おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

西武観光バス「川又」~荒川起点(往復)。その2。東大演習林。十文字峠への山道を。(「荒川を遡る」第12日目。)

2021-09-30 18:39:19 | 荒川を遡る

                すぐ先に「トラウトオン!入川」。

         

トラウトオン!入川(入川渓流観光釣場)は奥秩父・荒川の源流に位置し、全長1000メートルに及ぶ専有釣り場、10000平方メートルに広がる敷地面積。まさにプレミアムな大自然を満喫できます。

施設マップ。

(この項、「トラウトオン!入川」HPより)

この日も家族連れでしょうか、何組か釣りを楽しんでいます。

ここまでは、何台か車とすれ違いましたが、この先からは、人とも出会わず、青年と雨の中の歩きとなります。

道標「←十文字峠 川又→」

      

落ち葉が積もる中を。

この地域一帯は、「東京大学秩父演習林」となっています。

「サワラの森」。巨木が立ち並ぶ。

ヒノキに比べ湿地を好み、川沿いに自生する。山野に生えるが、しばしば造林されたり、公園などでは、植栽されている。直幹性で樹高は、通常30mになる。園芸品種が多く、庭にも植えられる。ヒムロヒバ、ヒヨクヒバ(イトヒバ)、シノブヒバなど。

サワラ=椹。ヒノキに比べて、さわらか(さっぱり軽軟)な木の意。ヒノキ科ヒノキ属。日本特産の針葉樹。

東京大学秩父演習林

秩父演習林は、全国に7か所ある東京大学の演習林の1つです。
6000ha近くにおよぶ広大な森林を保有し、冷温帯域の森林生態系に関する教育研究活動を幅広く展開しています。秩父演習林は奥秩父山地に広大な森林を有するフィールドステーションです。

標高差の大きい急峻な山岳地形をもち、関東地方では数少ない原生状態の森林が広範囲にわたって残存している特徴を生かして、冷温帯域の森林生態系(森林動態・生物多様性・生物害)に関する教育研究活動を幅広く展開しています。

(この項「東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林 秩父演習林」HPより)

ここからは左手の道を進む。

足元には枕木が埋まっています。これからトロッコ線路跡を進みます。

「入川軌道(森林軌道)」跡。

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西武観光バス「川又」~荒川起点(往復)。その1。入川渓谷。前田夕暮歌碑。(「荒川を遡る」第12日目。)

2021-09-29 10:59:54 | 荒川を遡る

9月26日(日)。雨のち曇り。

やっぱり入川渓谷にある「一級河川荒川起点」の標識まで行ってみようと。先週の日曜に引き続いて川又までやってきました。

「西武秩父」駅から中津川行きのバスに乗って、9時40分過ぎに到着。

途中からけっこう雨が激しくなってきました。川又で下車したのが二人。若い方と小生。

これから約2時間。雨が降りしきり中、さて、どうしたものか?

せっかくだから行けるところまで、と林道を歩き始めます。

東京発電(株)川又発電所。

入川渓谷。

右手の崖からは滝のような水の流れ。

四阿からの入川の流れ。

しばらくすると、左手に「入川渓谷夕暮キャンプ場」。

「施設マップ」。

キャンプ場の西隅に前田夕暮の歌碑。           

前田夕暮は、終戦の年この地に疎開し、山林事業を営みながら、2500あまりの歌を詠んだ。

1925年(大正14年)、亡父から跡を継いだ歌人の前田夕暮を社長とする関東木材合名会社がその拠点を両神村小森から大滝村入川へと移したことで、入川は一つの集落を作るほどの繁栄を導いたと言われている。

前田夕暮は明治から昭和期にかけて自然主義の代表歌人として、牧水・夕暮時代と称される一時代を画しました。そんな日本を代表する歌人、前田夕暮氏の名前から入川渓谷夕暮キャンプ場と名付けました。(「入川渓谷夕暮キャンプ場」HPより)

山を開き土を平坦して建てし工場 その隅にしろし栃の太幹

そこからの入川渓谷。

    

 

実は、この先、トロッコの線路跡をたどるように進みます。「入川軌道(森林軌道)」跡。しっかり線路が残っています。

森林で切り出した木材運搬に活躍したのが、「入川軌道」。前述の「関東木材合名会社」が運営。

最初は人力でトロッコを押していたが、やがて馬が引くようになり、戦後はエンジンを積んだ内燃機関車が4~5連結のボギーを引いて運搬していた。レールの幅は普通の鉄道よりも狭いナローゲージ(762mm)で、機関車の重さは4.5~6トン。

終戦後も町の復興の為に木材の需要も多く、大変な賑わいをみせたが、安い輸入材や環境破壊に押されて昭和45年、森林軌道の幕を閉じた。

これから向かう楽しみが増えました。    

キャンプ場から出てきた方に「どうですか、この先の道は? 」

「この間の台風で荒れてしまったが、きちんと整備し直してありますよ。道はまったく心配ありませんよ。この先、林道の途中で左の道を進んで下さい。」と。

この話に気をよくして、それでは行けるところまで、と。雨の中、歩き始めました。

すると、前を歩く青年、カメラ片手に写真を撮りながら上ってきます。声をかけたところ、「荒川の起点のところまでいくつもりです。」

これはありがたい。「ご一緒させてもらっても、いいですか? 」

道々、尋ねると日大芸術学部の学生、とのこと。

足手まといだったことでしょうが、結局、往復、ご一緒させてもらいました。

     

2010年代のようす。右手に「川又」バス停。「入川」沿いに上って行きます。(「歴史的農業環境システム」より)

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西武観光バス「秩父湖」~川又(往復)。その4。「秩父往還道」。栃本関跡。上中尾小学校。(「荒川を遡る」第11日目。)

2021-09-24 18:47:05 | 荒川を遡る

                      栃本までは約20分の登り道。振り返り望む。

帰路は、昔からの街道で、旧国道140号線の道を。

古風で落ち着いた風情の家並みが続く。

        みごとな松が門前に。

山間の傾斜地に家々と耕地。

 

埼玉と山梨を結ぶ国道140号は「彩甲斐街道」と呼ばれています。古くは「秩父往還」という武州と甲州・信州を結ぶ街道でした。

 当地の往来を監視する目的で戦国時代に武田信玄によって設けられたのが栃本の関所です(国指定史跡)。警固を厳重にするため、少し下った麻生(あそう)に加番所も設けられました。栃本から右へ折れると白泰(はくたい)山を越えて信州へ、左へ行くと雁坂峠を越えて甲州に至ります。

栃本は、白泰山から東に延びる尾根の上の地すべりによってできたなだらかな地形に形成された集落です。尾根の北側の中津川の谷には秩父帯と四万十帯の境界があります。秩父帯の険しい地形に比べ、やや穏やかな地形の四万十帯の地域を古い街道は通過しています。(「ジオパーク秩父」より)

「日本の道百選 秩父往還道」。

  右手に荒川沿いの山々。

国指定史跡「栃本関跡」碑。

解説板。

江戸幕府は、関東への「入り鉄砲」と関東からの「出女」を取り締まるため主要な街道に関所を設けた。

栃本関は、中山道と甲州街道の間道である秩父往還の通行人を取り調べるため設けられたもので、その位置は信州路と甲州路の分岐点になっている。

そのはじまりは、戦国時代、甲斐の武田氏が秩父に進出したとき関所を置いて山中氏を任じたと伝えられるが、徳川氏の関東入国以後は、天領となり、関東郡代伊奈忠次が慶長19年(1614)大村氏を藩士に任じたという。以後、大村氏は幕末まで藩士の職を代々つとめた。

しかし、藩士1名のみでは警備が手薄であったため、寛永20年(1643)秩父側の旧大滝村麻生と甲州側の三富村川浦とに加番所を付設して警固を厳重にした。したがってその後、み

関所の役宅は、文政元年(1818)と文政6年(1823)の二度にわたって焼失し、現在の主屋は幕末に建てられたもので、その後2階を建て増しするなど改造されたが、玄関や上段の間及び外部の木柵などには、関所のおもかげをよく留めている。

そこからの山並み。

                

 

これから先、下り道となって秩父湖へ戻ります。

途中、廃校になった「上中尾小学校」が。木造校舎。

1909年(明治42年)開校、1981年(昭和56年)閉校。
1937年(昭和12年)から1949年(昭和24年)まで、児童用の寄宿舎があったそうです。その後、滞在型の私立養護学校「光の村養護学校・秩父自然学園」として活用。その養護学校も閉鎖となり、今に至っています。道路側から校舎内を覗くと、作業場のような雰囲気。

校舎は昭和7年(1932年)に竣工。

校庭の片隅に記念碑が二つありましたが、立入禁止のため、確認できませんでした。

この校舎は、山中節治さん(1895~1952)の設計。大正・昭和初期に函館をはじめ国内で活躍した建築家で、兄の関根要太郎さんとともにモダン建築家として活躍した方。そのため、この校舎は解体されず残されているようです。

(「今昔マップ」より)

○が小学校。古くからあったことが分かります。

小さな集落が今も。急峻な山裾に開かれ、斜面に家々が点在している。

さらに下ると、「麻生加番所」跡。

                   

寛永20年(1643)、幕府の役人が当村巡見の際、栃本関の警備の手薄なのを見て、麻生に加番所を設置するよう指令があり、設置されたものである。施設は名主宅を役所とし、別に間口3.6m(2間)、奥行2.7m(1.5間)の番人詰所があった。

この番所の建設補修費すべて古大滝村によりまかなわれた。番屋は現存せず、現在の家は安政4年(1857)11月焼失のため新築されたものであり、今も同家を「番所」と呼んでいる。千島家は鉢形北条の奉行、千島下総の末裔といわれている。

こうして、再び「秩父湖」に戻ってきました。

「秩父湖」バス停。

待てども待てどもバスが来ません。30分以上待って、やっと。ところが、満員。やっとのことで乗り込み、そのまま超密集の中で、「西武秩父」駅へ。

池袋まで「S-TRAIN」に乗りました。「元町・中華街」行き特急。

            

 

 

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西武観光バス「秩父湖」~川又(往復)。その3。川又。入川渓谷。(「荒川を遡る」第11日目。)

2021-09-23 19:50:37 | 荒川を遡る

川又といっても何か特にあるわけではありません。大きめな「観光トイレ」と「四阿」と観光案内板、そして駐車スペース。

少し先に「扇屋山荘」。民宿と売店を兼ねた施設。前を通りましたが、営業しているかどうか不明でした。

↓が川又。

広く深い奥秩父山地のほんのとば口に位置します。「国道140号線(彩甲斐街道)」雁坂トンネルから甲府へ向かう、埼玉県側の出口(入口)です。

中央、最奥に位置する「甲武信岳」。

名の如く「甲州(山梨)」「武蔵(埼玉)」「信州(長野)」との県境。信濃川(千曲川)、荒川、笛吹川との分水嶺にもなっています。

かつて、長野県側(信濃川上)から登山したことがありました。また、北奥千丈岳とか、・・・若き頃の思い出です。

荒川はその東南に源流点があります。そこまで行くのは、今日はなしに・・・と。が、ほんの少しだけ入川(荒川)沿いに上ってみました。

       

下を見ると、透き通るような、まさに「水色」の流れ。

すっかり見とれてしまいます。

 

実は、この上流にキャンプ場があり、さらにその先まで進むことが出来ます。次回、そこまで入ってみようと思います。そのさらに上流に進むと、「一級河川荒川起点の石碑」があるようです。(源流はもっと上流になりますが)

(「Googleマップ」より)

引き返して「扇屋山荘」のところまで来ると、雁坂峠(トンネル)方向から下りてくる、笑い声も交えた、元気な7,8人のジョギングの集団と遭遇しました。ビックリしました。このあと、栃本から秩父湖へ向かう間に何度か出会いました。

四阿で、昼食休憩して、栃本に向かいます。

下流方向。

     

2010年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。行きは、荒川に沿った道を進み、帰りは栃本集落への道。「栃本関」から北西に向かう道は、かつては信州への道でした。

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読書「線量計と奥の細道」ドリアン助川(集英社文庫)

2021-09-22 21:08:32 | 読書無限

2011年3月11日。東日本大震災。あれからすでに10年半が経過しました。大津波によって多くの人命が奪われ、土地を失い、原発事故によって住み慣れた土地を去らざるをえなくなり、いまだに戻れない多くの人々。自殺など関連死も多く、・・・。

震災の2年後、東北の知人を訪ね、案内して貰いながら仙台から気仙沼を巡り、さらに、それから3年後、機会があって、福島原発事故によって壊滅的になった飯舘などを訪問したことがあります。震災当時のままに放置された家々、すっかり解体され、整地された土地、・・・

その後はいったいどうなっているのか? 地元の方々は? 再訪問する機会に恵まれないのがとても残念です。

「復興オリンピック」という名目もすっかり捨て去られ、コロナ禍でのパラリンピックの開催。その後のコロナ感染症の拡大、医療崩壊。・・・

最近は、新規感染者数も激減し、今月末には緊急事態宣言が解除される、という観測も。はたしてそんな具合にうまくことは進むのか?

そういう思いの中、手に取った本がこれでした。

「忘却と記憶。その分岐点はどこにあるのだろう。」(p7)とまえがきに記した筆者。

「震災の翌年、二〇一一年八月から十一月にかけ、私は放射線量計を携え、松尾芭蕉の『奥の細道』の全行程約二千キロを旅した。折り畳み自転車で行けるところまで行き、あとは列車を利用したり、車やトラックにも同乗させてもらった。」(p10)

「測った線量値を露骨に発表することは、その地で商売をしたり、懸命に生きようとしている人にとってプラスにはならない。しかし、逆の考え方もある。汚染の被害を訴えることができず、半ば泣き寝入り状態になってしまった人々がいる。その声を拾い上げて書くことは、再び原大国に戻ろうとしている今、意味も意義もある行為ではないだろうか。・・・

いずれにしろ、私は自転車行による震災翌年の新しい奥の細道を、ここに公開することにした。忘却があってはならない。特に権力による恣意的な忘却に巻き込まれてはならないと覚悟を決めたからだ。」(P17)

こうして筆者は、8月14日から11月13日まで、東京から行ったり戻ったりしながらの、「折り畳み自転車」の旅を敢行します(「敢行」という言葉がふさわしいようなきがします)。

その記録が時を経て広く公開されました。もともとの本書は2018年7月、書き下ろし単行本として幻戯書房より刊行されました。

それが今回、文庫本として発刊されたわけです。

現在、筆者が測った、当時(震災翌年)のときの放射線量計の値とは、その後の除染作業等で減少しているかもしれません。

しかし、5年前の福島の地で、当方が測った線量計の数値は驚くべき数値でした。除染作業はうわべだけで、まだまだ人々が安心して暮らせるにはほど遠いものがありました。それから5年後、帰還の声は高くなっていますが、はたして現状は?

前半、筆者の自転車行は、白河の関まではほぼ同じ道をたどったことで懐かしく思い出し、また、仙台・気仙沼など地を訪れたことを思い出し(その時案内してくれた方は、震災後の厳しい生活の中で亡くなってしまいました)、一気に読んでしまいました。

その後の『奥の細道』行も、共に旅する気持ちでした。筆者が旅先で出会う多くの方とも親近感を覚えました。不思議な読書経験です。共に笑い、語り、泣き、厳しい現実から逃げずに未来を見つめ、・・・

「放射線量を測って進む旅。被爆に怯えと逡巡や葛藤を抱きながら『生きる』を考えた魂の記録」(裏表紙)というほど肩を張ったものではなく、行く先々の出会い(地元の方々、地元の風物・・・)を通して感じたこと、考えたことを詩人(歌人・うたびと)らしく率直な文体で綴ってあります。

そんな筆者の筆づかいについつい巻き込まれてしまいます。筆者が撮った写真も、筆者の深い思いの程を伝えてくれます。

文庫判あとがきではコロナ禍のさなか、世界中の人々が置かれた厳しい現実を直視し、未来をなんとか見つめていく、そのためには、という問いかけが真に迫ります。

大学の教員になった筆者。

「考えてみれば、小さな折り畳み自転車にまたがって旅をし、日記をつけ始めたのも自分なりの表現であり、自分自身であったのであろう。それがこうして読者に届くことは、希望の具体的な姿だといえる。対立を越えて、多くの人に読んでもらえたらどんなに良いだろうと思う。あの夏の日、懸命にペダルを漕ぎだしたところから始まったつたない筆記を、学生たちも読んでくれるだろうか。いつどんな時代がやってきても、『ここから始めるしかないのだ』ということを理解してくれるだろうか。」(p389)

小さな(安い)折り畳み自転車を愛用する小生。自転車を折り畳み、電車に乗り、車に積み、自転車の旅をしたくなりました。日本海側を歩くのも一興です。

でも、上り坂・下り坂の大変さ、曲がりくねった道路、自動車とすれ違う恐怖・・・。やっぱり、近所を走ることで精一杯ですね。

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西武観光バス「秩父湖」~川又(往復)。その2。不動滝入口四阿。新旧国道。そして、仲秋の名月。(「荒川を遡る」第11日目。)

2021-09-21 19:44:38 | 荒川を遡る

木漏れ日の下を。右に左にカーブしながら上っていきます。

護岸工事。目がくらむような真下に荒川。

道路右手の切り立った崖から一気に流れ落ちる流れ。難工事だったようすが分かります。

そういえば、歩く途中、地面に水の流れがけっこうあります。道路上が半分、水浸しになっている箇所も。右手の崖側から流れてくるようです。右は落石よけのネットやコンクリート壁が続き、左は、急峻な崖下に荒川の渓流。

歩き始めてから約1時間。「不動滝入口四阿」に到着。「不動滝」への案内板が。

不動滝のいわれ

荒川に流れこむ大除沢がつくる不動滝は落差50mもあり、その荘厳さを不動明王になぞらえて不動滝としたのでしょう。大除沢には、昭和の初期に多くの山林業者が入山していて、その人たちは守護神として不動様を信仰したといいます。徳川時代の末期には、行者が修行場として使用したともいわれています。

荒川に架かる「不動橋」を渡った対岸にあるようです。

           (「彩の国さいたま」HPより)

四阿から。濃い緑。

荒川に一気に下って行く道。 

足元不如意な年寄りにはクワバラ、クワバラ。小休止して、先に進みます。

右手の小高いところに「民宿 ふるさと」。

発電所関連工事現場? 

大がかりな工事のようです。休日のため工事は行われていませんでしたが、機械音が響いています。

背後は深い森。

ようやく川又に近づいてきました。

大滝・落合橋の先で右に分岐した「(新)国道140号線」が近づいてきます。新旧の国道がこの先で合流し、雁坂峠トンネルを抜け、甲府に向かうことになります。

もう少しで「川又」。

右手のトンネルが「(新)国道140号線」ルート。

「R140彩甲斐街道」。

「これより滝川渓谷 この先300m左折入川渓谷 雁坂トンネルまで7k 甲府へ52k」。

             そして、仲秋の名月。満月。 

中川・高砂橋から。

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西武観光バス「秩父湖」~川又(往復)。その1。二瀬ダム。秩父湖。吊り橋。(「荒川を遡る」第11日目。)

2021-09-20 20:42:48 | 荒川を遡る

9月19日(日)快晴。久々の荒川。秩父湖から川又を往復。約14㎞。

7月31日以来。前日の大雨もあがり、連休中ということで、電車もバスも満員。

二瀬ダムサイト。

「三峯神社」へはダムを左折して行きます。秩父湖で下車したのは二人のみ。満員のバスはそのまま「三峯神社」へ。

二瀬ダム。水面はかなり低く。

「大洞川」。奥に吊り橋。

       (「googleマップ」より)

さて、荒川の上流に向かって歩きます。

     

秩父湖付近で標高約550㍍、栃本集落は約750㍍。川又は栃本より少し低い。その上り下りの往復です。往路は、湖畔、荒川に沿った道、復路は山沿いの栃本を通る道を。

往路では誰とも出会わず、車とバイクの行き来のみ。

川又からの帰りには、雁坂峠から下りてきたジョギングのメンバーに抜きつ抜かれつ。といっても、彼らが休憩している時のみこちらが過ぎるだけで、快適な走りをする集団にはあっという間に追い抜かれます。

途中の二股、栃本への道を分けて、左を進みます。旧国道140号線。

その左下には、湖岸を進む「遊歩道」がしばらく続きます。

8月とは違って、日差しは強いが、杉林の濃い緑と涼風と渓谷の水音が心地よい。

旧国道140号線。

荒川に架かる吊り橋。但し、立入禁止。

「秩父湖吊橋」。この直下まで「湖岸遊歩道」。

ここにあった「注意書き」。

危ない 氷上の遊戯(釣り・スケート等)湖水の変動により結氷状態が不安定となることがあり、非常に危険ですから禁止します。

とあります。冬場の厳しい寒さを表す表示。 最近は温暖化で・・・。それでも、冬場はそうとう寒くなるようですが。

眼下に荒川。ススキが揺れる。

下流(「二瀬ダム」方向)。

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仏の顔も三度。

2021-09-17 18:53:25 | じじばばがゆく

お、じじいがやってきたぞ。生意気に「らくらくスマホ」じゃないって、か。

大丈夫か? 手元が不如意じゃないのか?

こっちは海千山千、容赦はしないぞ。

まず小手始めに、と。ほら、最初から「ダメだし」になったじゃないか。

ま、あちこちいじって試してみな。

って、そうやたらに闇雲に触らないの!やらないの!

敵を知る前に己の立ち位置を把握しろよ。

だから、こういうど素人はいやだね。

分からないことは分かっている、それなりの人に聞くの!

自分が何でも知ってる、分かっている、って思っちゃダメだよ。

あんたの人生、それで通用してきたの? こなかったでしょ。

自己反省しない人生なんてダメだよ。

それなりの方に教えを請う、そうして成長するもんだよ。

って、若造にだったらこんこんと説教するけれどね。

マニュアル? 

マニュアルなんて、何が書いてあるか、理解できる?

あれは、なるたけ理解しずらいようにしているわけ。

なんでもそうでしょ。あんなんで分かる人がいるなら、俺、心から尊敬しちゃうよ、ホント。

また、マニュアル通りにしか動けない連中、それも軽蔑するけどね。

ふう、やっとお目にかかりましたね。

って、また消された! いいかげんにしてくれよ。

そうやってむやみやたらに俺の顔をいじらないの、なでないの!

「仏の顔も三度」っていうの知らない?

どんなに穏やかな人でも、面と向かって顔をなでるような失礼なことを三度も繰り返されては怒りだす。これまで大目に見てきたことも、度重なればただではすまないというたとえ。

《使用例》

「もうあなた。みんなわたしが悪いんですから。」「あやまりさえすれば、それでいいと言うもんじゃない。仏の顔も三度という事があるぜ。何ぼ僕が甘いからッて、そうそう踏付けにばかりされたくないからな」(永井荷風『二人妻』)

ま、これは、「コトバンク」からの引用だけどね。

ついでにもっと講釈するとね。

ことわざに「仏の顔も三度」というものがありますが、この「三度」を「三回」に言い換えて、「仏の顔も三回」と言うことはできるでしょうか?

答えはNOです。なぜなら、「度」と「回」の間には意味の違いがあり、単純に入れ替えることができないからです。「度」は、「回」に比べると度重なる経験や繰り返されることが予測しにくい行為を数える傾向があります。例えば、「太郎には一度会ったことがある」「二度目の優勝」のように、再び太郎に会う保証がない場合、次に優勝することを予測することができない場合には「度」で数えます。一方、「回」は、「三回忌」や「第三回大会」のように、繰り返されることが予測・期待される行為や催しを数えます。

もし、「仏の顔も三回」と言ってしまうと、同じこと(仏の顔をなでる行為)を意図的に繰り返して行うことになり、ことわざとして説得力が無くなってしまいます。わざと計画的に仏を怒らせるわけではありませんので、「三度」を「三回」に置き換えることはできません。

これも「Japan Knowledge」からの借用だけれどもね。

俺ってけっこう学識があるだろう、尊敬しろよ。

またまた知識をひけらかすと、英語じゃ、

even the patience of a saint eventually runs out; (if you touch) the Buddha's face three times (he will get annoyed)

ってなるわけさ。

「Buddha」ってあるように、慈悲深い仏様(お釈迦様)でも三度顔を撫で回されたら腹を立てる、ってわけさ。

でも、三度撫でられたくらいで怒るようじゃ、仏陀も狭量すぎないか?

そこが俺の度量の大きさだよ。どうぞ、どうぞ、好きなだけ撫でて、いじって、押して、回していいよ。

落とすのだけはやめてくれよ、壊れるからな。

そうして、人間は成長するんだ。ま、爺さんの余生はたかが知れているけれどさ。

ま、末永く俺を大事にしてくれよな。

 

マスコミは、自民党総裁選で賑わっていますが、世間(市井の人)は、こうして身辺雑記に満足しているわけです。

気がつかないうちに変な世の中になっていたら、オオゴト(ゴッドーGodー)! 

時々世間の窓も開いておかなければなりません、自戒! 

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そこはだめよ、ダメ! 感じちゃうじゃない。あッ、いいわよ、いいわ。・・・

2021-09-16 21:17:41 | じじばばがゆく

おてやわらかにね。

もう! すぐそうやって乱暴にするんだから。

落ち着いて、落ち着いて、じっくり、ゆっくりと。

そこそこ、けっこういい感じだわ。

こういうときに頭の中で考えているだけじゃ、ダメよ。

前の方とのことはすっかり忘れてね。長年のおつきあいだったことは分かるけどね。

左から右に、上から下へ。そうそう、優しく、そして、すばやくね。感じるわ、奥まで感じる。

ぶるぶる震えるのは、私の癖だから気にしないで。

変なところ、いじらないでくれる。もう。

敏感な私!

同じ所ばかり触らないの。もう、反応オーバーになちゃったじゃない。

しつこく、くどいのは大嫌い!

ほら、もういいかげんにしてくれない。

う~ん、いいわ、いいわ。その調子で頼むわよ。

って、ほめるとすぐ調子に乗るんだから。

もう、またやり直しよ。どうして私をもっと大事にしてくれないの?

むやみに体中、あちこち、やたらに触ったり、いじくったりしないの。感じすぎて困ってしまうわ。

初心者じゃないいんでしょ、あなただって、もう、いい年してさ。

相変わらずせっかちね。前の方ともそうだったの?

昔を思い出して、っていっても、ずいぶん前のことだと思うけど。

優しく丁寧にしてくれなきゃ、ダメよ。

相性がいいのかどうかまだ分からないけど、これからもよろしくね。

あなただってその気になってくれて、せいぜいお互いに楽しみましょうね。

いつまで触ってるのよ、今日はここまで。もう、ナイナイ。

お互い、あまり体力を消費しない方が身のためよ。

これも不思議なご縁だから、大事にしないとね。

前の人との三角関係のもつれで、というのだけはごめんだわ。

左に右に、上に下に、いいわ、いいわ。

インサートって、何を挿入するの? インストールでしょ、インストール。なに勘違いしているのよ。

でも、貴方との相性はいいのかもね。

お年になっても、まだまだやれるのね。

私は、って。体力をすっかり消耗したわ。

疲れた、疲れた、疲れた、・・・。

今夜はぐっすり眠れるわ。その間、しっかり充電しておいてよ。

残りもう、16%よ。

「スマホ」というものは、なかなか奥深いものがありますな。(続く)

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折りたたみ式携帯からやっと(やむをえず)スマホデビュー。

2021-09-15 19:46:01 | じじばばがゆく

近所のDoCoMoショップの前を通りかかったら、「Wanted二つ折り」というプラカードを持った店員さん。

「Wanted」という広告を見ると「(警察の)お尋ね(者)の」という印象が強くて、いよいよ指名手配か! と。

もちろん、「(…を)求む」という意味で使っているのでしょうが。

当方の携帯。他の店からのメールでも、「修理は終了します」、とか、「お早めに」、とか、「楽々スマホはいかがですか」、とか、ひっきりなしに届きます。

たしかに手持ちの携帯。表面ははげて落ちて痛々しくなってしまった。電車の中でもスマホを見ている方ばかりで(前の列の8人中、7人がスマホをいじっています)「ガラ(がら・柄・殻ーこれが一番適切ー)」はまず見かけないし(たまに持っている人の携帯を見ると、当方と同じ機種らしい)、・・・

当方は、メールと電話と写真くらいの用途があれば充分なのですが。

家族も子どもから孫まで、皆、スマホ。意を決してそのお店に予約し、買い換えることにしました。機種も何も分からないので、かみさんと同じ機種でいいや、と。

予約の時間に行くと、楽々スマホはこれが、とさっそく紹介されましたが、「いや、これこれの機種で」というと、即座に「今は新しい型になっていますが」、「白と黒がありますがどちらに? 」「黒で」「では在庫を調べてきます」、「今お店にはないので、1週間くらいに入荷しますので、その時に正式に契約を」「では、また」。

二日後、電話があり、「入荷しましたので」。おいおい1週間かかるのじゃなかったの?

翌日、昼時に行きました。家人からは1時間から1時間半はかかるよ、と。12時からですので、早飯を食べて出かけました。

若い方が懇切丁寧というか、立て板に水の如くに、衝立をはさんで、マスク越しで(時々、鼻水をすすりながら。オイオイ大丈夫か! )

ま、基本的な設定説明が次々と。「お支払いはこれこれで」「よろしければここにサインを」と矢継ぎ早に。

さらにオプションとしてこういうのが・・・、費用がかかる話しを。

「当方は、電話とメールができて、写真が撮れて、それをPCに保存できれば、それでけっこうなので」

以上、終了。さっそく、というわけにはいかず。

それから3日間、あれこれいじっては、家人に聞いては、設定を。

こうしてやっと「電話」と「メール」と「写真」が。

しかし、いろいろなアプリがあるんですね。「dポイント」「ララしあ・」「DisneyDX」「ドライブ」「YTMusic」・・・。実に多彩。

ま、いいや必要なさそうだし、消したいだけど、どうすればいいか、Icannot。

ということで、はじめての写真です。

         

 

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ファイザー製ワクチン半年で抗体8割減か追加接種も指摘

2021-09-09 20:01:21 | 世間世界


gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/abematimes/world/abematimes-8673379

6月中旬にはファイザー製のワクチンを二回目の接種していますので、すでに3ヶ月が経過。当初から半年しか効果はないのでは、と素人考えで思っていましたが、いよいよ3回目が必要? また予約で一苦労か?

そういえば、最近、年寄りの感染者数や死亡者数がいっときよりも増えてきている、という印象。若者の感染者が増えている、という報道ばかりが目に付きますが、どうもじわじわと、高齢者に。2回接種した場合でも感染し、死亡するケースも出ているようです。

新型コロナウイルスのワクチンを2回接種した後に感染する「ブレイクスルー感染」。
 「ブレイク・スルー」とは「突破する」という意味ですが、ワクチンの効果を「突破」する感染力の強さが懸念されています。

 「ワクチン接種が2回終わっていると、ちょっと安心があった。あッ、ついに来たかってところは正直ありますね」(ナーシングホームしあわせ八軒・加藤美佳看護師)

 札幌にある医療対応型老人ホームです。先月23日、80代の入居者の陽性が判明、その後、入居者6人と職員8人の合わせて15人が感染するクラスターが発生しました。
 この施設では、7月下旬までに入居者25人中24人がワクチン接種を2回済ませていて、残りの1人も1回目は接種済みでした。職員も2回の接種が完了し、感染対策の徹底に努めてきましたが、ブレイクスルーによるクラスターを防ぐことはできませんでした。
 現場の看護師は、感染力が強い「デルタ株」の怖さを感じています。

 「ここまでかなり(感染対策を)徹底してきたつもりだったので、それだけ強いウイルスなんだと痛感しています」(加藤美佳看護師)

 ワクチンを2回接種した後に感染する「ブレイクスルー感染」。北海道医療大学の塚本容子教授は、こう分析しています。

 「ウイルスというのはどうしても変異してしまう。いくらワクチンを打ったとしても、免疫力が何らかの事情で低下してしまうと、やはり感染してしまう」(北海道医療大学・塚本容子教授)

 塚本教授は、ワクチン接種で「重症化を抑える効果は確認されている」と話す一方、ウイルスから完全に守るものではないと説明します。

 「ここから危惧されるのは、このブレイクスルー感染が抗体価が下がっただけなのか、デルタ株によるものなのかは分からない。(ワクチンを)3回打てば防げるかってことでもないと思う」(北海道医療大学・塚本容子教授)

 「ブレイクスルー感染」は、医療機関や介護施設を中心に広がっていて、塚本教授はワクチンを接種したからと油断せず、基本的な感染対策と日ごろの健康の維持に努めるべきだと話しています。
 
(「(HBC北海道放送ニュース) 08:53」より)
新しい対策として、ワクチン証明、陰性証明等があれば、行き来や大規模イベント開催、飲食もOKとかの方針が出されるようです。

「GO TO TRAVEL」と同じように、非難囂々になって撤回、ということになりはしませんか。

いずれにしても、すべて「衆議院選挙」「自民党総裁選」の日程合わせのための施策でしかなさそうです。

国民の生命、生活にきちんと向き合う政治家はいないのですかね。

〈追記〉

大阪で10代のコロナ感染症での死亡が発表されました。10代での死亡は、全国で始めてとのこと。ただし、知事の記者会見でも、その後の報道でも、その方にはいくつかの基礎疾患があった、ワクチン未接種だった、ということが強調されています。

基礎疾患がある(希望者でワクチン接種しても強い副反応・障害が出なければ)10代、あるいは10代未満への優先的なワクチン接種(当然、かかりつけ医もいるでしょうから)という取り組みを早急にすべきでしょう。今回のケースを教訓にして、全国的なものにしなければ、その方の死に報いることにはならない、と。

 

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白露。そして近所の公園の草花の数々。

2021-09-08 20:24:14 | 世間世界

キバナコスモス。

9月7日は、24節気の一つ。「白露」。

白露は、夜中に大気が冷え、草花や木に朝露が宿りはじめる頃。日中の暑さも和らぎはじめ、だんだんと秋の気配が深まっていきます。

・9月7日~9月11日頃

草露白(くさのつゆしろし)

草花の上に降りた朝露が、白く涼しく見える頃。夏から秋への変わり目です。朝霧の時期にも。

・9月12日〜9月16日頃

鶺鴒鳴(せきれいなく)

鶺鴒の声が響きわたる頃。鶺鴒は水辺を好む鳥のため、町なかでは、あまり見かけらることはできません。

・9月17日〜9月21日頃

玄鳥去(つばめさる)

暖かくなる春先に日本にやってきたツバメが、暖かい南の地域へと帰っていく頃。つばめは、「春告げ鳥」とも。来年の春先には戻ってきます。

それにしても、東京地方。昨日までの1週間、25℃以下が続きました。これは、78年ぶりだそうです。低温注意報が発表されるのは2018年1月以来で、約3年半ぶり。9月の第1週でこの寒さは確かに異常です。札幌よりも低い、とか。

今日8日(水)は東京都心で8日ぶりの夏日になったものの、最高気温は11時32分に観測した25.0℃。
また、東北や北関東、東海などは雨が降る時間が長かった影響で気温があまり上がらず、7月以降で最高気温が最も低くなった所もありました。

▼今日8日(水)の最高気温
 東京  25.0℃
 前橋  20.1℃
 名古屋 23.7℃
 福島  18.4℃
 山形  18.4℃

この気象の影響で、野菜がだんだん値上がりして、他の食品も値上がりの時期。家計には負担増。

そして、近所の公園の花々。

クガイソウ。

  タマスダレ。

ペチュニア。

     

         ジャスミン。

 サンビリーバブルとヒマワリ。

    ドウダンツツジ。

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「落語鑑賞教室」その18。七代目立川談志「源平盛衰記」。

2021-09-05 18:15:08 | 落語の世界

立川談志師匠。ちょっと斜に構えて登場しますが、深々とお辞儀を。

この方の高座でお辞儀のしかたは、他の方では見られません。

語り出すととたんに相変わらずの毒舌ときわどい話で満場の笑いを誘う。さすがです。

「源平盛衰記」といえば、この方の持ちネタ。先代林家三平師匠から伝授されたようですが。

「Wikipedia」によれば、

筋のようなものは存在せず、実際には「漫談」「地噺」と呼ばれるものに近い。古典の『源平盛衰記』との関連性はあまり深くはなく、落語全集の類でも話の題名が「源平」「平家物語」等と記されているほどである。

「祇園精舎の鐘の声~」のくだりをひとくさり述べたあと、『平家物語』の粗筋を断片的に話し、それに関係しているかしていないか微妙なギャグやジョーク、小噺(時事ネタなど、現代の話でも全くかまわない)を連発、一段落ついたところでまた『平家物語』に戻る、という構成がとられる。小噺で笑いを取るほうが重要で、極端に言えば『平家物語』は数々の小噺をつなぎ止める接着剤の役割にすぎない。

藤井宗哲は「高座に余りかかることはなく、別の言い方をすれば時事落語で、内容は演者によって大きく変わる。いわば落語家のセンスによって変化する落語である。落語界では、(『源平盛衰記』のような)地ばなしを行う噺家は軽視されているが、この話は江戸初期の落語草創期の形態を残すものだと考えられる。演じている落語家は立派である」と述べている。

落語家の7代目林家正蔵、初代林家三平、10代目桂文治、七代目立川談志らの得意ネタとなっていた。

元々は「源平盛衰記」といえば7代目林家正蔵の十八番であり、これを東宝名人会で聞き覚えていた息子の初代三平が後輩の柳家小ゑん(後の談志)に伝授した。

これにより、「源平」は多くの落語家に演じられるようになった。演者ごとのストーリーの例を大まかに記すが、実際には筋はないので、口演ごとに異なっていた。

特に談志のものは初代三平から教わった「源平」に吉川英治の『新・平家物語』のエッセンスを加えたものである。

マクラ(歴史上の人物の評価の変遷について)→平家物語冒頭→義経と弁慶の出会い→平家追討令下る→義仲入京→義経頼朝黄瀬川対面→義仲討ち死に→扇の的→ソビエト崩壊についての小噺→壇ノ浦の戦い

なお、談志が演じた源平盛衰記にはサゲが無く、平家物語の冒頭部分を最後に再び語るが、元の三平や文治が演じた源平盛衰記には地口落ちのサゲが存在する。

注:桂文治(十代目)のサゲ

・・・(時子が義経に首を切られるときに平家方の教経が止めに入る)

時子すこしも騒がず、声朗らかに辞世を八木節で、♪「あ~あ、さても一座の皆さま方よ、ちょいと辞世を読み奉る。長門壇の浦で切らりょとままよ」

義経♪「抜いた刀がしまわりょか、よいしょ」、教経も仕方なく「ピッ、ピッ、ピィヒャララ・・・」と踊り出した。

能登守が踊ったばっかりに、平家が西海に没落した。「踊れる(おごれる)平家は久しからず

談志師匠。マクラでは、戦争についての解釈を披露、そのうち、横山ノック、毒蝮三太夫、さらにニュートンなどの歴史上の人物をあれこれ批評・・・、やっと本題に入る。「源平盛衰記」を、と。

七代目立川談志。

古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けた。古典落語を現代的価値観・感性で表現し直そうとする野心的努力が高く評価されたが、その荒唐無稽・破天荒ぶりから好き嫌いが大きく分かれる落語家の一人でもあった。落語のみならず、講談漫談をも得意とするなど、芸域の広さで知られた。自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。参議院議員(1期)、沖縄開発庁政務次官三木内閣において36日間)、サイバー大学客員教授などを歴任した。

落語家としての全盛期の実力に対する評価は概して高いものの、直情径行な性格により数々の過激な争いを起こし続けており、敵を作ることも厭わない「暴れん坊」ぶりもあって、毀誉褒貶の激しい人物でもある。談志の落語で特筆すべき点は、師匠から受け継いだ型を大事に伝承する古典落語において、「己を語る」独自の型を発明したことである。現代に生きる人々の価値観や美意識を内容に投入し、噺の途中で「このストーリーのここがおかしい」「こういう人情は違う」と、談志の意見や解説、哲学が入る。故に「客は『噺』ではなく、『談志』を聴きにくる」と言われたほどである。その芸を邪道とする意見も少なくなかったが、熱心なファンを獲得し続けた。

落語そのものについては、「落語とは、人間の業の肯定である」との見解を常々表明していたが、晩年は「イリュージョン」という独自の域に達したと自認していた。

志らくおよび談笑は、イリュージョン落語について以下の特徴を挙げている

  • (落語は、マクラも含めて)己れ(=談志)の感覚でしゃべるもの
  • 登場人物が談志と被っている
  • 落語ではなく談志という人間が面白い

               

            

画像だけでは、談志師匠の奇想天外でありながら筋立てがしっかりしているお噺(語り口)のすばらしさが分かりません。

ぜひ「youtube」で御覧下さい。ついでに先代林家三平師匠の「源平盛衰記」もあわせて。

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