明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



豊干禅師が阿弥陀如来の化身だ、と勘違いしており、実は釈迦如来だった、と先日書いたが、阿弥陀如来だ、と書いてある本が、本棚の中にあった。月を指差すのは拾得である、と断言している文献もある。禅宗のモチーフとして、実在した風狂の人と見做されている布袋尊が指差す画もあるし、誰が指してもかまわないだろう。巻物を持つ寒山が指差すものも箒を持つ拾得が指している作品もある。 私としては、座禅もしたこともないのにこんなモチーフを、という気分があるのは否めない。それはやればやるほどつのる部分もなくはないが、私が禅画の類いを見て、その気になってこうなった訳で、それは制作された意図をまともに受け取った結果である。という意味では問題は感じていない。 美術的基礎もほとんどなく、独学我流でやって来たのに、私のカンは、余計なことは知るな学ぶな、と自分を守って来た。その理由がここに至りはっきりして来た。〝考えるな感じろ”を阻害する物を本能的に排除して来たということだろう。そのためには、寺や山にこもるのも効果があろうし、王様に石の塔に幽閉されることも、あるいはコロナ禍さえも。 月を指差す寒山を作った時〝考えるな感じろ月を指し指を見ていてはならない”の意味を知った時確信した。



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