明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

新年  


5月の個展では三島没後50年という事ではあるが、三島が死んでいるところばかりではなく、数年前から始めた陰影無しの日本画調ピクトリアリズムを、もう少し押し進めてみたい。知り合いのカメラマンには、そんな絵のような作品を作りたいなら、だったら絵で描けば良いではないか、といつも言われるが、それは具象画家に、絵なんか描いていないで、写真で撮れば良いではないか、と言うようなもので話しにならない。 私が写真に取り入れたかったのは、陰影がないことによる、西洋画に無くて日本画にある自由さである。西洋画を写真に置き換えても良い。一つの画面に時間経過まで入れてしまったり、自由にやりたい放題に私には見えた。せっかく被写体まで自分で作っている。もう一超えできないか。日本人が陰影を描かなかった理由は諸説あり、決定版と言える説を私はまだ聞いた事がないが、一神教と多神教の違いは関係無いのだろうか。光(光源)が一つと決められた西洋画の世界は窮屈で不自由である。その点、日本には便所にさえ神様が居る。 また絵なら何でも描けるかというと、すでに亡くなった人を絵で描く場合、どうしても残された写真を写す事になり、そのポートレートから、角度を一度程度でも上下左右に振って描くのは至難の業であろう。その点立体は、コーチの教えを律儀に守るボクサーのように、決して顎を上げようとしない宮沢賢治を下から撮ることもできる。よってせっかくなので既存の写真とかぶらない角度で撮ることにしている。例外と言えば、写真の鼻の修正を疑った夏目漱石の時は、デスマスクでかぎ鼻を確認するまでは、危険を回避し、正面から撮ったけれど。



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あけましておめでとうございます。

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