オノマトペの話です。日本では、擬態語、擬声語、擬音語というように分類されていますが、ドイツ語では「音の絵」と訳される(言い得て妙な訳です)「オノマトペ」。多くの場合、表題のように「ぐずぐず」とか「ねちねち」とかのように畳語で表現される、そういう言葉が数多く取り上げられ、分類され、言語学的、身体論的、文化論的に探求されていきます。
まさに心身の表現・表意そのものが、言語文化であることを思い知らされます。特に、この書では「擬情語」(感情表現を擬することば)が主として扱われている印象。それは、これがオノマトペなのと読者に疑問を起こさせ、読み進むうちになるほどと納得させられる仕組み・構成になっています。「鷲田」哲学・現象学の真骨頂という感じです。
擬声語は何となく分かりやすく、「ゆらゆら」とか「なよなよ」「にやにや」とかは、擬態語あるいは擬情語と捉えられますが、「ぎりぎり」「ちぐはぐ」になると、擬態語、擬声語の範疇ともいえず・・・。
そこに、音声としてのことばと身体、感情表現との微妙な絡み合い、「意味の内と外」という表現で、音声とことばとの差異、ことばは対象を指示するたんなる記号・信号ではないこと、ことばの持つ根源的な身体性、さらには可変性へと・・・、このあたりはソシュール言語学、記号論にもなりますが、実は鷲田さん、ソシュールの「ソ」の字も登場させずに、ひもといていきます。
これでもかこれでもかと「ことば」を登場させ論証しながら、言語として音声化される以前の(ひらがな、カタカナあるいは漢字として表記される以前の)人間の「魂」にさわるところでオノマトペが声を上げる。そのように言って見たい気がする、と。存在感覚の「叫び」として
「今、ここに、こうして、こういう想いで在る」、また他者に想いを共有(分かってほしい)、あるいは非共有させるれるものが、オノマトペだ。・・・他者同士、人間理解のための「腑に落ちる」解を、人はオノマトペによって探っているのかもしれない、一方で深い「納得」と一方で軽い「遊び」つまりは意味の彼方への気ままな飛翔。そういうまじめさと遊びが共在しているのが、オノマトペという、言葉の作法(この「作法」という表現はなかなか蘊蓄のある表現ですが)なのだろう。と。
ついでに、筆者が取り上げた、車谷長吉の作品の一部を紹介します。
「むっつり」
かの人は、げっそり、ぱったり、あっさり、うっかり、かっきり、かっせり、でっぷり、めっきり、がっかり、さっぱり、(中略・・・次々とオノマトペが登場します。)
しんみり、たっぷり、むっつり、人のふところで、めし喰うた。(車谷長吉『業柱抱き』より)
ぜひ、車谷さんの作品に当たってみて下さい。
この書に触発されて読んだのが、『賢治オノマトペの謎を解く』(田守育啓)。今度取り上げてみます。
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我が家の裏庭に咲いたスミレの花。一時期、すっかり枯れてしまったようでしたが、久々の復活です。
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こちらは、軽井沢に出かけた方からもらったもの。色合いが我が家のものとは違います。