おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

本陣。問屋場。平塚の由来。京方見附。・・・(茅ヶ崎から平塚まで。その4。)

2014-09-30 18:47:12 | 旧東海道
 商店も少なくなった東海道本通りを西に進みます。

「平塚宿本陣旧跡」碑。

「平塚宿本陣旧蹟」碑。

海道宿駅の高級旅館で 徳川幕府の許可と補助を受けて設備を充実していたものを本陣といい これに次ぐものを脇本陣と呼んだ
東海道平塚宿の本陣は 代々加藤七郎兵衛と称し 現在の平塚2104番地 神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた 総槻造 間口約30米奥行約68米、東に寄って門と玄関があり 天皇や将軍大名などの御在所は上段の間であったという。
記録によると、徳川十四代将軍家茂は文久三年二月 元治二年五月の二回ここに休憩している また明治元年十月と同二年三月の両度、明治天皇は東京行幸と遷都に際してここに小休された 
 このたび、平塚支店改築にあたり、旧跡碑を建てて、永く記念とする
昭和四十七年の秋
神奈川相互銀行取締役社長半田 剛撰


信用金庫の支店名は「本宿」。こういうところにもこだわりを感じる。

消防団の建物脇にある「平塚宿問屋場跡」。ここは西組の「問屋場」。

説明板。

 慶長六年(1601)東海道の交通を円滑にするため伝馬の制度が布かれた。この伝馬の継立するところを問屋場といい、問屋場には、問屋主人・名主・年寄・年寄見習・帳附・帳附見習・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人等が10余人以上勤務していた。
 平塚宿では初め、ここに問屋場が置かれたが、寛永一二年(1635)参勤交代が行なわれるようになってから、東海道の交通量は激増した。伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出で、慶安四年(1651)その目的を達した。八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。
 この両問屋場は十日目交替で執務したという。

消防団の建物を右折した先、「要法寺」の左隣にあるのが「平塚の塚」。
 



平塚の塚由来
 江戸時代の天保十一年に幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿』の中に里人の言い伝えとして、「昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向う旅をした折、天安元年(857)二月この地で逝去した。棺はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた。」という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。この事から平塚の歴史の古さが伝わります。
 平塚市

「平塚の塚」。右側の囲い部分。

(以下「Wikipedia」による)

《伝承》
 新編相模国風土記稿、或いは当地の伝承によると桓武天皇三世の孫、高見王の娘である平真砂子(眞砂子、政子との表記もある。)が都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病を得て亡くなった。
 土地の人々は幸薄い都の高貴な姫の死を悼み、遺体を里外れの松の大木の根元にねんごろに葬り、塚を築いて弔った。時を経ていつしかその塚は風化して平たくなり、周辺の地域は「平塚」と呼ばれるようになったとされる。
 真砂子は高見王の子で桓武平氏の祖といわれる高望王の妹、平国香(平氏嫡流、平清盛の祖) 平良将(平将門の父) 平良文(坂東八平氏の祖)等の叔母に当たる。故に「平氏の姫の墓(塚)」がある、ということで「平塚」となったとする説もある。
 高望王は寛平元年(889年)宇多天皇の命により平姓を賜って臣籍に降り、平高望を名乗った。その後、昌泰元年(898年)上総介に任じられた。当時上級地方官に任命された者は任地には赴かない遥任が多かったが、高望は子の国香等を伴って実際に上総に受領として赴任し、その子孫は東国に勢力を伸ばしていった。
 平塚の塚の左側には平塚市長戸川貞雄揮毫による由来碑(昭和32年 1100年祭に際し建立)と共に大正9年、神奈川県知事有吉忠一撰文、徳川頼倫題額揮毫の「平塚碑」が建てられ、その銘文に「桓武天皇孫高見王之女政子(原文のまま)下東國天安元年(857年)二月二十五日薨因葬墳此塚也」との記述がある。(併設されている平塚市設置の説明板も同様の記述である。)当地の伝承が事実とするならば、真砂子は兄高望が上総介として下向する41年も前に東国へ下り、当地で亡くなった事になる。

《現況》
 平塚の塚とされる場所は旧東海道平塚宿の一隅、現在の平塚市平塚四丁目、日蓮宗要法寺の西隣である。現在は石造りの囲いに囲まれた高さ1mほどの塚が築かれ、傍らに真砂子が葬られて以来三代目とされる松の巨木が植えられている。周辺は平塚市により「平塚の塚緑地」という公園として整備されている



 正面の道が旧東海道の本来の道。しばらく西に向かう細い住宅地の中の道を「高麗山」の方向へ歩く。

左に少し見えるのが「高麗山」。

振り返る。


 この先で合流する広い道が国道1号線。「高麗山」も指呼の間。



 「平塚の郊外を流るる花水川に架せる花水橋の此方(こなた)より高麗山及び富士の遠景を眺めたる光景」と『東海道』(大正7年刊行,保永堂版『東海道五十三次』と当時の現状写真を対照した図書)にある。左側中景に小さく見えるのが花水橋である。写真で見る高麗山は,図のように左右非対称で(左側がゆるく右側がやや急な)こんもりと趣のある形ではなく,はるかにゆるくほぼ均一な弧を描いている。道も,図のように雁木状ではなくほぼ真っすぐである。もし,実景により近く描いているとしたら,はるかに平板な絵になっていたに違いない。
『浮世絵を読む5広重』(平成10年)
(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)

 通りの向こうに見える「高麗山」。ここまで眼前に山が登場しなかったせいか、視界が開けると同時に、独特の山容が目を引く。

    
  現在のようす。                       大正時代のようす。(「知足美術館」HPより)
 今も昔も「東海道」から眺める山のようすは変わらない。

「平塚宿 京方見附跡」説明板。

 東海道五十三次の宿場として栄えた平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていません。宿場の西の入口であった京方見附の場所も定かではなくなりましたが、先人たちの言い伝えや歴史資料等によりこの辺りにあったものと思われます。
 初代広重によって描かれた東海道五十三次平塚宿の錦絵もこの付近からの眺めのものと思われ、変わらぬ高麗(こま)山の姿に往時の風情が偲ばれます。建設省(注:当時。現・国土交通省)等の東海道ルネッサンス事業の一環として、既設の碑石周辺を再整備しました。
平成十三年(二〇〇一年)三月 平塚市


「従是東 東海道平塚宿」碑。

「東海道五三次平塚京方見付跡」碑(左側)。

                       


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「花水橋」付近。左手の山が「高麗山」。

 「花水橋」を渡って大磯の町なかに入ります。
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平塚宿。お菊塚。平塚の里歌碑。・・・(茅ヶ崎から平塚まで。その3。)

2014-09-29 20:09:59 | 旧東海道

 旧東海道は「平塚駅前」の交差点を過ぎると、平塚宿の核心部へ入っていきます。


 その前に、ちょっと寄り道。

「お菊塚」。「紅谷町公園」の一画にある。

説明板。

 番町皿屋敷・お菊塚

 伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあって菊女を切り殺したという。一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見初めたが、菊女がいうことをきかないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。
 この事件は元文五年(1740)二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったという。また他の話による菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、 二十四才のとき江戸で殺されたといわれている。屍骸は長持ち詰めとなって馬入の渡し場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。
 昭和二十七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。
 平塚市観光協会

お彼岸で香華が手向けてあった。小さな公園ですべり台がぽつんとある、その脇にあった。

「平塚宿の江戸見付跡」碑(「市民プラザ」前)。

説明板。


 平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。
 本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。
 平塚宿の見附は二箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約1.5Km)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。
 一般に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。
 平塚宿江戸見附は、長さ約3.6㍍、幅約1.5㍍、高さ約1.6㍍の石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見つけは東西に少しずれた形で設置されていました。
 平成十三年(2001)十月 平塚市



「平塚宿史跡絵地図」。

平塚宿

 最盛期には、二千人もの人口と五四軒の旅籠屋を抱えた宿。
 平塚は古くより、東海道から八王子道などの分岐点で、相模各地からの物資や人の交流が盛んで、交通の要所として栄えた。女性や足の弱い者は、江戸からの第二夜を平塚泊まりとした。
 平塚見附先の街道沿いに、脇本陣跡 、高札場跡、東組問屋場跡、本陣跡、西組問屋場跡の標柱と説明板が次々と立っている。 

 現在の駅前付近の賑やかさを少し過ぎた西辺りが、かつての宿場の中心街。

 また、平塚市一帯は1945(昭和20)年7月16日(終戦のわずか1ヶ月前)に米軍機の空襲を受け、ほぼ壊滅的状態になってしまった。その後の区画整理等でかつての遺跡はほとんど残ってはいない。「・・・跡」の碑が当時を物語るのみである。

※平塚空襲
 太平洋戦争末期、アメリカ軍が神奈川県平塚市、中郡大野町(現在は平塚市に編入)に対して行った空襲。
 当時、この地域には平塚市~大野町にかけての広大な土地に海軍火薬廠(現在の横浜ゴム平塚製造所)があったほか、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場(現在の平塚競輪場周辺)、第二海軍航空廠補給部平塚補給工場(現在のJT平塚工場周辺)、日本国際航空工業(現在の日産車体本社工場・第一地区周辺)などの戦争遂行に不可欠な軍需工場が多く存在していた。
 アメリカ軍はこれらを破壊すべく空襲の主要目標都市として平塚をリストアップしていた。平塚空襲とは一般的に1945年7月16日から17日日にかけて行われた攻撃をさす場合が多いが、同年2月16~17日、7月30日にも空襲があり死傷者が出ている。
 7月16日夜、マリアナ基地を発進したB29爆撃機138機の編隊が伊豆半島方面より侵入。花水川河口へ照明弾が投下される。その後、22時30分の空襲警報発令と同時に焼夷弾が投下され始める。大磯駅周辺や高麗山、相模川対岸の茅ヶ崎など旧市の外周部より投下が始まり、次第に第二海軍火薬廠などのある旧市中心部へと攻撃が移る。空襲は翌17日午前0時35分まで続いた。
 死者数は調査により異なり228名(米国戦略爆撃調査団報告)、237名(神奈川県警調べ)、343人(平塚市調査)などの数字がある。当時の市域10,419戸中の約8,000戸が消失した。投下された焼夷弾447,716本、1,173トンは一夜に投下された量としては八王子空襲に次ぎ国内2番目の多さと言われる。(以上、「Wipedia」より)

 ただ、軍事施設があったため、というよりも、米軍の本土上陸地点として先制的に空襲を行った、という説もある。

写真は、「Wikipedia」より。

 しばらく進むと、

「平塚の里歌碑」(「平塚市民センター」内・中庭)。

歌碑。

 平塚にて
  あわれてふ たが世のしるし 朽ちはてて かたみもみえぬ 平塚の里
  このひらつかのかたへにて そのかみ三浦遠江入道定可 世を遁れてみまかりしと いひつたふばかりにて しれる  もの なかりけり
 ・・・ 

 この歌は、太田道灌の作とされる紀行文「平安紀行」に載るもので文明12年(1480年)6月、太田道灌が京都への道すがら平塚に来たときに詠んだ歌とされています。
 平塚へ来た道灌は、その昔、この地に三浦遠江入道定可という人物が隠棲していたことを思い起こしました。しかし、誰ひとりその遺跡を知る者がいなかったことを哀れみ、「哀れてふ たが世のしるし 朽ちはてて かたみもみえぬ 平塚の里」と詠みました。
 なお、三浦遠江入道定可とは平塚に居を構え、平塚氏を名乗った三浦為高のことと考えられます。(平成26年 平塚市民センター改訂)

「江戸城の井戸枠」。

 さらに西へ進む。静かで落ち着いた街並みになっていく。

 

「平塚宿脇本陣跡」碑。

 江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名を泊める宿舎として本陣が設けられていました。この本陣の補助的な役目をしたのが、脇本陣です。脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営しましたが、屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。また、脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能でした。平塚宿の脇本陣は、享和年間(1801~03)頃の宿場の様子を描いた「東海道分間延絵図」には、西組問屋場より西に描かれていますが、天保年間(1830~44)には二十四軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。

「平塚宿脇本陣高札場」蹟 。

 高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で、各宿場や村々に設けられていました。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたといいます。平塚宿の高札場は、二十四軒町のこの地にあり、規模は長さ二間半(約5メートル)、横一間(約1.8メートル)、高さ一丈一尺(約3メートル)でした。平塚宿には、平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。

 道路をはさんだほぼ反対側に「東組問屋場跡」碑がある。

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馬入橋。馬入の渡し跡碑。馬入の一里塚。(茅ヶ崎から平塚まで。その2。)

2014-09-28 20:11:47 | 旧東海道

「旧相模川橋脚保存緑地」を振り返る。高架は、「新湘南バイパス」。

 
 沿道の祠(道祖神)。

立派な門構えの旧家。
茅ヶ崎方向を望む。


 相模川に架かる「馬入橋」を渡れば、いよいよ平塚。

遠くには富士(↓)。 
 

 橋の真ん中付近が、日本橋から62Kmポスト。右手に丹沢、そして富士。左手には河口が見える。

 
右に丹沢山塊(中央が大山)、左手は河口(駿河湾)。

馬入橋。かつては渡しで渡河した。

右岸にある「馬入の渡し跡」の碑。


 
 江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけることを禁止しました。そのため、相模川(馬入川)や多摩川(六郷川)は「渡し船」、酒匂川は「徒歩(かち)渡し」などとなっていました。
 相模川には60以上の渡し場がありました。大動脈である東海道は「馬入の渡し」と呼ばれ、幕府が管理し、周辺村々の負担によって成り立っていました。当初、船は須賀村だけで用意していたようですが、元禄5年(1692年)に対岸の柳島村(注:茅ヶ崎にある地名)が加わりました。また、渡船賃の徴収などを扱う川会所」の運営や船頭の確保は、馬入村など5ケ村が務め、また川会所や渡船額などの情報を掲示する「川高札」は馬入村にありました。
 渡し船には「小舟」と「馬船」がありました。小舟は人を乗せる船で定員20人ほど、馬船は大型で馬が荷物を積んだまま横向きに乗ることのできる船です。このほかに、将軍や大名用の「御召船」などが常時用意されていました。また将軍の上洛など特別の大通行があった場合、幕府は「船橋」を架けさせました。
 平成16年(2004年)3月 平塚市



 碑中の狂歌「大磯へいそぐ えき路の すずのねに いさむ馬入の 渡し船かな」

 



 此の地より約300米下流に存在した東海道馬入の渡し場に替わり明治11年馬入村念願の橋架かる 爾来128年間その痕跡を見ることなし 今日馬入住民が総力を挙げて此の馬入の渡し跡碑を建立す
 平成18年8月20日 馬入住民一同(氏名略) 

橋が架けられてまもなくの頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。相模川が度々水路を変えたことで不安定だった「渡船」。長年の地元住民にとって待望の「馬入橋」。

そこからの富士山。

対岸(茅ヶ崎側)を望む。





平塚側にある存在感のある建物「湘南マリーナ」。

「明治天皇馬入御小休所址」碑。「ホテルサンライフガーデン」内。

馬入橋の右側たもとにある「弘栄堂」。



【「ちょんまげ最中」の由来】

 昔、相模国府祭の夕方、東海道を帰還の一の宮寒川神社の神輿をかつぐ若者たちと平塚八幡宮の神輿かつぎの若衆とがささいなことから口論、やがて入り乱れての格闘のとなり、打つ、蹴る、殴るの大喧嘩。神輿は川に落ち押し流されてしまった。
 この喧嘩で双方にたくさんのけが人を出したが、なんと言っても相模国一の宮さまの神輿に対して働いたことはよろしくない、場入村の若者達は代官江川太郎左衛門の厳しい取調べを受けたが、場入村役人はもちろん隣接の平塚宿役人達もこの儀が公儀の問題にならぬよう極力嘆願に及んだ。
 しかし、代官は手下人16人に対し死罪の判決を下したが処刑の日、そのちょんまげだけ斬り落として斬り首に代えた罪を憎んで人を憎まず、心改めた若者を殺してはならじと災い転じて福となす、名代官の処置に16人は勿論並びいる村民にかきくれたという。この事件は文化は2年5月か天保9年5月5日か定かでない。
 今も蓮光寺の西南隅に16人のちょんまげを埋めた「ちょんまげ塚」がある。 
 「ちょんまげ最中」は、その時代の素朴さと実直さを最中に表現しました。

 馬入の信号を直進し、平塚駅前の市街地へ入っていく。

「馬入一里塚跡」碑。日本橋から15番目の一里塚(約60㎞地点)。

京へは111里。大坂へは122里。

解説板。

 慶長九年(一六〇四年)、徳川幕府は東海道など五街道を整備し、江戸日本橋からの距離が分かるように一里塚を整備しました。一里塚は街道に一里(約四キロメートル)ごとに造られ、築造時の資料によれば、五間(約九メートル)四方の塚でした。塚の上には、目印として主に榎が植えられました。旅人にとって一里塚は、旅の進み具合を知らせる目印であるとともに、木陰は休憩場所にもなりました。馬入の一里塚は、この付近にありました。江戸日本橋から数えて十五番目の一里塚で、旧東海道をはさんで南北に一つずつの塚がありました。文化三年(一八〇六年)に出版された「東海道分間延絵図」には、北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれています。
平成一六年(二〇〇四年)三月 平塚市

「馬入橋」方向を望む。
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南湖の左富士。旧相模川橋脚。・・・(茅ヶ崎から平塚まで。その1。)

2014-09-27 21:06:04 | 旧東海道
 今回は、JR茅ヶ崎駅下車。一路、平塚駅まで。
「茅ヶ崎一里塚」からスタート。写真は、前回失敗したので慎重にPCにコピー。

松並木が所々に。

まず目指すのは、「南湖の左富士」。ここは、日本橋から59㎞ポスト。

沿道には歴史のある家屋も。

「千ノ川」に架かる「鳥井戸橋」という橋に向かいます。この地点が、下り東海道では駿河国の吉原とここの2ヵ所しかない「左手」に富士山が見える地点。「左富士」。

「鳥井戸橋」。

 東海道の下りでは京に向かうと右手に富士山が見える。ところが道が右に曲がる関係で左手に見える富士山のことを「左富士」というわけです。「南湖入口交差点」を過ぎて右側にカーブする辺り、橋を渡った左に碑があります。



由来碑。左に「南湖の左富士」(安藤広重作)。かなり古びた印象。

 浮世絵師安藤広重は天保三年(1832)に東海道を旅し、続々と東海道五十三次の風景版画を発表した。その中の一枚に、南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並みの見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いている。東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。

↓が富士山。鳥井戸橋からは見にくかったので、すぐ南に架かる「左富士通り」からの写真。

肉眼でははっきりと見えるのですが。

明治末のようす(「今昔マップ」より)。

 ところで、「南湖」は何と読むか? 
 「なんご」と読みます。

 この「南湖」の地には、戦前、「南湖院」というサナトリウム(結核療養所)」があった。
 クリスチャンでもあった医師・高田畊安によって1899年9月に開院し、「東洋一」のサナトリウムと称せられたが、1945年5月に海軍に全面接収されて解散となった。盛時は東京の医学生のほとんどが卒業必修単位の如くに見学に訪れたという。名称は地名の南湖(ナンゴ)に拠るが、濁音を嫌った高田畊安によって「ナンコイン」と称された。場所は現在の茅ヶ崎市南湖6丁目の県立茅ヶ崎西浜高校や老人ホーム太陽の郷のあたりが比定される。敷地は当初は5,568坪、最盛期の昭和10年代には計5万坪余もあったという。建坪は4,500坪、病室は158室。
↓が「南湖院」。

現在のようす。



(以上、「Wikipedia」より)




 高架の「新湘南バイパス」の手前にある「でかまん」の看板。「街道一」とも。店内には入らなかったが、いったいどれくらいの「でかさ」のまんじゅうなのでしょうか。

小出川手前の大きな標識を左に折れると、「旧相模川橋脚跡」。

「旧相模川橋脚」碑。文部省指定史跡(大正15年10月指定)





 大正12年(1923年)に起きた関東大震災によって、水田の地中より木橋らが出現したもので、歴史学者・沼田頼輔によって鎌倉時代に相模川に架けられた橋であると考証された。平成の整備では、10本の橋脚のほかに新たに土留め行こうがあることがわかったほか、地震による液状化現象も観察された。
 相模川は、鎌倉時代にはこの辺を流れていたが、川すじの変化によって西方へ移ったもので、橋脚は土中に埋まったまま七百年をへて再び地上に露出したもの。
 橋は、南北に架けられ、相模川は東西に流れていた。橋の幅はすくなくとも7m(四間)くらいと推定され、全国でも数少ない大橋であったと考えられている。
 また、この橋には源頼朝が渡り初めをした後、落馬しそれが原因で翌年、亡くなったという伝説が残っている。
 
 今、目にするのは、その橋の精巧な複製品で、出現当時のままに残した。実物は、地中に埋められて保存されているとのこと。

詳細な掲示板(平成20年3月設置)。

出現当時のようす。

実物は腐朽が進まないよう地下2㍍65㌢のところで保存されている、と記載。現在の池の形は、大正15年に指定されてから橋脚の周りを池で囲み、保存していた頃の図面をもとに再現した、とも。

鎌倉時代の河川の流れのようす。

現在のようす。

モニュメント付近から見たようす。
 いずれにしても700年間地中にあったものが突然出現した(おそらく液状化現象によって)という、地震のすごさを物語る史跡といえようか。
 
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藤沢・引地橋から茅ヶ崎駅まで

2014-09-22 21:09:15 | 旧東海道
 前回、足を痛めてしばらくぶりの東海道。ここで大失敗。携帯で撮った写真をPCにコピーする時、保存したつもりが・・・ せっかくの写真がすべてパー。

 今回は、言葉だけの探索報告。
 JR藤沢駅から前回の「引地橋」までバス。そこから茅ヶ崎駅まで歩きました。県道44号線(43号線)、国道1号線。
 しばらくはゆるい上り坂。右手に「メルシャン」の工場が見えてくると、左手に

①「おしゃれ地蔵」。「道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしたい。」との説明板(藤沢市教育委員会)。

 「国道1号線」藤沢バイパスと合流する辺り、右側の道路脇に
②「大山道標」がありました。丹沢山塊にある大山信仰の参道(登山道)。 

 この辺からは、国道1号(現東海道)と重なっています。今までたどってきた道より俄然交通量も多い街中に入っていきますが、「新湘南バイパス」のせいか、車の往来も心なしか少なめ。交差点・繁華街を抜ける頃には、道幅は狭く(片側一車線)。曲がりくねっていて、旧道らしい雰囲気。この先「平塚」宿までこんな感じ?

 ちなみに「箱根駅伝」は、この国道1号線を走っているのではないらしい。
 
 しばらく進むと、
③「一里塚跡」碑。これが13番目の一里塚。この辺りには松並木が保存されていました。

④東海道の松並木 

 けっこう大きな松が残っています。ただし、根っこは、コンクリートで固められていて、何だか息苦しい感じ。それでも、見上げれば青空に映えて見事な枝振りでした。

 小和田を過ぎた57キロ地点(日本橋から)付近には、
⑤「牡丹餅茶屋」跡」碑。この先から、松林中学校とか茅ヶ崎高校付近には松林が続いています。
 
 そうそう、街道沿いのかなり手前に「長寿庵」というお蕎麦屋さんがありましたが、満員のため、断念。沿道は、あまり食事をする店もなく、来てしまいました。

 すると、右手に
⑥「増田屋」。都内にもあるお蕎麦屋さんののれん?
 さっそく入ってみました。静かにジャズが流れるお店。内装も少ししゃれた趣。ちょっとお蕎麦を食べてジャズを聴きながら、一休み。

 「本村」交差点を過ぎて、「相模線」を越した辺りにも、松並木が。この辺りは、道の両側は少し低地に。東海道は、高台の上を通っていたようす。

 しばらく進んだ交差点。
⑦「一里塚」跡。右手に「平成の一里塚」、信号を渡った左手に「茅ヶ崎一里塚跡」碑。こじんまりとはしていますが、塚らしい雰囲気。これが日本橋から14番目の一里塚となります(約56㎞)。
 
 この先、東海道は平塚に向かって進んでいきます。「左富士」を望める橋ももう少し。
 
 今回は、ここまで。茅ヶ崎駅から帰りました。
 
 写真のないのが悲しい!
 
 せめて「今昔マップ」さんより。
明治末。↓(A)に「牡丹餅」とある。↓(B)が「茅ヶ崎一里塚」(もう少し平塚寄りかもしれない)。

相模線の開通後。後。

現在。
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渡辺商会の内紛。

2014-09-17 20:21:06 | 世間世界
みんな 与党再編選択せず 渡辺氏は反発(NHKニュース&スポーツ) - goo ニュース

 「取締役会」では創業者の渡辺さんの路線は取らず。
 ところが「創業者」の意地か、「株主総会」で決定しろと、元オーナー。なにしろ、供託金立て替え(イヤ、自分持ち)で8億円をかき集めた。そのいきさつを巡って不本意ながら代表の座を降りた。
 渡辺さん、憤懣やる方なし。君たちは誰のおかげで議員になれたんだ、と。政治の世界が、世間の個人経営の商店と同じとは。自民党以来の大ボス、小ボスによる支配。まさに金の切れ目が縁の切れ目。「路線論争」とは名ばかりの、どっちに付くか、多数派工作に。


 政界再編をめぐる路線対立が激化しているみんなの党の浅尾慶一郎代表と渡辺喜美前代表が16日夜、都内のホテルで会談し、互いに離党勧告を突きつけ合った。浅尾氏は17日の役員会で対応を協議する考え。
 渡辺氏は会談で、安倍晋三政権との連携強化を図る「与党再編」を重ねて主張。渡辺氏は代表時代の昨年秋に臨時国会で特定秘密保護法案を修正、成立させたことなどを挙げ、与党との協力路線の継承を迫った。これに対し浅尾氏は「それは与党再編ではない」と反論。「路線が違うならば渡辺氏が出て行くのは仕方ない」と離党を促した。
 渡辺氏は「創業者だから出て行かない」と拒否し、「同じ考えの人を糾合して新党をつくればいい」と逆に浅尾氏に離党を“勧告”。渡辺氏は浅尾氏について「(代表は)荷が重すぎた」と記者団に語った。(「産経新聞」)

 世間によくあるお家騒動。大会社なら大問題。つい最近もあったような?

 悲しいかな! みんなの党。政治の世界からはもちろん、いよいよ世間からも相手にされなくなって四分五裂し、おやじさん以来の商店もおしまいになるか、そんな危機感なぞ持ち合わせていないのが気の毒。
 それにしても、渡辺さん、自らの「創業者」なる思い入れにいまだにひたっているところに、この方の政治感覚はずいぶんとぼけてきたな、と、つい思ってしまう。
 こうして「みんなの党」から「俺んちの党」へと。おやじの晩年と似てきた。
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キジ撃ちまたは、お花摘み、などと悠長なことは言ってられないゆゆしい事態。

2014-09-16 20:40:41 | 世間世界
富士山に多数の汚物放置(NHKニュース&スポーツ) - goo ニュース

 キジ撃ちとは「野グソ」のことです。”最中”の姿が猟師のキジ撃ちの姿に似ていることから、山の世界では野グソのことをキジ撃ちと呼ぶようになった、と。若い頃から山登りをしていた小生。何度かそんな経験もありました。

 まさか、登山者のものではなく、かつてあったように山小屋からの垂れ流しということはないでしょうね。
 富士山は、遠くから眺めるもの、と決め込んで、一念に何度も富士山近くには行きますが、五合目までが精一杯。そんな富士山。自然遺産では世界登録されず、歴史的文化遺産として登録。そこに今回の問題もあったからと言われます。

 野口さんならずともこういうニュースを聞くたびに自然遺産としての価値は、前途多難。

 富士山の地元の方で、古くから親しくさせていただき、尊敬している方から「富士山学会」の話を聞きました。「富士山」にまつわる自然、文化、伝統、・・・、など幅広く実地踏査や現状把握、資料収集など地道に行っているそうです。
 「かぐや姫」伝説(富士市内にはそれに因む竹藪が存在しています)などにも興味関心を持ち、研究しているとか。世界遺産登録でもずいぶん骨を折ったことをお聞きしました。ご専門は、森林学。資料もいくつか。

 そんな矢先、毎日新聞の記事。

 世界文化遺産への登録から1年がたった富士山を巡り、今後の課題と解決策を考える「富士山学」講座が12日、千代田区一ツ橋1の毎日新聞社1階「毎日メディアカフェ」で開かれ、都留文科大学社会学科教授の渡辺豊博さん(64)が講演した。渡辺さんは、NPO法人・富士山クラブの元事務局長で、富士山に70回以上登っている。
 富士山の登山者は昨年、31万人に達したが、山小屋の収容能力やバイオトイレの処理能力を考慮すると、渡辺さんは「20万~23万人程度が適正」とし、登山者を制限する必要があると述べた。
 さらに「世界遺産になったということは、世界の宝を日本が預かったということ。しかし、このままでは世界遺産の抹消の危機にある」と警鐘を鳴らし、富士山行政を一元管理する「富士山庁」の創設を提言。登山者の安全対策や富士山学習の充実なども訴えた。

 山梨、静岡、さらにそれぞれ地元自治体入り乱れての「富士山」狂想曲が一通り過ぎ去って、ちょうど夏山シーズンも終了、静かな自然を迎える富士山。地道な取り組みが今こそ必要ですね。
 その方とも近々お会いする予定です。

 
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朝日攻撃がことの本質ではない。原発再稼働の布石としての開示。その先にあるもの。

2014-09-13 10:00:02 | 平和
吉田調書公開 「菅元首相の対応、論評する立場にない」 当時官房長官の民主・枝野幸男氏(産経新聞) - goo ニュース

 「朝日」が入手した吉田調書の分析による「命令に対して撤退」云々に、すぐさま「産経」がどこからか入手した同じ調書をもとに反論。その時点で、朝日の誤りが濃厚になった。
 すかさず調書の公開に踏み切ったアベ政権。

 しかし、公開されたのは、吉田調書と当時の菅首相など対応に当たった民主党議員のものが中心。

 吉田氏の菅首相へのあけすけでぼろくそな非難、批判を通じて、菅首相達の非常時での対応のまずさが全面的に浮かび上がり、反面、吉田氏達、現場が命がけで未曾有の事故に対応して奮闘している姿が・・・。

 東電本社の関係者の調書は一つも公開されていない。政府は本人が公開を希望しなかったからだ、と。吉田氏については遺族の了解を得たということなのだろう。一人歩きをした調書は、生前の吉田氏の意図(たとえば東電本社の対応への不満、批判・・・)とは別の次元で流れてはいかないか。一方の最大の責任者・当事者の証言の公開は、皆無なのだから。

 結果的に、東電は現場も本社も想定外の事故に対して住民の命、従業員の命を最大限に考慮し、最小限の被害に食い止めようと生命を賭して対応してきた、それを阻害したのが当時の民主党菅政権だった、と。

 東電の事故前、事故直後、その後の対応が当時の社長達から調書を当然にとられていたはず。それは永久に非公開になるだろう。もちろん、今、検察審議会で起訴という判断が出て、改めて起訴される場合、公開した場合にそうした調書が不利に働く、そんな配慮もあったにちがいないが。

 こうして、マスコミはこぞって、東電の故吉田所長を称え、精一杯、現場は頑張ってきた、今後、このような原発事故が万が一起こっても、その電力会社関係者の献身的な対応で被害を最小限に抑えられる、キャンペーンの一翼を担っている。

 まさにここがアベの狙い。「調書」公開は、負け犬・「民主党」の息の根を完全に止め、原発再稼働に有利に働くとみての意図的作戦。 


首相見限った?経団連会長、政府会議を連続欠席(読売新聞) - goo ニュース
 たぶん逆鱗に触れたのではないか。菅さんがフクシマ原発事故を契機に「反原発」「電力再編」に踏みきったことが。特に、浜岡原発操業中止命令以降の自民党や経団連の動きは、菅さんの発言が「体制解体」(自民党・財界体制維持派にとっての)危機感から、もう我慢できないほどの極限に達している。
 それほど「反」原発は、彼らにとっては許すべからざる発想なのだ。西岡も、保守派としてその片棒を担いでいる。今回の菅さんの発言・行動は、看過できない「反体制」なのである。
 マスコミも「東電批判」「原発批判」に及び腰なのは、上層部の意向を反映しているに違いない。何しろ「反原発を発言した」役者の首まで飛ばしたのだから。
 何としても「反原発」路線ではなく、「安全」な原発推進派を次の首相にしたい、そのことでは、政財界の大勢は、一致している。・・・
(以上、2011・6・7の投稿記事。)

 菅さんは、再び、息の根を止められた。

 情報公開は、まさに時の政権の狙い通りのものしか公開されない。「沖縄密約」などこれまでも、それは当然のことのように行われてきた。またしても、の感がする。
 「特定秘密法」の施行に当たっては、権力の意図が貫徹されるに違いない。

 「朝日」は、慰安婦問題を含め、二人の故吉田氏に足下をすくわれ、こうした政権の意図を貫徹させる役割を見事に果たしたことで、今後、どうなっていくのか、どうしていくのか?

 すでに、朝日の謝罪に対して、他の朝日のキャンペーンも事実かどうか検証すべきだという声がマスコミ関係者(「産経」文化人あたり)から出てきた。
 電力会社の元副社長の裏金工作報道や連載している「原発」関連記事などの信憑性を問うことで、反原発を根こそぎ駆逐し、再稼働を進める、そういう政財界の飽くなき意図が明確になりつつある。
 なにしろ、「反原発」は許される言動ではないからだ。

 「朝日」の誤った慰安婦キャンペーンは、日本の国益を損ねた、とのアベ発言は、今後のマスコミへの介入を含めて要注意である(その点、「対朝日粉砕・大勝利組」の「日本維新の会」の橋下さんは、腹の底はともかく、権力の介入はすべきではない、と鷹揚に構えた発言をしている)。

 ここが一番の問題点。

 菅義偉官房長官は12日午後の記者会見で、東京電力福島第1原発事故をめぐり、政府が公開した関係者の聴取記録の一部が黒塗りとなったことについて、「本人が希望しない部分に加え、情報公開法の考え方を考慮し、個人情報、第三者の利益、国の安全にかかる部分については一部不開示にした」と説明した。

 見逃せない発言である。
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本陣跡。桔梗屋。白旗。・・・(藤沢宿。その2。)

2014-09-12 22:26:15 | 旧東海道
 いよいよ宿場の中心部。道路沿いに「藤沢宿」に関する写真や標識などがある。駅前の雑踏に比べてのんびりと散策できる。
 

古く重厚な家屋が残っている。

入口正面に「紙」
と。

国登録有形文化財(建造物)

答申年月日:平成25年(2013年)7月19日
• 店蔵 明治44年(1911年)
• 主屋 明治44年頃、昭和初期増築
• 文庫蔵 文久元年(1861年)、大正14年(1925年)改修

 桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家。本社は横浜に移転したが、現在も、店蔵は藤沢支店として使用されている。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで1階に重厚な観音開の塗籠戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝える。文庫蔵は当地で近世に遡る貴重な例で、店蔵とともに東海道の旧宿場的雰囲気を伝えている。



 株式会社 内田商店は、江戸時代末期の万延年間ころ藤沢宿出で初代 内田専吉が指物商(現在の家具類)として内田商店を創業し、明治3年に現在地に移転した。
 次いで明治38年に至り、鉄鋼二次製品を主体とする金物販売を行う。戦後昭和28年6月に個人経営より組織変更し、法人として株式会社内田商店と改名し、現在6代目が事業を継承する。
HPより)

かつての宿場・街並み。

 

復元図。

ラーメン屋さんの前、「蒔田本陣跡」。この奥に行ったところに「藤沢御殿」があった。

「妙善寺」入口。街道沿いにはたくさんのお寺がある。 

「伝・源義経首洗井戸」への案内板。
 義経の首は首実検ののち片瀬の浜へ捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼり、この辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた、と。
 時間がなくて訪問せず。
「白旗交差点」手前にある「案内図」。上が現在の絵地図、下が宿場の絵地図。

「いせやまばし(伊勢山橋)」。小田急を越す跨線橋。「藤沢本町」駅は、すぐそば。

振り返って見たところ。
 「引地橋」までの区間に「上方見附」跡の標識があるはずだが、見落としてしまった。

「引地橋」。

 旧東海道は橋の手前で「ラーメン屋さん」近く、斜めの細い道に入り、再び広い道に合流して橋を渡ることになる。

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤い線が現在の道(↑)

「引地川」上流を望む。
 橋の先は茅ヶ崎方面。ここからバスに乗って藤沢駅まで戻ってきた。
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遊行寺坂。一里塚。見附跡。・・・(藤沢宿。その1。)

2014-09-11 20:30:42 | 旧東海道
 今回は、「藤沢宿」。昼過ぎに出かけたので、「茅ヶ崎」までは行けず、途中まで。

 藤沢には、ほとんど縁はない。江ノ島や片瀬海岸には、何度も行ったことがあるが、鎌倉経由、あるいは大船経由。そういう地域が「藤沢市」に属していたとは、初めて知ったしだい。

 住宅・観光・産業・文教都市。全国的に有名な江の島(江ノ島)、片瀬・鵠沼・辻堂海岸を有し観光都市としての性格も併せ持つ「湘南」の中心都市。1940年(昭和15年)市制施行。保健所政令市に指定されており、人口は政令指定都市である横浜・川崎・相模原の各市に次ぎ県内4位(約42万人)である。全国の市では42位。
 藤沢市内の駅では、JR、私鉄(小田急・相鉄・江ノ電)、地下鉄(横浜市営地下鉄)、モノレール(湘南モノレール)の駅が存在し、比較的交通の利便性が高い事から、東京・横浜の通勤・通学圏として発展し、湘南海岸の温暖且つ穏やかな気候を求める人々やサーフィンなどマリンスポーツ愛好者をはじめとして、良好な自然・住・教育環境を求める人等により戦前より人口が増加し続けている。
 江戸時代には鎌倉仏教の一つである時宗総本山である清浄光寺(遊行寺)の門前町として、東海道の6番目の宿場町・藤沢宿、また江ノ島詣の足場として栄え、その姿は歌川広重の東海道五十三次にも描かれている。
 明治時代-第二次世界大戦の間、気候も温暖であることから、南部の鵠沼・片瀬地区は明治時代中期より日本初の計画別荘地として開発され、大正期以降、皇族や政治家、数多くの学者や文化人などが居を構えた事で、別荘地・保養地・避暑地として発達し、芥川龍之介、武者小路実篤、岸田劉生ら多くの文化人の創作活動の場となった。
 第二次世界大戦後は東京のベッドタウン化が進み人口が急増すると共に、JR(東海道本線、湘南新宿ライン)、小田急(江ノ島線)、江ノ電の3つの鉄道が集まる藤沢駅を中心に商業施設が集積している。また、慶應義塾大学、湘南工科大学、多摩大学、日本大学を有する文教都市でもある。
(以上、「Wikipedia」より)
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。藤沢宿の繁華街・中心部。右上にあるのが「清浄光寺(遊行寺)。東海道は一番右端に見える道。清浄光寺門前でカギ型で曲がって藤沢宿の中心部に入る。

明治末(「今昔マップ」より)。青い↓が宿場の中心部、赤い↓が「藤沢駅」。古い街ではよくあった鉄道駅は離れた場所につくった。
 ちなみに、JR東海道線は保土ケ谷駅を出ると、しばらくは東海道と並行して走るが、東海道が新旧どちらも丘陵地帯の上部を通るのに対して、鉄道は、谷間の低いところに敷設したため、戸塚駅付近で東海道と交差した後、大船に南下し、西に転じて藤沢駅に至る。(東海道線はほぼ旧東海道の宿場町をなぞるように駅ができたが、「大船」は宿場町ではないのに、駅が出来ている。)

昭和初期。次第に駅方向に市街地が増えていく。

現在。賑やかな街の中心は、「小田急」「江ノ電」と私鉄二社も乗り入れているJR藤沢駅の周辺に。

 
 こういう浮世絵が随所に描かれている。

 現存しているのは、寺院が多く、宿場そのものにまつわる施設の跡の説明板が道ばたに立っている。また、繁華街にある「銀座通り」などには、かつての建物や催しのものなどの写真が随所に掲示されていて歩きながら楽しめる。市としての文化的な側面での取り組みが感じられる。

「昔あった映画館」(於:「銀座通り」)。


 「藤沢駅」で下車、まずは「一里塚」跡から探索(「原宿一里塚」からの4㎞は部分は省略)。

 

 崖上の高さまであった旧東海道を掘削改修したのが現在の道路です。江戸時代には、街道の両側に盛土し榎を植えた一里塚があって、旅程の目印とされていました。
     藤沢市教育委員会

「一里塚跡」説明板。

 かつて、このあたりの道路の両側に一里塚がありました。一里塚は、主要な街道の一里(約4㎞)ごとに江戸幕府が設けたもので、旅程の目印として利用されていました。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にありましたが、今は残っていません。
 左図は往時の面影を伝える資料の一つです。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺が描かれています。その右側に「一りづか 榎三」と記され、街道の両側に植木のような描写があります。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように、盛土されて榎が植えられていた様子がうかがえます。急坂の上、榎が木かげで一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。
     平成20年(2008)3月 藤沢市教育委員会

藤沢橋方向を望む。右手の小高いところにあるのが、「遊行寺」。

 昔の「東海道」。一里塚跡付近の標高は約50メートル、藤沢橋付近は約15メートル。現在の道路と比べて、、そうとう急な坂道であったことがわかる。
現在の「遊行寺坂」。

「見附跡」。
「江戸方見附」だった所。

「藤沢敵御方供養塔」国指定史蹟

 この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永25年(1418)に造立されたものです。
 基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、摩滅していて読みとりにくいのですが、次のように解読・解釈されています。

 応永23年(1416)10月6日からの戦乱は同24年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。

 この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年1月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。
 敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長4年(1599)高野山奥の院(和歌山県)に、 豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいます。
   平成20年(2008)2月 藤沢市教育委員会

「フジ・ロード案内図」。藤棚を背景に。「藤沢」の名のごとく、「フジ」の花が街の彩りとしてたくさん植えられている。

大きな広告板。
 この看板の角を右に曲がっていくのが、旧東海道。

「藤沢橋」。

 ついまっすぐ進み、「藤沢橋」を越えてしまった。「藤沢橋」は関東大震災後つくられたが、1990年(平成2年)8月の集中豪雨で落橋。現在のものは、その後に建設されたらしい。奥に少し見える朱塗りの橋が「遊行寺橋」

 旧東海道は、遊行寺坂を下って「境川」の手前で右折し、門前の広小路を通ってすぐ左折、次いで遊行寺橋を渡って再び右折して、藤沢宿中心部に入っていった。
1880年代のようす。

藤沢橋のたもとにある浮世絵。安藤広重『東海道五拾三次之内・藤沢』。銅製の鳥居は江ノ島弁才天の入口。後ろの山には遊行寺が描かれている。
背後の「境川」に落ち込む遊行寺坂方向からの水路はは落差があって激しい滝のような落口であった。「境川」は、集中豪雨のたびによく氾濫することもあるらしい。

「藤沢橋」から「遊行寺坂」方向を望む。

「藤沢橋」のたもとにある「藤沢市自動車排出ガス測定局」の建物。
 東海道と国道467号線が交差するこの地点は、交通量も多い。
 建物の右手に『東海道五十三次 藤澤宿』の浮世絵、『東海道藤沢宿の成り立ち・しくみ』という説明板がある。

  

「東海道藤沢宿の成り立ち・しくみ」

 「東海道分間延絵図」は江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。この絵は東海道の13巻のうち藤沢宿の部分にあたります。絵図には、問屋、本陣、脇本陣、寺社、高札など、当時の藤沢宿の姿が丹念に描かれています。

藤沢宿
 藤沢宿は慶長6年(1601年)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843年)の記録では、宿場の人数4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁盛しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治時代から昭和初期にかけては、交通の要所として地の利を生かした問屋業などで栄え、その面影を残す土蔵や町屋がわずかに残っています。

①藤沢御殿
 藤沢御殿は、藤沢宿が整備される前の慶長元年(1596年) 、東海道を利用する際の休憩・宿泊施設として徳川家康が築いたと推定されます。記録によれば将軍の御殿利用は寛永11年(1634年)の三代将軍家光の利用が最後のようです。
②本陣と脇本陣
 江戸幕府は、街道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として各宿場に本陣を指定しました。藤沢宿では堀内本陣と蒔田本陣がありましたが、堀内本陣は延元22年(1745年)火災のため役を返上し、その後は蒔田本陣1軒となりました。
 脇本陣は本陣の補助的な施設で、享和3年(1803年)時点で大久保町と坂戸町に1軒ずつありましたが、のちに坂戸の脇本陣は廃業し、大久保町の脇本陣も別の家が勤めるなど特定の家に限定されていなかったようです。
③問屋場
 職場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立て、すなわち運輸の機能でした。問屋場後は人馬の継ぎ立てを行うための役所です。藤沢宿では、大久保町と坂戸町に各々1か所ありました。
④見附
 見附は土居ともいい、宿場の玄関口となる施設で、道の両側に石垣が築かれていました。通常、江戸方と京方の両方にあり、見附から見附けまでが宿場の範囲で、藤沢宿の長さは約2190mでした。
⑤高札場
 高札場は幕府の法令などを掲示する場所で、往来の激しいところや地域の中心部に置かれます。藤沢宿では大鋸橋(現遊行寺橋)の際に設けられていました。屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m 、縦幅1.8mの規模でした。
⑥旅籠屋
 一般の武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。藤沢宿の旅籠は享和13年(1803年)には49軒、天保14年(1843年)には45軒あったという記録があります。
⑦枡形
 宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所を枡形といいます。藤沢宿では遊行寺の脇から大鋸橋(現遊行寺橋)に至るクランクが見られますが、これは、軍事防衛上の必要から意図的に設けられたものです。
     藤沢地区郷土づくり推進会議

 国道467号線沿い(「遊行寺橋」付近から「白旗交差点」付近まで)が旧宿場の中心地。駅前から来る道案内表示と合流しての散策となります。

 実際は、この藤沢橋で道を間違え、そのまま直進してしまいました。県道「湘南新道」をそのまま。
 後から調べると箱根駅伝のコースそのもの。延々と歩いて「富士見橋」を越え、東海道線を跨線橋で渡り、警察署を右に曲がり、工場跡地の新開発中のモダンな住宅地を横目で見て、と・・・まさにマラソンコースをたどった次第。さすがにおかしいと思って(気づくのが遅い!)、バスに乗って藤沢駅に戻ってきて、本来の道(宿場町)を歩き直した、というわけです。






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昨日、ほぼ同じ頃の電車に乗っていました。

2014-09-10 22:45:34 | 世間世界
走行中の電車の窓から飛び降り男性死亡 突然立ち上がり、制止振り切り 横浜(産経新聞) - goo ニュース

 このところ、京急横浜駅を利用している小生。旧東海道宿場巡り。昨日は、藤沢宿。横浜でJRに乗り換えて出かけた。
 この事件があったほぼ同じ頃に通過中だった、と思う。横浜に着いたのが11時少し回った時刻。 
 京急で横浜方面に向かうには、「久里浜」か「三崎口」行き。最近は、「羽田空港」行きが増発されていて、けっこう駅での乗り換えや待ちがある。横浜に行くには、「特快」が便利。実に小気味よいくらいの(ちょっと不安になるくらいの)勢いでスピードを上げて突っ走る。
 ・・・「泉岳寺」―「品川」―「京急蒲田」―「京急川崎」―「横浜」・・・と停車。途中の駅などくそくらえ! 的スピード。路線がほとんど競合するJRと早さを競っているわけではないだろうが、料金面など競争意識はかなりありそうだ。
 男性が乗っていた電車は泉岳寺10:45発の「快特三崎口」行き(昨日、小生はこの電車に乗っていた)か、京成の青砥10:07始発の「快特久里浜」行き、と思われる。ただし、青砥始発はボックス型シートは車両の前後の一部、またはゼロ。大きな長い窓を開けることは出来ないタイプのはず。
 泉岳寺発はボックス型の車両。二人席が多く、前後に4人掛けのシート席があるタイプ。おそらくその席に座っていた男性が突然窓を開けて飛び降りた、と。もちろん、いつもその車両がタイプであるとは思わないが、小生が乗った電車はそうであった。
 あのスピードでばく進していれば、飛び降りたら即死間違いなし。停車駅は限られているから、青砥からの電車なら京成線・都営浅草線内から。泉岳寺発なら4駅しかない、・・・。
 その場に居合わせ、制止しようとした方達も、突然の出来事に一瞬とまどい、驚いたに違いない。

 もし小生がその現場にいたらどういう行動ができただろうか?      
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大坂松並木。お軽勘平道行の場。原宿一里塚跡。・・・(戸塚宿。その5。)

2014-09-08 19:09:52 | 旧東海道

明治末頃のようす(「今昔マップ」より)。まだ戸塚市街地を迂回する「バイパス」(新道)は出来ていない。松並木が続く坂道であったことがわかる。

昭和40年代。バイパス(赤い線)が完成。

現在。上のから下のまでの区間に上下線分離の新道が完成している。↓が「大坂松並木」付近。

 ※お正月恒例の「箱根駅伝」戸塚中継所(往路)は、新道の「戸塚警察署」の南付近になる(↓の先端の左下付近)。復路はそれよりもう少し南の地点。

 「大坂」。坂下付近(上方辺り)の標高が約15メートル、坂上が約70メートルとけっこうだらだらと長く上る坂。坂の途中、「大坂台信号」手前の右側に古碑群がある。

「大坂の古碑群」

来た道を振り返る。

 二又に分かれた道の左側の道を登り切ると、国道1号線「バイパス」と合流し、そこからは、中央分離帯をはさんで車の往来の激しい、上下線分離の「国道1号線(東海道)」となる。

「大坂松並木」。

旧東海道【大坂松並木】
 大坂では天気の良い日に松並木から素晴しい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となりました。昭和7(1932)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は10mほど土盛りをしてなだらかな長い坂にしました。現在の大坂になるまでは数回の改修がおこなわれたそうです。
    戸塚区役所

中央分離帯の松並木。他の木も混じっているが。

東側の眺望。西側(富士・箱根側)は見通しは悪いが、東は開けて、眼下に街並み、山並みがが見下ろせる。

 
                                  「お軽勘平戸塚山中道行の場」碑。
「碑石の由緒」。

♪落人も見るかや野辺に若草の・・・
 は、清元の名曲道行旅路の花聟の語り出しとして江戸以来人口に膾炙されている(の)が、お軽・勘平の道行の場

♪こゝは戸塚の石高道・・・ の旧跡という
 この曲は天保四年三月、江戸河原崎座の初演以来百四十数星霜を経てなお上演を重ね、戸塚の名は墨絵の夜の富士とともに

♪ほんの旅寝の仮枕嬉しい・・・
 舞台の華やかな思い出を多くの人の脳裡に深くきざみこんでいるお軽・勘平の道行は戯曲上の設定であれ史実にまごうほど戸塚の地名とは離れぬ仲

♪かわいかわいの夫婦づれ・・・
 のゆかりはつきぬ道行の名勝に建碑の由緒を記す
     昭和四十六年七月 文学博士 松本亀松 撰

 この「碑文」、文章としてはよく練られていない気もするが、『仮名手本忠臣蔵』のお軽勘平の道行の場にちなんで建てられたもの。当時のこの付近の風情は、「落人」にふさわしい道筋ではあった。

「道行旅路の花婿」 

 腰元お軽と逢引していて殿中で刃傷沙汰を起こした主君の大事に居合わせることができなかった早野勘平が、お軽の実家のある山崎へと、お軽とともに落ちのびてゆくところに、鷺坂伴内が手下を連れやってきて両人にからむという筋立て。

 歌舞伎所作事の代表的な演目として知られ、現在『仮名手本忠臣蔵』が通しで上演される際には、四段目のあとに上演される
 「落人も、見るかや野辺に若草の、すすき尾花はなけれども…」という清元の語り出しで始まる。
 本舞台で浅葱幕を切って落とすと一面の菜の花の春景色となり、遠くに富士が見えるのを背景に、お軽と勘平が立っている。お軽は矢絣に縦やの字帯の御殿女中のこしらえ、勘平は黒の紋付の着流しに東からげで、場所は戸塚山中という設定。
 「落人も…」の浄瑠璃でよろしく振りあって、勘平はしばしここで旅の疲れを休めようとお軽に言い、やがて二人は将来のことを語りあう。勘平が武士としての不心得、主君塩冶判官へ申しわけなさのあまり、ここで切腹すべく刀を抜こうとすると、お軽は刀を取り上げ、「それその時のうろたえ者には誰がした」と自分にも責めはある、短気をおこさずともかくも自分の在所にまでいっしょに落ちのびてくれ、あなたを亭主として充分暮しのたつようにしてみせるとかき口説く。この口説きがひとつの見せどころ、聞きどころである。
 このまま腹を切ればわたしも生きておれぬ、それでは人は勘平は不義の心中をしたと言うだろうというお軽の言葉に、生きていればお詫びのかなう日もきっとこようと勘平も気をとりなおし、道を急ぐことにする。折からそこへ高師直の家臣でかねてよりお軽に横恋慕する鷺坂伴内が、襦袢ひとつに襷がけ、鉢巻の格好で手勢(花四天)を引きつれ登場し、お軽をさらってゆこうとする。だが勘平の武勇にはかなうべくもなく、伴内たちは散々にやっつけられる。「所作ダテ」と呼ばれるはなやかな場面である。
 「塒(ねぐら)を離れ鳴く烏、可愛い可愛いの夫婦(めおと)づれ、先は急げど心はあとへ、お家の安否如何ぞと、案じゆくこそ道理なれ」の浄瑠璃で勘平はお軽を連れ、花道にかかる。そこへ両人をなおも追おうとする伴内が、花道ツケ際で引かれてくる幕に阻まれ、そのまま上手側に押されて引っ込む。この演目に限り幕が舞台下手から上手に向かって引かれ(通常は逆)、いつの間にか伴内は客席側へ出た幕引きになってしまうというめずらしい演出で、そのあと幕外で勘平がお軽を連れてよろしく向う揚幕へと入る。
(以上、「Wikipedia」参照)

 このあと、五段目「山崎街道鉄砲渡しの場(二つ玉の場)」六段目「与一兵衛内勘平腹切の場」と勘平にかかわる演目が続く。このへんは、『仮名手本忠臣蔵』の中でも面白いお話(演目)です。
 かつて、改築前の「歌舞伎座」で「通し狂言」として観た記憶があります。

「日本橋から46㎞」という標識。国道1号線「現東海道」での距離ですが。

街道沿いの古木。

「原宿一里塚跡」。

旧東海道【原宿一里塚跡】
 江戸より十一番目の一里塚で、吹上の一里塚とも言われています。当時は松の木が植えられていました。明治9(1876)年に里程標の杭をたてるとき、一里塚は不要となったので取り払われました。

崖の上にある「原宿一里塚跡」説明板。かなり古く、見上げるような位置。

 一里塚は、慶長9年(1604)二月、江戸幕府が大久保石見守長安を総奉行に任命し、東海道の整備にあたらせたとき構築したもので、一里(4キロ)ごとに街道の両側に円形の塚を築き、距離をしめした。 また、塚の上には榎を植えて木陰をつくり、旅人の休憩にも便宜をあたえた。
 原宿の一里塚は、起点の江戸日本橋から測って11里目にあたっている。塚の付近に茶店などがあったので、原宿と呼ばれるようになったという。
 戸塚区内には、品濃、吉田、原宿の三か所にあったが、品濃町のものは道を隔てて二基、ほぼ原型のまま当時のすがたを残しているもので、神奈川県の史跡に指定されている。当地原宿にあったものは、明治9年(1876)10月、里程標の杭をたてるとき一里塚は事実上不要となったので取り払われてしまい、現存していないが、一里山の名を残してその位置を示しているのが現在地である。
     昭和48年11月 戸塚区役所・戸塚観光協会

日本橋から11番目の「一里塚」ということになります。約44㎞。ここまでの現・東海道の距離とさほど変わらないようです。

崖の上には、民家があり、こんもりした所は私有地。

道路の前方には「藤沢」の街並みが見えてくる。

「浅間神社」。道路の右手にある。境内からは富士山や箱根連山が見えるそうだ。

 今回は、ここまで。

 と、「保土ケ谷宿一里塚」(8番目)から「原宿一里塚」(11番目)までたどったように再構成したが、実際はまるで違っていました。事前調査もせず、地図で確認もせず、行き当たりばったりで出かけたので、行ったり来たり。

 そこで、当日の実際の行動

 京急横浜→JR横浜=(東海道線)=戸塚駅(横須賀線に乗ることなど頭になく、熱海行きの電車に乗ったので、「保土ケ谷」駅で下車できず)―(徒歩)―「原宿一里塚跡」=(バス)=戸塚消防署前・「澤邊本陣跡」―(徒歩)―「吉田大橋」・「江戸方見附跡」=(バス)=横浜(「権太坂」を下って行こうとして「横浜」行きに乗った! このバス、「山谷」で「国道1号線」から右折し、「県立こども医療センター」、「井土ヶ谷」などを通るバスで、途中下車出来ず。横浜の港近辺の繁華街をぐるり回ってやっと終着「横浜駅」へ!)。

 もう帰ろうかと思ったが、気を取り直して、横浜=(横須賀線)=東戸塚駅―(徒歩。これもあちこち探し回って)―「境木」―(徒歩)―「品濃一里塚」―(徒歩)―「権太坂」(「境木中」の前の道を左折せず直進したため、今の東海道に出て、「新権太坂」を下るはめに)―(徒歩)―「保土ケ谷二丁目」バス停(当初の徒歩での出発予定地。「保土ケ谷宿一里塚」近く)。

 そこで、再びもう帰ろうかと思ったが、再び気を取り直して、国道1号線との分岐点にある「案内板」にしたがって旧道を歩き、旧「権太坂」へ。
 「保土ケ谷二丁目」―(徒歩)―「権太坂」(結局、「権太坂」を上ることに。もうすでに夕方少し前)―(徒歩)―「境木中」=(バス)=東戸塚駅=(横須賀線)=JR横浜→京急横浜。



※当初の予定(家を出たときの)
 横浜=保土ケ谷→(バス)→「保土ケ谷2丁目」―(徒歩)―「原宿一里塚跡」→(バス)→戸塚=横浜

 つごう、横浜滞在約7時間の周遊でした。知らないということは、恐ろしいことでした。疲れた! 
 やれやれ。ということで、「品濃一里塚」から「江戸方見附跡」間は、省略。

 それでも、「品川」―「川崎」―「神奈川」―「程(保土)ケ谷」―「戸塚」と、都内を含め、現在残っている「旧東海道」をほぼたどってきた、かな。

  
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澤邊本陣。芭蕉句碑。上方見附跡。(戸塚宿。その4。)

2014-09-07 13:40:42 | 旧東海道
にぎやかな「戸塚」駅西口方面へ。

「東口」まで、旧東海道の道筋らしい雰囲気がまだ残っています。


完成したばかりの歩道橋。

戸塚駅西口側を望む。駅の東西を結ぶ歩道橋の完成で駅周辺の再開発も加速するはず。

 駅前通りにある「内田本陣跡」碑。

旧東海道【内田本陣跡】
 本陣とは、大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊や休息できた施設です。この辺りに、戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つ内田本陣がありました。内田本陣は間口十八間(三十二・八m)・奥行十四間(二十五・五m)で、畳数は百五十二畳もあったということです。

旧東海道。

 「本陣」の他、戸塚宿には3軒の脇本陣がありました。

「澤邊本陣跡」。
 「戸塚消防署」手前の民家の前。この民家の表札は澤邊となっていて、現在も同じ場所に澤邊家が続いているようです。

「旧東海道・澤邊本陣跡」。

 澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。明治天皇の東下の際には行在所になりました。敷地の一角に戸塚宿の鎮守の一つ羽黒神社があります。弘治2(1556)年に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。
     戸塚区役所

説明板。
 戸塚が東海道の宿場になったのは慶長9年(1604年)11月のことであった。澤邊本陣の初祖 澤邊宗三は戸塚宿設置の功労者である。
 本陣とは公郷、門跡、大名などの宿泊する公の宿のことをいう(云ふ)。
     戸塚観光協会

「明治天皇戸塚行在所阯」碑。

道路を挟んで真向かいにある「おもてなし館・きじま本陣」。


 おもてなし館 きじま本陣は「戸塚宿」ゆかりの地に、東海道五十三次をコンセプトにつくったお店です。
「品川」のお部屋から始まり、「大磯」「小田原」を通り終点「京の間」まで続く各地の宿場町の名を冠し、趣向をこらしたお部屋をしつらえております。
四季折々のお祝い事や、法事など改まったお席から、家族の記念日などにも、大切な人と心ゆくまでゆったりくつろげるお店です。
(以上、HPより)

 立地条件は、お見事! 立ち寄る機会は、まずないと思いますが。

その店先から「澤邊本陣」跡を望む。左手が「戸塚消防署」。

 道はほぼ南に進んでいきます。 


 道が少し西に曲がっていく辺りにあるのが、「富塚八幡宮」。
「旧東海道・冨塚八幡宮」。
 
 戸塚宿の総鎮守で祭神は誉田別命(応神天皇)と冨属彦命の二柱です。源頼義・義家父子がここに野営し夢で応神天皇の神託を受け戦に勝利した事に感謝し延久4(1072)年に社殿を造りその御霊を勧請したとのことです。
 山頂の古墳は冨属彦命の古墳とされており、「冨塚」と呼ばれ、これが「戸塚」の地名の起こりとも言われています。境内には松尾芭蕉の句碑もあります。
     戸塚区役所

「芭蕉句碑」。

 「鎌倉を 生きて出でけむ 初松魚(かつお)  芭蕉翁」

 当時鎌倉で水揚げされた初鰹は戸塚を通り江戸に運ばれました。嘉永2年、当地の俳人達によって戸塚にちなんだこの句の碑が建てられました(「解説板」)。

 
「上方見付跡」(右手のもの)。四角い石積の上に楓が植えられている。

  
「同」(左手のもの)。昔に因んで、「松」が植えられている。「サイゼリア」駐車場脇。

旧東海道 【上方見付跡】
 江戸方見付から、約2・2㎞の距離にある戸塚宿京方の出入口です。 現在は道の両側に1・5mほどの石の囲いがあり、昔と同じように京に向って左に松の木、右に楓の木が植えられています。ここから京方は数々の浮世絵の背景に登場する長大な大坂の上りが続いています。
     戸塚区役所

「安藤広重 戸宿塚」(銘板)。

 この銘板の浮世絵は、嘉永(1848~1853)時代に安藤広重が東海道五十三次の戸塚宿を描いたものです。宿場町として栄えていた頃の様子がうかがえます。
     平成元年4月 横浜市戸塚区役所、戸塚土木事務所

 この絵は、「一番坂」と呼ばれた現在の大坂台付近か。

 いよいよ「大坂」の長い上りにさしかかる。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「八幡社」とあるのは、「富塚八幡宮」。「親縁寺」は、現在も同じ場所にある。右上の「東海道」から東に分かれる道は、「鎌倉」への道(現「八坂神社前」交差点)。
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江戸方見附跡。吉田(戸塚)一里塚跡。・・・(戸塚宿。その3。)

2014-09-06 23:51:37 | 旧東海道
 さて、「戸塚宿」の北東のはずれ。
「江戸方見附跡」碑。ファミレス「フォルクス」の前に建っている。

「旧東海道・江戸方見付跡」

 江戸時代に、戸塚の宿で町並みを形成し、二十町十九間を宿内とし、その両端に道を挟んで見付を築き、これを宿場の入口の標識とした。
 貴賓の送迎はこれから行わ(は)れ、大名行列もこれより隊伍を整えたものである。



 見付とは、宿場の出入り口のことです。ここは戸塚宿の江戸側の出入り口です。 旧東海道の宿場に設けられた見付は、宿場を見渡しやすいような施設となっていることが多いようです。参勤交代の大名らを、宿役人がここで出迎えました。
 (戸塚区役所)

 写真を撮っていると、食事をしている人たちがこちらを見ている。お客の顔が写ってもまずいし、ちょっと撮影には逡巡する感じ。

※ 戸塚宿

 相模国鎌倉郡(今の神奈川県横浜市戸塚区)にあった。日本橋から旅程がちょうど一泊目にあたり、旅籠数が五十三次中、小田原宿に次ぐ規模であった。当初、保土ヶ谷宿の次は藤沢宿であったが、戸塚にも宿屋が増え、客を奪われることを恐れた藤沢宿の猛反対を押し切り、幕府公認となった。
 吉田町、戸塚町、矢部町の三町からなる。見附は、現在の吉田町ダイエー前と戸塚町大坂下にあり、品濃町と原宿町に一里塚が残る。大山道、鎌倉街道、厚木街道などと交差する要衝であった。幕末の黒船来航の際には、避難民が逃げてきたといわれている。
 (以上「Wikipedia」より)

 戸塚宿の成立は、慶長9(1604)年で、隣宿である藤沢、保土ケ谷の宿が成立した慶長6(1601)年に遅れること3年でした。日本橋から数えて5番目の宿場町で、起点の日本橋からは10里半(約42km)の距離にあり、朝江戸を発った当時の旅人の一番目の宿泊地として最適であり、さらに鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せていました。
 戸塚区内では旧東海道は南北方向にまたがっており、全長約11.7kmあります。その中で戸塚宿は、2つの見附跡に挟まれた約2.3kmの範囲とされており、今も戸塚区の中心地として賑わっています。
(以上、HPより)

 早朝に日本橋を出立した旅人が約10時間近く歩いてくると、この宿場が一泊目。道中には「多摩川」の渡し、権太坂などけっこう難儀しそうなところを通過してここまでやってくることに。

「戸塚宿」方向を望む。

「元町」交差点。

「吉田一里塚跡」。ここが、10番目の一里塚。

 吉田の一里塚は明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されてしまったようです。江戸から十番目の一里塚で、日本橋から約40㎞になります。昔は、これだけの距離を一日で歩いており、旅籠のある戸塚の町まで、大橋を渡ってあともう一息といった場所です。

「戸塚一里塚跡」。

 旧東海道の一里塚は江戸日本橋から10里で、慶長9年、街道の附属施設として1里ごとに造られたが、国道拡幅により遺跡保存となった。
     戸塚観光協会
沿道には古い家並みも残っている。

足下には、箱根駅伝のモニュメントがはめ込まれている。現在は、不動橋交差点から「バイパス」を走る。

「柏尾川」に架かる「吉田大橋」。この橋を渡ると「戸塚宿」の中心部に入っていく。


「安藤広重の東海道五拾三次之内・戸塚『元町別道』」。
 程ガ谷より2里9町。日本橋を早朝に旅立ち,品川,川崎とあまり急がずあるけば,このあたりで旅の最初の夜がおとずれる。広重のこの図は,現在の東海道線戸塚駅より東へ7,8町いったところで,この‘こめや’の看板は現在も保存されている。図の中央に石の道路標があり,左鎌倉道とあるから,このあたりから鎌倉へ通ずる道があったのであろう。この図には異版があり,ウマからおりようとしている旅人が,そこでは逆にウマに乗る動作に変えられている。これはあきらかに後摺で,ウマからおりる旅人を描いたものが初版である。
(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。→が「吉田(大)橋」。上の説明文で「左鎌倉道」とあるのは、川沿いに南に伸びる道と思われる。

「柏尾川」。

橋の欄干にはめ込まれた浮世絵。

 


 吉田大橋を渡れば戸塚駅の大踏切に到着する。かつては開かずの踏切として有名だった大踏切を越える歩道橋は2014(平成26)年1月に完成した。
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境木。焼餅坂。品濃一里塚。・・・(戸塚。その2。)

2014-09-05 23:08:06 | 旧東海道

旧東海道。東戸塚駅方向に進む。

 少し行くと、右手に大きな屋敷が見えてくる。




向かいの広場にある「境木立場跡」の説明板。

歴史の道 【境木立場跡】
立場茶屋
 宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場です。中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。「保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)」によると、こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があったとされ、参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

 「保土ケ谷 初代広重」、「『江戸名所図会・境木』を着色模写した「横浜往古絵巻」、「牡丹もち」の画が添えられている。正面の立派な門構えの屋敷が「若林家」。

 境木立場跡のすぐ先に「境木地蔵」がある。


 
 武蔵国と相模国の国境(現在は保土ヶ谷区と戸塚区の区境)になっている。
 木柱の正面に『武相国境之木』、左面に『↑これより 武蔵国 保土ヶ谷 一里』、右面に『↓これより 相模国 戸塚宿 一里九丁』と書かれている。
 台座には「日本橋九里九丁」、「京都百十七里」とあり、、台座の周りには、日本橋から三条大橋までの宿場名がずらり。



「歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺案内図」。「追分」から「品濃一里塚」までの旧東海道の道のりが現在の地図と古地図と照らし合わせながら説明されている。

正面を入った細い道が旧東海道」。「境木地蔵尊前交差点」付近。

道標。「右 環状二号線」、「左 東海道」とある。

「焼餅坂」の説明板。

 旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と呼ばれています。
 武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所でした。
 このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと言われています。

「旧東海道」の説明板。

坂の途中にある「焼餅坂」の説明板。

「焼餅坂」
 焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約160メートル)の坂道でした。坂の傍らの茶店で、焼餅を商っていたので、「焼餅坂と名づけられたといいます。別名牡丹餅坂(ぼたもちざか)とも呼ばれています。
 戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場します。

 

 焼餅坂を下りきり、小さな橋を渡ると上り坂となり、まもなく両側にこんもりした森が現れる。


説明板。

標柱「品濃一里塚」と「←戸塚 →保土ケ谷」と白ペンキで書かれた石の道標。

右塚の手前から右の細道を登ると塚の裏側が「品農一里塚公園」になっていて、塚の頂上を見ることが出来る。


 頂上には広場があり、特に解説等はなし。眼下は鬱蒼とした木々で覆われ、視界はよくなかったが。  
 もちろん、当時の旅人は塚の上に上って辺りを見回すなんてことは出来なかったはず。

「品農一里塚」
・・・一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあいがわかる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩所にもなりました。そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。
 ここ品農の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に、西の塚は品農村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていた ようです。
 このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和41年に県の史跡に指定されました。 
    平成7年6月 横浜市教育委員会

 「保土ケ谷2丁目」にある「一里塚」は、日本橋から8番目の「一里塚」だったので、距離にして約4㎞ということに。
 日本橋を出て保土ケ谷までは海沿いのさほど急勾配の道はなかった。保土ケ谷宿からのこの道は、「権太坂」「焼餅坂」などの難所続き。さぞかし昔の旅人も苦労したに違いない。今でも「箱根駅伝」では、最初の難関の上り(もちろん、新道だが)。
 10,11番目の「一里塚」の跡は、戸塚の宿にあるので、そこまでは行ってみよう。

 しかし、足も疲れてきたので(理由は後ほど)、途中省略。戸塚宿の東のはずれ、「江戸方見附跡」から先を続けます。

明治末のようす(「今昔マップ」より)。赤い→が「旧東海道」、青い→が「新東海道」。「境木」付近の標高は約70メートル。そこから山道を上り下りしながら「戸塚宿」に向かう。約40メートルのアップダウンの道のり。

1980年代のようす。宅地造成・開発が進み、旧道は廃れ、定かでなくなる。

現在のようす。
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