昨25日エントリー記事、《北海道5区補選は菅内閣への審判を背景とした民主党候補への審判であり、「政治とカネ」だけの敗北ではない 》で、町村候補と与党民主党中前候補の票差約3万を30万票と間違えて記載してしまいました。訂正の上、謝罪します。
12万5636票から9万4135票を直接暗算して、30万票という計算結果を出したのだから、学校の成績が分かろうというものです。悪しからず。
10月23日の記事、《正解は「妹を殺す」 教諭、小3の授業でクイズ 杉並》(asahi.com/2010年10月23日22時41分)
東京都杉並区立浜田山小学校の女性教諭(23)が10月19日の2時間目の3年生算数の授業中に自殺や殺人を題材にしたクイズを出題して問題となったという記事。
クイズ「3姉妹の長女が自殺し、葬式があった。その葬式に来たかっこいい男性に、次女がもう一度会うためにはどうすればよいか」
解答(記事は「回答」と書いてある。どちらが正しいのだろうか)「三女を殺す(また葬式をする)」
21日に岩崎校長に届いた保護者からの匿名の投書で発覚。
女性教諭「授業時間が余っていたので、学生時代に友人からきいたクイズをふと思い出し、言ってしまった。授業を楽しくしたいと考えてのことだったが、軽率だった」
《小学校授業で殺人肯定クイズ》(NHK/2010年10月23日 23時53分)での女教師の釈明は次のようになっている。
女教師「子どもたちにクイズを出すよう求められ、大学時代に友人と出し合った問題をとっさに出してしまった。非常に反省している」
杉並区教育委員会が不適切な指導だとして教諭と校長を口頭で厳重に注意し、小学校は23日夜、緊急に保護者会を開いて事実関係を説明すると共に謝罪した。
井出隆安教育委員会教育長「学校教育への信頼を失わせるものでまことに遺憾です。児童や保護者に深くおわびするとともに、信頼回復に努めます」
かっこいい男性との新たな出会いの設定に最初の出会いが姉の葬式だったからと、次も葬式を出会いの舞台とするために妹殺しを必要条件とする。
これだけなら笑い話とするクイズとしては最適かもしれないが、教育現場で取り上げて、答が「三女を殺す(また葬式をする)」、生徒が、なーんだで終わりとするなら、様々な欠陥(=非合理性)を無視し、様々な欠陥(=非合理性)を気づかせないまま当然のこととして生徒に教えることになる危険性を抱えかねない。
第一番に最初の出会いの場が姉の葬式だったから、次の出会いの場も葬式以外にないとすることが他の場面を考えることができない間違った判断(視野狭窄、浅慮、あるいは妄信)であることを、いくら年端もいかない3年生が相手だとしても、教えないままにさせておいて、クイズによって示されたストーリー展開のままに納得させた場合、間違った判断(視野狭窄、浅慮、あるいは妄信)抜きの判断の短絡化を生徒に意図しないまま植えつけることになっているかもしれない。
例えば、保護者が匿名の投書を出した経緯は、保護者の子どもが教師が出したクイズを不適切なクイズだとして親に知らせたか、面白いクイズだと受け止めていて、親が答えることができるかどうか試そうと教師が生徒に出したように面白がって親に出して、親が間違っているクイズだと気づいて匿名の投書を出したかいずれかであろう。
後者だとしたら、その生徒は間違った判断(視野狭窄、浅慮、あるいは妄信)抜きの判断の短絡化を知らず知らずの内に植えつけられていて、そのことに気づいていなかったことになる。
生徒に対するこのような判断の短絡化の教師による意図しない植えつけが一度や二度のことならまだしも、繰返され、積み重なった場合、判断の短絡化を習慣とした生徒に育ちかねない。いわば自分から考え、判断することのできない生徒である。
例え相手が小学校3年生で、理解能力が満足に発達していなくても、分かりやすい言葉で教えることだけはしておくべきであろう。
女性教師がこのクイズをクイズのままの形で出して、最後に答を教えてそれで終わりとしていたとしたら、女教師自身が判断を短絡させた能力の持主の疑いが出てくる。
最初はクイズとして出してから、この方法は正しい方法なのかどうかを生徒に問い、生徒同士で議論させる。結論を得たところで、ではどうした方法が法に触れないベストな方法として考えることができるかを議論させる。今の子は年齢以上の情報をテレビやマンガ、友達から得ていて、いわゆるませた状況にあるから、このくらいの議論は可能のはずである。
様々な議論の機会を用意し、議論を通じてそれぞれに違う考えを披露させ、その違いをも相互に考えさせ、議論の対象とする。
このようなプロセスを取れば、授業の場では不適切なクイズであっても立派な教育となる。
またこういった経緯を踏むことで生徒それぞれの考えの幅を広げることが可能となり、判断の短絡化を防ぐ有効な方法となり得るはずだ。
上記「asahi.com」記事と同じ10月23日付の同社の《テストに「校長暗殺犯は?」愛知の高校、教諭厳重注意》は似たような内容を伝えている。
愛知県立東海商業高校(同県東海市)総合ビジネス科「総合実践」の10月19日の中間試験で商業科の男性教諭(24)が出した設問。試験は3年生77人受けたという。
襲われた校長が息を引き取る間際に残した数字「4124」から「校長を暗殺した犯人は誰か」を問うテスト。
容疑者として同校の教員7人の実名が挙げられていたという。
この設問は「頭の柔軟性を問う」を目的としていたという。
「4124」の数字を上下逆さまにすると「カていカ」と読めることから、家庭科の教諭が「犯人」が答。記事の数字は「41124」となっていたが、これだと「カテイイカ」となってしまう。
国枝校長「教諭は生徒に謝罪し、臨時教員会議で注意喚起をした。生徒の動揺はなく、迅速・適切な対応はできた」
この問題を採点対象から外すことにして、男性教諭に対して口頭注意。
バカげているの一言に尽き、こんなことで動揺するようではとても社会には出て行けない。それを「生徒の動揺はなく、迅速・適切な対応はできた」と自身の手柄とし、翻って男性教諭の不適切を何でもないことのように薄めようとしている。
この目的とした「頭の柔軟性を問う」は数字をひっくり返したりして答が出てくるのだから、想像性(創造性)を発動させることによって「頭の柔軟性を問う」こととは一欠けらも無縁の単なる機転、と言うよりも機械的な思いつきで以て機械的な「頭の柔軟性を問う」設問でしかない。
しかも上記女性教諭が出したクイズと違って、設問と答から教育的に何ら発展を見い出しようがない、その場限りの不毛な一過性しか見い出すことができない。
生徒がこの設問を一過性とせずに、面白がっていつまでも頭に記憶させていたとしたら、そのことの方が問題となるだろう。
23歳の女性教諭に24歳の男性教諭。しかも後者は高校の教師。このクイズ志向(嗜好?)はテレビの影響かもしれないが、それを子どもに伝えて子ども自身が既に持つクイズ志向(嗜好?)を尚のこと高めて、子どもの知性をクイズの類で埋めていく、そのような大人から子どもへの循環が当たり前の光景となっているのだろうか。
日本の教育自体が子どもを大人にする教育、大人性を導くことを最終目的とする教育になっていないのかもしれない。