自民党が7月に党公式ホームページで教育現場での「政治的中立を逸脱するような不適切な事例」を募るネットアンケート「学校教育における政治的中立性についての実態調査」を始めたところ、ネット上で「密告社会の到来だ」等々の書き込みが起こり、一旦は削除したが、文言を変えて再び募集した問題について7月11日(2016年)の「当ブログ」に 、〈要するに国家権力側に立つ自民党が政治的中立性を逸脱した教師を炙り出す姿勢を打ち出すことで教師側に監視の目や密告の目を意識させて、自主沈黙(=言論の自己統制)に持っていこうという魂胆なのは目に見えている。
勿論、この手の魂胆は意識していようがいまいが言論統制の意図を内部に芽吹かせている。〉と書き、〈〈教育現場から国家のイデオロギーに反する「特定のイデオロギー」を排除したいという欲求は国家のイデオロギーへの全面従属を暗黙的な欲求とし〉、〈戦前の多くの子どもや大人を国家権力が発信した特定のイデオロギーで支配することに成功した、その体験を今以て生きづかせていて、再現させたいと欲求していることを示す。〉と書いた。
このような欲求を疼かせていたに違いない調査が無事(?)終了、問題はここからである。
自民党文部科学部会長の木原稔(46歳)が8月1日、投稿の内容は公表しないことと、投稿された情報のうち明らかに法令違反と思われるものなど一部を警察当局に提供する考えを示したと、「asahi.com」記事が伝えていた。
木原稔「SOSを発していたり、明らかな法令違反だったりして、無視できないものがある。例えばいじめや体罰で、しかるべきところに報告する」
実態調査のプロジェクトチームは政治的中立性を確保するための最終提言を出す予定だという。
投稿の内容は公表しないということは投稿された情報を秘密に付したままにするということである。
秘密に付した投稿情報の一部を警察当局に提供する。
提供する情報たるや、自分たちの政治的イデオロギーで濾過し、取捨選択した情報であることと、そのような経緯を経ているゆえに正当性ある情報であるという前提のもと提供される情報ということになる。
一方の国民はどういった情報が警察当局に提供されたのか、皆目見当がつかないし、知らされることのない状態に置かれることになる。
当然、どういったイデオロギーが込められた提供情報なのかの批判も評価もできない。正しい・正しくないの判断もできない。
但し情報を提供する側は全て正しい判断に基づいて選択した正当性ある情報であり、そのような情報の提供だと確信しているとすることができる。
正当性を確信していなければ、警察当局に情報を提供することなどできない。
逆説するなら、提供する情報を非公開とすることによって一般的なマイナスの評価や批判を回避することができ、間違えた方向付けも欠陥も何もない正しい情報だと簡単に位置づけることができるというメリットを生み出すことができる。
このことを意図した情報非公開であり、自分たちのイデオロギーに従って取捨選択を経た一部の情報の警察当局への提供であろう。
このような意図がなければ、自ずと積極的に情報を公開する。
国家権力を握る側の一部勢力が警察当局と結びついて公開しない情報を、それゆえに正しい内容とされて共有する。
情報を集め、その情報を警察当局に提供する側がいくら正しい判断に基づいて選択した正当性ある情報だと評価していたとしても、その情報を公開せずに秘密に付したままであるなら、あくまでも自分たちが正しいとする自己評価の域を出ないことになって、第三者の評価を経ないことによる自己絶対性を紛れ込ませていないかどうかも第三者は判断できないことになる。
自己絶対性は往々にして独善性や恣意性を内部構造とする。
その危険性は計り知れないが、自民党文部科学部会は政治的中立性に関わる教員の実態調査やその一部情報の警察当局への提供を正しい活動だと国民に思わせるために集めた情報の非公開を決めた側面もあるに違いない。
公開したら、それが崩れるからである。
崩れなければ、公開する。公開して、鬼の首でも獲ったかのように誇るに違いない。
実態調査が例え意図通りの結果に終わったとしても、意図しない結果を招いたとしても公開するのが民主主義の原則に恥じない態度と言える。非公開そのものを恥ずべき行為としなければならない。