足腰立たなくなる頃に備え、あらゆる物を部品として撮影しておこう、と考えた事がある。それこそ空から地面から壁から樹木から。まあキリがないし、保存したハードディスクが壊れたりしたが、それでも多少は役に立っている。 私の場合、写真の特質でもある時代を記録するということが眼中になく、外側の世界にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想であるから、そのために備えておきたい。大体、普段はのんびりしているのに作ることになると一変してせっかちになる。2月に11月頃の空が必要になった時、即座に引出しから取り出したい。昨日のブログを書いていて改めて思った。ただ自分で考えた方法を取っていると、自動的に自分の思い描く世界に近づくようにできている。 浮世絵を意識した縦横比の画面に、以前作った後ろ手に縛られ矢が刺さった三島を仮に配し、滝沢馬琴の木版から起こした文章を背景に配して見ている。私は一人、いったい何をやっているのか。こんな甘く痺れるような孤独感に満たされる時、幼い頃からお馴染みの快感物質が溢れ出るのである。であるから、幼い子供が西の空でも眺めて口をあんぐり開けたままでいたら、ロクなことを考えていないのだから、ただちに頭をはたくか、気付けにアンモニアを嗅がせて我に返らせるべきである。当ブログでは良い子のみんなが、一生を通じて、妙な快感物資に取り憑かれることがないよう、事あるごとに注意を喚起している。
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