明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



三島由紀夫が映画憂國で使ったのがワグナーのトリスタンとイゾルデの抜粋30分ほどだが、1932年ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団だそうである。楽団は未確認だがヤフオクで4枚組CDの中に、ストコフスキー32年録音のトリスタンとイゾルデが入っており送料込で378円。三島の葬式の時にも流されたという。 ヤフオクといえば、先日いただいた有機栽培のお茶だが、水出し用ボトルもいただいたので、水出しで飲んだ。本当の有機栽培のお茶は審査の厳しい輸出物にはあるそうだが、国内に出回っているのは厳密にいえば少ないらしい。昨日の段階では、あまりに飲みつけてないし、こんなものかな、と思ったが朝、残りを飲んですぐ判った。もっと時間を置くべきであった。これは私の知っているお茶とはかなり違う。電気ポットをいただいたおかげでお茶を飲むようになったが、急須がないのでティーバッグで飲んでいた。このお茶もお湯で淹れたい。ヤフオクで急須を探す。ところが、すでに瑠璃水玉のご飯茶碗と湯呑を入手済である。公民館、葬儀場、職員室、ドライブインでおなじみの瑠璃水玉である。これは良い、という急須を見つけても、この超ロングセラーの前ではどれも合わず、結局瑠璃水玉の急須になった。いずれも復刻版でなく昭和のデッドストックがせめてもである。この完全有機栽培のお茶が、乞食が馬をもらうの故事の如く、乞食がお茶をもらうとならなければ良いが。これでお茶殻を撒いて棕櫚製ホウキで掃除することも可能ということになる。なんだか勿体ない気はする。

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一日  


長い間考えていた椿説弓張月が私としては大仕事で、様々癒えないまま太宰の背景のたばこ屋に妙な看板娘を起用したものだから、昨日はダメージが回復せず。電柱一本立ててゴロゴロして終わり。考えていた北斎の構想が、撮影場所が閉鎖で頓挫したことも気が抜けた原因である。本日より松尾芭蕉に取り掛かるつもりであったが、今週いずれも和紙にプリントする予定の三島その他の最終チェックに費やし、甘い物も食べたくなりアリオ北砂へ。どこのコンビニより近いので、助かっている。隣り合わせを避けるためかストール的な座り場所が撤去され、レジにはビニールの覆いが下がっていた。明らかに先週の平日とは様相が違っていた。 最終チェックで今日は止めて早めにアルコール消毒で暖まる。 芭蕉は夏までに芭蕉庵も作り、江東区の芭蕉記念館に2体目として収まることになっている。江東区関連で世界的な人物といえば小津安二郎と松尾芭蕉ぐらいだろう。両方とも江東区に収蔵とは有り難いことである。 以前辻村ジュサブローさんにお会いした時、あなた人形はどうしてるの?売ると出して貰えないから売らないことにしている、とおっしゃっていた。この歳になり、その気持ちが判る。出来るだけ人に観てもらえる所に納まってもらいたい。 5月7日からの個展のDMを出したいのだが、施設関係は閉鎖中だし、知り合いでも持病を持っている人は今回は無理かも、といわれるくらいなので、メールをやっていないからといって高齢者にはどうも出しにくい。困ったものである。 

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太宰一作目も眠くて何度も寝たり起きたりしながらなんとか完成した。一晩明けてみるとここに電柱があってもいいな、と朝食前に。 無理だと思いながら遠近感の件を試してみるつもりでいた葛飾北斎が画室で絵を描くの図コロナのおかげで撮影場所の閉鎖で無理となった。仕方がないが、このペースで行くと大ネタ過ぎて無理が生じたかもしれない。私のことだからもっともっと、とやってしまうのは目に見えている。残りの時間を使って松尾芭蕉に取り掛かることでちょうど良かったかもしれない。 作業するのは旧い文机なのだが、欅の昔の物で泉鏡花のような華奢な文人が正座して、しみじみ書く用の物であって、正座どころかあぐらをかくのも座布団を3枚重ねて座っている始末で、粋がるのも大概にしておけ、という話である。仕方なく、発泡スチロール製のコンクリートブロックみたいなのを入手して、それを机の下に足して高さを調整することにした。この調子で行くと、いずれ制作だけは机と椅子に変更せざるを得ないかもしれない。 猫舌のせいで熱いお茶を飲む習慣がなかったのだが、電気ポットを頂いたのを機に瑠璃水玉の湯呑でしょっちゅう飲んでいる。そんな話を知り合いのお茶屋さんと話していたら、有機栽培のお茶を贈っていただいた。有機栽培といっても半分は嘘だそうで、いくら無農薬でやっていても、山の上で農薬使われたらお終いなので、一山所有していないと無理なんだそうである。3ヶ月飲んだら他のお茶は飲めないそう。もしゃもしゃしたお茶。水出し用ボトルもいただいたので、窓際のお茶を眺めながら、電柱一本立てただけ。 懐かしい角川のウイルス映画復活の日を観る。


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焼き物の窯がそうだったが、一度温度を下げると上げるのに時間がかかる。三島が完成し、何だか気が抜けてしまった。特に椿説弓張月が大変だったので余計に脱力してしまい結果、太宰をグズグズして予定より完成が遅れた。 当初太宰は、ただ広々とした空を背景に立っている、というイメージでいたのだが、弓張月をやってしまったら、太宰をそんなあっさりと済ます気になれなくなってしまった。 思えばこうやって、三十有余年、日々変化してきた。よって以前の作品、やり方のほうが良かった、といくらいわれても階段を一歩も降りたくない。おかげで超がつく面倒くさがりが、なんでこんなハメに、ということになってしまった。自業自得というものであろう。 以前、足腰立たなくなった時に備え、世の中のパーツを撮り貯めておいて有事の際に、と考えていたことは書いたが、手元のデータが役に立っており本気で再開しようと思う。街中に立つ太宰。ただそこに人を立たせようと想定して撮っていないので、右側に景色を付け足し、太宰を立たせるスペースを捏造。たばこ屋に決めた時点で店番も決めていた。私が三十年以上通った江東区は木場の煮込みの名店、河本の女将、真寿美さんである。亡くなるまで来年二十歳、といっていた。何かの折に登場してもらう機会を伺っていた。供養になる。 あと残るは画室の葛飾北斎と松尾芭蕉の制作だが、北斎の画室は、撮影場所が閉鎖されて諦めることとなった。こういうところが写真の欠点である。やはりパーツを事前に集めておくべきである。明日、明後日から松尾芭蕉二体目制作に入る。





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ふげん社からDMが届いた。CDジャケットのようなサイズでほぼ真四角。5月7日〜という微妙な時期である。文学館などに送っても持っていく人がいなければ仕方がないのか。今後状況によって何があるか判らないが、せっかくいただいた機会なので私はただ制作を続けるだけである。 それにしても良く寝た。これはどういう気分かというと、長年溜めていた借金をようやく払い終わった。という感じではないか?椿説男の死が完結する時が来るとは思わなかった。といっても時間ばかりかかって、たった20数カットであるが。 クリニックに定期検診へ。ドアは開け放っていた。いつ死んでもおかしくないといわれていたのに引っ越し後の自炊再開が良かったのだろう。数値が物凄く下がって褒められっぱなしである。背より高い冷蔵庫がものを言った。食事は大事だというのは本当だった。昔、ビタミン剤を飲んだらポパイのほうれん草の如く、ハッキリ効いた。ろくな食生活ではなかったので効き目がハッキリ判った。出来るだけ働かず好きなことを、となると、どうしてもそうなる。 それはともかく、ひと仕事終えて力が入らず、あれ程太宰に色を塗ると言っていたのに、何をする気にもなれず、私にしては珍しい。このブログをアップしたあとに、やれるところまでやり、明日は撮影したい。太宰には私に苦労かけた分は返して貰わないとならない。スカしてただ突っ立っていようなんて許せない。実をいえば、そのスカしようは、完全に許した訳ではないのである。昭和三十年代の葛飾区は、スカしてるかスカしていないかは肝心なことなのであった。

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愛の処刑は撮影は昨晩済ませたが、用意した背景に収めるのに時間がかかった。その間、気がつかないうちに、4、5回寝ていた。パンフレット用に最後の愛の処刑のデータを送る。ひとまず安心。それにしても三島作とバレないようにわざとだろうが愛の処刑とはジツにダサいタイトルである。 首が出来て、乾燥に入るまでは相変わらず早いが、仕上げが遅くなった。おかけですでに撮影に入っているはずの太宰の着彩に入ってもおらず。明日こそ撮影に入りたい。 私の理想が、外側にレンズを向けず、眉間に当てる念写が理想だから、という訳でもコロナのせいでもないが、写真展をするというのに、外に出ることもなく。ハードディスクが壊れたりしたせいでたいして残っていないが、持っているデータでなんとかなっている。三島が縛り上げられた擬宝珠のある柱は、昔撮ったデータの中に見つけた。余計な反射があり、どこかに撮りに行くはずが、そうだ雪が降っているんだと、これまた以前撮った雪を頭に乗せて済んだ。前にも書いたが、足腰立たなくなった時に備え、空や海や壁から地面とあらゆる物をデータとして撮っておこうと考えたことがあったが、今回案外役に立つものだ、と再認識した。それにカメラを持って出かければ、どうしたって良いショットを、と欲が出るものだが、そういうカットはまず役に立たない。写真として良い、なんて使い物にならず、私が手掛けて初めて良くなるようなデータこそが役に立つ。やっでみると色々わかるものである。名作?など絶対撮らないためのカメラをいずれ用意したい。食べ物に青い着色すると食欲が湧かないそうだが、名作を撮る気にならないように、カメラに色を塗ってやろう。明日こそ太宰に着彩だ。

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椿説弓張月は三島にウケることしか考えていない最たる作品となったが、映画人斬りで撮影所の一年分の血糊を使い、歌舞伎椿説弓張月では、観客席にまで血が飛びそうになり、憂國では、もっと血を!と要求した三島には出血量が不満かもしれない。私もどちらかというともっともっとと過剰な口だが、一度調子に乗って、ありえない大出血をさせてしまい、何も死ぬ時は必ずしも出血する必要はなく、静かに目をつぶっていても、私が死んでいる、といえば死んでいるのだ、とあまり三島に乗せられるべきではないと反省した。 最後のカットとなる愛の処刑は、元々割腹している三島についていた首を弓張月に流用し、元に戻す作業に手間をとってしまった。しかし撮影の順番としてそうするしかなかった。これで三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死の撮影はフィニッシュとなった。 確か父が亡くなった同じ年の同じ月だったろう。参考資料に入手した芸術新潮のバッグナンバーで、三島が篠山紀信に自分の好みの男達に扮し、死んでいるところを死の一週間前まで撮らせていたことを知った。まさに最後にやっておきたかったことだったと知り、本人にすでにやられてしまっていた、というショックと同時にビンゴ!だろう?私は解っていたぜ。という気持ちに胸お踊った。以来、三島文学の良い読者という訳でもなく、ただこの一点についてだけは、私だけが解っているのだ、という気持ちで制作してきた。それもようやく終わった。次にどこへ向かうかは知らないが、そのためには終わらせなくてはいけないことがある。私はここ数年で学んた。あと百年も生きるような顔をしていてはならない。

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今生きていたら、バイ菌恐怖症の泉鏡花はどうしていただろう。何しろ二階への階段を上中下三枚の雑巾で拭かせた。昔の木造住宅だからたいした長さではない。旅の際には、煮沸しないと食べられないので汽車にコンロを持ち込み怒られる。 弓張月は雪の降り方が気に入らず、朝から繰り返した。さらに白目を赤く充血させ完成。食料を買いに出かけ帰宅後、残バラ髪を引っこ抜き、さらに首も根本から抜き、元々着いていた割腹中の三島に装着し、修整。明日、三島の最後のカット愛の処刑と、太宰の最初のカットが完成するだろう。石塚式ピクトリアリズムは、色はベタ塗り、ライティングの工夫も必要ないので、どういう構成にするかさえ決まっていれば撮影はあっけないほど簡単である。なのだが、その分人形の出来が左右する。ごまかしのライティングはできない。 それにしても図書館で浮世絵や日本画ばかり眺めていた私がこれを見たらどう思うだろうか。感心されるくらいなら呆れられた方がマシ、と日頃思っている私だが、人を呆れさせるにはまず自分が呆れるべきなのか?よくわからないか、だとしたらこの椿説弓張月は、充分目的は果した。





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朝から弓張月の撮影。結局、残バラ髪は粘土でなく、人形用の髪にした。顔には歌舞伎調メイク。虚実の配合具合で、イメージが変わる。流血は筆で描かず、スポイトで垂らすことにした。まあ考えて見るとスポイトで赤い色を垂らすからといって、単に血をホントに垂らす、というに過ぎず、ホントでもなんでもない。いやホントのことなどカケラもない。 しかし昔のヨーロッパ人のように南方や東洋に出かけ写真家が撮ってきた写真を飾って喜ぶ、なんてことはできない。何しろ私しか知らない景色を、取り出すことができるのは私しかいない。幼い頃クレヨンで絵描いていて恍惚となったあの時と同じ気分である。それにクレヨン握ったまま寝てしまい、溶けたクレヨンでシーツを汚し、鬼神の如く怒った母は老人ホームで、少なくとも私は安全である。さすがにこれでは三島と言うには無理があるが、このあと、筆で描いた雪を降らせるだけである。これにより私が本来、このモチーフでまっさきにやるべき聖セバスチャンの殉教図を本人にすでにやられていた、という無念をようやく晴らすことができる。何よりである。明日には使い回していた三島の首を、割腹中の胴体に戻し、いよいよ最後のカットとなる愛の処刑に入る。そして太宰の着彩、撮影である。

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午前中に和菓子用、煤竹の楊枝が届いた。10センチ近い、少々薄いがまさに竹釘、そのまま使用できそうだが、縮尺的には長すぎ、釘というより杭に近い。続いて人形用黒髪届く。三島の残バラ髪。いかにも苦し気にしてみたが。後は雪を降らせるだけだが、それも蠟燭、行灯、人魂同様筆で墨で描き反転する。 撮影後に首を引き抜き、割腹中の胴体に戻し、三島としては最後のカットとなる愛の処刑にかかる。タイトルからして冴えないが、わざわざ原稿を写させ変名で同性愛誌に発表している。長らく三島作といわれながら新潮の全集に入っている。家族の了承は得ぬままと聞いた。会場にはキャプション、を掲げる予定だが、愛の処刑は作中からは取らず、こうするつもりである。『愛の処刑』さようなら、アンティノウスよ。われらの姿は精神に蝕まれ、すでに年老いて、君の絶美の姿に似るべくもないが、ねがわくはアンティノウスよ、わが作品の形態をして、些かでも君の無上の詩に近づかしめんことを。ー1952年5月7日羅馬にてー アポロの盃より








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ウチにいる太宰は当初虫が好かない男で、苦労もさんざんさせられ、おかげで一時は引っ越しに伴い、その首は廃棄寸前に至った。段ボール箱を前に一瞬躊躇した。捨てるのはいつでもできる。それが今ではウチのエース格に躍り出るかもしれない、というところである。作っている私も現金なたちであり、高校の時、耐えられずに映画館から出てきた小津安二郎も、今では好きな監督の一ニを争っている。人は変われるうちが華である。下駄を履かせる予定だが、撮影ではそこまで写らないので後回しにして、着彩を明日にして、とりあえず。うまく運べば撮影も済ませ完成である。 公開から数年たち、監督も亡くなったが11・25自決の日三島由紀夫と若者たちをようやく見た。三島事件を描いた作品。肝心の三島と森田がミスキャスト。学生長が三島より老けている。三島の美ということに爪の先程も触れずに映画を一本作ってしまった。まあ片寄っているという意味では、私に言われたくないだろうけれども。

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