明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



江東区の芭蕉記念館では、年始からプラケースに入った小さな2020年カレンダーを配っている。私の芭蕉像も小川芋銭や英一蝶に混ざり。おかげ様でカラーは目立つ。来館者は年配者が多いだろうに文字が小さいけれど、数は少ないようだからいつまであるかは判らない。 新年早々、三島由紀夫の文学についてならまだしも、『男の死』ばかりで、本日もハラキリについて書こうと思ったが辞めておく。ただでさえ制作のことばかりで面白くない、と近所の連中によく言われた。 そういえば、ホームページを立ち上げたのが2000年であるから今年で20年ではないか。今気付いた。相変わらずである。どうせなら元旦に気付け、という話である。最近は何もかも後手後手で今年に入って寝しなに2度も胃液が逆流して咳き込む始末である。老化が加速しているのだろう。 リンクが切れているが何処かには在るだろう。ブログ以前の身辺雑記から考えるとよく与太話を書き続けたものである。雑記の頃は短文で、サボっていることがバレないよう日付は書かず某日と書いていた。最近はほとんど毎日書いているが、文章が無駄に長くなったのも老化現象のウチであることは間違いないだろう。考えを整理するため、備忘録、制作ノートとして書いているが、いずれ馬鹿な事ばかり考えていたな、と笑えるだろう。今すぐでも笑えるけど。 三島を作り始めた頃の雑記を探し出してみたい。最初から男の死しかモチーフは浮かばなかったが、資料としてヤフオクで入手した芸術新潮で、篠山紀信撮影で男の死の存在を知った日のブログなんて読んでみたい。驚いているのか負け惜しみしているのか。ちょうどその頃、おそらく父が亡くなったり、小学校2、3年の時、成田君という気の合う同級生と、校庭の隅にあった、滑る所がない、壊れた滑り台でピストルで撃たれ、滑り台にすがり、ぶら下がり落ちて死ぬ“忍法死んだマネ”というのを飽きずに繰り返した事が書いてあり、後で三島の『男の死』も忍法ではないものの、死んだマネじやないか、と笑った覚えがある。いずれポックリ行けず、身体が不自由にでもなったら、初めから読み直して呆れてやろうと思っている。20年も続けていると、物心ついてからの事はおおよそ書いてしまっている。これでも都合の悪い事は書いていないつもりでいるけれども。という訳で、身辺雑記20年目突入に気が付いた本日である。





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