1940年に計画されながら、戦火の拡大で開催中止となった「幻の東京五輪」の誘致に尽力した柔道家で教育者の嘉納治五郎(1860~1938年)の銅像が、手賀沼を望む我孫子市の天神山緑地に建立された。現地は嘉納の別荘跡地で、我孫子とのゆかりを後世に伝えていこうと、市民団体の「我孫子の文化を守る会」が資金を寄付で集めた。(堀場達)
「東洋のロダン」と称される彫刻家の朝倉文夫(一八八三~一九六四年)が手掛けた和服姿の立像で、東京都台東区が所有する銅像の石こう原型から作られた。同じ型の銅像が同区役所などにある。
身長一・六メートル足らずで小柄だったと伝えられる嘉納だが、銅像は高さ二・一四メートル。黒御影石の台座の上から、南側に広がる手賀沼を見守っているかのような雰囲気を漂わせている。
嘉納はアジア人で初めて国際オリンピック委員会(IOC)の委員を務めた。一九三六年のIOC総会で演説し、四〇年の東京五輪開催が決まったが、日中戦争の泥沼化や国際世論の反発などを背景に、嘉納の死の二カ月後の三八年七月、日本政府は開催権を返上する。
嘉納は文化、スポーツの振興で活躍する一方、明治末期に手賀沼北側の高台で別荘を構えた。志賀直哉、武者小路実篤ら白樺派の文人が我孫子に拠点を置いたきっかけになったとされ、住人のジャーナリスト杉村楚人冠らと親交を結んだ。同会は「子孫を含め、嘉納家の人々がおよそ六十年、我孫子で暮らしていたことを長く歴史にとどめたい」と、二〇一八年春から、銅像建立のための募金活動を始め、別荘跡地の天神山緑地を管理する市の協力を取り付けた。
会員約九十人の呼び掛けで全国から集まった寄付金は約八百万円。これを使って建てられた銅像は四月十五日に除幕された。当初の思惑とは異なり、新型コロナウイルスの感染拡大で開催延期となった二〇二〇年東京五輪パラリンピックより、かなり早いお披露目になったものの、会長の美崎大洋さん(76)は「『力(つとむ)レバ必ズ達す』という嘉納師範の言葉どおり、市民の力で建立できて満足」と笑顔を見せた。5月12日付東京新聞
東京新聞:我孫子とのゆかり後世に 手賀沼畔に嘉納治五郎の銅像:千葉(TOKYO Web) https://t.co/sKsL971tSw
— achikochitei (@achikochitei1) May 12, 2020
画像クリックで本文に飛びます。
改築された「御影公会堂」。 御影郷土資料室に嘉納治五郎記念コーナーが出来た。 2017年4月19日掲載
朝の散歩で最近改装された国道2号線に面した「御影公会堂」まで歩いて、そのあとオアシス石屋川店から阪神新在家駅経由JR六 甲道駅まで足を伸ばした。6524歩。
講道館の創立者、嘉納治五郎は当地で生まれ育ちました。 wikipediaから:
1860年12月10日(万延元年10月28日)、摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)で父・嘉納治朗作(希芝)と母・定子の三男として生まれる。
嘉納家は御影に於いて屈指の名家であり、祖父の治作は酒造・廻船にて甚だ高名があった。その長女・定子に婿入りしたのが治五郎の父・治朗作である。
初め治作は治朗作に家を継がせようとしていたが治朗作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行って幕府の廻船方御用達を務め
和田岬砲台の建造を請け負い勝海舟のパトロンともなった。柳宗悦の母は治五郎の姉である。ちなみに同じ嘉納家ではあるが嘉納三家と呼ばれる
現在の菊正宗酒造・白鶴酒造とは区別される。 1870年(明治3年)、明治政府に招聘された父に付いて上京し、東京にて書道・英語などを学んだ。
御影公会堂と「火垂るの墓」:ロケ地紹介サイトから引用。こちら。
阪神電鉄本線のガード下に避難できなかった清太と節子は、今度は反対方向にある海を目指します。 当時は砂浜が残っていましたが、
現在はすっかりコンクリートで覆われています。(時間:8分55秒)
海に出た清太と節子は、石屋川に沿って公会堂を目指します。
石屋川を境に西側が神戸市灘区で、東側が清太と節子たちが住んでいた武庫郡御影町でした。 御影町は1950年に神戸市に合併し、東灘区の一部になっています。 (時間:9分08秒)
川から土手に上がった清太と節子の前に、焼け野原になった街の光景が広がります。
そんな中、公会堂だけが焼けずに残っていました。 (時間:12分10秒)
この公会堂は現在の神戸市立御影公会堂で、1933年に御影町公会堂として建設されました。
1938年の阪神大水害、1945年の神戸大空襲、1995年の阪神・淡路大震災の3つの大災害を耐え抜いた歴史ある建造物です。
ちなみに、御影公会堂から石屋川と国道2号線を挟んだ斜向かいに「火垂るの墓」の石碑が立っています。
公会堂に向かって歩き出す清太と節子。その直後、空襲で駅舎の鉄骨がむき出しになった阪神電鉄石屋川駅が映ります。
絵コンテに「阪神石屋川駅付近」という記述があるので、この駅で間違いないです。 現在も駅舎の一部が石屋川の上に架かっています。 (時間:12分34秒)
石屋川駅の次に国道2号線上で路面電車がストップしているカットが映ります。 当時、国道2号線上を阪神国道線が走っていました。 (12分38秒)
清太と節子は公会堂の近くにある二本松で母と待ち合わせをしていましたが、母はいませんでした。
実際に御影公会堂の近くには松の木がたくさん立っています。 しかし、映画にあるような特徴的な二本松はありませんでした。 (13分04秒)
店からすぐ近くに「陳舜臣アジア文芸館」がオープンしましたので近々行こうと思います。
1930年ごろのメリケン波止場。(Wikipediaから)
神戸新聞から引用。
中国を舞台にした歴史小説で知られ、神戸を代表する作家陳舜臣さん(90)ゆかりの品々を集めた「陳舜臣アジア文藝館」が6日、
神戸市中央区波止場町の旧神戸税関メリケン波止場庁舎にプレオープンした。開館前には、陳さんが久々に公の場に現れ、館内を見学した。
陳さんの同市東灘区の自宅や丹波市の別荘、早稲田大などに散在する数千点以上の史料をまとまった形で保管、展示。
長男で写真家の立人さん(61)=神戸市東灘区=や神戸のまちづくり関係者らが準備してきた。
館内では愛用の机や椅子、万年筆、つえなどで書斎を再現。著作「中国の歴史」「敦煌の旅」の自筆原稿や書、陳さんの写真、著書の単行本なども並ぶ。
開館に先駆け、陳さんが急きょ訪問。車いすに乗って展示品をじっくり見て回り、立人さんから同館への要望がないか尋ねられると、
「おまえに任せた」とうなずきながら話した。
記念イベントでは、太宰治の娘で作家の太田治子さんらが、ファン約130人の前で対談。太田さんは
「陳先生は弱者の悲しみをわがことのように理解できる人。神戸にはいろいろな国の良さが詰まっており、多様性が素晴らしい」と話した。
一般客の入館は7日から。今秋の正式オープンまでは月、水、土曜の正午~午後5時に開館。
一般300円、高校・大学生200円、中学生以下無料。陳舜臣アジア文藝館TEL078・391・0224
(藤村有希子)
●歯を大事にするんだ。それはもう二度と取り換えることができない、たった1つのセットだからね。自分のように台無しにしたりしてはいけない。
多くの詰め物をしたが、それらは長くは持たず、すぐ取り替える羽目になる。詰め物は本物の歯ほどは良くないし、詰め歯は壊れやすくクラウン(歯冠)が必要になる。自分は2本あるけど最低だ。
例外なく、歯磨きしてフロスを毎日しよう。電動歯ブラシを買って、歯医者さんに規則的に通い、甘い飲み物は捨てよう。
●あなたが得る全てものは、あなたが持っているもの。
「得る」ことではなく「持っている」ことで幸せを感じることを学ぶとよい。
●40歳だけど、20代なら誰にでも伝えたい3つのアドバイスがある。
1.完璧は存在しないことを受け入れる。人間関係は必ず問題があるし、車は故障する。必ず誰かが自分のよりもっと良いスマホ、もっと良い車、もっと大きな家を持っている。自分がどんな社会的なレベルに立っていようとだ。常に完璧を追い求めることは永遠にストレスを抱える。それはより良い人生を目指してはいけないと言う意味ではない。ただ完璧を期待すると満足することはないことを知っておかなければいけない。
2.食事と健康に注目すること。自分は20代のころから少なくとも週4回は運動をしている。同年代のほとんどの人々より元気で、健康で、若くみえる。
3.好きなことを止めないように。妻も子供もいるけど今でもゲームをする時間、絵を描く時間、ストーリーを書く時間、漫画を読む時間、バスケをする時間、音楽を聴く時間などは作る。みじめな年寄りになる理由は何もない。
●40歳のオレからのインプットはこれ。
1.みんな他人が自分をどう思っているかを気にしすぎ。誰が何を思っていようが気にするな。
2.ソーシャルメディアは幻でしかない。
3.借金がゼロというのはすばらしい気持ち。価値はすぐに下がるけどほぼ何も提供してくれない2020年の夢のスマホを契約する前に、2度くらい考えよう。
4.恋に落ちるより、恋から抜けるほうが多分ずっとパワフル。
5.有給休暇や病欠は全て使うこと。
6.子供のころに好きだった趣味を見失わないこと。年を重ねるごとにそれらが生きることを助けてくれる
7.家族は必ずしも血で繋がっているわけではなく、自分が誰のために血を流せるかである。
8.朝型と同じくらい、夜型の人にも利点はある。
9.他人を許す前に自分を許せ。
10.服従するためにドアマットにならなくていい、だがドアは優しさのためにオープンにしておく。
↑8a.両方はダメだ。
●リラックスしろ。小さなことで怒るな。
●規則的なエクササイズを習慣化しよう。そしてそれにより生活の質が変わると思って守ろう。実際にそうだから。
●20代はひどいアル中だった。自分の学歴では仕事も見つからず、常に酔っぱらっていたのと当時の就職難が理由だった。
30代になってまた興味を持てることを見つけて学校に通い直した。今では結婚して、10年飲んでおらず、良い仕事もしている。
言いたいことは、自分の居場所が気に入らなければ、引き返して変えることはできるということ。あまりに大勢の人が、今の場所にいて身動きが取れないと思っている。
●人生はレースではない!
他人と比べるのをやめよう。他人が先にしたからって、彼らが幸せとも良いとも限らない。
良い癖を始めよう。最初はちょっとつらいが数年で自然となる。そういうことを料理、掃除、貯金、自分のケアなどにするとよい。
好きじゃない人がいてもOK。誰かが自分を好きじゃなくてもOK。それはOKなんだ。自分からひどい奴になって、彼らが自分を嫌う理由を与えなくてもよい。同時に他人のひどい友情に耐えなくてもよい。
メンタルヘルスクリニックに通うことは、恥ずかしいことではない。
●老後の貯金を今すぐ始めろ。借金を避けて、毎日デンタルフロスをし、毎日エクササイズ。
●大学生のときヨーロッパに行くチャンスがあったが、倉庫のバイトのために行かなかった、世界を見るよりバイトを取った。ようやく30代のときに外国へ行ったら、自分の全てのもの、全ての人に対する概念が変わった。出来るだけ自国から遠い外国に行くといい。
↑新型コロナで泣いてます。
●クリス・ロックがこう言ってた。「みんな人生は短いと言うんだ。違うよ。人生は長――――いんだ。特に間違った決断をしたときはね」
「40代以上で幸せな人、20代に何をアドバイスしますか?」助言いろいろ https://t.co/JQyFj6lsGi @lbqcomさんから
— achikochitei (@achikochitei1) May 12, 2020