安倍晋三の「地方創生」は中央集権体制を背後に隠した国と地方の関係を基本としている

2014-10-26 09:28:59 | Weblog


 安倍晋三が10月24日(2014年)、共同通信加盟社編集局長会に出席、地方創生を熱く語った。発言全文が「首相官邸HP」に載っている。

 「地方創生は待ったなしの課題」だと言い、待ったなしとしたのは自民党政治であることを棚に上げて、「人口減少、超高齢化、そして過疎化。地方が直面する課題は更に深刻化を増しています」と、自民党内閣というヤブ医者が見立てを間違えて、見立てを間違えたなりに身体のあちこちをやたらといじくり回し、却って病状を悪化させて始末に負えないところにまで追い込んでしまったことを反省もなく分析している。

 安倍晋三「私は、東京にいる人間が一つの方向を決めて、金太郎飴の様な地方をつくるという発想に限界があったと考えています。その地方にとって、『何が強みか?何が必要か?』を知っているのは、そこに住む人々であります。

 東京にいる人間が机の上で考えても思いつくこともできません。

 だから、国があらかじめ枠を決めて、『これに従え!』と言うのではなく、やる気あふれる地方の自発的な取組みが先にあって、国はそれを応援をしていく。

 『東京目線』から『地方目線』へと発想を大きく転換したいと考えています。『具体的な制度改革に着手しないと駄目だ』、『地方分権が足りない』といった御批判があります。
 もちろん、制度改革は大いに進めたいと思います。

 しかし、それは、あくまで『地方目線』でなければならないと考えています」――

 言っていることの本質は如何に中央集権的に政策を推し進めてきたかということであるが、日本の政治がどれ程までに中央集権体制をガチガチの体質としていたか、その本質を強く認識していないと、そこから抜け出る意識にしても強く働かないことになる。

 このことは「地方の自発的な取組みが先にあって、国はそれを応援をしていく」という言葉に既に現れている。地方の自発性を言ってはいるが、国が「地方の自発的な取組み」を促し、国がそれを「応援」する。いわば国は地方を国の下に置き、下の存在として国の関与を残している。

 譬えるなら、親子一緒に一つ屋根の下の同じ部屋で寝起きを共にしていたが、そろそろ年頃だからと、同じ一つ屋根の下に独立した部屋を与える親子関係とその距離感しか窺うことができない。

 当然、「『東京目線』から『地方目線』へと発想を大きく転換」していくと言いながら、あくまでも「東京目線」の支配下での「地方目線」と言うことになって、それぞれの地方がそれぞれに独立独歩の主体的な動きを許されるわけではない。

 いわば地方の主体性は国の主体性に準じることになる。

 そして安倍晋三は次に矛盾したことを言う。

 安倍晋三「私は、東京にいる人間が一つの方向を決めて、金太郎飴の様な地方をつくるという発想に限界があったと考えています。その地方にとって、『何が強みか?何が必要か?』を知っているのは、そこに住む人々であります。

 東京にいる人間が机の上で考えても思いつくこともできません。

 だから、国があらかじめ枠を決めて、『これに従え!』というのではなく、やる気あふれる地方の自発的な取組が先にあって、国はそれを応援をしていく。

 『東京目線』から『地方目線』へと発想を大きく転換したいと考えています。『具体的な制度改革に着手しないと駄目だ』、『地方分権が足りない』といった御批判があります。
 もちろん、制度改革は大いに進めたいと思います。

 しかし、それは、あくまで「地方目線」でなければならないと考えています」――

 「東京にいる人間が一つの方向を決めて、金太郎飴の様な地方をつくるという発想に限界があった」と中央集権体制の手による地方分権の失敗を言い、否定しながら、にも関わらず、「これまでも地方分権を何度もやってきました」と肯定する文脈で発言する矛盾を犯している。

 地方が金太郎飴状態となった理由は「地方分権」と思えたものが、中央集権体制の手の平の中の「地方分権」に過ぎなかったからこその画一性であろう。このことを深く認識もせずに、言葉通りの地方分権を実施してきたかのように言う。

 だから、後段で「ただ、東京の役所が『これなら地方に移しても大丈夫』と考える権限だけを渡されても、自治体の事務量が増えるだけになります。ただ、地方分権すればよいという単純なものではありません」と、地方分権についての認識の程度を曝すことになる。

 安倍晋三の頭の中にある「地方分権」とはこの程度の認識に過ぎないと言うことである。安倍晋三がいくら地方創生を言っても、国の中央集権体制から抜け出ることのできない地方創生となる恐れが大きい。

 このような恐れを前にすると、安倍晋三が、「先月、国家戦略特区が本格的にスタートしました」と言おうが、「安倍内閣として、『地方の、地方による、地方のための制度改革』を大胆に進めてまいります」と言おうが、「予算、税、制度改革。あらゆる政策手段を駆使して、安倍内閣は、これまでとは発想もやり方も次元の異なる地方創生を進めてまいります」と言おうが、以後も中央集権の息のかかった状況に変わりはない地方創生となりかねない。

 このことは10月10日(2014年)の「まち・ひと・しごと創生本部」第2回会合での発言が証明してくれる。

 第2回会合で議論した論点を踏まえて11月の本部会合で纏める「将来展望を示す『長期ビジョン』と5か年の施策の方向性を示す『総合戦略』」の骨子決定と予算編成、中長期的な構造問題の取り組みに関して次のように発言している。

 安倍晋三「今国会での議論も踏まえ、地方の目線で地方のやる気を引き出す内容としていくよう検討をお願いします」(首相官邸HP)――     

 ここで言っている「地方の目線で」の主体は地方ではなく、国となっていて、「地方のやる気を引き出す」主体も国となっている。「やる気」は地方自身が自ら引き出さなければならない課題であるはずだが、国に「やる気を引き出す」誘導の役を担わせている。

 当然、共同通信加盟社編集局長会での上記発言、地方創生は「あくまで『地方目線』でなければならないと考えています」の「地方目線」にしても、主体は国ということになって、考えることも行動することも地方を主体に据えて、「地方の目線」を尊重し、任せるということではなくなる。

 安倍晋三は同じく共同通信加盟社編集局長会で地方創生策の一つとして公設民営学校の設立を戦略特区で認可する方針についても発言しているが、そこに現れているのはやはり国家主体・地方従属の姿である。

 安倍晋三「公設民営学校は、長年実現できなかった課題ですが、今回、踏み出すことといたしました。

 安倍内閣として、『地方の、地方による、地方のための制度改革』を大胆に進めてまいります。

 国による支援策も同じです。やる気のある地方に対しては、自由度の高い、新たな支援策を講じたいと考えています」――

 地方がその地方に即した制度改革を直接主体的に独自性を持って実施するのではなく、国が推し進める形を取っている。結果、改革された同じ制度が全国金太郎飴のように画一的に施行されることになる。当然、「自由度の高い、新たな支援策」と言っているその「自由度」にしても、国家と地方の間に国の力がかかったワンクッションを置いた自由度にならざるを得ないはずだ。

 安倍晋三の中央集権体制を背後に隠した国と地方の関係、あるいは国に準じる形で把えている地方の自立性・主体性に関わる以上のような認識との関係で印象的な自民党の政策転換を「47NEWS」記事が伝えている。

 10月24日、自民党道州制推進本部の佐田玄一郎本部長が都道府県廃止を前提とした道州制推進基本法案を「現実的でない」と事実上白紙撤回して、道州制から複数の県による広域連合に体制変更、そのような体制で地方の機能強化を図る方針にしたという。

 県の広域連合は各県に今までと同様に一人ずつ首長を置くことになる。道州制は各自治体ごとに一人の首長。当然、前者は後者よりも独立性は低くなる。基本のところに県という形をそのままに維持して、独立性を道州制程には確保できないとなると、従来通りの中央集権体制――国に準じる地方の関係が残る余地を許すことになる。

 このような構造はまさに安倍晋三の央集権体制を背後に隠した国と地方の関係、あるいは国に準じる形で把えている地方の自立性・主体性に関わる認識とまさに一致する。

 真の地方の自立性・独立性に基づいたそれぞれの地方なりの地方創生は望むことは困難なようだ。

 安倍晋三は国家の形を第一義とする国家主義者である。地方の自立を言いながら、中央集権体制を背後に隠していても不思議はない。当然過ぎる程当然と言うことができる。

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