明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



在宅のストレスなのか、みんなでしばらく我慢しようと言ってるときにわざわざ海を見に行こう、と渋滞を起こしたりする人達がいる。おそらく家によっぽどの物がいるのであろう。酒場でグズグズダラダラと家に帰ろうとしない男達を見ても良く思った。家によっぽどの物がいるんだろう。 何度も書いたが、私の場合は子供の頃どこかの王様に石の塔に閉じ込められ、算数や宿題一切やらないで良いからここに一生おれ。クレヨン画用紙使い放題、図書室もある。なんてことを夢見ていたくらいでストレスはない。用もないのに散歩はできないし。 今日は久しぶりに麻布十番の田村写真へ手漉き和紙のプリントをお願いに行った。到着するやまず手を洗う。マスク越しとはいえ対面して人と話すのはいつぶりであろう。三島が最後に見たであろう市ヶ谷駐屯地の刀傷が残る総監室はバルコニーの向こうは水平線で日輪が昇っている。その光の輪などはちゃんと出るだろうか。この辺りのコクが欲しいとか、2、3気になる所を相談し、お願いした。特に陰影のない作品を始めてから、手漉き和紙にはまり。作中に艶があるならまだしも、印画紙表面に艶がある意味が分からなくなってしまった。最初の1カット。仮面の告白より、私が彼になりたい、彼でありたい、と幼い三島が思った汚穢屋の男である。同じく聖セバスチャンの殉教図は自ら扮し篠山紀信に撮らせているし、ヤクザにもなった三島も、汚穢屋にはならなかったから、これこそ私のすべきこと、と。 次々プリントされる作品を眺めながら、世にストレート写真という言葉があるが、もっともそこから遠い作品と思われるが、私の頭に浮かんだことに対しては、あまりにもストレート、いきなりそのままプリントされ赤面するくらいであった。












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