明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

晴天  


松尾芭蕉、乾燥終わり、仕上げに入る。さらに芭蕉の前に置きたいブツを撮ることができる事になった。さっと忍び込んでとっとと撮って帰る事に。 今回の成果の一つは椿説弓張月であろう。はたから見れば、わざわざ人形を使って、単に浮世絵風な写真を作り、と見えるだろう。ただでさえ、だったら絵で良いではないか、なんていわれているのに。 しかし私にとっては、こういうことができるのなら、もう何でもできる。と私に思わせてしまったことが大きい。このように毛細血管が匍匐前進するように枝葉を伸ばし変化を遂げて来た。これで扱えるモチーフが無限に広がったことになる。陰影を描かないおかげで自由だった日本の絵師が、西洋由来の陰影や正確な遠近法を得て、リアリズム、迫真性を得たと引き換えに、失った物がある、と私は図書館で浮世絵、かつての日本画を眺めては考えていた。絵描きじゃないのに。 日本人はフォトグラフィーを光画とするところを真を写す、写真と思わず名付けてしまった。絵がかけなくても、撮れば自動的にリアリズムと迫真性は容易に手に入る。その写真を手段とする私としては、あえて陰影を削除する手間をかけて、リアリズム、迫真性と引き換えにやりたい放題をようやく手中にしたことになる。例によってこの喜びを分かち合う人は誰もいないけれども。 焼酎が売るほどあるが自分では飲まないという人と道端で待ち合わせる。マスクをしたまま距離を取り立ち話。美味しそうな焼酎をいただく。さらに死ぬまでに一度は食べておきたい木久蔵ラーメンも。

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