふと、お店にあるお酒の一升瓶を見ると、「文楽」の名が。お店の人に「上尾の文楽ですか」と尋ねると「そうです」とのこと。冷やで飲んでみました。空きっ腹にはほどよい酔い心地。その勢いで、せめて熊谷宿本陣跡まで行ってみることに。
(14:40)再び「国道17号線」(中山道)に復帰して、西に向かいます。所々に古い家屋が残っています。
(14:48)しばらく進むと、植え込みに「札の辻」跡。
札の辻跡(熊谷市指定文化財史跡)
札の辻は、高札の設置場所で、高札場とも言われた。高札は、掟・条目・禁令などを板に書いた掲示板で、一般大衆に法令を徹底させるため、市場・街道など人目を引く所に掲示された。
熊谷宿の高札場は、宝永年間に記された「見世割図面写」により、場所・大きさなどが推定できる。
場所については、「町往還中程に建置申候」と記され、木柵で囲まれた屋根のある高札場が描かれている。この説明から、高札場は現在の大露路通りと中山道の交差する道の中央辺りにあったことが推察できる。高札は、高さが一1丈4寸(2.3㍍)、横幅が6尺4寸(約2㍍の大きさであった。高札14枚は市指定文化財として保管され、中山道の歴史を知る資料となっている。札の辻は、中山道の記憶を今に伝える史跡として貴重な文化財である。
平成27年3月 熊谷市教育委員会
お店の入口にも「札の辻」の石柱。
(14:52)通りの向こう側のバス停が古くて立派な屋根の形をしています。
そろそろ本陣跡に。
本陣跡(熊谷市指定文化財史跡)
本陣は、江戸時代初期の寛永12年(1635年)、諸大名に対する参勤交代制度が確立されてから各街道の宿場町に置かれた休泊所である。諸大名や幕府役人、公家貴族などのための特別な旅館でもあり、門・玄関・上段の間を設置することができ、旅籠屋などの一般の旅館とは区別されていた。
また、本陣を担った経営者も土地の豪家で名字帯刀を許されることが多かった。
熊谷宿の本陣のうち、街道の南側、本町1丁目の西端に位置していたのが「竹井本陣」であった。敷地1600坪、建坪700坪、47部屋を有する、国内屈指の規模を誇る本陣だった。しかし、明治の火災と、終戦前夜の空襲で失われ、現在では本陣跡が残されるのみとなった。本陣の西には、竹井本陣別邸だった市指定名勝「星渓園」があり、その当時の面影を今に伝えている。
平成27年3月 熊谷市教育委員会
今回はここまでにして、「星渓園」の「玉ノ池」の伏流水によって出来た「星川」沿いの遊歩道を歩いて、熊谷駅まで戻ってきました。
(15:12)熊谷駅前。「熊谷次郎直実」の雄姿。
北口階段アート「小さな王子さま」。
ついでに南口階段アート。
「虹色の未来」。
熊谷宿日本橋から8番目の宿。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、家数は1,715軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒で宿内人口は3,263人。
なお、熊谷市は1945(昭和20)年8月15日8月15日0時23分から1時39分にかけて米軍の空襲を受けました。これは、太平洋戦争最後の空襲かつ埼玉県内における最大規模の空襲でした。そのため、熊谷市は県内では唯一の戦災都市に指定されました。
8月13日、アメリカ軍第20航空軍司令部は、群馬県伊勢崎市と埼玉県熊谷市の2都市に、動員可能な最大限の航空兵力による攻撃命令を下した。本作戦と並行して連合国と日本との間で終戦交渉が進められていたが、第20航空軍司令官は「交渉は日本側によって遅延させられている」と見做し、期限間近に迫るまでに最大限の航空兵力を発進させる準備を進め、諸作戦を8月14日から8月15日にかけて実施するように命じた。
このうち、熊谷市は中島飛行機の部品製造の重要拠点の一つ、または同社製品の重要な分配基地の一つとして見做されていた。
工場爆撃を目的とする場合は高高度からの精密爆撃が行われるのが常で、その際にはM64 500ポンド爆弾などが使用されたが、熊谷市に対する攻撃に際してはM47、M69焼夷弾が主に用いられるなど、あらかじめ住宅地域を対象とした作戦となった。
その一方で、8月14日頃には日本がポツダム宣言を受託するとの噂や昭和天皇により重大放送が行われるとの情報が熊谷市民の間に流布しており、軍関係者の親類から直接「翌15日に天皇陛下により重大な玉音放送がある」との情報を得て「今夜の空襲はない」と安堵感をもって迎えていた者もいた。
8月14日16時52分、第314航空団の先導隊1番機がマリアナ諸島のテニアン島の基地より離陸を開始し、17時15分に第313航空団がグアム島の基地より離陸を開始した。
この時点でアメリカ側は、日本の国策通信社である同盟通信の報道により同国のポツダム宣言受託が間近に迫っていることを把握しており、21時に開かれた太平洋戦略航空軍司令官で陸軍大将のカール・スパーツとワシントンD.C.の陸軍高官との遠隔会議において作戦中止が検討されたが、期限を22時までとするスパーツの主張を陸軍高官も支持し、期限までに日本側の正式通告がない場合は予定通り作戦を実行するように応じた。
空襲後の市街地。この写真は市内西部の石原地区を写したもので、右上から左下を通る道路は中山道である。
この爆撃による火災は5時頃までに鎮火したが、市街地の74%に相当する35万8000坪、全戸数の40%に相当する3630戸が焼失。全人口の28%に相当する1万5390人が被災し266人が死亡、約3000人が負傷した。市街地の中心部を東西に流れる星川周辺では、人家が密集していたこともあり100人近い死者を出し、空襲後は死傷者であふれかえったという。
8月15日2時頃には児玉郡本庄町と同旭村でも空襲があり、本庄町では富士瓦斯紡績本庄工場、本庄国民学校、高層気象台本庄出張所が被害を受け1人が死亡、旭村では4戸が焼失した。本庄地域は熊谷と共に攻撃目標とされ29人が死亡した群馬県伊勢崎市(伊勢崎空襲)と距離的に近いが、『本庄市史』は両者の投弾点の規則性の違いから、熊谷での空襲を終えたB-29が基地への帰還の際に投下したものと推測している。
また、熊谷と伊勢崎に対する攻撃部隊は作戦終了後、帰投路付近の東京都西多摩郡古里村では民家が焼失するなど22人が被災、神奈川県小田原市では402戸が焼失し12人が死亡するなどの被害を受けた。前者は伊勢崎と下田とを結ぶ直線上、後者は熊谷と下田とを結ぶ直線上に近いが米軍側の報告書に記録はなく[97]、日本側では余剰爆弾の投棄と見做されている。
(以上、「Wikipedia」参照)
「東海道」歩きの時も沼津、浜松など空襲で大きな被害を受けた都市を見てきましたが、埼玉県内でもこうした大きな空襲があったことを知りました(群馬県内の被害は知っていましたが)。