明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



5月の個展は、幸いな事?に三島以外に石塚式?ピクトリアリズム作品を出品する。何にするかな、と考えていて、つげ義春の『ゲンセンカン主人』は自分としては色々あった好きな作品だし、別カットも、と考えてみた。舞台になったひなびた温泉でも撮れたら、とも思うが思い付かないし出不精だし、それがたとえ撮れたとしても、私にしては普通だし。乱歩の『屋根裏の散歩者』の屋根裏は、パソコンの入っていた段ボール箱を利用して作った。今でもパソコンの入った箱はあんなに大きいのであろうか。つげ義春作品集を引っ張り出して見たが、これはいくらなんでも難しい。それにまた思いっきり陰影を出したくなるに決まっている。 見たらガロ誌上に発表されたのが68年である。私は中学一年頃かと思っていたが、小学5、6年ではないか。どうりで。 ゲンセンカン主人は、男がどこからか流れてきて温泉宿にたどり着く。宿の女主人は聾唖者である。混浴だと言うので誰もいないであろう時間に風呂場に行くと、女主人が一心不乱に拝んでいる。男は欲情し襲いかかる。女は抵抗するが、言葉の通じない男は手であるサインを示す。すると女は“へやで”と指で書いて出て行く。私の制作したのはその後の部屋で男を待つ女である。今見ると私の作品は“事後”のように寝間着が乱れているのが変だが、まあ構うことは無い。整合性や矛盾などお構いなく、夜の夢を優先。それこそが乱歩チルドレン?である。 ところで言葉が通じないので男は猥雑なハンドサインを女に示した訳だが、小学生の私は、ある日、母に向かって「これってなあに?」そのサインを母の眼前に突き出していた。小学生が、こんな漫画を読んでいるとは母は思いもしないだろう、という子供なりの油断もあったろう。母は平静を装い「女の人の身体」だと言った。私としてはこれの何処が女の人なんだ、とは思ったが、どうも漫画の雰囲気上、これ以上踏み込むのは危険だと判断し、母も何でそんな事を?とは踏み込んで来なかった。つまりお互い踏み込んでも良いことはない。何事もなかった事にしようという微妙な空気が流れた小学生と母親の昼下がりの出来事であった。

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