大阪市の重篤な問題行動児童生徒の出席停止や「個別指導教室」への隔離は教育上の真の解決策足りうるのか

2014-10-27 10:32:27 | Weblog


 大阪市教育委員会が市立小・中学校の子どもの問題行動を5段階に分け、段階に応じて対応、ワースト2の「レベル4」とワースト1の「レベル5」のケースは最悪出席停止、あるいは一般生徒から分離し、「個別指導教室」(仮称)を設けて、そこで個別指導する教育案を市教委の事務局が教育委員に示したという。

 案自体は《「安心ルール」に基づき子どもの安全・安心と教育を受ける権利を守る学校づくり(案)》と題して、2014年年6月10日に発表している。

 一種の隔離政策である。勿論、教育上、「隔離」とか「分離」とかの言葉は使っていない。出席停止の場合は、〈出席停止期間中においては、当該児童生徒に対して保護者が責任を持って指導に当たることが基本〉だとして、親に教育を丸投げ、出席停止以外は、〈この課題を解決するため、重篤な問題行動を起こす児童生徒に対し、それぞれのニーズを考慮しつつ、手厚い個別指導を行うための専用の施設として「個別指導教室」(仮称)を整備し、様々な専門性を持った常勤・非常勤のスタッフを置き、在籍校や関係機関と連携しながら、手厚い個別指導を行う組織体制を整えることとする。〉としている。

 このことの裏を返すと、隔離政策を持ってこなければならない程に多くの教室が重篤な問題行動を起こす児童生徒に支配されている状況にあることになる。

 このような状況を受けて市教委をして個別指導政策策定に向かわせた『背景』を次のように説明している。文飾は当方。

 〈・平成25年3月に改訂した大阪市教育振興基本計画は、大阪市教育行政基本条例に基づき、「全ての子どもたちが学力を身に付けながら健やかに成長し、自立した個人として自己を確立し、他者とともに次代の社会を担うようになること」をめざすべき目標像として掲げたところである。

 ・しかしながら、学校現場の実態を見たとき、授業中の立ち歩きや大声・騒音による妨害、教室から飛び出しての校内浮遊や無断外出、教職員に対する反抗・暴言・暴力行為、児童生徒間暴力、いじめ、喫煙等、依然として「荒れ」の状態に陥っている学校も少なくない。その陰では、静穏かつ明るい教育環境の中で、生き生きと授業に参加し、学びを深め、友だちと交流しながら、心身ともに健全に成長できる、当たり前の学校生活を望む児童生徒や保護者の願いが踏みにじられている実態がある。

 ・社会で許されない行為は、学校内であっても許されるものではない。換言すれば、学校は、社会の法秩序が及ばない治外法権の閉鎖空間であってはならない。また、学校は、学習の場であり、他の児童生徒の教育を受ける権利の侵害も許されない。同時に、重篤な問題行動を起こす児童生徒は、様々な背景・要因を抱えていることも多く、問題行動の克服と立ち直りはもとより、社会の構成員として立派に成長していけるよう、手厚い個別指導を必要としている。〉――

 この一種の強制策、あるいは強攻策は元々強権的体質を持つ橋下徹大阪市長の強い影響もあり、橋下徹の強権体質を反映した強制策、あるいは強攻策といった性格を有しているに違いない。

 重篤な問題行動を起こす児童生徒に対して出席停止か、「個別指導教室」(仮称)に移して別カリキュラムの授業を行う。

 “個別指導案”の『背景』から次のような状況が浮かび上がってくる。教育の「目標像」として掲げた〈全ての子どもたちが学力を身に付けながら健やかに成長し、自立した個人として自己を確立し、他者とともに次代の社会を担うように〉するとした目標を市教委・学校・教師は達成できていない状況にあるということ。

 〈授業中の立ち歩きや大声・騒音による妨害、教室から飛び出しての校内浮遊や無断外出、教職員に対する反抗・暴言・暴力行為、児童生徒間暴力、いじめ、喫煙等〉、児童生徒に対して教師が制御能力を欠いている状況にあるということ。

 結果、市教委・学校・教師は学校を〈社会の法秩序が及ばない治外法権の閉鎖空間〉〉の状況にしているということである。

 このことは市教委・学校・教師の教育能力を欠いていることから発生している状況なのか、児童生徒に社会のルールに反した行動を強いる無秩序な性格が市教委・学校・教師の教育能力を上回って制御不能となっているのか、どちらなのだろう。

 果たして子どもは小学校に入学して、いきなり問題行動を起こすのだろうか。保育園・幼稚園時代に問題行動を覚えて、小学校入学後、引き続いて問題行動を起こすという例もあるだろうが、例えそのような子どもであっても、入学早々から問題行動を起こすのは極めて稀であるはずである。

 だが、極めて稀な例であるにも関わらず、そのうち教室の秩序が保てない程の重篤な問題行動が蔓延(はびこ)るようになる。

 このパターンは小学校を卒業して中学校に入学する際も同じように繰返されることになるはずである。小学校で重篤な問題行動を繰返す問題児であったとしても、中学への入学早々に小学校の時と同じ態度に出るのは極めて稀で、あるいはゼロかもしれない、そのうち徐々に程度の軽いものから程度が悪質なものへと問題行動を起こしていって、小学校の時と変わらない姿を見せていくのが一般的な傾向であるはずである。

 このような傾向を描くのは上級学校への入学といった人生の新しい局面に遭遇したとき、小学生と言えども、あるいは中学生と言えども、クラスメートや教師、さらには教頭や校長までも含めて自身を取り囲む周囲の人間が自身にとって危険か、安全か、意識的、あるいは無意識的に探ることになって、当初の間は問題行動を内に隠す形を取るからであろう。

 勉強ができる子どもでも、自分より勉強ができる子がどのくらいいるのだろうか、担任は教えるのが上手だろうかと、様々に様子を見るはずだ。その子にとって教えるのが上手である担任なら、子供心なりに尊敬の念や親近感が湧くだろうし、教えるのが下手な教師と映ったなら、それなりに蔑む気持が芽生えたとしても不思議はない。

 児童生徒は誰もが、例外はあるが、一般的には自身に危険がなく、安全と見たクラスメートと仲間をつくっていく。いわば無危険・安全を仲間を構成する場合の相互基準とする。

 問題行動を起こす児童生徒にしても、問題行動を起こしても無危険・安全であることを基準に仲間をつくっていく。但し、そのようにしてつくった仲間同士が無危険・安全を相互基準とするとは限らない。ごく大人しい生徒や気の小さい児童生徒を仲間に引き込む形を取ることもあるからだ。そのような児童生徒にとって、仲間になることを断った場合、危害を加えられる恐れから、一緒にいるのは危険であるにも関わらず、嫌々仲間となっているという側面を有することになる。

 問題行動を起こす児童生徒が無危険・安全を相互基準とすることができるのは自分と同じ勉強が嫌いで、授業時間を落ち着いて過ごすことができなさそうな、あるいは教師の言うことなど聞いてはいられないような、自身の支配下に置くことが可能と想定できる、あるいは逆に支配下に入ってもいいと思える児童生徒に対してであろう。

 そのような彼らが仲間をつくってクラスに対して支配的地位を築き得たとき、あるいは単独であったとしても、身体の起きさや腕力、あるいは怖そうな態度を利用したコワモテを武器にクラスの支配者として君臨できる状況を招き得たとき、初めて教師のいる前で問題行動を起こすことができ、それが徐々にエスカレートして重篤な問題行動へと発展していく。

 問題行動はそれを起こす児童生徒のクラスメートや教師に対して自身を一個の存在と見せる対抗手段であろう。勉強のできる児童生徒はテストの成績で自己を立派な一個の存在であることを証明することができる。

 と言うことなら、問題行動を起こす児童生徒は自身に強みとなるプラスの要素では証明できない、弱みとなるマイナスの要素を抱えていることになる。その弱みを隠してクラスメートや教師に対して自身を一個の存在と見せかける対抗手段としているということになる。

 考え得るマイナスの要素は勉強ができない、貧乏である、父親が呑んだくれである、母親の男出入りが激しい、その他その他といったところだろうか。

 心理学者でも何でもないが、問題行動は何らかのコンプレックスの裏返し行動、コンプレックスを解消するための代償行為でもあるはずだ。

 問題行動を起こす生徒が周囲の人間を見てから仲間をつくったりして問題行動を起こすからと言って、それを阻止するために教師が強権的であっていいという理由にはならない。強権的であった場合、その教師の教育は威嚇を手段とした独裁的教育となって、真の意味の教育ではなくなる。

 阻止する方法として、もし可能なら、問題行動を起こす生徒以外の生徒が全員で問題行動に毅然とした態度を取ることであろう。だが、皆恐れて、見て見ぬ振りの傍観的態度を取る。

 教師は問題行動が起きない入学早々の頃に、あるいはクラス編成後の早いうちにクラス全員に対して、何らかの問題行動が起きたなら、残る児童生徒全員がそれはいけないんだ、社会のルールに反することだと、毅然とした何らかの意思表示を示して貰いたいと何度も言っておくべきだろう。例え言われた児童生徒が問題行動が起きたとき、それを阻止する意思表示ができなくても、できなかったことを考えることになるはずだ。

 勿論、教師にしてもどんなに小さな問題行動であっても、してはいけないという毅然とした意思表示を示さなければならない。最初は小さくても、無視した場合、エスカレートしていかない保証は何もない。

 問題行動が起きたとき、あるいはクラス全員のテストの成績が悪かったとき、単にヒステリックに騒ぐことしかできな教師は生徒に馬鹿にされる傾向にあるように思える。

 論理的な言葉を駆使して、なぜいけないのか説明できる教師は問題行動を起こす児童生徒ばかりか、起こさない児童生徒に対しても考えさせる力を植えつけることができるはずである。

 どうしても授業についていけない生徒がいる。何らかのコンプレックスを抱えていて、それを隠して、それしかできない社会のルールに反した方法で自己を一個の存在と見せなければ収まりのつかない児童生徒がいる。

 教師の言うことが何も理解できず、何も頭に入ってこないにも関わらず時間がくるまで椅子に我慢して座っている苦痛を甘んじて受ける程に権利意識を麻痺させることができすにいる児童生徒がいる。

 そのような児童生徒にとって自由を縛る檻でしかない教室という場所に問題行動を起こさせずに閉じ込めておくためには、代償として椅子に座ったままの状態で勉強する自由・知識を得る自由とは異なる何らかの自由を与えることで解消できないだろうか。

 例えば、頭髪や服装の色・形は自由とする。自由とすることによって、勉強やスポーツではできない、自己を一個の存在と証明する機会を提供する。

 但し学校は一つの集団社会であて、集団としての行動が必要だから、時間厳守、遅刻厳禁、授業時間中の席立ちは禁止とする。その代わり、授業が面白くなければ、自席で授業に関係のない本や漫画を読むのは自由とする。

 スマホ等を使ったゲームは音が周囲の生徒に迷惑をかけるために禁止する。イヤホンを付けさせたとしても、うまくいったとき、声を上げるだろうから、イヤホーンを付けたとしても禁止とする。

 その授業に関わるテストで成績の良し悪しは自己責任とするが、社会に出た場合、テストの成績やスポーツの能力だけが生きていくための可能性の全てを決めるわけではないことを教える。社会に出て生きていく可能性を今から見つけるように勧める。

 漫画が好きで、漫画を描くことができなくても、漫画の原案で生きていくことも可能であるし、絵も勉強して漫画家としてやっていく可能性も否定できない。

 もし漫画や本を読むようなら、どんなストーリーだったのか、どこが面白かったのか、感想文を書かせるぐらいはすべきだろう。

 重篤な問題行動を起こした生徒を出席停止させて家庭で保護者に指導させるのも、「個別指導教室」に隔離するのもいいが、勉強にどうしてもついていけない児童生徒をどう指導していくというのだろうか。

 出席停止や「個別指導教室」に隔離されたこと自体が新たなコンプレックスとなって、それを解消するためにより過激な形を取らない保証はない。

 刑務所から出所した人間が「俺は刑務所帰り」だと変にワルぶって、刑務所帰りを勲章とする虚栄心を見せる人間がいるが、多分刑務所帰りだと見られる前に自分から言うことで刑務所に入っていたことのコンプレックスを解消しようとする行為だと思うが、一度ワルぶると、それを維持せざるを得なくなって、実際に何らかの悪事を働いてしまうということもある。

 学校・教師は勉強ができない児童生徒であっても、人に知られると恥ずかしい程に貧しい家の児童生徒であっても、その他何らかのコンプレックスを抱えている児童生徒であっても、勉強のできる児童生徒やスポーツの能力に恵まている児童生徒と同様に自己を一個の存在と思うことができる機会の提供に常に心がけなければ、教育者とは言えないし、学校を教育の場と言うこともできないはずだ。

 少なくとも教室という場で全ての生徒に対して平等に自己を一個の存在と思うことができる機会を提供してから、それでも重篤な問題行動を起こした児童生徒を出席停止や「個別指導教室」への隔離を行うべきだろう。

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