帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

グアム旅行 1日目

2010年11月29日 | 旅行等

子供が大きくなり家計に余裕が無くなると、どうしても旅行というのは無くなりがちで、多分に漏れず家も同じ。

特に海外となればかかる金額も笑って済ませられる物ではないので、この10年ばかりは全く行ってなかった。

しかし、息子が就職し、家内がこつこつお金を貯めていてくれたおかげで、グアムくらいならなんとかなりそうだ、ということで久々の海外旅行になった。

しかし、夏休みや正月は同じ旅行でも値上がりするのが常識だしバカ高くなるので、そんなときに行けるわけ無いし、となれば一番客数がへってツアーが安くなるこの時期意外にはない。

そんでもって学校休むのを嫌がる娘を無理やりごり押しで休ませ、旅行にいってしまおうという、いかにも家らしいやり方でもある。

今回の日程は月曜日から日曜日までの6泊7日、当然一番格安でなんにも付いていない激安ツアー。

出発は夜の9時近くだし、現地を出るのも真夜中。

そうでなきゃ家が行けるはずないが、当然にぎやかなタモン近辺に泊まれるはずはない。

ただし、これまた家の事なので当然レンタカーを使うので何ら問題はない。

 

さて今日は出発日、 昼間まで仕事していた息子の帰宅を待って家を出たのは1時過ぎ。

のんびりと首都高をぬけて成田まで一直線、駐車場サービスUSA(ここが一番無難です)に1週間約3500円で車をあずけて送迎バスで空港へ。

季節がら、やはりというか、空港内はやたら閑散としていて、ピークシーズンのような賑やかさは無い。

道路渋滞だなんだで、駐車場に着くのが4時過ぎていたのですが、受け付け開始までまだ時間はある、当然ブラブラするがトランクが邪魔。

その後カウンターのオープン時間となり荷物を預ければ一安心、飛行機に乗るまでの時間を再度空港内売店何かを見て歩き、残りの時間を食事にあてます。

お腹が空いたとの声が上がり、食事はターミナルビル5階のパスタレストランに入った。

到着後の予定などを話しながらの楽しい食事。 余談ですが、このパスタレストラン非常に美味しく、お勧めです。

http://www.narita-airport.jp/jp/shops/rest_shop/rest/floor_list/detail/t1cb05_t0000g.html

 

さて、時間になり飛行機へ搭乗、後はグアムまで一直線。

普段寝るのが早い僕は、先ほど飲んだアルコールがすっかり効いてしまい、殆ど寝て過ごすことになりましたが、家族の話では夕飯が機内で出たとかで・・・・・  夕飯食べちゃったのに、と笑ってましたが。

現地の空港に到着したのは日付の変わった後、日本との時差1時間、雨期と乾期の入れ替わり時期なのでスコールがやたらと有る。

むっとした空気のなかで案内人ががフォードバンでお迎え、ここから約30分で山上のホテルに到着となる。

ホテルは家族5人なので、センタードアが開く部屋を二つ借りたのだけど、思った以上に広く、衛生的で綺麗、一番肝心な設備関係トラブルもなくてよいところだ。

山の上で他に空を邪魔する物がないので、バカみたいに天の川ほか星が綺麗に見えるのが良かった。

へたにタモン地区を希望してウサギ小屋だったりシャワーもまともに出ないところをもらうよりは遥かに良い。

これでキッチンが付いていれば完璧なんだけど・・・・

適当に荷物を整理し、今日はみんな早々の就寝でした。

 

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子殺し、親殺し、弱者を足蹴にし、強者に諂う、壊れゆくこの国は・・・・

2010年11月29日 | 研究-教育・育児

産経新聞さんの記事、掘り起こしです。   相変わらず産経さんはいいですね、みんなで読みましょう!

先の大戦で戦った日本とアメリカ、多くの日本人が戦死したこの戦い、米国人も膨大な数の戦死者を出しているのですね。

例えるなら日本軍3万が玉砕した硫黄島。 偏向マスコミのねつ造報道ばかりで殆どアメリカの被害はないように意識付けされてしまうが、

現実には米軍戦死者は7000人(日本軍の4分の1)を超え、足を失う、腕を失う、歩けなくなる等の身体に大きな負傷をした兵士数2万5000、その他重負傷、軽負傷合わせると

そんな数ではすまない。

彼らも戦いたくてやっていたわけではない、戦後に日本人を知った彼らの思いがこの国をまもる駐留米軍となり、それが今日まで続いている。

彼らと常日頃接している自分には、米軍が行った最も卑怯作戦が京大空襲だと教えられて来る彼らの目に、時代を超えた真実が見えるのですね。

 

http://sankei.jp.msn.com/life/education/071106/edc0711060344001-n1.htm

【やばいぞ日本】 忘れてしまったもの 一片のパン「幼いマリコに」

2007.11.6 03:44
このニュースのトピックス:大学教育

 81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。

 親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」に、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。

 手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と2人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。

 東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。

 彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。

 彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。

 

 彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2カ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。そして、1974年、日系人として初めてハワイ州知事に就任した。

 のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。

 「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」

 記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。筆者は少年と同年齢の蛯原康治同協会事務局長(70)。五百旗頭(いおきべ)真(まこと)防衛大学校長が4月の講演で、元知事と少年の交流を紹介した。それを聞いた蛯原氏は「毅然(きぜん)とした日本人の存在を知ってもらいたかったため」と語った。記者は経緯を確認したかった。

 アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。

 「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」

 凛(りん)とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。

■厳しい時代に苦闘と気概の物語

 終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。

 原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。素足が痛々しい。オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学館発行)でこう回想している。

 「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。(略)私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」

 この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。フジテレビ系列の「写真物語」が先月放映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。フジテレビによると、その内容はこうだった。

 「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)、「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。

 1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。

 オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。

 

 激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。「ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきりに訴えていた。どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」

 それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨(せいさん)な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。

 苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛…。

 こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資などのためだった。

 当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。

 こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。(中静敬一郎)