おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

やっぱり衣の下に鎧が見えた!改憲の狙いがあからさまに。

2013-07-30 20:55:40 | 格言・ことわざ
ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演(読売新聞) - goo ニュース
 正直の上に「バカ」が付くほど。
 そういうやり方で憲法改「正」をしていくために、参院選でも多くを語らず、経済的成果(これとても、実に危うい「大本営発表」みたいなもの)のみを訴えた「改憲こそ命」のアベさん。
 親の心子知らず(ではなく、深謀遠慮に長けている「子」の心を、「親」は知ってか知らずかその本心を暴露する。)実に麻生さんらしい軽さ。
 特に、「護憲」「護憲」と騒いでいて・・・、とかマスコミが騒いで・・・、とかと、明らかに狙いはマスコミと護憲勢力(参院選で「共産党」の伸びたことへ警戒心?)への牽制であるのは目に見えています。

 「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。(国民が)騒がないで、納得して変わっている。」

 ナチスが徹底した暴力、弾圧と懐柔で「巧妙に」権力を手中にし、破滅に導いていったか。戦前のドイツの歴史を全く無視した、この発言。国民(ドイツ国民も含めて)を愚弄するにもほどがあります。
 しかし、ナチスが共産党弾圧の口実にでっち上げたのが国会議事堂放火事件、そして、一気にワイマール憲法擁護勢力を蹴散らしていった! むしろ、そんな歴史の教訓を生かしていくこと、実は、それを暗示しているのか?
 さらに櫻井よしこ率いる人たちがいよいよ扇動して回る(反対勢力を「非国民」とののしりながら)きっかけにしようとしていく・・・。

 よくも言ったり。
 さて、アベさん、どうフォローする?

「衣の下の鎧」ころものしたのよろい
〔平清盛が息子の重盛に鎧姿を隠すために上に衣をまとったことから〕
体よくとり繕ったうわべの下からのぞいている本音や本心。(「大辞林」第3版より)
 
 「うわべでは取り繕ってはいるものの、本音がちらついて見えること」のたとえで、表向きは穏やかな態度を取っているが、「影では武力で押さえつけるような動きをちらつかせること」。
 
 ともあるように、「武力で押さえつける」ことが背景にはあることを見抜かなければ、将来大変なことになる。

「親の心子知らず」
【意味】 親の子に対する深い愛情がわからず、子が勝手気ままにふるまうこと。
    また、自分が親になってみなければ、親の気持ちはわからないということ。
【注釈】 親が子に対して深い愛情をそそぎ苦労をして育てても、子はそれを悟らず、浅はかな考えで反抗したり、
    好き勝手にふるまうものである。
     親子関係にだけでなく、目上と目下の間柄にも使う。
【類義】 親の思うほど子は思わぬ/子を持って知る親の恩
【対義】 子の心親知らず
【英語】 When the rain rains and the goose winks little wots the gosling what the goose thinks.
    
より。

 そういえば、アベ政権発足後、しばらくたって、民主・海江田代表が「安倍政権は衣の下に鎧を着ている」と発言したことがありました。


「時事通信」より。
・どうしてヒトラーはそんな民主的な憲法の下で、独裁体制を構築できたのだろうか。

 1933年1月のヒトラー内閣成立直後の3月、国会で「全権委任法」が可決された。これは政府に立法権を委ねる法律で、ヒトラーはこれによってワイマール憲法を無視し、大統領の承認や国会の制約も受けずに国を支配することが可能になった。当初は時限立法だったが、更新が繰り返され、ナチス独裁に正当性を与える法的根拠となった。全権委任法は、国会議席の3分の2以上の賛成がなければ成立できない法律だったが、ヒトラーの政治工作によって圧倒的賛成多数で可決された。

・ナチスはユダヤ人迫害も法律にのっとって実行していったのか。

 その通り。全権委任法成立後、ナチスはユダヤ人迫害のための法律を次々に施行した。同法成立直後の4月には、非アーリア系(ユダヤ人)の公務員らを強制的に退職させる法律も制定された。ユダヤ人の社会権・生存権を否定する立法・政令は枚挙にいとまがないほどだ。反ユダヤ立法の最たるものは35年のニュルンベルク法で、ドイツ人との結婚を禁じるなどユダヤ人からあらゆる権利を剥奪した。

・全権委任法がヒトラーの暴走を許したわけだね。戦後のドイツはこの教訓をどう生かしているのだろうか。

 ワイマール憲法は実質的に、全権委任法の成立を可能にしていたと同時に、危機に際して国家元首の権限を拡大する緊急命令発布権を認めていた。これらがナチス独裁に道を開いたワイマール憲法の大きな弱点だった。その反省から、戦後のドイツ基本法(憲法)は為政者への全権委任を認めていない。また、改憲は連邦議会の3分の2以上の賛成で可能と規定されているが、基本的人権や三権分立の保障を定めた条文の改正は決して認められていない。



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旧小名木川駅付近を通過するディーゼル機関車。(越中島支線をたどる。その4。)

2013-07-29 19:30:54 | 鉄道遺跡
 小名木川駅跡にできた巨大なショッピングモール「アリオ北砂」。整備された道路の西側に越中島貨物線があります。単線でほぼ一直線。小名木川の橋梁を通過してまもなくレール輸送列車(復路)が通るはずです。橋の向こうに見えるのは「ツイン・タワー」。
 午後2時40分過ぎ。このあたりには踏切がありませんが、機関車は警笛を鳴らしてゆっくりとやってきました。そして、10分くらい停車。そして、「越中島貨物駅」に向かいました。午後の暑い日差し。自転車、歩きの親子連れ・・・、誰も気にとめる風がありませんでした。見慣れた風景なのでしょう。
高架になっていますが、それほど高くなく、目の前を通過する感じ。
最後尾。何やら作業用の工作機械のよう。
逆光のためあまりうまく撮れなかった。
けっこう長い貨車です。
「越中島貨物駅常備」「レール輸送専用」という標記。
先頭車両。どういう用い方をするのか工作機械車両が先頭にも。
左手が「越中島」方向。
しばらくして発車しました。
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韓非子

2013-07-28 12:23:22 | 格言・ことわざ
『韓非子』より亡徴(第十五)。「亡国の徴候(条件・きざし)」を挙げています。

「~者」(~というような場合)」、「可亡也」(政治は危ない、国家は滅びかねない)という形の47条の文を列挙。どれもこれも、今もどこかの組織、国で当てはまるような・・・。

・凡人主之国小而家大、権軽臣重者、可亡也。
国は小さいのに臣の家が大きく、王の権力が弱くて臣の権力が強い場合、可亡也。

・簡法禁而務謀慮、荒封内而恃交援者、可亡也。
王が法律を軽んじてはかりごとにばかり関心があり、国内を荒れさせる一方で友好国からの援助を頼みにしているような場合、可亡也。

・群臣為学、門子好弁、商賈外積、小民右杖者、可亡也。
家臣たちが(役に立たない)学問を行い、子弟が弁舌が巧みなのを好み、商人が外国に蓄えを持ち、下の者が上に頼るばかりの場合、可亡也。

・好宮室台榭陂池、事車服器玩好、罷露百姓、煎靡貨財者、可亡也。
王が建物や器物の好み凝って、人民を使い富を浪費する場合、可亡也。

・用時日、事鬼神、信卜筮而好祭祀者、可亡也。
王が日の吉凶や占いや祭り事を好んでいる場合、可亡也。

・聴以爵不待参験、用一人門戸者、可亡也。
王が業績も調べずに爵位を与え、特定の一人の言うことだけを用いている場合、可亡也。

・官職可以重求、爵禄可以貨得者、可亡也。
有力者の口ぞえがあればそれで役職につくことができ、賄賂で爵禄が得られる場合、可亡也。

・緩心而無成、柔茹而寡断、好悪無決、而無所定立者、可亡也。
王が志にゆるみがあり、決断力がなく、(政治を行うに)確固とした方針がない場合、可亡也。

・饕貪而無饜、近利而好得者、可亡也。
貪欲で目先の利を得ることを好む王がいる場合、可亡也。

・喜淫乱而不周於法、好弁舌而不求其用、濫於文麗而不顧其功者、可亡也。
王がでたらめな処置を行い、法律を厳守せず、巧みな弁舌を好み、その先を考えず、体裁のよさだけを見てその効果を顧みない場合、可亡也。

・浅薄而易見、漏泄而無蔵、不能周密而通群臣之語者、可亡也。
底が浅く考えていることを簡単に見透かされ、意図を隠しておくことができず、家臣らのいうことをすぐ別の人に言う、そういう人が王である場合、可亡也。

・狠剛而不和、愎諌而好勝、不顧社稷、而軽為自信者、可亡也。
強情で諫言も聞かず、勝ち負けにこだわり、国家を顧みず、正しいことかどうか考えずに軽々しく事を行って、自分はよいことをしたと思いこんでいる、自信過剰な人が王である場合、可亡也。

・恃交援而簡近隣、怙強大之救而侮所迫之国者、可亡也。
友好国をあてにして近くの隣国を軽んじ、(自国より)強大な他国が助けてくれるとたかをくくって自国を圧迫してくる国を軽くみている場合、可亡也。

・羈旅僑士、重帑在外、上間謀計、下与民事者、可亡也。
外国の出で、しかも家族などが外国にあるような者が人民と一緒になって政治にたずさわる場合、可亡也。

・民信其相、下不能其上、主愛信之而弗能廃者、可亡也。
民が大臣を信頼するも、家臣は主上を信頼することができず、王もその大臣を信頼してやめさせることができない場合、可亡也。

・境内之傑不事而求封外之士、不以功伐課試、而好以名聞挙措、羈旅起貴、以陵故常者、可亡也。
国内の有能な人物が官に仕えず、外国の人物を求め、功績でなく名聞名利で人事を行うことを好み、自国の古参の者にかわって外国の出の者が高貴な地位につく場合、可亡也。

・出君在外而国更置、質太子未反而君易子、如是則国携、国携者、可亡也。
亡命して国外に王がいて人質となっている太子が帰ってこないうちに別の子を太子とする場合、可亡也。

・挫辱大臣而狎其身、刑戮小民而逆其使、懐怒思恥、而専習則賊生、賊生者、可亡也。
大臣に恥をかかせてなれなれしくあつかい、人民を多く処刑して使役の仕方もまちがっていると、恨みをもたれ反乱が頻発する場合、可亡也。

・大臣両重、父兄衆強、内党外援、以争事勢者、可亡也。
大臣の間に二つの強い勢力があり、また君主の親族たちが力を持ち、国の内外の者と手を結んで勢力を争うような場合、可亡也。

・婢妾之言聴、愛玩之知用、外内悲惋、而数行不法者、可亡也。
王が個人的にかわいがっている女たちの言うことが政治に用いられ、国には悲しみ怨む者が多いにもかかわらず、王がしばしば不法を行う場合、可亡也。

・簡侮大臣、無礼父兄、労苦百姓、殺戮不辜者、可亡也。
家臣を馬鹿にし、親族に礼を用いず、人民を苦しめ、罪のない者を殺す場合、可亡也。

・好以知矯法、時以私雑公、法禁変易、号令数下者、可亡也。
(王が)一存で法をまげ、時に私的な思惑が公に入りこみ、禁令の内容がたやすく変わり、(内容のちがう)命令がたびたびくり返される場合、可亡也。

・無地固、城郭悪、無蓄積、財物寡、無守戦之備、而軽攻伐者、可亡也。
確固とした地形による守りがなく、城壁の質は悪く、蓄えもなく、財物も少なく、守りも戦の備えもないのに他国を軽々しく攻撃する場合、可亡也。

・種類不寿、主数即世、嬰児為君、大臣専制、樹羈旅以為党、数割地以待交者、可亡也。
王家の一族がみな短命で、王がしばしば代わり、乳児が王となり、大臣が権力を一手に握り、外国の出の者に徒党を作らせ、たびたび土地をさしだして(強国との)友誼を期待している場合、可亡也。

・太子尊顕、徒属衆強、多大国之交、而威勢蚤具者、可亡也。
太子の地位が高く、従う味方が多く、大国とのつながりがあり、即位より前に強大な力を持っている場合、可亡也。

・変褊而心急、軽疾而易動発、必狷忿而不訾前後者、可亡也。
王が移り気で思い立つとすぐ行動に移し、失敗するとすぐに腹を立てて前後を顧みない場合、可亡也。

・主多怒而好用兵、簡本教而軽戦攻者、可亡也。
王が怒りっぽく戦に走ることを好み、農業や練兵をおろそかにして、それでいて軽々しく他国を攻める場合、可亡也。

・貴臣相妬、大臣隆盛、外藉敵国、内困百姓、以攻怨讎、而人主弗誅者、可亡也。
高位の家臣が互いの仲が悪く、大臣が権力を持ち、外国の力を借り、人民を苦しめて、互いに争っているのに、王がそれを処罰できない場合、可亡也。

・君不肖而側室賢、太子軽而庶子伉、官吏弱而人民桀、如此則国躁、国躁者、可亡也。
王が無能で近親者に有能な者がいる、あるいは太子の力が弱く妾腹の子がそれと同じぐらい力を持っている、または官吏の力が弱く民を抑えられず、国が不穏になる場合、可亡也。

・蔵怨而弗発、懸罪而弗誅、使群臣陰憎而愈憂懼、而久未可知者、可亡也。
王が怨みをしまったままにしておき、罪人を処罰せず、そのためにかえって家臣らが王を憎み、ますます恐れを抱き、それでも長くそのことに気付くことができない場合、可亡也。

・出軍命将太重、辺地任守太尊、専制擅命、径為而無所請者、可亡也。
出征する際に将に権限を与えすぎたり、辺地の防備にあたる将の地位が高すぎたりして、将が自分ですべて事を行い、上からの統制がない場合、可亡也。

・后妻淫乱、主母畜穢、外内混通、男女無別、是謂両主。領主者、可亡也。
王の妻や母が姦通を行い、内(宮)と外(朝廷)の者が出入りし、男女の秩序がない。これを両主(=二勢力ができる)というが、そうした状況になる場合、可亡也。

・后妻賎而婢妾貴、太子卑而庶子尊、相室軽而典謁重。如此則内外乖。内外乖者、可亡也。
后や正室がさげすまれ、下女や妾が高くあつかわれ、太子の地位が低いのに対し、庶子の地位が高く、宰相が軽んじられて(謁見をつかさどる官で本来政治的な権限は弱い)典謁が重んじられる。このように上下・内外の区別がない場合、可亡也。

・大臣甚貴、偏党衆強、壅塞主断而重、擅国者、可亡也。
大臣の力がきわめて強く、またそれに偏る徒党が多く、王が正しい判断をできないようにして、権威を持ち国を思うままに動かすような場合、可亡也。

・私門之官用、馬府之世絀、郷曲之善挙、官職之労廃、貴私行而賎公功者、可亡也。
権力のある家の者が官として用いられ、代々の軍人の家の者はたっとばれず、町で私的に善行を行う者は賞せられるが、官にあってはたらいた者は功績を認められず、私の行いがたたえられても公の功が無視される場合、可亡也。

・公家虚而大臣実、正戸貧而寄寓富、耕戦之士困、末作之民利者、可亡也。
王家の倉は空で大臣の家の倉は満ち、もとからいる民は貧しく外から来た者は富み、耕作に励み戦では命をかける者は生活が苦しいのに、(商工業など)大したことのないなりわいの者が潤う場合、可亡也。

・見大利而不趨、聞禍端而不備、浅薄於争守之事、而務以仁義自飾者、可亡也。
大きな利益のあることがあっても手を出さず、災いのきっかけを見ても備えず、争う、防ぐといったことに意欲が薄く、仁義で自分を飾るような人が王である場合、可亡也。

・不為人主之孝而慕匹夫之孝、不顧社稷之利、而主母之令、女子用国、刑余用事者、可亡也。
王が王としての正しい行いをせず、下々の孝をよしとし、国の利益を顧みず、母親の命令を用い、また女や宦官が国を動かしている場合、可亡也。

・辞弁而不法、心知而無術、主多能而不以法度従事者、可亡也。
王が能弁で賢くしたり顔で何でもするが、たびたび法術(形式的なとりきめを守らせることで秩序を実現すること)を無視するような場合、可亡也。

・新臣進而故人退、不肖用事而賢良伏、無功貴而労苦賎、如是則下怨、下怨者、可亡也。
新参の者ばかり栄進して古参の者が退けられ、無能な者が政務を行い有能な者が退けられ、功績のない者が大事にされ骨折って働く者がいやしまれる、そのようなとき下の者は怨みをもつ、下の者が恨むような場合、可亡也。

・父兄大臣禄秩過功、章服侵等、宮室供養太侈、而人主弗禁、則臣心無窮。臣心無窮者、可亡也。
君主の親戚や大臣が功績に過ぎる俸禄を受け、身分を表す章・印や服が分を逸しており、住居や食事が奢侈であり、王がそれを禁ずることをしないと、臣下の心はやむところを知らなくなる。家臣がそうなる場合、可亡也。

・公壻公孫与民同門、暴傲其鄰者、可亡也。
君主の孫や娘婿が同じところに住み、近隣に横暴をふるう場合、可亡也。

 ついついすべて掲載してしまいました。重複があったりもするが、「法家」としての面目躍如たる内容になっています。こうした「戒め」があっても「われ関せず」、あるいは「自分には当てはまらない」ということで、今も昔も相変わらずの状態。人間の性がということでしょうか。
 政治家は本当はこれらのことを心していなければならないと思いますが、はたして。せいぜい「亡国」「亡組織」の因にならぬよう・・・。

 「韓非」は百家争鳴と呼ばれる中国思想史の全盛期に生まれた政治家。書中では分かり易い説話から教訓を引き、徹底的に権力の扱い方とその保持について説いています。「法家」。
 韓非は「性悪説」を説く儒家の荀子に学んだといわれ、非違の行いを礼による徳化で矯正するとした荀子の考えに対し、法によって抑えるべきだと主張しました(「法治主義」「信賞必罰」)。
 韓非の生まれた戦国末期は、戦国七雄と呼ばれ、春秋五覇の時代を経て徐々に天下統一の機運と超大国出現の兆しが生まれ始めた時期。天下を狙う諸国の存亡を賭けた戦いの連続で、国家同士の総力戦でもあった。その国を挙げての過酷な生存競争は、それぞれの国での人材登用の活発化にもつながっていきました。
 それまで君主の血統に連なる公子や貴族などによって運営されていた国政も、階級が下の士大夫や素性の知れない遊説の徒などに、君主の権限が委譲されることも珍しいことでは無くなっていきます。君主に権力を集中し、それをスムーズに適材に委ねる必要があったわけです。
 しかし、その結果として、当時の王権は特定の士大夫や王族に壟断されることが多く、斉(山東省)や晋(山西省)などのように国そのものを奪われてしまう例も起こっていきます。そこで韓非は分断され乱脈化した君主の権力を法によって一元化し、体系化することにより強国になるべきだと考えました。
(以上、「Wikipedia」参照)
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自民党並みの長老支配のあげく、自滅の道をたどるか。

2013-07-27 00:02:01 | 格言・ことわざ
民主幹事長に大畠氏提示へ 海江田氏、細野氏辞任早める(朝日新聞) - goo ニュース
 よりによって、原発再稼働推進派の頭目が幹事長に。それも極めつけの男。さらに、こうした人事、ひところの自民党の長老支配のころと変わりなく、新鮮さも未来もなし。「脱原発」の旗をたたんでしまうのが、この党の命脈を絶つことになると分かっていても・・・。ここにきて、自民党との差別化(差異化)はなくなってしまった。
 
 菅さん。宰相としては誠に不適格ではあった。参院選直前に「消費増税」や「TPP参加」など煮詰まっていない(むしろ自民党にやらせておけばいいのに)課題をぶち上げて、ぼろ負け。その流れが今も止まらない。いってみれば軍法会議で処断されてもいい、重大戦犯の一人。
 一方で菅さん。福島原発事故以来、その収拾に手間取ったあげく(東電の真相隠し、マスコミあげての情報操作もあって)、「脱原発」という支配層にとっての「逆鱗に触れた」ため、一斉に政・官・財・マスコミから徹底的につるし上げられた。
 「脱原発」「反原発」は、絶対的なタブー。少数派が勝手に主張するのは「ごまめの歯ぎしり」で痛くもかゆくもない。民主党を原発推進に持ち込めば、天下安泰。見事にその術中にはまる海江田さん。
 菅さんを党規処分し、細野(今にも離脱したい人間)を切ったあげく、「原発推進」の男を幹事長にするとは、民主党もこれできわまった感じ。
 若手の離党に拍車がかかる。
 ますます混乱したあげく海江田をはじめ残った連中が、自民党に行くことになるのではないか。相手にはすでにされないのにもかかわらず。あるいは、自滅。

※「逆鱗に触れる

 逆鱗(げきりん)とは、伝説上の神獣である「龍」の81枚の鱗(うろこ)のうち、あごの下に1枚だけ逆さに生えるとされる鱗のことをいう。
「龍(竜)」は、元来人間に危害を与えることはないが、あごの下にある「逆鱗」に触れられることを非常に嫌うため、これに触られた場合には激高し、触れた者を即座に殺すとされた。このため、「逆鱗」は触れてはならないものを表現する言葉となり、帝王(主君)の激怒を呼ぶような行為を指して、「逆鱗に嬰(ふ)れる」と比喩表現された。
 この故事をもとに、現代では、「逆鱗に触れる」として広く目上の人物の激怒を買う行為を指すようになり、また「逆鱗」が目上の人物の怒りそのものを指す言葉として用いられることもある。
 この故事の出典は、『韓非子』の「説難(ぜいなん)」篇にある。

 夫龍之爲蟲也 柔可狎而騎也 然其喉下有逆鱗徑尺 若人有嬰之者 則必殺人
 人主亦有逆鱗 說者能無嬰人主之逆鱗 則幾矣

 夫れ龍の蟲たるや、柔なるときは狎れて騎るべきなり。然れども其の喉下に逆鱗の径尺有り、若し人之に嬰(ふ)るる者有らば、則ち必ず人を殺す。
 人主も亦た逆鱗有り。説者能く人主の逆鱗に嬰るること無くんば、則ち幾かからん。

 龍という生きものは、穏やかな時には、馴染めば(背中に)またがる事もできるものだ。しかし、竜の喉元には鱗が逆さに生えた部分があり、これに触れる者がいると、(竜は怒り)その者をすぐに必ず殺してしまう。
 君主にも同じように逆鱗がある。(臣下の)発言者は、(具申の際に)自ら君主の逆鱗に触れるようなことがなければ、(上手くいく結果が)近いものである。

※「拍車がかかる」=物事が何かを契機としてより一層進行するようになる
拍車(はくしゃ)とは、馬術において脚扶助による騎手から馬への推進の合図(扶助)を強化する副扶助のための道具で、
靴のかかとの部分に装着する。乗馬用の靴(多くは長靴)にはかかとの上に拍車置きと呼ばれる突起があり、細いベルトで固定される。

ブリティッシュ式の標準的な棒拍。

 形状によって棒状の突起(柄、枝、棒)を持つ「棒拍」と、西部劇などでよく見られる円盤状の「輪拍」などがある。
拍車による扶助も刺激の一種であるから、こればかりに頼り常に拍車を入れていては、馬も刺激に慣れてしまい、ついには脚扶助への反応が得られなくなってしまう。

「拍車をかける」という慣用句は馬に限らず、物事の進行を加速させる意味で使われる。


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時すでに遅し。うろちょろしたあげく、世間からも「袖にされ」・・・

2013-07-26 00:02:28 | 格言・ことわざ
社民・福島党首が辞任=参院選敗北で引責(時事通信) - goo ニュース
 
 菅義偉官房長官は25日午後の記者会見で、社民党の衰退に関して「かつては自民党に対する一大勢力で日米安保条約には反対だったが、その旗を降ろす中で国民の理解が得られなくなったのではないか」と述べ、日米安保容認が決定的要因になったとの見方を示し、過去の政策のブレが党勢衰退の根本的な原因だと指摘(この方、どこかの「菅」さんとは違って、政治評論家になってもけっこう的確な視点の持ち主)。
 自民などとの野合によって政権運営を担った、そこに落とし穴があった、のに、あんたたちに今更ながら言われたくはないよ。しかし、このようにはっきり言われてしまうほど落ちぶれてしまった!
 民主にくっつき、結局、離脱した時もそう。福島・社民党の政治性(「筋」を通せない)のなさに呆れかえるだけ。
 まして、後任として人のよいのだけが取り柄(たぶん)のようなあの方では、ますます衰退の一途。
 これで、山本太郎にすり寄っていく(袖にすがる)しか道は残されていないのか。それとても、袖にされるのが落ち?

※「袖にすがる」=袖にとりついて哀れみを請う。助けを求める。
※「袖にされる」=すげない扱いを受ける。ないがしろにされる。冷淡にあしらわれる。 
 なお、語源については

 に詳しく出ています。

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朝三暮四

2013-07-25 19:48:12 | 格言・ことわざ

宋に狙公なる者有り。狙を愛し、之を養って羣を成す。
能く狙の意を解し、狙も亦公の心を得たり。
其の家口を損して、狙の欲を充せり。
俄にして匱し。将に其の食を限らんとす。
衆狙の己に馴れざるを恐るるや、
先ず之を誑かして曰はく、
「若に茅を与えんに、朝に三にして暮に四にせん。足らんか」と。
衆狙皆起って怒る。俄にして曰(い)はく、
「若に茅を与えんに、朝に四にして暮に三にせん。足らんか」と。
衆狙皆伏して喜ぶ。
(『列子』)

宋の国に狙公という人がいた。猿を可愛がって群れをなすほど養っていた。
サルの気持ちを理解することができ、猿も同様に主人の心をつかんでいた。
自分の家族の食べ物を減らしてまで、猿の食欲を充たしていた。
ところが急に貧しくなったので、猿に与える餌の茅(どんぐり)を減らすことにした。
猿たちが自分になつかなくなってしまうのではないかと心配したので、
まず猿たちを誑かして言った。
「お前たちにどんぐりをやるのに、朝は三つで暮は四つにする。足りるか」
すると猿たちは皆起ち上がって怒りだした。そこで狙公は急に言い変えて、、
「それじゃ、朝は四つで暮は三つにしよう。足りるか」と言うと、
猿たちは皆平伏して喜んだ。

 目先の違いに気をとられて、実際は同じであるのに気がつかないこと。また、うまい言葉や方法で人をだますこと。

 というわけ。むしろ、「目先の違い」よりも「目先(今日・明日)の欲」に目がくらんでしまうことではないか。将来につけが回されることを分かっていても、なおかつ目の前のごちそうに飛びつく、集団・大衆(個々だったらよく考え、どう判断するかは、微妙なはず)心理。
 ※この故事では「衆狙皆(猿たちは皆)」がカギだと思います。
 
「朝日新聞」23日朝刊に寄せた内田樹さんの文章の「落ち」として用いられていました。目先の利益誘導・欲得にかこつけて巧みに国民の歓心を得、将来の計を軽んずる政治家と、いとも簡単に騙される国民への痛烈な皮肉です。
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アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』。Ten little Indian boys 。

2013-07-24 19:35:24 | 世間世界
海江田代表、菅元首相に離党勧告へ 無所属候補応援で(朝日新聞) - goo ニュース

『そして誰もいなくなった』(原題: 「Ten Little Niggers」 のちに改題「 And Then There Were None」)
 1939年に刊行されたアガサ・クリスティの長編推理小説。

 孤島から出られなくなった10人が1人ずつ殺されていくというクローズド・サークルの代表的作品であるとともに、「童謡殺人(見立て殺人)」の代表的作品でもある。
 全世界で1億部以上を売り上げ、その評価はクリスティ作品中でも特に高く代表作に挙げられる。作者自身により戯曲化されており、何度も舞台や映画、テレビドラマとして上演されている。中でもルネ・クレール監督の1945年の映画はよく知られている。
 作者ベストテンでは、1971年の日本全国のクリスティ・ファン80余名の投票、および1982年に行われた日本クリスティ・ファンクラブ員の投票のいずれにおいても、本書は1位に挙げられている[2]。
各誌の海外ミステリー・ベストテンでは、1975年『週刊読売』で2位、1985年『週刊文春』(東西ミステリーベスト100)で4位、1999年『EQ』で3位、2005年『ジャーロ』で3位、2006年『ミステリ・マガジン』で3位、2010年『ミステリが読みたい!』1位、2012年『週刊文春』(東西ミステリーベスト100)で1位と、近年においても高評価を維持している。
 1995年にアメリカ探偵作家クラブが選出した『史上最高のミステリー小説100冊』の本格推理もののジャンルで1位、総合では10位に評価されている。クリスティ自身がお気に入り作品10作のうちのひとつに挙げている。


あらすじ

 イギリス、デヴォン州のインディアン島に、年齢も職業も異なる10人の男女が招かれた。しかし、招待状の差出人でこの島の主でもあるU・N・オーエンは、姿を現さないままだった。やがてその招待状は虚偽のものであることがわかったが、迎えの船が来なくなったため10人は島から出ることができなくなり、完全な孤立状態となってしまう。
 不安に包まれた晩餐のさなか、彼らの過去の罪を告発する謎の声が響き渡った。告発された罪は事故とも事件ともつかないものだった。その声は蓄音機からのものとすぐに知れるのだが、その直後に生意気な青年が毒薬により死亡する。さらに翌朝には召使の女性が死んでしまう。残された者は、それが童謡「10人のインディアン」を連想させる死に方であること、また10個あったインディアン人形が8個に減っていることに気づく。
 さらに老将軍の撲殺された死体が発見され、人形もまた1つ減っているのを確認するに至り、皆はこれは自分たちを殺すための招待であり、犯人は島に残された7人の中の誰かなのだ、と確信する。
 誰が犯人かわからない疑心暗鬼の中で、召使、老婦人、元判事、医者が死体となり、人形も減っていく。そして、残された3人のうち2人が死に、最後の1人も犯人がわからないまま精神的に追いつめられて自殺、そして誰もいなくなった。
 後日、救難信号を発見した島の近くの村の人間が、島で10人の死体を発見し、事件の発生が明らかとなる。事件を担当するロンドン警視庁は、被害者達が残した日記やメモ、そして死体の状況などから、事件の経緯、大まかな流れをつかむ。
 そして、当時の島の状況から、犯人が10人の中にいると考えると矛盾が生じるため11人目がいたと推理するが、それが何者で島のどこに潜んでいてどこに消えてしまったのかまではわからない。
 しかし、ある漁師がボトルに入った手紙を見つけることで全ての謎が解明する。

招かれた10人

・ヴェラ・エリザベス・クレイソーン 秘書・家庭教師を職業とする娘。
 謎の声によると、家庭教師をしていた病弱な子供に、泳げるはずのない距離を泳ぐことを許可して溺死させた。
・フィリップ・ロンバート元陸軍大尉。
 謎の声によると、東アフリカで先住民を見捨てて食糧を奪い、21人を死なせた。
・ウィリアム・ヘンリー・ブロア元警部。
 謎の声によると、偽証により無実の人間に銀行強盗の罪を着せて、死に至らしめた。
・ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴ 高名な元判事。
 謎の声によると、無実の被告を有罪にするように陪審員を誘導して、死刑判決を出した。
・エミリー・キャロライン・ブレント 信仰のあつい老婦人。
 謎の声によると、使用人として使っていた娘に厳しく接し、その結果自殺させてしまった。
・ジョン・ゴードン・マカーサー 退役した老将軍。
 謎の声によると、妻の愛人だった部下を故意に死地に追いやった。
・エドワード・ジョージ・アームストロング 医師。
 謎の声によると、酔ったまま手術をして患者を死なせた。
・アンソニー・ジェームズ・マーストン 遊び好きで生意気な青年。
 謎の声によると、自動車事故で2人の子供を死なせた。
・トマス・ロジャース オーエンに雇われた召使。
 謎の声によると、仕えていた老女が発作を起こしたときに、投与すべき薬を投与せず死なせた。
・エセル・ロジャース オーエンに雇われた召使で料理人。トマスの妻。
 謎の声によると、トマスと同じく、発作を起こした老女を助けようとせず死なせた。
(以上「Wikipedia」参照。)

 責任の取り方でお互いが疑心暗鬼になったあげく、ついに「誰もいなくなっ」てしまうことになりそうな・・・。たぶん今の執行部(根っからのお人よしの海江田さん)では「菅」切り(「缶」を切る「缶切り」すらなさそう)にまで持ち込めそうな感じがない。こうして、またしても何も決められない「烏合の衆」。むしろ、カラス集団の方が知恵もあって都会で上手に生息している。
 ということは、それ以下ということに。次の衆議院選挙までに本当に誰もいなくなる可能性、大。 
 
 もちろん、この小説の内容とはまったく無関係ですが。

余談
 童謡「Ten Little Niggers」は1864年にアメリカで作詞され、1868年にイギリスで改作された。1960年代まで黒人を見かけることのめったになかったイギリスでは、「Niggers」と言う言葉に偏見の意味があるとは誰一人思わなかったらしく、クリスティもその例外ではなかった。
 1940年、大西洋を渡ってアメリカで本書が出版された際、「Niggers」に代って「Indians」が採用された。イギリス版の童謡には実際二種類あり、「一人が結婚して、誰もいなくなった」という歌詞の方が一般的だったらしく、戯曲ではこちらをエンディングとして採用した。

 「戯曲」版にすれば、民主党、他の野党と「結婚して(野合して?)」といってもその名の通りごくごくわずかが、生き残れるかもしれない。いよいよ生き残りのための死闘(私闘?)がこれから展開されそう。
 しかし、徹底した労組弾圧・排除路線の「維新」や「みんな」と組んでいこうとする右派連中と労組支援・運動頼みの左派連中、そして市民運動連帯派、一匹狼・・・。
 路線的にも、「原発推進」「脱原発」、憲法改「正」「憲法擁護」、「対米従属」「アジア外交重視」・・・、と明らかに四分五裂している、今の民主党。?
 


Ten little Indian boys went out to dine;
One choked his little self and then there were nine.

Nine little Indian boys sat up very late;
One overslept himself and then there were eight.

Eight little Indian boys travelling in Devon;
One said he'd stay there and then there were seven.

Seven little Indian boys chopping up sticks;
One chopped himself in half and then there were six.

Six little Indian boys playing with a hive;
A bumblebee stung one and then there were five.

Five little Indian boys going in for law;
One got in Chancery and then there were four.

Four little Indian boys going out to sea,
A red herring swallowed one and then there were three.

Three little Indian boys walking in the zoo;
A big bear hugged one and then there were two.

Two Little Indian boys sitting in the sun;
One got frizzled up and then there was one.

One little Indian boy left all alone;
He went out and hanged himself and then there were none.→こちらの歌詞が小説版のもとになっている、らしい。

(One little Indian boy living all alone;
He got married, and then there were none.)→こちらの歌詞が一般的なようで、「戯曲」版はこれをもとにエンディングに。(映画もそれを踏襲している、らしい。)
 ※最後の一人がいなくなるところが、小説版と戯曲版では異なっているというわけです。


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日本三大美人。卒塔婆小町。待ち針。数寄屋橋交番。・・・。

2013-07-23 19:50:10 | 世間世界
 悪乗りついでに。

・日本三大美人=衣通(衣通郎姫)姫・小野小町・藤原道綱母
・世界三大美人=クレオパトラ7世・楊貴妃・ヘレネー(日本では「小野小町」)

衣通(衣通郎姫)姫=そとおりひめ(そとおりのいらつめ)。允恭天皇の妃。日本書紀・古事記に美人と表記されている。
藤原道綱母=蜻蛉日記の作者。尊卑文脈(公家中心の系図集)に「本朝第一美人三人内也」と書かれている。
そして、「小野小町」。

 これもついでに。

三大美人(の産地)=秋田、京都、博多(石川=加賀が入ることも)
三大ブス(の産地)=水戸、仙台、名古屋
 と一般的には言われている(私が言ったわけではない)。これはどうなのですかね。もちろん、「秋田美人」とは、秋田県出身の「美女」を指す。ちなみに「小野小町」は秋田県雄勝町小野の里の出身といわれる。「あきたこまち」は、お米のブランド名。

「小野小町」にまつわる伝説。(京都市の観光協会のHPより)

①深草の少将百夜通い
 小野小町に思いを寄せる深草の少将。「私の所に100夜通い続けたら、思いを遂げさせてあげる。」との小町の言葉を信じ、深草から小町の住む山科・小野の里まで約5km、毎晩通い続けた。小町は榧の実で少将の通った日を数えていた。ところが99日目の雪の日、少将は99個目の榧の実を手にしたまま、死んでしまった。小町は後に供養のため、榧の実を小野の里に蒔いたという。

②はねず踊り
 山科の随心院に伝わるはねず踊りの歌詞は一般的な百夜通いとは少し違う。少将は小町愛しさで深草から毎日小野の里まで通う。日数を榧の実で数えるまでは同じ。ところが99日目、雪があまりにもひどかったので代人に通わせた。気が変わった小町は「百晩はまだでもまあお入りなさい。」と招き入れるが、少将とは別人ということがバレて愛想をつかされてしまった。その後小町は少将のことは忘れ、老いてなお、里の子達と楽しい日々を過ごしたという。少将は振られてしまって少しかわいそうだが、亡くなりもせず、小町の方は老いても幸せそうな人生を送っているので、他の百夜通い説話よりも明るい結末というべきか?

③深草の少将秋田へ
 小町は秋田県雄勝町小野の里の出身。13歳のとき京へ上り宮仕えするが36歳で故郷の秋田へ帰る。深草の少将は小町を追って何と秋田へ!疱瘡を患っていた小町は「毎日1本ずつ近くの土手に芍薬を植えて。100本植えたら会いましょう」と提案。そのうちに疱瘡も治るだろうと考えていたが、100日目の雨の日に渡っていた橋が流されて、少将は亡くなってしまう。小町は少将が仮の宿としていた長鮮寺に住んで92歳まで少将を弔って暮らした。

④『妙性寺縁起』
 晩年の小町は天橋立への旅の途中で、三重の里・五十日(いかが・現在の大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなったという。村人達は小町を篤く弔い、村の一等地に葬った。後に彼女を慕って深草の少将までもが現れて、この地で亡くなったという。

⑤草紙洗小町
 大友黒主と歌合せをした小町。黒主は小町の歌の評判がいいのをねたんで、草紙に歌を書き込み、「小町の歌は万葉集の盗作だ」という。小町は落ち着いてその草紙を近くの井戸で洗うと、後から書き足した歌が洗い流れ、汚名を晴らした。

⑥小町針
 絶世の美女なのにもかかわらず、男を寄せ付けなかった小町は実は男を受け入れられない体であった。穴のない「まち針」は「小町針」からなまったものだという説も。

⑦温泉で疱瘡を治した小町
 京都のとある温泉町(今の福知山市)に疱瘡を患った女性がやってきた。村薬師如来に祈りつつ温泉につかっていたところ、たちまち疱瘡は治り、輝くばかりの肌になった。実はこの女性、小野小町だった。

⑧老いた姿を嘆く小町
 年老いた小町は小野一族ゆかりの地に辿り着き、井戸などに自分の醜くなった姿を写し、嘆きつつ、余生を送った。行き倒れになったという話も。

 なんといっても謡曲には題材として格好のお方。多くある中で、なかでも
・「卒都婆小町(そとばこまち)」。観阿弥作。小野小町を主人公とする「小町物」の代表的作品。
 乞食の老女が卒塔婆に腰掛けているのを、高野山の僧が見咎め、説教を始めるが、逆に法論でやり込められる。驚いた僧が彼女の名を聞けば、かつては才色兼備を謳われた小野小町の成れの果てだという。彼女は自らの来し方を語り始めるが、彼女にあこがれて通いつめながらついに願いを果たせなかった四位の少将の霊にとりつかれ、苦しめられる。

・「あなめ小町」
 ススキ野原の中で「あなめあなめ」(ああ、目が痛い)と声がするので僧が立ち寄ってみると、どくろがあって、その目からススキが生えていた。抜き取ってやるとそれは小町のどくろだった。

 小野小町には言い寄る高貴な男どもを振ったせいか、晩年になって容色が衰え、生活に困り、乞食となってちまたをさまよった、というお話が受けた、らしい。美人も晩年は気の毒。今どきの美人はそうでもなく高齢で亡くなるまで「絶世の美女」のたたずまいを醸している。

 昔から有名で知っている方も多いと思うが、⑥「小町針」の伝説が面白い。

 待ち針は縫い針とは違い、頭の部分に穴が無く、代わりに球型または薄い花びら型の飾りが付いている。これは裁縫の際に、待ち針を打った位置を分かりやすくするためと、待ち針が入りすぎる事を防ぐためである。
 一般的な使用方法は、仮止めしたい布地に対し一定間隔で待ち針を打ち、仮止めしたところを縫い合わせ終わったら、順次その場所から待ち針を抜いていく、というものである。
 待ち針の名称は小野小町に由来するという話があるが定かではなく、この説は名前から話が作られた可能性が高い。
(さすが「Wikipedia」。真面目に論証しています。)

警視庁築地署数寄屋橋交番
築地警察署が管轄する交番。屋根のデザインを決める際になかなか決まらなかったため、作成した交番の模型に冗談半分で待ち針を刺したところ、そのまま交番の屋根のデザインとして採用されたという。


 冒頭の絵に描かれた小野小町の歌。(「三十六歌仙」)

 色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける

 ちなみに「百人一首」中の歌。

 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに  
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臥薪嘗胆。会稽の恥をすすぐ。捲土重来。中国四大美人。西施。・・・。

2013-07-22 20:35:42 | 格言・ことわざ
 前回引用の『史記』、『18史略』にちなんで。格言のいくつかを。

 紀元前6世紀末、呉王闔閭は隣国の越に武力侵攻したが敗れ、自らも負傷、まもなく病死。そのとき、闔閭は後継者の夫差に「必ず仇を取るように」と言い残し、夫差は「三年以内に必ず」と誓った。夫差はその言葉通り国の軍備を充実させ、自らは薪(たきぎ)の上で寝ることの痛みでその屈辱を忘れず復讐を誓った。(「臥薪」)
 しばらくして夫差は越に攻め込み、越王勾践の軍を破った。勾践は降伏し、夫差の馬小屋の番人にされるなど苦労を重ね、許されて越に帰国した。その後、富国強兵に励み、自らは苦い胆(きも)を嘗(な)めることで屈辱を忘れないようにした。(「嘗胆」)
 勝者の呉王夫差は中原の覇者となることを目指して隣国の各国に盛んに兵を送り込むなどしたため、国力が次第に疲弊していく。その上、先代の闔閭以来尽くしてきた重臣の伍子胥を処刑する。
 ついに呉に敗れて20年後、越王勾践は満を持して呉に攻め込み、夫差の軍を大破した。夫差は降伏しようとしたが、勾践が条件として王への復帰を認めなかったために自殺した。

臥薪嘗胆
 のちのちの成功を期して苦労に耐えること。薪の上に寝て、苦い胆をなめる意から。
 もともとは、上の話にもあるように、敗戦の恥をすすぎ、仇を討とうと、復讐を自らに課して苦労を重ねることに由来する。


 呉軍は越に攻め入り、勾践を越の首都近くの会稽山へ追い詰める。勾践は「越は呉の属国となり、私は呉王様の奴隷として仕えるので、許して頂きたい」と申し出てきた。夫差が許そうとしたので、伍子胥は「勾践は辛苦にも耐えうる性格なので、生かしておいては、必ず災いとなる」と勾践を殺す事を強く主張したが、結局夫差は越を従属国とする事で許してしまう。

会稽の恥をすすぐ
 「会稽の恥」とは、戦いに大敗した屈辱。また、他人から受けたひどい屈辱のこと。
 屈辱的な講和をさせられた恨みを晴らすことを、「会稽の恥を雪(すす)ぐ」という。

 こういう言葉もあるが。
呉越同舟
 仲の悪い者同士や敵味方が、同じ場所や境遇にいること。本来は、仲の悪い者同士でも同じ災難や利害が一致すれば、協力したり助け合ったりするたとえ。「呉」「越」はともに宿敵同士で、その攻防戦は三十八年に及んだ。
 『孫子』で、「呉と越は宿敵同士でしばしば戦いを繰り広げたが、その憎しみ合っている両国の人が、同じ舟に乗って川を渡るときに大風が吹いて舟が覆りそうになれば、普段の恨みも忘れて互いに助けあうだろう」とたとえた故事から。
 
 そうはいっても、選挙後の「反自公」での野党結集もなかなか難しい。「民主党」の例もあり、烏合の衆ではまた瓦解。
 ※「烏合の衆」=規律や統制もなく、ただ寄り集まっただけの群衆・軍勢。役立たずな人々の集まり。(『後漢書』の出典)。 「烏合」とは、カラスの集団のことで、カラスが集まっても、鳴いてうるさいだけで、無秩序でばらばらであることから来ている。
 
 そのうえ、「捲土重来を期して」かつてない大・大勝利に導いたアベさんほどの勢いはなさそう。

捲土重来を期す
 一度敗れたり失敗したりした者が、再び勢いを盛り返して巻き返すことのたとえ。巻き起こった土煙が再びやって来る意から。「捲土」は土煙が巻き上がることで、勢いの激しいことのたとえ。「重来」は再びやって来ること。もとは一度敗れた軍が再び勢いを盛り返して攻めて来ることをいったもの。

 ついでに前回の話に出てきた「西施」にまつわるお話。

 越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた西施は谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
 呉が滅びた後、呉王・勾践の夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。一方で、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。
 中国四大美人の一人と呼ばれる一方で、俗説では絶世の美女である彼女達にも一点ずつ欠点があったともいわれており、それが西施の場合は大根足であったとされ、常にすその長い衣が欠かせなかったといわれている。
 また、彼女が川で足を出して洗濯をする姿に見とれて魚達は泳ぐのを忘れてしまったという俗説から「沈魚美人」とあてられる。

※中国の四大美人

1.西施(春秋時代)
2.王昭君(漢)
3.貂蝉(後漢)
4.楊貴妃(唐)


左から、西施【沈魚美人】、王昭君【落雁美人】、貂蝉【閉月美人】、楊貴妃【羞花美人】。
 ただし、このほかに卓文君(漢)を加え、王昭君を除くことやまた虞美人(秦末)を加え、貂蝉を除くことも。

※四大美人の欠点
 西施(大根足)以外では、
 王昭君は、極端ななで肩だったために、いつも大きな肩パッドをしていた。
 貂蝉は、耳たぶが極端に反り返っていた。それを気にして大きくて重いイヤリングを着け、その反りを抑えていた。
 楊貴妃は、ものすごい腋臭だったために、一日に何度も入浴し、強い香水を着けていた(いずれも)らしい。

 詩の題材にもなって、唐代の詩人李白・王維などが、詩を詠んでいる。日本でも、松尾芭蕉が「奥の細道」で「象潟や雨に西施がねぶの花(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)」と詠んだ。

顰に倣う(ひそみにならう)
 西施には胸が痛む持病があったという。ある日、その発作が起きた。彼女が胸元を押さえ、顰(眉間)にしわを寄せた姿にはなんともなまめかしく、か弱い女性の美しさがにじみ出ていた。彼女が里から歩いて来るその様に、里の人たちは皆、目が釘付けになった。
 ある里に一人の醜い女がいた。この日、西施が胸元を押さえ、眉をひそめた様子にたくさんの人が釘付けになっているのを見た女は、西施のまねをして、胸元を押さえ、眉をひそめて、村を行ったり来たりした。この醜い女が大げさにふるまうとただでさえ醜い顔がもっとひどくなった。そのため、この女の奇怪な様を見ると里の人々は、すぐに戸を閉め、貧乏人は妻や子を連れて遠くに逃げるといった具合であった。
 このことが顰に倣う(ひそみにならう)、むやみに人のまねをするのは愚かなことという故事になった。「西施捧心」と四字熟語とも表される。日本では、先人に倣った行為にあたって自らをへりくだる表現としても用いられる。

 そこで、芭蕉の『奥の細道』より。

 江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風 真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫 作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此 処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道 遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

象潟や雨に西施がねぶの花
※「ねぶ」=「ネムノキ」。


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「日暮れて道遠し」などとうそぶいているつもり? そんな余裕などないはずなのに。

2013-07-22 00:01:52 | 格言・ことわざ
海江田代表、続投の意向=「改革は道半ば」【13参院選】(時事通信) - goo ニュース
 「改革は道半ば」って言っても、誰が支えるの? そもそも、いったい何を改革してきたの? 道半ばって、前途はなくなってしまうほどの大敗北! 国民向けのアピール度も最低、政治家としての魅力もなし! 
 東京、大阪、埼玉など大都市では議席0。四国では議員が0。その責任を幹事長にだけ押し付けて、自分は代表の地位に恋々としようとするの? 
 プロ野球のコミッショナーや柔道連盟の会長など、居座る御仁が目立つ昨今。
 しかし、政治は結果がすべて。いさぎよく辞任すべきなのに、都議選に引き続く大・大惨敗の党内、次のなり手がいないまま、責任のなすり合いが始まっている様相。それを見越しての発言か。
 こうして、民主党。ついこの前の政権党の面影の片鱗すらまったくなくしたまま、あだ花のごとく消え去る運命に、嗚呼・・・。
 待てよ! 中国通のこの方、さては、「日暮れて道遠し」にあやかって、自ら、悲壮な覚悟を披歴したものか!
吾日莫途遠、吾故倒行而逆施之。
◦莫 … 暮と同じ。
◦途 … 道。塗とも書く。
◦倒行 … 倒れるほどに急いで進むこと。
◦逆施 … 道理に逆らって行動する。

 伍子胥は、既に死んでいた平王の墓を暴き、死体を300回に及び鞭打って恨みを晴らした。この事をかつての親友申包胥にあまりに酷いと責められた時に、伍子胥が言ったことば。
 この逸話。司馬遷の「史記」に「列伝」の一つとして記録されています。

 伍子胥は、楚国の出身。伍子胥は九尺(約2m)を超える身長と盛んな意気を持っていた。
 楚の平王は父の伍奢を捕え、都から離れていた子である伍尚と伍子胥に父の命で「都に来るように」と使者を送った。平王の無道ぶりを知っていた伍子胥は自分たちを殺すための罠と見破り、復讐を誓って鄭に脱出し、さらに呉に逃亡した。伍奢と伍尚は処刑されることになったが、伍奢は伍子胥が逃亡したのを知ると「楚の君臣は兵の難に苦しむことになるだろう」と言い残した。
 呉で伍子胥は公子光に仕えた。その後、公子光は呉王僚を暗殺、公子光は即位して闔閭となって、伍子胥を側近に立てた。伍子胥は、楚の隣国の呉王の側近という立場を得た。また、伍子胥は孫武の著した「孫子兵法」を献上し、孫武は闔閭に招かれ、その才能を認められ将軍として迎えられた。
 伍子胥は孫武と共に闔閭の補佐に当たり、呉国内の整備に尽力した。紀元前506年、楚に出兵した。十分な準備に加え、兵法の天才孫武・楚の地理と内情を良く知る伍子胥という人材が揃い、連戦連勝して遂には楚の都郢を陥落させた。
 父を処刑した平王は既に死んでいたが、伍子胥は王墓を暴き、平王の死体を300回に及び鞭打って恨みを晴らした(これが「死屍に鞭(むちう)つ」の語源になる)。この事をかつての親友申包胥にあまりに酷いと責められた時に、伍子胥は「日暮れて道遠し、故に倒行してこれを逆施するのみ」と答えた。「自分はもう年を取っているので、やり方などは気にしておれないのだ」あるいは「時間は無いのにやるべきことは沢山ある。だから非常識な振る舞いをしたのだ」と。
 首都陥落直前に楚王(廃太子の異母弟である昭王)は逃亡していた。放っておけば地方の兵などを使って再興しかねないため、徹底的に探させたがなかなか見つからなかった。
 その間に越王の允常が呉に攻め入ってきたため、兵の半分を帰した。更に申包胥が秦の援軍を取り付け、形勢は悪化。闔閭は楚に留まっていたが、将軍として従っていた闔閭の弟夫概が勝手に帰国し呉王を名乗ったため、楚から引き上げてこれを討った。
 呉に戻った伍子胥は再び闔閭の補佐に努め、呉を天下に並ぶもの無き強国にまで押し上げ、中原に進出していく前に隣国の越を攻めるよう進言した。闔閭はこれを聞き入れ、呉の富国強兵に尽力した。紀元前496年、伍子胥の進言により、自ら兵を率いてこれを衝いて越を討伐した。しかし、呉軍は越軍に大敗した。この時、闔閭も越軍の放った矢によって、片足を負傷し破傷風を起こして容態が悪くなり床に伏せるようになる。
 闔閭の容態が芳しくなくなると、数人の公子のうちのひとりの夫差が伍子胥の元を訪れ、自分を後継者に推してくれるよう頼んだ。伍子胥は闔閭の元を訪れ夫差公子を太子に推すが、闔閭は「夫差は情に薄く君主の器に足りないのではないか」と憂いた。これに伍子胥は「足りない所は周囲が補えばよいのです。それより早く後継を明らかにしないと、権力闘争が起こりかねません」と答え、闔閭はこれを認めた。闔閭は夫差を呼び「越王・勾践が父の仇と忘れるな」と言い、夫差も「3年以内には必ず仇を取ります」と答えた。
 間もなく闔閭が死去して夫差が後を継ぎ、父の復讐を誓う。伍子胥もそれを補佐し、着々と準備を進めた。紀元前494年に越軍が呉に攻め入るが、越軍は大敗。呉軍はその勢いのまま越に攻め入り、勾践を越の首都近くの会稽山へ追い詰めた。
 勾践は使者を送り「越は呉の属国となり、私は呉王様の奴隷として仕えるので、許して頂きたい」と申し出てきた。夫差が許そうとしたので、伍子胥は「勾践は辛苦にも耐えうる性格なので、生かしておいては必ず災いとなります」と勾践を殺す事を強く主張したが、結局夫差は越を従属国とする事で許した。
 これ以降、越は恭順したふりと賄賂で、警戒を次第に解かせていく。これを上辺と見抜き、越に対する警戒を忠告する伍子胥と、越など置いて一刻も早く中原へ進出したいと願う夫差との間は上手く行かなくなってきた。范蠡が密偵を使い、夫差の耳に伍子胥の中傷を流し込んだとも言われる。また、西施という美女を送り込んで、夫差を骨抜きにさせて越を警戒しないように仕向けたとも言われる。
 夫差は北方の斉が幼少の君主に代替わりし政情が不安定なことを知ると、侵攻を画策した。伍子胥は「斉は皮膚の病、越は内臓の病(目に付き気になるのは皮膚の病気=斉の内乱だが、気づきにくく生命に係わるのは内臓の病気=越の存在である)」などと進言したが、夫差はそれを退けて、かえって呉軍は艾陵において斉軍を撃破したこともあり、以後夫差は伍子胥の進言を軽視するようになった。
 また伍子胥を疎ましく思っていた宰相伯嚭への越からの贈賄工作も重なって、様々な手段で伍子胥が夫差の不興を買うよう仕向けられたこともあって、両者の不仲を増大させた。 その後も夫差は越など眼中になく、中原へ進出し覇者になろうとした。諸侯との覇を巡っての戦費や外交費は呉の財政を逼迫させ、度重なる出兵や重税は民を疲弊させ、呉はその国力を急速に消耗させていった。
 これではいつか越に呉は滅ぼされるだろうと見切った伍子胥は、斉に使者に行った際に息子を斉に預けた。しかし先王から多大な恩を受けた自らは呉を見捨てられないと戻り、この事が本国に帰った後に問題になって、伍子胥は夫差から剣を渡され自害するようにと命令された。
 その際、伍子胥は「自分の墓の上に梓の木を植えよ、それを以って(夫差の)棺桶が作れるように。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」と言い、自ら首をはねて死んだ。
 伍子胥が死んだ後、越を警戒する者がいなくなった。
 その後、国力を蓄えた越に呉は滅ぼされた。越の使者に対して夫差は「私は年老いました。とても君主にお仕えすることはできません。伍子胥の言葉を取り上げずに、自分自身がこんなに陥ったのは残念です」と言い残して自決した。

 伍子胥ほどの迫力と胆力を有しているならば、起死回生の行動に打って出るということもあろうが、はたして・・・。
 「まだまだ泥水をすすらないといけない」などと発言しているが、それほどの根性がありそうにも思えない、という印象を持ってしまう。「落ちた犬は叩け」式のマスコミからの攻撃に耐える以上に打って出る(反撃する)肝っ玉があるかないかが試されている。
 
 
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「背筋が凍り」すぎは、やりすぎ。

2013-07-21 15:41:20 | 格言・ことわざ
血の気も「怖すぎる」お化け屋敷、今年はソフト路線 愛媛(朝日新聞) - goo ニュース
 英語だと、
freeze a person's blood. (血管が凍りつく)

・身の毛がよだつ
・鳥肌が立つ
・血の気もよだつ

恐怖や寒さのために、ぞっとして身も心も凍えてしまう。まさに「足がすくむ」状態。入る前にこれでは、商売になりません。
「よだつ」=「立つ」。
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「人を呪わば穴二つ」の戒めのはずが、今やどうも現実に・・・。

2013-07-20 12:36:21 | 格言・ことわざ
「比例区で自民に入れない『落選運動』を」菅直人元首相(朝日新聞) - goo ニュース
 この方もハトポッポさんと同じくお騒がせ人間。歴代の首相たちがこれでは民主政権も苦しい運営だったことが、納得。小沢さんもそうだし・・・。
 ということで、民主党草創期・創設者が皆いなくなる事態が生じています。いったい民主党はどういう趣の集まりだったのでしょうか?

※ 人を呪うにはそれなりの覚悟が必要だということ。転じて、安易に他人を恨むことを戒めることわざ。

 平安時代、加持祈祷を生業とした陰陽師、人を呪殺しようとするとき、呪い返しに遭うことを覚悟し、墓穴を自分の分も含め二つ用意させたことからのようです。
 しかし、今や「他人に害を加え、不幸な目に遭わせようとすれば、やがて自分も害を受け、不幸な目に遭わされる羽目になる」という風に用いられるはめに。
 
「墓穴を掘る」=人を害して埋める穴の他に、自分が埋められる墓穴が、もうひとつ必要である。身を滅ぼす原因を自分から作ることのたとえ。

「藪をつついて蛇を出す」=よけいなことをして、かえって自分にとって悪い結果を招くこと。(「やぶへび」とも)

 余計なこと(しなくてもよい不要なこと)をしたために、危険な目にあったり、問題が起きたり、無駄な出費がかさんだといったように、かえって悪い結果を招くこと。「あんたが余計なことをしたから、かえって○○になった(○○には厄介、面倒、などが入る)」と人に言われてしまう結果となります。「おっちょこちょい」にもほどがある。

※ 落ち着いて考えないで、軽々しく行動すること。また、そのさまや、そういう人。軽佻浮薄。
「おっ」は、驚いた時などに発する「おっと」と同じで、軽く口から出る音。「ちょこ」は、あちこち動き回る様子を表す「(ちょこちょこ)動きまっわって落ち着かないやつだ」てな感じ。「ちょい」は短時間でぱっとことを起こすさま。「(ちょいと)あそこまで出かけてくるわ」てな感じ。
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「金の切れ目が縁の切れ目 」にならぬよう・・・。

2013-07-19 20:51:01 | 格言・ことわざ
東電、管理職に一時金10万円支給へ 人材流出抑止狙う(朝日新聞) - goo ニュース
 むしろ「金で釣る」という方が。
 ま、そこまで天下の東電、エリート社員は落ちぶれていないでしょう。しかし、かつて関わっていたボランティア関係の仕事(2011~2012年当時)でも、福島原発以降、退職する方が多いのに気が付いたことがありました(その方々が登録し、学校関係のボランティア事業に協力してくれたのですが)。
 万やむを得ない方法・処置とはいえ、またまた批判されそうです。

 「金(かね)の切れ目が縁の切れ目」=金銭で成り立っている関係は、金がなくなれば終わるということ。

 英語の表現だと、

 When poverty comes in at the doors, love leaps out at windows.

 というらしい。
 もともとは、男女の金銭にまつわることだった(遊女と客の関係?)。露骨といえば、露骨です。

金がものを言う  金で面を張る  金に飽かす  金に糸目をつけぬ  金になる  金に目がくらむ・・・。

 せめて、「金は天下の回りもの」くらいがよろしいようで。

 ところで、「金で釣る」は、英語だとどう表現するのだろう?

「金の切れめが縁の切れめ、ってのはね、あれはね、解釈が逆なんだ。金が無くなると女にふられるって意味、じゃあ無いんだ。男に金が無くなると、男は、ただおのずから意気銷沈して、ダメになり、笑う声にも力が無く、そうして、妙にひがんだりなんかしてね、ついには破れかぶれになり、男のほうから女を振る、半狂乱になって振って振って振り抜くという意味なんだね、金沢大辞林という本に依ればね、可哀そうに。僕にも、その気持わかるがね」(太宰治『人間失格』より)
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仏の顔も三度。それにしても。・・・。道元さんもあきれる!

2013-07-18 19:03:38 | 格言・ことわざ
曹洞宗古刹の2僧侶、共同生活の僧侶に傷害容疑(読売新聞) - goo ニュース
 
 曹洞宗といえば、永平寺、總持寺が有名。道元さんが開祖のはず。「普段の生活の中で気に入らない面があり、暴力を振るってしまった」ということは、「仏の顔も三度」ということになるか! それほどの人格者ではなさそうですが。

 もともとは、「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」ということから来たことわざ。いくら慈悲深い仏様といえども、三度もむやみに顔を撫で回されたら腹を立てるということらしい。一度や二度はいい、というわけではないが、「三」というのは、文字通り「三」ではなくて、何度もということでしょう。
 まさに日頃の不満が高じて・・・。それにしても「暴力」とは。「慈悲」心と「禅定」が仏に仕える身の処し方のはず。いくら「堪忍袋の緒が切れる」ことになっても・・・。
 禅らしく「一喝」したつもりなのでしょうが。
「喝」は禅の言葉で、修行者の迷いをさますため、僧が発する叫び声のこと。「活を入れる」と、大きな声で刺激を与えるというところは共通していますが「喝」は「入れる」ものではありません。

 さて、これではせっかくの艱難修行も「台無し」になってしまいそう。 「台」は、仏像を据え置く台座のこと。これがなかったり、壊れていたのではせっかくの仏像の威厳も失われてしまう。「おシャカになる」「無駄になる」「駄目になる」。
 「おシャカになる」の「シャカ」は、お釈迦様のこと。はてさて・・・。
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読書「文学者の『核・フクシマ論』吉本隆明・大江健三郎・村上春樹」(黒古一夫)

2013-07-17 20:05:54 | 読書無限
 ここでは、吉本隆明、大江健三郎、村上春樹という3人を採りあげて「反核」への姿勢を検証している。ヒロシマ、ナガサキとフクシマとを結ぶ「反核」、その歴史の間にはスリーマイル島、チェルノブイリの二つの大きな原発事故を含め、「反原水爆」さらには「反原発」運動に関わってきた筆者の、長年の痛切な思いが込められている書。
 そうした視点から、特に吉本隆明の「反・反核」思想、原発容認論を手厳しく批判、糾弾。また、村上春樹の「反核スピーチ」に込められた、戦後の反核運動への無知と誤解を厳しく追及する。
 吉本隆明が死んだとき、マスコミにあふれた「知の巨人」との賞賛。そのことへの違和感。
 彼が60年代の新左翼運動の興隆の中で、「反スタ(ソ連型社会主義の限界と展望)」という切り口が学生・大衆に受け入れられ、思想界(左翼)を席巻したいったとき以来、「敵の敵は味方」式の論戦術の上に立って「核兵器」と「原発」を区別し、文学者の「反核」署名・提起を批判するあまり、ついには、「原発擁護、推進」に立ち至った生前の言動を厳しく分析しています。
 また村上春樹。英米文学、とりわけ「核」時代にあって反核(核兵器、原発)を扱った「ニュークリア・エイジ」「極北」など先駆的な作品の翻訳者として、いったい何を学んできたのかという視点から、戦後の反核兵器運動、さらには反原発運動という歴史を捨象したスピーチに怒りを込めて追及していく。

 吉本の立場、特にすんでのところで命拾いをした以降の晩年の吉本の言動、3・11にかかわる発言に少なからず違和感を感じていた私。「反・反核」にこだわるあまり、フクシマ原発事故以後、ますます原発推進、擁護の旗振りをしてしまった吉本隆明の思想家としての虚像を暴き出した感がする。

 村上の巧みな言動。本を発刊するたびにベストセラーにする、その事前から事後、資本主義(市場)への見事な対応(売り方)さにこれまた斜に構えて見ていた私。その夢想家ぶりを明らかにしていくことで、少し納得した。

 大江健三郎はそうした二人に比べ「ヒロシマノート」以来、一貫した反核(反原水爆、反原発)思想にゆるぎなく具体的な運動にかかわっていることを賞賛する。

 この書。ありていに言えば(反対の立場=原発推進、核武装推進からすれば、さらに吉本信奉者、村上ファンにすれば、そして大江嫌いの人たちからすれば)、所詮、まさに「ひかれ者の小唄」かもしれない。
 が、まだ二年が過ぎたばかりなのに、フクシマ原発(東日本大震災)事故がすでに風化しつつある(むしろ意図的にそうして、いまだに厳しい現実をうやむやにし、原発再稼働にひたすら奔走する)現在にあって、「反核」の原点に立ち戻る(ってもらいたい)という筆者の思いが切実に伝わってくる。自公が圧勝するという予想の参院選。しかし、選挙後もまだあきらめてはいけない、と自らを励ましつつ。
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