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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

月下美人の新しい花芽は成長してほしい    ガジュマルが沸騰する夏を越えて元気です

2023年10月07日 | 花・草・木・生き物

先日出てきた花芽は残念ながら 小さいまま落下してしてしまった。

月下美人と一緒に六甲山麓から移動してきたガジュマルは荒川の畔の地にすっかりなじんで葉を茂らせています。

ガジュマルの右側はシマトネリコの葉。

 

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10月06日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年10月07日 | SNS・既存メディアからの引用記事

「中露朝3国枢軸」は存在するか  ⇒ こちら

ノーベル医学生理学賞受賞者 カリコー・カタリン女史のインタビュー ⇒ こちら

以下いずれも画像をクリックすると本文全文に飛びます

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東日本大震災が起こった後の [ 2011年09月06日(月)のブログ ] から    「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリー

2023年10月07日 | 東日本大震災ブログ
コープこうべが放射能の自主検査を始めた

引用・・

コープこうべ商品検査センターでは、7月25日に導入した放射性物質測定装置「ゲルマニウム半導体検出器」の試運転とデータ解析を行ってきましたが、

9月1日から放射性物質の自主検査をスタートさせることになりました。

この機器は、放射性ヨウ素・放射性セシウムから出るガンマ線により、食品中に含まれるそれらの量を測定します。

東北・北関東で生産されるコープス、フードプラン商品のほか、米や牛乳、お茶など、組合員のみなさまからのお問い合わせが多い品目についても重点的に検査していきます。

引用元HPはこちら

2011年9月6日 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
今日の気になるネット情報 / 東日本大震災・原発 |
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日本人はなぜ怒らないのか 日常の生き方がそうさせている?
一部引用・・

3.11以降、日本が危機的な状況にあることはだれの目にも明らかだ。日本の社会システムを担っているさまざまな組織の中枢が崩壊し、まともな意思決定が不能になった状況だ。

 代りにそのような組織や機関では、既得権益を持った複数の集団の利害調整で意志が決定されている有り様だ。既得権益を持つ集団以外、
 
組織をコントロールできる権力を持った集団は存在しない。

そのため、組織や機関が機能不全を起こしているからといって、外部からそれを改革したり廃止したりすることが基本的にできなくなっているのだ。
 
現在の政府、また経済産業省などの省庁や東電などの巨大企業はその典型だろう。

 この状況を本格的に変え、新しい環境に現実的に適応できるシステムを作り出して行かない限り、おそらく我々の国は絶対的な終着点まで行き着くほかなくなってしまう。

 その後はさらなる自己崩壊を待つしかない。改革するのは待ったなしの状況だ。 我々の本格的な怒りに基づく抗議行動 そのような状況を打破し、
 
新しいシステムの形成へと向かう流れを作るものがあるとしたら、それはひとつしかない。これまで書いてきたように、我々の本格的な怒りに基づく一貫した抗議行動だけであろう。 

 ではどうしたらよいのか? まずは、怒りを個人的な感情に止めることなく、これを多くの人が共有できる現状認識や価値観へと昇華し
 
、抗議行動へと結び付けられるような対話を実践しなければならないだろう。

 それを、自立した個人が希薄な現代の状況で実行しなければならない。そうして、飲み屋の次元の愚痴の循環から、解放されなければならないのだ。 


怒らない日本人

現在、日本は大変な状況にある。対応が遅い東日本大震災の復興、いまだに収まることのない福島第一原発の放射能漏れ、意思決定能力を喪失し迷走する政府
 
対応のあまりの遅さから拡大しつつある放射能の健康被害など、他の国であれば国民がとっくに切れて怒り出してもおかしくない状況にある。

だが多くの日本人は、東日本大震災や放射能漏れが過去の出来事であり、何事もなかったようにいつもの日常に復帰しつつある。
 
震災直後には、混乱を起こすことなく、組織的に行動していた日本人を称賛してやまなかった外国メディアも、本来怒るべき状況なのに怒らない日本人に対して
 
いぶかがる報道が多くなっている。

韓国、台湾、フランス、ドイツ、アメリカ、イギリスなどの民主主義を政体とする国家では、政府の政策を修正したい場合、国民が直接的な抗議行動を実施し
 
、意思を政治に反映させることは、民主主義の当たり前の手続きと考えられている。その点から見るならば、意志の決定能力を失い、
 
まともな判断ができなくなっている政府に対して、強く抗議することは当然なのだ。

確かに、東電や政府に対する抗議行動は日本でも起っている。筆者もそのうちのいくつかに参加した。しかし、起っていることの重大さから見ると、
 
はるかに大規模で激しい抗議運動、それこそ60年安保や、現在のアメリカの茶会派やフランスや韓国の抗議に匹敵する運動が起っていてもなんら不思議ではない。

「ただちに健康被害はないので安全だ」を繰り返し、事実をとことん隠蔽する政府。土壌汚染の実態を細かく把握しながらも公表を拒む文部科学省。
 
経産省、原子力保安院、御用学者が一体となった原子力村の既得権益集団による事実の隠蔽。年間100ミリシーベルトまで安全だと平気で宣言する御用学者。
 
規制値をはるかに上回る可能性のある食品を平気で給食に混ぜる地方自治体など、これまでの日本の常識ではもはや考えることのできない出来事が相次いでいる。
 
その規模は、戦後のどの時期をも凌駕している。

なぜ、このような状態に至ってもなお、我々は本格的に怒ることができないのだろうか?いぶかしがる外国メディアの報道もそれなりに理解できる。

他の文化では盛んなディスカッション

「怒り」が抗議行動を呼び起こし、責任者を追求し、具体的な変革を実現するためには、単純な感情的な反応として「怒り」を感ずるだけではまったく十分ではない。

「怒り」はどんな人間でも持つ感情だ。それが具体的な行動に確実に結び付くためには、現実に起っていることを正確に認識し、だれが意志の決定を行い、
 
だれが責任を取るべきなのか、そして何をどのように変えたいのか明確で具体的な認識を持つ必要がある。こうした具体的な認識を持てない場合、たとえ「怒った」としても、
 
その怒りは個人的な感情の枠を出ず、せいぜい飲み屋でよく聞く愚痴のレベルに止まるほかはない。

怒りがこのレベルに止まっている限り、それは単なるガス抜きとしての怒りに表現にしかならない。具体的な抗議行動に結び付くことなどない。

しかし他の国の状況を見ると、日本とはまるで様子が違うことがすぐ分かる。人々が広場や盛り場に集まると、すぐに始まるのは、
 
現状に対する見方や意見を交換する盛んな対話(ディスカッション)である。

教会、学校、公民館、公園、そして個人の自宅が解放されて、社会的地位や年齢、そして性別が異なるさまざまな人達が広範な対話に参加する。
 
アメリカ、フランス、ドイツ、韓国、台湾などの国々では、そのような対話が行われる拠点が、あらゆる地域に当たり前のように存在している。

ディスカッションには特にルールは存在しない。誰しも社会的な立場ではなく、あくまで個人としての見解を話すことが要求されるのだ。
 
個人の意見を拘束する集団的なルールがまったく存在しないのが特徴だ。

ディスカッションでは、個人と個人の意見や現状認識がときとしてぶつかりあいながらも、多様な意見の交換から、明確な現状認識と行動の計画が出てくることが非常に多い。

このようなディスカッションを経過してはじめて、単なる怒りの感情や状況に対する憤りでしかなかった感情が、
 
なにが基本的に問題なのか理解する明確な現状認識へと昇華され、はっきりした実現目標を持つ具体的な行動へと転化することが可能になる。

こうしたディスカッションの場は社会のあちこちに存在している。多くの人がディスカッションに参加することで、現実に起っていることに覚醒し、
 
現状に対する怒りを確実に行動に結びつけることができる。このような状況の国が多い。

いまアメリカを政治的に席巻している茶会派の運動も、全米各地のあらゆる拠点で行われているこうしたディスカッションの集まりをネットワークでつなぐことで拡大した運動だ。

単なるガス抜きとしての怒りのぶちまけ

では日本の状況はどうだろうか?どの飲み屋に行っても、同じ愚痴と文句が聞こえてくるはずだ。それは、「政治家は国民のことなど考えていない」、
 
「総理を変えるしかない」、「官僚こそが諸悪の根源だ」など聞き慣れた政治批判の大合唱である。もちろん、そうした愚痴と批判は行動の契機にはならない。

そうした感情としての怒りの表現はいつも同じパターンを繰り返す。まず、なんらかの政治スキャンダルや政治的な問題が明らかとなる。
 
それは、政治家の不祥事、談合、癒着、公共組織の私物化などであったりする。

そして、マスメディアの追求などで、問題の背後には原因となる構造が発見される。
 
それらは、省庁の省益拡大と天下り先の確保を意図した官僚の暗躍、政務を官僚に依存し官僚に支配される政治家のあり方、
 
そして公共の利益そっちのけで党利党略に奔走する政治家の行動などである。

裏の事実が明らかになると、観客である国民の対応も決まっている。「待ってました!」、「中村屋」、「橘屋」のような歌舞伎の観衆の掛け声ならぬ、
 
決まり切ったブーイングの嵐である。「いまの総理じゃだめだ」、「国民のことを考えるリーダーに変えるべきだ」、
 
「官僚機構の改革こそ必要だ」、「政治利権を根絶しないとだめだ」、「党利党略の政治家は去れ」などである。どの野次も耳にタコができるほど聞いたものだ。どこの飲み屋でも聞ける。

そして、こうしたブーイングが国民の間から激しく起こるたびに、謝罪とともに何人かの当事者が処分される。その後は「政治改革」、
 
「制度改革」などあらゆるタイプの改革がスローガンとして掲げられ、その実行を約束する政治家の決意の発言が相次ぐ。「私は身命にかけて実行して見せます!」、
 
「改革はかならず実行します!」などと連呼する声が聞こえる。

そして1カ月もすると、我々は同じ演目の上演に飽きてしまいブーイングの嵐も改革の連呼もピタッと収まる。すると、なにごともなかったように事態は進行し
 
、だいぶ後になってから結果的には状況は何も変わっていないことが明らかになる。そのときには新しい演目が上演され、観衆は同じブーイングを繰り返し
 
、政治家も同じ決意を連呼しているというわけだ。

これが、一切の抗議行動には結びつかない、単なる怒りの感情のぶちまけがもたらす循環だ。
 
そこには、抗議行動や責任者の追求を求める具体的な行動を呼び起こすディスカッションの契機はまったく存在しない。

自立した個人の必要性

では他の国のように、ディスカッションを通して意見を総合し、怒りを具体的な抗議行動に結び付けるためにはなにが必要なのだろうか?

その答えはいたって簡単だ。社会的な立場や性別、また年齢の違いを捨て、考え、判断し、行動することのできる自立した個人の存在である。
 
そうした個人こそ、抗議行動の前提となるディスカッションを担える主体となるはずだ。

集団から突出することの恐怖

そうした自立した個人は日本では成立しにくい。いたとしてもかなりの少数派であろう。ディスカッションを担える個人は限定されるはずだ。

ではなぜそうした個人が少ないのだろうか?その原因は、集団から突出することを極端に嫌う、我々自身の恐怖心にある。

この恐怖心は、どんな状況でも周囲の人の期待を裏切らないように行動し、また発言するということを我々が徹底して教え込まれ訓練されてきたことで形成されたものだ。
 
中学までの義務教育の大きな目標は、これであったと言っても過言ではないかもしれない。

これは、それぞれの場面で作用している厳格なルールをしっかり覚え込み、それを徹底的に身体に刻み付けることを必要とする。

われわれの日常は、「交渉の場面」「友人との飲み会の場面」「結婚式の場面」など、さまざまな場面でできているとされる。
 
それぞれの場面には、人の振る舞いや行動を決定するルールがあった。どの場面にも以下の要素がかならず存在した。

1)立場
その場面における人の立場

2)言葉遣い
立場にあった言葉のふさわしい使い方

3)振る舞いの原則
立場にあったふさわしい振る舞い

4)服装の原則
立場にあったふさわしい服装

これらの原則に則って振る舞うと、おのずから「中学生らしさ」「営業マンらしさ」「サラリ-マンらしさ」などの「らしさ」がかもし出されてくる。
 
「らしさ」を醸し出すことは、その人が社会的に信頼できる存在であることの証だ。なぜなら、「らしい」存在は社会のルールをよく知っているので
 
予想外の行動や突飛な行動はとらないことを意味するからだ。

こうしたルールを徹底して身につけると、どこに行っても一人前として尊重され、受け入れられる。特に、企業ではそうであった。

特に、企業のような組織では、社会的なルールをとことん身体化させ、どんな場面においても相手の期待感を絶対にはずさない行動を取れることは、
 
その人間のパーフォーマンスを評価する重要な項目でもあった。「らしい」人ほど信頼性は高まったのだ。

つまり、こういうことだ。場面のルールを守り、どんな状況でも自分の立場をわきまえて「らしく」振る舞い、他者の期待感に沿った行動をしていれば、
 
集団から受け入れられ、身分が保証されたということだ。

三つの「らしさ」

もちろん、このような状況では、集団の「らしさ」のルールを無視し、集団から突出すると、集団で確保された身分の保証はすべて失うことを意味した。

だが、集団から突出するとは具体的にどのようなことを言うのだろうか?周囲の人々の感情を無視して自己主張することなのだろうか?それとも、
 
他人の気持ちを察しないことなのだろうか?

そうしたことを意味しているのは間違いない。しかし、「らしく」振る舞うということがどういうことなのか、
 
その意味をもう少し追求すると集団から突出しないことの意味がもっとはっきりするはずだ。

それは、日本の場面ルールから出てくる三つの「らしさ」だ。以下にそれを見て見よう。

第一の「らしさ」

社会的な信頼性を高めるためには、限りなく「らしく」なることがとても重要になる。社会の場面ルールは、「サラリーマンらしさ」「営業マンらしさ」
 
「中学生らしさ」などの大まかな分類をさらに超えて、「住友マンらしさ」「トヨタマンらしさ」など個別の企業の場面ルールにまでさらに際限なく細分化されていった。
 
組織や企業のメンバーは、組織の一員である限り、振る舞いや話し方、そして服装にいたるまで、その組織の正規のメンバーである印を身体に刻印していなければならなかった。
 
だいたいどの組織や企業もこのようなカルチャーのようなものをしっかりもっていた。ここではこれを第一の「らしさ」と呼ぶことにする。

この第一の「らしさ」は、個人がもともと持っている個性を抑制することで出てくるものだ。営業マンはあくまで営業マンとして振る舞い、
 
客に接することを徹底して訓練されることで社会的に信頼される「らしさ」が出てくる。

一方、どの個人も、それなりの人生経験で培われた個性がかならずある。ということは、この「らしさ」は、個人がその人生経験でできあがった個性を「くせ」として抑制し
 
型にはまった「らしい」人格へと組み入れられることで出来上がるものといってもよい。言い換えるとこれは、
 
組織の場面ルールに個人が完全に埋め込まれることで生まれてくるのがこの「らしさ」であるということだ。

ということは、この「らしくある」ことは、個人にとっては決して快適な行為ではなかったはずだ。ではなぜ多くの人は、このような第一の「らしさ」を積極的に受け入れ、
 
過剰なまでに一体化したのだろうか。それは、規範に一体化し、与えられた「らしさ」を身につければつけるほど、所属する組織の信頼できるメンバーとして受け入れられ、
 
安定と安全を手に入れられたからだ。一言で言えば、どんな人もひたすら我慢して耐え、とにかく「らしく」しているなら最後には報われたというのが比較的に最近までの日本だった。

第二の「らしさ」

一方、個性を抑制する第一の「らしさ」でも許された個人の「らしさ」が存在していた。これは、一度社会の規範に組み入れられた個人が、与えられた役割を演じ、
 
それを幾度と無く繰り返す過程でかもし出されてくるズレとしての「らしさ」だ。45度の角度のお辞儀や「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」の
 
掛け声はどんな接客業でも徹底して訓練するが、それぞれの個人がそれを繰り返すことで、最初はみんなほとんど同じだった振る舞いにも、
 
個人の間のちょっとした違いが出てくるようになる。それが個人の「らしさ」になってくる。これは第二の「らしさ」と呼ぶことができるだろう。

これは、平均的な振る舞いや行動からのズレとして生じてくるものだ。個人のちょっとした歩き方や話し方の相違、それにしぐさや癖に人はその人らしさが現われ、
 
その人独特の「らしさ」が出てくる。「山本君らしい」とか「三浦さんらしい」、または「矢部君らしくない」というのは、
 
個人のそうした本来の「らしさ」からのちょっとしたズレを個人の手触りとしてわれわれが感じているからにほかならない。
 
これは、先に説明した第一の「らしさ」とは根本的に異なる「らしさ」のあり方だ。でも、それが第一の「らしさ」から出てくるズレであるということでは、
 
「らしさ」のルールの脅威とはならない。これは組織では問題なく許容される。

第三の「らしさ」

このように、第二の「らしさ」でも個人がもっている本来の個性とユニークさは抑制される。

一方、ユニークな自立した個人として自分の人生を生きる個性的な「らしさ」は確実に存在する。

本来自分の人生の意味は、自分で見出すべきものだ。自分の所属する組織や仕事はとても重要であることは間違いない。

でも自分の人生の目標や生きがいは自分で決めるしかないものだ。こうしたことには、組織や他人によって与えられるあらかじめ準備された答えなどは存在しない。

人生の「意味」は個人の手に完全にゆだねられており、その「意味」は各人でまちまちだ。とにかく金をもうけることに最大の「意味」を感じる人もいれば、
 
人助けに人生の「意味」を感じる人もいる。一方、仕事が生きがいの人もいれば、仕事はそこそこにして家族が生きがいの人もいるだろう。

このように、ひとりひとりが人生に見出す「意味」はそれぞれ違っている。こうした人生の「意味」がそれぞれ一人一人の人間としての「らしさ」の原点にあるものだ。
 
だとするなら、この「らしさ」は「個の積極的なユニークさ」と呼べるものだろう。

おそらく、人生に大きな意義を見出し、個人としてその人にしかできないユニークな人生を歩むことは誰しも持っている普遍的な欲望だ。
 
それはみんな持ち合わせているもっとも基本的な欲望なのかもしれない。これを第三の「らしさ」と呼ぶことにする。

当然だが、自分の人生の目標や意味が異なっていると、それを実現しようとする行動には大きな違いが出てくるはずだ。金儲けが第一の目標とする人と、
 
人助けに人生の意味を見出している人とでは、おのずから行動に本質的な違いが生じてくるはずなのだ。前者の人はとにかく儲けになるビジネスチャンスを探すだろうし、
 
後者の人は様々なNPOなどに積極的に関わってゆくことだろう。こうしてそれぞれの個人が自分流の行動をとるようになるのだ。

だが、「らしさ」を強調する現代の日本にあっては、個人が自分の流儀にしたがって行動すると、それは「わがまま」とみなされ、
 
規範からの逸脱行為として排斥されたり、「半人前」としてまともな扱いを受けないかのいずれだった。

このように見ると、集団から突出するとは、個人のユニークさを追求する生き方のことであった。これは日本では受け入れられなかったのだ。

そうはいっても、「個のユニークさ」を希求す欲望は普遍的なものだ。どんなに抑制されても、この欲望はそう簡単には消滅しないはずだ。

ユニークな生き方をしたいという欲望は、個人の心の地下水脈のように、決して実現されない見果てぬ夢のようなものとなっていた。
 
人々は、生活の安定のために自由を犠牲にしていたと言えるだろう。

「立場」と「らしさ」を優先する文化、内容はどうでもよい

「怒り」を個人的な愚痴や感情に止めず、集合的な抗議行動へと昇華させるためには、社会的な立場や性別、
 
年齢にはこだわらない活発なディスカッションを通して多くの意見を総合し、多くの人が共有できる現実認識と行動計画を作り出して行かねばならない。
 
これがどうしても必要になる。

そしてそうしたディスカッションを実現するためには、「立場」や「らしさ」にはとらわれない自立した個人の存在がどうしても必要になる。
 
いわば、第三の「らしさ」が必要になるということだ。

だが、「立場」と「らしさ」を優先する現代の日本の状況では、こうした自立した主体は育ちぬくい。

しかしそれだけではない。「立場」と「らしさ」を優先する状況では、ディスカッションで必要になる内容のある意見が形成されにくい状況にある。

それというのも、この状況では、個人が話している内容よりも、「立場」に合致した話し方の形式がより重要視されるようになるからだ。
 
つまり、話している内容よりも、どう話しているのかが日本語の文化では重視されるということだ。

極端なことを言えば、結婚式のスピーチのように、たとえ話しそのものには内容がなくても、「立場」をわきまえた適切な話し方をしていさえすれば、
 
会話として受け入れられてしまうということになる。内容はどうでもよいことになる。

勢い、このような状況では、話の内容ではなく、怒っているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのかなど、気持ちの表現こそが重要になってしまう。話の中身ではない。

一方、建設的なディスカッションが成立するためには、自分独自のものの見方や価値観を表現できることがカギになる。ディスカッションでは、「立場」や「らしさ」、
 
そして気持ちはあまり重要ではない。何が言いたいのか意味の構築こそがものを言う。
 
一貫しており、分かりやすい意見こそ、もっとも尊重されるし、多くの人が共有できるものの見方の形成を促すものだ。

残念ながら、「立場」と「らしさ」、そして話の中身ではなく、話の形式を重んじるいまの日本の状況では、内容と意味のあるこうした話は成立しにくい。
 
残念ながら、これが現在の日本の状況だ。

待ったなしの状況

3.11以降、日本が危機的な状況にあることはだれの目にも明らかだ。日本の社会システムを担っているさまざまな組織の中枢が崩壊し、
 
まともな意思決定が不能になった状況だ。代りにそのような組織や機関では、既得権益を持った複数の集団の利害調整で意志が決定されている有り様だ。

既得権益を持つ集団以外、組織をコントロールできる権力を持った集団は存在しない。そのため、組織や機関が機能不全を起こしているからといって、
 
外部からそれを改革したり廃止したりすることが基本的にできなくなっているのだ。現在の政府、また経済産業省などの省庁や東電などの巨大企業はその典型だろう。

この状況を本格的に変え、新しい環境に現実的に適応できるシステムを作り出して行かない限り、おそらく我々の国は絶対的な終着点まで行き着くほかなくなってしまう
 
その後はさらなる自己崩壊を待つしかない。改革するのは待ったなしの状況だ。

我々の本格的な怒りに基づく抗議行動

そのような状況を打破し、新しいシステムの形成へと向かう流れを作るものがあるとしたら、それはひとつしかない。これまで書いてきたように、
 
我々の本格的な怒りに基づく一貫した抗議行動だけであろう。

筆者は決して考え方に賛同するわけではないが、アメリカの茶会派の国民運動は、2009年頃に始まり、まだ2年の歴史しかないにもかかわらず、巨大な国民運動に成長し
オバマ政権を脅かす存在になっている。いまの日本の危機的な状況では、このくらいの規模の運動は起ってもおかしくはない。

新しいリーダーを待望しても土台無理

新しいリーダーの待望論はもう何年も前から存在している。危機を打開し、変革を成し遂げられる能力のあるリーダーが必要だということだ。
 
そのようなリーダーを探して、2007年くらいから一年に一人の割合で総理を変えてきた。

しかし、新しいリーダーなぞ出現するわけがないことは誰しも百も承知だ。上に書いたように、日本の中枢を握っているどの組織や機関も、
 
既得権益を持つ集団の間の利害調整で意志が決定されている。中心のリーダーの位置は絶えず存在するのは空白なのだ。その意味では、戦前の大本営とほとんど状況は変っていない。

リーダーは組織を象徴的に代表する神輿にすぎない。小回りの効く中小企業やNPOは異なるが、大きな組織では官僚組織であろうが巨大企業であろうが、
 
現在の日本型の組織はすべてそうだと言ってもよい。

既得権益を持つ集団の間の利害調整にリーダーが介入し、リーダー自らが組織を変えようとすれば、リーダーはたちどころに既得権益の集団に包囲され、完全に動きが取れなくなる。

このような状況だ。リーダーを期待しても基本的には無理なのだ。

民衆の怒りの抗議運動が唯一の希望

ではこのような状況で本当に意味の変革を実現する可能性があるのはなんなのか?それは、我々の激しい抗議行動を通して政治家に働きかけ、
 
政治家をこちらが支持することで彼らに十分な力を与え、既得権益の集団の包囲を突破してゆくことだろう。

60年の安保反対運動、70年代の公害反対運動、90年代の反エイズ運動やハンセン氏病運動などは、国民の直接行動が政治を大きく動かした近年の歴史の好例だ。
 
運動の盛り上がりで、状況は根本的に変ったのだ。あれほど日本で騒がれた70年代の公害は、もはやいまでは存在しない。

日本は、おそらくもう待ったなしの危機的な状況に来ているはずだ。いま、我々が本格的な抗議運動を始めなければ、おそらくこの国は崩壊点まで行き着くだろう。

ではどうしたらよいのか?

まずは、怒りを個人的な感情に止めることなく、これを多くの人が共有できる現状認識や価値観へと昇華し、
 
抗議行動へと結び付けられるような対話を実践しなければならないだろう。それを、自立した個人が希薄な現代の状況で実行しなければならない。
 
そうして、飲み屋の次元の愚痴の循環から、解放されなければならないのだ。

ディスカッションで自立した個の出現

では、自立した個人が希薄な状況でこれは本当に実現できるのだろか?筆者はできると考える。先にディスカッションの手法をマスターすることで
 
個の自立が促されるという逆の方向をとることも可能なはずだ。それがどういうことなのか、順を追って説明しよう。全文はこちら
 
2011年9月6日 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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日本弁護士連合会会長の福島作業員に関する談話
 

東京電力福島第一原子力発電所作業員の急性白血病による死亡に関する会長談話

一部引用・・

東京電力株式会社(以下「東京電力」という。)は、本年8月30日、福島第一原子力発電所で復旧作業(以下「本件作業」という。)を行っていた

下請企業の40代の男性が急性白血病で死亡したと発表した。東京電力の発表によると、本年8月上旬の7日間、休憩所で作業員の放射線被ばくの管理に従事し、

その後数日間のうちに体調不良を訴え、死亡したとのことである。

 また、男性の7日間の外部被ばく線量は0.5ミリシーベルト、内部被ばく線量は0ミリシーベルトとのことであり、厚生労働省の労働災害認定基準に該当せず、

医師の診断によっても本件作業と急性白血病との因果関係がないとされている。

 しかし、急性白血病は遺伝などを原因とする例も見られるが、放射線被ばくや一部の化学物質への曝露等に起因する例が多く、

その原因の特定は疾患の種類や遺伝性などの他の原因の有無なども含め慎重に検討する必要がある。

全文はこちら

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