本日久しぶりにスケッチブックを買う。何度か書いたことがあるが、私の場合うかつに画を描くと、構図その他、それで固定してしまい、何も変更できなくなることがある。ああだこうだしたいので、アイデイアスケッチなど一切やらないことにしている。しかしエドガー・アラン・ポーの場合、適当なロケ先があるわけではないし、ある程度背景を作り込むことになるだろう。壊すと中から腐敗した死体とともに黒猫が現れる壁など。となると、どこまで作らなければならないか、また作らないで済むか、あらかじめ考えておく必用がある。 午後田村写真へ久しぶりに行くと、ペッバール型レンズに溢れていた。湿板写真その他、古典技法のワークショップなど、新たな方向に向かっている様子である。私が古いレンズを集めていたころは安価であったレンズが、ebayなどで有り得ないような高額な物になっていて驚いた。印画法によっては、色に対する感色性が違うので、発明された当時に作られていたレンズが最適ということがあるようである。レンズはお国柄が出る。製造者の、私には世界がこう見える。というのが反映するのであろう。私はイギリス製レンズがどうしても好きになれない。専門的なことは良く判らないが、単純に良い目に合ったことがない。ただそれだけである。逆に1カットでも良い結果がでれば良いレンズ。ということになる。しかしそれも被写体による。昨年、拙著『貝の穴に河童の居る事』を制作するにあたり、梅雨時のじめじめした房総が舞台なのに、背景の撮影中、晴天続きであった。それが日が落ちる頃、評判の悪い陰鬱に写るレンズで撮影することにより助けられた。そう考えるとエドガー・アラン・ポーは、母を撮ったら本人にとても見せられないような写りをしたレンズを使うべきで、美しく爽やかに写るレンズは必要ない。
『世田谷文学館』展示中
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