出来た出来たといいながら気になるところが出てきてやっている。そのあいだに板葺き屋根の板をひたすら切る。天候さえ良ければ、明日の夜には板葺き屋根が完成する予定である。その上にはいくつか石を乗せて押さえる。いずれ着彩の後には草が生える予定。腰痛がこれ以上きつくなる前に完成させたい。 買い物ついでの図書館で水墨画の『寒山拾得』が載っている書籍を観る。素人が描いた下手くそな寒山拾得みたいだな、と思っていたら、昔の東京美術大学を出て有名画家に師事し、勲章や文化功労賞まで貰っている。この国は、こんな下手くそになんて扱いしていやがる、と呆れかえる。肩書きばかりで、死ぬと作品の値段が暴落する典型的な例である。というよりこんな作品を買う人間がいるとは思えず。これが禅味だとでもいうのだろうか。今生きてるかは知らないが大学でも教えている。こんな下手くそが一体何を教え伝えているのか。 何度か書いたことがあるが、博物館に行くと、父から子へ、師匠から弟子へ、連綿と受け継がれて行き、だんだん良くなるはずが、どうもそういう訳には行かず、むしろ今では作り方さえ不明な作品もある。これらを眺める度、誰に教わる訳でなく、独学者の遅遅として進まない廻り道を感じていた私に“これで良いのだ”と思わせてくれるのである。この廻り道にこそが肝腎であり、手を差し伸べられては得られない何かがあるはずだ、と思うのである。そして一歩進んだ歴史を二歩下げるようなこんな輩がちゃんと作用していて、おかげで博物館で先人の功績に関心し「昔は良かった。」と堪能が出来る、という仕組みなのであろう。