明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



現在のモチーフを手掛けるようになってから、昔から頭のはしっこで何となく思っていたことを、改めて考えることが多くなった。私には幼稚園、小学校時代からの友人もいる。よって思春期に遠くを見る目になったり黙りこんだりの変化を見てきた。しかし私は変声期がないかのように無段階である。昔、小学校の同窓会に出たら、ただ拡大しただけだ、といわれたが、高校出て入った工芸学校の同級生と数十年ぶりに会った時は、あまりにあの頃の調子で現れたので、戻るのに時間がかかった、といわれた。知らんがな。私に言わせれば肉体的なことを別にすれば人間の内容が経年変化する方がむしろ謎である。それも原因か、私生活上の変化も引っ越しか、作る物のモチーフの変化しかない。そんな私がいつしか至ったのは、人間も草木同様の自然物であるから、あらかじめ肝心な物は備わっているのではないか?と当ブログにも事あるごとに書いて来た。達磨大師は壁に向かって座禅九年で手足が腐って無くなったそうである。 レンズを外側に向けず眉間に当てる念写が理想などと出不精の言い訳みたいなことを言い続け、どうも中国の雄大な風景さえも作業台の上で。作る方向に至りつつある。



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