おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

歌舞伎鑑賞教室。その8。「隅田川」。坂東玉三郎。梅若伝説・木母寺。

2023-07-14 20:36:34 | お芝居
 

幕が開くと、青白い舞台が一面に広がります。

・・・

渡し守が出て名乗ります。能や狂言の定番の始まりかたです。

今日は川の対岸で「大念仏(だいねんぶつ)」がある、という話をします。
念仏を唱えて供養をする集まりの、大きなものがあるのです。

狂女が出てきます。歌舞伎だと「班女の前(はんにょのまえ)」という名前が付いています。

笹の枝を肩にかついでいます。
幣(奉納用の布きれ)を結びつけた笹の枝は、能をはじめ、中世に成立した芸能に共通する「狂女」の小道具です。

「人の親の 心は闇に あらねども 子を思う道に 迷い(まどい)ぬるかな」

藤原兼輔(ふじわらの かねすけ)の歌です。900年代の人です。

班女の前が出るところの謡の文句がこれなのですが、
親心の悲しくも愚かしい、しかし有難い真理をついた歌として江戸時代は非常に有名でした。
歌舞伎、というか浄瑠璃の文句に頻出するので覚えておくといいと思います。

子供がさらわれて、探して旅をしてきた。
親子の縁はこの世だけ、一世の契りです(夫婦は二世、主従は三世)。
その短い間すらいっしょにいられないさびしさをなげきます。

渡し守に船に乗せてと頼みますが、渡し守は、「狂っているならおもしろく舞え、でなきゃ乗せない」とひどい事を言います。

隅田川の渡し守と言えば都からの旅人に優しいものなはずなのに、あなたはずいぶんひどい、と怒る班女の前。

このあと、有名な、「あの白い鳥は何?」「カモメだよ」「隅田川の渡し守なのに都鳥と言わないの?」
のやりとりがあります。
感心して、反省した渡し守は班女の前をていねいに船に載せます。

川の対岸で、さっき渡し守が話した大念仏をやっています。この由来を語る渡し守。

人買いが子供を連れて都からやってきた。
子供は慣れない旅で疲れ果て、この場所で倒れてしまった。人買いは情け知らずで子供を捨てて行ってしまった。
どことなく上品な子だったので土地の人が心配して世話したが、運命だったのだろう、死んでしまった。
都の吉田少将の子、梅若丸といった。
父は早くに死に、母に付き添っていたのだが、それももはやできない悲しさよ。
都の人が恋しいので、都からの旅人が通るこの道端に埋めてください。
そう言って死んだ。悲しいことだ。
それがちょうど一年前。その供養の念仏だ。

ショックを受ける班女の前、船から上がることもできません。

改めて事情を聞いて、探しているのが、まさにその子供だと知った渡し守、
深く哀れんで、班女の前を船から上げ、墓である小さな塚に案内します。

この前後はセリフも極端に少なくなり、班女の前の一挙一動を息を詰めて眺めるような舞台です。

言われるままに鐘を叩いて念仏を唱える班女の前。
能だと、子役のひとが一緒に念仏を唱え、塚から子供の幻が現われますが、歌舞伎では出ません。
班女の前が子供を見たと思い込んで駆け寄るのですが、子供はいないのです。
泣き崩れる班女の前。
夜が明けます。子供に見えたのは塚の上の草でした。なまじ幻を見てしまったばかりに思いはいや増します。
何もないまわりのの景色が悲しみを深めます。

(この項、「歌舞伎見物のお供」(gooブログ)HPより)

・・・

           

渡し守:坂東竹三郎

        

              

班女の前(はんにょのまえ):坂東玉三郎。

            

              

            

               

          

                   

              

                    

                              こうして、静かに幕が下ります。

「木母寺」

「木母(もくぼ)寺」は寺伝によれば、976年(貞元元年)忠円という僧が、京都から人買いによって連れてこられてこの地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。
 1590年(天正18年)に、徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った1607年(慶長12年)、近衛信尹によって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた。
 明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈によりいったん廃寺となったが、1888年(明治21年)に再興された。その後、白鬚防災団地が建設されるにあたり、現在の場所に移転した。(以上、「Wikipedia」参照。)

「⑩梅若の秋月―風流隅田川八景―」。
 「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」との辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲睦まじく舟遊びをしている姿で描かれています。文化中期(1804~18年)頃の作品です。

・・・

木母寺には、平安時代中期の梅若丸と狂女となった母親の悲しい物語が伝わり、梅若塚と梅若堂が祭られています。梅若丸物語は古来、母子の愛情を示す悲劇として民衆の紅涙をしぼり、語りつがれてきました。

◆能楽◆

最初に、この梅若丸物語を芸道として大成させたのは、室町時代中期の能役者観世十郎元雅(1401?~1432)です。「隅田川」は、春の隅田川を舞台に子と母の愛情を描いた能で、狂ものをシテとした狂女物の代表的傑作とされています。

この演目が作られ、隅田川芸能がはじまったのです。

◆浄瑠璃◆

寛文元年(1661)以前の説教浄瑠璃や、宇治加賀掾や山本土佐掾の正本にも「すみだ川」があり、古浄瑠璃として取り入れられています。それをもとに、浄瑠璃作者中興の祖と言われている近松門左衛門が「雙生隅田川」を書きました。人形浄瑠璃(文楽)でも盛んに上演されています。能「隅田川」からは梅若丸と東門院の若松が兄弟に、忍の惣太は人買いから忠心に忍ぶの惣太がお家再興の金欲しさから主家の子供を誤って殺してしまうという因縁話が結びついた内容になっています。

近松門左衛門の「雙生隅田川」が、江戸期の世相や人情を反映していると言われているのはこのためです。

◆歌舞伎◆

元禄14年(1701)初代市川団十郎作「出世隅田川」が、中村座で初演されました。

その後、浄瑠璃の「雙生隅田川」の影響を受け、人買いに殺された悲劇の稚児として描かれるようになり、奈河七五三助作「隅田川続俤」や河竹黙阿弥作「都鳥廓白浪」などの隅田川物が描かれました。大正8年(1919)には東京・歌舞伎座で初演され、二代目市川猿之助や二代目市川団四郎らによって演じられました。上演された記録は多くの浮世絵からも知ることができます。

 

◆舞踊◆

舞踊では清元の「隅田川」がありますが、詞章がもの悲しく、清元の哀調をしんみりと聞かせます。また、一中節の「峰雲賤機帯」や長唄の「八重霞賤機帯」などは、能「隅田川」をもとに作詞されました。

(この項、「」HPより)

・・・

ここにもあるように、この舞台は、清元の「隅田川」が原型。

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歌舞伎鑑賞教室。その7。弁天娘女男白浪/稲瀬川勢揃いの場。歌舞伎名台詞。お嬢吉三(三人吉三廓初買、大川端の場)。与三郎(与話情浮名横櫛、源氏店の場)。・・・

2023-07-06 20:24:21 | お芝居

<稲瀬川勢揃いの場の口上>

舞伎座「團菊祭五月大歌舞伎」第三部。

『弁天娘女男白浪』特別ポスター。(2022・5)。

尾上右近の弁天小僧菊之助、坂東巳之助の南郷力丸、中村隼人の忠信利平、中村米吉の赤星十三郎、そして坂東彦三郎の日本駄右衛門。

                   

日本 駄右衛門

問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情を掛川から金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に廻る配附の盥越し、危ねえその身の境界も最早四十に、人間の定めはわずか五十年、六十余州に隠れのねえ賊徒の首領日本駄右衛門。

弁天小僧菊之助

 さてその次は江の島の岩本院の児あがり、ふだん着慣れし振袖から髷も島田に由井ヶ浜、打ち込む浪にしっぽりと女に化けた美人局、油断のならぬ小娘も小袋坂に身の破れ、悪い浮名も竜の口土の牢へも二度三度、だんだん越える鳥居数、八幡様の氏子にて鎌倉無宿と肩書も、島に育ってその名さえ、弁天小僧菊之助。

忠 信 利 平

 続いて次に控えしは月の武蔵の江戸そだち、幼児の折から手癖が悪く、抜参りからぐれ出して、旅をかせぎに西国を廻って首尾も吉野山、まぶな仕事も大峰に足をとめたる奈良の京、碁打と言って寺々や豪家へ入り込み、盗んだる金が御嶽の罪科は、蹴抜の塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなし、後を隠せし判官の御名前騙りの忠信利平。

赤 星 十三郎

 またその次に列なるは、以前は武家の中小姓、故主のために切り取りも、鈍き刃の腰越や砥上ヶ原に身の錆を磨ぎなおしても抜き兼ねる、盗み心の深翠り、柳の都谷七郷、花水橋の切取りから、今牛若と名も高く、忍ぶ姿も人の目に月影ヶ谷神輿ヶ嶽、今日ぞ命の明け方に消ゆる間近き星月夜、その名も赤星十三郎。

南 郷 力 丸

 どんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯馴の松の曲りなり、人となったる浜そだち、仁義の道も白川の夜船へ乗り込む船盗人、波にきらめく稲妻の白刃に脅す人殺し、背負って立たれぬ罪科は、その身に重き虎ヶ石、悪事千里というからはどうで終いは木の空と覚悟は予て鴫立沢、しかし哀れは身に知らぬ念仏嫌えな南郷力丸。

歌舞伎名台詞をいくつか。

お嬢吉三三人吉三廓初買、大川端の場)

月も朧に白魚の 篝も霞む春の空
つめてぇ風もほろ酔いに 心持ちよくうかうかと
浮かれ烏のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で
棹の雫か濡れ手で粟 思いがけなく手に入る百両
ほんに今夜は節分か
西の海より川のなか 落ちた夜鷹は厄落とし
豆沢山で一文の 銭と違って金包み
こいつぁ春から縁起がいいわぇ

与三郎(与話情浮名横櫛、源氏店の場)

与三郎:え、御新造さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、
    いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。
お 富:そういうお前は。
与三郎:与三郎だ。
お 富:えぇっ。
与三郎:おぬしぁ、おれを見忘れたか。
お 富:えええ。
与三郎:しがねぇ恋の情けが仇 命の綱の切れたのを
    どう取り留めてか 木更津から めぐる月日も三年越し
    江戸の親にやぁ勘当うけ よんどころなく鎌倉の 谷七郷は喰い詰めても
    面に受けたる看板の 疵がもっけの幸いに 切られ与三と異名をとり
    押借り強請やぁ習おうより 慣れた時代の源氏店
    そのしらばけか黒塀の 格子造りの囲いもの
    死んだと思ったお富たぁ お釈迦さまでも気がつくめぇ
    よくまぁ おぬしぁ 達者でいたなぁ
    安やい これじゃぁ一分じゃぁ 帰られめぇじゃねぇか

※「安」=蝙蝠安。

清心(花街模様薊色縫、百本杭川下の場)

しかし、待てよ。今日十六夜が身を投げたのも、
またこの若衆の金を取り殺したことを知ったのは、
お月さまとおればかり。
人間わずか五十年、首尾よくいって十年か二十年がせきの山。
つづれをまとう身の上でも金さえあればできる楽しみ、
同じことならあのように騒いで暮らすが人の徳。
ひとり殺すも千人殺すも、取られる首はたったひとつ。
とても悪事をし出したからは、これからは夜盗家尻切り、
人の物はわが物と栄耀栄華をするのが徳。
こいつぁめったに死なれぬわぇ。

揚巻(助六由縁江戸桜)

こりゃ意休さんでもない、くどいこと言わんす。
お前の目を忍んでな、助六さんに逢うからは、
客さん方のまんなかで、悪態口はまだなこと、
叩かりょうが踏まりょうが、手にかけて殺さりょうが、
それが怖うて間夫狂いがなるものかいなぁ。
慮外ながら揚巻でござんす。
男を立てる助六が深間、鬼の女房にゃ鬼神がなると、
今からがこの揚巻が悪態の初音。
意休さんと助六さんをこう並べて見た所が、
こちらは立派な男ぶり、こちらは意地の悪そうな顔つき。
例えて言おうなら雪と墨。
硯の海も鳴戸の海も、海という字にふたつはなけれど、
深いと浅いは間夫と客。間夫がなければ女郎は闇。
暗がりで見ても助六さんと意休さんを取り違えてよいものかいなぁ。
たとえ茶屋舟宿の異見でも、親方さんの詫び言でも、
小刀針でもやめぬ揚巻が間夫狂い。
さぁ、切らしゃんせ。
たとえ殺されても、助六さんのことは思い切れぬ。

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歌舞伎鑑賞教室。その6。歌舞伎十八番のうち『暫』。つらね・見栄を切る・六方を踏む。・・・。観客を飽きさせないお芝居。

2023-07-05 20:54:00 | お芝居

舞台は鶴岡八幡宮、清原武衡が関白の宣下を受け、天下を手中に収めたかのように思い上がった様子。鯰坊主の震斉、女鯰の照葉、成田五郎ら臣下たちが居並ぶ。

                           

そこへ加茂次郎義綱が許婚の桂の前たちを連れ立って登場する。朝廷の繁栄を祈願するため大福帳(商家で使われる帳簿)を掛額に収めて奉納にきた。

加茂家をかねてからこころよく思っていない武衡は義綱に難くせをつける。「商人が使う卑しきものを奉納するとは神社を冒涜するのか」と掛額を引きおろし、はては「桂の前を差し出して家臣になれ」などと無理難題を浴びせる。
うんと言わぬ「義綱」に腹を立て「ならぬなら首をはねてしまうぞ」と腹出したちに命じて義綱ら一同を斬り殺そうとする。

まさに絶体絶命の瞬間、花道の登場口、揚幕(あげまく)の向こうから「しばらく!」と大きな声。ムカデのようなカツラ(車鬢(くるまびん))、真紅の筋隅(すじくま)、柿色の凧のようなものがついた巨大な衣装をまとい、2mを超える大太刀を差した恐ろしげな大男が登場する。

「成田屋」の屋号。

               

驚く敵方が名前を尋ねると、男は花道の七三(しちさん)まで来て立ち止まり「鎌倉権五郎景政」と名乗る。

思わぬ邪魔者で苦々しい武衡は「追い払え」と命令する。家来たち(鯰坊主・腹出し・成田五郎など)が代わる代わる、おどしたりなだめたり、力づくでかかったりするが、男はびくともせず、ずんずん舞台中央まで進む。

           

そして鎌倉権五郎は武衡が奉納した宝剣はニセモノで朝廷を呪う仕掛けがしてあるとか、加茂家が探している「探題の印」を盗んだのは武衡の者だ、今すぐ返せと武衡の悪事を暴き立てて詰め寄る。

すると急に、女鯰の照葉が寝返る。

実は女鯰は始めからスパイ。いつの間にか「探題の印」を奪い、宝剣もホンモノを見つけ出していた。女鯰は印と宝剣を鎌倉権五郎に渡す。家宝が手元に戻り、御家は安泰と喜ぶ加茂家一同。

    

            

最後の悪あがきで討ちかかってくる敵方を、鎌倉権五郎は大太刀を一振りなで斬りにして、

             

                    

「弱虫めら」と捨てぜりふを残して、意気揚々と花道を引き上げて行く。

           

 「暫」はストーリー(筋書き)は単純だが、歌舞伎的に演出された様式とその迫力を楽しむ演目。

主人公・鎌倉権五郎が登場するとき、「しーばーらーくー!」という大音声が聞こえてくると、敵方はみな何事かと慌てふためきます。

登場した権五郎は、なかなか本舞台に上がってこないで、花道の上で威勢のいい「つらね」と呼ばれる長セリフを披露します。そして敵方の鯰坊主の要求に対して、「いーやーだー!」とまるで子供のような無邪気さで答えます。

敵方が「あーりゃ、こーりゃ」という、化粧声と呼ばれる荒事特有の掛け声をかけて、なぜかヒーローの登場を盛り上げるのも面白い趣向となっており、最後は敵を倒した権五郎の「よーわーむーしーめーらー!」という爽快な捨て台詞が舞台に響きわたり、「ヤットコトッチャ、ウントコナァ」という掛け声と共に花道を引き上げていく。

衣装の豪快さ

主人公の鎌倉権五郎の巨大な衣装の総重量は、なんと60キロ!とにかく動くのも大変そうな重装備ですが、上から順に説明していきます。

  1. 呪力を宿した力の象徴でもある白い「力紙ちからがみ
  2. 前髪は少年である印。本来は中心から分かれているが、「わけ櫛」で分け目にしている
  3. 車海老をイメージした「五本車鬢ごほんくるまびん」という髪型
  4. 隈取は荒事の典型的な最も力強い「筋隈すじぐま
  5. 結び目の先端や輪っかを上にピンと跳ね上げた「はねだすき
  6. 袖は成田屋の家紋の三升の紋を染め抜いた「大紋
  7. 7尺(2メートル)はあろうかという黒塗りの「大太刀
  8. 高さ30センチもある「継ぎ足

江戸歌舞伎の1年間の興行の始まりは11月の「顔見世(かおみせ)」だった。役者たちが舞台で一堂に会し、一座の新しい顔ぶれを観客に披露する年中行事で、「顔見世」では悪人に殺されそうになる善人を、「しばらく」の声とともに正義の味方が登場し、窮地を救う場面が組み込まれる習わしがあった。明治に入り、この場面を独立させて1幕ものとなったものが「暫」。

            


 つらね

主に荒事の主役が花道で長々と述べるせりふのことをいい、歌舞伎独特の闊達な雄弁術。歌舞伎十八番『暫』の鎌倉権五郎がもっとも代表的なところです。

江戸の芝居では毎年11月の顔見世狂言として必ず『暫』が上演され、その際のつらねは必ずその役者が書くというのが決まりでしたが、実はそれも名目上で実際は座付の作者が書いていたようです。

冒頭には「東夷南蛮北狄西戎(とういなんばんほくてきせいじゅう)、天地乾坤四夷八荒(てんちけんこんしいばっこう)の隅々まで、鳴り響いたる歌舞伎の華」といった少々難解な美文が並びますが、言葉の流れと勢いで観客を魅了します。

みえを切る

見得とは、演目の見せ場で役者がポーズを決めて静止し、首を回したり目玉を中央に寄せたりする動作全体を指す。これは、役者自身やその場面を客に印象付ける効果、舞台全体を美しく演出する効果がある。

六方を踏む

手足の動きを誇張して、歩いたり走ったりする様子を象徴的に表現した演出です。おもに「荒事(あらごと)」の役が「花道(はなみち)」を引込む時に演じられ、力強さと荒々しさを観客に強く印象付けます。

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歌舞伎鑑賞教室。その5。歌舞伎18番のうち『外郎売(ういろううり)』。2019年歌舞伎座7月公演。市川海老蔵、勸玄親子の競演。ういろう。

2023-07-04 20:30:15 | お芝居

歌舞伎十八番とは、歌舞伎界の宗家とも呼ばれる市川團十郎家のお家芸として制定された、以下に示す歌舞伎の18演目のことです。

  1. 勧進帳(かんじんちょう)
  2. 助六(すけろく)
  3. 暫(しばらく)
  4. 矢の根(やのね)
  5. 毛抜(けぬき)
  6. 鳴神(なるかみ)
  7. 不動(ふどう)
  8. 外郎売(ういろううり)
  9. 押戻(おしもどし)
  10. 景清(かげきよ)
  11. 解脱(げだつ)
  12. 不破(ふわ)
  13. 象引(ぞうひき)
  14. 七つ面(ななつめん)
  15. 関羽(かんう)
  16. 嫐(うわなり)
  17. 蛇柳(じゃやなぎ)
  18. 鎌髭(かまひげ)

歌舞伎十八番は、7代目市川團十郎【いちかわだんじゅうろう】によって1832年(天保【てんぽう】3年)に定められました。初代から4代目までの團十郎が、初めて演じてしかも得意にしていた18の作品を集めたものです。
 その内容は、一番新しい作品でも当時から50年も前に上演されたものでした。そのため、先祖の團十郎が得意にしていたことはわかっていても、作品の中味がはっきりしないものも多く含まれています。例えば、『関羽【かんう】』や『蛇柳【じゃやなぎ】』などです。これらの作品は、後に復活されていきます。
 代々の團十郎は荒事を最も得意としたため、歌舞伎十八番の役はほとんどが荒事です。

歌舞伎十八番が制定されたのは江戸時代の天保3年(1832年)の3月に、七代目市川團十郎によって「歌舞妓狂言組十八番かぶききょうげんぐみじゅうはちばん」(伎ではなく妓)が発表されたことが起源となっています。

当時から江戸歌舞伎を代表する家系であった市川團十郎家ですが、七代目團十郎はさらに権威を高めたいと考えました。

そこで息子に八代目市川團十郎を襲名させるのに合わせて、市川家が代々得意としてきた17の演目に七代目自らが始めた「勧進帳」を加えた18演目を「歌舞妓狂言組十八番」という名称を付けて世間に公表したのです。

これは市川團十郎家が代々演じてきた荒事の「家の芸」というものを改めて世間に認識させ、はっきりとわかる形で代々受け継がせていきたいという狙いもありました。そしてその狙いは功を奏し、今では「歌舞伎十八番」という名称で市川團十郎家のお家芸として広く知られるようになりました。

得意なことを「十八番(おはこ)」というのは歌舞伎十八番から?

市川團十郎家にとってなくてはならないお家芸として制定されたのが歌舞伎十八番です。

この18演目は箱に納めて封印され、安易に披露するものではないとされたので、そこから「おはこ」と呼ばれるようになり、後に得意なことを「十八番(おはこ)」と表現するのはこれが起源だという説がありますが、これは間違いです。

この件について演劇評論家の赤坂治績氏は以下のように指摘します。

「おはこ」という読み方は歌舞伎十八番が制定された天保3年(1832年)以前から使われていた。・・・(中略)・・・台本を木の箱に入れて取っていたという説も無意味である。江戸時代は3年に一度くらい大火があった、・・・(中略)・・・火事になれば箱も台本も燃えてしまう。

「おはこ」とは本来は美術品などの鑑定書を、その箱の蓋に貼って本物だと証明していた「箱書付」が略されたものであり、「正しいと認定された」という意味で使われていました。

歌舞伎十八番の人気が高まるにつれて、段々と「十八番」を「おはこ」と呼ぶようになり、意味も「得意芸」というふうに変わっていったのではないでしょうか。

(この項、「」HPより)

その一つ、外郎売(ういろううり)

外郎売は、実は曽我の五郎時致です。
 大磯の廓で酒宴を張る工藤祐経のもとに、小田原名物の外郎売に身をやつした五郎がやってきます。兄、十郎祐成と共に父の敵である祐経を討とうとつけ狙っていたのです。
 素性を隠して外郎の商いを始めた五郎は、隙をついて祐経を討とうとするものの止められてしまいますが、祐経は曽我兄弟の親を思う気持ちに心打たれ、後日改めて勝負することを約束するのでした。

第一節

拙者親方せっしゃおやかたと申すは、お立会たちあいうちに、御存ごぞんじのお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里上方にじゅうりかみがた相州小田原一色町そうしゅうおだわらいっしきまちをお過ぎなされて、青物町あおものちょうを登りへおいでなさるれば、欄干橋虎屋藤衛門らんかんばしとらやとうえもん只今ただいま剃髪致ていはついたして、円斉えんさいと名のりまする。

元朝がんちょうより、大晦日おおつごもりまで、お手に入れまする此の薬は、昔ちんの国の唐人とうじん外郎ういろうという人、わがちょうへ来たり、みかど参内さんだいの折りから、この薬を深くめ置き、もちゆる時は一粒いちりゅうずつ、かんむりのすき間より取り出だす。

よってその名を帝より、透頂香とうちんこうたまわる。即文字すなわちもんじには「いただき、く、におい」と書いて「透頂香とうちんこう」と申す。

只今はこの薬、ことほか世上せじょうひろまり、方々ほうぼう偽看板にせかんばんだし、イヤ、小田原おだわらの、灰俵はいだわらの、さんだわらの、炭俵すみだわらのと、いろいろに申せども、平仮名ひらがなをもって「ういろう」と記せしは、親方円斉おやかたえんさいばかり。

もしやお立会いのうち熱海あたみ塔の沢とうのさわへ、湯治とうじにお出なさるるか、または伊勢御参宮いせごさんぐうの折からは、必ず門違かどちがいいなされまするな。

のぼりならば右のかた、おくだりなれば左側、八方はっぽう八つ棟やつむねおもて三つ棟みつむね玉堂造ぎょくどうづくり。

破風はふには菊にきりとう御紋ごもん御赦免ごしゃめんあって、系図けいず正しき薬でござる。

第二節

イヤ最前さいぜんより家名かめい自慢じまんばかり申しても、ご存知ぞんじない方には、正身しょうしん胡椒こしょう丸呑まるのみ、白河夜船しらかわよふね、さらば一粒食いちりゅうたべかけてその気味合きみあいをお目にかけましょう。

先ずこの薬をかように一粒舌いちりゅうしたの上にのせまして、腹内ふくないおさめまするとイヤどうも言えぬは、しんはいかんがすこやかになりて薫風候くんぷうのどより来たり、口中微涼こうちゅうびりょうしょうずるがごとし。

魚鳥ぎょちょうきのこ麺類めんるいの食い合わせ、その外、万病速効まんびょうそっこうある事神ことかみごとし。

さて、この薬、第一の奇妙きみょうには、舌のまわることが、銭独楽ぜにごまがはだしで逃げる。ひょっと舌がまわり出すと、矢もたてもたまらぬじゃ。

第三節

そりゃそりゃ、そらそりゃ、まわってきたわ、まわってくるわ。

アワヤのど、サタラナぜつに、カ歯音しおん、ハマの二つはくちびる軽重けいちょう開合かいごうさわやかに、あかさたなはまやらわ、おこそとのほもよろお。

一つへぎへぎに へぎほし はじかみ、盆豆ぼんまめ 盆米ぼんごめ ぼんごぼう、摘蓼つみたで 摘豆つみまめ 摘山椒つみさんしょう書写山しょしゃざん社僧正しゃそうじょう粉米こごめ生噛なまがみみ 粉米こごめ生噛なまがみみ こん粉米こごめ小生噛こなまがみ、繻子しゅす緋繻子ひじゅす繻子しゅす繻珍しゅっちん、親も嘉兵衛かへい 子も嘉兵衛かへい、親かへい子かへい 子かへい親かへい、古栗ふるぐりの木の古切口ふるきりぐち雨合羽あまがっぱ番合羽ばんがっぱか、貴様の脚絆きゃはん皮脚絆かわぎゃはん、我等が脚絆きゃはん皮脚絆かわぎゃはん、しっ皮袴かわばかまのしっぽころびを、三針みはりはりながにちょとうて、ぬうてちょとぶんだせ、河原撫子かわらなでしこ 野石竹のせきちく、のら如来にょらい のら如来にょらい のら如来にょらいのら如来にょらい

一寸先いっすんさきのお小仏こぼとけに おけつまずきゃるな、細溝ほそみぞにどじょにょろり。

京の生鱈なまだら 奈良生学鰹ならなままながつお、 ちょと四五貫目しごかんめ、お茶立ちゃたちょ 茶立ちゃたちょ ちゃっとちょ茶立ちゃたちょ、青竹茶筅あおたけちゃせんでおちゃちゃっとちゃ。

第四節

来るは来るは何が来る、高野こうやの山の おこけら小僧こぞう狸百匹たぬきひゃっぴき 箸百膳はしひゃくぜん 天目百杯てんもくひゃっぱい 棒八百本ぼうはっぴゃっぽん

武具ぶぐ馬具ばぐ・ぶぐ・ばぐ・ぶぐばぐ、合わせて武具ぶぐ馬具ばぐぶぐばぐ、きくくり・きく・くり・三菊栗みきくくり、合わせてきくくり六菊栗むきくくりむぎ・ごみ・むぎ・ごみ・むぎごみ、合わせてむぎ・ごみ・むぎごみ。

あの長押なげし長薙刀ながなぎなたは、長薙刀ながなぎなたぞ。

向こうの胡麻ごまがらは 胡麻ごまがらか、真胡麻まごまがらか、あれこそほんとの真胡麻殻まごまがら

がらぴいがらぴい風車かざぐるま、おきゃがれこぼし おきゃがれ小法師こぼうし、ゆんべもこぼして 又こぼした。

たあぷぽぽ、たあぷぽぽ、ちりから、ちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一干いっひだこ、落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食わぬ物は、五徳鉄灸ごとくてっきゅう かな熊童子ぐまどうじに、石熊いしぐま 石持いしもち 虎熊とらぐま とらきす、中にも東寺とうじ羅生門らしょうもんには、茨木童子いばらきどうじがうで栗五合くりごんごうつかんでおしゃる。

頼光らいこう膝元去ひざもとさらず。

第五節

ふな金柑きんかん椎茸しいたけ、さだめて後段ごだんな、そば切り、そうめん、うどんか、愚鈍ぐどん小新発知こしんぼち小棚こだなの、小下こしたの、小桶こおけに、こ味噌みそが、こるぞ、小杓子こじゃくし、こって、こすくって、こよこせ、おっと合点がってんだ、心得こころえたんぼの川崎かわさき神奈川かながわ程ガ谷ほどがや戸塚とつかは、走って行けば、やいとをりむく、三里さんりばかりか、藤沢ふじさわ平塚ひらつか大礒おおいそがしや、小磯こいその宿を七ツ起ななつおきして、早天早々相州小田原そうてんそうそうそうしゅうおだわらとうちんこう、かくれござらぬ貴賎群衆きせんぐんじゅの、花のお江戸の花ういろう、あれあの花を見てお心を、おやわらぎやという。

産子うぶこう子に玉子まで、外郎ういろう御評判ごひょうばん、ご存知ないとは申されまいまいつぶり。

角出つのだせ、棒出ぼうだせ、ぼうぼうまゆに、うすきね・すりばち、 ばちばちくわばらくわばらと、羽目はめはずして今日こんにちでの何れも様いずれもさまに、上げねばならぬ売らねばならぬと、息勢引いきせいひっぱり、東方世界とうほうせかいくすり元締もとじめめ、薬師如来やくしにょらい上覧しょうらんあれと、ホホうやまって、ういろうは、いらっしゃりませぬか。

※高校演劇などでも、滑舌の練習としても重用されています。

※2019年・歌舞伎座「七月大歌舞伎」、昼の部の『外郎売』の特別ポスター。市川海老蔵(現:団十郎、勸玄(現:新之助)親子の競演。当時、大きな話題となりました。

  

                                  (「」HPより)

※外郎とは元来、小田原の外郎家が製造・販売する薬を指し和菓子のういろうはその口直しのために出されたと伝えられる。

以下、旧東海道歩きのとき、「小田原宿」の記事を再掲。

「小田原宿」。右手に大きな「お城」が。これが有名な「ういろう(外郎)本舗」。売られているのは漢方薬「ういろう」と、同名の和菓子「ういろう」。漢方薬は直径2ミリほどの銀色の粒。一方の和菓子は米粉から作ったようかんのような蒸し菓子だ。




ういろう(外郎)は、神奈川県小田原市の外郎家で作られている大衆薬の一種。仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。
 14世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。陳宗敬は明王朝を建国する朱元璋に敗れた陳友諒の一族とも言われ、日本の博多に亡命し日明貿易に携わり、輸入した薬に彼の名が定着したとされる。
 室町時代には宗敬の子・宗奇が室町幕府の庇護において京都に居住し、外郎家(京都外郎家)が代々ういろうの製造販売を行うようになった。戦国時代の1504年(永正元年)には、本家4代目の祖田の子とされる宇野定治(定春)を家祖として外郎家の分家(小田原外郎家)が成立し、北条早雲の招きで小田原でも、ういろうの製造販売業を営むようになった。小田原外郎家の当主は代々、宇野藤右衛門を名乗った。後北条家滅亡後は、豊臣家、江戸幕府においても保護がなされ、苗字帯刀が許された。なお、京都外郎家は現在は断絶している。
 江戸時代には去痰をはじめとして万能薬として知られ、東海道・小田原宿名物として様々な書物やメディアに登場した。『東海道中膝栗毛』では主人公の喜多八が菓子のういろうと勘違いして薬のういろうを食べてしまうシーンがある。
 歌舞伎十八番の一つで、早口言葉にもなっている「外郎売」は、曾我五郎時致がういろう売りに身をやつして薬の効能を言い立てるものである。これは二代目市川團十郎が薬の世話になったお礼として創作したもので、外郎家が薬の行商をしたことは一度もない[3]。
 ういろうを売る店舗は城郭風の唐破風造りの建物で、一種の広告塔になったが、関東大震災の際に倒壊し、再建されている。
現在も外郎家が経営する薬局で市販されているが、購入には専門の薬剤師との相談が必要である。

東海道中膝栗毛』(主人公は「弥次さん」「喜多さん」)。

 喜多「おやここのうちは、屋根にだいぶ凸凹があるうちだ」

 弥次「これが名物のういろうだ」
 
 喜多「ひとつ買ってみよう。うまいかな」
 
 弥次「うまいだろうよ。あごがおちるくらいだ」
 
 喜多「おや、餅かと思ったら、薬だ」

 弥次「はははは、こういうこともあろうか。
    ういろうを餅かとうまくだまされてこは薬じゃと苦いかほ(顔)する」
     
 小田原外郎家では「お菓子のういろう」と呼ばれ、ういろう(外郎)薬と区別されている。「白・茶・小豆・黒」と「栗ういろう」がある。
 小田原外郎家は元々薬屋であったため、ういろうに付いてくる説明書きには、胃腸の弱かったり病後の人間や成長期の子供、産婦なども安心して食べられる「栄養菓子」と記載されている。なお小田原城近くの本舗(本店)は、和菓子店や薬局として営業しているほか、1885年(明治18年)の蔵を利用した小規模の博物館を併設している。

 名古屋のういろうの老舗 青柳総本家 1879年(明治12年創業)が製造販売する「青柳ういろう」は、日本一の販売量を誇る。
 砂糖(しろ)・黒砂糖(くろ)・抹茶・小豆(上がり)・さくらのほか、さまざまな種類が楽しめる。「青柳」の屋号は徳川慶勝から贈られた。1931年(昭和6年)に名古屋駅の構内とプラットホームでういろうの立ち売りを始めた。
 1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開通した後は、青柳ういろうだけが全列車内での車内販売を許されたことから、名古屋ういろうが全国的に知られるようになった。
 昭和43年に業界に先駆けてういろうのフィルム充填製法を開発。ういろうの包装技術を進化させることで、出来たての風味を閉じ込めういろうの日持ちを伸ばすことに成功し、ういろうの土産需要に貢献した。昭和56年には業界初のひとくちサイズのういろうを発売。 青柳ういろうの有名なローカルCMソングは多くの人に親しまれている。

(以上、「Wikipedia」参照)

「ういろう」(餅菓子)は、名古屋の「青柳総本家」が製造販売する「青柳ういろう」だとばかり思っていた小生。初めて知りました。実はそれほどうまいものという印象はないが。

近所のスーパーで売っていました。

  ・・・

(「」HPより)

 

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歌舞伎鑑賞教室。その4。舞踊『京鹿子娘道成寺』。西川寛。変幻豊かで、迫力のある踊り。

2023-07-03 21:30:58 | お芝居

歌舞伎には、「道成寺物(どうじょうじもの)」とよばれる作品群があります。これらの作品は、能の『道成寺』から、鐘供養に訪れた女性が舞を披露し、恨みの表情で鐘に飛び込む、という枠組みを取り入れています。「道成寺物」は、元禄年間(1688年~1704年)から上演されるようになりますが、それらの作品を集大成したのが、1753(宝暦3)年に初代中村富十郎(なかむらとみじゅうろう)が初演した『京鹿子娘道成寺』です。

今回は、日本舞踊西川流家元 西川寛による「京鹿子娘道成寺」。

1時間近くを1人の女方が踊りぬく女方舞踊の大曲。

白拍子(しらびょうし=歌舞を生業とする遊女)の花子が道成寺の鐘供養に訪れ、舞を次々に披露するうちに鐘に飛び込み、蛇体となって現れるという設定ですが、内容はいくつかの部分に分けられ、恋にまつわるさまざまな女性の姿を踊り分けることが主眼となっています。

聞いたか坊主

舞台は桜花爛漫の紀州(今の和歌山県)道成寺。所化(しょけ=修行中の僧)たちが「聞いたか聞いたか」「聞いたぞ聞いたぞ」と繰り返して登場。今日は焼け落ちた鐘楼の鐘が再興され、鐘の供養が営まれるのだが、師匠の長い御経を聞くのが憂鬱なので何か気晴らしの打開策を巡らしている。

いざ道成寺へ

道成寺からほど近い小松原。振袖姿の娘・花子が道を急いでいる。ふと袂や裾の乱れた自分の姿に気づいて恥ずかしがり、やがて恋人との逢瀬を回想。朝の別れの時を告げる鐘の音が憎らしいと、鐘への恨みを覗かせ、道成寺へ向かう。

花子の頼み

美しい花子の訪問に所化たちは大騒ぎ。花子は白拍子で、鐘を拝ませて欲しいと頼む。鐘供養は女人禁制だが、所化たちの禅問答のような問いかけに花子が見事に答えたので、所化たちは舞を舞うことを条件に寺の中に入ることを許す。

白拍子の舞

                                           

花子は赤の振袖姿になり、烏帽子をつけ中啓(扇の一種)を手に舞い始める。能の趣を取り入れた厳かな場面。夕暮れに響く鐘の音から、初夜(午後八時)の鐘は諸行無常と響く…など時を告げる鐘の音を世の無常になぞらえた歌詞で舞う。

                  

町娘の踊り

花子は烏帽子を脱ぎ、能仕立の舞から離れて、ぱっと華やいだにぎやかな歌舞伎の踊りになる。恋に乱れる女心とつれない男の心を歌った歌詞を手踊り(小道具を使わない踊り)で軽やかに綴り、「引き抜き」という手法で一瞬にして赤の衣裳から水浅葱(薄水色)の衣裳に変わる。ここから、つぎつぎと衣裳も小道具も歌も趣向を変えながら、さまざまな恋の踊りが続いていく。

一旦引っ込み、上半身だけ鴇色(ときいろ=薄いピンク)の衣裳になる。赤の笠をかぶった愛らしい娘の姿で、「振り出し笠」(一つの笠を降り出すと三つの笠が連なる仕掛けの笠)を使い可憐に踊る。「梅と桜はどちらが兄か弟かわからない」というかつての流行歌「わきて節」がのどかな趣。

所化も浮かれて

所化たちも肌脱ぎをし花傘を持って踊り出す。

赤の襦袢に卵色の股引を見せた坊主たちの楽しい群舞で、「菖蒲と杜若はどっちが姉か妹かわからない」という歌詞で踊る。

花子は藤色の衣裳で、手拭いを使いしとやかに踊る。

花子は藤色の衣裳で、手拭いを使いしとやかに踊る。恋する思いをかき口説く「クドキ」と呼ばれる眼目の場面。「貴方のために綺麗にお化粧したのに…」とじれたり、ちょっとした言葉に喜んだり、「一緒になろうと約束したのは嘘なのだろうか」と悩み、嫉妬して泣いたり…と恋する娘に共通する思い、女心の切なさが情緒たっぷりに描かれる。

羯鼓を打つ娘

上半身を卵色の衣裳に替え、富士山に吉野山、嵐山、中山、石山、…と、山の名前が読み込まれた「山尽くし」で展開。「末の松山いつか大江山」「恋路に通う浅間山」と恋歌の趣ある詞章で、羯鼓(かっこ=腰に付けて撥で打つ鼓)を打ちながら軽快に踊る。羯鼓を打つ音と足拍子のリズムが耳にも楽しい。

歩きながらスーッと「引抜き」白の衣裳になり、鈴太鼓(振り鼓ともいう)を使って踊る。二つの鈴太鼓を打ち付ける音、中の鈴のジャラジャラした音、足拍子などの音の複合が楽しい場面。田植え歌で、夢中になって鈴太鼓を床にうちつけてドコドコ音をさせるうちに、いつしか花子の顔色が変わり…。

鐘入

                           

鐘をきっと見上げる花子。制する所化たちを振り払い、鐘に上る。上に被せた赤の衣裳を取り去り蛇体の本性を表す「鱗模様」の衣裳になり、鐘の上から所化たちをキッと見下ろして幕となる。かつて恋する男を隠した憎い鐘に、再び巻き付いて執念をあらわにするのだ。

西川寛

日本舞踊5大流派の1つ「西川流」宗家直門師範 扇若会会主

1982年横浜市生まれ 幼少時より父、西川扇三郎 祖母、西川扇豊より指導をうけ、18歳の時西川流の名取を戴く。以降人間国宝である西川扇藏師に指導をうけ、本格的に日本舞踊家の道に進む。 歌舞伎座 国立劇場等多数の舞台に出演する一方、芸者衆をはじめとする弟子の育成に力を入れている。 テレビ等での所作指導も担当。現在、新宿(東京)柏(千葉)守谷(茨城)会津若松(福島)にて指導中。

(「西川寛オフィシャルサイトより)

※5大流派=花柳、若柳、西川、坂東、藤間流

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歌舞伎鑑賞教室。その3。『高尾懺悔』。坂東玉三郎。引退宣言。猿之助。

2023-07-02 20:34:11 | お芝居

鉦鼓の音も澄みわたり 名もなつかしき宮戸川 都鳥も声添へて 
南無阿弥陀仏みだ仏 浅茅が原のさうさうと 風冷やかに身にぞしむ 
不思議や紅葉の影添ひて 塚のうしろにすごすごと 高尾が姿あらはれて 

もみぢ葉の 青葉に茂る夏木立 春は昔になりけらし 
世渡る中の品々に 我は親同胞の為に沈みし恋の淵 浮びもやらぬ流れのうき身 
憂いぞつらいぞ勤めの習ひ 煙草呑んでも煙管より 咽喉が通らぬ薄煙 
泣いて明かさぬ夜半とてもなし 人の眺めとなる身はほんに 
辛苦万苦の苦の世界 四季の紋日は小車や 

先づ春は花のもと 手折りし枝を楽しみて 何処に眺むる春の風 
そよりそよりと花吹き散らす ちらりちらりと桜の薫り 野山を写す廓景色 
夏のあけぼの有明の つれなく見えし別れ鳥 ほぞんかけたと囀るは 
死出の田長や冥途の鳥と 鳴き明かす 籠の鳥かや怨めしや 
秋の夜長に牡丹花の 灯籠踊の一節に 
残る暑さを凌がんと 大門口の黄昏や いざ鈴虫を思ひ出す 
つらい勤めのその中に 可愛男を待ち兼ねて 暮松虫を思ひ出す 
虫の声々かはゆらし 我れが住家は草葉にすだく 
露を枕に触らば落ちよ 泣いて夜毎の妻ほしさうに 殿子恋しき機織虫よ 
露を枕に触らば落ちよ 泣いて夜毎の妻ほしさうに 殿子恋しき機織虫よ 
昼は物憂き草の蔭 

早時来ぬと云ふ声も 震ひわななき身に沁みわたり どろどろどろ 仇と怨と情の思ひ 
追ひめぐり 追ひめぐり 震動稲妻凄まじく 
無残や高尾は世の人の 思ひをかけし涙の雨 
はんらはんら はらはら はらはら 降りかかれば 身に沁みたへて 木蔭に寄れば 
刃の責に煩悩の 犬も集まり 牙を鳴らして飛びかかる 
こは情なや牛王の烏 嘴を鳴らして羽をたたき 眼を抜かんと舞ひ下る 実に恐ろしき物語

        

              

             

坂東玉三郎、突然の引退表明の背景に猿之助騒動? 「元弟子からセクハラ問題で訴えられた過去が」

デイリー新潮6/25(日)10:57

坂東玉三郎、突然の引退表明の背景に猿之助騒動? 「元弟子からセクハラ問題で訴えられた過去が」

23年目のヤブヘビ

“猿之助ショック”を引きずる歌舞伎界で、大物役者の発言が波紋を広げている。

「主は坂東玉三郎(73)。自身のプロデュース公演『坂東玉三郎 PRESENTS PREMIUM SHOW』に関する、今月5日の記者発表での発言でした」

 とは歌舞伎担当記者。

「公演は9月。会場は東京・南青山のBAROOMで、バーも併設されている100席ほどの小規模なミュージックホールです。玉三郎は“体力的に歌舞伎座など大劇場で公演を行うのが難しくなった。今後はこのように、お客様と近い空間で芸術を届ける活動を軸にしていければ”と、本興行から距離を置く意向を明らかにしたのです」

 言うまでもなく、玉三郎は斯界を代表する大名跡。

「玉三郎は片岡仁左衛門(79)と並ぶ、歌舞伎界きっての観客動員力を持っている。彼らに続く存在が市川團十郎(45)と市川猿之助(47)の二人でしたが、心中騒動で猿之助の復帰が絶望的ないま、玉三郎が実質的に大劇場からの引退を示唆した。松竹には過去に例のない衝撃が走りました」

 松竹関係者が振り返る。

「会見では“大きな役で大劇場の公演を1カ月間、背負うことは体力的に難しい”とも。自他ともに認める完璧主義者の玉三郎は、10年ほど前から体力的な衰えを自覚していました。以来、長時間にわたって踊る『鷺娘(さぎむすめ)』や『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』といった大曲を避けていましたし、地方における短期公演も3年前からやめていました」

猿之助騒動の影響

 都内の料亭に生まれた玉三郎は1歳半の時に小児まひを患いながら、努力と持ち前の美貌で人気を博した。

「歌舞伎入りはリハビリ目的で始めた日本舞踊がきっかけで、デビュー当時は足に後遺症が出ていたそうです。それでも“玉さまブーム”を呼んだ当代一の女形に登り詰め、平成24年には人間国宝に認定されました」

 不意に飛び出したスーパースターの弱気発言。松竹幹部は、いまもくすぶる猿之助の騒動の影響を指摘する。

「猿之助の件は彼のセクハラやパワハラがきっかけとされていますが、実は玉三郎にも平成13年に似たようなセクハラ問題が持ち上がっていたんです」

過去のスネの傷

 訴えたのは19歳の元弟子と彼の母親。この男性は13歳で玉三郎に弟子入りしたが、直後から「添い寝の強要や、下半身を触られるなど精神的な苦痛を強いられた」として1200万円の損害賠償を求めていた。

「歌舞伎界ではつとに知られた話ですからね。玉三郎は過去のスネの傷への飛び火を恐れて、記者の取材を避けやすい大劇場からの引退を決意した可能性もある」

 どういうことか――。

「大勢の記者から猿之助に関するコメントを求められれば、過去の汚点が蒸し返されかねない。その点、いまのところ本人への直撃取材はないとか。翌6日付のスポーツ紙は“玉三郎が大劇場から引退”と大きく報じただけでしたね」

 尾上菊五郎(80)と松本白鸚(80)という大看板は体調不良で休演中。猿之助に加えて、玉三郎の“退場”は、歌舞伎界に急速な世代交代を迫っているかのようだ。

「週刊新潮」2023年6月22日号 掲載を引用。

まだ歌舞伎界にデビューして間もないころ、「高校生のための歌舞伎教室」があったときに出演していました。もう50年以上の昔の話です。

そのとき、「全部、男が演じているのは分かったが、たった一人女優が入っていましたよね。」との声。

その女優が玉三郎でした。

                                     

 

まだまだ大活躍して欲しい方です。    

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歌舞伎鑑賞教室。その2。令和4年7月国立劇場。『藤娘』。藤間紫・藤間爽子。華麗なる一族。

2023-06-30 20:24:42 | お芝居

令和4年7月舞踊公演「花形・名作舞踊鑑賞会」より『藤娘』

舞踊として名高い「藤娘」。

    

             

真っ暗な中で幕が開くと、「若紫に十返りの、花を現す松の藤浪・・・」と長唄が始まります。

一瞬にして舞台に明かりが灯ると、大きな松の木に絡んだ藤の花が一面に咲き誇り、その下には黒塗りの傘を被って藤の枝を持った美しい娘が立っています。

実はこの娘は人間ではなく、若い娘に姿を変えた藤の精なのです。

傘を被ったまま一時舞い踊った後、松の陰に姿を隠した娘は、今度は傘を手に持って藤の花房をかき分けて姿を表します。

           

そして近江八景の情景を読み込んだ長唄の詩に合わせて、初々しい娘の浮気な男への恋に身を焼く女心を見せる「クドキ」の場面になり、艷麗に舞い踊ります。

            

再び松の陰に隠れた娘は、今度は傘を持たず衣装を変えて登場し、この舞踊の見せ所でもある「藤音頭」を披露します。

藤の花の精が娘の姿で現れ、女心を踊る作品です。とりたててストーリー展開はありませんが、衣裳を何度か着替えて、娘の愛らしい姿を見せていきます。笠を使った振りでは、「男ごころの憎いのは他の女子(おなご)に……」と男性の浮気性をなじる詞章で、すねてみせるなど、切ない反面可愛らしい恋心が表現されます。次の「藤音頭(ふじおんど)」は見どころの1つで、お酒を少し呑まされて酔い、恋しい男性を思う踊りです。鉦(かね)という金属音のする打楽器が醸し出す、美しくリズミカルな曲を背景に、男性が帰るというのを引き留めたりする女心満点な振りがついています。両肌脱ぎ(もろはだぬぎ)をした格好になると、テンポのよい曲調になり、明るく楽しく踊ります。「まだ寝が足らぬ……藤に巻かれて寝とうござる[まだ眠いので、藤に巻かれて眠りたい]」という詞章で、寝そべったりする仕草が可愛らしい部分です。やがて鐘の音が聞こえてくると、娘は藤の枝を担ぎ夕焼け空に飛ぶ雁を見上げるのでした。 

              

ここからは、下世話話になりますが。

                        (「」より)

祖母は日本舞踊の紫派藤間流・初世家元藤間紫。祖父は藤間流宗家の舞踊家で人間国宝二世 藤間勘祖(六世 藤間勘十郎)。父は元俳優藤間文彦。母は元女優の島村佳江。兄は元ジャニーズJr.で日本舞踊家の初世藤間翔(藤間貴彦)

幼少より祖母・初世家元藤間紫に師事。7歳で歌舞伎座の舞踊会で初舞台を踏む。小学4年生の時に舞った「羽根の禿(はねのかむろ)」は二代目市川猿翁が絶賛し、藤間紫が嫉妬したほどで、早くから後継者に指名されていた。藤間紫の死後、二代目を襲名した猿翁に師事してきたが、弟子からも技術が認められ、2018年に三代目襲名が決まった

女優としては、2017年に連続テレビ小説ひよっこ」(NHK)でデビュー。2018年には野田秀樹脚本、中屋敷法仁演出の舞台「半身」で桜井玲香とW主演を務める。

2021年2月28日、東京の日枝神社で三代目藤間紫を襲名し、日本舞踊の紫派藤間流家元となった。兄の貴彦は初代・藤間翔(かける)を襲名している。襲名披露公演は2022年1月に国立劇場で行われる。女優業は当面、藤間爽子名義で続ける意向を示した。師匠の二代目市川猿翁(二代目藤間紫)は「初世の遺言通り、『孫の爽子が年ごろを迎えた暁に、3代目家元として藤間紫を襲名させて欲しい』という遺志を実現する時期に達したと思い(中略)継承させる運びとなりました。それに伴い、妹を支えて共に芸道に励む覚悟をした兄の貴彦には、私の生き様を示す『天翔ける心』から藤間翔と命名し、初代として名乗らせることを決めました」と文書でコメントしている

2022年1月、延期になっていた紫派藤間流舞踊会を国立劇場にて開催し、三代目藤間紫を襲名披露。『京鹿子娘道成寺』白拍子花子、『道行初音旅』静御前などを務めた。(この項「Wikipedia」より)

華麗なる一族。

市川照之(市川中車)とは叔父と姪の関係。図にはないが、今、世間を騒がせている市川海老蔵とも遠縁に。  

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歌舞伎鑑賞教室。令和4年7月国立劇場。『紅葉狩り』。三橋鷹女・この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉。

2023-06-29 20:53:27 | お芝居

このところ、出歩く機会がなく、ブログも滞りがち。

そこで、「YouTube」を視聴。第三回目の「歌舞伎鑑賞教室」でも開いてみることに。

今回は、去年行われた夏の「歌舞伎鑑賞教室」を。

         

紅葉が夕日に照り映える戸隠山。余吾将軍平維茂(よごしょうぐんたいらのこれもち)が従者の右源太、左源太とともに紅葉狩にやって来る。そこには宴を張る先客がいた。聞けば、やんごとない女人が侍女たちとお忍びでお出掛けとのこと。維茂が遠慮しようとすると、その高貴な姫自ら、是非ご一緒したいと誘う。そこまで言われてひいては男がすたる。言われるままに維茂は宴に加わることにする。

美女に美酒

さっそく酒よ、肴よと下へも置かぬもてなしぶりに、盃を重ねる維茂。腰元が舞を舞い、調子に乗った右源太、左源太も滑稽な踊りで座を盛り上げる。


なおも一献とすすめられた維茂は、その代わりにと姫に舞を所望する。恥ずかしがる姫だったが、局に手を取られ舞い始め、やがて二枚の扇をつかってあでやかに舞いすすめてゆく。

だが、ふと見ると美酒に酔いしれたか維茂はうたた寝をしている。姫は用心深く何度か様子を窺い、維茂が熟睡したことを確認すると表情を一転させ、維茂と従者を残して一同とともに山へ姿を消す。

山神の警告

入れ替わりに眠りこける維茂主従の前に現れたのは山神である。この山奥には鬼神がいて人を取って喰う、こんなところで寝ていては命は風前の灯同然と、山神は杖を突き、肩をゆすり、地団駄踏んで維茂らを起こそうと躍起になるが、一向に目覚める気配がない。とうとうあきれ返って帰ってしまう。

鬼女の出現

夜風にようやく目が覚めた維茂は、姫の正体を見届けようと山奥へ向かう。従者二人は恐れわななき、ころがるように山を下りていく。やがて維茂に追われて出てきたのは、形相凄まじい鬼女。

    

勇猛な維茂もたじたじと押されていくが、平家に伝わる名剣小烏丸(こがらすまる)の力を借り、鬼神を追い詰めていく。

信濃国の戸隠山にがおり、平維茂によってそれが退治されたというのが共通する伝説の要素である。その鬼は女性であり、名前を紅葉(もみじ)であるとするものが一般に流布されている。

室町時代から江戸時代にかけて、浄瑠璃歌舞伎では「紅葉狩」(もみじがり)という題名で描かれつづけ、平維茂が戸隠山におもむき、そこで出会った紅葉見物の美しい女性たち一行に出遭うという展開を設けている。その女性たちの正体が戸隠山の鬼、鬼女・紅葉であるとする。をもとにして作られた河竹黙阿弥による歌舞伎『紅葉狩』(1887年)は、紅葉に相当する鬼の名を更科姫(さらしなひめ)としている。

※鬼無里での紅葉伝説は他と違い、紅葉が村人に施した事が伝えられている。一般には主人公の「紅葉」は妖術を操り、討伐される「鬼女」であるが、鬼無里における伝承では医薬、手芸、文芸に秀で、村民に恵みを与える「貴女」として描かれる。 

(この項、「Wikipedia」より) 

美女が鬼に変身して暴れる、という意外性が面白い。当然、同じ役者が演じるわけですが。

華やかな舞台が繰り広げられます。

女性の俳人・三橋鷹女の有名な句、この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」を想起させます。

燃えるような夕紅葉には鷹女の句を通して、ゾクゾクとさせるものがあります。

・・・

女流俳人鷹女は、明治32年(1899)に成田町成田(現在の成田市田町)で、父三橋重郎兵衛・母みつの三女として生れました。本名はたかです。成田幼稚園、成田小学校をへて、成田高等女学校(現在の成田高等学校)を卒業しました。
 大正5年(1916)に上京、同11年(1922)に歯科医師の東謙三(号剣三)と婚姻し、夫と共に俳句にいそしみました。
 初めは「鹿火屋」、次に「鶏頭陣」などに属しましたが、のちには永く結社に拠らず、独自の句境を築きました。
   夏痩せて嫌いなものは嫌ひなり
   白露や死んでゆく日も帯締めて
   口中一顆の雹を啄み 火の鳥や
 などの句はよく知られています。
 昭和47年(1972)、73歳で永眠しましたが、生家に近い田町の、通称白髪毛にある三橋家墓所に葬られました。
   千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作)
 
三橋 鷹女(みつはし たかじょ)は、女性俳人として中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに四Tと呼ばれました。

女性の情念を詠む前衛的な句風で、表現の激しさは、当時の女性俳人の中でも異色の存在でした。以下のような、まさに鬼気迫る句を残しています。

老いながらつばきとなつて踊りけり
墜ちてゆく 燃ゆる冬日を股挟み
鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪うべし


注:鞦韆=ぶらんこのこと。

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続「歌舞伎鑑賞教室」その5。「弁天娘女男白浪 ・浜松屋見世先の場」。菊五郎。吉右衛門。幸四郎。・・・そして、青砥。

2021-06-19 13:05:19 | お芝居

旧歌舞伎座取り壊しのための「さよなら公演」より。平成22年(2010年)3月。このときの公演は、歌舞伎の名場面集という雰囲気の演目でした。

他の演目を含め、玉三郎、仁左衛門、富三郎、などそうそうたる役者が勢揃いした公演でした。この時にすでに勘三郎がいないのが残念、至極。

               

     

鎌倉・浜松屋に、若党四十八を供に、武家娘が現れ、早瀬主水の息女お浪と名乗り、婚礼支度の品物を選ぶうちに、そっと鹿子の裂(きれ)を懐に入れます。見とがめた番頭が帰ろうとする娘の懐から、鹿子の裂を引き出し、万引きと思い込み娘の額を算盤で打ちます。

              

しかし、鹿子は他の店の品であったことが分かり、若旦那の宗之助が四十八に詫びるが、四十八はお浪につけられた額の傷をもとに、金を要求する四十八に対し、主人幸兵衛は百両を出して詫びます。

大金を受け取り帰ろうとするお浪と四十八を、店の奥に居合わせた玉島逸当という侍が呼び止めます。

       

逸当はちらりと見えた腕の刺青に、お浪を男と見破ります。見抜かれた二人は、居直ってその正体を明かします。女装していたのは、弁天小僧菊之助、四十八は南郷力丸でした。

           

この場面での名台詞

知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の
種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き
以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の、枕捜しも度重なり
お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局
ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの
似ぬ声色でこゆすりたかり
名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ

二人が居直って悪態をつくのに対し、幸兵衛は弁天が受けた傷の膏薬代として二十両を差し出す。しぶる弁天を南郷が説き伏せ、二人はようやく腰を上げる。浜松屋を出た二人は、道々、騙りの道具として使った重い武家の衣裳を坊主が来たら、交互に持とうと「坊主持ち」に興じながら帰ってゆく。

            

安堵した浜松屋では逸当を奥座敷へ案内します。しかし、この逸当こそ、実は弁天小僧や南郷力丸の頭である大盗賊・日本駄右衛門でした。

               松本幸四郎

この後、稲瀬川の場面となり、弁天小僧を先頭に、忠信利平、赤星十三郎、南郷力丸、そして日本駄右衛門の白浪五人男が勢揃いし、一人ずつ名乗りを上げ、捕手と渡り合う見せ場になります。

実に小気味よい展開のお芝居で、名優達の手慣れた演技も見所。

この歌舞伎は、文久2年(1862)3月に江戸市村座で初演されたときの演目は「青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ)河竹黙阿弥作。

「青砥」は追っ手の「青砥藤綱」に因んでいます。実在の青砥藤綱は鎌倉時代後期の人物で、『太平記』などにも記されていますが、江戸時代には、藤綱は公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として文学や歌舞伎などにしばしば登場します。

かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えた。(「Wikipedia」より)

京成電鉄・青砥駅の「青砥」は、「青砥藤綱」に由来するようです。町名としては川運(古利根川・中川)の港を意味する「戸」(「戸」は「津」が転じたもの)からきた「青戸」で、混同される場合が。

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続「歌舞伎鑑賞教室」。その3。「与話情浮名横櫛」。尾上菊五郎。坂東玉三郎。サンシャイン劇場。木更津。

2021-05-25 22:38:23 | お芝居

今回は、去年歩いた「房総往還」。その木更津にちなんで。

池袋に「サンシャイン劇場」が開場された頃の上演でちょっと古く、さらに観客の咳やくしゃみがけっこう気になる録画ですが、菊五郎も玉三郎もまだまだ若く、溌剌と演じています。

           

あらすじ

 江戸の大店伊豆屋の若旦那(じつは養子)の与三郎は故あって身を持ち崩し、木更津の親類に預けられていた。春の潮干狩りの時分、木更津の浜をぶらついていた与三郎はお富とすれ違い、互いに一目惚れしてしまう(序幕・木更津浜辺の場)。

                   
 ところがお富は、地元の親分赤間源左衛門の妾だった。その情事は露見し与三郎は源左衛門とその手下にめった斬りにされるが、源左衛門はこの与三郎をゆすりの種にしようと、簀巻きにして木更津の親類のもとへ担ぎ込もうとする。いっぽうその場を逃げ出したお富は赤間の子分の海松杭の松に追われ入水するが、木更津沖を船でたまたま通りかかった和泉屋の大番頭多左衛門に助けられる(二幕目・赤間別荘の場、木更津浜辺の場)。

                        

 そしてそれから三年。

与三郎はどうにか命を取り留めたものの家を勘当されて無頼漢となり、三十四箇所の刀傷の痕を売りものにする「向疵の与三」として悪名を馳せ、お富は多左衛門の妾となっていた。

                    


 或る日のこと。与三郎はごろつき仲間の蝙蝠(こうもり)安に連れられて、金をねだりに或る妾の家を訪れた。ところがそこに住む女の顔をよく見れば、なんとそれは三年前に別れたきりのお富である。片時もお富を忘れることのできなかった与三郎は、お富を見て驚くと同時に、またしても誰かの囲いものになったかと思うとなんとも肚が収まらない。
 やがて多左衛門が来て、そのとりなしで与三郎と安は金をもらって引き上げる。お富は、多左衛門には与三郎を兄だと言い繕ったのだったが、じつは多左衛門こそがお富の実の兄であり、多左衛門は全てを承知の上で二人の仲をとりもとうとしていたのである。このあと多左衛門はお店からの呼び出しを受けて再び出掛け、和泉屋の番頭籐八がお富を手篭めにしようとするのを与三郎が助けるが、籐八が海松杭の松の兄であったことから赤間一味の悪事を知り、復讐を誓う。与三郎が「命がありゃあ話せるなァ」とお富を引寄せるところで幕となる(三幕目・源氏店妾宅の場)。

            

                                     

名科白(三幕目「源氏店妾宅の場」より。)
与三郎:え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、
    いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。
お 富:そういうお前は。
与三郎:与三郎だ。
お 富:えぇっ。
与三郎:お主(のし)ゃぁ、おれを見忘れたか。
お 富:えええ。
与三郎:しがねぇ恋の情けが仇(あだ)
    命の綱の切れたのを
    どう取り留めてか 木更津から
    めぐる月日も三年(みとせ)越し
    江戸の親にやぁ勘当うけ
    拠所(よんどころ)なく鎌倉の
    谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても
    面(つら)に受けたる看板の
    疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに
    切られ与三と異名を取り
    押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより
    慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんやだな)
    その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に
    格子造りの囲いもの
    死んだと思ったお富たぁ
    お釈迦さまでも気がつくめぇ
    よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ
    安やいこれじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ
    帰(けぇ)られめぇじゃねぇか。

                  


『与話情浮名横櫛』は、春日八郎の歌『お富さん』でも有名。 


山崎正 歌詞 渡久地正信 作曲

粋な黒塀 見越しの松に

仇な姿の 洗い髪

死んだはずだよ お富さん

生きていたとは お釈迦様でも

知らぬ仏の お富さん

エッサオー源氏店

(この項、「https://www.uta-net.com/movie/13850/」より)

当世の美男美女の取り合わせによるお芝居。

『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』といえば、通称「お富与三郎」「切られ与三」として親しまれている人気演目です。とりわけおなじみの場面は「ご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ。いやさお富久しぶりだなあ」の名せりふで知られる「源氏店(げんじだな)」の場ですが、元々は史実の「玄冶店(げんやだな)」に由来しています。

 玄冶というのは三代将軍家光の時代に将軍お抱えの医者として名を馳せた岡本玄冶、その屋敷のあった所が玄冶店です。「冶(や)」の字を「治(じ)」に置き換えると「げんじ」となり、そこへ「源氏」という字を当てて芝居の舞台にしました。

とはいえ実際にあった有名な場所の上に言葉の響きが粋で、「玄冶店」はこのお芝居の代名詞ともなっています。
 人形町三丁目交差点付近には「玄冶店跡」の史蹟碑が建てられ、その歴史を今日に伝えています。

(「」HPより)

ところで、木更津には、「見染めの松」。

見染の松」解説板。

一帯は、松林になっています。
 歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」の主人公お富 と与三郎 が、この場で見染めて以来ここに来ては逢瀬を楽しみ、この松ヶ枝に袖をかけてはかない恋を語ったと伝えられ、袖掛けの松ともいわれたそうであります。
 かつては、ここに老松 がありましたが時の流れとともに風雨にさらされ、或は害虫に侵蝕されてしまいこれを再現したのがこの見染の松であります。

 駅近くの「光明寺」には「切られ与三郎」のモデルとなった男のお墓があります

                   

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続「歌舞伎鑑賞教室」。その2。「勧進帳」。二代目松本白鸚、十代目松本幸四郎、八代目市川染五郎。

2021-05-24 20:32:39 | お芝居

「壽初春大歌舞伎」 松本白鸚・松本幸四郎・市川染五郎襲名披露(「高麗屋三代襲名披露公演」)。

平成30年1月2日開幕 歌舞伎座。

              

当時、親・子・孫と三代同時の襲名披露として大きな話題になりました。

松本幸四郎改め二代目松本白鸚、市川染五郎改め十代目松本幸四郎、松本金太郎改め八代目市川染五郎の襲名披露興行。

勧進帳 

歌舞伎十八番の一つ。
兄源頼朝との仲が悪くなった源義経は、武蔵坊弁慶らわずかな家来とともに、京都から平泉(岩手県)の藤原氏のもとへと向かいます。頼朝は平泉までの道すじに多くの関所を作らせ、義経をとらえようとします。『勧進帳』は、義経たちが加賀国の安宅の関所(石川県)を通過する時の様子を歌舞伎にしたものです。義経一行は山伏に変装して関所を通過しようとします。ところが関所を守る富樫左衛門は、義経たちが山伏に変装しているという情報を知っていたので、一行を怪しんで通しません。そこで弁慶は、何も書いていない巻物を勧進帳と見せかけて読み上げます。

          

勧進帳とは、お寺に寄付を募るお願いが書いてある巻物です。いったんは本物の山伏一行だと信じて関を通した富樫ですが、中に義経に似た者がいる、と家来が訴えたため、呼び止めます。

変装がばれないようにするために、弁慶は持っていたつえで義経を激しく叩きます。

それを見た富樫は、その弁慶の痛切な思いに共感して関所を通すのでした。

          


 初代市川團十郎が元禄時代にこの場面を演じました。しかしその時の台本が残っていなかったこともあり、7代目團十郎が新しく作り直しました。1840年(天保11年)のことです。7代目團十郎は、衣裳や舞台装置などを新しくするために能を参考にしました。背景は能の舞台をまねて松羽目にし、衣裳も能に近づけました。その後9代目團十郎が得意とし、現在に受け継がれています。


 弁慶の演技には、最後の飛び六方に代表される荒事の豪快さだけでなく、はっきりしたセリフ回しや舞踊の技術が必要で、座頭の役として特に大事にされています。 また伴奏の長唄は、代表的な三味線音楽の一つとして知られています。

(あらすじ解説は、「」HPより)

      

華やかな舞台に感動。

「荒川を遡る」で玉淀にあった「雀宮公園」は、歌舞伎の名優・七代目松本幸四郎の別邸跡地。

雀亭をかたどった四阿。

解説板。

  幸四郎は、恵まれた容貌、堂々たる口跡に裏打ちされた風格のある舞台で、時代物、荒事に本領を発揮しました。特に、九代目市川団十郎の直系の芸である「勧進帳(かんじんちょう)」で弁慶を演じては、彼の右で出る者はなく、生涯を通じて1600余回演じ、不朽の演技として後世に語り継がれることに。

 幸四郎は、1949(明治24)年に80歳で亡くなり、子に十一代目市川団十郎、八代目松本幸四郎、二代目尾上松緑、孫に九代目松本幸四郎(現:二代目松本白鸚)、また、十代目松本幸四郎、松たか子は曾孫に当たる。

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続「歌舞伎鑑賞教室」。その1。「操り三番叟」。中村勘太郎(勘九郎)、中村獅童、尾上松也。オリパラ。

2021-05-23 20:57:40 | お芝居

「緊急事態宣言」下の東京都。近隣の神奈川、埼玉、千葉が「蔓延防止」でとどまっているのが、不思議なくらい。

IOCは、緊急事態宣言下でも「オリパラ」は開催すると、断言。「オリパラ」目指して励んできたアスリートの期待に応える、とか。開幕すれば人々の気を紛らすことができ、希望や喜びを与えられる、そのためには無観客ではなく。五輪の夢を実現するために誰もがいくらかの犠牲を払わないといけない

一方、IOCに言いなりの菅自公政権。

丸川大臣、コロナ禍で分断された人々の間に絆を取り戻す大きな意義がある、と。この東京大会は世界中の人々が新たな光を見いだすきっかけになる、とか。「」「新たな光」?

平井大臣、国民の命と健康を守ることができるのなら、パンデミック(世界的流行)下での五輪開催というモデルを日本が初めてつくることになる、とか。

ここまで来ると、国民の生命と暮らしを守ることをどこまで本気で考えているのか。逃げを打っているつもりでしょうが。

感染が多い国から大量に選手、関係者、報道陣がやってくる! 彼らが禁止条項にきちんと従ってくれるという空約束(たぶん)のもとで。

政府、東京都。ここで解除して7月に入って再拡大したら、えらいことに。そこで、延長しても6月20日までとし、「オリパラ」に備えるという魂胆が見え見え。

そのため、高齢者などのヘのワクチン接種を何としても7月末までに(オリンピック開会までに)、と自治体をせかす。

人形遣いの意のままに踊らされる「哀れさ」よ。操り人形ならまだしも、腹話術の人形となっている? 「交通安全教室」ではないんですから。

というわけで、「撃ちてし止まん」「大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ」とか「欲しがりません勝つまでは」とか「竹槍で闘う」とかの気概もない老国民は、じっと我慢の時を過ごす。

そこで、昨年に続いて「歌舞伎鑑賞教室」を。

第1回は「操り三番叟」。千秋万歳、弥栄を言祝ぐめでたい所作事。皮肉でも何でもありませんが。

舞台は、操られつつも、自在かつ華麗に舞い踊る三番叟=勘太郎。見事な踊りを披露します。

筋立ては

①翁と千歳(せんざい)の舞

                    千歳=中村鶴松、翁=中村獅童。

幕が開けると、背景は能舞台を模した松羽目。翁と千歳が登場。能の所作事で始まります。千歳の若々しい舞に続き、翁が厳かに舞う。初春のめでたさや末永い繁栄を祝う歌詞。舞い終わった二人は再び礼をし、去って行く。

②三番叟の登場 三番叟=中村勘太郎(現勘九郎)、後見=尾上松也。

後見が登場し、背景が鶴を描いたものに変わる。後見は三番叟と書かれた大きな箱を開け、中から人形を取りだし、抱えて舞台中央へ。

          

糸のついた台を舞台の上方に。これで人形遣いと人形が糸で繋がり、三番叟が動き出す。

おおさえおさえ 喜びありや 喜びありや 我がこの所より外へは遣らじとぞ思ふ

        ③「揉みの段」。

三番叟は袖を翻し躍動的に踊り出し、大地を踏みしめる振りや大きく飛ぶ「烏飛び」などの型を軽やかに見せていく。

父親(勘三郎)譲りの達者な踊りを披露します。手の動き、足の動き・・・、まるで人形のように自在に。

ところが、途中で糸が絡まってしまい、三番叟は糸の撚れに従いくるくるくるくると廻り出す。どんどん加速がついて廻る三番叟、ついに糸がふつりと切れて、舞台に倒れ伏す。

後見が切れた糸をつなぐ。すると、再び三番叟はゆっくりと動きはじめ、鈴を手にして種蒔きの所作を見せる④「鈴の段」。

五穀豊穣を祈って幕となります。

             

千秋万歳 万々歳の末までも 賑はふ御代とぞ舞ひ納む

当代きっての若手役者たち。なかなか見応えのあるお芝居でした。

(映像は「YouTube」より)

 

ところで、「甲州街道」歩きのとき、「猿橋」。

この「三番叟」を「笹子追分人形芝居」で拝見しました。



  「追分人形式三番叟」。

三人がかりで人形を操ります。少々小ぶりな人形に素朴な衣装を身につけ、テープの義太夫節に合わせて動作をします。中央の人は高下駄をはいています。素朴な中に地域の伝統芸能のすばらしさを観せてもらいました。

さんばそう【三番叟】

能の「翁(おきな)」で、千歳(せんざい)・翁に次いで3番目に出る老人の舞。直面(ひためん)の揉(もみ)の段と黒い尉面(じょうめん)をつける鈴の段とからなり、狂言方がつとめる。また、その役および面。→式三番

 歌舞伎・人形浄瑠璃に1が移入されたもの。開幕前に祝儀として舞われたほか、一幕物の歌舞伎舞踊としても発達。

地方に1または2が伝播し、各地の民俗芸能に取り入れられたもの。多くは最初に演じられる。

                                       (「デジタル大辞泉」より)

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歌舞伎鑑賞教室。その6。「傾城雪吉原(けいせいゆきのよしはら)」。―歌舞伎座―。

2020-05-15 18:48:38 | お芝居

                        坂東玉三郎の踊り。

  

雪がしんしんと降る闇夜に浮かび上がる玉三郎。

     はっとするような幕開け。



五代目坂東玉三郎
 歌舞伎界を背負って立つ立女形。評価の高い舞台での美しさと存在感に加え、昭和歌舞伎を代表する大役者・六代目中村歌右衛門亡き後、かつて歌右衛門がつとめた数々の大役を継承して新しい境地を確立している。若くしてニューヨーク・メトロポリタン歌劇場に招聘され、アンジェイ・ワイダ、ダニエル・シュミット、ヨーヨー・マら世界の超一流の芸術家たちと多彩なコラボレーションを展開するなど、その影響と賞賛は世界的なものである。
 また、映画監督・演出家としても独自の映像美を創造した。その他にも、演劇全般に関する私塾「東京コンセルヴァトリー」の開校や熊本の八千代座保存への協力など、演劇以外にも活躍している。また歌舞伎だけでなく、10代半ばよりレッスンを受けたバレエの実力も、プロ・バレリーナと一緒に踊りをこなしても何の遜色もないどころか、玉三郎自身が一バレエダンサーとしての評価にあずかるほどのものがある。
 近年は歌舞伎と縁の薄い邦楽の演出も手がけている。趣味はダイビング。
 五代目玉三郎は、梨園の出でないばかりか、小児麻痺の後遺症をリハビリで克服したこと、その影響で左利きとなったこと、女形としては長身であること(公称173cm、過去に某雑誌では175cmとも)、芸風や活動方針を巡って六代目歌右衛門との間に永年の確執があったこと(後年和解)など、数々の苦難を克服しつつ精進を続けて今日の地位を築きあげた、現在の歌舞伎界における希有の存在である。

主な歌舞伎の当たり役
『鳴神』の雲絶間姫(くものたえま ひめ)
『桜姫東文章』の桜姫(さくら ひめ)
『義経千本櫻』の静御前(しずか ごぜん)
『壇浦兜軍記』の阿古屋(あこや)
『籠釣瓶花街酔醒』の八ツ橋(やつはし)
『花街模様薊色縫』の十六夜(いざよい)
『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子(しらびょうし はなこ)
『鷺娘』の鷺の精(さぎの せい)
『助六由縁江戸桜』の揚巻(あげまき)
『鰯売恋曳網』の蛍火(ほたるび)
              
(この項、「Wikipedia」参照)
 齢、既に70歳なんですね。
 ずっと昔、半世紀近く前に「高校生のための歌舞伎教室」というのが、歌舞伎座で開かれていました。その時、生徒が「みんな男だって分かったけど、一人だけ女の人がいたよね」と口をそろえて言います。それが若き日の玉三郎でした。

一転、華やかな舞台に。

                  



再び雪が舞い、

   静かに幕が下りる。

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歌舞伎鑑賞教室。その5。「月光姫恋暫(かぐやひめこいのしばらく)」。―歌舞伎座―。

2020-05-14 20:22:39 | お芝居
 「第38回俳優祭」。2017年3月28日(火)。
・・・
歌舞伎座で開催された第38回俳優祭は、おかげさまで大盛況の裡に終了しました。
ご来場いただいたお客さまをはじめ、ご協力賜りました松竹株式会社、歌舞伎座、舞台スタッフなど、関係各位に厚く御礼申し上げます。
今回の俳優祭は、「日本俳優協会再建設立60周年記念」として開催いたしました。
明治22(1889)年、歌舞伎座と同じ年に設立された俳優組合は、第二次世界大戦の末期に解散し、その後多くの人たちの苦労の末に、昭和32(1957)年2月に再建設立総会を開き、再出発いたしました。
 それからちょうど60年を経て、記念の「俳優祭」を開催し、無事に終了したことに感謝しております。
・・・
一、舞踊二題 -伝統歌舞伎保存会研修発表会
(上) 二つ巴
二つ巴(大星家=大石家の家紋)の題名のとおり、『仮名手本忠臣蔵』が題材。前半は七段目(祇園一力茶屋の場)で討ち入りの志を隠して遊興にふける由良之助と本心をさぐりに来る三人侍、夫勘平のため遊女となったおかるの虚々実々のかけひきが描かれます。後半の十一段目(討入の場)では、塩冶家の浪士たちと高家の侍との息詰まる立廻りが見ものです。
華美な化粧や衣裳・装置なしに、扇一本だけで描き出されるストイックな世界-ふだんの歌舞伎舞踊と違う素踊の味わいをお楽しみください。
『仮名手本忠臣蔵』が題材。前半は七段目(祇園一力茶屋の場)で討ち入りの志を隠して遊興にふける由良之助と本心をさぐりに来る三人侍、夫勘平のため遊女となったおかるの虚々実々のかけひきが描かれます。後半の十一段目(討入の場)では、塩冶家の浪士たちと高家の侍との息詰まる立廻りが見ものです。
華美な化粧や衣裳・装置なしに、扇一本だけで描き出されるストイックな世界-ふだんの歌舞伎舞踊と違う素踊の味わいをお楽しみください。

(下) 石 橋
古来、百獣の王・獅子と百花の王・牡丹の取り合わせは縁起物として日本人の大好物。なかでも能『石橋』-文殊菩薩が住まう中国・清涼山の、千丈の谷に架かる幅一尺の石の橋の上で、霊獣・獅子が牡丹の花と戯れ舞い狂う-のイメージは広く人口に膾炙し、のちに石橋物といわれる数々の歌舞伎舞踊(『相生獅子』『枕獅子』『英執着獅子』『連獅子』『鏡獅子』など)を生みだしました。また祭礼で粋な鳶頭が獅子舞にからんだり、手古舞姿の芸者が小さい獅子頭(手獅子)や獅子頭に見立てた二枚扇(扇獅子)を持つ姿も、『お祭り』『神田祭』『勢獅子』などでお馴染みです。
長唄『石橋』をベースに、そうした「獅子物」のいいとこ取りをしたスペシャルバージョンです。

二、模擬店
「俳優祭」と言えば模擬店。
食堂、ロビー、売店・・・・・・ありとあらゆるところで素顔の俳優たちが皆様のご来店をお待ちしております。
今年の目玉は写真館です。『石橋』の仔獅子メンバーと一緒に記念撮影。
三、『月光姫恋暫』-かぐやひめこいのしばらく-五場
 ここは天界・月宮殿。王と妃は、美貌にもかかわらず生まれつき気性の荒い一人娘・かぐや姫の行く末が心配でならない。
 今日も今日とて、姫に仕える局たちに大けがを負わせる始末。とうとう王と妃は、かぐやを地球へ修行の旅に出すことにし、「汝に欠けたるものを会得するまでは、王女として迎え入れることはできぬ」と厳命する。
 さて、何がおこるか、どうぞお楽しみに。



(この項、「」HPより)

 「公益社団法人日本俳優協会」は、歌舞伎・新派そして商業演劇に出演する俳優の職業団体。但し、会員名簿を見ると、歌舞伎、新派の俳優がほとんど。なお、今年「第39回俳優祭」が開催される予定でしたが、コロナの影響で延期されているようです。

歌舞伎役者が勢揃いの舞台。

          

・・・

 



         

   

ごあいさつ 坂田藤十郎。

 それぞれの役者がのびのびと演じていながら、きちんと所作事をこなしているのは、さすがです。
 「俳優祭」の演目は、シンデレラであったり、宝塚であったり、変幻自在の作品。観客も一体となって楽しんでいます。
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歌舞伎鑑賞教室。その4。「団子売(だんごうり)」、「高坏(たかつき)」。ー歌舞伎座ー。

2020-05-12 20:06:44 | お芝居
 

                  
 故18代目中村勘三郎が「勘九郎」のころの演目。前の歌舞伎座のときのもの。勘三郎は完成前に惜しくも亡くなってしまい、新装なった「歌舞伎座」には縁がありませんでした。

 餅屋台を担いでやって来たのは団子売の夫婦の杵造とお臼。二人は杵と臼を取り出すと、仲良く餅をつき始める。餅つきを終えた二人は、童唄に乗ってゆったりと踊るが、やがてひょっとことお多福のお面をつけて賑やかに踊り始めます。
 江戸時代に流行した団子売の風物を舞踊にしたこの作品は、仲のよい夫婦が軽やかに踊る人気舞踊です。


                

義太夫に乗りながら、

2人の息の合った踊り。



2人でついた団子餅、お盆で見事にキャッチ。

ちょっと小太りの勘九郎がご愛敬。

お多福のお面がはまりすぎ。

                     

ひょっとこのお面をつけて踊る三津五郎。
 この三津五郎も勘九郎が亡くなった2年半後に59歳の若さで亡くなっています。
    

 2人とも同年代で、公私ともに大変仲が良かったようです。
 当代きっての歌舞伎役者2人が今も健在なら、さぞかしすばらしい舞台が展開されていたと思います。
         

続いて、「高坏」。
下駄でのタップダンス! お見事!
【あらすじ】
 酒宴を開こうとしたが高坏(食物や盃をのせたりするのに使う足つきの台のこと)がない。
大名は次郎冠者に命じた。さて困ったのは、次郎冠者。高坏がどういうものか知らない。
 ずる賢い高足売り(高下駄を売る行商人)の言うことを真に受け、高坏の代わりに高足を買い、酒を一滴残らず飲み干してしまった次郎冠者は高足を踏み鳴らし陽気に踊り狂う。

 昭和8年(1933年)の初演当時に流行っていたタップダンスを歌舞伎に取り入れて、名優と言われる6代目尾上菊五郎が次郎冠者を演じた。
6代目は2回しか演じなかったそうだが、それを継承したのが17代目、そして18代目中村勘三郎の当り芸になっていました。


                

高下駄を操っての見事な舞い。

                     



                    
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