明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



何かを変える時、例えば、ジャズ、ブルースシリーズから作家シリーズに転向した時には、未練なく、ジャズ、ブルースシリーズは辞めた。であるから、陰影を消す、となると以降は、全てその手法で行くつもりであったが、早々に壁に突き当たった。 つげ義春トリビュート展に出品が決まった時、モチーフはすぐに『ゲンセンカン主人』に決めた。ガロ誌上で読み 、その土俗的エロスに強烈な印象を受けた。中学一年頃であったろう。あんな世界を初めて知った。ところがである。例によって本物の女性を被写体としたが、暗い部屋で半裸の女性に行灯の光による陰影を与える誘惑抗し難く、遠慮がちであったものの、陰影を留めた。さらに浮世絵的遠近法まで取り入れようと試みたが失敗。迷走し、会期中に2回も出品作を差し替える失態を演じた。絵画的といっても成分は、カメラを使用した写真である。写真とはこのように写る物である、と言う先入観があるせいであろう。よほど歪ませない限り、意図通りの遠近感には見えない事が判った。今後の課題ではあるが、使い方は限られるであろう。“画材”により、やれることとやれないこと、もしくは向き不向きがあるということであろう。 という訳で、消すなら消す、消さないなら消さない、白黒はっきりさせて行きたいのは山々ではあったが、陰影の有無は作品によって使い分けて行くことにした。 それにしても、自分が汗して作り出した人形の陰影は消せても、女体が描く陰影は頭を掻きむしり、悩みながらも惜しくて消せない、という、なんともしょうがねェなあ、という気分ではあった。







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