明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



制作中の人物の最後は、天才、奇才の伝記ではおなじみのものである。飲酒のあげくに最後を迎える。詩人で画家の村山槐多は結核を患い喀血。自暴自棄になりまた飲んでしまう。房総を旅し、紫外線を浴び、健康を取り戻しつつあると思っていた矢先の喀血がショックだったのであろう。最後は「白いコスモス」「飛行船の物憂いひかり」という意味不明なことをつぶやいて亡くなる。ジャズの天才アルトサックスプレイヤーのチャーリー・パーカーは、飲酒もさることながら酷い薬物中毒で、衰弱して死んだ時の警察の検死報告では、母親より年上に判定されている。私はパーカーのサックスは、単にモダンジャズ音楽というより、この世の物ではないと考えているので、その才能を抱えるには生身の肉体では元々無理があっただろう。そしてこの人物。亡くなる前から心臓が弱っており熱もあった。そして飲酒の果てに誰だか未だに判らない人の名を口にして亡くなる。 伝記を読みふけった子供の頃の私は思ったものである。可哀想に。なんでこうなるまで誰も止めずに放っておくんだろう?大人はみんな勇気があるから、顔が黒ずんでこようが頭をぶつけて何度救急車に乗ろうが平気なんだよ。そんな秘密は誰も教えてくれなかった。 先日、近所のある人物に私はいった。「あんたは酔っぱらって知らないうちに死んじゃうからいいけど、酒臭い死体見せられるこちらがたまらないよ。兄弟があっちで暮らそうって呼んでくれてんだろ?行くべきだよ。K本の猫だって死ぬとこ見せないんだから」。 当ブログではよくあることであるが、書き始めたら風に流された飛行船の如くに、予定と違うところに着地してしまった。近所のただの酔っぱらいで〆てしまい、前述の天才芸術家の方々には大変失礼なことになってしまった。

『世田谷文学館』展示中

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