明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨年から作って来た全十四人が、仕上げ着彩を残し完成した。残るは、仏教、道教、儒教の三教一致の禅の精神を表した『虎渓三笑図』とほぼ同様の、寒山と拾得と虎と豊干禅師が寄り添い眠る『四睡図』をスケジュール的に間に合えば、と後回しにした。 後は仕上げを進めながら、中国のトゲトゲしい遠景の山並みなどの制作について始めなければならない。背景をどこまで作るか、或いは実景をどこまで使うか。この虚実のブレンドが工夫のしどころだが、ついに全てを作ってしまった場合、私は鬼の首を獲ったかのように、外側の世界にまったくレンズを向けずに完成させた。だからいったろう、刑務所に入れられても、いつもとクオリティの変わらぬ物を持って出所してやる、と。カンラカラカラと調子に乗るのが目に見えている。 まことを写すという意味の写真という言葉が生理的に癪に触った。それに携わると、自動的にまことに関わるようで虫唾が走る。写真を始めた直後から様々な方法でずっとあらがい続けて来た。結果、私のやってることは写真なのだろうか?カメラを使った別の何かなのだろうか? とどのつまり江戸川乱歩いうところの「現世(うつしよ)は夢夜の夢こそまこと」であり、それについては私も乱歩同様、生まれつき知っていたと思う。



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