野田首相が自身の官邸ブログに今回で5回目となる持ち回り開催の日中韓サミット(今回は北京開催)で、「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」と書いていると各記事が伝えていたから、首相官邸HPにアクセス、ブログを覗いてみた。
「40年を経て、40年先を思う」(首相官邸ブログ/2012年05月16日 (水曜日) 18:19)(一部抜粋)
野田首相「1972年。もしも、あのタイミングを捉えて、日中の国交正常化がなされていなければ、首脳同士が、地域の平和と安定という機微な話題について、率直に意見を交わす「日中韓サミット」の枠組は今も存在しなかったでしょう。これほどまでに経済面での交流が進むこともなければ、日中韓FTAの交渉開始について合意することもなかったはずです。今般署名した日中韓投資協定は、この三国で初めての経済分野における法的な枠組であり、大きな成果です。
もちろん、三国の間には意見や利害の違いがあります。私としても、申し上げるべきことは、温家宝総理にも、李明博大統領にも、はっきりと申し上げたつもりです。しかし、そうであってもなお、日中韓サミットの全体のトーンは、極めて建設的なものだったと断言できます。これは、40年の間に、官民それぞれで、日中韓の友好を願う多くの人々の努力があればこそ、生み出されたものに違いありません」
「申し上げるべきことははっきりと申し上げたつもりです」――
一国の首相が外国に対して国益を代表している以上、“申し上げるべきことははっきりと申し上げる”ことは極々当たり前のことであろう。
いわば常なる姿勢としていなければならない、“申し上げるべきことははっきりと申し上げる”態度でなければならないということである。
逆に菅前首相がそうであったように、“申し上げるべきことははっきりと申し上げない”態度を一度でも見せたなら、一国のリーダーとしての資格を失うことになるということである。
一国のリーダーである以上、“申し上げるべきことははっきりと申し上げる”態度が当然の前提であるなら、「申し上げた」自身の言葉の実効能力をこそ問題としなければならないはずだ。
「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」、だが、相手に通じなかった、無視されたでは、何のために「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」のか意味を失うことになる。
ということは、「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」ことに評価の対象を置くのではなく、「はっきりと申し上げた」ことを実現させる実効能力を評価対象としなければならないことになる。
だが、野田首相は自らの言葉がどの程度の実効能力を発揮し得たのか見極めもせずに、「はっきりと申し上げた」ことのみを自ら評価対象とした。
この精神構造は「政治は結果責任」意識を欠いていることの証明しかならない。
菅仮免も「政治は結果責任」を著しく欠いていた。
もし自らの言葉の実効能力を評価対象とする姿勢があったなら、「はっきりと申し上げたからこそ、これこれの結果を得ることができた」と自らの実効能力をこそ、あるいは結果責任をこそ評価対象としたはずた。
5月13日午前、北京の人民大会堂で野田首相・李明博韓国大統領・温家宝集国首相と会談。その日の夕方、温家宝首相と会談。尖閣問題で激しいやりとりが展開されたという。
《日中首脳会談 尖閣諸島巡り応酬》(NHK NEWS WEB/2012年5月13日 21時43)
温家宝首相「核心的利益と重大な関心事項を尊重することが大事だ。双方は相互信頼を増進させ、両国関係の健全で安定した発展を推進すべきだ」
「核心的利益と重大な関心事項」は尖閣諸島問題といウイグル問題を指しているはずだ。後者に関して野田首相自身は一切言及していないが、複数の外交筋の情報として、この日中首脳会談の席で温家宝首相が亡命ウイグル人組織「世界ウイグル会議」ラビア・カーディル主席に対する日本政府の査証(ビザ)発給を、「テロリストを国内に入れるのは許せない」と激しい言葉で抗議したとしている(47NEWS)。
野田首相「日中がともに発展し、地域・国際社会でさらに建設的な役割を果たすことが重要だ。
尖閣諸島は歴史的にも国際法上も日本固有の領土であり、この問題が日中関係の大局に影響を与えることは望ましくない。
尖閣諸島を含む海洋における中国の活動の活発化が日本国民の感情を刺激している」――
確かに「申し上げるべきことははっきりと申し上げ」ている。だが、このことはごくごく当然の発言であって、特別の発言でも何でもない。言わなければならなかった発言であろう。
では、野田首相は自らの言葉にどのような実効性を持たせることができたのだろうか。その実効能力はどの程度のものだったろうか。
野田首相は温家宝会談の翌日の5月14日、胡錦涛中国国家主席及び李明博韓国大統領と三者首脳会談を行なっている。その後胡錦涛主席は李明博韓国大統領と個別会談を持ったが、野田首相との個別会談には、日本側からの要請にも関わらず、応じなかったという。
このことは会談の拒否を通して野田首相の「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」言葉自体の受け入れを拒絶したことを意味しているはずである。
また、サミットの成果表明となる日中韓共同宣言に日韓双方が望んだ北朝鮮問題を中国の反対で盛り込むことができなかった。
いわば野田首相は自身の言葉に実効性を持たせることができず、見るべき実効能力を発揮し得なかった。ただ単に「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」だけで終わった。
勿論、だからと言って、今後共実行性が失った状態で推移するとは限らない。今後の言動、その政治性にかかっているが、と同時に実行性を持たせる実効能力発揮の責任を負ったことになる。
「尖閣諸島は歴史的にも国際法上も日本の領土である」を相手に認めさせる実効能力発揮の責任である。
「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」からと、そのことだけを喜んでいられたら困る。
温家宝首相が野田首相との会談で日本政府のラビア・カーディル主席に対するビザ発給を激しい言葉で抗議したことに併せて、中国外務省も5月17日、激しく抗議している。
《世界ウイグル会議が閉幕》(NHK NEWS WEB/2012年5月17日 18時21分)
中国外務省の報道官「世界ウイグル会議はテロ組織とつながっており、中国の分裂を企てる組織だ。われわれの断固とした反対にも関わらず、日本が開催を許可したことに強い不満を表明する」
この抗議に対する日本政府の発言を新聞・テレビは何も報道していない。「我々の調査ではテロ組織とつながっている事実はない」ぐらいの「申し上げるべきことははっきりと申し上げ」るべきだろう。
「はっきりと申し上げ」て日本側の姿勢を常時明確に突きつける姿勢が、その積み重ねによって、「尖閣諸島は歴史的にも国際法上も日本固有の領土である」という言葉も日本の姿勢を明確な突きつけた生きた言葉となっていくはずだ。
普段から日本の姿勢を明確に突きつけずに、何か問題が起きたから、あるいは会談が行われたからと「尖閣諸島は」云々を言ったとしても、単なる原則の表明、あるいは公式見解の表明で終わって、実効ある生きた言葉となることは期待できない。
いわば「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」だけで終わり、その繰返しを行うことになる。
例えば日本国憲法は「基本的人権の不可侵」を謳っている。日本憲法は日本政府も国民も基本的人権の不可侵を常なる姿勢としていなければならないことを規定しているということである。
普段から日本の姿勢を明確に突きつける習慣を身に着けていたなら、中国当局が中国国民に対して基本的人権を侵害する行動に出た場合、自らが体現しているはずの基本的人権不可侵の姿勢を突きつけずにはいられまい。
要するに「申し上げるべきことははっきりと申し上げ」る批判の一言である。
だが、欧米諸国が自ら体現している基本的人権不可侵の姿勢を突きつけ、何か一言突きつけることを習慣としていることに反して日本政府は多くの場合沈黙したままで終わる。
自分たちにだけ基本的人権が問題なく作動すればいいという偏愛的なセクショナリズムからきているのかもしれないが、それでは外に向かって実効ある生きた言葉とはならない。
野田首相は同じブログで、ブログ題名の由来となっている日中国交正常化40周年と同様に沖縄本土復帰40周年当たることから、沖縄の基地問題にも触れている。
野田首相「沖縄の皆さんが被災地の復興に思いを致して頂いているのと同じように、沖縄の問題は、すべての日本人が自分たちの問題として引き受けなければなりません。そして、国としても、為すべきことを成し遂げていかなければなりません。国の安全保障を揺るがせることなく、沖縄の振興と基地負担の軽減のために、目に見える「成果」を積み上げていく。そのための政府の真摯な努力は、沖縄の皆さんの心にも届くと信じています」――
「沖縄の問題は、すべての日本人が自分たちの問題として引き受けなければなりません」とは言っているが、野田政権だけではなく、歴代政権は沖縄問題を「すべての日本人」に対して「自分たちの問題として引き受け」させることができないできた。
そして現在も「自分たちの問題として引き受け」させることができないでいる。
ブログ全体の文書自体が「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」言葉であるはずだ。また、何よりも「政治は結果責任」を負っている一国の首相である。にも関わらず、申し上げるだけで実効能力を発揮できないまま、あるいは実効ある生きた言葉とすることができないままに「沖縄の問題は、すべての日本人が自分たちの問題として引き受けなければなりません」と立派なことを言っている。
これ程空疎な言葉はないはずだ。
野田首相の「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」は極々当たり前のことでありながら、「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」が如何に信用できないかも証明している。
いずれにしても、言葉に実効性を持たせる実効能力発揮の責任を負っていることを忘れないで貰いたい。