おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

喜多見ちょっと散策

2011-07-29 19:21:37 | つぶやき
 世田谷区喜多見。東急二子玉川駅からか小田急成城学園前駅から、バスでどちらからも15分くらいかかります。東名高速道路の北側に広がる町です。交通から見れば、不便といえば不便な地域です。区内にもこういう風景が残っている(保存されている)とは、意外でした。
 もともとは、国分寺崖線(通称「はけ」の崖下の一帯。涌き水が豊富で先土器時代、縄文、弥生時代と随分昔から人類が住みついたところだったようです。前方後円墳や円墳なども遺跡として残されています。
 ぐっと時代が下って江戸時代。江戸城は江戸氏の居城だった。その江戸氏が家康の入城後ここ喜多見の地に館を構え、「喜多見氏」と名乗るようになったという。その後は、様々な栄枯盛衰があり、結局、喜多見氏はお家断絶、一族は追放され、家臣は浪人になったり、この地で、農民となったりしました。こうして「ハケ下」の、のどかな田園地帯として長く続いた地域。かつては、田んぼに畑、そして散在する古い神社仏閣、大きな門構えの農家と、まさに里山的雰囲気が残されたところでした。
 近年、土地持ちの遺産相続のために土地を手放したりなどで、大規模な宅地開発が進みました。新興住宅地となって瀟洒な一戸建てやマンションが出現してきました。喜多見小学校の北側の土地はつい最近前畑だったところ、急にあれよあれよという間に一戸建ての住宅が建った、とか。
 それでも、古くから住み慣れた地域の方々を中心に、都市化の中にあって、古き良き田園風景・暮らしや人々の心ねを残していこうと保存、管理が行き届いていることに驚きました。
 小学校の南側は、東名高速道路の橋脚。防音壁のせいか、まったく車の騒音は感じませんが。宅地化されずに残っている場所は、畑がそのまま。道も昔の畦道を広くしたような感じ、曲がりくねっています。ちょっと郷愁にかられて散策しました。
竹山市民緑地。竹藪が見事です。
次大夫堀公園内にある古民家。
わらぶき屋根。藁葺き屋根の製作途中のものもありました(体験学習用)。
まるでTVのダッシュ村にあるような、たたずまい。
半鐘。
古民家園の案内図。それぞれの家にはボランティアの方がいて、お茶のサービスとか機織りの実演とか熱心に行っています。小道もきちんと整備され、実に気持ちのよい雰囲気です。
わらぶき屋根の土蔵。
順調に育っている稲。喜多見小学校の生徒達も刈り入れをするそうです。
畦道。
湧水からの流れ。宅地化などで湧き水が枯れてしまったところもあるそうです。
中央奥が喜多見小学校。
かつての用水跡。道路になっています。右の広場には大きな記念碑(再開発)。やっと一段落したそうです。
奥に見える橋脚が東名高速道路。
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中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。

2011-07-27 23:30:23 | つぶやき
「ポスト菅」で主導権模索 民主「中間派」が増殖中(産経新聞) - goo ニュース
 どこまで本気なのか。産経が書くことですから、願望も含めて、民主党内の混乱を興味本位であげつらう、常套(上等?)戦術。
 この人達が、最終的に主導権を取れるとは思えませんが。そこで産経の記事の中で興味深かったのは、次の内容です。 
 実際に菅直人首相の後継代表候補たちの品定めを始めた衆院1~3回生の中間派の新グループ名。「メロスネット」(津島恭一世話人代表)。
 このグループ設立は、6月2日の内閣不信任案採決で欠席戦術を模索した小沢グループ穏健派が主導した、という。名称は津島氏の祖父の弟、太宰治の代表作「走れメロス」にちなんだ。すでに約50人が登録しており、一大勢力となりつつあるって本当?
 まさかここで太宰治が登場するとは、びっくり。信義を貫くために果敢に幾多の難事にもめげず「走った」メロス。どうせなら津島さん一同も、ぜひとも初志を貫徹して欲しいものです。「走れメロス」の中に、次のようなメロスの自問自答の言葉があります。
 
 「中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。」(「太宰治全集第3巻」より)
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読書「取り返しのつかないものを、取り返すために・大震災と井上ひさし」岩波ブックレフト

2011-07-26 21:05:26 | つぶやき
 このブックレフトは2011年4月9日におこなわれた「鎌倉九条の会」主催の「憲法のつどい2011鎌倉」での講演を、加筆し収録したもの、と「はじめに」に書かれています。この会の呼びかけ人のひとり、井上ひさし氏が亡くなってちょうど1年目にあたる日に「井上ひさしの言葉を心にきざんで」と題しての集いでした。
 その直前、3月11日東日本を襲った巨大地震、津波さらには福島第一原発事故が起こりました。井上ひさしを生み、育てた東北地方の大惨禍をどう受け止め、どう生きていくかを考える、別の言い方をすれば、どうメッセージを発していくか。ちょうどそのタイミングに合わせ
たかのような講演会だったようです。
 今回の講演は、日本の(日本人の)今後の生き方(方向性)を示唆する内容がありました。「九条の会」という言葉を聞いただけで(見ただけで)毛嫌いする方もいますが、その内容をよく吟味し、一人一人の今後の生き方・価値観の再検討とも重ね合わせながら、講演内容を読み取ることが大事なような気がします。
 表題の「取り返しのつかないものを、とりかえすために」は、大江健三郎氏の講演中の言葉です。
 大地震と大津波で多くの人々が死に行方がわからない。家族にとっても友人にとっても、死者は、もう取り返しのつかない処へ行ってしまいました。原発事故でも、作物の種を蒔けない、牛や豚を飼育できない・・・、取り返しのつかないことが起こってしまっています。海も汚染されてしまった・・・。子ども達の未来についても、取り返しのつかない出来事がなされています。
 こうした状況の中にあって、大江さんは、井上ひさしの戯曲「父と暮らせば」(これはヒロシマの原爆を扱った作品のうちでも傑作の一つです)の終幕の場面(原爆で死んだ)父と(生き残った)娘との会話を通じて、両者の心情(死んだ父の思いを取り戻し、父もまた娘の未来に希みを託す。「おとったん、ありがとありました」)の機微を引用しながら、
 「この国びとのなかで、その取り返しのつかないことを『取り返してやろう』という心の働きが、しっかりあると思う。そういう人たちの、というより私らみなの心の働きが実って、原発の事故のもたらしたものと対抗してゆけば、30年後、50年後、大人になった子供たちによって、ありがとうございました、と言われ、また私たちが将来の人たちにたいして、ありがとうございました、言うことができるようになりうるかもしれない。それを、私は望む、願う、憲法の「希求する」という言葉でいいたい。」
 と。
 政治がすっかり機能不全に陥ってしまっている、今の深刻な状況の下で、私たちの出来るささやかことでも何か行動すること、共感することによって、「取り返しのつかない」ことになってしまっている被災された(大地震で、大津波で、原発事故で)人々との心のつながりも生まれてくるのではないでしょうか。それはこの国の(国びとの)未来をしっかりと見つめることにもなっていくでしょう。
 この集いには、大江氏の他、内橋克人、なだいなだ、小森陽一氏が参加し、発言しています。
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風評被害で苦しむ被災地。菅さんではますます風評被害が・・・

2011-07-24 22:15:15 | つぶやき
被災3県議会議長、首相の退陣要求へ 「ビジョンない」(朝日新聞) - goo ニュース
 この動議案によると、退陣時期を明確にせず、発言が迷走する首相について「信頼を失った政府では復興が進まない」と批判。「首相自身が『復興の足かせ』になっているという風評が出ること自体、極めて遺憾な状況だ」
 地震・津波による大災害のほかにも、農作物などさまざまな風評被害でも苦しむ当事者が、首相による風評被害まであからさまに言い出す。菅さんが首相にいればいるほど、復興が遅れるという切実な思いがあるのでしょう。
 復興が進むかどうか、トップを替えたらそれほど劇的に変化するのか、はなはだ疑問ですが、よほど菅さんという存在自身(識見・行動力・リーダシップ・人間性も含めて)が忌み嫌われているのでしょう。こうして、あらゆるところからこれほどまで総スカンされる方も、希有な方です。それでもなお居直る方も、また希有な人物ではあります。
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今年はゴーヤの生長が今ひとつ

2011-07-23 22:31:47 | つぶやき
 台風の後、ここ2、3日、東京地方はまるで秋風が吹いているかのように涼しい(半袖では寒いくらいの)。木曜日は夕方から飲みに出かけて、心地よい(秋の)そよ風に吹かれてご帰宅。今日も家の中でも24度くらい。扇風機も必要ないような、曇り空・・・。
 明日からは猛暑が戻って来る気配。でも、今年の夏、北の高気圧が頑張ってくれて、意外に涼しい日があるかもとはかない希望を持ってしまいそうですが。6月のあの暑さがうそのような天気です。
 我が家のゴーヤ。西日除けの簾代わりの緑も、今年は去年よりもずっと生長が今ひとつです。まばらに日を遮るだけ。他の野菜も生長がよくありません。ミニトマトもまだ赤くならず、ピーマンもやせ細ったものしか収穫できず・・・。
 不順な気候が影響しているのか、土が良くないのか。
 蝉の鳴き声もまったくしません。去年、庭には木下からはい出した蝉の穴がたくさん見つかったのに・・・。その代わり、飲んだ帰り道、公団の茂みの中から虫の声が聞こえてきました。はてさて自然界ではいったい何が起こっているのか?
実はけっこう付いていて、大きなものを二つ収穫しました。
これは、去年の7月21日のようす。びっしり茂っていました。ずいぶん違いますが。
その代わり、西洋種の98円苗は目一杯鮮やかな色で咲いています。
 
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読書「ナチズム・地獄と神々の黄昏」(エルンスト・ブロッホ)水声社

2011-07-22 22:15:33 | 読書無限
 著者のブロッホは、1885ー1977年。ドイツのユダヤ系家庭に生まれました。ヒットラーが首相に就任した1933年、ナチスの迫害を避けてチューリッヒに亡命、のちプラハへ移ります。さらに1938年身の危険を感じ、アメリカへ亡命、そこで、ドイツの敗戦を知ります。
 ナチズム・ファシズムの進行という現実の中で、同時代的に批判し、対決する評論を発表しました。内容としては、今で言う「時評」といった趣で、分かりやすい印象。ただ亡命した(ドイツ国内にいたらおそらく死ぬ運命にあった!)以降は間接的な関わりとなってしまったのは、いたしかたありません。
 当時のマルクス主義者にありがちだった、ソ連の政策(ファシズムに抗する闘いの後ろ盾になっているというような)へ過度な信頼と楽観的なとらえ方は、現時点からみれば批判されるべき内容・姿勢となります。しかし、当時のドイツあるいは亡命先において発表された、反ファシズムに立った具体的な政治・社会・文化論は、現時点でもる説得力を持っています。
 当時のドイツがあれよあれよという間にナチスによって牛耳られるようになっていったのか。成立したソ連(社会主義を標榜する国家)に対するヨーロッパ諸国の体制側の危機感・恐怖感(次は我が国に革命が入ってくる)・・・、その中で、ヒットラーが政権を奪い、隅々にまで張りめぐらされた暴力支配。ついには日独伊の三国による第二次世界大戦へと展開していく、それに対抗する言論も公にされないまま(弾圧の結果)全体主義国家として成立していく過程とそれへの抵抗が伝わってきます。
 ドイツ(国民)にとっての大きな転換点となったのが、「国会議事堂放火事件」をきっかけにした共産党への不当な裁判、弾圧だったと筆者は述べています。今の日本とは情勢が違いますが、今の経済不況や不安定な政治情勢を、その原因(敵)を外国に求めたり、内向けには国民の思想統制に向かっていったとき、ダイナミックに情勢が変化してしまうことにもなりかねません。そういった現代的な意味をも感じさせられて、かなりの大部の書ですが、けっこう面白く読み進められました。
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読書「文学2011」(日本文藝家協会編)講談社

2011-07-20 22:07:09 | 読書無限
 毎年発刊されている、このアンソロジー、ひところは老人の死あるいは老境を扱う、老々介護を含めて、そういう類の作品が多かった。書き手も読み手も、というか読者層の老人化がかなり進行していた。日本的私小説世界の中で、現実世界を描きながら、激しく動く現実にはほとんどコミットしないまま、次第に文学の衰退も現実化していく。その中で、いつしか女性作家が次第にその地位を固め、独特の元気な作品が多くなった時もあった、・・・。
 そして今回。昨年発表された作品から選び、編集され、発刊された。しかし、一方で、我々は3.11という未曾有の大地震・大災害。そして、フクシマ原発の大惨事、という出来事にいまだに収拾が付かないまま、政治も経済も混沌として、方向性を見いだせない現実世界のまっただ中に置かされている。
 これらの作品が3.11以前に発表されたものであることを踏まえてもなお現実に関わってある種の光明、または諦め、あるいは虚無、、、など今の日本の状況下での一人一人の精神生活にどのような影響を与えうるか、それともまったく無意義か。あらためて文学の持つ意味が問われてきている。
 そういう意味で、今回の20の短編作品の中では、立松和平の「鉄腕ボトル」と津村節子の「異郷」にひかれた。それはたぶんに前者はこの作品発表後に亡くなった方であり、後者は亡くなった夫の吉村昭に関わる話だからだ。それにとどまらず、飲みっぷりが豪快で自分をさらけ出して生きた編集者への回顧談を装いつつ、その死後、何年も経ってその妻や子ども達の行方を知らない現実をさりげなく描いて終わりにする手法。立松和平も亡くなってしまった。
 後者は、夫が死んで3年。世間の煩わしさから逃れるようにホテルに長逗留にしつつも、長年連れ添っていながら「死ぬ時を定めていた」夫に気づかぬ己などかえって夫の死という現実から逃れない己の存在を捉え直して、帰京する。その後、夫の死ととことん向かい合った連作を発表することにつながる布石となった作品。
 川上弘美の「小鳥」は、不思議な川上ワールドを示して、とても面白かった。高橋源一郎もしかり。中上健次の娘の作品も掲載されているが、読後感はイマイチ。
 冒頭の解説のリーダー文で沼野充義氏が記すように「終わりと始まりー死を悼み、生を寿ぐ小説の営み」が、今後どのように新たな読者を作り出していくかが問われていると思う。それが3.11を痛切に体験しつつある我々へのメッセージ性を獲得する文学の役割ではないか、作者と読者の営為として、想定外の事実に押しつぶされてしまいそうな現実を目の当たりにしての。事実は小説よりも奇なり、などと嘯く暇などない。
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読書「戦場の哲学者・戦争ではなぜ平気で人が殺せるのか」(J・グレン・グレイ)PHP研究所

2011-07-19 22:02:31 | 読書無限

 この書は1959年に発刊されたものの全文訳。著者は、大学で哲学を学び博士号を得たその日にアメリカ陸軍に最下級の一兵卒として応召、4年間の軍務に服した。北アフリカ、イタリア、フランス、ドイツと転戦し、スパイ摘発を任務とする部隊に所属した。この時の戦場体験がこの本の根幹をなしている。その執筆のきっかけとなっているのが当時泥沼化しつつあったベトナム戦争である。
 第二次大戦後、朝鮮戦争を経てベトナムへの介入と、アメリカが押しすすめていた戦争政策によって、召集されて戦場にかり出された(主体的に志願した者も多いが)兵士たちが、どうしてソンミ村での虐殺を引き起こすことになっていくのか、ここに重要な問題意識があったようだ。
 航空機で爆弾を投下する、その下で多くの敵国人が死に傷つき、焼け出されていく。その最たるものは、ヒロシマとナガサキへの原爆投下、東京下町大空襲、そしてドイツの都市・ドレスデンへの絨毯爆撃・・・。これらは、「現実感のない状態」下での戦争行為(殺人・破壊攻撃)。無自覚のまま、たまたま遠距離から多数の人を殺す者は、自分の行為を釈明しなければならない必要を認めない。あまりにも現実感のない殺人行為だから。
 しかし一方では、敵兵との遭遇(白兵戦)の中での戦闘。この場合の兵士達の、あるいは指揮官の心理状態は、どのようなものか。
 当時、戦場を転々としながらスパイ摘発、具体的な敵兵(もしくは兵士以外の人間)と常に対峙していながら書き留めていた、自らの日記・メモを折り込みながら、誰もが持ち合わせている人間としての罪の意識、良心の存在が、現実の戦闘行為の中でいかにして失われていくかを内省的にとらえる。また、同僚達の心理状態を鋭く観察していく。自分たちを守り、敵に壊滅的な打撃を与える武器への異常なほどの執着・・・。
 敵を人間視しないという考え方、一方で敵は自分と同じ人間であるという考え方。殺人や破壊などに対する罪悪感の消失、命令された行為である(から)として良心の責め苦から逃れることができる。敵人を野蛮な動物に喩えることも、普通に肯定していく。
 さらに、常に死と向き合っている極限状態の中で、意識の麻痺、死を肯定せざるを得ない(死は誰彼とえり好みをしないのだ!)という冷酷な現実。本能的な自己保存欲、戦闘中に頂点に達する仲間・連帯意識(自らの死、他者の死を戦友と共有する)。
 戦争が終わっても、再び戦争を望み、懐かしむ心の存在。そういう果てしもない戦争への願望。
 筆者は、そこに我々はどう変わらなければならないのか、という問題提起として、自然や事物への関心、とりわけ、人間は勿論、自然を含む人間以外の他者との親密な関係を作り上げていくこと。すなわち「現実感のない」自然観を乗り越えることを主張する。
 ニーチェの言葉を引用しながら、「人間と自然が遊離してしまったことが20世紀に発生した全面戦争の原因の一端にある。・・・原子爆弾の開発などは現代精神の典型で究めて危険なものに思われる。最近(注:1950年代後半の時点)行われた水素爆弾の実験などは神への冒涜である。この種の実験によって海の魚を汚染することが、非難に値するとは誰も考えていないようである。・・・」と。
 この書が世に出て50年以上経っても、なおまだ人間の精神は成長していない。
 

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「さん」なのか。この交通事故の場合でも。

2011-07-18 21:12:20 | つぶやき
「だんご3兄弟」速水さん、歩行者はねる事故 埼玉(朝日新聞) - goo ニュース
 最初の報道は、どこも「さん」付けでした。交通事故の場合でも、一般的には加害者の時は呼び捨てではなかったでしょうか。特に相手が亡くなっている場合には・・・。また本人も社内の荷物を気にして(よそ見をして)いた、と話しているようですので。
 有名人だからなのでしょうか。現行犯として逮捕された?

 大ヒット曲「だんご3兄弟」などで知られるタレント速水けんたろう(本名・谷本敦雄=49)が16日、乗用車を運転中に女性をはね、女性は死亡した。同日午後1時過ぎ、埼玉県川越市の交差点で、速水の運転する乗用車が、横断歩道を渡っていた無職の女性、大久保幸子さん(78)をはねた。大久保さんは胸を強く打ち、病院で死亡が確認された。速水は「助手席の荷物に気を取られた」と話しており、警察は速水の脇見運転が事故の原因とみて詳しく調べているという。

 こういう言い回し(報道)が本来の報道のしかたではなかったでしょうか? 最初の報道では、亡くなった女性の方に落ち度があるような、速水けんたろう(さん)の方に同情しているような風に(信号を無視して渡っていた、とか)とらえてしまいましたので。もちろん、その場合でも、車を運転している方に責任は生じますが。せめて「速水・・」容疑者と表現すべきではなかったか。
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千川上水。千川駅前。

2011-07-17 17:15:53 | 河川痕跡
 玉川上水と武蔵境の境橋から分かれて流れる「千川上水」。その千川上水にちなんだ駅が「千川」副都心線・有楽町線です。豊島区と板橋区との区界近く。ここに「千川上水」の跡が親水公園として整備されています。このご時世、全く水は流れていなくて、枯山水の趣き、といったらほめすぎ。住宅地の脇を細く続いています。
 遊び場ほどの幅もなく、散歩道という感じです。ただ桜の古木が植えられていて、春には豊かな花が一面に。夏は、ほどよい木陰となっています。小さな砂場に備え付けられたベンチで女子高校生が二人、暑い日差しを避けてのんびりと楽しそうな会話。近所には「都立千早高校」があります。
説明によると、千川上水は桜の名所だったとか。
この辺りには、数本、桜の木が植わっています。枝が頭上すれすれの古木です。
古そうな桜の木。


遊具?が道のまん中に。
2箇所ほど、水道管の上部がむき出しになっています。
要町3丁目の交差点。正面が板橋側になります。千川上水はJR板橋駅の南側付近まで続いていたようです。
千川親水公園と道路をはさんで、千早高校の一角。
旧千川小でのお化け大会の宣伝。学校ってもともと不思議なところですが。

 ここまで千川上水をたどってきましたので、こうなったらJR板橋駅付近まで、その行く末を追いかけてみます。
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逆鱗に触れる。四面楚歌。

2011-07-16 23:15:35 | つぶやき
首相の脱原発「党の方針でない」…民主反発拡大(読売新聞) - goo ニュース
 四面楚歌なんていうものじゃない。この時は、項羽のたてこもる城内にはわずかばかりでも味方が存在した。今や、菅さん「前門の虎後門の狼」。「脱原発」を言ったとたん、この騒ぎ。一説には、自公民などの政治家で電力会社から政治献金を貰っていないのは、菅さんと河野太郎の二人だけという。電力会社にしてみれば献金してもまったくうまみがないから、という次第にちがいない。
 かの町長も原発関連企業下請けの関係者。献金も仕事もけっこう貰っているらしい。だから、あれほどの罵詈雑言を菅さんに浴びせた。海江田さんも見事、迷演技に騙されてしまった。ばれるようなやらせメール問題でも、九電の責任はうやむや。
 これまでの日本、「脱原発」は脳天気な反体制の犬の遠吠え、評論家の絵空ばなしくらいにしか思われていなかった。「日経」を筆頭に、マスコミも徹底して原発推進キャンペーン。経済成長の要、産業興隆の生命線、「豊かな」電化生活、夢の生活・・・。無事故。絶対安心。安価。地元雇用、地元優遇、原発なしなら産業の空洞化、節電・停電の不自由生活、社会不安、・・・。原発に反対する者は日本国民ではない、くらいの勢い。
 自民党、公明党、民主党・・・、皆、巻き込んでの政治策動。政・官・民・財・教、すべての分野で一体となっての原発推進。社民党と共産党は、所詮、ごまめの歯ぎしり。まったく歯牙にも掛けられなかった。
 ところが、時の宰相が虎の尾を踏んでしまった! 例えば、フクシマミズホが金切り声を上げて「反原発」「脱原発」を叫んでも、まったく無視したにちがいない。ところがところが・・・。こうなると、次期政権が「脱原発」路線じゃ困るから、次期首相候補も火消しに回る「菅(ここまで来ると呼び捨て)の個人的見解にすぎない」「政府の統一見解ではない」「民主党の方針ではない」・・・。もう、めちゃくちゃ状態。
 こうなったら、「窮鼠、猫をかむ」でやるか、菅さん。何しろ菅さんという犬を早くどぶにけ落として、ついには、「どぶに落ちた犬は叩く」式をやりたがっている、今のマスコミ。
 項羽は、四面楚歌に陥ったとき、「時、利あらず」と嘆き、最後の戦闘を敢行、討ち死にする。そして、天下は、劉邦の時代(漢)になる。
 「逆鱗に触れる
 逆鱗(げきりん)とは、龍の81枚の鱗(うろこ)のうち、あごの下に1枚だけ逆さに生えている鱗のこと。龍は、この「逆鱗」に触れられた場合には激高し、触れた者を即座に殺すとされた。このため、「逆鱗」は触れてはならないものを表現する言葉となり、帝王(主君)の激怒を呼ぶような行為を指して、「逆鱗に嬰(ふ)れる」と比喩表現された。
 
 本来の意味からは、菅さんの言動に喩えるのは不都合ではある。しかし、国家が立てた方針に逆らう発言をすれば、宰相の地位にある者でも「殺す」ということに喩えられるのではないか。
 「四面楚歌
 四面楚歌とは、周りを敵や反対者に囲まれて孤立し、助けのない状態のたとえ。孤立無援。夜、項羽は四方の漢の陣から故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間のなんと多いことか」と驚き嘆いた。この故事から周囲を敵に囲まれ、孤立無援になることを「四面楚歌」という。
 形勢利あらずと悟った項羽は、別れの宴席を設けた。項羽には虞美人という愛妾がおり、また騅という愛馬がいた。これらとの別れを惜しみ、項羽は自らの悲憤を詩に読んだ。
  力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
  時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)
  騅不逝兮 可奈何 (騅逝かず いかんすべき)
  虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝をいかんせん)

虞美人もこれに唱和し、項羽は涙を流し、臣下の者たちも全て涙を流した。
 
 味方であったはずの者達が敵陣に回って、自分を攻め立ててくる。そこに項羽の驚きも嘆きも深くなり、自らの運命を悟るのだ。果たして菅さんの最後の戦はどうなるのだろうか?
 
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同病相憐れむ

2011-07-15 21:59:51 | つぶやき
松本前復興相は「軽度のそう状態」…九大病院(読売新聞) - goo ニュース
 このニュースを見てびっくりしました。二極性の鬱病(躁鬱性)で、今も薬を飲んでいる、若い友人。もうかれこれ5年以上前、その躁の症状が激しく出て、本人はいたって超健康状態(といっても躁状態ですからテンションがきわめてハイになって)、気分が高揚し、言動が激しくなっていきました。
 それまでの陰鬱な気分(新しい職場で新しい仕事を任せられ、次第にその責任と日常の忙しさの中で、次第に気分が落ち込んでいました)が、一転してハイになってしまったわけです。
 自分は何でも出来る、一番だ、君たちに何ができる、自分の言うことが正しい、金遣いが荒くなり、気前よく高額の買い物をしまくる、対人関係でも、少しでも気にくわなければ、相手を場をわきまえず平気で罵倒する・・・。こんな有様でした。
 関わった家族も友人も翻弄されながらも何とか支え、医者にも通い、5ヶ月くらいで落ち着いてきました。その後、紆余曲折がありますが、何とか持ち直し今は普通の生活に戻っています(仕事を含め)。
 その友人、車の中で、松本さんのニュースを聞きながらぼつりと「この人、たぶん躁状態になっているのではないか、と思う。不必要に気負いすぎてハイになっている。きっとこの前は鬱状態になっていたはず。その頃の自分とよく似ているから。」
 言われてみて、かつての出来事を思い出し、はっとしました。「なるほど」その後に言ったことば「この人、へたすると自殺するかもしれないよ。」その人も当時は(少し躁状態がおさまったころには)そういう風に行動したかも知れないと、かなりどきっとしましたが。
 国民の生命と暮らしを守ることが使命の、政治家。まして、今一番大事な復興を担う閣僚がこうした精神的傾向性を持っていたとしたら、それをフォローせずに任命し、かえって追い詰め、結果的には、焦眉の施策の実施に大きな停滞と混乱を招いた菅さんの責任は大きいと思います。
 と同時に、躁鬱性の気質の持ち主への周囲の配慮も大事となってきています。松本さんが何とか持ち直して(最悪のケースにならぬよう)ほしいと思います。
 友人は、薬は今でも少量、飲んでいますが、自身の置かれている(置いている)立場を常に自己検証しながら、時には仕事をセルフ・コントロールして、仕事と家族との生活を送っています。無理しない、不必要に頑張らない、をモットーにして。
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玉川大学

2011-07-14 23:21:34 | つぶやき
 はじめて玉川大学に出かけました。小田急「玉川学園前」駅を降りと、そこはもう大学の敷地内。小田急線をはさんで丘陵地帯にキャンパスが広がっています。正門の警備員さんから入構許可証を貰って案内図を片手に目的の部署「通信教育部」へ。
 緩やかな上り坂。幼稚園から小中学校、高校、そして大学と緑の起伏に富んだ環境の中に建物が点在しています。それぞれしゃれた建物、広大なグランドと環境的には申し分なそう。
 教育博物館に立ち寄ってきました。藩校の時代から墨塗り教科書までの教育の歴史が資料展示されています。資料館の一角には、創立者の小原國芳さんの新教育運動、学校設立の理念なども掲示されています。
 特に興味深かったのは、朝鮮半島、台湾などの「植民地」での学校教育(皇民化教育、日本語教育など)の教科書など。貴重な資料も展示されていました。一方で、まだまだその実態はつかめていないそうです。
 資料室の方から親切な解説を受けました。行きは暑い日差しの中、帰りは木漏れ日の坂道を駅まで戻ってきました。
教育博物館からの道筋。大グランドと校舎。試験中なのか、下校する女子高校生の明るい軽やかな声が響いていました。
立派にすくっと立った樹木。ダイオウショウ。北アメリカ原産の松の木だそうです。名の如く「大王」。
三葉で大きな針のような葉。
創立当時の面影を残す「礼拝堂」。小高い丘の上にあります。中からは、パイプオルガンの演奏が聞こえてきました。
木立の中の「礼拝堂」
礼拝堂への小道。
咸宜園(かんぎえん)。江戸時代、広瀬淡窓によって豊後国日田郡堀田村(現大分県日田市)に創立された全寮制の私塾。「咸宜」とは「みなよろしい」の意味。武士だけでなく、どんな身分でも、男女を問わず受け入れるということでこう名づけられた、という。その「秋風庵」が再現されていました。静かな趣のたたずまい。一人の女子学生が突然部屋から出てきて、縁にたたずんだのには、ちょっとドキッ。

玉川大学
 1929年(昭和4年)、創立者小原國芳により「全人教育」を第一の教育信条に掲げて開校された玉川学園を母体とする。幼稚園から大学院まで。
 キャンパスは、東京都町田市玉川学園(キャンパスの7割程度)、神奈川県川崎市麻生区岡上(農学部)、横浜市青葉区奈良町(工学部、中・高)の3市にまたがり、敷地面積は59万m²。
 1950年(昭和25年)、通信教育部がスタート。当時全国の小学校に多くいた代用教員等の正規の教員免許を持たない現職教員に「小学校教員免許状」を取得可能とさせる全国初の課程として注目され、現在も多くの受講生がいます。

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梅雨明け10日

2011-07-11 22:03:11 | つぶやき
 東京地方も梅雨明け。ぎらぎらする太陽が容赦なく照らしています。昔から「梅雨明け10日」といって、梅雨明けから10日ほどはよい天気が続きます。以前ならこれがほぼ学校の夏休み入りの時期に重なって海山にと子供たちが大いにはしゃぐ季節。最近は、梅雨明けが早まってまだまだ学校の授業があって、子供たちも大変、汗びっしょりで重い鞄を背負っての通学です。
 明日はプール参観です。プールサイドも、めちゃくちゃ暑そうです。
都庁第二庁舎
暑さでゆがんでしまった?
新宿中央公園は緑の多い公園です。遠くに見えるのは、ワシントンホテル。
5時半過ぎのスカイツリー。まだまだこの時間でも、青空が広がっています。
アサヒビール本社の泡の部分に西に傾いた太陽が照りつけました。
 
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千川上水

2011-07-09 23:13:05 | 河川痕跡
 境橋(武蔵境駅の北西・都立武蔵高校から少し北の地点)で玉川上水から分岐して流れていた「千川上水」。都の清流復活事業で再び流れが蘇って、緑道の散策路。五日市街道に沿って緑と水の豊かな遊歩道の一部を歩きました。炎天下の中でしたが。境橋から武蔵野大学付近まで。上水の両側は交通量の激しい舗装道路ですが、水路は、木が生い茂り、土の道が続きます。途中、大きな交差点では渡るのがけっこう大変でしたが。

 千川上水は元禄9年(1696年)、玉川上水を現在の西東京、武蔵野両市境で分水したものです。北の石神井川と南の妙正寺川の分水界上をぬって練馬から板橋を抜け、巣鴨までを開渠(素掘り)とし、それから先を木樋(木管=土中埋設)で江戸までつないでいます。
 設計は水利の第一人者河村瑞賢が行い、施行請負は一般に多磨郡仙川村(現調布市仙川町)出身といわれる徳兵衛(一説に常陸の住人とも)、太兵衛の両名で、道奉行伊勢平八郎の監督の下に工事に当たりました。このとき、当初予定されていた幕府費用だけでは間に合わず、480両余を自前で出資したと伝えられています。
 こうした功により、のちに両名には千川の姓が与えられ、名字帯刀が許されることとなり、また併せて千川水路取締役を拝命して、上水の管理を任され、水使用料徴収の権利を得ました。
 千川上水は、はじめ小石川白山御殿、湯島聖堂、上野寛永寺および浅草寺への給水を主な目的とし、その周辺の武家屋敷や町家への飲料水にも利用されていました。宝永4年(1707年)には川沿いの村々から出された灌漑用水への利用願いが許可され、多磨郡6か村、豊島郡14か村に分水が引かれることになりました。
 その後、江戸への上水としては享保7年(1722年)に一度、さらに天明6年(1786年)に再度の廃止をみて、むしろ水田灌漑面に大きな役割を果たしながら幕末を迎えています。練馬区域では石神井川や中新井川沿いの水田に多大な恩恵を与えました。
 幕末から明治にかけて、千川上水の水は滝野川の反射炉(慶応元年着工、中断)や王子の抄紙会社(明治6年設立、のちの王子製紙)、板橋の火薬製造所(同6年、旧金沢藩敷地内)などの工業用水として利用され始めました。明治13年(1880年)には岩崎弥太郎(三菱の創始者)の立案で千川水道会社が設立されました。これは明治40年、東京市に近代水道が引かれるまで存続しました(同41年4月解散)。
 その後、千川上水の水は大蔵省や都水道局、あるいは六義園の池水などとして利用されていましたが、昭和43年(1968年)の都営地下鉄工事で六義園の水路が中断され、45年には都水道局が取水を中止、さらに46年には大蔵省が工業用水道に切り替えたため、事実上、千川上水の水利用の歴史に終止符が打たれました。
 (以上、練馬区のホームページより)
 
 こうみると、重要な水資源であったことが分かります。武蔵野台地を東に40㎞以上にわたって流れていたとは、まったく知りませんでした。今回、玉川上水との分岐点からほんの少しだけ歩いてみたにすぎません。
 千川上水は五日市街道の中央の緑地帯の中を流れています。入り口の石段の先には、ひっそりと「清流復活碑」(鈴木元都知事の書)がありました。緑道の中央に2mくらいの幅で千川上水が流れています。遊歩道はけっこう緑が豊かな灌木で覆われ(ケヤキや桜などの並木道)いて、今日のような焼けるような暑い日差しを感じさせないほど。
 井の頭通りがぶつかって暗渠に。交差点を過ぎると、再び中央緑地帯に入ります。柳橋交差点で武蔵境通りと交差し、武蔵野大学前まで緑の中の水辺歩きが続きます。この先、五日市街道の分岐道となっていますが、上水は真っ直ぐ東に流れて行きます。大学前は斜めに入る「鈴木街道」の入り口になっていて、その角地に大きな「文字庚申塔」が一基。説明板には、次のようなことが書かれています。
「天明4年(1784)9月、この大きな文字庚申塔は、上保谷新田の入口に建立されました。塔右側面の銘文中に「願主新田中」とあるのは、新田村の全戸によってこの庚申塔が造立されたことを意味します。塔正面の左脇に、他の庚申塔に例をみない「五穀成就」と彫られています。村中あげて穀物が実ることを庚申に祈った、その願いを読みとることができます。この塔造立の前年の天明3年は、浅間山の大噴火・洪水・冷害が重なって江戸時代最大の飢饉が始まった年であり、翌天明4年は関東各地にその影響が及びました。村の入口から飢饉が侵入しないようにと、それを防いでくれる庚申の強い霊力に祈願して建てたのが、この塔であったはずです。塔の下部には十万に通じる道しるべを銘文して、上保谷新田の地理的な位置を示し、上端に庚申の種子(ウン)、下端に三猿を刻んで庚申の像客の一部を表現しています。天明4年の原位置は、現在の場所とほぼ同じであり、塔の正面は東方を向いていました。」と。
 武蔵野大学前からずっと千川上水の緑地帯が続きますが、今日はこれまで。練馬区に入ってからもなかなか興趣のある「上水」道があるようです。また暗渠になったり、「清流」になったりと・・・。さらには、池袋線沿線、そして池袋、そのもっと先まで流れを辿ってみたいものです。
 写真は、境橋交差点。奥が玉川上水、手前から千川上水が始まります。
取水口近くの碑。
ここから始まります。
武蔵野大学付近。
両側は激しい車の通り。静寂な道が続きます。
「文字庚申塔」の下部。道しるべになっていますが、向きはかなり違っています。
武蔵野大学の交差点のたもとにある「供養塔」天保年間のもの。
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