阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

今年も咲いてきれいな 下町で見かけた花

2020年05月18日 | 花・草・木・生き物

JRには3か月ほど乗ってないが、駅への道筋の家の前に今年も同じ花をつけていて嬉しい。

0517 エクササイズ フルセット完  腕立伏せ11回でギブアップ。

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天守閣復興から50年 諏訪市の高島城           長野日報

2020年05月18日 | 諏訪便り

2020年5月16日 6時00分 

諏訪市の高島城が16日、天守閣の復興から50周年の節目を迎えた。1875年までに城内の建物が全て取り壊されたが、

大正時代以降に再建運動が何度か起こり、公費を使うことなく寄付のみで天守閣などを復興。1970年5月16日に復興式典が開かれた。

関係者は「高島藩の長い歴史と半世紀前の復興運動に思いをはせ、この機会に足を運んでもらえたら」と願っている。


諏訪市教育委員会が1970年に発行した「諏訪高島城」などによると、最初の復興運動は22年。上諏訪町(現諏訪市)の職人たちが組合を設立し

募金活動を始めた。直後の世界恐慌で断念するが、この時作られた瓦製のしゃちほこが手長神社境内の聖徳神社に現存している。


4度目の運動が結実


運動が結実するのは62年から始まった4度目。諏訪市大手町で割烹旅館を営んでいた南佐久郡南相木村出身の中島篤平氏が

「諏訪のお役に立つご奉公を」と東奔西走。当時の岩本節治市長が引き継ぎ、期成同盟会が発足すると、7212人から9536万円余の寄付が集まり、

全額寄付金で67年12月の着工にこぎ着けた。
復興天守閣は鉄筋コンクリート造り3階建て。設計は工学博士の大岡實氏、建築工事は熊谷組、基礎工事は竹中工務店が担当した。

天守閣以外の木造建築物は諏訪工匠組合が伝統工法で再現し、庭園は諏訪造園業組合の奉仕により実現している。


70年の式典には1300人参列


70年5月16日の式典には1300人が参列し、神事の後、騎馬行列、龍神の舞、八剱太鼓、長持ちなどを盛大に繰り広げた。

当時、諏訪市職員だった男性(83)は「いざやろうとなった時の諏訪の人たちの心意気は大したものだと思った」と述懐する。
近年は桜の名所として知られる高島城。天守閣には寄付者の名前をたがねで刻んだ銅板が掲げられている。

大昔調査会(諏訪市)の高見俊樹理事長(63)は「高島城は諏訪大社、御柱と並んで諏訪という一つのまとまりをつくる大事な要素。

50年を経て復興高島城の価値は高まっている。残していく意味を考えていかなければ」と話している。

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Wikipediaから部分引用⇒  諏訪高島城

天正10年(1582年)3月の武田氏の滅亡後、甲斐国と信濃諏訪郡は織田氏の家臣・河尻秀隆が領し、諏訪郡には秀隆の家臣・弓削重蔵が配置された。

同年6月の本能寺の変による「天正壬午の乱」の後、諏訪郡を領した諏訪頼忠は、平城の金子城(諏訪市中洲)を築き、新しい拠点としたが、

1590年(天正18年)に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山にあった旧高島城に入城する。


*高吉は、1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築く。

その際村人には漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに小和田へ移転させた。

高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で普請を経験していたことから、織豊系城郭として築城し、石垣を築いて天守も上げた。

同時に上原城周辺にいた商工業者を移住させ、城下町の建設を開始した。
1601年(慶長6年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。

再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなった。江戸時代は諏訪藩の政庁であり藩主の居所であった。

1786年(天明6年)に石垣などが補修されている。
寛永3年(1626年)には徳川家康六男の松平忠輝を預かる。南の丸を増設し、監禁場所とした。

以降も南の丸は、幕府から預かった吉良義周などの流人の監禁場所となる。
1871年(明治4年)廃藩置県により高島県となり、県庁舎として利用された。

1875年(明治8年)に天守以下建造物は破却もしくは移築され、一時は石垣と堀のみとなり、翌1876年(明治9年)高島公園として一般に開放され、

1900年(明治33年)に諏訪護國神社が建てられる。


現在は二の丸、三の丸が宅地となり、1970年(昭和45年)には本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園として整備された。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(130番)に選定された[1]。


◎ 阿智胡地亭の一族を含む小和田の衆はこのとき以来 太古の昔から住み着いた諏訪湖の中の高島という島を離れて

湖畔の小和田(こわた)の地に居住してきた。小和田の衆は明治維新までこの地区で住民自治が許され、諏訪湖の中から湧く温泉を引いた

小路ごとの大浴場で、裸の論議を尽くして地区の決めごとを話し合ったそうだ。

 父の実家には小和田各小路の家々に引かれた温泉の蛇口があり一年365日24時間蛇口をひねればいつでも温泉風呂に入れた。

中学生のころ夏休みに三重県四日市から遊びに行くとこれに魂消て、かつ不思議でならなかった(笑)。

 御神渡りを諏訪大社と藩主に報告する(諏訪大社から幕府へ)八劔神社は高島の住人の氏神でやはりこの時に小和田の今の場所に移された。

「諏訪まちあるき」のサイトから一部引用・・・

諏訪湖・上諏訪まちあるき

古地図片手の歴史探訪、ぽつんと残るなつかしい建物「昔のまち」のおもかげ探しに出かけよう。

①高島城

かつては諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城」と呼ばれていたが、江戸時代に諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われた。本丸の石垣と城門に当時の面影が残る。

②南之丸跡

高島藩の大事なお役目のひとつは配流者の「お預かり」。徳川家康の6男松平忠輝、吉良上野介義央の養子義周もここで過ごした。

③小和田地区小路群

「諏訪の浮城」 の水路のおもかげが今も 残るこの辺りは温泉の湧出地。冬はあちらこちらで湯気が・・ ・。今も昔も「生活の中に温泉」はうれしい。

④八劔神社

600年以上にわたり諏訪湖に出現する御神渡りの記録を報告してきた。武田氏建立といわれる神楽殿に刻まれた武田菱、諏訪梶紋、 鶴丸紋。諏訪の歴史がぎゅっと凝縮!

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 「Baikal Hotel  リストヴァンカ/ロシア」     印旛沼の里山住人の ❝私たちが投宿して記憶に残る海外のホテル❞   30回シリーズ    その19

2020年05月18日 | 下総の国の住人Kさんの寄稿アルバム集

ホテル名 : Baikal Hotel
場所       : リストヴァンカ/Russian
位置       : 51°52′03″N,104°50′14″E
宿泊年   : 2015年

バイカル湖畔のフラワーウオッチングで3泊した。
バイカル湖から唯一流れ出す川、アンゴラ川河口のリストヴァンカ村の丘の上のホテル。


ソ連時代のツーリストホテル(外国人専用ホテル)でバイカル湖が見渡せる。

エレベーターの横には小部屋があり、部屋の前には机、パソコンが置かれていた。
ソ連時代はここからお客を監視していたと思われる。
敷地内の屋外にはロシア式サウナの小屋があったが利用しなかった。

ホテル内にはATMが置かれ、村人が利用していた。ホテル内のATMは初めて見た。

ロシアではパスポートを持たずにホテルから出て職務質問にあうと数日豚箱に入れられてしまう。
ここではツーガイドとホテル側との話し合いで、野山でパスポートを紛失するより田舎なので職務質問
を受けるリスクの方が小さいと判断してホテルにパスポートを預けた。
ツアーガイドを通してパスポートを預けたのは初めてだった。

朝食、夕食はバイキング形式でニシンの酢漬けが一杯あった。
後から出てくるノルウエーのホテルでもニシンの酢漬けが一杯あった。
バイカル湖は海から2000Km以上も離れているがこの料理は北海の保存食かもしれない。

わが町のスーパーでも数年前から春になると生のニシンが売られるようになった。
年に数回自家製ニシンの酢漬けを味わっている。

リストヴァンカ村の対岸のバイカル村にはシベリア鉄道が敷かれていたが現在は別のルートを通っている。
シベリアに抑留された日本人はここで鉄路の保全工事に従事させられ命を落とした方もいる。
リストヴァンカ村の墓地の一画に日本人墓地がありお参りに行った、

 

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元特捜検事 現在弁護士の二人から見た「検察庁法改正」への疑点    人事を握られた検察は、政権の意向を一層「忖度」しかねない      

2020年05月18日 | SNS・既存メディアからの引用記事
一部引用・・・この事件で、大臣室で業者から現金を受け取ったことを認めて大臣を辞任した後、「睡眠障害」の診断書を提出して、4ヵ月にもわたって国会を欠席していた甘利氏は、この不起訴処分を受けて、「不起訴という判断をいただき、私の件はこれで決着した」と記者団に述べ、政治活動を本格的に再開する意向を示した。
この事件での検察の捜査・処分は、最初から、事件をつぶす方針で臨み、ろくに捜査しなかったり、不起訴にするために証拠を固めたりして不起訴にした典型的な例だ。当初の検察の不起訴処分は、「議員の権限に基づく影響力を行使した」とは言えないという点で、捜査が尽くされておらず、素人の検察審査会からも「不起訴が不当」とされたのだが、如何せん、捜査不十分なままでは「起訴相当」とは言えない、「もっと捜査を尽くすべきだ」ということで「不起訴不当」との議決が出たが、それを受けた再捜査をした上で、不起訴処分をされてしまうと、それで刑事処分は決着してしまうのだ。

画像クリックで本文に飛びます。


一部引用・・・「役人」をやったことがある人は、日本国民の中では一部だろう。役人にもいろいろあるが、
一般的に「高級官僚」と言われる公務員をやったことがある人はさらに限定される。
そういう高級官僚の中に検事もいる。検事も役人の一種である。
役人にとって、人事は極めて重大な関心時になる。日の当たるコースを歩みたい、冷飯を食いたくない、最終的に、できるだけ高い地位に到達して、その後の人生も、
そういうキャリアを生かして有利に進めたい、そういう発想を持つのが普通である(もちろん、例外はあるが多くはない)。

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