明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


芭蕉記念館に納めた芭蕉庵は、奥の細道に旅立つた直後をイメージしたのだが、会場で確認すると、庵の出入り口を閉めてしまうと室内が暗すぎるので、少し開けておくよう戸を直している。さらに旅に持って行かれない文机と門弟達が芭蕉のために米を持ち寄ったヒヨウタン、煙草盆、を追加しようと考えている。燕の巣は一応持って行って着けるかどうか考えることにする。 我が家の寒山拾得に見立てた金魚は、いつの間にか定員過剰になり、数からいえば、二軍の寒山拾得劇団が結成出来るだろう。一軍では一番大きい青文魚が豊干禅師、桜東錦二匹が寒山と拾得のコンビ。というのは相変わらず決っている。二軍を選ぶとすれば、肌色したシルク東錦が豊干で、飯田産琉金と金魚坂で入手した中国産ショートテール琉金で寒山拾得としたいところてわある。 昨日のブログで書いたが、ヘソ下三寸辺りから聞こえて来る声はともかく、表層の脳は、いくらなんでも寒山拾得は無茶ではないか、と未だに思っているのだが、理由は判らずとも衝動に任せた方が、結果は必ず良くなる。今回もいつものように任せるしかない。そして二年後の個展会場では“始めから計画通り。こうなるこのは判っていたのです”という顔が出来れば、結果オーライということになろう。



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被写体から陰影を排除することになったきっかけは、九代目市川團十郎を作った時である。様々な役者絵を見ることになる。何でみんな同じ顔に描くのだろう、なのに当時の日本人は、ブロマイドのように贔屓の役者の絵を買い求めた。そうこうして、現代の目で見ると、皆同じように見える絵が、実はそれぞれの役者の特徴を表現していることが判って来た。そこを庶民は味わっていたのだ、と思った時、当時の日本人の文化度の高さ、という物に感心した。 また日本人にも陰影は見えているはずなのに何故描かなかったのか。葛飾北斎のドラマで北斎が西洋画を見て「見たまんま描いていやがる。」西洋人ていうのは想像力に欠け、見たまんま描くとは、なんて野暮で野蛮な連中なんだ、といっているようであった。残念ながらその北斎自身も、娘共々野暮で野蛮な西洋的リアリズム方向に向かって行くのだが。そう思うと、私が、真を描く、という写真という言葉をことさら蛇蝎の如く嫌い、フレームの中に真など描いてたまるか、と悪戦苦闘し続けてきた理由が見えてきた。”ホントの事などどうでも良い“これも私が常々口にしていたが、目で見える事などどうでも良い、イメージ優先だ、と言い換えることが出来よう。小学校の図画工作の時間、写生となるとガッカリし、石膏デッサンほど馬鹿馬鹿しい物はない、と数える程しかしやったことがない。今から約三十年前、あるミュージシャンをビデオ、写真資料を見ながら作ったつもりが、頭の中にある、かつてのミュージシャンになってしまい、人に指摘されるまで私は気付かなかったた事がある。私の頭に浮かんだイメージは何処へ消えて行ってしまうのだろう。と悩んだ幼い頃から、ここへ来て、私の中には、西洋的リアリズムに犯される以前の日本人の記憶が残されているのだ、と思うようになった。そう思えば古典技法を用いたり、真を写す写真にあらがい続けてきた理由が解る。随分時間がかかったが、首をかしげながら死ぬよりよっぽとマシであろう。一挙にかつての記憶を蘇らせるには『寒山拾得』ぐらいを手掛けて丁度良い、と私の何かが判断したのであろう。


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