他人の何気ない一言で、気が付くことがある。それはジャズ、ブルースシリーズの自作品を撮影し、初めての個展の時であった。某ファッション誌の編集者が、被写体が目の前に有るのにかかわらず、写真は人間を撮影したと間違えた時であった。おっちょこちょいな話であったが、本来それだけリアルに撮れている、ということなのに、何故私は嬉しくないのだろう?今にして思うと、私が、乱歩いうところの、“現世(うつしよ)は夢 夜の夢こそまこと”体質なのだ、とまず身体が反応した瞬間だった。翌年、デビューから十数年続けたシリーズを捨て、その乱歩を含めた六人の作家により作家シリーズを開始した。 その後何年も経ち、都営地下鉄のフリーペーパーの表紙で一つの実験をした。それは人形としてどれだけリアルにできるか、ということであった。CGといっても、最低限、大きさと色味の調整だけでやってみた。ちょっとした遊びであったが、結果、老人である古今亭志ん生に、巨大な火焔太鼓を背負わせたのにかかわらず、見る人には実写に思われた。つまり老人に重い物を担がせようと、気球にぶら下げようと、見える物は見える、ということである。私の最高作、といってくれる人もあるが、やはり私のやるべき方向ではなかった、と再確認した。最近の陰影を排除する手法というのは、説明するまでもなく、私が制作した作り物である、ということが誰が見たって明らかである、という意味で、心穏やかでいられるのであった。まさに紆余曲折の果て、というわけである。しかしだからといって、太宰治や、エトガー・アラン・ポーの陰鬱な表情に、陰影を与えたければ、何も無理して我慢することはない、とようやくそんな心持ちになれた、という令和二年である。
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