山本太郎は、多分、10月31日の東京の赤坂御苑での秋の園遊会で必死の決意で自身が感じ取っている福島の現状を手紙に認(したた)め、必死の決意で天皇の心に届けと天皇に手渡したのだろう。
だが、天皇はその手紙に目を通すことすらできなかった。本人の意志ではない。他者の意志によってそうさせられた。
《山本議員の手紙 宮内庁は陛下に届けず》(NHK NEWS WEB/2013年11月5日 16時40分)
11月5日宮内庁定例記者会見――
山本次長「各界で活躍したり功績を挙げた方を招いて、苦労をねぎらったり歓談される場所だ。あのような手紙を差し出すのは、場にふさわしくない。常識的に判断されるべきことだと思う。
今後、同じような状況で同じようなことが行われれば、われわれとしても趣旨を生かした行事や催し物を円滑に開きにくくなる。状況や趣旨を踏まえて、それぞれで判断いただくということだと思う。
(手紙の内容について)私信でもあるので差し控えたい。手紙は、そうした状況で渡されたものであり、事務方で預かって天皇陛下には届けていない。今後も届けることは考えていない」――
天皇が政治的問題に答える権限を有していないとしても、天皇宛の手紙であることに変わりはない。その中身を宮内庁の役人が読んで、自らの判断一つで天皇に渡すかどうかを決める。
天皇の側からすると、自身宛の手紙に目を通すことができるかできないかは宮内庁の役人の判断――サジ加減一つにかかっていて、自らの意志にかかっていない。
宮内庁の役人は「目を通されますか」と尋ねて、天皇の意志に任せることもしなかった。最初から天皇の意志を考慮することはなかった。「今後も届けることは考えていない」と、役人の意志を優先させ、天皇の意志を無視、考慮外に置いている。
役人の意志次第だということは、天皇は公職上は一個の人間としての人格を認められていない、宮内庁の役人に支配された存在であることを意味する。
但し被災地等への訪問は天皇の私的意志によるものかもしれないが、天皇という表向きの存在性(国民に親しまれる存在性)に適う私的意志だから、宮内庁によって公職としてスケジュール化されるのであって、園遊会で手紙を手渡されるという事態は役人たちが決めている裏側の存在性(支配された存在性)に齟齬を来たす計算外の公職上の出来事として排除したということであるはずだ。
勿論、山本太郎の行為が慣例となるのは困るから読ませないことにしたという理由は成り立つが、「天皇に対する請願書は、内閣にこれを提出しなければならない」と規定している「請願法第3条」に従って欲しいとする規則を徹底すればいいことであって、一旦は天皇に手渡された手紙を天皇が読むか読まないかを天皇の意志に任せるか、あるいは役人の判断に従わせるかは別問題である。
だが、天皇宛てであるはずの手紙を役人の判断一つで天皇の目に触れさせないようにしたことによって図らずも天皇が人格を認められていない支配された存在であることを露呈してしまった。
宮内庁は内閣府に所属する機関である。最終的には内閣が天皇の意志を支配し、コントロールしていることになる。
この構造が天皇に対する巧妙な政治利用を可能としている。
これが日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である天皇の実体的な存在性であろう。
最近の顕著な天皇の政治利用は山本太郎の手紙問題でいくつかの記事が指摘していたが、4月28日(2013年)の政府主催「主権回復の日」式典で出席させた天皇に対して式の終了間際、右翼の軍国主義者安倍晋三も加わって、「天皇バンザイ」を三唱したことを挙げることができる。
それが真に主権回復を祝う「主権回復の日」式典であるなら、主権を回復した国家と国民を祝うことが主意であるはずだが、式典の最後に「天皇バンザイ」を三唱した瞬間、国民が国家の主役であるとする国民主権がどこかに消え、天皇を国家の主役に代えたのである。
この「天皇バンザイ」の三唱は意識の底で常に天皇を国家の主役に据え、実際にも据えたい強い願望が身体的表現となって現れたものであろう。
だが公職上、時として人間としての人格を認められない支配された存在となっている天皇を国家の主役に据えたいとする願望程、それが願望だけで終わっていても、国民主権の思いを希薄化させている以上、恐ろしいことなない。