維新の会市議団家庭教育条例案、日本人の考えとして最適のアイデアであり、日本人向けに最適の強制

2012-05-04 12:40:38 | Weblog

 維新の会市議団が「家庭教育支援条例案」を、提出時期は未定ながら、5月1日(2012年)、市議会に提出する方針を決めたという。成立した場合、公権力が家庭にまで入り込んで、家庭教育をあれこれ強制することになると反対する意見もあり、逆に役立つとして賛成する意見もある。

 マスコミは公明党市議団も賛同する見通しだと伝えているが、大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長自身の態度はと言うと――

 橋下大阪市長「市民に義務を課すのは好きでない。だが、必要なルールなら議会でどんどんつくったら良い」(MSN産経

 矛盾した言い方となっている。「義務を課すのは好きでない」と言いながら、市議団が「必要なルール」としていることに賛成している。

 義務を通り越して強制の域に達しているように見える。自分たちがすることは何でも許されるといった独裁意志さえ嗅ぎ取ってしまう。

 但し日本人の考えとして最適のアイデアであり、日本人向けに最適の強制だとも言える。日本人は元々上が下を従わせる権威主義性を思考様式・行動様式としているからであり、この権威主義性に非常にマッチする条例案となっているからである。

 自由法曹団のページに紹介してあったから、全文を参考引用してみる。「前文」が提案理由の位置を占め、「第1章」以下が主として具体的方策の提示となっている。 

 主に「前文」を取り上げて、自分なりの解釈を施したいと思う。

 重要と思われる箇所は色付けした。前文冒頭は提案理由の前提をなしているが、そもそもからして前提自体に事実誤認があることを最初に断っておく。 

 《維新の会市議団 家庭教育条例案》(自由法曹団ページ/平成24年5月) 

 家庭教育支援条例 (案)   

(前文)

 かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた。

 しかし、戦後の高度成長に伴う核家族化の進展や地域社会の弱体化などによって、子育ての環境は大きく変化し、これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず、親になる心の準備のないまま、いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている。

 近年急増している児童虐待の背景にはさまざまな要因があるが、テレビや携帯電話を見ながら授乳している「ながら授乳」が8割を占めるなど、親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題があると思われる。

 さらに、近年、軽度発達障害と似た症状の「気になる子」が増加し、「新型学級崩壊」が全国に広がっている。ひきこもりは70万人、その予備軍は155万人に及び、ひきこもりや不登校、虐待、非行等と発達障害との関係も指摘されている。

 このような中で、平成18年に教育基本法が改正され、家庭教育の独立規定(第10条)が盛り込まれ、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と親の自覚を促すとともに、「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」と明記した。

 これまでの保護者支援策は、ともすれば親の利便性に偏るきらいがあったが、子供の「育ち」が著しく損なわれている今日、子供の健全な成長と発達を保障するという観点に立脚した、親の学び・親育ちを支援する施策が必要とされている。それは、経済の物差しから幸福の物差しへの転換でもある。

 このような時代背景にあって、本県の未来を託す子供たちの健やかな成長のために、私たち親自身の成長を期して、本条例を定めるものである。

第1章 (総則)

(目的)
第1条:

1項 親およびこれから親になる人への「学習の機会及び情報の提供等」の必要な施策を定めること
2項 保育、家庭教育の観点から、発達障害、虐待等の予防・防止に向けた施策を定めること
3項 前2項の目的を達成するため、家庭教育支援推進計画を定めること

(基本理念)

第2条:家庭教育の支援は、次に掲げる条項を基本理念として、推進されなければならない。

(1) 親は子の教育について第一義的責任を有すること
(2) 親と子がともに育つこと
(3) 発達段階に応じたかかわり方についての科学的知見を共有し、子供の発達を保障すること

(社会総がかりの取組)

第3条:前2条の目的および基本理念にもとづき、家庭教育の支援は、官民の区別なく、家庭、保育所、学校、企業、地域社会、行政が連携して、社会総がかりで取り組まれなければならない

第2章 (保護者への支援)

(保護者への支援の緊急性)

第4条:現に子育て中であるか、またはまもなく親になる人への支援は、緊急を要するため、以下に掲げる施策が、遅滞なく開始されなくてはならない

(母子手帳)

第5条:母子手帳交付時からの親の学びの手引き書の配付など啓発活動の実施、ならびに継続的学習機会の提供および学習記録の母子手帳への記載措置の実施 

(乳幼児検診時)

第6条:3ヶ月、6ヶ月、1歳半、3歳児検診時等での講習の実施ならびに母子手帳への学習記録の記載措置の実施

 (暗記式学校教育と何ら変わらない。教えたことを母子手帳に書かせる。日本全国金太郎飴、画一化。個性の喪失、個性の剥奪。)

(保育園、幼稚園等での学習の場の提供)

第7条:すべての保育園、幼稚園等で、年間に1度以上、保護者会等での「親の学び」カリキュラムの導入

(一日保育士、幼稚園教諭体験)
第8条:すべての保育園、幼稚園で、保護者を対象とした一日保育士体験、一日幼稚園教諭体験の実施の義務化

(学習の場への支援)

第9条:保育園、幼稚園、児童館、民間事業所等での「親の学び」等の開催支援

第3章 (親になるための学びの支援)

(親になるための学びの支援の基本)

第10条:これまで「親になるための学び」はほとんど顧みられることがなく、親になる自覚のないまま親になる場合も多く、様々な問題を惹起していることに鑑み、これから親になる人に対して次に掲げる事項を基本として、学びの機会を提供しなければならない。

(1) いのちのつながり
(2) 親になることの喜びと責任
(3) 子供の発達過程における家族と家庭の重要性

(学校等での学習機会の導入)

第11条・小学校から大学まで、発達段階に応じた学習機会を導入する

(学校用家庭科副読本および道徳副読本への導入)

第12条:小学校から高等学校まで、発達段階に応じて、次に掲げる事項を基本とした家庭科副読本および道徳副読本を作成し活用する

(1) 家族、家庭、愛着形成の重要性
(2) 父性的関わり、母性的関わりの重要性
(3) 結婚、子育ての意義

(家庭用道徳副読本の導入)

第13条:前12条の内容に準じて、保護者対象の家庭用道徳副読本を作成し、高校生以下の子供のいる全ての家庭に配付する

(乳幼児との触れ合い体験学習の推進)

第14条:中学生から大学生までに対して、保育園、幼稚園で乳幼児の生活に触れる体験学習を義務化する

第4章 (発達障害、虐待等の予防・防止)

(発達障害、虐待等の予防・防止の基本)

第15条:乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる

(保護者、保育関係者等への情報提供、啓発)

第16条:予防、早期発見、早期支援の重要性について、保護者、保育関係者およびこれから親になる人にあらゆる機会を通じて情報提供し、啓発する

(発達障害課の創設)

第17条:
1項 発達障害の予防、改善のための施策は、保育・教育・福祉・医療等の部局間の垣根を廃して推進されなければならない
2項 前1項の目的達成のために、「発達障害課」を創設し、各部局が連携した「発達支援プロジェクト」を立ち上げる

(伝統的子育ての推進)

第18条:わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する

(学際的プロジェクトの推進)

第19条:保育・教育・福祉・医療等にわたる、発達障害を予防、防止する学際的研究を支援するとともに、各現場での実践的な取り組みを支援し、また、その結果を公表することによって、いっそう有効な予防、防止策の確立を期す

第5章 (親の学び・親育ち支援体制の整備)

(民間の、親の学び・親育ち支援ネットワークの構築推進)

第20条:親としての学び、親になるための学びの推進には社会総がかりの取り組みが必要なため、民間の、親の学び・親育ち支援ネットワークの構築を支援し、推進する

(民間有資格者の育成に対する支援)

第21条:親としての学び、親になるための学びを支援、指導する「親学アドバイザー」など、民間有資格者等の育成を支援する

(「親守詩」実行委員会の設立による意識啓発)

第22条:親と子がともに育つ実践の場として、また、家族の絆を深める場として、親守詩実行委員会を設立して発表会等の催しの開催を支援し、意識啓発をおこなう

(家庭教育推進本部の設置と推進計画等の策定)

第23条:
1項 首長直轄の部局として「家庭教育推進本部」を設置し、親としての学び、親になるための学び、発達障害の予防、防止に関する「家庭教育推進計画」を策定する
2項 「家庭教育推進計画」の実施、進捗状況については検証と公表をおこなう

 前文冒頭で、「かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた」と言っている。

 かつての日本社会を矛盾なき完全な理想社会として描いている。父母も祖父母も兄弟も地域社会も欠点も矛盾もない理想の存在だったと絶対的な価値づけを行なっている。

 当然、欠点も矛盾もない理想の存在によって「温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた」きたかつての子供たちは同じく理想の存在として育っていった「子育ての文化」ということでなければならない。

 確かに戦後、社会のあり方や家族のあり方は大きく変わった。だが、かつての欠点も矛盾もない理想の存在によって育まれて理想の存在となった子どもたちが大人となり、自分たちの子どもを理想の存在に育んていく、理想の存在から理想の存在への循環は戦後の変化によって伝統・文化とし得ない程に脆弱だったということになる。

 この矛盾はどう解釈したらいいのだろうか。

 戦後は約70年弱の積み重ねしかないが、戦後以前は何百年の積み重ねがある。かつての「子育ての文化」は何百年の積み重ねによって育まれ、到達した文化であろう。それが70年そこそこの戦後の変化によっていとも簡単に変質させられてしまった。

 人間の歴史に矛盾なき理想の社会など存在した試しはないという真理を知らないから、理想社会が存在したかのような、こういった事実誤認が生じる。

 日本のかつての「子育ての文化」が非の打ち所のない理想的な文化であったなら、戦争中の大日本帝国軍隊兵士の残虐行為は存在しなかったろう。

 明治・大正・戦前昭和の歴史を紐解くと、学歴高い政治家・官僚・教育者の汚職・収賄・贈賄等々の犯罪はゴマンと認めることができるが、これも日本の理想的な「子育ての文化」にどっぷりと浸かって育った大人たちだったからに違いない。

 前文冒頭の事実誤認に触れて、事実誤認として横行していた児童虐待に関する日本の初期的認識を思い出した。

 児童虐待の初期的認識とは関係しないが、この前文でも児童虐待について次のように触れている。「近年急増している児童虐待の背景にはさまざまな要因があるが、テレビや携帯電話を見ながら授乳している『ながら授乳』が8割を占めるなど、親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題があると思われる」――

 この認識も事実誤認に相当するはずだ。児童虐待の多くは保護者の“心の余裕”が影響しているはずだからだ。経済的余裕のなさや夫婦間の不和等が生活の余裕を奪い、それが心の余裕まで奪い、ちょっとしたことでイライラすることになって子どもに辛く当たったりして、抑えることができなくなって慣習化してしまう。

 貧困、失業、職に就いていても、非正規やフリーターといった不安定で低賃金、病気をしても満足に病院にかかることができない等々の生活環境が多くをして心の余裕を奪っている。その結果としての「親心の喪失と親の保護能力の衰退」ということでもあるはずだ。

 このことは各国の外国人問題が証明している。世界的に景気がよく、国民の生活に余裕があった時代は自国に流入した外国人に寛容であったが、不景気となり、自国民でも失業者が増大して、仕事が見つからない、生活が苦しいとなると、外国人に非寛容となって、襲撃したり、最悪殺人まで犯したりする心の余裕のないことを仕出かしてしまう。

 いわば児童虐待は親の問題である以上に社会の問題でもあるはずだ。多分維新の会大阪市議団は大きな家に住んで心の余裕ある者ばかりなのだろう。

 児童虐待に関する日本の初期的な事実誤認については、《ニッポン診断 児童虐待の『発見』と専門家の不在》朝日新聞/2005年5月29日 朝刊)が触れている。ロジャー・グッドマン英オックスフォード大学講師の寄稿記事である。

 次のような記述がある。「親子心中といった日本社会ならではの現象があるということは認めながらも、感情的・身体的・性的な虐待は『欧米の』問題で日本には存在しないと見られていた」

 何と見事な合理的判断能力を欠いた認識だろうか。

 平安時代の『落窪物語』は継子いじめ物語である。その他にも継子いじめを題材にした物語、歌舞伎等はいくらでもあったはずだ。物語には殺してしまう程の最悪の虐待は存在しなかったとしても、だからと言って、現実世界に於ける存在を否定できないはずだ。

 人間は人としての心の余裕を失うと、見境ない行為に走る。天明・天保の両飢饉では食べる物がなく、死人ばかりか、生きている人間の肉を食べたとする記録が残っているそうだし、『近世農民生活史』(児玉幸多著・吉川弘文館)には次のような記述がある。

 〈「動転愁記」という天明の飢饉の実情を記したものには更にいくつかの惨事が記されている。津軽領(弘前藩)で猫犬が何百文という値段で売買された話、同城下で相応の町人が金銭を枕元に積み重ねて絹布の夜具を着て家内数人が餓死した話、南部領(盛岡藩)でも三戸の在で実子二人を食い殺した女の話、ニ、三歳の子どもを川へ投げ入れて乞食に出る者の話、「これからは食いたい食いたいと言わないから、許してくれ」と泣き叫ぶ七、八歳の娘を石で打ち殺した女の話、追剥・強盗。強請(ゆすり)の横行する話しである。〉――

 子どもを殺す母親は生きながらに飢えで苦しめるよりも、あるいは飢えで苦しんでいるのを見るに堪えずに一思いにと思って殺してしまうのかもしれない。
 
 天明の飢饉では弘前藩と盛岡藩で12万人もの餓死者を出したとされているが、一説では弘前藩だけで13万人から20万人の餓死者だとされているという。
 
 『近世農民生活史』にはさらに次のような件がある。〈飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出した時でさえも、武士には餓死する者がいなかったという。〉・・・・・

 権力者側に所属する「武士には餓死する者がいなかった」とは武士以外の人間にとってはこれ以上ない残酷な話しとなる。

 人間にとっては生活がすべてである。生活に余裕があるかないかで人間の行動を制約することになる。

 こういった認識があったなら、〈8割を占める〉〈テレビや携帯電話を見ながら授乳している『ながら授乳』〉が〈親心の喪失と親の保護能力の衰退〉の原因をなす現象であり、このことが児童虐待の主たる原因となっているとする事実誤認に至ることはないだろう。

 上出の《ニッポン診断 児童虐待の『発見』と専門家の不在》が次のように伝えている。「調査によると、日本で公式には年間に千六百十一件しか児童虐待がなかったとされる一九九三年に、人口が二倍の米国では二百三十万件の虐待があり、人口が半分の英国では約四万件あった。問題意識が高まるに連れ、日本で報告される件数は今後数年で、急速に増え続けていくのはまず間違いない」

 その一九九三年とは、「医師や福祉の専門家を含む殆どの人たちが、日本で児童虐待が起きている可能性を否定していたころからまだ十年もたっていない」年である。

 いわば10年も経たないうちに児童虐待発生件数ゼロから1680件も急激に増加したことになる。この不自然さに、「医師や福祉の専門家を含む殆どの人たち」の誰もが気がつかなかった。

 親の子どもに対する歪んだ身体的暴力行為が、いわゆる“愛の鞭”だと把えていても、児童虐待に相当するという認識が親を含めて社会が持っていなかったことからの(児童虐待という言葉すらなかったのではないのだろうか)情報把握不足と情報伝達不足が招いていた児童虐待は日本には存在しないとした事実誤認ではなかったろうか。

 この事実誤認に勝るとも劣らない維新の会大阪市議団の8割を占める「ながら授乳」が児童虐待の主たる原因だとする事実誤認であろう。
 
 親が先ずは第一番に経済的な生活の余裕と良好な夫婦関係がもたらす心の余裕に恵まれ、それらの余裕が支えとなって、単身者なら、経済的な余裕が唯一の支えとなるが、出産・育児に関しても心の余裕を持って接することができたなら、発達障害との関係が指摘されていると言っているひきこもりや不登校、虐待、非行等もかなり減るはずだ。

 舅や姑との人間関係、ごく近所の住人との人間関係も精神的余裕に関係してくる。ときには経済的な余裕を相殺して上回る焦燥や苛立ちを与える人間関係ということもあり、それが子どもに対して攻撃の形を取ることもあるだろう。

 以上見てきた日本の「子育ての文化」の事実誤認からすると、第18条の「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」としていることも事実誤認そのものとなる。

 戦後も尾を引き、現在もその名残りを残しているが、戦前の家庭は家長が絶対的権力を握っていた権威主義社会にあった。それゆえ妻も子どもも父親の権威主義的強制に対しては面と向かっては逆らうことができなかった。

 いわば人間性に関しては家長の言うがままの鋳型にはめられた抑制された存在として育つしかなかった。その典型的な例が職人や商人の世界での、学問なんか必要ではない、親の職業を継ぐんだという強制であろう。

 この強制は戦後も核家族化が社会的に当たり前の姿となる前頃まで続いたはずだ。だから、核家族化が権威主義的な家父長制の打破に役立ち、そこから個人を救ったとも言える。

 維新の会市議団の家庭教育条例案には権威主義的な家父長制が持っていた強制意志を嗅ぐことができる。「わが国の伝統的子育て」だとしている日本の「子育ての文化」への回帰を謳っていること自体が、自分たちでは気づかなくても、かつて存在した家父長制への回帰となるからである。

 あるいは家父長制の強制とまで行かなくても、歴史とし、文化としてきた権威主義性を現在も残している日本の教育の上が下を従わせる形式の暗記知識授受・暗記情報授受を見習ったかのような権威主義的強制を滲ませていると言える。

 常々言っているように暗記教育は児童・生徒の自ら考えるプロセスを教育そのものに介在させないことによって成り立つ。児童・生徒が自ら考えるプロセスを介在させていたなら、暗記教育でなくなる。

 維新の会市議団の家庭教育条例案にしても、ああしろ、こうしろという強制ばかりで、親が自ら考えて子育てする“考えるプロセス”に何ら期待しない内容となっているからである。

 日本の暗記教育が金太郎飴に譬えられるように児童・生徒の思考の画一化・行動の画一化を招いているように維新の会市議団の家庭教育条例案の強制に忠実に従ったなら、その強制を受けた親によって子どもは幼稚園・保育園に入る前から画一化に慣らされ、現在以上のマニュアル人間、横並び人間を育てるには役立つに違いない。

 だからこそ、冒頭、〈日本人の考えとしてふさわしいアイデアであり、日本人向けにふさわしい強制だとも言える。日本人は元々上が下を従わせる権威主義性を思考様式・行動様式としているからであり、この権威主義性に非常にマッチする条例案となっているからである。〉と書いた。

 いずれにしても個人の考えに任せることができない、いわば個人それぞれの自律性・主体性に任せることができない、親方日の丸の口出しがここにある。

 このことも日本人が未だ権威主義性を色濃く残しているからだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする