1947(昭和24)年9月のキャサリン(カスリーン)台風によって、東京の下町東部が大規模な浸水被害を受けたことにより、1949(昭和24)年に始まった、中川放水路(新中川)の開削工事。1963(昭和38)年3月、15年の歳月をかけてやっと完成した。
この工事、葛飾区や江戸川区などでは、田畑の買収や多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事であった。
新金貨物線も、現在のように以前の線路から大きく東側に移動することになり、葛飾区立奥戸中学校は、新中川と新金貨物線との間に移転することになる。
その当時の線路(旧線路)は、中川放水路(新中川)を越えたあたりで、現在の線路と合流するかたちで新小岩駅方向に進んでいた。
その線路跡。新中川の左岸手前では、奥戸中学校の北側で現在の線路と離れ、そのまま舗装された広い道に変わって分かりやすいが、右岸側は分かりにくい。おそらく国鉄用地の西側の細い道が旧線路跡のようだ。奥戸新橋(新中川ができる前には、当然存在していない)付近を西南に横断してそのまま総武線に合流していたと思われる。
なお、複線化の計画があったようで(現在は頓挫している?)、そのためのコンクリートの橋脚部分だけが、新中川にそのまま。これから先も使用されることなく、撤去されずに残されていくのだろうか。金町から新小岩まで複線化計画のための用地が残されているのだが。
トップの写真は、奥戸中学校側(新中川左岸側)。正面の突き当たりから直線の道路が旧線路跡。
右側の道路が旧線路跡?このあたりで現在の線路と合流している。
右手の直線道路が線路跡?
右が現在使われている線路。電化されている。複線化のための橋脚が残されている。
対岸の金町(高砂)側を望む。
新小岩側。白く塗られてかなり頑丈な橋脚の土台。
土手から見たところ。雑草の陰に隠れているような。
新小岩側は国鉄用地。
この貨物線。新小岩~亀戸~越中島と支線(非電化)が伸びている。「越中島貨物駅常備」と記された貨物車。
現役で活躍中。
この工事、葛飾区や江戸川区などでは、田畑の買収や多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事であった。
新金貨物線も、現在のように以前の線路から大きく東側に移動することになり、葛飾区立奥戸中学校は、新中川と新金貨物線との間に移転することになる。
その当時の線路(旧線路)は、中川放水路(新中川)を越えたあたりで、現在の線路と合流するかたちで新小岩駅方向に進んでいた。
その線路跡。新中川の左岸手前では、奥戸中学校の北側で現在の線路と離れ、そのまま舗装された広い道に変わって分かりやすいが、右岸側は分かりにくい。おそらく国鉄用地の西側の細い道が旧線路跡のようだ。奥戸新橋(新中川ができる前には、当然存在していない)付近を西南に横断してそのまま総武線に合流していたと思われる。
なお、複線化の計画があったようで(現在は頓挫している?)、そのためのコンクリートの橋脚部分だけが、新中川にそのまま。これから先も使用されることなく、撤去されずに残されていくのだろうか。金町から新小岩まで複線化計画のための用地が残されているのだが。
トップの写真は、奥戸中学校側(新中川左岸側)。正面の突き当たりから直線の道路が旧線路跡。
右側の道路が旧線路跡?このあたりで現在の線路と合流している。
右手の直線道路が線路跡?
右が現在使われている線路。電化されている。複線化のための橋脚が残されている。
対岸の金町(高砂)側を望む。
新小岩側。白く塗られてかなり頑丈な橋脚の土台。
土手から見たところ。雑草の陰に隠れているような。
新小岩側は国鉄用地。
この貨物線。新小岩~亀戸~越中島と支線(非電化)が伸びている。「越中島貨物駅常備」と記された貨物車。
現役で活躍中。