おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「そして誰もいなくなった」、・・・第4弾。もっと早くから・・・

2017-09-29 21:59:30 | 平和

 都議選後の敗北ごたごた騒ぎの中、蓮舫さんの国籍問題でてんやわんやの民進党について投稿した記事の再掲。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 終わりのはじまり。またしても、「そして誰もいなくなった」。

 蓮舫氏の二重国籍問題 昨秋まで気づかず日本国籍選択を宣言

 民主党政権時代の党内混乱がアベ政権を生み、今日の政治情勢、政治不信を生んだことへの反省もないまま、またしても左右(というか無節操な彼我)の引っ張り合い。都議選に惨敗したとたんに、「二重国籍」問題を承知の上で自分たちで選んだ蓮舫さんを、今度は責め立てる。挙句の果てに。

 蓮舫さんも右往左往するばかりで指導性なし。

 野田さんはアベ自公内閣成立の戦犯なのに、相変わらずドジョウ顔。原発事故の菅は離党?

 こうして民進党は、瓦解する気配。

 さっさと自民党入りしたい面々。意地でも自民党に行けない連中は、アベ以上に改憲派で国民会議べったり、実は最右翼である「国民ファースト」になびき、左派は没落「社民党」化。

 ついに「そして誰もいなくなった」! 哀れ! 選挙互助会のなれの果て。「連合」も自民党支持に早晩変わりそうな気配。

 この国民不在のドタバタ劇。国民の政治不信、無関心をことさら強め、そして、選挙の投票率はますます下落、組織を持つところのみがほくそ笑む構造。

 こうしてアベはいなくなっても、親米「愛」国派、保守派はいよいよ安泰。

 以前、民主党の政権転落後の党内不信(責任なすりつけ)劇について、掲載した記事の一部。今回またまた載せます

実は、同じ内容で3回目。すべて民主党・民進党がらみ。)

『そして誰もいなくなった』(原題: 「Ten Little Niggers」 のちに改題「 And Then There Were None」)

          1939年に刊行されたアガサ・クリスティの代表的な長編推理小説。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ということで、4回目の同趣旨の投稿とあいなりました。相変わらずしょうもない連中ですね。

 アベさん、自民党が減っても改憲にはもってこいの形勢。

 鵺政党・公明党。本来なら定年制で引退するはずの太田を当選させるために今はじっとガマン、ガマン! 
 小池さんが太田の選挙区には候補者を出さない、という方針なのをいいことにして・・・。
 衆院選が終われば都議会でも「都民ファースト」とは袂を分かつにちがいない。
 公明党と支持団体創価学会にいいようにかき回される、クニもトも。
 いっそのこと、太田のところに「希望の党」から候補者を擁立することにしたら(ほのめかすだけでも)、はたして公明党はどう出るか?
 「希望」のゆきとどく・・・ということをスローガンに掲げたのはどの党でしたっけ?
 「反自民」「反民進」を旗印に立ち上げたもくろみは、早くも達成。「民進党」を見事に粉砕した。「反自民」は選挙対策のみ。いずれ親自民になりそう。
 右ウイングのみ肥大化していったい日本の未来は・・・。いよいよ「戦前」になりつつあるか。
 
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葛飾北斎の描いた風景をたどる。+α。隅田川沿い。その4。

2017-09-28 20:52:25 | 世間世界
                                          両国橋。
JR両国駅の南側を探訪します。⑤は、両国橋の東詰にあります。
「両国納涼一の橋弁天ー絵本隅田川両岸一覧ー」
 狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々で賑わう、昼間の両国橋の様子が描かれています。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や茶屋などが並んでいるのがわかります。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言えるでしょう。真ん中の上方に見える小さい橋が、今の竪川(両国一丁目と千歳一丁目)に架かる一之橋。森のあたりが一の橋弁天で、現在の江島杉山神社です。右の三角の建物は幕府の御船蔵です。

 もともと「両国広小路」は、「両国橋」の西たもとに設けられた広場をさし、現在の中央区東日本橋二丁目あたり。火除地(ひよけち)として扱われたため、常設の建物は作られなかった。
 江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出す。事態を重く見た老中・酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。木製の橋への類焼を防ぐため、火除地として広小路は作られた。地名としての「両国」は、隅田川西側の武蔵国側を多くは指し、対岸の(現在の両国である)旧下総国側(墨田区側)を「向両国(むこうりょうごく)」(東両国とも)と呼んだ。
 ・・・空き地はすぐに目的外使用が始まり、仮設の見世物小屋(ヒラキと呼んだ)(現在の相撲・飲食店含む)が立ち並び、「両国広小路」と「浅草寺裏」は、江戸一番の盛り場(歓楽街)として、江戸時代期から明治時代初期を通して繁盛した。将軍が鷹狩りに出るときなどは、両国の全ての見世物小屋がきれいに無くなって、本来の火除地の姿に戻った。江戸三大広小路のひとつにあげられる。この姿は江戸東京博物館のジオラマ模型展示で再現されている。
 木橋としての「両国橋」は1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。
 両国駅の開業や両国国技館の開館にともない、両国という地名は次第に東両国を指すようになっていった。1971年には住居表示にともない、中央区の日本橋両国は「東日本橋」と改められ、現在は中央区東日本橋二丁目となっている。一方、墨田区側はすでに1967年、東両国から両国へ改称されている。現在、両国橋西交差点(中央区)付近に、「両国広小路記念碑」が設けられている。
(以上、「Wikpedia」参照)
 

HPより)

注1:江戸三大広小路は「下谷(上野)広小路」「浅草広小路」「両国広小路」をさす。
注2:江戸時代の両国橋は現在の両国橋より50㍍ほど下流に架けられていた。

 両国橋の東詰の広場にはいくつかの碑と解説板があります。その一つ、句碑「日乃恩や忽ち 具(く)だく厚氷」。

 この句碑は、忠臣蔵四十七士の一人で、討ち入りの日を決定する重要な情報を入手したと言われる大高源五の句碑。源五は俳人でお茶も嗜むことから、吉良上野介義央の在宅の日の情報を、上野介のお茶の師匠でもある山田宗偏から入手しました。大高源五の俳句といわれる「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」を刻んだこの石碑は昭和3年に立てられました。

 大高源吾の句碑は旧東海道中・土山宿の先、間の宿であった猪鼻村にもありました。
「猪鼻村」解説板と句碑。
 いの花や 早稲のもまるる 山をろし 子葉

 大高源吾は俳人宝井其角とも交流がありました。俳号は「子葉」。
 討ち入りの前夜、煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していた源吾が両国橋のたもとで偶然其角と出会った際、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶をした源吾に対し、其角は餞に「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠みました。これに対し、源吾は「あした待たるるその宝船」と返し、仇討ち決行をほのめかしたという逸話が残されています。

 

もゝんじや」。

 ももんじ屋(ももんじや)またはももんじい屋とは、江戸時代の江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、その他、犬や狼に狐、猿、鶏、牛、馬など牛肉、馬肉等を肉食させたり、売っていた店のこと。表向きは肉食忌避があったから、これらを「薬喰い」と呼んだ。猪肉を山鯨(やまくじら)、鶏肉を柏(かしわ)、鹿肉を紅葉(もみじ)などと称した。猪肉を「牡丹」、鹿肉を「紅葉」と称するのは、花札の絵柄に由来する隠語の説もあるが、赤身と脂身の色から牡丹と言ったり、牡丹を模して盛り付けるからとも言われている。江戸時代では、猪をブタ、野猪をイノシシと読み混合していた。
 江戸では両国広小路、あるいは麹町にあった店が有名であった。獣肉を鍋物にしたり、鉄板で焼いたりし食べていたようで、近代のすき焼きや桜鍋の源流と言える。幕末には豚肉(猪肉)食が流行し、これを好んだ15代将軍・徳川慶喜は「豚将軍」「豚一殿」とあだ名された。また、新撰組でも豚肉を常食していた記録が残っている。これら肉食文化は明治初期の牛鍋の人気につながっていった。
 百獣屋の字をあてて「ももんじや」としているが、一方で関東地方で妖怪を意味する児童語のモモンジイに由来しており、江戸時代には尾のある獣や毛深い獣が嫌われてモモンジイと呼ばれたことから、それらの肉を扱う店も「ももんじ屋」と呼ばれるようになったという説がある。
 彦根藩では第3代藩主・井伊直澄のころ、反本丸(へいほんがん)と称して全国で唯一牛肉の味噌漬けが作られており、滋養をつける薬として全国に出回り、幕末まで幕府や他藩から要求が絶えなかったという。これは近江牛が名産となるはしりとなった。
(以上、「Wikipedia」参照。)

 右折して、「一之橋」方向へ向かいます。


「片葉の蘆」「駒留橋」「藤代町跡」解説板。前の二つは本所七不思議の一つにちなんだもの。

本所七不思議
 本所(東京都墨田区)に江戸時代ころから伝承される奇談・怪談。江戸時代の典型的な都市伝説の一つであり、古くから落語など噺のネタとして庶民の好奇心をくすぐり親しまれてきた。いわゆる「七不思議」の一種であるが、伝承によって登場する物語が一部異なっていることから8種類以上のエピソードが存在する。

・置行堀(おいてけぼり)
・送り提灯(おくりちょうちん)
・送り拍子木(おくりひょうしぎ)
・燈無蕎麦(あかりなしそば)別名「消えずの行灯」
・足洗邸(あしあらいやしき)
・片葉の葦(かたはのあし)
・落葉なき椎(おちばなきしい)
・狸囃子(たぬきばやし)別名「馬鹿囃子(ばかばやし)」
・津軽の太鼓(つがるのたいこ)

「赤穂浪士休息の地」。
 休息後、大名との無益な衝突を避けるため、旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。

「旧両国橋・広小路跡」。

1880年代。 2010年代。

「一之橋」から隅田川を望む。下は「竪(たて)川」。

「宮戸川長縄ー千絵の海ー」
 水が織り成す造形美と漁師達を描いた「千絵の海」シリーズの一枚。浜町河岸から見た宮戸川の漁風景と、両国界隈の景観が描かれています。宮戸川とは、江戸時代の隅田川下流の呼称の一つ。長縄は、一本の幹糸から多くの釣糸を垂らす釣法のことです。奥の建物は幕府の軍船を係留する「御船蔵(おふなぐら)」で、今の千歳一丁目から新大橋にかけての一帯にありました。4,800坪の土地に14棟の船蔵が並び、徳川家光が新造した軍船形式の御座船「安宅丸(あたけまる)」も係留されていたことから、この一帯は「御船蔵安宅町」と呼ばれていました。

     
     
1880年代                         2010年代

「一之橋」から両国駅方向を望む。

「一之橋」。
 ・・・万治2年(1659)、竪川の開削と同時に設けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ13間、幅2間半ほどありました。・・・一之橋は赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。

 「二之橋」方向へ進みます。その途中にあったのが「出羽海部屋」。
 
出羽海部屋
 日本相撲協会所属の相撲部屋。現存する部屋では最多の9人の横綱を育てたほか、3人が協会理事長を務めるなど相撲界随一の名門とされている。11の相撲部屋からなる出羽海一門の本家。
 初代出羽ノ海は寛政の前頭筆頭・出羽海運右エ門である。
 5代は大錦・栃木山・常ノ花の3横綱に對馬洋・九州山・大ノ里・常陸岩の4大関などといった数多くの関取を育て上げた。1917年(大正6年)1月場所から1921年(大正10年)5月場所にかけては部屋所属の力士が10場所連続して優勝を果たし(栃木山5回・大錦4回・常ノ花1回)、この記録は現在でも破られていない。
 1966年8月の土俵開きと、現存する相撲部屋の中では最も築年数が古い。
 
その先には「塩原橋」。
 ・・・橋名は江戸時代の末「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と謳われた塩原太助がこの辺りに住んでいたことから、それに因んで付けられたものです。
 太助は上州(群馬県)沼田から江戸に出て薪炭商人として成功した人ですが、その立志伝は明治の初め、南二葉町(亀沢3丁目)に住んでいた三遊亭円朝によって人情話に仕立てられ、その後浪花節や演劇にもなりました。歌舞伎の「塩原太助一代記」は明治25年に初演され、愛馬の別れで大変な評判をとったそうです。・・・


「本所立川ー富嶽三十六景ー」

 富士山を描いた「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。北斎が70歳頃の版行です。江戸時代、竪川の北側(旧相生町一丁目〜二丁目付近)には、その水運を活かした材木問屋が密集していました。北斎はそれら問屋と職人たち、木材の間から覗く富士山を描きました。積み重ねられた材木の間から見える富士は、遠近法を得意とする北斎らしい構図です。右下の材木置き場には「西村置場」、その左右の材木には「馬喰丁弐丁目」「永寿堂仕入」などの墨書があり、版元名とその場所、本シリーズ(「冨嶽三十六景」)の宣伝がさりげなく入っています。

「竪川」。

「二之橋」。
 ・・・池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、二之橋は「二ツ目橋」という名で数多く登場します。鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店「笹や」へ行くにも。大川から舟で乗り付けて軍鶏なべ屋「五鉄」に立ち寄るにもこの橋は必ず登場し、まさに欠かせない場所となっています。
「朝日新聞」9/28夕刊。

 現在でも竪(立)川に架かる橋によって、「清澄通り」(二之橋)、言問橋で水戸街道につながる「三ツ目通り」(三之橋)、錦糸町・押上に通じる「四ツ目通り」(四之橋)、亀戸・「明治通り」の「五之橋通り」(五之橋)と南北に通じる道路が残っています。

 そしておしまいは「本所松坂公園」。おなじみ、吉良邸跡です。


「新板浮絵忠臣蔵第十一段目」

 「元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にも盛んに取り入れられた「仮名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への赤穂浪士討ち入りの場面が浮絵の様式で描かれており、軒先や建物のラインが奥行を感じさせます。赤穂浪士に囲まれて孤軍奮闘しているのは、吉良側の剣豪、小林平八郎と思われます。この夜吉良上野介を護って討ち死にした小林平八郎は、自分の曾祖父であると、北斎自ら語っていたそうです。


                  

 こうして駆け足で回ってみても見所がたくさん。江戸時代の風情を偲びながら街中を巡るのも乙なものです。
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葛飾北斎の描いた風景をたどる。+α。隅田川沿い。その3。

2017-09-27 21:09:39 | 世間世界
                                 「蔵前橋」を望む。

 続いて第二弾。吾妻橋から下流の探索。北斎画が①から⑧まであるようですが。

「ライオン」本社ビルの先、高速道路下に①があります。
  
「御厩川岸より両国橋夕陽見ー富嶽三十六景ー」
 富士山を描いた「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。夕陽に浮かぶ富士山を中心に、船の往来でにぎわう両国橋や、様々な客でひしめきあう御厩川岸の渡し船の様子が描かれています。構図上の特徴は、船頭の頭を中心点として、橋の曲線と船の弧が点対称になっている点です。また、活き活きとした波の描写には、北斎らしさが表れていると言えるでしょう。御厩川岸(おんまやかし)の名は、江戸時代、西岸の浅草に幕府の馬小屋である御厩があったことに由来します。現在の墨田区本所1丁目あたりから台東区蔵前2丁目あたりを結んでいた渡し場がありました。
    
    
1880年代                        2010年代

「蔵前橋」をくぐり抜けた土手沿いに②「首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉ー絵本隅田川両岸一覧ー」

 隅田川の一年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。隅田川の対岸から描かれています。釣り舟の向こう、左手に描かれているのが首尾の松です。首尾の松は蔵前にずっと並ぶ米蔵の真ん中あたりにあった松で、丁度よい目印になっており、この辺は釣りの名所でした。 釣り糸の向こう、右手の森が肥前平戸新田藩松浦家の上屋敷です。この上屋敷には本所七不思議の一つに数えられる「落ち葉なしの椎」があったことから、椎の木屋敷と呼ばれるようになりました。

    1880年代

    2010年代


 土手下を見ると、今まで見なかった建物。「刀剣博物館」とあります。建物の撮影をしているスタッフに聞いてみると、8月に完成し、来年1月に開館とのこと。


刀剣博物館
 公益財団法人日本美術刀剣保存協会により運営され、美術刀剣類の保存、展示する。また、同会の事務所が博物館の建物内に所在する。
 刀剣博物館は、日本国内でも数少ない日本刀専門の博物館である。刀剣愛好家より寄贈された作品や、愛好家より保管と管理を依託されている刀剣・刀装・刀装具類を収蔵・公開する。渋谷区代々木四丁目にあった旧刀剣博物館は、2017年(平成29年)3月末に閉館し、新刀剣博物館は2018年1月開館にむけ準備中。
 刀剣博物館の収蔵品は、刀剣、刀装、刀装具、甲冑、金工資料など約190点で、刀剣類の中には国宝、重要文化財、重要美術品など、国の指定・認定を受けた物件があり、平安・鎌倉・南北朝期の古名作を中心に、各年代・流派の作品が収蔵され、国宝や重要文化財に指定された刀剣などを所有している。(以上、「Wikipedia」参照。)

 たしかここは、かつて天井のドーム型が特徴だった「両国公会堂」があったところ。ずっと昔、文化祭の発表会場や展示会場として何回か利用させてもらいました。なかなかすてきな建物でした。近年、建物内外の痛みがひどくて、取り壊し計画を風聞したことはありましたが、こうして敷地周囲を含め、全面的に取り壊されていたのです。「歴史的建造物」として保存ができなかったようです。
 それにしても、墨田区は各所にある小さな博物館をはじめ、「江戸博」「北斎美術館」など積極的に博物館を誘致、建設する区です。
        
                      (「関根要太郎研究室@はこだて」HPより拝借)

 次は「旧安田庭園」の門前にあります。③「駒止石ー馬尽ー」

 文政時代(1818-1830)の正月の配り物として摺られた「馬尽」シリーズの一枚です。手前側に駒止石、一番奥には雪を頂いた富士山が描かれています。寛永8(1631)年の初夏、暴風雨で隅田川が氾濫し、あたり一帯が大洪水に見舞われた際、三代将軍家光が本所地区の被害状況調査を命じたところ、旗本阿部豊後守忠秋ただ一人がその濁流を馬上巧みに渡河し忠誠心を示したという逸話があり、その際に馬を繋いだのが「駒止石」です。当時は椎の木屋敷の前の隅田川岸にありましたが、現在は旧安田庭園内で見ることができます。

「旧安田庭園」。 

                             
 
 時間がなくて見学できず。そこで、

 もと常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688〜1703)に築造されたと伝えられる。かつては隅田川の水を引いた汐入回遊式庭園として整備される。明治維新後は、旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、次いで安田善次郎氏の所有となりました。氏の没後大正11年東京市に寄附されました。関東大震災後、太平洋戦争を経て東京都から墨田区に移管され、全面的改修を行い、復元、開園しています。現在は、ポンプにて人工的に潮入が再現されている。
(以上、HPより)

④は「両国国技館」前にあります。

「新柳橋の 御竹蔵の虹ー絵本隅田川両岸一覧ー」。
 狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が、隅田川の対岸から描かれています。白雨というのは天気雨のことです。左奥の橋は御蔵橋で、幕府の材木蔵であった「御竹蔵」の入堀に架かっていました。奥一帯の「御竹蔵」には当初は建築用の資材が保管されていましたが、現在の猿江公園の材木蔵に移されるようになると米蔵として使用され、本所御米蔵と称されました。その広大な敷地は、現在の国技館、江戸東京博物館などがあたります。

 
1880年代                        2010年代



1880年代。→が「御蔵橋」。



2010年代

関取衆の幟が掲げられ、触れ太鼓の音が聞こえてきそう。


南側はJR両国駅旧駅舎。

国技館とスカイツリー。

「忠臣蔵 俵屋玄蕃の道場跡」。
 「宝蔵院流の槍の名手」とあるが、忠臣蔵に登場する架空の人物で、道場がこの辺りにあったとされている。屋台の夜なき蕎麦屋「当たり屋十助」に姿を変えて吉良邸を探っていた赤穂浪士・杉野十平次の前で槍の技を披露した。

 両国駅西口、国技館通りの両脇の歩道にはブロンズ像の力士像が設置され、台座には歴代の横綱の 実物大の手形があります。
                 
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葛飾北斎の描いた風景をたどる。+α。隅田川沿い。その2。

2017-09-25 21:10:43 | 世間世界
                                           上流からスカイツリーを望む。
 桜橋から上流に向かいます。首都高の下に「銅像堀」の名が。



                    「銅像堀自転車集積所」。

「銅像堀公園」はけっこう敷地が広いようで、少年野球場など、かつては屋内プール場(現在は駐車場)をまとめて称しています。「隅田川花火」見物にはおすすめのスポットのようです。「銅像堀」のいわれとなると、?

 さて、次の北斎の版画を探してそのまま隅田川沿いのジョギング道路を北上しましたが、いっこうに見当たりません。そうこうしているちに旧綾瀬川との合流地点まで来てしまいました。
対岸は「伊沢造船所」。右が「綾瀬橋」。

「墨堤通り」上の「綾瀬橋」。渡ると、足立区へ。


 どうも残りの案内板は、直接「隅田川」土手上ではないようです。そこで、桜橋まで引き返し、墨堤通りを進むことに。

旧墨堤の道」。
 隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは寛文年間(1661~73)。徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿(現堤通2丁目白鬚公園辺り)から白鬚神社の北側辺りまででした。江戸時代中期には8代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりのために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島2丁目、言問通り)あで延ばして人々に地固めをさせました。以来、堤は多くの江戸市民で賑わう花見の名所、憩いの場所へとなっていきました。道幅は広く、道の両側には、見事な桜の並木が続いていました。
 白鬚神社脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、今は姿を消してしまった、旧墨堤の名残です。春は花見、正月は七福神めぐりの人々で特ににぎわいました。
 関東大震災や東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備されました。現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、この場所と「墨堤植桜之碑」(向島5丁目4番先)近くの湾曲部の2カ所だけとなっています。

 突き当たりが「東向島白鬚神社」。

  
  
 1880年代                     2010年代
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

もう1カ所の「墨堤植桜之碑」。

「首都高入口」のところ。
                    「言問団子」、「長命寺桜もち」のお店がある付近。

  
(「同」より。)

旧墨堤の入口付近にある「子育て地蔵尊」。左が「地蔵坂通り」の道になっています。その角には、「日本一のきびだんご」のお店。      
 


♪桃太郎さん桃太郎さん、おこしにつけたきびだんご♪
 桃太郎が鬼退治の時に携えていたきびだんごは、戦争前には子供の大人気のおやつでした。しかし今では、下町へ屋台でやって来るきびだんご屋に群がる子供の光景を見ることもありません。
 この懐かしのおやつを再現したのが「地蔵坂」バス停近くの吉備子屋。昔話『桃太郎』を読んだ息子の「きびだんごが食べたい」という願いを叶えるために作り始めたものです。
 茶屋風の店内に置かれたリアカーで、串に刺さったビー玉大の団子が作られています。軽くゆでられた団子にはきな粉がたっぷりとかかっており、思いのほかさっぱりとした後味で飽きがきません。これも栄養価の高いタカきびで作られた団子がきな粉とマッチして程よい甘さを作り出しているためでしょう。また、添加物が一切使われていないのもおいしさの秘訣です。
 ・・・「渡る世間は鬼ばかり」というドラマがありますが、どんな人生も度々起こる鬼のような出来事を避けて通ることはできません。
 そんな出来事にぶつかったときには、きびだんごの力を借りよう!きっと桃太郎のように鬼にうち勝つ勇気と正義が沸いてきます!!
                                          代表 : 福永 勝
HPより)

旧墨堤通りの途中にありました! 「⑬白鬚の翟松 今戸の夕烟」 
 秋の夕暮れが広がる画面の左では、今戸(現在の台東区今戸)の瓦焼きの真っ最中で川縁でナニやら言葉を交わしながら瓦を運ぶ二人と瓦を詰んだ舟描かれています。画面の奥には名勝地と知られていた白鬚明神社(現在の白鬚神社)の鎮守の社を配し、また右側に配された白鷺がアクセントとなっています。葛飾北斎が40~47歳頃の作品です。

現墨堤通りから旧通りを望む。

 その先、白鬚橋東詰め交差点を右折、「明治通り」から少し入った「法泉寺」門前に、
「⑫寺島法泉寺詣」。
 文政年間(1818年~30年)の中頃の摺物(すりもの)です。摺物とは狂歌師などが知り合いに配るために絵師に注文して作ったプライベートな版画で、売り物とは違い、採算を度外視した豪華な作品が多いのが特徴です。葛飾北斎が為一(いいつ)と名乗っていた60~70歳代中頃の作品で、墨田区東向島の法泉寺を訪れる参詣客の様子が描かれています。門前の右の石柱に「新田義貞公守本尊髻(もとどり)不動明王嶌法泉寺」とあります。現在のところ、江戸時代の法泉寺に関する版画はこの作品だけであり、墨田区所蔵のピーター・モースコレクション以外では確認されていない唯一の作品で、墨田区指定有形文化財となっています。

次は、「隅田川神社」門前にあります。「⑪雪月花 隅田」。
 雪景色の隅田過半を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830)年頃の作品です。 

⑩は梅若伝説で名高い「木母寺」脇にあります。

 「木母(もくぼ)寺」は寺伝によれば、976年(貞元元年)忠円という僧が、京都から人買いによって連れてこられてこの地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。
 1590年(天正18年)に、徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った1607年(慶長12年)、近衛信尹によって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた。
 明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈によりいったん廃寺となったが、1888年(明治21年)に再興された。その後、白鬚防災団地が建設されるにあたり、現在の場所に移転した。(以上、「Wikipedia」参照。)

「⑩梅若の秋月―風流隅田川八景―」。
 「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」との辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲睦まじく舟遊びをしている姿で描かれています。文化中期(1804~18年)頃の作品です。

 「隅田川」沿いの最後の絵は、鐘ヶ淵陸橋のたもとにあります。
「⑨隅田川関屋の里―富嶽三十六景―」。
 葛飾北斎が72歳頃に版行した代表作「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。現在の墨田区堤通2丁目から「足立区千住曙町、千住関屋町あたりが描かれています。画面には高札以外の家も見えず草原と田んぼが広がり、手前から奥へ蛇行して伸びる土手と存在感のある松、朝焼けの富士山が見え早朝の中、疾走する3騎の人馬は躍動感に溢れている印象的な作品です。武士たちの衣装、馬体、馬具の細部に至るまで明るい色使いが施されています。天保2(1831)年頃の作品です。

 こうして隅田川沿いにある北斎の案内板などをクリアし、戻ることに。高層住宅が広くなった「墨堤通り」沿いに立ち並ぶその一角、歩道脇に立っているのが「榎本武揚」の巨大像。もともとは「隅田川神社」境内にあったものですが、高層住宅建設時に神社は隅田川沿いに移転し、この像が遺されたようです。
 
榎本武揚
 榎本武揚は、天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所(昌平黌)で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の地知識が技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の開陽丸を回送し帰国しました。
 武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制転換期を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の闘いとなった函館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年(1869)降伏しました。
 その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
 明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら、逓信大臣に就任以降、文部、外務、農商務大臣をなどの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役回りを積極的に引き受けました。
 晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。

 さらにそのそばには「梅若塚」碑。



                  解説板。
梅若塚
 梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川に吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。
 木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた墨田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚防災団地建設に伴い現在地に移転しています、
 平成24年3月         東京都教育委員会
 
                           

 こうして一巡してきました。今度は両国駅周辺を探索してみます。
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葛飾北斎の描いた風景をたどる。+α。隅田川沿い。その1。

2017-09-22 21:47:38 | 世間世界
 自転車で本所吾妻橋まで出かけ、その帰り道、隅田川沿いの土手道・墨堤通りを走っていると、最近設置された解説板が目につきました。葛飾北斎の描いた風景。さらに他にも記念碑が。さすが北斎の地元・墨田。力の入れ方が違います。
 まだ陽も高いので、さっそく上流に向けて走ってみました。
「⑯大川橋の月 小梅の泊舩(船)」。


 隅田川の1年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』は全3巻25作品で、隅田川両岸の様子を中心に高輪から吉原までを描いたものです。中巻に収められたこの作品は大川橋(現在の吾妻橋)のあたりが描かれており、現在の墨田区役所はこの絵の中では大川橋の真上にあたります。大川橋の左の小さな橋が北十間川に架かる枕橋です。画面の手前には御休處でくつろぐ人たち。タライを回して子どもたちと戯れる人、そして茶店に集う人々の活き活きとした様子が描かれています。また橋の上やたもとにはたくさんの人たちが往来し、当時の賑わいを知ることができます。

 ここから上流にかけて⑯~⑨。さらに総武線を挟んだ両国を中心に8ヶ所あるようです。
            

 その脇には新しい記念碑が。
 

隅田川ボート記念碑の除幕式を開催
オアズパーソン有志が総力をあげて取り組んできた「隅田川ボート記念碑」が 全国の大学ボート部OB会、東京のボート団体、二つの高校ボート部OB会、国土交通省下水道部、日本下水道協会、墨田区などの協力を得て このほど完成し、その除幕式が2016(平成28)年9月3日(土)に隅田川の墨堤で盛大に催されました(主催:ボート記念碑建設委員会)。
明治天皇海軍漕艇天覧記念碑の横に設置。

「明治天皇海軍漕艇展覧玉座趾」の碑。

                    
              
この記念碑は墨田区の協力(向島1~5丁目の地元町内会の同意もいただき)によって、明治天皇海軍漕艇天覧記念跡地の横に設置されました。 素材は御影石で、大きさは縦180cm×横110cm×厚さ20cm。表面には「漕」の文字、「隅田川とボートのつながり」、ボート記念碑建設委員会・半藤一利会長(作家、東京大OB)の碑文が、 裏面には1954(昭和29)年9月19日に墨田川に英国からケンブリッジ大学を招いて行われた「朝日招待レガッタ」の光景とこの記念碑建設に対する協賛団体名が刻まれています。
天候に恵まれた式典当日、関係者約200人が見守る中で 半藤会長、墨田区・山本亨区長、日本ボート協会・木村新理事長、国土交通省下水道事業課・加藤裕之課長、によって除幕されました。 除幕後、半藤会長からは記念碑の寄贈目録書が、山本区長からは感謝状が互いに手渡されました。
記念碑横のステンレス製歴史年表板。「夏目漱石も漕ぎ、福沢諭吉も漕ぎ、レガッタは『春のうららの隅田川』と瀧廉太郎の『花』にも歌われボートは隅田川の華であった」の書き出しで始まる。裏面には当時の艇庫の位置を示した墨堤(隅田川堤)の地図が記されている。
(以上の文章は、HPより引用。)

 ここに登場する「歴史探偵家」半藤さんは、大学時代、ボートに明け暮れていたとのこと。



                                     

「艇庫とレガッタ」。

さらに進みます。隅田公園の変遷など解説板が随所に設置されています。また、観光案内板、史跡解説なども充実しています。
「江戸時代の墨堤」

 

 「隅田公園」は、1923年に発生した関東大震災により壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、浜町公園(中央区)、錦糸公園(墨田区)と並んで計画・整備されました。隅田川の東岸に位置する公園は元、水戸徳川家の屋敷跡で、邸内の池等、遺構を利用して造られています。
 また、約1キロに渡る隅田川両岸の桜並木は、八代将軍徳川吉宗の命により植えられました。江戸時代から花見シーズンには多くの出店が列び、賑わっていました。隅田公園内には約700本の桜があり、日本さくら名所100選に選定されていて、毎年さくらまつりが開催されます。

こういう解説板も。「鬼平情景」。
 みめぐりの土手
 「大川の隠居」に登場します。大川(隅田川)の土手のうち三囲神社の鳥居の貫から上が川面から見える辺りを指したようです。作品名になった大鯉が現れる直前の場面で、舟から暮色に沈む風景を描写しています。土手の奥には長命寺、寺嶋のくろぐろとした木立が望まれ、目を転ずると浅草寺の大屋根が月光をうけている。概ねこのような内容ですが、両岸の寺社の位置関係がよく分かります。
 竹屋の渡しで結ばれたこの流域からは鬼平犯科帳には三囲神社、対岸の待乳山聖天をはじめ料亭、船宿が多く登場します。「大川の隠居」では平蔵が友五郎を誘って、山谷堀の今戸橋近くの船宿〔嶋や〕に上がります。杯を交わしながら、平蔵が亡父遺愛の銀煙管に煙草を詰めるところで実に小気味のよい結末となります。
 ※対岸(台東区側)にある「竹屋の渡し」跡碑。

説明板。

「竹屋の渡し」跡付近からの「スカイツリー」。
竹屋の渡し
 「向島の渡し」とも称される。待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来する。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島・三囲(みめぐり)神社を結んでいた。付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。文政年間(1818年 - )頃には運行されており、1933年(昭和8年)の言問橋架橋前後に廃された。

「⑮新板浮絵 三囲牛御前両社之図」。
北斎50歳頃の作品とされています。「牛御前」は現牛嶋神社。

桜橋。

下流を望む。

桜橋とポトマック帰りの桜。



                     
石造墨堤永代常夜燈
 石造墨堤永代常夜燈は、高さ5メートルを超え、琴柱状の脚が特徴的です。天辺の宝珠部分には牛嶋神社の社紋があり、基台上段には同神社の地位を表す「本所惣鎮守」の銘が彫刻されています。また、石組基壇には「永代常夜燈」の銘と「石工宮本平八」の名前を刻んだ石製プレートがはめ込まれています。
 東京府文書によれば、この常夜燈は、江戸近郊の名所の演出にあずかってきた牛嶋神社の氏子17名、具体的には植半や八百松、武蔵屋など有名料亭の主人たちの発意によって奉納されたようです。明治4年(1871)の牛嶋神社の臨時祭に併せて奉納されたもので、元来は墨堤から牛嶋神社旧地(弘福寺西隣)へ下りる坂の頂にありました。
 設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、常夜燈の火が貴重な明かりとして利用されたことがうかがわれます。発起人17名の東京府へ提出した設置許可申請書にも、この付近を通行する人々の役にも立つはずだとの思いがしたためられています。
 この常夜燈は、設置以来、墨堤を代表する風物詩の一つとして絵画にも描かれるなどしてきました。平成28年7月21日、墨田区市営有形文化財に指定されました。

平成29年2月        墨田区教育委員会

              当時の常夜燈付近の様子と「竹屋の渡し」。

「⑭須佐之男命厄神退治之図」。
葛飾北斎晩年期の傑作といわれている。縦1.2㍍余、横2.8㍍に及ぶ大きな板絵です。
北斎は弘化2(1845)年頃、牛嶋神社(現在向島1丁目)付近に住んでいたと伝えられ、この板絵を奉納しました。・・・画面右下には「前北斎卍筆 齢八十七歳」の落款があります。残念ながら大正12(1923)年、関東大震災で消失してしまいましたが、現在は原寸大の復元パネルが牛嶋神社の社殿に飾られています。
                            
 
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船橋。けっこう深みのある街並み。垣間見ただけですが、・・・。

2017-09-13 20:53:51 | 歴史・痕跡
 船橋は京成からJRに乗り換える時くらいしか降りたことがありません。街を歩くことは今まで、皆無。
 ちょっと用事ができて、そこまでの道すがら、「船橋発祥」の「海老川」付近を。


                  

その昔、市内を流れる「海老川」は、現在より川幅が広く、水量も多かったため、橋を渡すのが困難だったそうです。そこで、川に小さな舟を数珠つなぎに並べて上に板を渡し、橋の代わりにしたことから「船橋」という名がつきました。伝説では日本武尊が東征の折、海老川に船を並べ、その上に板を渡し橋を造ったといいます。
 現在は陸地ですが、「夏見干潟」と呼ばれる大きな入り江があり、湊として栄えていました。船橋の海は江戸時代、将軍家に新鮮な魚を献上する「御菜ケ浦(おさいがうら)」と呼ばれ、漁師町は大きな力をもって発展してきました。現・本町2~3丁目一帯の旧漁師町には、舟溜りの「舟町(ふなまち)」、寺が多い「寺町」、納屋が置かれていた「納谷(なや)」等の地名がありました。 江戸時代には、海老川を挟んで東側では5の日、西側では9の日に市が開かれたことから、それぞれ、五日市村(現宮本)、九日市村(現本町・湊町)と呼ばれていました。この二つに海神村(わたつみむら・現在はかいじんと読む)を加えたところを総称して、船橋村とか、船橋宿と言われていました。
 「海神」という地名の起こりは、日本武尊がこの地に上陸して入日(いりび)神社に神鏡を祀り、海の神として崇めたことにちなんでいます。
 「船橋大神宮」の北側の坂「宮坂」は東金街道の起点ですが、明治元年の戊辰戦争では激戦地となりました。

 江戸時代には房総往還東金御成街道佐倉街道などの主要街道沿いの地域は宿場町として栄えました。今でもそうした関連の古い商家や史跡が残っています。

房総往還
 船橋大神宮下で成田街道と分かれ、江戸湾東岸(内房総)に沿って房総半島の南端館山に至る房総半島の主要街道で、房総諸藩の参勤交代路であり、また近世では外国船に対する江戸内湾の警護のために重要な役割を果たしてきた。「上総道」とも呼ばれた。


東金御成街道
 九十九里方面での鷹狩のために徳川家康が土井利勝に命じて、慶長19年正月から数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した道路。船橋~東金間約37キロメートルをほぼ一直線に結んでいた。


佐倉街道
 江戸時代の脇街道の一つで、佐倉城を終点とするもの。大別して2つのものが存在するが、ここでは、水戸街道・新宿の追分~佐倉を結ぶ「水戸佐倉道」をさす。この街道を経由して成田山新勝寺へ向かう成田参詣が隆盛するに従い、文化年間頃より「成田道」「成田街道」という愛称で呼ばれるようになった。


千葉県内の古街道一覧。この「佐倉(街)道」は千葉から。

 
 
               (「歴史的農業環境閲覧システム」より)
→が海老川に架かる「船橋」。船橋湊(港)方面の発展のようすが分かります。右の駅は京成線「大神宮下」駅。下は「京葉道路」



「明治天皇行在所跡」碑。
 明治天皇の最初のご来県は、明治6年(1873)4月29日から5月1日までで、近衛兵の演習をご覧になるために大和田原へお出ましのときです。
 この第1日目に昼食をとられたのが、当時船橋町九日市の旅館業桜屋、山口丈吉宅(現在の千葉銀行船橋支店の位置)です。この後も山口宅をしばしばご利用になり、通算して宿泊10回、昼食5回、小休憩2回におよび、千葉県では最も多く立ち寄られた場所でした。

 道路の左右に古い商家が二軒。
「廣瀬直船堂」。和菓子屋さん。
 大正7年に建造された木造二階建切妻造瓦葺で、軒を張り出した出桁造の建物。耐火中高層建築物化が進んでいる中で、宿場町であった船橋の面影を今もなお残している建造物。「今回指定されたことによって、お店を守って頂ける、また宣伝効果にもなりお客様の層が増えうれしい」と廣瀬太一さん。「戦争で車や食料等を軍に全て持っていかれ、原材料がない状態で再スタートしたため、お金がなく建替えができませんでした。しかし、このままのほうが廣瀬直船堂を見て懐かしいと思っていただけたり、前に船橋に住んでいた方が来店した時に昔話をしていただいたりしてうれしい」とも。
 本町通り沿いの家屋は、昭和30年代後半から耐火中高層建築物化が進んだが、廣瀬直船堂は建て替えをせずに建築当時の姿を今に伝えている。

                           

向かい側にある「森田呉服店」。
 創業140年。太宰治が暮らした街、船橋の和装専門店です。リニューアルしてモダンな雰囲気を増した店内には、着物・生地・手拭・和装小物まで豊富に取り揃えております。特に梨園染の江戸手拭は300柄以上の品揃え。
                           

《補足》太宰治と船橋
 昭和の日本を代表する小説家、太宰治。青森県北津軽郡金木村(現:五所川原市)に生まれ、『富嶽百景』『走れメロス』『津軽』『斜陽』『人間失格』など数々の名作を残すも、昭和23年に北多摩郡三鷹町(現:三鷹市)の玉川上水に入水し、39歳で早世しました。
・・・
 大地主の家に生まれながら、故郷の津軽を離れ、東京近辺で住まいを転々とし、短い一生を駆け抜けた太宰。
そんな彼が、自身の回想記『十五年間(昭和21年)』の中で、「最も愛着が深かった」と述べているまちが、船橋です。
 盲腸炎をこじらせ腹膜炎を起こし、鎮痛剤パビナールによる中毒にもなってしまった太宰が、療養のために東京杉並から船橋へ転居したのは、昭和10年7月1日、26歳のときでした。太宰はここで内縁の妻であった“初代(はつよ)”とともに、1年3カ月の時を過ごしました。
 短い滞在期間でしたが、太宰はここで濃密な時間を過ごし、ゆかりの場所が現在に伝えられています。
太宰ファン必見の場所の数々をご紹介します。

 太宰の旧居は千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿一九二八番地にあった新築の借家でした。現在の住所では「船橋市宮本1丁目」。船橋駅から歩いて10分もかからない位置です。
 現在、旧居跡には別の住宅が建っています。船橋駅前の喧騒を知る人からは意外に映るほど閑静な、細い路地の入り組んだ住宅街。車通りはほとんどありません。
近くには、海老川が今も静かに流れています。

 太宰は船橋の家に住み始めてほどなく、近所に住む人から“夾竹桃”をもらい、庭に植えたそうです。故郷の津軽では珍しかった夾竹桃。後日、自宅を引き払うときも、この夾竹桃への愛着を口にし、涙したといいます。
『めくら草紙』(昭和11年)より
《私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣の庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。欲しいと思つた。私は家人に言ひつけて、どれでもいいから一本、ゆづつて下さるよう、お隣へたのみに行かせた。》
 太宰がお隣から譲り受けて自宅の庭に植えたとされる夾竹桃は、昭和58年に中央公民館前の広場に移植され、現在でもその姿を見ることができます。また、近くには文学碑が建立されています。

 太宰は船橋で、『ダス・ゲマイネ』『地球図』『めくら草紙』『虚構の春』『狂言の神』などの作品を執筆したほか、最初の短編集『晩年』を発表しています。
これらの実績だけ見ると、さぞかし充実した創作活動をしていたのでは……と受け取れますが、実際には苦難の連続でした。
 太宰が船橋に住み始めた翌月の昭和10年8月、第1回芥川賞の発表がありました。太宰は候補に残ったものの、落選(受賞作は石川達三「蒼氓」)。文壇に認められたいという思い、借金だらけの生活を好転させなければという焦り……太宰は強く受賞を望んでいただけに、その落胆は大きかったことでしょう。選考委員だった川端康成に対し、怒りを露わにした文章を発表したことは有名です。また、同じく選考委員であった佐藤春夫に対しては、第2回の受賞を懇願する書簡を送っています。
 そんな願いもむなしく、第2回芥川賞の選考結果は「受賞者なし」。今でこそ抜群の知名度を誇る人気作家の太宰ですが、最後まで、芥川賞を受賞する夢が叶うことはありませんでした。

 船橋に滞在して約1年が経過した昭和11年6月、太宰は最初の短編集『晩年』を砂子屋書房から刊行します。太宰にとって初めての単行本でありながら、『晩年』というタイトル。若くして、死を強く意識していた太宰ならではといえます。鎮痛剤中毒からの療養のため船橋に引っ越してきたはずが、症状は改善せず、健康状態は不良でした。
 鎮痛剤パビナールによる中毒が深まる太宰を救おうと、家族や知人は入院を勧めます。昭和11年10月13日、井伏鱒二の説得により、太宰は東京板橋の武蔵野病院に入院し、船橋の家を引き払いました。病に打ち克つことができず、流行作家にもなれなかった船橋時代。それでも太宰は、のちの作品でこのように述べています。

『十五年間』(昭和21年)より
《私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった》
《どうしてもその家から引き上げなければならなくなつた日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植ゑたのだ、庭の青桐も僕が植ゑたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れてゐない》

 太宰がなぜ、船橋のことを「最も愛着が深かった」と述べたのか、今となっては知る由もありません。太宰が船橋を去ってから、約80年もの月日が経っています。
 ただ、今も船橋には太宰ゆかりの場所や、太宰が暮らした昭和初期の雰囲気を感じられる場所が多く残っています。
 長い時間の隔たりはあるけれど、同じ場所に立って、歩いてみると……太宰が暮らした1年3カ月が、おぼろげながら見えてくるかもしれません。

 (以上HPより)


これも立派な「島村写真館」。
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下栗原~石和~甲府。その4。(「甲州街道」をゆく。第9日目。)

2017-09-06 19:23:50 | 甲州街道

しばらく進むと右手に「日本武尊御𦾔跡」碑。

「酒折宮(さかおりみや・さかおりのみや)」への参道となっています。
 『古事記』・『日本書紀』に記載される日本武尊の東征の際、行宮として設けられた酒折宮に起源をもつとされ、また、そのときの説話にちなみ、連歌発祥の地とされています。祭神は、タマトタケルノミコト・日本武尊、倭健命
 『古事記』・『日本書紀』(以下「記紀」)には、ヤマトタケルノミコトの東征伝承が記されています。ミコトの東征は『古事記』と『日本書紀』では一部異なりますが、蝦夷からの帰路、甲斐・酒折宮へ立ち寄ったことが記されています。その行宮に因んだ社が現在の「酒折宮」とされています(異説あり)。
 「記紀」に記されるヤマトタケルの東征経路は、古代律令制下の官道においては往路が東海道、帰路が東山道にあたっています。

 連歌発祥の地
 「記紀」には、滞在中のある夜、尊(みこと)が「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」《意味:常陸国(現 茨城県)の新治・筑波を発って、ここまでに幾晩寝ただろうか》と歌いかけたところ、焚き火番の老人が「日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」《意味:指折り数えてみると九泊十日かかりました》と歌で答えて、尊がこの老人の機知に感嘆した伝えを載せ、『古事記』には彼を東国造に任命したと記載されています。
 この2人で1首の和歌を詠んだという伝説が後世に連歌の発祥地となりました。

 連歌とは、和歌の上の句・前句(五七五)と下の句・付句(七七)をそれぞれ別人が詠みすすめていくという歌の形式。その後、連歌の前句とそれに対する付句のみを抽出する「付合」のかたちや第一句のみを単独で観賞する「発句」という形式も生まれ、さらに、明治になって、発句(五七五)を独立させることで成立したのが俳句です。
 この酒折宮での歌の掛け合いは、5/7/5に対して、7/7と続けた短歌形式ではなく、4/7/7という「片歌」の問いかけに対して5/7/7という「片歌」でこたえたもので、この形は 連歌(短歌の形)とは異なっていますが、この故事によって 連歌は「筑波の道」と呼ばれ、この地が「連歌の発祥の地」と言われるようになったわけです。

(13:06)その先、左手には、
「山梨学院大」キャンパス。

「信玄堤聖牛(せいぎゅう)」を模した小休止所。

(復元した「聖牛」)

ここにも「日本武尊」碑。

 「酒折駅」は街道からわずかの距離。そこで小休止。今回も炎天下の歩き。休憩が多くなりました。


(13:43)「善光寺」参道。

「身延線」のガードが見えてきます。

 その先が直角に曲がる「桝形」。左に折れ、すぐ右に折れます。


                  

かつての土蔵造りを彷彿とさせます。

(13:48)その先、右手に豪壮な建物。

                   



かなり長い直線道路。突き当たって左に折れます。

(14:01)来た道を振り返る。



今度は右に曲がります。

                       

次第に賑やかな通りになってきます。右の大きなビルが「(株)印傳(伝)屋上原勇七」さん(14:10)。


                

 印傳(いんでん)の名前の由来は、印度伝来によるといわれています。
 鹿の革を松脂でいぶし、漆で紋様を染め出したもので、かつては武士用具のすね当てやよろい兜にも使われていました。
 現在では、独特な手法を用い、財布、バッグ、ベルトなどに使われています。

 鹿革をいぶす「燻(ふ)すべ」。革が褐色になるまで、何度もくり返すんだそう。

 革の模様がムラにならないよう、職人が様子を見ながら、上にあるドラムを回転させます。古くから伝えられる「燻すべ技法」で柄づけされた革。煙と松脂でこんなふうに柄ができるんですね!

・・・ 

HPより)

 見学がてら休憩。
 さて、土産も買わなければならないし、NTT甲府支店の角まで行って、今回は終了します。甲州街道はここを左折し「甲府柳町」に入って行きます。そこから「甲府宿(甲府柳町宿)」となりますが・・・。

その角には、
(14:26) 

                   
2016年11月に新しくオープンしたカフェ「ナオミキャンプ naomicamp」。古民家を改装した雰囲気あるおしゃれなカフェです。

 甲府駅まで向かいます。賑やかな通りです。駅前は大がかりな改修工事が進んでいます。たくさんの人、ひと。
(14:44)駅前広場の「武田信玄」像。
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相変わらずのドタバタ。そして今日は「先負」。明日は「仏滅」。これで民進党もジ・エンドになるか。

2017-09-05 13:13:41 | 世間世界
前原氏、「山尾幹事長」撤回を検討 民進党内の反発強く

 いつもと変わらぬ風景。既視感。足の引っ張り合い。「北朝鮮」問題を含めて、ますますアベがオタオタしているのに、野党第一党としての存在感、まるでなし。
 蓮舫さんの時も幹事長人事でとちり、一気に失望に変わった。またしても、・・・。

 ほくそ笑むのは誰だか分かっているのに、相変わらずのドタバタ劇。

 だいたい「山尾」さん、すねに傷ある身、早晩、マスコミの餌食になるのは分かっていたはずなのに、幹事長に任命内定したのには、もともと疑問符が。

 勿論、そうしたマイナス点を分かった上で、断固かばって支えていく、というような気風が全くないのも民進党の悪しき性癖。ある所属議員は「山尾さんの力量以前に、代表が決めた後でとやかく言い始める議員がいることの方が問題。だからあの党はだめだ」と批判したそうだ。「あの党」と言っているのは、すでに離党を決意しているのだろう。

 一方で今度の幹事長予定の方、真面目かも知れないが、あまりインパクトがなさそうな方とお見受けした。・・・

 今やいずこも「風」頼りの議員稼業。あっちにうろうろ、こっちにうろうろ。あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞってな具合で、誘いに乗って右往左往する民進党議員。中には自民党入りしたくてウズウズしている御仁もチラホラ。それとも小池別働隊の新党?

 若○とかいう人物もかなりうさん臭さそうな人物なのに、なびけ、なびけ、か。

 「どこ吹く風」の政治オンチも困るけれど、自民、公明、維新、何とかファーストに負けず劣らず、劣化が激しい、むしろ先駆け(先負け)している民進党。

 だいたい「消費税10%」を規定方針通りに実施! を掲げて選挙に打って出るのは、どだい無茶。さっそく「朝日新聞」ではなかなか立派! などと持ち上げているが。

 日銀をうまくたらし込んでのアベノミクス。その失敗(失政)をもっと叩くべきなのに、「財政規律・正常化」のための消費税アップなんてありえない。「高負担」→「高福祉・社会保障」につながるというのは、絵空事。

 アベは次回の衆議院選挙では、「消費税アップ凍結もしくは5%に戻す」くらいの打ち出しはするはず。そうした見え見えの戦法に対抗して「10%にして財源を社会保障に回す」ではお話にならない、と思う。民主党政権時代の大見得をきったあげく、ことごとく裏切った、は相変わらず。

 野党共闘を(特に共産党との共闘を)毛嫌いしている保守系の諸公。「小選挙区」のもとで単独で議席を得るなんてことは、夢のまた夢なのに。うまく当選したら、維新のように第二、第三自民党になろうとしている魂胆。
 一方、左派系の諸君。没落した社民党の道を後追いしながら歩んでいる。むしろ、このことををあえて望む、自分たちだけが正論を吐いているのだという向こう見ず路線。分裂してもおそらく双方とも生き残れないだろう、ご時世。フランス社会党の大没落と同じ道を歩むか。

 両院議員総会に議員本人が出席したのが60%しかいなかった、とか。40%近くは離党するつもりだろう。山尾さんだって分からない、ぞ。
 
 10月22日(大安)が衆議院の投票日になる可能性、大。

 このままいけば、政治不信もますます高まるばかり。選挙になれば、低投票率。その結果、某宗教? 団体の組織戦。なにしろ支持層の80%以上が指示された候補者に投票するという、一枚岩。勝利、勝利で喜ばせ、ますます図に乗る政治構造。

 なんとかせなにゃ、アカンぞな、もし。

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下栗原~石和~甲府。その3。(「甲州街道」をゆく。第9日目。)

2017-09-04 21:08:26 | 甲州街道
 ほとんど宿場時代の痕跡はありません。また温泉が発掘されて一躍、熱海級の一大温泉遊興地になりましたが、現在はちょっと当時の勢いはなさそうです。
「芸妓置屋 青砥家」。

 旧甲州街道はそうした温泉街からも少し離れているせいか、静かなたたずまいの街並みの中を進みます。
石和宿
本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠18軒。
 石和は武田氏の故地。新羅三郎義光から四代目信義の時、韮崎の地(武田)に移り、以降武田と名乗った。五郎信光は甲斐守として石和に領を構え、18代信虎の時に甲府の躑蠋ヶ崎(つつじがさき)に移るまでここが武田氏の本拠地であった。
 1961(昭和36)年1月、石和の地で突然大量の高温の温泉が湧き出した。
 石和とは大小の多くの川が流れる荒地で藺(い)が一面に生い茂っていたので藺の沢と呼ばれ、その後転化し石和となった。

 街中に入ってすぐ右手にあるお寺が「鵜飼山遠妙寺(うかいざんおんみょうじ)」。

 当山は、往昔文永11年夏の頃、高祖日蓮大上人御弟子、日朗日向両上人と共に当国御巡化の砌り鵜飼漁翁(平大納言時忠郷)の亡霊に面接し、之を済渡し即ち法華経1部8巻69380余文字を河原の小石一石に一字づつ書写され、鵜飼川の水底に沈め、三日三夜に亘り施餓鬼供養を営み彼の亡霊を成仏得脱せしめた霊場である。
 之に従って当山は「宗門川施餓鬼根本道場」として広く信徒に知られ又、謡曲「鵜飼」はこの縁起によって作られたものである。

 (11:06)その先、高速バス停前に「石和本陣跡」碑。
  

石和本陣跡
 本陣は江戸時代、大名公家幕府の役人高貴な人の宿泊する所である。 
 石和御本陣は寛永年間(1625頃)幕府の命により此処に置かれた。特に大名が宿泊し信州松代城10万石を初め全国の諸大名が宿泊し、大名宿とも言われ明治維新まで続いた。
 建物は書院造りで門、玄関、上段の間を備えて広大な構えであった。
 明治13年6月16日明治天皇御巡幸のみぎり御休憩所御予定のところ、同月6日、大火により焼失、現在土蔵1棟のみ現存している。

土蔵。

解説板。
 宝暦11年(1761)信州高遠城主内藤大和守が参勤交代のため、初めて本道中を通行することになり、石和宿仲町の後藤甚兵衛に本陣を命じたことがはじめといわれる。
以来子孫が継承して明治に至った。明治以降も旅籠として利用したが、明治13年(1880)6月7日の石和の大火により焼失し、現在はわずかに土蔵1棟と諸大名通行の書状および、古記録文書が残っている。

 一画に古い建物。

そこから通りを望む。

 広い道路の反対側に「足湯」がありました。そこで、素足を温めながら、小休止(11:11~11:23))。他には誰もいません。通りかかる人もほとんどなし。

 足湯の裏手には緑も濃い「石和小林公園」が広がっています。


                     

 この公園は、元々、郷土の偉人、小林中氏の家の跡で、その功績が説明板にあります。
 大正11年早稲田大学を中退し、家業の石和銀行取締役支配人に就任。その後、30歳のとき富国徴兵保険相互会社(現富国生命)の第一部長、44歳で社長となり、52歳の時に日本開発銀行初代総裁となった。その後東南アジア移動大使、インドネシア賠償交渉日本政府代表、アラビア石油社長、海外技術協力事業団初代会長、財政制度審議会会長、外資審議会会長を歴任し、勲一等旭日大綬章を賜った、とのこと。

消防署。

 「石和温泉駅入口交差点」を過ぎたところで、DoCoMoのお店。炎天下、人通りもない中で、着ぐるみで頑張っています。DoCoMoつながりでパチリ。
     お疲れさん!

(11:32)右にカーブし、甲運橋東詰交差点を経て、「甲府市」入り。

右手の大きな古木の脇に道標、石像。

    
 萬延元年(1860)建立の道標。3面にそれぞれ「左甲府 甲運橋 身延」、「右富士山 大山」、「左三峯山 大嶽山」と書かれています。が、「富士山 大山」の下に「東京」と刻まれています。江戸時代に東京などあるはずがなく、明治以降、元々「江戸」とあったものをその上から「東京」と刻み直したようです。余計なお節介なのか、はたまた?
 また、このところが「一里塚」跡のような印象ですが。

「平等川」上流。かつての笛吹川。

 (11:50)さてそろそろ昼食時。さらに炎天下、少し早めですが、涼しいところに入ろうか、と。
 「アリア入口」交差点のところに「台湾料理 昇龍」さん。このお店へ。ビール(中ジョッキ)と二品選んで980円(税抜き)とあるので、さっそく注文。二品ともまるで大盛り、一人では食べききれないほどで、美味しい。お腹いっぱいになりました。もう炎天下歩きはやめようか、というくらい。たっぷり食事休憩。

(12:30)「県立青少年センター」。

 しばらく進み、「甲運小学校入口」バス停のところに「和戸町」の解説碑と古仏などが。
 

              
和戸町(由来)
 和戸町は平安期この附近を中心として栄えた表門郷(うわどのごう)の遺称である。郷とは奈良時代に50戸をもって編成された行政村落のことであり、地名の由来から、古くから集落が存在したことが知られる。地内には在原塚、琵琶塚、太神さん塚などの古墳が点在する。

崩れてしまった、丸石を積み重ねた道祖神。

「甲運松原」バス停。この付近はかつて松並木が。

(12:53)この先、「松原交差点」で道は右に大きく曲がります。
                

(12:58)その先の三叉路が「甲州街道」と「青梅街道」の合流地点。


   振り返る。右が「甲州街道」左が「青梅街道」。

 新宿3丁目の「追分」で分かれた「青梅街道」とここで再会。
「青梅街道」。


「新宿3丁目」付近の現在のようす。「新宿3丁目」交差点から西南に延びるのが「甲州街道」。西北に延びるのが「青梅街道」。(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)

新宿3丁目交差点。「青梅街道」方向。

 また、この付近は、かつては大きな刑場になっていたようで、「南無妙法蓮華経」の大きな供養塔が立っています。



                  
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下栗原~石和~甲府。その2。(「甲州街道」をゆく。第9日目。)

2017-09-01 19:36:26 | 甲州街道
 橋を渡って行くと、左手に松並木が見えてきます。あの松並木は旧甲州街道当時の? 橋詰めから左に折れて、松並木の下の道を進みます。本来の旧道はもう少し川沿いだったようです。松並木も笛吹川改修時に植えられたもののようです。


                  (10:36)松並木は300㍍ほど。木陰もあり、ホッとひと息。


 しばらく進むと、道は、笛吹川から離れて右に進みます。旧道はもっと土手沿いの道だと思いますが・・・。
笛吹川上流を望む。

 国道と分岐する小広場に「笛吹権三郎之像」や道祖神などの石碑がいくつかまとまってあります。比較的新しい石像なので、笛吹川改修時にちなんでつくられたものと思われます。




                        
笛吹権三郎の事
 今から六百年ほど昔、芹沢の里(現在の三富村上釜口)に権三郎という若者が住んでいた。彼は鎌倉幕府に反抗して追放された日野資朝一派の藤原道義の嫡男であったが、甲斐に逃れたと聞く父を母と共に尋ね歩いてようやくこの土地に辿り着き、仮住まいをしている身であった。
 彼は孝子の誉れ高く、また、笛の名手としても知られており、その笛の音色はいつも里人の心を酔わせていた。
 ある年の秋の夜のことである。長雨つづきのために近くを流れる子西川が氾濫し権三郎母子が住む丸木小屋を一瞬の間に呑み込んでしまった。若い権三郎は必死で流木につかまり九死に一生を得たが、母親の姿を見つけることはついにできなかった。悲しみにうちひしがれながらも権三郎は日夜母を探し求めてさまよい歩いた。彼が吹く笛の音は里人の涙を誘い同情をそそった。しかし、その努力も報われることなく、ついに疲労困憊の極みに達した権三郎は、自らも川の深みにはまってしまったのである。
 変わり果てた権三郎の遺体は、手にしっかりと笛を握ったまま、はるか下流の小松の河岸で発見され同情を寄せた村人の手によって土地の名刹長慶寺に葬られた。
 権三郎が逝ってから間もなく、夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえてくるようになり、里人たちは、いつからかこの流れを笛吹川と呼ぶようになり、今も芹沢の里では笛吹不動尊権三郎として尊崇している。
 これが先祖代々我が家に伝えられている権三郎にまつわる物語です。
     昭和六十年五月吉日
             山梨県山梨市七日市場四九三番地  長沢房子(旧姓広瀬)


 笛吹川
 最上川、球磨川とともに日本三大急流のひとつである富士川水系の一級河川。
 山梨県山梨市北部の甲武信ヶ岳・国師ヶ岳に源を発する東沢渓谷と、国師ヶ岳・奥千丈岳に源を発する西沢渓谷を上流部に持つ。広瀬湖(広瀬ダム)を経て甲州市を下り、甲府盆地の南東を潤し、鰍沢町で釜無川と合流し富士川となり、静岡県で駿河湾に注いでいる。流域に扇状地を多く形成している。灌漑用水を整備した果樹園は、ブドウなどの果実栽培が盛んである。
 笛吹川の名の由来は、「笛吹権三郎」(もしくは「笛吹川」)と呼ばれる民話に語られている。 江戸時代には甲斐国の鮎が名産として知られ、宝暦2年(1752年)の『裏見寒話』や嘉永3年(1850年)の『甲斐廼手振』には荒川・釜無川とともに笛吹川の鮎が名産として記されている。笛吹市石和町では石和鵜飼も行われている。
 笛吹川は、奥秩父山塊の南側を太平洋に向かって下る斜面にある急峻な暴れ川で、広瀬ダムや発電所などで雨量にあわせて流量を調整する努力が払われている。
 中でも1907年(明治40年)8月22日からの大雨で発生した明治40年の大水害は笛吹川流域を中心に洪水による被害を引き起こし、笛吹川本流の流路が約7kmに渡って変化した。それまでの笛吹川は甲州街道(現国道411号)、笛吹橋の少し上流付近より西方向に流れ、温泉旅館、観光ホテルなどが立ち並ぶ現在の石和温泉街を西に流れた後、石和町と甲府市の境界を流れる(現在の)平等川を経由し、旧中道町の北東部にある白井河原橋付近で現在の笛吹川本流につながっていたが、この洪水による土手決壊及び旧河川敷の土砂堆積により南西方向へ流路を変えた。その結果、多数の農民や住民が新河川流路整備の土地収用のため、農地・住居等の移転を余儀なくされた。現在の笛吹市役所庁舎前や国道20号付近を流れる部分の笛吹川は、100年ほど前までは存在していなかった。
(以上、「Wikipedia」参照)

 この付近の地名は「川中島」。笛吹川の氾濫原だったのでしょう。
 

静かで落ち着いた住宅街。道ばたには水路。


        振り返って望む。

秋葉山の常夜燈。

Y字路を左へ進みます。

ここでも球形道祖神をいくつか見かけます。

よく手入れされた庭木のあるお屋敷。

 (10:55)その先、左手に「テアトル石和」という映画館があります。まさかこんなところに!


              

 人の出入りもなさそうだし、開業しているのかどうか、ちょっと不安になりそうな映画館。でも、HPを開くとバリバリの現役。


HPより)

 上映する作品もそれぞれなかなか凝ったものが多いようです。

新しいそうな球形道祖神。けっこうあちこちにあります。

しばらく進むと先ほどの国道411号線に合流。

その手前にすてきな板塀のおうち。

来た道を振り返って望む。

 (11:01)道路もぐっと広くなり、ここから石和温泉(「石和宿」)の中心部に入って行きます。

石和温泉

 アルカリ性単純泉の無色無臭であり、pHは8.5~9.5程度とされている。 また、源泉は主に山梨県企業局が管理しており、パイプを使って各温泉宿に供給している。

歴史
 1961年(昭和36年)に「いすみ荘」で温泉掘削を行った際、毎分2,000L、泉温49℃の温泉が湧出し、周辺の川や田畑に流れ出した。その後即席の露天風呂が作られ、「青空温泉」と称したのがはじまりである。その後山梨県企業局や地域内の温泉宿によって掘削が行われ現在に至る。最初に温泉が湧出した場所は現在日本中央競馬会の場外勝馬投票券発売所「ウインズ石和」になっており、入口付近に発祥の地の碑が建っている。
 高度経済成長時代になってから出来た温泉であるが、新宿駅から特急「あずさ」「かいじ」で1時間半前後と近く、また中央自動車道開通などアクセスが容易になったことから京浜地区の奥座敷として発展。団体客向けの歓楽温泉として知られ、コンパニオンを配置した温泉旅館が作られたほか、スナックやバーなどの酒場、さらにはストリップ劇場などの大規模な風俗街も作られた。しかし風俗街というイメージ低下の懸念に加え、団体旅行の低迷により需要が落ち込んだため、近年では個人客や外国人向けに力を入れるようになり、風俗店の取り締まりを強化する一方で笛吹川の鵜飼いや八幡神社の太鼓演奏など歴史、文化を強調したイベントを開催している。また周辺が果樹園であることから特産物のブドウやモモとも結びつけて、ワイナリーが至る所に点在する。
 石和温泉駅から笛吹川まで近津用水路を中央に東西約1kmにわたり温泉街が伸びており、全盛期の宿泊施設は大小合わせて120軒超とその規模は熱海に次ぐともいわれていたが、現在は50程度の温泉旅館が営業している。宿泊施設は団体客向けの大型施設から家族向けの旅館、純和風の高級旅館など様々である。以前は宿泊前提であったが日帰り旅行向けの施設も増えてきており、健康ランドをはじめ有料の「石和源泉足湯ひろば」という足湯及び手湯も存在する。
(以上、「Wikipedia」参照)
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