寒山拾得に策がない、といいながら、結局は、ただそのまま描けば良いのではないか。まずは、かつて泉鏡花の『貝の穴に河童の居る事』で、やったように、森鴎外がほぼそのまま書いた『寒山詩集』の序文に描かれた寒山と拾得のストーリーを人形を持って制作する。そしてその間に、古来から中国、また日本で連綿と描かれ続けた名場面を差し挟んでいく。 そもそも私如き者が、禅の何某かを感得し、後に事を起こそう、ということ自体が大いに間違っている。日々金魚を眺めながら悩んでいても進展することなどあろうはずがない。寒山拾得をモチーフにしてきた星の数ほどの絵師達も、描く事自体で何某かを得ようとしていたに違いがない。 泉鏡花の『貝の穴に河童の居る事』の時にまずは河童を作ったと同様、主役の寒山と拾得を作る。さらに河童と同様、いくつかの表情のバリエーションを作る。 そもそも貝の穴の時は、人間ばかり作って来て、人間にあらざる者を、つまり妖怪の類いを手掛けてみたかったことが発端だったが、私は元々、中年男、または爺さん専門の人形制作者といっても良く、さらに、約四十年前、個展デビューからずっと架空の人物専門であった。写真資料を集めて誰かに似せる必要がない分、作るのは早い。今回まず決めているのは、河童でそうしたように、髪は人形用の髪を使う。 正月は水槽内には紅白の金魚が舞い踊り、それを眺めながら、正月が明けた頃には、登場人物の頭部がいくつか出来上がっていることであろう。