自由に遊ぶ子の運動能力の高さを暗記教育から読み解く

2012-05-15 11:07:00 | Weblog

 題名は大したことを言っているようだが、中身は大したことはない。

 幼稚園の保育時間で体育指導を受けている園児と指導を受けず自由に遊んでいる園児の運動能力の比較は自由に遊んでいる園児がより高いという研究結果が纏まったと次の記事が伝えている。《“自由に遊ぶ子”運動能力高く》NHK NEWS WEB/2012年5月13日 6時55分)

 既知の事実と思っていたから、今更理解できたことなのかの驚いた。勿論、実証は必要だが、既に遠い昔に実証済みのことではなかったらしい。

 1985年(昭和60年)頃からその兆しが出始めたという最近の子どもの運動能力の低下は昔の子どもと比較して自由に外で遊ぶことをしなくなったことが原因のはずだ。

 一方でサッカーや野球等を小学生の低学年から開始するリトルチーム化が進んだが、全体的には運動能力の低下を補うことができずにいる。

 研究は杉原隆東京学芸大学名誉教授らのグループが全国の幼稚園に通う4歳から6歳のおよそ9000人を対象に行ったものだという。

 保育時間内にマット運動や体操などの体育指導を週2回以上受けている子どもたちと、体育指導を受けず自由に外遊びなどをさせている子どもたちの25メートル走や幅跳びなど6つの種目についての運動能力を30点満点で比較。

 体育指導を受けている子どもは男女とも平均18点台。

 受けていない自由派の子どもは平均19点台。

 杉原名誉教授の指摘〈特定の運動を上達させるため同じ動きを繰り返すだけでは経験する動きの種類が少なくなることや、説明を聞いたり順番を待ったりしている時間が長いと実際に運動をする時間が短くなる〉・・・・

 研究にあたった専門家「特定の運動を繰り返すだけでは経験する動きが少なくなってしまう。さまざまな遊びを通じてたくさんの種類の動きを経験することが大切だ」

 研究にあたった専門家が杉原名誉教授と同一人物なのかどうかは記事からでは判別できないが、指摘自体はほぼ同じ内容となっている。研究グループの結論として出た主張ということなのかもしれない。

 自由に遊んでいる園児と比較した体育指導を受けている園児の運動能力の低さを防ぐには、〈体を動かすさまざまな遊びを通じて楽しんで運動をできる機会を多く作ると、たくさんの種類の動きを経験することになり、幼児期の運動能力の向上につながると分析〉しているそうだ。

 杉原名誉教授の指摘「幼い時期は遊びのかたちで楽しんで体を動かすことが大切です。そうすれば意欲も高まり自然とさまざまな運動を経験できるので、運動能力にもよい影響が出ると思う」――

 決まりきった「特定の運動」の反復の強制自体が教師が与える知識・情報を園児・児童・生徒にそのままなぞる形で機械的に自身の知識・情報とさせていく、その反復の強制となっている暗記教育そのものの形式を取った運動形式と言うことができる。

 当然、そのような運動の弊害は暗記教育の弊害と連動することになる。

 その結果の運動共々の経験機会の減少という弊害でなければならない。

 いわば勉強でも運動でも、教えられ、強制された勉強・教えられ、強制された運動の範囲以下の、勉強の場合は知の経験、運動の場合は身体経験で終わってしまい、その範囲内の知的活動、身体活動にとどまることとなって、教えた以上の活動は望むことができない、限られた状態にあるということであろう。

 勿論、勉強でも運動でも暗記形式の強制だから、こういう結果が起きることになる。暗記形式の教師から園児・児童・生徒に対する知識伝達・情報伝達は園児・児童・生徒が自ら考えるプロセスを構造としていない。

 当然の結果として、教師からの知識・情報をなぞる形で受け止めるだけで、自分から考えて発展させることがない。

 だが、自由に遊ぶについては、否応もなしに考えるプロセスを自ら有することになる。自分でどう遊び、どう動くか、自分で考え、判断して、自分で決めていかなければならないからだ。

 勉強に関しても教師が伝える知識・情報を園児・児童・生徒がそのまま暗記するのではなく、自分なりの知識・情報へと発展させるためには教師の知識・情報をどのように自分なりの知識・情報とするか、取捨選択や自分の中にある他の情報との加味等、考え、判断して決める思考作業が必要となる。

 「たくさんの種類の動きを経験すること」についても、自ら考えるプロセスを欠いて単になぞるだけの経験だったなら、運動能力のたいした発展は望めないはずだ。

 そもそもからして“自由”とは何をしても許されるということではなく、何をするか判断を任されることを言うはずだ。自身が自らの行動を決定する以上、そこに責任が生じるが、判断を任されること自体が考えるプロセスをそこに置いていることになる。

 となると、先ず必要なことは暗記教育を脱して、「総合学習」が掲げていた、園児・児童・生徒自身が考える教育の定着が喫緊の優先課題となる。

 日本の教育が暗記教育となっていて、園児・児童・生徒自身に考えるプロセスを提供していないために、ブログ等で何度も書いているが、プロ野球で大の大人になっても、シーズンのテーマに「考える野球」を掲げなければならないことになる。「考えろ」、「考えろ」と尻を叩かれる。

 この状況はプロサッカーのJリーグでも、同じ状況にあるはずだ。

 サッカー日本代表元監督オシムの2003年の言葉。

 オシム「日本人コーチに即興性、柔軟性、創造性が欠けているから、選手にもそれが欠ける。コーチが変わらないと選手は変わらない。そういう指導者からは、創造性に欠ける選手しか生まれない。

 文化、教育、世情、社会に左右されることはよくない。サッカーは普遍的なもの。そして常に変わっていくからコーチも常に変わっていく必要がある」

 即興性、柔軟性、創造性の欠如とは考える力がないことの裏返しであろう。

 私自身、現在の子どもが日本の工業化と開発の影響をモロに受けて大人たちから遊びの空間を奪われ、逆にテストの成績を唯一最大の価値観とする暗記教育の世界に閉じ込められて運動能力を低下していくのは自由に遊ばないことと暗記教育によって考える力を失っていったからだと考えていて、確かそういったことを書いた文章があるはずだとパソコン内を探したが、ブログにもHPにも記事にしていなかったためになかなか見つからなかった。 

 作成年月日が「2006年5月24日」となっている、「プロ教師」と自称する河上亮一氏の著作を批判した、記事題名が『プロ教師』 著・手代木恕之をやっと見つけることができたが、すっかり忘れていた文章であった。

 ぺージの最後に「四○○字詰原稿用紙換算枚数・・五七五枚」との記入があるから、評論の形にして、そのまま放っておいたのだろう。機会があったらブログ記事にしたいと思うが、読み直して、まずまずの内容ならの話である。

 部分的にザッーと読み直してみたら、所々よし、所々気に入らないの感じであった。

 上記研究結果と関連がある箇所を引用してみる。

 〈学校は生徒が怪我をし、その責任問題が自分たちに振りかかるのを恐れて、危険と見える競技や遊戯を子供たちから奪ってしまった。日本の社会が豊かになると共に家庭にあって家事に手が掛からなくなった親は子供たちに手を掛けるようになった。社会の豊かさに応じた方向に子供の生活を持っていったのである。普段から子供たちにいい服を着せ、日曜日ともなると家族で動物園やレジャーランド、その他の観光地に出掛け、昼には子供はお子さまランチ、親はちょっと高価でしゃれた食事を注文して、リッチな気分を味わう。

 子供たちはいわば悪童だった時代からお坊っちゃまとなる時代へと変化を強いられたのである。それは日本人が敗戦による混乱から立ち直って、一億総中流意識を育んでいった時期と重なる。お坊っちゃま化した子供たちにとっては、ちょっとやそっとの怪我も危険も顧みずに外の世界で飛び跳ねていたかつての悪童たちの動物的な身の敏捷さは当然生存に不必要な機能となり、退化の方向に進んだとしても不思議ではない。学校は責任を回避する方向にではなく、子供たちの動物的敏捷さ=危険に対する反射神経が退化しないよう、退化を少しでも補う方向に時間を割くべきだったのである。つまり親がしなかったことを学校が代わって心を砕くべきだったのである。

 小学校低学年の頃から、あるいはもっと早く幼稚園の頃から少々危険で乱暴な身体動作にも耐えられるよう、敏捷さを養う競技や遊戯を授業に取入れ、訓練していくことをも教育の一環に据えるべきだった。ところが学校は親と歩調を合わせて、受験戦争の戦場に子供たちを駆り立てる戦争犯罪だけではなく、子供たちから身の敏捷さを奪うという去勢の罪をも犯している。

 敏捷ささえ身につけていたなら、少しぐらいの危険動作にもそれなりに対処できるものである。子供たちは親や学校が規制して危険を取り去ってしまったありきたりの遊びには飽きてしまう。刺激と冒険心を満たしてくれないからだ。ありきたりの遊びには工夫の余地が極端に限られてしまう。つまり想像力への刺激が少ない。危険な遊びほど、刺激と冒険心を高め、なし遂げたときの達成感はときには精神の解放の域にまで達する。学校と親が子供を受験勉強に閉じ込めてしまった結果、冒険と刺激に対する欲求、危険なものへのほのかな憧れは外で飛びまわる遊びから、ナイフを持つことやコンビニなどでの万引き、あるいは覚醒剤を試すといったいわば代償行為で満たす方向に変質させた側面もあるはずである。〉・・・・・

 「ありきたりの遊びには工夫の余地が極端に限られてしまう。つまり想像力への刺激が少ない」

 「工夫」は考える力を必要条件とする。

 同じことを繰返して言うことになるが、勉強にしても運動にしても与えられたものを与えられたものとして受け止めるだけでは「工夫」(=考えるプロセス)は生じない。

 上記研究結果は運動だけではなく、教育に関しても自己判断に任せる、あるいは自己工夫に任せる“自由”が必要だと言っていると読み解かなければならないはずだ。

 参考までに。

 2006年6月26日記事――《教育論からの日本サッカー強化の処方箋 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする