10月にニューヨークで出版された三島由紀夫『男の死』は、国内では50万の大型本が出るそうである。今の所、内容に関しての論評が聞こえて来ない。何しろマニアの三島が、自分にとって嬉し楽しい死に方を考え、それを篠山紀信に撮らせている。数カットしか見ていないが、嬉しそうに演じているだろうことは、想像に難くない。あんな嬉しそうな三島を見たことがないと企画者である内藤三津子さんの証言もある。 篠山紀信は、三島の主導で、ただ撮らされつまらなかったといっているが、今回は三島のいうとおりに従った、次は細江栄江の『薔薇刑』のように、こちら主導で被写体に徹して貰うぞ、と内心リベンジに燃えており、おそらく構想もすでにあっただろう。直後に死ぬことは予想外の事だったようだが、そのショックには次回予定の作品を撮り損なったショックもあっただろう。いやそればかりではなかったか。被写体がないと撮れないというのが写真の欠点である。 それにしても内容について聞こえて来ないのは、文学的にも、政治的にも解釈、論評のしようがないからであろう。あれだけあだこうだいっていた連中も、つい下を向いて黙ってしまうことであろう。であるからこそ、これを事件直後に二の矢として放ち、ザマアミロ!とするつもりでいたのに、と三島の無念を思うのである。この件になると繰り返しでばかりになるが、私は男の死というモチーフを通し、妄想上個人的に対話をし、その褒美として出版の5ヶ月前に個展で発表出来た、ということで満足である。作家をモチーフに長らく制作してきたが、これ以上歯応えのあるテーマはもうないだろう。 といいながら実をいうと、脱いでくれる三十代の女性さえいたら谷崎潤一郎だけは最後に手掛けておきたいのたが。