帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

2007年06月07日 | 僕という人間 その他

外で雷光と雷鳴が轟いています。
そしてバケツをひっくり返したような土砂降りの雨。

外を見ながら、「娘はびしょ濡れになっているだろうか?」 と考えます。
しかし私は何もしません。

もちろん今が帰宅時間であることは知っています、「そうなら傘をもって迎えにいけばいいじゃないか。」という人が大半でしょう。

ひどい親だと罵る人もいるでしょう。

でも私はけして迎えには行きません。 ずぶぬれになって帰ってこさせます。

というのは、これが私のポリシーだからです。

当然、上の子も同じようにして育てました。

傍から見ればおかしな考えに思われるでしょう、しかし多感な年齢でなければ得る事の出来ないものが人間にはそんざいします。

ですからそれを過ぎ、大きく成長し、大人に近づくほど逆に私は迎えにいくようにしています。 濡れないようにしています。

元を正せば、これすべて私の経験から来ているもの。

人と自然は生まれた瞬間から切っても切り離せるものではありません、人の一生は常に自然に包まれながらのものとなります。

故にこの雨と雷から感じ取れるものを出来るだけ受け取ってもらいたいという事が第一。

また、天候の予測はあらかじめ可能なもので、それは朝の短い時間に天気予報などテレビで繰り返しやっているわけですから。

年齢を考えれば自分の事として当然にコントロール出来ねばならない事で、
それが出来なければ濡れてしまえばよいわけです。

甘ったれさせるのではなく、親が逐一世話を焼くのではなく、
自分で先を読めということす。
少し気をつければ、あらかじめ折りたたみの傘を持つなど、対策はいくらでも取れるものですから。

この季節になると、気温が上がり雨にはとげとげしさが無くなって優しくなります、全身ずぶぬれになったとて家までの時間は十数分。

たかがしれています。

雨に打たれ、しかしながらその粒のそれぞれの大きさの違いと、雷鳴の叫びと共に来る肌で感じる空気の振動、雷光の美しさ、冷たさと暖かさが入り混じって通り抜けていく風等々。

そこには学ぶべき多くのことがたくさん凝縮されています、故にけして迎えにはいきません。

ですから、こうした自然がもたらしてくれるものを恵みと取るか、それとも忌み嫌うものとして取るかで、成長後の様々なところで違いが生じてきます。

田んぼの中で泥だらけになって遊び、そのやわらかさと暖かさを全身で経験せねば、泥は単に汚いだけの存在になります。

泥が汚いと言うようでは、いくら勉強が出来ても人間としてはペケなのですね。

田んぼは優しいという意識があれば、そこから出来る米は大地の恵み、
畑の野菜は太陽がくれた恵みとなります。

それこそが何より大切だと私は思うからです。

親の保護より優先度の高い自然の教え、そちらを私は優先したい。

それが私のポリシーです。