おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

今年は川歩きの一年でした。隅田川・荒川・利根川。

2021-12-30 18:56:39 | 利根川を歩く

年初から荒川、隅田川、そして利根川と川歩きの1年。

新型コロナ感染症の緊急事態宣言が発出されて、思うように出かけられず。あまり人に会わなくて済むだろう、と。

①隅田川

               

②荒川河口~起点

               

③利根川 

・栗橋~沼田の手前

 

・銚子港(河口)~佐原

         

荒川は河口から中流、上流へと変化に富んだ川歩きでした。

武甲山や奥秩父の山々を遠く眺めながらの歩き。SLにも乗りました。

利根川は上流も下流も中途半端で。それでも、前橋、銚子港、佐原などは何十年ぶりかの訪問。

下流は筑波山、上流は赤城山・榛名山、子持山などを見ながらの歩き。

二つの川とも「暴れ川」。今も続く護岸工事、治水に明け暮れる歴史と川と共に生きる人々の姿を垣間見ました。

来年は「利根川歩き」から。 

 

ところで、お供え。ユズリハもダイダイも何だか元気がなさそう。ダイダイは葉が取れてしまったし、・・・。

コンブだけはなかなか良さそう。

それでもお飾りをして来年に。元気盛んな、生まれて3ヶ月の、ちび猫がイタズラしないように用心、用心。

 

来年こそは、「新型コロナウイルス感染症」が収束しますように。

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JR小見川駅~佐原駅。その7。佐原の街並み。その2。そして、「すずめ焼き」。(利根川を歩く。第11回目。)

2021-12-29 20:14:03 | 利根川を歩く

佐原街道歩きで訪れたところも再掲しながら。

「すずめ焼 麻兆」。

すずめ焼き、佃煮を沢山販売されてます。佐原で有名な鰻もしぐれ煮として販売。鮒だけではなく、すずめ焼とは佐原の地域の様々なお店で販売されている佃煮の一種で、小鮒等の小魚を串に刺したもの。
姿が小枝に止まっているすずめに似ているから、や、お殿様がすずめを焼いたものと勘違いしたから、等様々な説があります。

(この項、「」HPより)

以下、前回訪問したときのブログより(2019/6)

 



忠敬橋」から「小野川」北側(下流)を眺める。

「解説板」。
佐原の町並
 利根川図志(1855年)に「佐原は、下利根附第一の繁昌の地なり、村の中程に川有りて、新宿 本宿の間に橋を架す、米穀諸荷物の揚げさげ、旅人の船、川口より此所まで、先をあらそい、両岸の狭きをうらみ、誠に、水陸往来の群集、昼夜止む時なし」と記してある。
 江戸時代の佐原は「小江戸」と呼ばれ、この周辺の町並には、国指定史跡伊能忠敬旧宅や県指定有形文化財小堀屋本店店舗、正文堂書店店舗をはじめ、土蔵造りの古い商家がある。
 また、関東三大祭りの一つとして数えられる「佐原まつり」は、豪華絢爛を競い、山車で奏される県指定無形民俗文化財佐原囃子は水郷情緒を代表するものである。


植田屋荒物店」の裏手。

南側(上流)を歩きます。
対岸には「まぎの屋菓子店」。

伊能忠敬旧宅」。

                          

 
              「樋橋(とよはし)」。
 樋橋は、江戸時代の初期、佐原村の灌漑用水を東岸から西岸に送るため、木製の大きな樋をつくり小野川に架けられたものです。
 もともとこの橋は、人を渡すためにつくられたものではなく、後に大樋を箱型につくり、丸太の手摺を付け板を敷いて、人が渡れるようになりました。
 橋の名は、大樋でつくられたので樋橋といい、また大樋から水がジャージャーと流れ落ちていたので「ジャージャー橋」とも呼ばれました。
 昭和に入り、コンクリート製となり、現在の橋は平成4年に架け替えられたものです。

割烹 宮定」。
 このお店はテレビ東京の「和風総本家」のオープニングとして使われ、お店の看板を「和風総本家」に書き換えている、とか。

遅歩庵(ちぶあん)いのう」。
「樋橋」の近く、「伊能忠敬記念館」のそばにあります。「東京バンドワゴン」の看板。これは、2013年に放映されたドラマ「東京バンドワゴン~下町大家族物語」のロケで、「遅歩庵いのう」が使われた名残。ドラマの設定では、古本屋だったそうです。 

                     

重厚な「見世倉」。

              中村屋乾物店」。

茶屋花冠」。

奥に見える赤レンガ造りの建物は、「佐原三菱館」。
 明治の洋風煉瓦造建築の様式を受け継いだもので、外観はルネサンス建築様式、屋根は木骨銅板葺き、正面右にドームを配している。 内部は吹き抜けで、2階の周囲に回廊がある。窓や出入り口には上部巻上げ式のよろい戸、鉄製のサッシが残っている。 建築当時の図面にはこのほか、カウンター奥の壁中央に大理石張りの暖炉、南東隅には二階への螺旋階段があった。 佐原の町並みの中では、その特徴的外観からシンボル的な存在の建物である。
《大正3年築。旧三菱銀行佐原支店(それ以前は川崎銀行佐原支店)》
(この項、「Wikipedia」参照)

 「小野川」沿いに下って行きます。この地区にも両岸にすてきな古風な建物が並んでいます。



                       



1880年代のようす。「小野川」界隈の賑わいぶりが分かる。



2010年代のようす。「小野川」に架かる橋が「忠敬橋」。中央黄色い道路、右が「香取神宮」方向。左上が「佐原駅」方向。旧道は左下からの道。

  柳の新緑が川面に映える。

「開運橋」。ちょうど外国人を乗せた遊覧船が通りすぎていきます。JR成田線の踏切が見えます。

 

 ※今回は、この橋の所から佐原駅に向かいました。

佐原駅。

          

伊能忠敬像。

 

鹿島線の電車。

次回は、どこまで歩けるやら。だんだんJR線から離れて行きそうなので。

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JR小見川駅~佐原駅。その6。佐原の街並み。若山牧水。田端義夫。そして、大分・初雪。(利根川を歩く。第11回目。)

2021-12-28 20:42:20 | 利根川を歩く

              小野川。

「佐原」は、佐倉街道・成田街道・佐原街道と歩き、その終着点としてやって来ました。

そのときはJR線の南側周辺の、伊能忠敬関連施設、また小江戸と称される伝統的な建物が点在する街並みを町を歩きました。

その時と同じように「小野川」沿いを少し歩いて(今回はちょっと上流に向かって)佐原駅まで向かいます。

利根川の支流である小野川は、江戸期より水運の集散地として佐原の町を発展させた。農業用水としても古くから利用され、香取市牧野地先にを造り、樋橋を介して市内関戸方面や本宿耕地方面に水を引いていた。1951年(昭和26年)に国鉄佐原駅北側に小野川から掘り込み式の佐原が完成したが、船の需要がなくなったため1970年(昭和45年)に埋め立てられた。2004年(平成16年)には市街地の洪水を解消するため香取市牧野地先から本宿耕地地先利根川までを流す小野川放水路が完成した。

※「佐原港」の今昔

              

1970年代のようす。駅の北側に堀割の港。       2010年代のようす。千葉県香取合同庁舎などの敷地に。

ところで、

26、27日とお葬式のため、大分まで出かけました。行きの羽田空港は大混雑。今までもあまり経験がないほどの。家族連れ等でごった返し。保安検査場を抜けるのに、1時間近くもかかりました。出発の15分前に搭乗口に。コロナ感染症がこれ以上、蔓延しないうちに、というわけではないでしょうが。久々の帰省ラッシュ。混雑を甘く考えていました。

甘く見ていたのが、大分空港への往復。

大分空港に着くと、今度は小雪混じり、気温はマイナス。

空港を出ると、路面が凍結し始めて、迎えの車も慎重運転。

もともと、大分空港から大分市内までは1時間30分ほどかかる道のり。

大分の方達は雪の経験があまりなく、スタッドレスタイヤを持っていない方がほとんど。慣れぬ雪道での運転でした。

何とか無事に着きましたが、大分迄来ると、寒いことは寒いですが、雪の降った気配などまったく、なし。別府湾をはさんで北と南ではこんなにも違う!

翌日、葬儀も終わり、大分空港へ。今度は道中、大渋滞。空港へ向かう高速道路が積雪のため、閉鎖。下道の県道を延々と走るしかない。停まってはノロノロ進み、時にはまったく進みません。これでは出発する便に乗れるかどうか、と。

別府湾をぐるりと回って行くしかない、片側一車線の一本道。空港手前に峠道。そこから延々と渋滞だったわけです。

運転してくれた方、前日の雪模様で事前にスタッドレスタイヤに変えてくれていた。

一番渋滞している(だろう)ところを機転を利かせて脇道に入り、渋滞を避けることができて、無事、空港に着くことができました。感謝、感謝!

後から聞いた話ですが、大分から乗るのを諦めて、小倉まで出て、新幹線で帰京した、また、福岡空港に回った、という方も。

〈閑話休題〉

 

「若山牧水 水郷めぐり」碑。(旧入船橋近くにある「川岸公園」内。) 

(終點の佐原驛に着いた時は、昨夜の徹夜で私はぐつすりと眠つてゐた。搖り起されて闇深い中を俥で走つた。)

俥はやがて川か堀かの靜かな流れに沿うた。流れには幾つかの船が泊つてゐて小さなその艫の室には船玉樣に供へた灯がかすかに見えてゐた。その流れと利根川と合した端の宿屋川岸屋といふに上る。

小野川の流れ。「川岸公園」付近から佐原港へ通じる水路があった。

「田端義夫歌唱碑」。

田端義夫。「バタヤン」の愛称で知られた田端義夫の「大利根月夜」の歌詞が刻まれています。平成10年(1998)建立。

あれを御覧と指差すかたに 利根の流れをながれ月 昔笑うて眺めた月も 今日は今日は涙の顔で見る

愚痴じゃなけれど世が世であれば 殿の招きの月見酒 男平手ともてはやされて 今じゃ今じゃ浮き世を三度笠

もとをただせば侍そだち 腕はじまんの千葉仕込み 何が不足で大利根暮らし 故郷(くに)じゃ故郷じゃ妹が待つものを 

         (映像は「youtube」より)

  JR成田線。

香取市マンホール。

                市の花「アヤメ」の咲く水郷での鮒釣りをデザイン。

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JR小見川駅~佐原駅。その5。二つの道の駅(道の駅・川の駅水の郷さわら)。猿回し。(利根川を歩く。第11回目。)

2021-12-25 21:32:59 | 利根川を歩く

             

二つの「道の駅」エリアにはいってきたようです。

                     2010年代のようす。

~「水の郷さわら」にようこそおいでくださいました 川・鳥・舟を楽しみながらゆっくりとお寛ぎください~
舟運で栄えた商都・交易都市佐原の利根川入江にある「水の郷さわら」は、地域特産品の直売や河川を利用した各種レクリエーション、また防災教育や観光情報など、「水」と「人」とのふれあいの場を提供すると共に、様々な情報を発信する総合施設として展開いたします。(「道の駅」HPより)

※国道沿いの「道の駅」だけでなく、利根川を活かした「川の駅」という二つの施設があり、まとめて「水の郷さわら」。

利根川水運を利用し、江戸との舟運により栄えた商都・佐原にオープンした「水の郷さわら」は、全国初となる「道の駅」と「川の駅」が一体となった複合施設です。
 温暖な気候と肥沃な農地に恵まれた香取市は、県内でも有数の農産物生産地としても知られ、市内の生産者が丹精込めた作った新鮮な野菜や果物など様々な地域特産品が「道の駅」で販売されています。
 また、隣接する「川の駅」では、水と触れ合う体験メニューも充実。観光船やカヌー乗り場、バードウォッチングができる湿地帯など一日遊べる観光スポットとしても注目を浴びています。

(「」HPより)

晴れていますが強風のため、川縁を歩く人の姿は皆無。

左端遠くに筑波山。

     車はたくさん。

波が荒く観光船も欠航? 

         

正面は、たぬき島。

          野生のたぬきが棲んでいるらしい。

水辺広場から。

案内板。

        右の○「小見川駅」からここまで歩いたわけです。

干物や佃煮などお土産を買って外に出ると、外では大道芸の一つ、「猿回し」。今時、珍しい。

動物虐待だ! 「かわいそう」という批判的な意見もあるようですが、・・・。

一時人気を呼んだ「日光猿軍団」を引き継いだ「おさるランド・日光さる軍団」が活動している、とか。他の団体もあるようです。

どこの所属なのか、女性が一生懸命、猿も一生懸命やっています。

さて、「利根川歩き」は今回はここまで。佐原駅に向かいます。

 

 

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JR小見川駅~佐原駅。その4。「浜鳥居・常夜灯・与謝野晶子歌碑」。(利根川を歩く。第11回目。)

2021-12-24 16:36:09 | 利根川を歩く

                   「海から35.5㎞」ポスト。

日差しは穏やかですが、田んぼを渡る風が冷たい。

テトラポッドに寄せる波も激しい。

       

    河口方向。

「道の駅 水の郷さわら」「川の駅 水の郷さわら」が前方遠くに見えてきます。

                

右手、対岸遠くに筑波山が見えています(正面奥)。

川面には、たくさんの水鳥。

川辺に大きな鳥居。「浜鳥居・常夜灯・与謝野晶子歌碑」。

香取神宮表参道の「一の鳥居」であるこの鳥居は、利根川の津宮河岸に建つ。現在の鳥居は、平成14年(2002)に竣工された。この辺りの利根川は、もともと香取が浦(香取の海)と呼ばれ、鳥居も水中に建ち、浜鳥居と呼ばれた。香取・鹿島・息栖の三社参詣の際は、この鳥居をくぐった。ここに建立されている常夜灯(香取市指定文化財)は、明和6年(1769)に三社参詣の講中の人々が航路の安全を祈願し香取神宮に奉納した。高さは2.8まり、利根川を行き交う船の目印となった。その傍らに、歌人与謝野晶子の歌碑がある。晶子はは、明治34年(1911)に銚子を訪れた際に津宮に立ち寄り、鳥居河岸の宿屋で歌を詠んだ。

かきつばた香取の神の津の宮の宿屋に上る板の仮橋

与謝野晶子歌碑。

          

この先で、「国道356号線(利根水郷ライン)」が左手から近づいてきます。

           

左手に二つの「道の駅」。

 左手が「国道356号線」。

                    「海から37㎞」ポスト。

       

                    遠くに見える橋は、「水郷大橋」。    

         下流方向。

しばらく国道沿いに進みます。

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JR小見川駅~佐原駅。その3。東関東自動車道。JR鹿島線。(利根川を歩く。第11回目。)

2021-12-23 21:40:55 | 利根川を歩く

                     「東関東自動車道

河口方向。

         鹿島臨海工業地帯の工場群が遠ざかります。

「東関東自動車道」。

関東地方を東進し、千葉県と茨城県を結ぶ高速道路である。東京都から千葉県北部を横断して茨城県水戸市に至る路線が東関東自動車道水戸線、千葉県内房に沿って館山市に至る路線が東関東自動車道館山線である。東日本高速道路による営業路線名としての東関東自動車道は、一般に水戸線の高谷ジャンクション (JCT) - 茨城町JCT間(首都高速湾岸線から北関東自動車道まで)を指し、館山線は館山自動車道などの別路線名で区別される。

水戸線の未開通部分である潮来インターチェンジ (IC) - 鉾田IC間が整備計画区間として現在整備事業が進められている。

当初は新空港自動車道として開通したが、成田国際空港開業の翌年(1979年昭和54年〉)に「東関東自動車道」に名称変更された。なお新空港自動車道の名称は、成田JCTと成田空港付近の新空港IC間の道路名として現存する。

開通当初の名称である新空港自動車道からも分かる通り、道路の建設目的は、東京都区部から成田国際空港にアクセスするための高速道路である。また、全線開通時には、常磐自動車道バイパス路線となることも期待されている

宮野木JCTから京葉道路館山自動車道(東関東自動車道館山線)、千葉東JCTから千葉東金道路がそれぞれ分岐しており、東金・館山方面の利用もある。(「Wikipedia」より)

※成田空港に行くときや東金・館山に行くときなど利用したことがあります。

              南西方向へ向かう橋脚。

土手上には「利根川橋・東関東自動車道」との表示。

                           JR鹿島線の鉄橋が見えてきます。

前方からきた自転車が左に折れ、橋の方へ向かっていきます。利根川橋に側道があるようで、強風の中、渡って行きました。

  

          

「鹿島線」の鉄橋。

鹿島線

成田線の佐原駅から銚子側の1駅先にある香取駅から分岐し、前川あやめ園や十二橋めぐりなどの水郷の観光地を持つ潮来駅鹿島神宮鹿島臨海工業地帯のある鹿嶋市の中心である鹿島神宮駅を経由し、鹿島サッカースタジアム駅を終点とする。開業は1970年。国家的な開発プロジェクトであった鹿島臨海工業地帯の開発・発展に寄与するため、現在の鹿島臨海鉄道の営業路線(大洗鹿島線鹿島臨港線)と共々に計画・建設され、香取駅 - 北鹿島駅(現在の鹿島サッカースタジアム駅)間が「鹿島線」として開業した

全線のほとんどが高架となっている成田線との分岐点を過ぎると、鹿島線内には踏切はひとつもない。このことは接続先の大洗鹿島線でも水戸駅付近をのぞけば同様である。また利根川常陸利根川・北浦に架かる橋梁はいずれも長大で、特に北浦に架かる北浦橋梁は1236 mの長さを持ち、東海道新幹線富士川橋梁に次ぐ長さを有する。これらの高架・橋梁を合わせた長さは全線の55%に達し、軟弱地盤で水域が多い水郷地帯を貫通している。ただし、強風時は香取駅 - 十二橋駅間、延方駅 - 鹿島神宮駅間で速度制限や運転見合わせが行われることがある。

(この項、「Wikipedia」参照)

※「北浦橋梁」。(「Wikipedia」より)

(「」HPより)

※JR鹿島線は、「香取~鹿島サッカースタジアム」。通常は、「鹿島神宮」が終着駅。

「海から35.0㎞」ポスト。

 

来た道を振り返る。

          手前が「鹿島線」鉄橋。奥が「東関道」の橋脚。

香取駅に向かう電車。

利根川に架かる鉄橋。

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JR小見川駅~佐原駅。その2。テトラポッド。一ノ分目。水郷。(利根川を歩く。第11回目。)

2021-12-21 20:39:15 | 利根川を歩く

あまりの風の強さに土手下の道に下ります。災害用の大量のテトラポッドが置かれています。

           

消波ブロックは、海岸河川などの護岸水制を目的に設置するコンクリートブロック消波根固ブロック(しょうはねがためブロック)、波消しブロック(なみけしブロック)と呼ばれることもある。

英語では「tetrapod」と呼ばれ、日本語でも消波ブロック全般を「テトラポッド」と呼ぶこともあるが、日本では「テトラポッド」は不動テトラの四脚ブロック製品の登録商標である。

※商標登録というと、「ホチキス」や「ジープ」と同じでしょうか? 「消波ブロック」と放送等では言わなければならないようです。

日本国内で見かけることが多い四脚ブロック「テトラポッド」は4本の脚が放射状に伸びた形のコンクリート製の消波ブロックである。1949年フランスのネールピック社により発売されたもので、モロッコ火力発電所の護岸工事に用いられた。日本国内には、日本テトラポッド株式会社(現・不動テトラ)により1960年代頃から導入され普及した。ちなみにテトラポッドとは、接頭辞である「テトラ」(4本)の足という意味であり、本来は「四肢動物」の意味である。

(この項、「Wikipedia」参照)

以下は「不動テトラ」HPより。

  • 完成された形状 シンプルな形状で截頭円錐体の4本脚から構成されており、ブロック単体として曲げ抵抗が大きく極めて強固なコンクリートブロックです。
  • 優れた水理安定性 重心が低く外力 (流れ) に対して非常に安定です。その構造物は、ブロック相互間の噛み合わせが自然に得られより安定となり、高い粗度と有効な空隙を備え流れのエネルギーを吸収、減衰させます。
  • 容易な施工性 当社のテトラポッド鋼製型枠はシンプルな互換性のある4枚の枠 (シェル) の組み合わせにより構成されていますので組立、取外しが簡単です。また、据付は、現地条件に対して非常に順応性が高く、容易な設計断面が得られ施工性に優れています。

       「一ノ分目(いちのわけめ)」にある「排水機場」。

      

この地名は読めませんでした。新田開発に伴う地割に関係する、とのことですが・・・。「三ノ分目(さんのわけめという地名もあるようです。香取神宮の神域の区分(新田開発と密接な関係はあります)に関わりがありそうな気がします。

※千葉には難解な地名が多いようです。例えば、「匝瑳=そうさ」とは読めませんでした。他にも、・・・

JR水郷駅の付近。名の如く、「利根川」から「常陸利根川」=霞ヶ浦から流れ=にかけて、田んぼが広がっています。

                     2010年代のようす。

            現在は、土地改良事業が行われ、整然と区画整理された田んぼに。

ところが、1880年代のようす。

                     

利根川と霞ヶ浦からの流れとが渾然一体となった地域で水田開発が進み、雑然とした区画に。利根川大改修以前の地勢。

※「水郷駅」はけっこう洒落た駅舎。<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/c1/ac895d91e798eed54ccd6cb06774197e.jpg">(「Wikipedia」より)

「海から31.0㎞」ポスト。

河川敷には葦の群生。

正面遠くに筑波山。

水位計。

遠くに「東関東自動車道」の橋脚が見えてきます。

      

「海から32.0㎞」ポスト。

まだまだ先は長い。強風にも負けず、と思いつつ、しばらくは、土手下の砂利道を歩きます。

「東関東自動車道」の橋脚に近づいていきます。

 

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JR小見川駅~佐原駅。その1。小見川大橋・神栖渡船。筑波山。(利根川を歩く。第11回目。)

2021-12-19 21:39:44 | 利根川を歩く

                 「小見川大橋」。

河口方向。

12/18(土)。夕方から来客があるため、佐原駅まで。約13㎞。

快晴、しかし、北西の風すこぶる強し。

利根川の土手(サイクリングロード)に上がったとたん、強風に煽られて、歩くのも厳しい。吹き飛ばされて土手下にでも転落したらオオゴト! 川面も波立って、対岸の工場、煙突の煙は、上に上がること無く、まったくの水平に。

晴れても北風が強い、この季節、すこぶる無謀な歩きです。

以前、真冬の「水戸街道」歩きで、吹きさらしの田んぼの中を歩いたことがあります。その時は、「筑波山」が北の方、遠くに見えて、これが天下の筑波颪(おろし)か、と。

今回も「筑波山」を遠くに見ながらの歩き。途中、土手歩きをやめ、土手下に下りてみても強風は防ぎようがない!

銚子に向かう(河口に向かう)サイクリングを数人見かけたくらい。風を背にしての快調な走り? でも、寒さは防ぎようも無いようす。

ジョギングは青年が1名、歩きは、すれ違った3名のみ。それぞれ当方を見て、・・・。

犬を連れての散歩は、0。

ということで。

「海から27.0㎞」ポスト。

「小見川大橋」。

1973年昭和48年)8月1日に開通。工期は5年8ヶ月間、総工費は21億円。6連のランガー橋である。橋長822.2 m。管理は千葉県知事が行う

昭和40年代の鹿島臨海工業地帯の開発に伴い、小見川には住金団地が造成された。しかし小見川と神栖の間には渡船しかなかったため、工場への通勤に渡船を使っていくという状態であった。また、小見川市街地の振興のためにも大橋建設をという機運が高まり、小見川大橋が千葉県により建設された。

現在では千葉県と茨城県鹿島地域を結ぶ幹線道路となっているが、片側1車線であるため朝夕を中心に混雑が激しい。近年、利根川北岸の交差点寄りが拡幅され右折車線が設置された。

※神栖渡船

明治13年(1880)の記録によると、人・牛馬・車ともに5銭の渡し賃で、息栖、小見川両岸でそれぞれ渡船を経営したと言われている。昭和7年(1932)には両岸有志の共同出資による「水郷息栖小見川渡船株式会社」が設立され渡船業務を行っている。
昭和28年(1953)には同者の営業権の譲渡を受けて、小見川町町営渡船となり、1日8回の運行を行った。この年度の乗客延人数は19万6千人と記録されている。昭和30年代は、第一小見川丸から第六小見川丸まで六隻を保有し、経済交流だけではなく、千葉県側の高校への登校の交通手段としても大きな役割を果たしていた。
昭和48年(1973)小見川大橋の完成により、幾世紀にわたる水上交通の拠点としての津・渡船場の役割を終えた。

平成22年 神栖市教育委員会

(この項、「イバラキノート」HPより)

なお、「広報かみす」2021年12月1日号で「渡船物語」として、取り上げられています。

遠くに筑波山がくっきりと(↓)。

60年以上、昔に通っていた小学校の校歌でも「東に筑波、西に富士」という歌詞がありました。筑波山は関東地方に住む人間にはなじみの大変深い山です。

今回は、強風に煽られつつ、秀峰・筑波山を遠くに見ながらの歩きでした。

土手下を歩くも、稲刈りを終え、すっかり何も無くなった田んぼを渡る風がすこぶる冷たい。

      

強風にそよぐ葦の原。

 

            鹿島臨海工業地帯に立ち並ぶ煙突の煙は雲と一体化。

「海から30.0㎞」ポスト。3キロを40分。

      

土手下の砂利道に下りたり、土手に上がったり、・・・。

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JR椎柴駅~小見川駅。その7。笹川漁港。小見川駅。(利根川を歩く。第10回目。)

2021-12-18 20:23:03 | 利根川を歩く

    この付近の今昔。利根川の治水工事がいかに難工事、大工事であったかが分かります。

                                                                                                                               

2010年代のようす。上の流れは、常陸利根川。            1880年代のようす。水路が入り乱れている。

「笹川漁港」。

        

「黒部川」と水門でつながっています。

振り返る。

左手に黒部川。

一つ先の小見川駅まで歩くことにします。

 

           

けっこう距離がかせげますが、もうしだいに夕方の気配。

ラジコン飛行機が上空に(↓)。

ここから「黒部川」に沿って「小見川駅」まで歩くことにします。

上流の橋は「小見川大橋」。

水郷らしい雰囲気。

2㎞以上歩いてやっと「小見川駅」に。

案内板。

成田方面に向かう列車の発車時間まで、まだまだ。待っている間に、すっかり日没になってしまいました。

日が沈むとけっこう肌寒くなります。銚子駅方向。

日没を見るのは久々です。

次回は、「小見川大橋」から歩くことにします。

 

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JR椎柴駅~小見川駅。その6。利根川第一期改修発祥の地。「コジュリン公園」。(利根川を歩く。第10回目。)

2021-12-17 22:04:18 | 利根川を歩く

               「利根川第一期改修 発祥の地」碑。 

     

「利根川治水百年記念」モニュメント。「川の流れと共に歩んだ地域の苦楽」「歴史の重み」を表現しています。

利根川は明治期になってもたびたび氾濫し、特に明治18年(1885)?29年(1896)の洪水被害が大きかったため、河川法の制定とともに、それまでの底水工事から高水工事に変更し、堤防を高くするなどの大規模な改修計画が立てられました。
工事は3期に分けて実施され、第1期は利根川河口から佐原間で着工されたため、 発祥地として碑が建てられました。

【碑文】
記念碑建立の趣意書
 利根川の本格的な治水工事は,明治三三年(西暦1900年) 第一期改修工事として佐原?河口間で着手された。同年, 築堤工事が大倉村 (現佐原市)地先で, 浚渫工事が笹川村(現東庄町)のこの地で起工された。
 起工初年度の浚渫工事は, 内務省第一土木監督署笹川工営所が担当した。工事は, 人力掘削で浚渫船作業が併用され, 浚渫された土砂は合わせて約二〇万八千立米であった。
 爾来, 利根川下流でおこなわれた浚渫土砂は築堤にも用いられたが, 大部分の土砂は周辺の湿地, 沼沢等の埋立てに利用された。 こうして利根川下流改修事業は, 洪水防御と共に土地造成を行うという一挙両得の効果を挙げた。
 ここに, 当地先における利根川改修事業の着手を永遠に伝承するため 「利根川第一期改修発祥の地」の石碑を建立する。

                       平成12年(2000年)10月 建立

(この項、「システム・制度の記念碑https://www.chiba-muse.or.jp › digi-muse › kinenhi」HPより)

         

          コジュリン公園野鳥観察デッキ。一人、カメラを据え付け観察中。

コジュリン公園

利根川近代治水工事発祥の地(東庄町菰敷地先)にある公園で、利根川子どもサミットにおいて、子どもたちが描いた「利根川の大自然と水に親しむ」という夢を、国土交通省と東庄町が実現したもので、公園内には、昔の利根川を再現した「じゃぶじゃぶ池」「野鳥観察舎」「遊歩道」が自然を活かして配置され、トイレも完備されています。

(「東庄町」HPより)

コジュリン(小寿林、学名Emberiza yessoensis

スズメ目ホオジロ科ホオジロ属に分類される鳥類

全長14.5cm。背面は赤褐色の羽毛で覆われ、黒い縦縞状の斑紋が入る。

オスの夏羽は頭部から喉にかけて黒い。胸部から腹面は淡い灰褐色、腰は赤褐色。オスの冬羽やメスに似るが喉が薄黒い。メスは頭頂部の羽毛が暗褐色で、眼上部にある眉状の斑紋(眉斑)や嘴の基部から頬へ向かう斑紋(頬線)は黄褐色、眉斑と頬線の間は淡褐色、嘴の基部から頸部へ向かう斑紋(顎線)は黒い。胸部や体側面は淡褐色で、腰は灰褐色、腹部は白い。

(この項、「Wikipedia」より)

「海から20.0㎞」ポスト。

左には、田畑が広がる。

右は、一面、葦の原。

                 

          遠くに黒部川に架かる「笹川大橋」が見えてきます。橋を渡って進むと、「笹川駅」へ。

「海から21.0㎞」ポスト。

道路上には「R21」と。上空から識別できるように、でしょうか? キロ毎に描かれています。

                       

来た道を振り返る。

鹿島臨海工業地帯の工場群。

 

                           遠くに水門が。

 

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JR椎柴駅~小見川駅。その5。田中角栄。「天保水滸伝」。利根川下流部自然再生事業。(利根川を歩く。第10回目。)

2021-12-16 19:45:46 | 利根川を歩く

                      「利根川河口堰」。

黒部川と利根川の間の土手上(「大利根サイクリングロード」)を進みます。すぐ左手の駐車場脇に石碑が。

元首相「越山・田中角栄」の筆による「天保水滸伝」の歌詞の一節。

利根の川風 袂に入れて 月に棹さす 高瀬舟

「利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟」
浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」は、土地を潤す利根川と共に、昔から語り伝えられてきた東庄が舞台の、笹川繁蔵と飯岡助五郎、二人の侠客の勢力争いの物語。

"大利根河原の決闘"を描いた「於下総国笠河原競力井岡豪傑等大闘争図」(芳虎画、1864年/船橋市西図書館蔵)

※天保15年、博徒でありながら幕府の十手持ちでもあった助五郎が多数の子分たちをひきつれ、繁蔵一派に斬り込んだという史実に基づいている。

笹川繁蔵物語

 笹川繁蔵は、文化7年(1810)下総国須賀山村(香取郡東庄町)に生まれた。生家は代々醤油と酢の醸造をしてきた村きっての物持ちで、繁蔵は幼少のころから漢字や数学、剣などを著名な師について学び、人間的にも優れた人物だったと言われる。
 繁蔵はやがて相撲取りになるために江戸へ出たが、一年ほどで村へ帰る。その後賭場通いを始め、ほどなくして当時笹川の賭場を仕切っていた芝宿の文吉から縄張りを譲り受け笹川一家を張ることになる。
 一方、相模国三浦郡公郷村(神奈川県横須賀市)に生まれた飯岡助五郎は、出稼ぎ先の飯岡の漁港で網元として成功し、繁蔵と同様、博徒の親分として下総一帯に勢力を誇っていた。繁蔵が勢力を増すに従い、助五郎も黙ってはいられなくなった。
 天保15年(1844)、飯岡側が最初の斬り込みを行った。これが大利根河原の血闘である。
 この争いは笹川方の圧勝に終わった。しかし当時助五郎は、博徒でありながら十手持ちでもあった。
 飯岡側の「御用」の二文字を前に、繁蔵は子分に金品を分け与え、自身は笹川を離れることになった。
 初秋の大利根を後に旅立ってから3年。弘化4年(1847)春、繁蔵は飄然と笹川へ帰ってきた。いっそうの風格を身につけて戻ってきた繁蔵のもとへ、ぞくぞくと昔の子分たちが集まってきた。以前にも増して勢力を持った笹川一家。しかし、飯岡助五郎は密偵を笹川に放ち、繁蔵謀殺の機会をうかがっていた。
 弘化4年7月4日。賭場帰りの繁蔵は、ビヤク橋で飯岡側の闇討ちにあい殺害された。
 笹川繁蔵、38歳の男盛りだった。

(この項、「」HPより)

さて、もう一方の「飯岡助五郎」について、「」では、

飯岡助五郎

飯岡の漁業振興につくした遊侠の親分、飯岡助五郎。
市内には助五郎の墓をはじめ、天保水滸伝に登場する人物たちの遺跡が残っています。

古くから漁業で繁栄した旭市。飯岡助五郎は、江戸時代、海難事故により途絶えかけた漁師の人材の確保をはじめ、海岸侵食を防ぐための堤防工事など、旭市の漁業振興に力を注いだ人物でした。
また、網元として成功するかたわら、「十手持ち」として近隣の治安にあたるほか、江戸相撲を興行するなど、地域振興に活躍した人物でもあります。光台寺には助五郎の墓があります。

【天保水滸伝】
浪曲や講談でおなじみの「天保水滸伝」では、笹川(現在の東庄町)一帯を中心に勢力を拡大する笹川繁蔵一派との勢力争いが「大利根の決闘」として語られています。
この決闘で一度は笹川方に大敗した飯岡方ですが、のちに繁蔵を討ち果たします。その時討ち取られた繁蔵の首は飯岡助五郎によって、定慶寺の境内に丁重に葬られたといわれています。

というわけです。任侠二人が、それぞれ、地元でこうして今でも語り継がれているわけです。

※「東庄町」は、利根川沿い、「旭市(飯岡)」は、九十九里浜沿い。

では、田中角栄との関連は? 

・・・天保水滸伝は浪曲として二代目玉川勝太郎の名調子によって語られ、多くの人々の共感を呼んだ。利根に一雨来そうなと言れわる豪快にして沈痛な読み口には大利根の哀愁があり詩情が漂う。この一節を永く讃えることとなり、揮毫は浪曲を愛し庶民の心を理解される 時の宰相田中角栄氏に懇請快諾を得た。ここに天保水滸伝の一節は越山田中角栄書として一段の光彩を放ち、永遠に大河のほとりに在ることとなった。

そこで小休止し、再開。

駐機中のラジコン飛行機。

この上流でもみかけました。

この付近では、「利根川下流部自然再生事業」が進んでいます。

            

昭和50年代の頃の「水郷利根川」復活をめざしているようです。

    

             

2010年代のようす。

1970年代のようす。ワンドがあります。

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JR椎柴駅~小見川駅。その4。利根川河口堰。黒部川。(利根川を歩く。第10回目。)

2021-12-15 20:20:25 | 利根川を歩く

                 眺望がすばらしい。

「15.5㎞」ポスト。

  上流歩きの出発地点の栗橋が130㎞だった! そこまでたどり着くのは、まだまだ先です。

樋管水門。

「海から16.0㎞」ポスト。

     「利根川」沿いの整備された平坦な道なので、距離がかせげます。

ヨシの原。

前も後ろも誰一人いない道をひたすら。

サイクリングする人とも出くわさない。

左手に小さな船だまり。 

土手下をくぐって利根川に入る。 

「荒川」下流の河川敷とは異なり、野球場・サッカー場などはなさそう。

   

遠くに「利根川河口堰」が見えてきます。

         

利根川河口堰 (完成年1971年)

ランダム情報

利根川河口堰は、河口から18.5キロメートル上流にあり、水郷筑波国定公園の水郷地域内に位置します。河口堰の直下流で、旭市と香取市を源とする「黒部川」が右から、霞ヶ浦から流れ出る「常陸利根川」が左から合流し、「利根川」はさらに大河の様相を呈します。

こだわり技術

塩害防除と新規利水の供給を目的とする利根川河口堰では、水産資源の保護を考慮して、堰上流域に汽水域(淡水と海水が混じり合った塩分の少ない水域)を形成するため、水道用水などの利用に支障とならない範囲で、新鮮な塩水を堰上流に取り入れる操作を行っています。

(この項、「」HPより)

土手下に小さな堤。利根川の二重の浸水対策用です。

眺望がよい分、見えていてもなかなか近づきません。

     「18.0㎞」ポスト。

やっと、たもとに。

河口堰に合わせて「利根川大橋」が併設されています。

「18.5㎞」ポスト。

                  この付近の今昔。

                                                                                                                                                               

2010年代のようす。「利根河口堰」。           1880年代のようす。渾然一体となっている。

右手に折れ、さらに「黒部川水門」の橋を渡って、利根川沿いの土手に。

        

「黒部川」。

千葉県香取市旭市に源を発し、香取市志高および香取市府馬や香取郡東庄町東和田からの支流を合わせ、北流し香取市小見川の市街地を流れる。小見川の市街地を過ぎ流れを東に転じ利根川に沿って東流し、東庄町新宿の黒部川水門で利根川に合流する。

かつては香取市小見川からそのまま北流し利根川に注いでいたが、現在の利根川に沿って東流する部分は、黒部川貯水池として黒部川水門とともに塩害洪水を防ぐ役割を担っている。この黒部川貯水池では、カヌーレガッタなどの水上スポーツが盛んで、毎年7月には香取市民レガッタ大会が開催されている。

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JR椎柴駅~小見川駅。その3。桜井浜。石楠花。大利根サイクリングロード。(利根川を歩く。第10回目。)

2021-12-14 21:55:51 | 利根川を歩く

                 「桜井町公園野球場」。

すぐ利根川の川べりに。

 「桜井浜」。

大きな木製の「東大神桜井浜鳥居」の脇で釣りを楽しむ人たち。行く先々の川べりには鳥居があります。「水神様」。

       

上流側。

鹿島臨海工業地帯の工場群が遠くに。

「海から14.0㎞」。      

石楠花(シャクナゲ)の実。

満開の山茶花(サザンカ)。

広い公園では歓声が。

銚子市ともお別れ。この先は「東庄(とうのしょう)町」へ。

その先の信号を右折します。

集落には立派なおうちが。

  

小さな船だまり。

利根川に出ると、そこから「大利根サイクリングロード」が始まります。

     

土手上のサイクリングロード。佐原まで続きます。一直線の快適な道を歩くことに。

              

香取市・東庄町/大利根サイクリングロード(道路)

大利根サイクリングコースは、香取市佐原から小見川を通って東庄町を抜ける利根川堤防上のコースです。利根川の雄大な流れを眺め川風を受けながら快適なサイクリングを楽しむことができます。

香取市旧水郷大橋~東庄町利根川河口堰まで、およそ22.387kmあります。

水と緑に恵まれた豊かな自然景観を満喫でき、また釣りやカヌーをしている人、公園でスポーツ等をしている人などを見ることもできます。佐原駅前案内所でレンタサイクルを用意しています。

(「千葉県公式観光物産サイト」HPより)

左には大きく広がる田はた。

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JR椎柴駅~小見川駅。その2。猿田彦大神上陸地。プれンティ&ぷれん亭。堤防造成工事。(利根川を歩く。第10回目。)

2021-12-13 19:56:44 | 利根川を歩く

                      「猿田彦大神上陸地」碑。平成22年(2010)建立。

碑の裏面。経緯が刻まれています。猿田神社宮司の名が「猿田正城」さん。

「伊勢の国を治めていた国津神の猿田彦は、天津神の邇邇芸(ニニギ)に国譲りし、伊勢の二見ヶ浦を出港、御船石に乗って海を渡り、下総の国の鳥見(トミ)浦の入江から上陸した」という伝説に基いています。
 2千年ほど前には、利根川下流の常陸・下総の一帯は、香取海と呼ばれる大きな入江になっていました。紀伊半島を出発し黒潮に乗ってこの入江に着いた猿田彦の一行は、香取・鹿嶋辺りの岸辺や、当時は半島として海に張り出していた行方(ナメカタ)に上陸したと見え、今も銚子市と鹿嶋市に猿田の地名があり、周辺に猿田氏が住んでいます。
                         」
http://choshi-geopark7.doorblog.jp › archives
                               HPより)

「猿田彦(サルタヒコ)」とは、「Wikipedia」によると、

『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとされ、中世には、庚申信仰道祖神と結びついた。・・・

「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とする説がある。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神だったとする説もある。

さらに、

江戸時代に入って「サル」の音から庚申講と結び付けられたほか、垂加神道では「導きの神」として神道の「教祖」とされる。他にも合気道の開祖・植芝盛平の建てた合氣神社では盛平の守護神とされる祭神である等、様々な神格を持つ。

現代でも小説や漫画などの創作物の登場人物として用いられる。例えば手塚治虫の『火の鳥』シリーズには、「猿田」もしくは「猿田彦」という人物が多く登場する。それらの多くが、鼻が大きいという身体的特徴を持っている。

との解説が。

「あた」=古代の長さの単位。手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さ。「1尺=約30㎝」と同義。鼻の長さと身長とが同じ、ということに。身体も大きく、鼻がとても長かった神様ということに。

たしかにこの碑の奥に「庚申塔□」がありました。

猿田彦伝説にまつわる神社、庚申講は、全国各地にあるようです。

そこから望む利根川。

6,000年前の海岸線。

13万年前の海岸線。

(「」HPより)

左手は湿地帯? 

堤防関連工事が進んでいます。

振り返る。           

  

起伏がなく、信号のない一直線の道路。大型ダンプカーや車がけっこう通りすぎます。歩道がなければ、恐くて歩けない!

       

左手に黄色い建物が。

                   「プれンティ&ぷれん亭」。

車もけっこう駐車していて繁盛しているお店のようです。

「食べログ」の投稿欄にあった記事(2021・5)。

とにかくデカイ(笑) 学生時代に来てたら、いくつになっても、ノスタルジー感じて好きになるお店♪

・・・

メニューがすごいです。
地元の人は、高校生の頃から通ってて、ノスタルジーたっぷりなお店なんだろうなぁって推測できます。

なんか心が疲れてたので、ありえないものを頼んじゃいました。

グラタントースト(1080)
パン一斤つかってる感じです(笑)
しかも中のグラタン パスタが入ってます。炭水化物だらけ(笑)
味は良いのですが、中のパスタが柔らかすぎて、そこだけが辛かった…
あと、底の方は、パンだけなので、けっこう食べるのきついです。
我が家は、底だけ切り取って、別で頼んだチキンカツをサンドして食べました。
この食べ方おすすめ。
挟むのはなんでもいいけど、グラタントーストと一緒に頼むのは、はさみやすいものがおすすめです(笑)
そうそう、気をつけて食べないと、決壊するので、食べ進め方が結構難しいです(笑)

チキンカツ単品(900) これも特大サイズ
普通に美味しい♪

そして、いちごパフェ(880)
でかいです。めちゃくちゃお腹いっぱいになりました。
100キロ以上走っているとはいえ、食べ過ぎな気が…
アイスが多いので、身体も冷えます
お隣のカップルは、二人でそれぞれパフェを頼んでいて、半分以上残していました。
知らなかったらヤバいです。我が家は、二人でシェアしたのでなんとか完食。

ノスタルジー系レストラン ナポリタンいっとけば良かったなぁ
グラタントーストのほうがインパクトありそうな気がしたんですよね。あんなサイズめったに見ないし…

こちらで英気を養って、無事、銚子までたどりつきました。って、ここも銚子か(笑)

 (「食べログ」HPより)

少し整地済みの土手があったので、上がってみます。

遠くに「利根かもめ大橋」。

河川敷では工場が稼働中。

    

工事見学用の道路でした。盛んに作業中のようすを眺めながら小休止。

       

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JR椎柴駅~小見川駅。その1。船だまり。樋管水門操作室。利根かもめ大橋。(利根川を歩く。第10回目。)

2021-12-12 20:09:35 | 利根川を歩く

                「船だまり(港)」。利根川沿いには随所に小さな港があります。

穏やかな日差しの下の「利根川歩き」。今回は、成田線・小見川駅まで約20㎞。

「利根かもめ大橋」。

整備中の土手を歩きます。

樋門操作室。

           「海から9.5㎞」ポスト。

「利根かもめ大橋」に。

利根かもめ大橋は、利根川に架かる利根川河口から数え2番目の橋です。
慢性的な渋滞が激しい銚子大橋の混雑解消と、千葉県東総地域と茨城県鹿行地域を結ぶ幹線道路として両県の地域発展に寄与するものです。(「」より)

             

上流を望む。

下流方向。

この先は「国道356号線(利根水郷ライン)」を歩きます。

   

ここにも小さな港。

堤防整備工事中。

国道と利根川の間に大きなおうちが。

その先、右手が開けてきます。

                  利根川の水面も見えてきます。

「海から12.0㎞」ポスト。

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