明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ホームセンターへ。何度通ったことだろう。おかげでつい余計な金魚を買ってしまったりした。ブラントである志村養魚場産の金魚など入荷するので侮れないのである。 詳細な図面があるわけではなく、予定や気が変わるで、一度に材料を買うと無駄になる。屋根の板など、張る段になり、歪みを演出するため馬糞紙を使うことを思い付き、買った板が無駄になってしまった。多少の無駄は、寒山拾得の逆遠近に歪んだ室内背景を作る時に流用しよう。なんて書いていながら私はなんて奇妙なことをいっているのだ、と思うのだが。 出無精をこじらせたこともあるが、好奇心を自分の頭の中のイメージだけに向けたことで、人の作品に対する興味が薄れてしまった。一度入ったものは出て行かない。これをずっと恐れて来た。おかげで他人からの影響をたいして受けることがないので、常識を身につけることなく、あらぬ方向、ペンペン草一本生えない荒地に平気で歩いて行ける。古典技法などほとんどやる人がいない時代に写真の素人がオイルプリントを独学出来たのも、そのためである。しかしこれで案外客観的な部分も持っていて、自分独自の、新たな、寒山拾得を作るなんてことはゆめゆめ考えることなく、写真で寒山拾得を実現すれば充分である。というより、そうでなくてはならない。寒山拾得とは、そういうモチーフである。 友人が、また私が寒山拾得などと馬鹿なことをいっている、と92歳の母親にいったら、何をいっている。この人はエライ!といわれたそうである。判る人には判るのである。



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五月の個展について飯沢耕太郎さんが書いていただいていたのを今ごろ気が付いた。アートスケープもっとも過酷な自粛の時期に開かれたので有難いことである。ここのところ、この時のことを書く際にタイトルに”椿説“を入れるのをすっかり忘れていた。これはこのモチーフに対する私の心意気を示す言葉であり、ニューヨークでこの後十月に“真説”が出版された今、余計意味が出て来た。作者が個展のタイトルを間違えてはいけない。改めて読ませていただき、さらに次の段階に猛進する事を誓った。私のようなタイプの人間の常で、部屋は片付けられないけれども、集中力だけは、クレヨンを握ったまま寝てしまいシーツを汚して叱られた、物心ついて以来衰える事がない。  塗った漆喰を乾かす。やはりにわか左官屋ではなかなか上手くは塗れず、昭和のスナックの壁の如き様相になる。乾かしてペーパーがけ、乾き次第、また塗ってを繰り返すことになるだろう。我が家の寒山拾得水槽は、気が付くと出演メンバー以外の金魚が紛れて過密状態である。年内に水槽を増やさないとならないだろう。



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