牧野聖修、小沢一郎に議員辞職を求める判断能力の見当オンチ

2010-10-12 09:37:31 | Weblog

 小沢一郎元民主党代表の資金管理団体「陸山会」土地取引事件を検察が不起訴としたことに対する10月4日の検察審査会強制起訴議決に対して同じ4日、国会内で記者団に、「起訴相当との処分になり、小沢氏は自ら身を引くべきだと思っている。それができなければ党として離党勧告なり、除名処分になると思う」(asahi.com)と発言、それが党内に波紋を呼び、責任を取って国会対策委員長代理を辞任した我らが牧野聖修が昨11日夜、BS11の番組に出演し、性懲りもなく再度同じ趣旨の発言をしたと言う。

 “性懲りもなく”の理由はのち程明かすことにして、BS11での発言をみて見る。

 《小沢氏に離党勧告を=牧野氏》時事ドットコム/2010/10/12-00:48)

 牧野聖修「本人が離党する気がないならば党の方で離党勧告し、それでも離党しないならば除名処分せざるを得ない

 前後両発言を記事に書いてあるとおりに解釈すると、さも自分が党内で一定以上の決定権を持った立場にあり、自身の決定が党に大きな影響を与えるかのような発言となっている。

 このことは最初の発言では小沢氏が自ら身を引かなければ、「党として離党勧告なり、除名処分になると思う」と、自身のそうすべきだとする個人的思いが党の意志(あるいは党の決定)となるかのような表現となっているところに表れている。

 実際には牧野聖修自体には他を従わせる程の決定権はないのだから(決定権があったなら、国会対策委員長代理を辞任する必要はなかったろう)、そうすべきだとする個人的思いが実現しなかった場合、「党として離党勧告なり、除名処分すべきだと思う」と、個人的思いを党への要請へと代えなければならなかったはずだ。そして後は党の決定を待つしかないだろう。

 後者では、「それでも離党しないならば除名処分せざるを得ない」と、さも自身に決定権があり、自身が決定するかのような発言となっている。

 もし自身に党の大勢を従わせる程の決定権があると思い込んでいるとしたら、実際にはないのだから、思い上がりも甚だしいということになる。合理的判断能力を欠いていることからの思い上がりであろう。

 こういったこと自体が既に牧野聖修の見当オンチの証明となっている。

 以前ブログに書いたことだが、牧野聖修の小沢批判は参議院選定員2名の静岡1区に牧野の意向に反して当時の小沢幹事長が2名擁立に動いたことから始まっている。確かに鳩山首相と小沢幹事長の「政治とカネ」の問題と普天間問題で支持率を悪化させていた当時の定員2人区2名擁立決定ではあったが、二人が辞任し、菅首相となってから支持率がV字回復し、党執行部も枝野幹事長以下、新体制となり、枝野幹事長は世論調査の支持率を背景に「改選数2のところに2人擁立する考え方は間違っていない」と小沢判断からバトンを受け継いで菅首相、枝野幹事長、安住選対委員長等の新執行部が関わった判断としたのである。

 しかも牧野聖修は菅首相が支持率を下げることになる消費税発言を2010年参院選民主党マニフェスト発表記者会見の席で行った6月17日以前の6月10日に党本部で枝野幹事長及び安住淳・選挙対策委員長と会談し一本化を要請、枝野幹事長は小沢判断からバトンタッチして自らの判断としたた定員2人区2人擁立を、「一本化は困難。・・・・無理やり(降ろすことは)できないと思う」という発言で断り、牧野自身も、「まだ正式決定ではないが、仕方ない。これまで通りやるしかない」と枝野判断を自らの判断として受け入れたのである。

 但し抵抗があった。牧野は県連が擁立した候補のみを応援し、小沢氏が擁立した新人女性候補を一切応援しなかった。そのことが共倒れを免れることができた原因かもしれないが、もしそうだとすると、知名度のない新人という立場に対して応援しなかったことは見捨てたも同然の措置であり、一人を見捨てて一人を救ったことになる。

 だとしても、多くの落選者を出したのは枝野判断となった(=執行部判断となった)定員2人区2人擁立が直接の敗因ではなく、菅首相の消費税発言が一挙に支持率を下げ、参院選大敗の主たる原因となったことに変わりはない。

 そうであるにも関わらず、牧野聖修は7月14日からの党本部開催、参院選敗因総括の都道府県連代表とのヒアリング形式会談で怒りを爆発させた。以下は余韻冷めやらぬ怒りを言葉の端々に見せて記者に語った発言。(これも以前ブログに一度使用)

 牧野聖修「小沢さんは拡大路線をとって、どちらかというと思い上がりといいますか、そういう意味で拡大路線をとった。そのことが大きな失敗の原因だったと思います。(小沢さん)本人が責任を取らなかったら、離党勧告をしろと、私は(執行部に)言いました」

 牧野聖修(2人擁立に反対したために)「小沢氏から活動費を止められ、いじめられた」

 牧野聖修「小沢一郎前幹事長が強引な選挙戦略をやって失敗した」

 牧野聖修「小沢氏が拡大路線を取ったことが失敗の原因だった。選挙の戦略・戦術の問題だけでなく、政治とカネの問題でも本人は逃げ回っている」

 牧野聖修「選挙責任者だった小沢一郎前幹事長の責任は重い。万死に値する罪だ」

 牧野聖修「(小沢氏は)政治とカネの問題もあり、執行部は即刻、議員辞職勧告か離党勧告をすべきだ」

 これらの発言には党執行部が小沢体制から枝野体制へ移行したとする認識が一切ない。定員2人区2人擁立が小沢判断を受け継いで枝野判断となったとする認識と、その枝野判断を例え不承不承でも牧野自身が自らの判断としたことへの認識を一切省いている。

 言ってみれば、自身の認識能力不足、見当オンチからきている思い違いからの根拠のない怒りとしか言いようがないが、余程根に持っているのか検察審査会起訴議決をキッカケにさも自身が決定できるかのように「離党勧告」、「除名処分」を口にし、辞表提出に追い込まれた。

 ここで再度「NHK」記事――《牧野国対委員長代理が辞表提出》(2010年10月5日 14時55分)から辞表提出時の発言を見てみる。

 党で問題とされた10月4日の牧野聖修の発言は記事では次のようになっている。

 牧野聖修「みずからが身を引くべきだ。それができないなら、公党としてけじめをつけるべきで、離党勧告なり除名ということになるのではないか」

 「NHK」記事も、自身の思いがさも党の決定となるかのような発言の記載となっている。

 ところが党の非公式の決定は発言に対する批判、発言否定であった。

 党内批判「推定無罪の今の時点では、軽率で、野党側に追及の材料を与えるだけだ」

 鉢呂国会対策委員長「議員のまとめ役の国会対策委員長代理としては軽率だ」

 党の意見集約を図る前に、自身の判断を党の判断であるかのように装う見当オンチをやらかしたのだから、「軽率だ」は当然の謗りであろう。

 牧野聖修「みずからの発言で今後の国会運営に支障を来さないよう、責任を取りたい」

 記者会見での発言――

 牧野聖修「わたしは、ことしの参議院選挙の時から小沢氏の批判をしてきたが、今までの言動が足かせになり、党が団結力を失うのであれば、職責上よくないと思い、辞表を提出した。自分は間違ったことを言ったという思いはないが、小沢氏の問題をどう克服するかが大事で、わたしが国民目線で歯にきぬ着せずに的確に発言できる立場にいたほうが、党のためになる」

 牧野聖修「小沢氏は、みずから民主党を離党してもらいたいし、できれば議員を辞職したほうがいい」

 最後の発言は自身の思いとして許されるが、「自分は間違ったことを言ったという思いはないが」と言っているが、ではなぜ辞表を提出したのだろうか。間違っていないと言うなら、あくまでも自分の正しさを貫くべきであろう。

 大体がそもそもからして合理的な認識能力を欠いて見当オンチを働いているのだから、「自分は間違ったことを言ったという思いはない」の自己省察自体が怪しい。既に参院選敗因を認識能力不足の見当オンチからお門違いにも向けるべき批判の矛先を菅首相から小沢元幹事長に向けて、「間違ったことを言」う前科を犯しているのである。

 知らぬが仏で気づかないから牧野聖修を自分自身の感覚では自身を「政治とカネ」の問題に怒る正義の人に仕立て上げているかもしれないが、自身の発言が災いして辞表を提出しながら、再びBS11の公共電波を使って「離党勧告」、「除名処分」の見当オンチの再犯を犯した。

 本人が見当オンチの認識能力不足だから気づいていないだけのことで、これを以て“性懲りもなく”以外の表現があるだろうか。

 牧野聖修が合理的認識能力を欠いた見当オンチだということは“性懲りもなく”他にも例を挙げることができる。

 《民主幹部の「小沢批判」に新人議員が激怒 民主会議騒然》asahi.com/2010年10月2日14時13分)

 10月1日開催の民主党の会議。

 牧野聖修・国対委員長代理「『1年生議員の仕事は次の選挙に当選することだ』とバカなことを言った人がいた」

 〈新人の仕事は次の選挙で当選すること、は小沢氏がよく口にするせりふ。牧野氏は、9月の党代表選で菅直人首相を支持したこともあり、小沢氏支持の少なくとも3人の議員が「バカとは何だ」などと、大声を上げた。〉――

 他に、「バカなことを言うな」、「出て行け」、「まじめにやれ」といった罵声が1年生議員から飛び交ったという。

 牧野(会談後)「小沢氏の批判をしたつもりはない」

 この発言は牧野が如何に正直な人間か証明している。認識能力を欠いた見当オンチの人間は自身に対しても認識能力を欠いて見当オンチとなり、それが自己省察能力の優劣につながり、自分が口にした発言さえも的確に判断できない見当オンチを犯すことになる。

 怒号を飛ばした議員の1人「小沢氏を批判するようなあいさつは理解できない」

 「1年生議員の仕事は次の選挙に当選すること」の役目はそれぞれの活動にかかっている事柄であって、例え政権政党に所属していて、その政党と内閣支持率が相互的に高い数値を獲得していたなら、何をしないでも党の名前だけで当選は有利に進むかもしれないが、それぞれの活動抜きでは同僚議員との差別化も、支持率を失ったときの当選の保証も失うことになる。

 いわば活動抜きに「1年生議員の仕事は次の選挙に当選すること」の役目の成果は保証不可能と見なければならない。実際にも新人議員は次の当選を確保しようと様々な活動に力を入れているはずだ。

 そのような活動を考えることもできずに活動要素を省いて、牧野聖修は「『1年生議員の仕事は次の選挙に当選することだ』とバカなことを言った人がいた」と批判する。この見当オンチの認識能力は如何ともし難い。

 活動と言っても、自身が選択した活動を通して新人議員としての、あるいは新人政治家としての姿をどう表現するかに当選はかかってくる。同じ活動でも、人間が違えば、異なる表現、異なる活動となる。活動を自身が所属する選挙区の有権者に伝える表現方法次第で有権者の受け止め方、有権者の評価・判断が変わってくる。

 中には政策の勉強に重点を置いて、様々な委員会に所属したり、様々な会合に顔を出したりする活動もあるだろうし、勉強をした政策を辻立ち・駅立ちでハンドマイク片手に通行する有権者に訴える活動もある。さらにブログやHP、あるいはツイッターで自身が勉強した政策を紹介する活動もある。表面的に何をしました、何をしましたの表現では多くの読者を継続的に確保することは難しいだろうし、政治能力の問題に結び付けられかねない。

 例え当選のみを目的として後援会員を貸し切りバス仕立てで大挙してディズニーランドに連れて行った、温泉に連れて行ったといったことで歓心を買う活動であったとしても、当選はあくまでも活動から判断する有権者の決定であろう。

 いわばどう表現するかは重要ではあるが、基本的には活動の要素を欠いた「1年生議員の仕事は次の選挙に当選すること」という保証は存在しないということである。

 活動に対する代償が当選であって、小沢一郎から「1年生議員の仕事は次の選挙に当選すること」だと言われて、そこに何ら活動を置かない新人議員がいたとしたら、牧野聖修に劣らない合理的判断能力を欠いた見当オンチの新人議員と看做さざるを得ない。

 牧野聖修に彼自身の見当オンチを知らしめる方法はないものだろうか。顔からも窺うことができる頭の柔軟性を欠いた認識能力不足に凝り固まっているようだから、見当オンチを知らしめる有効な方法はないかもしれない。

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